ふっ、と目を開くと、薄汚れたプラスチックの猫が結わえられた蛍光灯の紐が、志郎の前にぶら下がっていた。
ああ、そうか、ぼくは昼寝をしていたんだ――志郎はまどろみながら、大儀そうに体を起こした。畳の上で二つに折った座布団を枕にして眠っていたからだろう、背中から腰にかけて鈍い痛みが伝わってきた。ぐるりと体を捩り、痛みの元である凝りを解す。
志郎は父親の康夫と共に、日和田村に住んでいる祖父・義孝の実家に泊まっていた。平時の二人は日和田村から車で一時間半ほど走った先にある小金市に住居を構えているが、康夫が「おじいちゃんと大事な話をするから」という理由で志郎を連れ出し、ここ日和田村まで連れてきたという経緯がある。
日和田は四方を山と森に囲まれ、これといった産業を持たない典型的な田舎町だった。このような有様であるから、若い衆が根付くことも寄り付くことも無く、過疎と住人の高齢化が止め処なく進んでいた。侘しいことであるが、しかし他を当たれば、このような滅び逝くさだめにある地域は両手に余るほど見つけられよう。日和田は、所詮その中の一つに過ぎなかった。
志郎が体を起こしてぼうっとしていると、すぅ、と襖が開いて、祖父の義孝が顔を見せた。
「志郎、今起きたのかい」
「うん。おじいちゃん、お父さんは?」
「叔父さんと話をしているよ。少し掛かりそうだから、外で遊んでくるといいよ」
義孝の家に厄介になり始めてから間もなくして、志郎の叔父である健治が訪れてくるようになった。健治は康夫と話をするばかりで、志郎の前にはろくに姿も現さなかった。口をきいたことも無い。だから志郎にとっては、叔父であると言われても今一つ実感が湧かなかった。まったくの赤の他人が、父親と話をしている。それくらいの認識だった。
促されるまま、志郎は隣に置いてあった麦藁帽子を被り、縁側から外へと出て行った。玄関へ向かうには茶の間を通る必要があり、そこで康夫と健治が話をするものだから、二人の邪魔にならぬよう、志郎はこうして縁側から外へと出てゆく。義孝に見送られ、志郎は出かけていった。
抜けるような、という些か使い古された言い回しの似合う青空が、果てる事無く延々と広がる。青のカンバスに誘われた白い入道雲が、背丈を競うように伸び伸びと育ってゆく。照り付ける太陽の強い日差しの元で、乾き切った地面が只管に焼かれていた。
群れを成した向日葵が畑を形作り、陽の光を浴びて天に伸びている。向日葵の間に混じって、ばたばたと喧しくはしゃぎ回るキマワリの姿も見える。向日葵の陰からキマワリが顔を覗かせ、キマワリの後ろから向日葵が首を出す。似たもの同士の花とポケモンが交わる様を、志郎は少し笑って眺めていた。
寂れた田舎町。そんな形容が誂えたかのように似合う日和田だったが、村に広がる風景自体は決して悪いものではない。人が寄り付かないということは、即ち人の手が入らないと言い換えることもできる。刈り取られなかった草にハネッコたちが集い、切り倒されなかった木々にポッポやピジョンが巣を作り、七色に染められなかった池沼や河川にニョロモやハスボーが住み着く。ポケモンたちにとって日和田は消えゆく町などではなく、命が芽吹く優しい庭に他ならなかった。
舗装されていない土色の道を忙しなく歩くコラッタ。枝につかまって羽を休めるネイティやマメパト。涼を求め木陰の元で体を伸ばすニャース。仲良くじゃれあう兄弟のオタチ。日光浴に興じるナゾノクサやヒマナッツ。今となっては、ポケモン達の数が人の数を悠々上回っていた。何処を見てもポケモンがいる。野生のポケモンの多さは、その地域がどの程度廃れているかを示す一つの指標と言えた。
志郎は空を眺める。額に浮かんだ珠のような汗をシャツの袖で拭うと、水色の空が視界いっぱいに広がった。夏はもうすぐ半ばを迎えようとしていた。日差しの強さはピークに達し、遠くの道にゆらゆら揺れる陽炎が昇っている様が見える。セミの鳴き声に感化されたと思しきツチニンが、幹にしっかとしがみ付いていた。
