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Colors.violet

「ねえ。私のこと、殺してみない?」

菫色の短い触腕を指先で弄る彼女から聞かされたその言葉が、繰り返し繰り返し、何度も繰り返し響いている。折り重なった言葉は不協和音を生じて、その向こうに彼女――メンイカのシルエットが浮かび上がる。目の前にいるのに途方もなく遠くにいるように見えて、形はおぼろげなのに体温まで伝わってくるかのよう。

声を掛けられたのはほんの十分前のことだ。放課後にいつもの仲間とナワバリをしてから帰ろうとした矢先、メンイカが肩を叩いてきた。彼女のことはただ顔と名前を知っているくらいで、今の今まで何のかかわりも無かった。いつも独りでいて、何をしているのかさっぱり分からない。他人を寄せ付けないところがあるのは確かだった。なぜ声を掛けてきたのだろう、想像もつかなかった。

自分の家へ帰っていく他の子たちに断わってから彼女と二人きりになって、今こうして路地裏で向かい合っている。何を言われるのだろう、とそわそわしていたところへぶつけられたのが――先の言葉だ。

「ほら、ZAPを出して」

言われるままにナワバリでいつも使っている黒ZAPを構える。彼女の手が重ねられた。普段なら決して外さないセーフティロックが解除されて、少し力を加えればインクが飛び出す状況を作ってしまう。銃口の先にはブレザー姿の彼女がいて、目を細めてリラックスしている。自分が何をしようとしているのか分からなくなって、安易に引き金を引いてしまいそうになっていることに気付く。この距離で撃ってしまえば、彼女はまず避けられない。バトル用のギアも装備していないから、当たれば確実に命は無い。

そう、命は無い。

「いいんだよ、思いっきり撃っちゃって」

「だって、気持ちいいから」

甘い言葉でささやきかけてくる。自分の軸がぶれて、彼女の誘いに飲み込まれていく。

「知ってるんだから。サナエが誰かを撃ってみたいって思ってること」

「ナワバリで自分の気持ちをごまかして、なんとか落ち着けてるってことも」

一体彼女はどこで知ったというのだろう、この――自分が持っている歪んだ欲求を。誰かの身体を思いきり撃ち抜いてみたいという感覚を持っていることを、どうやって知ったというのだろう。

「どうせ、明日になれば全部元通りになるんだし」

「旧いカラダを捨てて、新しいジブンに生まれ変わるだけ」

ぐらり、と視界が歪む。恐怖にも似た、だけど確実に異なる別の感情。トリガーを引きたいという欲求が時間切れ間際のイカスフィアのように膨らんでいって、今にも破裂してしまいそう。欲求をぶちまけた先に待っているのは彼女の確実な死、彼女はそれを望んでいて、自分の手で成し遂げられるシチュエーションができあがっている。ZAPを撃つことを躊躇うのは、僅かに残った良心ゆえ。

しかしながら、だ。自らを殺してほしいと甘い声で囁く彼女を前に、自分のちっぽけな良心なんかがどれほど役に立つというのだろう。ただの障壁でしかない、無為な枷に過ぎないと、本能が幾度となく繰り返し訴えてくる。一思いに撃てば楽になる、彼女も、そして自分も。喉がカラカラに渇いて、思考力を喪失していく。誰かに殺されたがる彼女を、誰かを殺すという体験をしたがっている自分を、手にしたZAPで解き放て。

常識というナワバリを――自分の手で塗り替えてしまえ!

