斬撃のシンフォニア

著者:ソフトラビリンス



 潮混じりの生ぬるい風がそよぐ。目のくらむほどの強烈な日光ももちろんアローラ地方の特徴で、人気(ひとけ)のない海辺で、ポケモンたちは今日も今日とて海水のしょっぱさを全身で味わっている。見るもたくましい岩礁や異様なまでに生長した草木のおかげで、陸地からの進入は人間の二本足ではなかなか難しい。それならばと潔く見切りをつけ、なるべく立ち入らずにポケモンの住処とさせる、という暗黙の了解へと自然に話が運ばれていった。人間様の身勝手な取り決めなぞ端からどうでもいい野生のポケモンたちだったが、それはさておき、陸の孤島として絶妙に切り取られたこの海岸は確かに気兼ねなく暮らせる楽園だった。

 遮るものが青空にないと、陽の光は海中のこんなところにまで差し込まれてくる。静止しては動き、静止しては動きと、テッポウオが気ままに泳いでいると、陽光だけではなく、誰かの鳴き声まで聞こえてきた。水を震わせるようではなく、透き通って直接ここまで語りかけてくるような声だった。

 警戒心よりも好奇心が勝り、何事かと海面から顔をちらりと覗かせる。音の出所を目で追うと、やや離れた浜にて、一匹のアシレーヌがこちら側へ熱唱していた。よもや自分に向かって歌ってくれているとは思わないが、それほどにアシレーヌの声は力強く通っていた。

 揺らめく波の切れ目からしばらく眺めた後、近くのパウワウをひっかけた。

「よお、誰だっけあいつ」

 パウワウは、なんだ知らないのか、という顔でテッポウオと並ぶ。

「あいつも新入りだよ。先月あたりにここへ流れ着いてきて、ずっと居座ってんだ」

 テッポウオは歌声に耳を傾けて吟味し、視力を凝らして遠望する。この浜辺に限らず、アシレーヌはそもそも稀少な種族で、現に目にするのは初めてだった。その姿、その声の麗しさに嘘偽りはない。数多のみずポケモンの憧れの的という、多少行きすぎた評価も、今なら十分に納得できる。元々ひねくれたところを持たないテッポウオは、己には不釣り合いだと自覚しつつも、素直にアシレーヌのことが気に入った。

「いいな。話に聞いたとおり、こころが洗われるみたいだ。是非ともお近づきになりたい」

 パウワウが無情にも即座に、

「やめとけ」

 なんで、という言い返す前に、その疑問が氷解した。

 そのアシレーヌに近づいていく、一匹のダイケンキの姿があった。

 ああなるほど、と思う。

「姫君のつもりかどうかは知らんが、強力な警護役をつけている。それに、余所者同士でつるんでるだけで、元々いた俺たちとは群れようとしないんだよ、あの二匹」


 蚊帳の外でそんな会話が交わされていることもつゆ知らず、当のメスのアシレーヌはなおも腹に力を込め、独唱を続ける。遮るものが青空にないと、この声は風に乗ってどこまでも届いていきそうな気がする。波に飲まれ、「音量」が薄れていったとしても、無限に小さくなっていくだけで消滅することはない。「振動」として海流に乗って、微量ながらも伝わり、やがて漣と混ざって誰かのもとへと渡っていくのだろう。そうして海の中には、さまざまな歌や音、波、一連の物語が眠る。海溝での温度の境目。海底火山の熱源。そういった箇所は特に溜まりやすいポイントであり、声を武器とするポケモンが拾い上げて、まとまった歌に仕立て上げる。今自分が歌っているのも、古くからから海底で伝わっていた馴染みあるもので、海のポケモンの中で知らない者はいないはずで、練習にはもってこいなのだった。

 その歌声の隙間からも、砂地を踏みしめてこちらへ近づいてくる、柔らかな足音が聞こえてきた。

 正体はわかっている。歌を中断して振り返ると、メスのダイケンキが立っていた。人間が捨てたものらしい、岩肌のようにべこべこにへこみ、潮風ですっかり錆び付いている金属製の空き箱を右前足で掲げ、器用に三本足で歩いてきていた。