行く当てもなく辺りをぶらついていると、どこからともなくさらさらという川のせせらぎの音が聞こえてきた。右に曲がって少し行けば、細い川があったっけ──遠慮のない夏の暑気に些か辟易していた志郎は、きわめて自然な足取りでもって、川に向かって歩き始めた。
段々ハッキリ聞こえてくるせせらぎの音に束の間の涼を見出しつつ、志郎は思考を今自分の置かれている境遇に移した。
(残す、残さないって、何のことだろう)
襖越しに聞こえてくる康夫と健治、そして時折加わる義孝のやりとりは、志郎にとって理解し難い、どちらかと言うと理解できないものだった。健治は「残せ」と繰り返し言い張り、康夫と義孝が「残すことはできない」と突き返している。それは話し合いと言うより口論に近く、特に健治はしばしば声を荒げて二人に言い立てていた。健治が何を残したいのか、志郎には皆目見当もつかなかった。
腰抜け、愚か者、俗物、意気地なし。健治の言葉には、しばしば罵倒が混じっていた。語気を強めて叩きつけるように言うものだから、隣の部屋にいる志郎はその都度身を竦めた。父の康夫は穏やかな性質で、志郎にも──志郎が聞き分けのよい性格だった、ということももちろん加味せねばなるまいが──手を上げたことは一度として無かった。言葉を選ばぬ弟の罵詈雑言にも、康夫は決して色をなして言い返すことなど無く、シェルダーのように押し黙ってただ耳を傾けるのみであった。
大人の考えていることはわからない。今の志郎の偽らざる気持ちだった。健治が義孝の家にいるときの、あの言葉にし難い居心地の悪さが、志郎には苦手だった。こうして外に出られて、本心ではほっとしていた。清流のすぐ側にまで足を運んで、志郎が川縁に立つ。
淡色で統一された夏の田舎町のありふれた風景にそぐわぬ、目に痛いほどの『原色』がずかずかと瞳の中にあがりこんできたのは、まさに、その時だった。
目をまん丸くした志郎が、清流の真ん中に立つ人影に焦点を合わせた。異質なものや初見のものを目にした際に、それが一体何なのか、既存の枠組みで考えようとするのが人という生き物だ。当然、志郎もそれに倣った。結果として分かったのは、川の中に立っているのは、黄色い『雨合羽』らしき外套を羽織っている、己と同い年か或いはそれより一回り年下の子供、だということだった。
雨合羽というのは、その名に「雨」なる字があることを踏まえても踏まえなくとも、雨天の際に用いるものだというのは論を待たない。志郎の頭上には大きく隆起した入道雲が躍動しているが、雨を降らせる気配は微塵もない。そして今まさにこの瞬間、雨が降っているということもない。川の中に立つ子供は、雨でもないのに雨合羽を羽織っている。そういうことだ。
志郎はとかく風景から『浮いた』雨合羽の子供に目を奪われていたが、その子供が何やら大きく腕を振り上げ、川面に叩きつけようとしている様に気が付いたのは、子供が腕を振り下ろし終えた後のことだった。
腕が水面に触れた瞬間――そこから、凄絶な間欠泉が立ち上った。
「……うわぁっ!?」
工事中に誤って温泉を掘り当てたか、はたまた水道管の破裂か。活火山からの溶岩噴出を想起させる高い高い水柱が川面から立ち上り、ぶち上げられた水が一気に周囲に撒き散らされた。川縁に立っていた志郎の元にも当然のように水飛沫が飛び、志郎はびしょ濡れになってしまった。唐突なことに志郎は驚き慌てふためき、その場に尻餅をついてしまった。
志郎が上げた声は、水飛沫を上げた雨合羽の子供にも届いていたようだった。
「なんだぁ? 誰かぁそこにおるんかぁ?」
聞こえてきた声の色、そしてこちらへ振り向いたその姿から、志郎は雨合羽の子供が、雨合羽の少女であることに気がついた。顔に掛かった水飛沫を夢中で払い除けながら、志郎は少女の姿を瞳の中に収めた。
少女は――黒い髪を真一文字の『おかっぱ』に切り揃え、真っ黄色の雨合羽を羽織っていた。川の中に隠れているのでハッキリとは見えないが、裸足のようだ。背丈は十歳の志郎より一回り小さい。当て推量だが、八つか九つだろう。雨合羽に頭巾は付いておらず、少女の髪は外気に晒される形となっていた。
