「お父さんがいなくなったことと、シラセがここへ来たこと。それは別のこと」
「お母さんが死んだことと、ハルがここへ来たこと。それも別のこと」
父が亡くなったこととシラセの訪れ。それは同じ時に起きたことだけれど、繋がりのない別の出来事。母が亡くなったこととハルの訪れ。これも同じ時に起きたことだけれど、やはり繋がりのない別の出来事。ハルとシラセを瞳の中に映し出しながら、瑞穂が訥々と、明瞭な口調でそう告げた。
シラセが父を、ハルが母を死なせたわけではない。瑞穂と沙絵から両親を奪ったなどと、ありもしない罪で良心の呵責を覚える必要などない。大きな流れに飲み込まれて、そしてここ榁まで辿り着いた。ハルもシラセも、その中で懸命に生きてきただけのことだ。どんな罪があろうか、いかなる罰を与えられようか。
「二人がここへ、榁まで来たのは、運命のいたずらかも知れない、誰かに言われたからかも知れない」
「でもね、シラセ。でもね、ハル」
「二人が今もここに居てくれるのは、二人の意思だから。私はそう思ってる」
「それは――ハルもシラセも、ここにいてもいいって思ってくれてるってことだから」
消えた線香花火を地面へ取り落として、瑞穂がハルとシラセを両腕で包み込むように抱きしめる。
「ありがとう、ハル。ありがとう、シラセ」
「私と沙絵と一緒にいてくれて……本当に、ありがとう」
ハルは瑞穂に抱きしめられて、初めのうちは何を言われているのか理解できなかった。それから少し遅れて、瑞穂が自分にお礼を言っていることに気が付いた。思考が追いついたと思った直後――視界が滲んで、瞼の裏が熱くなるのを感じて。
頬を涙が伝う。熱い涙が筋を作って、やがて滴となって地面へ零れ落ちる。
「……瑞穂、さん」
ハルは泣いていた。これまで一度も涙を見せなかったハルが、瑞穂や沙絵に決して弱音を吐かなかったハルが、止め処なくあふれる涙を抑えることができずに、ただただ落涙し続けていた。ぽろぽろと涙をこぼして、顔をくしゃくしゃにして。
「……お姉ちゃん」
「お姉ちゃん……お姉、ちゃんっ……!」
泣きじゃくりながら、ハルは瑞穂の胸へ飛び込んだ。瑞穂はハルを片時も離すまいと抱きしめる。その瑞穂の目にも、大粒の涙が浮かんでいた。
「うち、うち、うち……」
「おかんがっ……! おかんが死んでおらんようになるって、ほんまは……ほんまは、寂しかって……っ!」
「せやのに……うちの知らんかったお姉ちゃんが、お姉ちゃんが二人おるって、そないなこと、言われて……っ」
「おかんが死んでまうだけでも嫌やったのに……! そんなん言われてしもたら、うち、うち……!」
堪え切れなくなった感情を爆発させて、ハルが声の限り叫んだ。
「うちがっ……! うちがお姉ちゃんらからおかんを取り上げてしまったって! そんな風に思ってまうやんか!!」
絶叫するハル。ハルを抱く瑞穂。その二人を、沙絵も目を真っ赤にしながら、瞬き一つせず見つめていて。
「お姉ちゃんらにどんな顔して会いに行けばええんか、おかん死んだ後からずっと考えとって……っ」
「なんでうちが、なんでこんなことにって、ずっと、ずっと思とった……」
「それやのに……お姉ちゃんらはうちに優しいしてくれて、家にも居らせてくれて……それで、それでっ……!」
もう言葉にしなくてもいい、瑞穂はハルの背中をあやすようにポンポンと優しくたたく。瑞穂が幼かった頃、泣きじゃくる自分を母がこうしてあやしてくれたことを覚えている。ハルも同じあやしかたをしていたに違いなかった。ハルが少しずつ、落ち着きを取り戻していく。
沙絵がハルのすぐ側まで寄った。流れる涙をそっと拭って、優しく語り掛ける。
「分かってたけどさ……やっぱり重たいもの背負ってたんだね、ハル」
「お姉ちゃん……」
「話してくれてありがとう。ハルの気持ち、やっと分かってあげられたから」
後ろから沙絵に撫でられたハルが、またたくさんの涙を流した。沙絵はそれを、丁寧にすくっていく。
流れる涙は心が癒えていく証。ハルは心を丸裸にして、秘めていた想いをすべて打ち明けた。母への想い、姉たちへの想い。洗いざらいすべてを口に出して、言葉にして。
ハルは瑞穂と沙絵の二人と、今この瞬間「姉妹」になった。
「シラセも一緒だよ」
「私たちと、一緒にいるから」
シラセは泣いていた。瑞穂の胸の中ではらはらと涙を流して泣いていた。心に抱えていた暗い思いがすべて押し流されて、海の彼方へ消えていくかのよう。ずっと感じていた罪悪感が、瑞穂の言葉で少しずつ消えて行って、感じたことのない安らぎを覚えていた。