「今日の分、取ってきたぞ」

 相変わらずダイケンキはむすっと口元を山なりに結んでいる。初めて出会ったときから口調もずっとこのようにぶっきらぼうで、当時は何に対して面白くないのか一度だけ訊ねたことがあるのだが、ダイケンキにとってはこれがいつもの表情と態度らしい。種族の問題か性格の問題かまでは訊きそびれ、そのときはそれで会話が終わってしまった。

 ざくり、とダイケンキは箱の底を両者の間へおろし、続けて腰もおろす。

 中には今日一日で必要な分だけのきのみが入れられてあった。

「いつもありがとうございます」

 アシレーヌは微笑み、流線型の上体を折り曲げ、ヒレを胸に添えて頭(こうべ)を垂れる。アシレーヌなりの礼法だ。

「まだあまり出歩かない方がいい」

「でも、おかげさまでだいぶよくなりましたよ」

 どれほどの種類のきのみを持ってこようと、アシレーヌは青いそれを決まって最初に選ぶ。必ず選ぶ。

「あれから一ヶ月がたつのですね」

 やはり青いきのみを選んだアシレーヌは、白く鮮やかな照りをみせるそれをまじまじと見つめてつぶやく。



 ―――



 アシレーヌがこの浜辺に打ち上げられていたのが一ヶ月前。第一発見者でもあるダイケンキが命を救った。

 いくら人間が立ち寄りにくい場所とはいえ、流れ着くものは流れ着くらしい。浜辺にひっかかって二度とさらわれなくなった人工の廃棄物を、愚痴の一つもこぼさずにちまちまと塚へ捨てるのがダイケンキの最近の仕事だったが、この日ばかりは少し判断に迷った。寝泳ぎしているうちに縄張りの海流から逸れたのかと思うが、ここまで極端に寝相の悪いアシレーヌなんて聞いたことがない。野生ならば基本的に群で行動する、回遊民(トランジェンド)のはずなので、迎えが来ないのも妙と言えば妙だ。誰かに飼われていたとしても生身で来る酔狂な人間はいない。

 昔からいつもこうだ。無骨な表情のまま、まぶた一つ変えることのできないのは、自分がダイケンキという種族だからなのかもしれない。それに慌てふためくことをしないのも、死んでいないとこの距離からでもすぐ察してしまったからだった。まったくこころにメリハリのないやつだとは自分でも思っている。

 最低限の間合いと警戒は解かず、ぎりぎりまで接近する。相手はうつ伏せ。そう生半には覆らない利を得ているので、この状況からの不意打ちでもよほど負ける気はしない。

「もし」

 無言。

 もう一歩だけ近づく。

 結果はやはり同じ。

 根比べに折れたつもりではないが、ダイケンキが先に出て、アシレーヌの体の表裏を返した。抜刀のためにアシガタナへ意識を割っていたが、それも杞憂に終わった。本当に気を失っていたらしい。目立った外傷は見当たらないが、肋(あばら)が浮くほどには痩せている。あと三日もすれば衰弱で危険な状態となる。いや、三日経たずともこれ以上放っておけば、直に女日照りなポケモンたちの空腹か肉欲、あるいはその両方の餌食となる。

 浜からやや離れた場所に位置する、木陰つきの浅い海水溜まり。そこがダイケンキの寝床なのだが、アシレーヌを運ぼうと背負うも、気の毒なくらい軽かった。難なく引き込み、海水溜まりに四肢を沈める。そこに浸してある草の絨毯におろしてやり、藻屑を払うなど身の回りを簡単に手入れしてみる。アシレーヌはその間ずっとうなされていた。

 さてどうしたものか、と顎の髭をぽりぽりかいていると、きのみを取りに行く途中だったことを腹の虫で思い出した。荒らされて困るほど立派な寝床でもなかったため、アシレーヌを残していそいそと出かけ直し、根本で陣取っているマケンカニどもと『軽く』じゃれあった。故あって二日分を頂きたいという申し出を一蹴され、かなりワイルドな手段で交渉したからだった。詳しくは語るまい。