見てくれは、おかっぱ髪の大人しそうな少女だった。だが、彼女の語り口は、外面の印象からは些か乖離したものに思えた。
「そこで何してるだぁ? すっ転んで頭でも打ったのかえ?」
「えっと……水飛沫が上がってきたから、転んじゃったんだけど……」
凡そ少女らしさが感じられない、ごつごつとした少しばかり粗野な物言いだった。声色が見た目相応の朗らかで明瞭なものであったから、その懸隔ぶりがより一層際立ったものに感じられた。声の主が少年で、色ももう少し濁ったものであれば、まだ、多少は違和感を減じられたかも知れないのだが。
ともかく、志郎と雨合羽の少女の顔合わせとなったわけだが、志郎にとってはまず面食らう要素が多すぎて、何から手を着ければよいのか見当も付かなかった。少女は志郎に興味を持ったようで、ざぶざぶと川面を揺らしながら、未だに尻餅をついたままの志郎の元へ歩み寄ってきた。
「濡れたかえ? そのままにしてっと、風邪ひいちまうぞぉ」
「それはそうだけど、ぼくが濡れたの、君が水しぶきを上げたからだよ」
「ありゃ、おらが濡らしちまっただかぁ。堪忍なぁ」
堪忍なぁ、と口では殊勝に謝って見せているものの、目元口元その他諸々、顔はちっとも悪びれる様子を見せていない。少女が川から上がって志郎の隣に立つと、志郎もまたどうにか体を起こしてすっくと立ち上がった。
立ってみると、志郎が予め考えていたのと同じ程度の身長差があった。一回りほど小さい少女は、志郎から見れば下級生か、はたまた妹のような見てくれだった。背丈はともかくとして、とにかくその奇抜な容貌が志郎の目を引き付けて離そうとしなかった。
頭巾の無い黄色い雨合羽と、人形のような真一文字のおかっぱ髪。雨合羽は既製品のよくあるナイロン製のもので、取り立てて変わったところがあるようではない。少女が打ち上げた間欠泉のような水飛沫は、当然と言うかその発生源たる彼女の髪にも大きな雫を幾つも残し、日の光を跳ね返してキラキラと輝いていた。
「濡れとったら風邪ひくぞぉ。おらが乾かしてやらぁ」
「乾かす? でも、どうやって?」
「なぁに、ちょっとお天道様の力を借りるだけだぁ」
少女は左手で志郎の着ていた半袖のシャツの袖をぐいっと掴むと、おもむろに目を閉じ、何やら口元で念仏を誦し始めた。志郎は少女が何と言っているのか聞き取ろうとしたのだが、聞き取ったところでただの鼻歌か繰言にしか聞き取れず、意味の取れるものでない、ということが分かるのみだった。
びしょ濡れになった袖をしっかと掴んだまま、少女が一人詠唱を続ける。内容が込み入ってきたのか記憶があやふやになってきたのか定かでないが、少しばかり顔を顰めているのが見える。
(どうしよう……乾くまで外にいなきゃ駄目なのかな)
服が濡れてしまった上に珍妙な少女に捕まり、何やら怪しい念仏を唱え始めている。涼を求めて川まで足を運んだは良いが、とんだ災難を被ってしまった。水に濡れて涼しくはなったが、それとこれとは、あまり関係ない。乾くまでは帰らないほうがいいか、志郎がそう考え始めたときだった。
ぽたっ、ぽたたっ。乾ききった川縁の石の頭上から、不意に水滴が降り始めた。水が石に当たって砕ける音を耳にした志郎が、はっと視線を少女から外して、音源の方向へと向ける。
「こ、これは……?」
「ちと静かにしとってくれぇ。おら、五月蝿いと集中できねぇだ」
服の繊維を水がなぞって、もぞもぞと中を通り抜け、袖を出口にして外へと生まれ出で、最後に少女の手を伝って、そこから地面へ転がり落ちていく。水は、服に何の痕跡も残すことなく吸い出され、引っ切り無しに少女の手にやってきては零れていく。水が少女によって、ぐいぐい集められているようだった。
絞られているのか、いや、それとは違う。雑巾は、どれだけ力を込めて絞っても、水気が跡形も無く完全になくなるということはない。服もまた、同じことだ。濡れた服を絞れば、確かに水は出てくるが、絞っただけでは服は乾かない。今、少女が志郎の服にしているのは、水を絞り出しているのではない。
あえて言うなら、水気を一所に集めている。その方が、正しい。