ハルに寄り添っていた理由は瑞穂の言葉通りだった。母の死を告げに来たハルの境遇を、瑞穂と沙絵に父の死を報せることになった自分と重ねていたゆえのこと。瑞穂も沙絵もすべてを理解していたことを知って、なおシラセを大切な家族の一員だと考えていてくれた。もうこれ以上自分を責める必要はない。シラセは救われた思いがした。自分がここに居てもいいのだと分かって、自分を縛っていたものがほどけていくのを感じていた。
四人抱き合って、そろってありったけの涙を流して。
「落ち着いてきたみたいだね、ハル」
「うん……ほんま、めっちゃスッキリした」
隠し立ても何もなくなった姉妹たちが、顔を上げて互いの目を見つめた。
「ハル。私とお姉ちゃんのこと、『お姉ちゃん』って言ってくれたね」
「あ……」
「いいんだよ、それで。だって、お姉ちゃんだもん」
「うち、知らん間に……お姉ちゃん、って。そない言うとった」
「間違いなく、ハルのお姉ちゃんだよ。私も沙絵も」
感情を昂ぶらせて思いのたけをぶつけたハルは、瑞穂と沙絵のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。それを瑞穂も沙絵も、自然なこととして受け入れている。あるがままの姿だと感じている。ハルもまた、抱いていた微かなわだかまりが霧散していくのを感じていた。
瑞穂が手拭いを渡して、ハルがごしごしと顔を拭く。まだ目は赤かったけれど、もう涙は流れていなかった。心に溜まっていた澱みを綺麗に洗い流して、雲一つない晴れ渡った空のような――或いは、波一つない凪いだ海のような爽快な顔つきで、二人の姉の姿を見つめていた。
「ありがとう。ほんまにありがとう。うち、やっとここまで来れたんやな」
「ちょっと遠回りだったけど、でも、それがハルにとって近道だったんだよね」
大きく頷くハル。沙絵も瑞穂も笑って、ハルを温かく迎え入れる。
「おかえりなさい、ハル」
おかえりなさい。瑞穂は言った。
「ただいま、お姉ちゃん」
ただいま。ハルはそう応じた。
この家が、この姉たちが、ハルにとって帰るべき場所になったのだと――姉妹たちを見守っていたシラセが、感慨深い思いで見つめている。この家族は、瑞穂にとっても沙絵にとってもハルにとっても、そして自分自身にとっても、いつでも受け入れてくれる「帰るべき場所」なのだ。
罪悪感、後ろめたさ、わだかまり、悲しみ……負の感情はすべて葬られて、ここにはただ安らぎだけが遺っていた。
「線香花火、続きやろっか。まだいっぱいあるし」
「うちもやるわ」
「よし。じゃ、また点火したげるね」
今まで横たわっていたものにサヨナラを言うかのように、別れをハッキリと告げるかのように、姉妹たちが線香花火に火を点ける。
さながら、墓前に線香を上げるかのように。
「うん。みんなで見るといいね。風情があるって感じ」
「せやな。でっかい花火もええけど、うちはこっちも好きやわ」
「二人ともまだ若いのに、おばあちゃんみたいなこと言ってるよ」
和気藹々と話しながら、三人が線香花火を愉しむ。
「明日から、ちょっとだけ違う毎日が始まる気がする。お姉ちゃんもハルも、そんな気持ちしない?」
「私と沙絵には妹が、ハルにはお姉ちゃんができたからね。心機一転、新しい明日の始まりだよ」
「うちも張り切って行くわ。家でもペリドットでも。久しぶりにスカッとした気分やし」
すべての花火が燃え尽きるまで、姉妹たちの語らいは止むことなく続いて。
「これでおしまいかぁ。いっぱいあると思ったけど、あっという間だったね」
袋が空になったところで、線香花火はお開きとなった。互いに顔を見合わせて、満ち足りた笑顔をする。今の彼女たちには、恐れるものなど何もない。あるのは明日への希望、新しい日々への期待だけだった。
花火の後始末を済ませた瑞穂がすっくと立ち上がり、屈んだままの沙絵と瑞穂に呼び掛ける。
「さて、妹たち。ここでいいニュースが一つあります」
「いいニュース?」
「何々? お姉ちゃん」
「実は……なんと、台所でスイカを冷やしてあるのです」
「えっ!? ほんとほんと!?」
「スイカや! うちスイカむっちゃ好き!」
お隣のおじいちゃんが育ててお裾分けしてくれた、甘ーいスイカだよ。得意げに言う瑞穂に、ハルも沙絵も目の色を変えて歓声を上げる。早速切って食べようということになり、瑞穂に続いて沙絵とハルが家へ上がる。
シラセは一人庭に残って、遮るもののない満天の星空に目を向ける。
(新しい明日――)
曇りなき未来へ。新しい明日へ。
姉妹たちと共に生きていくことを、シラセは心に誓うのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。