(バシュッ)

壊れそうなほど強くZAPのトリガーを引くと、目の前で彼女が壊れるのが見えた。強い解放感を覚えて、辺りのモノすべてがひどくゆっくりに見えた。頭の中で炭酸の泡がはじけているみたいだ。

強い圧力が掛かって飛び出したレモンイエローのインクがメンイカの身体を易々と貫いて、床に大きな跡を点々と残す。彼女は棒切れのように吹き飛んで床に倒れ伏し、自分の撒き散らしたバイオレットのインクで全身を染め上げている。唇を微かに震わせながら、彼女が虚ろな目で天井を仰いでいる。もう息をすることさえもままならなくて、ひゅうひゅうと声にならない声を上げるばかりで。胸に空いた風穴は隠しようも無くて、手の施しようがないことがありありと見て取れた。手にしていたZAPが零れて、自分と彼女のインクの広がる床へ落ちていった。

彼女のブレザーに、スパッツに、菫色のインクが滲んでいく。支える力を失って、体内を巡っていたインクが外へとじりじりと漏れ出ていく様子がありありと見える。もはや呼吸さえもままならない彼女が小刻みに身を揺らして、目の前に迫る死を見つめている。撃たれる前と何も変わらない、享楽的な笑みを湛えたまま。

「ぁあ……いぃ、気持、ち……」

掠れた声でメンイカが途切れ途切れに言葉を紡ぐ。彼女の側へ顔を寄せると、小さくなっていく彼女の心音と呼吸を聞くことができた。相反するかのように鼓動が高鳴って、やがてすべての音を掻き消さんばかりに大きくなっていく。自分が彼女を撃った、自分が彼女を手に掛けた、自分が彼女を殺した。一秒また一秒と時を重ねるごとに、彼女を撃ち抜いたという現実が膨れ上がっていく。

右手を上げる。彼女の身体から撒き散らされたバイオレットのインクがべっとりとこびり付いていた。無意識のうちに、まったく意識しないうちに、指先を自分の口へ持って行っていた。彼女のインクを舐める自分を別の自分が客観的に見ている。苦味が口いっぱいに広がるのを感じて、肉体と精神がひとつに戻っていくのを感じた。口の中が火傷するように痛む。痛むけれど――痛みの向こう側にかすかな甘みを覚えて、その味覚が脳裏に焼き付いていく。

(おいしい)

美味。身体がそう認識したことを認めざるを得なかった。彼女の身体からあふれ出たインク、それを舐めて美味だと感じている自分。まともじゃない、どこをとってもまともじゃない。でも、本心だ。彼女を撃った瞬間に覚えた巨大な解放感も、彼女のインクを舐めた時に感じた美味だという思いも。全部、本心なんだ。

両手で彼女のインクを掬う。躊躇わずに口へ流し込む。自分と違う色のインクが体を蝕む感覚は嫌いなはずなのに止められなくて、自分の中をメンイカのバイオレットカラーで満たしていく。インクを貪る自分の様子を見て、彼女が満足そうに微笑んでいる。インクを掬う、飲み込む。インクを満たす、飲み下す。数を数えることさえ忘れたまま繰り返して、ふと我に返ったときだった。

「メンイカちゃん」

掛けた言葉に応える言葉は無く、問い掛けに返事が来ることは無く。安らかに笑ったまま、穏やかに頬を緩めたまま。

彼女は息絶えていた。ぴくりとも動かず地面に身を沈めて、最期の姿のまま目覚めることのない眠りに就いている。

ああ、彼女は死んだ、彼女が死んだ。殺したのは自分だ、他でもない自分なんだ。

「メンイカちゃん」

その呼びかけは、最早ただ空気を震わすだけの無為な音でしかない。死者には何の意味も持たない、雑音と変わらぬ価値しか持たない。

命が喪われた肉体が緩やかに崩壊してじわじわ液化していくのを目にする。手が意識せぬままに動いて、彼女の揺らしていた短い触腕を引きちぎる。力はまるで要らなかった。本棚から本を抜き取るような呆気なさと共に、彼女の頭から触腕が分離する。ほんの少し前まで生きていた彼女の一部が、今は冷たい肉塊でしかない。そして間もなく形を保てずインク溜まりに飲み込まれて、やがてインクさえも跡形もなく消えてしまう。

自分の中に彼女を残したい。彼女の形を残しておきたい。この手で命を奪った彼女の存在を、自分の中に永久に留めておきたい。

「メンイカちゃん」

手にした触腕に、静かに口付けて。

 

かつて彼女の一部だったものに――そっと歯を立てた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。