※これ以後作中に登場する「案件管理局」は、自著の別作品にて登場する架空の組織ですが、本作をお読みいただく分には「超常現象を調査している、警察・消防とは別の公的組織」と認識していただければ差し支えございません。
------------------------------
「あーあ、夏休みはコレがあるからツラいんだよなあ」
ランドセルから取り出した夏休みの学習ワークをずらりと並べて、優真が大きな大きなため息をついた。夏休みはたっぷり休んで目いっぱい遊べればいいのだけれど、そうは問屋が卸さない。長いお休みに合わせてたっぷり宿題が出されていたのだ。毎年のことではあったけれど、こうやって並べてみるとやっぱりうんざりしてしまう。どこから手を付けたらいいものやら、優真はすっかり深刻顔だ。
学習ワークを前にしてうんうん唸っている優真の横へ、二回りほど背丈の低い人影が近づいてきて。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、何してるの?」
「なんだよ優美。見ればわかるだろ、夏休みの宿題だよ」
やってきたのは妹の優美だ。三つ年下で、今年小学二年生になったばかり。しっかり者だけれど、まだまだお兄ちゃんに甘えたい様子。けれど優真の方は、ちょっと態度がそっけない。ぶっきらぼうに答えると、不満そうな表情で並んだ学習ワークを見せる。
「えー、こんなにあるんだ」
「嫌になっちまうよ、本当に。俺はこれからこいつをどうするか考えるから、優美は向こう行ってな」
「うん……」
遊んでもらおうとした兄にすげなく追い払われて、優美は少しさみしそうだ。ぽてぽて歩いていく優美をしり目に、夏休みの敵、もとい夏休みの友である学習ワークたちをどうやって片付けるか考える。考えてはみたものの、結局は自分でやるしかないわけで、出てくるのはため息ばかりだった。
しばらくそうやってコダックのように頭を抱えていた優真だったが、そこへまた優美がやってきた。
「お兄ちゃーん」
「またかよ優美、今度はどうしたんだよ」
「郵便受け見てきたよ、ほら」
優美は抱えていた郵便物をまとめてちゃぶ台の上へ置いた。そのほとんどがチラシで、一枚か二枚ほど母親あてのハガキが混じっている。優真はそんなに興味を持てない様子で優美が郵便物を仕分けるのをぼーっと見つめている。
「あっ、これ」
「なんだよ急に」
「見て見て、エーテル財団!」
折り重なっていたチラシの中から、優美が丁寧に折りたたまれたものを一枚見つけて声を上げた。ずいぶんと明るい調子で、一体何が楽しいのかと優真は首をかしげるばかりだ。
「なんだその、えーっと、エーテル財団とかいうのは」
「ポケモンのお世話をしてるんだよ。ケガしたりとか、病気になったりしたポケモンを見つけて、治してあげてるんだって」
「よく分かんねえけど、ポケモンセンターと何か違うのかよ」
「違うよ、ぜんぜん違う。エーテル財団の人はね、外に出て、困ってるポケモンがいないか、見回ってたりするんだよ」
「優美お前、やけに詳しいな」
「だってだって、優美もポケモンお世話するお仕事したいんだもん」
いいなあ、すごいなあ、とうっとりしながらチラシを見ている優美。どこかでエーテル財団の活動について聞くことがあったのか、自分も入って活動したいとか、そういう風に考えている様子。
優美はポケモンが好きで、小さい頃から怖がることなくいろいろなポケモンとふれあっていた。海辺で見かけるキャモメにも、家の近くで暮らしているスバメにも遠慮なくタッチしている。家に上がり込んでコンセントから電気を食べようとしたデデンネをひとりで捕まえて、ポケモンセンターまで連れて行ったこともある。その時にデデンネと仲良くなったようで、ポケモントレーナーになったら引き取れるようにと、職員のラッキーに頼んで今から「キープ」しているらしい。
隣の優真が小さく肩をすくめる。優美と違って優真はポケモンがあまり好きではない。別に飛び抜けて嫌いというわけではないけれど、自分から進んで触りに行こうとは思わない。だから、トレーナーになることにも興味がわかなかった。そういう子供は榁では少数派みたいで、友達である宮沢くんのように来年にはトレーナーになるという子がほとんどだった。
(あいつは……ぜってー出ていかないよなあ)
何気なく「あいつ」の顔を思い浮かべようとしたとたん、目の前に学習塾のチラシが目に飛び込んできたものだから、優真は思わず「げっ」と声を上げてしまった。優美が持ってきたチラシの中に混ざっていたものだ。
「お兄ちゃん見てー、塾のチラシ」
「言われなくても分かるっての。そんなもん見せなくていいから、さっさと捨てとけよ。母さん帰ってくるまで、向こうで遊んでな」