 二日分ならぬ、二匹分をまんまとせしめたダイケンキは引き続きの仏頂面で戻る。アシレーヌが起きあがっており、海水溜まりの中、うつろな目線をどこかへぼんやりと預けていた。

 声をかける前にこちらの目線と足音に気づき、アシレーヌが二度目の覚醒をした。身の危険を感じたのか、とっさに前ヒレで上体をかばい、若干後ずさる。

 ダイケンキは止まらなかった。同じく海水溜まりへと再び足を浸からせ、水音を抑えた歩き方でアシレーヌを追う。

「安心しろ。私は敵ではない」

 顔色が伺える距離まで近寄るが、やはり優れず、おびえ混じりの目がダイケンキをとらえて離そうとしない。

「ずっと飲まず食わずか?」

 か細い声で、アシレーヌが口を開いた。

「多分、一週間ほどなにも」

 気まずそうに目線を伏せ、

「もしかしてわたし、うなされていましたか?」

「ああ」

「何か、言っていましたか」

 口ではそう訊いておきながら、答えを知りたくないという表情をしている。だからダイケンキは正直に告げた。

「言っている余裕もなさそうだった」

 つかの間。安堵とも落胆ともとらえにくいため息をもらしたのを聞き取り、息づかいの細さからアシレーヌの体調を察した。ダイケンキは先ほど調達してきたきのみのひとつを差し出した。アシレーヌはその挙動一つだけで大げさなくらいおののいた。ダイケンキの手にあったものが剣ではなくきのみだとしばらくをかけて認めたが、その好意を好意と受け取っていい自信がなさそうに、目を閉じて首を振るった。

「だめだ、食うんだ」毒味のつもりで一囓りし、咀嚼しながらその残りをもう一度差し出す。「そのままだと本当に死んじまうよ」

 それなりに真剣な語気でずいと迫ると、アシレーヌは気圧されて後退した。だが、限界が近いのか、重心を崩して後方へ倒れてしまい、少し派手な水しぶきがダイケンキの顔にかかった。水滴を振り飛ばす間もなく、刺激しないように最接近し、ゆっくりとアシレーヌを起き上がらせる。

「いっそのこそ、死んでしまいたかった」

 ダイケンキの腕から離れ、両ヒレで上体を支えつつ、アシレーヌは力なくうなだれる。濡れそぼった髪を整えようともしないその佇まいに、ダイケンキは陰性の色気を感じた。二匹の顔が暗い水面に浮かび、福笑いのように歪んで千切れている。

「わたしは、償いきれないほどの、大罪を犯しました」

 続けて口から何が飛び出てくるのか、少しばかりの期待をしたダイケンキだった。だが、欠けたきのみから香りが溢れたのだろう。くん、とアシレーヌの鼻がかすかに跳ねる。藻のようにゆらゆらとしているその場の草の絨毯から、ダイケンキの持っていたきのみへと、アシレーヌの視線が誘われる。

 言葉とは裏腹に、おそるおそるアシレーヌの片ヒレが伸びてくる。黒い爪とヒレの先がかすかに触れあう。まだ震えは止まっておらず、海水を浴びてより瑞々しくなった果肉がそれにつられてちらちらと光を弾く。渡ったのを感触で確認すると、ダイケンキは拳の力をそっと抜いて、アシレーヌのヒレから離れた。


 ダイケンキの誠意はアシレーヌに十分伝わっていた。しかし、最後の一部分でまだ気持ちを許すことができない。きのみを貰おうとしたのも、このまま餓死するくらいなら腹を埋めて毒殺されるほうが幾分か上等だと判断しただけに過ぎない。長い時間をかけてアシレーヌは口を開き、ようやく一口目に入った。そこで自分が極限にまで空腹だったことを思い出した。雷は落ちないし、地も割れないことを、徐々に納得し始める。数日ぶりのきのみの味の濃さに舌が痺れた。ダイケンキの行動に欺きはなく、少しでも疑った自分を痛く恥じる。瞳孔が開かれ、呼吸も忘れてかぶりつく。一口の量と速度が自然と早くなっていく。