目を閉じ顔を顰め、ひとしきり念仏を誦し終えると、少女はようやく瞼を上げた。志郎はただただ驚くばかりで、袖を掴んでこちらにくりくりとした瞳を向けてくる少女に、呆けたように口を開けて応じるしかなかった。
「どうじゃあ、服、乾いたろ?」
「う、うん……本当に乾いてる……」
少女の言葉通り、志郎の服はすっかり乾いていた。あれほど濡れていたはずのシャツには、水気はわずかばかりも残っておらず、志郎が半信半疑のまま指で触れてみると、さらさらと乾いた音と感触がした。洗濯した後、日に当てて干したかと勘違いするほどだった。
服は、少女の言葉通り乾いてしまった。志郎は、目の前の雨合羽の少女がどうやってずぶ濡れの服をあれほど短い時間で乾かすことができたのか、俄かに気になり始めた。
「すごいよ……ねえ、これ、どうやったの?」
「お天道様にお願ぇしただけだぁ。おら、こうやって目ぇ閉じると、いろんなことができるんじゃあ」
自慢げに「目を閉じてお願いすると、いろいろなことができる」と豪語する少女だったが、志郎にしてみれば先程目の前で「服に染み込んだ筈の水が一箇所に集まってきて零れ落ちて、服が乾いてしまう」という現実離れした光景を見せられただけに、動かしようの無い説得力があった。
魔法か、妖術か、超能力か……それがどんな括りであったとしても、少女が「人ならぬ力」を使った、その事実だけ揺るがなかった。
「おらは『チエ』って言うだぁ。お前は誰だぁ?」
「ぼくは、志郎。服部志郎。チエちゃん、って呼んでいい?」
「はっはっはぁ! 好きに呼べばえぇ。じゃぁ、おらは志郎って呼ぶだぁ」
かんらからからと豪快に笑う少女、もとい、チエの姿に、志郎はすっかり圧倒されていた。おかっぱ頭に黄色い雨合羽に男子のような口調と、チエを形作るものはすべてがちぐはぐだったが、そのおかげで、志郎はより強く『チエ』という少女の存在を認識できていた。
チエに興味を持った志郎が、彼女に尋ねた。
「チエちゃん、ここで何してたの?」
「魚獲りの練習さぁ。おらの家の近くに、魚がうんといる川があるんだぁ」
魚獲りの練習をしていた、らしい。チエが言うには、家のすぐ裏手に大きな川があり、そこにたくさんの川魚が住んでいる。淡水に住むポケモンも同様だ。川にいる魚を捕まえるために、チエはこの小さな川――魚が住んでいない訳ではないが、住んでいるのはごく小さな稚魚ばかりだ――で練習を重ねていたという。
「魚獲りは難儀するんだぞぉ。物の怪達に怪我させちゃぁ、おらに罰が当たるからなぁ」
「物の怪?」
「知らんのかぁ? 蓮坊やら銭亀やら尾立やらのことだぞぉ」
「はすぼう、ぜにがめ、おたち……あっ、ポケモンのことだね」
「『ぽけもん』? なんじゃあ、えらく角ばった言いぶりじゃなぁ。おら『はいから』なのは苦手だぁ」
チエが『物の怪<もののけ>』と言ったのは、志郎の知るところのポケモンたちのことだった。ハスボー・ゼニガメ・オタチ。いずれも自然の多い地域、特に美しい清流を湛える地域に生息するポケモンだ。チエはそれらを「物の怪」と呼んでいた。
言われてみると、ポケモンを「物の怪」――つまりは妖怪や化け物と呼ぶのは、あながち間違っているとは言えない、志郎はそう思った。人でなく、さりとて動物でもなく、不思議な生態を持つ彼ら・彼女ら。どっちつかずなポケモンたちを「物の怪」と称するのは、むしろ自然であるとも言えた。
「服、乾かしてくれてありがとう。ちょっと涼しくなったよ」
「気にするなぁ。暑い時は冷や水を被るのが一番じゃからなぁ」
「そうだね。それじゃ、ぼくはこれで……」
麦藁帽子を被り直し、志郎が川から立ち去ろうとする。
「志郎」
「どうしたの、チエちゃん」
「また、遊びに来んかえ?」
そんな志郎に、チエは「また遊びに来てほしい」と口にした。少し物欲しそうな顔を志郎に向け、また志郎に会いたいという意思を見せている。志郎はそんなチエの顔を、またまじまじと見つめながら、落ち着いた調子で、チエに答えを返した。
「いいよ。ぼく、また明日ここに遊びに来るよ」
「本当かえ? おらと遊んでくれるのかえ?」
