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5-2 ミサキにまつわるエトセトラ

誰かが泳いでいる。遠めからでもはっきりと見て取ることができた。波打ち際から離れた海のはるか沖合で、何者かがすいすいと泳いでいる。

「シラセも見えとるん? あれ一体何やろな? えらい沖で泳いどるけど」

もしかして、とシラセが思い至る。海で泳ぐ謎めいた存在に、ひとつ心当たりがあったのだ。ハルは視力がいいのか、水泳に夢中になっている存在の姿を的確に捉えている。目を細めて少し身を乗り出すと、何かに気づいたように呟く。

「もしかして向こうにおるの、人と違うん? あんな遠くで泳がんでもええのに」

泳いでいるのは人だった。或いは、人の形をした何か。海で泳ぐ人は珍しくないが、沖合に出て泳ぐような人は珍しい。ハルやシラセが見ている中で、人らしき何かは泳ぐことをやめない。クロールで水をかき、バタフライで空を舞い、平泳ぎで海を進む。時には海面から出て、大きくジャンプさえして見せる。ずいぶん派手に泳いどるな、ハルが呆気にとられながら呟いた。

海を駆ける人らしき存在に目を奪われていたせいか、ハルもシラセも隣に立つ影に気が付いていなかった。泳ぐ人を見失ったハルがふと右手に目をやって、誰とも知らない少女が自分とシラセの隣に立っていることに気が付いた。ぎょっとして軽くのけぞるハルに、少女がにっと笑って見せた。

「よっす!」

「よ、よっす」

やけに気楽というか気さくな挨拶に、ハルも引き気味ながらも同じように返してしまう。背丈はハルより二回りほど小さい。大きなお下げを揺らす、黒縁メガネの女の子。この取り合わせは一般的に物静かそうな印象を与えそうなものだが、彼女は快活そのものでまるで当てはまらない。青のオーバーオールという服装もその印象を強めている。その姿を見たシラセは、すぐに少女の名前を思い出した。

「藍子だよ。ランちゃんって呼んでいいよ。ね、シラセ」

藍子。それが彼女の名前だ。シラセとも顔見知りで、商店街でお互いしばしば出くわしている。ハルとシラセのように早起きをして、この辺りを散歩していたのだろう。そして普段は見ないハルを見て近付いてきた、大方そんなところに思える。

「おねーちゃん、海見てるの?」

「せや。向こう見てみ、なんか泳いどるやん」

「あぁー、やっぱりかー。やっぱりねー」

「やっぱり?」

「そ! あれねー、『ミサキ』っていうんだよ。カタカナ三つでミ・サ・キ」

「ミサキ……? なんなんそれ、名前なん?」

何か知っているような素振りを見せた藍子にハルが食いつく。その反応が嬉しかったのか、藍子がふふーん、と得意げに鼻で笑いながら、メガネをクイッと上げて見せる。

「知りたいでしょ? 藍子が教えたげるよ」

すっかり藍子のペースに呑まれていることを自覚しつつ、ハルとシラセはとりあえず彼女の話を聞くことにした。

「ミサキって、見た目は人みたいだけど、中身は違うんだって」

「人に見えるけど、人と違うんか」

「そ! ビリリダマとモンスターボールみたいなものだよ」

「タマゲタケとモンスターボールみたいな?」

「え、何それ、タマゲタケって何? 藍子知らなーい」

「ああ、知らんのか。ちょっと待ったってや」

ハルが腕に巻いていたポケギアを操作して、中に保存されていたタマゲタケの写真を藍子に見せた。日和田のジムにいた頃、トレーナーの一人が相棒として連れていたポケモンだ。本来は遠く離れた異国の地方に生息しているらしい。

「うおーっ、こんなポケモンいるんだ! 一個賢くなった!」

オーバーアクション気味の藍子に、ハルはだんだん慣れてきたようだ。喜ぶ藍子を姉のごとく優しく見守っている。

「それはそれとして、ミサキの話するね。ミサキはね、水に棲むポケモンと結婚した女の人なんだって」

「ポケモンと……結婚した?」

「うん。それでね、ポケモンの力をもらって、海や川で生きられるようになった代わりに、陸には上がれなくなったんだって」

「せやから、あんな風にすごい勢いで泳いどるんか」

藍子の話がどの程度正しいのかはともかく、海を泳ぐミサキは人の形をしていながら人間離れした力を持っていることは間違いなかった。少なくともなにがしかの事情があることは間違いなさそうだった。