「……はぁーい」
ここまで見てもらえば分かるとおり、優真はスポーツは万能だけど、勉強は大の苦手だ。もちろん塾には通っていないし、今から通う気もさらさらない。塾に通わない代わりというわけではないけれど、スイミングスクールに通っている。塾に行って勉強するなんてこと自体考えられなかったし、何よりこの塾は絶対にダメだ。
その理由はひとつ。他でもない小夏が、この塾に通っていることを知っているからだ。
(帰りにここから出てくるところ、見ちまったんだよな)
小夏はどんな時も宿題をきっちりこなして、先生から叱られたりしているのをまるで見たことがない。自分ではまず進んでやろうとは思わない「この問題が分かる人は、手を上げてください」にもすっと手を上げてスラスラ答えるし、もっと勘弁してほしい先生からの「○○さん、答えは?」という指名にもちっとも動じない。むしろ当てられるのを楽しみにしているようですらある。性格が大人しいからあまり目立たないし気付いている子もほとんどいないけれど、意外なことに小夏は学年でトップクラスの秀才なのだ。
そんな小夏のことが、優真はいまいち虫が好かない。だから今朝のように、小夏へついついちょっかいを出したりしてしまう。別に小夏のことが嫌いだとか憎たらしいとかではない。そういうのではないけれど、ただ黙ってじっと見ているというわけにはいかなかった。落ち着かない気持ちになるからだ。
優真と小夏は幼稚園の頃からの付き合い。いわば幼なじみの関係にあった。家はお互い割と近くにあるし、親はどちらも顔見知りで仲がいい。だから、昔から顔を合わせる機会だけは多かった。もっとも、小夏は腕白でいたずら好きの優真が苦手だったし、優真はとろくて勉強ばかりしている小夏をじれったく感じるばかりで、仲良しとはとても言えない関係だ。朝のやり取りにしても、似たようなことをもうずっと繰り返している。
あーあ、とたたみの上へ大の字になって寝ころぶ。宿題のことも小夏のことも全部忘れて寝ようか、なんて考えていると、不意に電話のベルが鳴った。
「なんだよ、こんなときに」
優真がだるそうに体を起こして、着信音を鳴らす電話の受話器を取る。もしもし、とぼんやり応答する優真だったけれど、声が聞こえてきた途端体がシャキッとする。
「あっ、リーダー! お疲れさまっす」
気を付けをして直立不動、いかにも真面目そのもので、だらけていたさっきまでとは大違いだ。電話の向こうにいる相手は、優真にとってかなり目上の人らしい。声にもハリがある。
「はい、はい。そうです、はい」
「垣下先生が? あっ、はい。ええ」
「お休みなんですね、はい。分かりました、ありがとうございます」
短めの会話を済ませて、優真が受話器をそっと置いた。ふう、と息をつくと、張りつめていた緊張の糸がぷつりと途切れて、全身から力が抜ける。
「休みかあ、明日の練習」
スイミングスクールが休みになったらしい。垣下先生、と呼んだ先生に何か用事ができたようだ。明日は朝からみっちり練習がある予定だったけれど、それが丸々無くなってしまったわけだ。ふって湧いたフリータイム、とは言うものの、優真の表情は今ひとつ冴えない。
「大会近いから、思いっきり練習したかったんだけどな」
学校でも話をしていた水泳大会。その開催は八月の中頃で、優真はそれまで目いっぱいトレーニングを積みたいと思っていた。けれど明日は休みになった。ジムのプールはいつもたくさんの人が使いたがっているから、練習するはずだった時間は別のグループがもう押さえてしまっているに違いない。かと言って、他にすることも思い浮かばない。友達と遊ぼうかとも考えたけれど、練習もせずに遊ぶというのも、どうにも気が進まない。
しばらく考えてから、優真が小さくうなずく。
「しゃーねぇなあ。海でちょっと泳ぐか」
家から歩いて五分ほどのところにある小さな砂浜。明日はあそこに出かけよう、優真はそう考えるのだった。
*
「あら! なっちゃんもう宿題やってるの?」
「やってるよ。塾のテスト勉強も!」
「はりきるのはいいことだけど、あまり無理はしないようにね。もうすぐご飯にするわ」
夏休み前日の夜。テーブルで早速夏休みの宿題に取り掛かっていた小夏を見て、お母さんが驚きの声を上げた。お母さんが台所で夕飯の支度を始める頃には小夏の宿題も一区切りついて、ノートと教科書を片付けてお手伝いをする。
この歳の子供としてはなかなか珍しいことに、小夏は勉強が嫌いではなかった。むしろ好きなくらいだ。新しいことを本を読んで知って、知識を使って問題を解いていく。その流れが好きで、学校の授業も塾の講義も熱心に聞いている。図書室や図書館でもしょっちゅう本を借りて読んでいて、朝に読んでいた本も学校の図書室で借りたものだったりする。図書室では、小夏の名前をいくつもの図書カードで見かけることができた。