「嘘じゃないよ、本当だよ。約束破らないように、指きりしよっか」
「分かっただぁ。志郎、小指出してくれぇ」
「うん。いくよ」
志郎とチエが、互いに小指を絡め合う。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
指きりが済むと、チエはにっこり笑い、目の前にいる志郎の顔を見つめた。
「ははっ、うれしいなぁ。おら楽しみにしてるぞぉ」
「ぼくもだよ。じゃあね、チエちゃん」
「うん、うん。また明日なぁ」
嬉しそうに手を振るチエを背にして、志郎は川から離れていった。
気の向くままに辺りを歩き回り、さすがに歩き疲れた志郎が義孝の家へ戻ってきたときには、既に夕刻になろうとしていた。門扉をくぐって敷地の中に入った志郎が、玄関の前に立つ。
開け放たれた玄関には、三足の靴が置かれていた。
「兄さん、兄さんは……この家が、この村が、日和田が無くなって、何とも思わないのかッ」
「何とも思わない訳が無い、辛いのは同じだ、だがな……」
「だが何だって言うんだ。戻る場所を無くしたら……悲しむに決まってるッ」
昼ごろにやってきた健治は、今尚康夫と言い争いを続けているようだった。玄関の硝子戸越しに、語気を強める健治の鋭い声が響き渡った。志郎は肩を竦め、おずおずと縁側へと移動する。
「立て直さなきゃいけないんだ。間違いを認めて、悪い因子を排除しなきゃいけない。そうだろうッ」
「間違っているというのは、分かる」
「あいつがいなければいいッ。あいつのせいで……不仕合わせな目に遭わされた者がどれだけいるか。兄さん、兄さんだって、あいつの肩を持つ気は無いだろうッ」
「……それも、そうだ」
「何もかも無くそうったってそうは行かない。あいつの、あの悪鬼羅刹の、今までしでかしてきた悪行の数々を白日の下に晒して、あいつが死ぬまで業を背負わせなきゃいけない。それが、それが僕の務めだッ」
健治は、これは毎度のことであるが、酷く気を立てていた。喚くような、叫ぶような声色で、何かを訴え続けている。志郎と康夫が義孝の家にやってきてから、毎日この光景が繰り返されている。
縁側から恐る恐る家に上がると、志郎の帰りを待っていた義孝が出迎えた。
「帰ったかい、志郎」
「うん。叔父さん、まだいるの?」
「すまないね、まだ言い足りないみたいで。麦茶を持ってきてあげるから、そこにいなさい」
「分かった。ぼく、ここで待ってるね」
健治が出て行ったのは、それからさらに小一時間ほど経ってからだった。出て行く間際にも言葉を吐いていたから、おそらく、満足などしていないだろう。明日もまたきっと、義孝の家にやってくる。
義孝の作った山菜お強と澄まし汁、そして岩魚の塩焼きを食べた後、志郎は康夫、義孝と共に寝床へもぐった。康夫と義孝は間もなく眠ってしまったようだったが、昼寝をしていた志郎はすぐには寝付けず、思いのほか目が冴えてしまっていた。
渦を巻いた蚊取り線香を焼く紅い火をぼうっと見つめながら、志郎は、昼に出会った少女チエに思いを馳せる。晴れでもお構いなく着ている黄色い雨合羽に、規則正しく切り揃えられたおかっぱ髪、透き通った声色に似つかわしくない粗野な言葉遣い。チエは、志郎が見てきたすべての女子、ひいてはすべての人間の中で、間違いなく、もっともちぐはぐだった。そのちぐはぐさが、志郎の心にかえって強い印象をもたらした。
明日、チエと遊ぶ約束をしている。また家に健治がやってきて、やれ村を残すだの、天罰が下るだの、敵討ちをするだのの、身の縮こまるような話を延々していくに違いない。それを思えば、チエと一緒に遊んでいるほうが幾倍もましだ。
そうだ、明日は早めに家を出て、川でチエを待っていてやろう――志郎はそう心に決めて、ぎゅっと瞼を閉じた。
陽の光を借り受け、静かに夜道を照らし、光を元の持ち主に返しつつ、そっとあるべき処へ帰っていく。月は借り物の衣を纏った、奥ゆかしい乙女……そうとも言えるのではなかろうか。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。