「大人の前には出てこないって言われてるけどー、おねーちゃんとかみたいな子供のことが好きだから、大人がいないとちょくちょく顔出すんだよ」

「いやまあ、うちも子供やけど」

自分より子供にしか見えない藍子に「子供」と言われると、何か釈然としない。ハルの顔がそう物語っている。ハルの思いを知ってか知らずか、藍子はさらに続けた。

「ミサキはね、藍子のお母さんの従姉妹なんだよ」

「おかんの従姉妹?」

「うん。お母さんには従姉妹のお姉ちゃんがいたんだけど、今はいないんだって。いないのは、ミサキになったからだって」

「じゃあ、藍子ちゃんの伯母さんなんや。ミサキは」

「そ。だからかなー、藍子が海を見てるとよく出てくるのは。いっぺんお話とかしてみたいなー」

藍子がミサキのことに詳しい理由が分かった気がした。ミサキはかつて藍子の伯母だった人物だったが、彼女の口ぶりを見るに、今はもう人としては数えられていないらしい。掛ける言葉を見つけられずにいるハルのことを特段意識することもなく、藍子はさらにこう続けた。

「おばーちゃんはミサキのこと『きがふれた』って言ってたけど、きがふれる、ってどーいう意味なんだろね?」

「気が触れた……」

「ねえおねーちゃん、何か知ってる?」

気が触れた。ハルにとってまるで意味の分からない言葉ではない。藍子にそのまま意味を伝えることもできないことはなかった。ただ、ありのまま伝えることは躊躇われた。言葉の持つ意味はかなりネガティブで、ミサキに純粋な興味を抱いているように見える藍子に告げるには非常に重い。けれど、知らないとシラを切るのもどうか。ハルは考えをうまくまとめられないながらも、藍子にこう返した。

「なんやろな、世間とか常識とか、そういうのんに縛られへんようになった、そういう意味ちゃうやろか」

「なるほどねー。確かにふつーじゃないもんね、ミサキって」

果たして藍子はどこまで意味を汲み取っているのか。ハルには推し量りかねるばかりだった。

「あ、そろそろ行かなきゃ」

「どっか行くん?」

「図書館! 一番乗りして、クーラーの効いてる席を取るの。いっぱい本読んで賢くなりなさいって、おかーさん言ってるからねー」

お別れの時間になったようだ。藍子はこれから図書館へ向かうらしい。藍子が指差す先には、確かに図書館らしい古めかしい大きな建物が見える。日和田の図書館より大きいかも知れない、ハルはそんな感想を抱く。

「おねーちゃん。今日会ったのも何かの縁だから、いいものあげる!」

藍子がオーバーオールのポケットから何やら取り出すと、ハルの手にぎゅっと握らせた。ハルが首をかしげながら掌を開いてみると、そこには紙切れが一枚載っていて。

「何これ? なんかのくじ券?」

「違う違うっ、沢島パンのクーポン券だよ。これ持ってくと、なんと全品五%オフ! どう? お得でしょ?」

「沢島パン?」

「知らないのー? 商店街にあるベーカリーショップ、いわゆるパン屋さんだねっ」

シラセは沢島パンのことをよく知っていた。藍子の父親と母親が経営していて、瑞穂もよく顔を出している。それに帯同する形で、シラセも何度か入店したことがあった。瑞穂によると、かれこれ十年ほど続いているらしい。夫婦で毎日パンを焼いているそうだ。

「知らんかった。うちこの間他所から来たばっかりやから」

「なるほどねぇ。じゃ、せっかくだから覚えてね。沢島パンだよ!」

「沢島パンか。ちゃんと覚えたで」

「焼きたてのパンを榁のみんなにお届け! 他じゃ買えないレアなお総菜パンも売ってるよ。おねーちゃんも、たくさんパン食べて元気つけてね。じゃーねー!」

ひらひら手を振りながら、藍子が砂浜を走っていった。ハルとシラセは背中が見えなくなるまで見送ってから、互いに顔を合わせる。

「えらいアクティブな子やな。日和田のジムでもなかなか見んタイプやったわ」

シラセも無言で頷く。確かに藍子はアクティブだ。バイタリティにあふれている。見ず知らずのハルにいきなり話しかける度胸があって、最後にはちゃっかり自分の両親が経営する店の宣伝までやってのける。なかなかの大物になるんちゃうん、ハルの呟きにシラセはただ同意するほかなく。

「まあ、貰えるもんは貰っとくわ。その方がええって、おかんも言うとったし」

藍子から受け取ったクーポンを、ハルがジーンズのポッケへしまい込んだ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。