今日の夕飯は夏野菜のカレーだ。小夏がお皿に盛ったご飯に、お母さんがカレーをかけていく。お父さんは仕事で帰りが遅くなるらしい。こうやってお母さんの二人で食事をするのは、小夏にとってよくあることだった。
「そうだそうだ。ねえお母さん、ちょっと聞いて」
「今度はどうしたの?」
「自由研究。夏休みの宿題に、自由研究あるんだよ」
夏休みと言えばコレだ。自由研究ということで、自分なりにテーマを見つけてひとつモノを作らないといけない。学習ワークは大の得意で七月中にはさっさと全部片付けてしまう小夏だったけれど、こっちの方は大の苦手だった。学校でも国語や算数は好きだったけれど、体育や図工は楽しくなかった。自分で考えて何かを仕上げないといけない自由研究は、小夏の大敵だった。
「去年はシラセちゃんとかポケモンの写真を切り貼りしてごまかしたけど、今年はどうしよう」
「また同じものを出しちゃいけないの?」
「ダメだよ。ヘンに人気出ちゃったから、先生覚えてるみたいだし」
「それもそうね……お母さんもちょっと考えてみようかしら。必要ならお手伝いもするわ」
自由研究のテーマが決まらないと、夏休みの宿題が終わったとは言えない。お母さんが手伝ってくれると言うので、小夏はちょっと安心した様子。
『不審な人、怪しいものを見かけたら、すぐにお近くの案件管理局までご連絡ください。緊急時には122番、122番までお電話を――』
点けたままのテレビから流れてくるコマーシャルを横目に、もうもうと湯気をあげるカレーのお皿をテーブルへ置いて、夕飯の準備がすっかり整った。お母さんが野菜サラダも用意して、テーブルの上がずいぶんにぎやかになる。
「いただきまーす」
「いただきます」
小夏とお母さんが向かい合って手を合わせると、作り立てのカレーにスプーンを入れた。三口ほど食べてから、小夏がお母さんにふっと目を向ける。
「ねぇお母さん、明日ちょっと遊びに行ってきてもいい?」
「いいわよ。どこへ行くの? 船に乗って海凪まで行くなら、お小遣いあげるけれど」
「ううん。海へ泳ぎに行くの」
榁は周囲を海に囲まれていて、泳ぐのに向いた場所がそこら中にある。小夏の家から歩いて十分くらいの場所にも、泳ぐのにピッタリの砂浜があった。小夏はそこへ遊びに行きたいようだ。
「そう……行ってもいいけれど、気を付けてちょうだいね。溺れたりしたら大変だもの」
「分かってるよぉ。溺れないように、泳ぐ練習しに行くんだもん」
実は小夏、水泳が大の苦手だった。プールの授業でもちっとも泳げなくて、25メートルを一本泳いだだけでへとへとになってしまう。泳ぎ切れずに足をついてしまうこともしょっちゅうだった。他の子はみんなスイスイ泳いでいくから、小夏は歯がゆくてしょうがない。そこでこの夏はちょっとでも泳げるようになるために、海で水泳の練習をしに行くというわけだ。
ちなみに小夏がプールじゃなくて海へ行って泳ごうとしているのには、ちゃんと理由がある。
(プールだと、優真くんと鉢合わせするかも知れないし)
朝もちょっかいを出された優真は、スイミングスクールに通っている。小夏はその事を知っていた。水泳の授業でも自分とは違ってものすごいスピードで泳いでいくのをよく見かけていたし、塾帰りに同じくスイミングスクールから帰る優真を目にしたこともある。あいにく、この辺りにプールらしいプールは優真が通っているスイミングスクールのあるポケモンジムくらいにしかなかったから、優真が苦手な小夏はプールを避けて海へ行こうと考えたわけだ。
「ちゃんと体力付けないとダメだもんね。お母さん、約束覚えてる?」
「約束……もちろんよ。そのために勉強してるんでしょう?」
「そうだよ」
小夏は十歳、来年の二月には十一歳になる。十一歳と言えば、ポケモントレーナーになって外へ一人で旅立てる年齢だ。この歳になると、もう大人扱いされることも珍しくない。お母さんは小夏のことをまだまだ子供だと思っているみたいだけど、小夏は自分をもう子供じゃないと思っている。再びスプーンを手に取って、小夏がカレーを食べ始めた。ナスやピーマンのような夏野菜がごろごろ入ったカレーは、小夏の大好物だった。
「海へ行くのね、分かったわ。何かあったら、大人の人に報せるのよ。危なかったらすぐに逃げて、家に帰ってきてね」
「大丈夫だよ。お母さんったら、心配しすぎ」
そう語る小夏を、向かいに座るお母さんはほんの少しだけ不安げな眼差しで見つめていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。