 自然と涙もぼろぼろとこぼれていく。

 えずきながらもアシレーヌは食べるのをやめようとしない。口元から漏れる果汁と目尻から溢れる涙が喉元でない交ぜになって、海水溜まりへと落ちていく。口元を拭かず、涙を拭わず、声を抑えることもやがて諦め、嗚咽と咀嚼を交互に繰り返し、アシレーヌは次から次へときのみを食べていく。

 ダイケンキは、黙って待っていてくれた。

 このままだとダイケンキの食べる分すらもらってしまうかもしれない、とアシレーヌはこころのどこかで遠慮がちに思ったが、残りの部分すべてが躊躇を捨てて次に入った。

 それはきのみと一緒に採取されたポケマメだった。

 目で追うよりも手の動きが先だった。無我夢中で掴んだそれがポケマメだとアシレーヌが目で認識した瞬間、脳裏から突如として蘇るものがあった。


 ――お手入れ終わり。ほら、ご褒美のポケマメだよ。この色のやつが好きなんだよね。


 胃の中が一気に逆巻いた。口の中だけでなく、喉の奥へ落ちかけていたものまで吐き戻した。アシレーヌは癇癪を抑えるように腹を抱え、果汁混じりの咳を繰り返した。

「大丈夫か、ほら。落ち着いて」

 今にも事切れそうだった意識をダイケンキの穏やかな言葉で引っ張り戻され、水っぽい呼吸の隙間から、なんとか返事を取り繕う。

「は、はい。がっつきすぎただけです。もう大丈夫です、ありがとうございます」

 絹に触れるような優しい手つきで背中をさすってもらい、ようやく咳が止まった。それでも涙は、まだしばらくは止まりそうになかった。



 ―――



 負けた。

 冷静な部分では当然だとすら思う。

 少数精鋭だなんて、昔の人間は言葉をうまくまとめて士気を高めたものだ。敵の本拠地にそれはいくらなんでも無謀だった。

 ご主人の最初のパートナーだっただけに、過ごした時間は他の誰よりも負けていない。楽しいこととつらいことは表裏一体で乖離できないもの。これまでずっとそれらを思い出として一緒に味わってきた。

 今回はそれらを遙かに上回る、レポートにすら残したくない、忌まわしい記憶となるだろう。これまでの島めぐりの中ではありえなかったほどの大敗を、わたしたちは喫した。

 人質を盾にされ、抵抗も空しくわたしたちは捕らえられ、施設内で散り散りとなった。


 それでもまだ自分は生きている。わたしたちが、あの者たちにとっての野望にあだなす敵(かたき)とはいえ、何も命までは奪うまい。

 希望はある。

 今は負けているが、いずれ勝ちを取り返す。

 それに、わたしたちはこうして捕まったが、あの子はまだ無事のはず。

 わたしたちの仲間であるあの子なら、きっとうまくやってくれるはず。



 ―――



「ああ。あれから一ヶ月ほどだ」

 ダイケンキが顎髭をさすり、青空を仰ぐ。横に九本、縦に一本。アシレーヌと出会って以来の、寝床付近の大木へ刻んだ回数をそらで思い返している。

「まあ確かにその様子だと、もう介護の必要もなさそうだ」

 介護と表現するほど大げさなものではなく、毎日海水を換えてきのみを食わせ、養生させていただけだった。が、それで十分だった。枯死寸前から大輪へと息を吹き返したかのごとく、アシレーヌの容態は見る見るうちに回復していった。一ヶ月前とは比べ物にならないほど顔色もよくなっている。少し前まで死にかけていたアシレーヌだとは誰も疑うまい。死にたいとやつれ嘆いていた者の歌声だとは思うまい。玲瓏な毛艶も本来の煌めきを取り戻しており、潮風が時々吹き付けては踊り、光がウェーブ状に滑っている。

 一通りのきのみを食べ終えたアシレーヌが、色づきのいい舌を可愛らしくぺろっと出して、ヒレ先の果汁をなめる。あの頃のことを思い出して、少し照れくさそうに、

「ええ、声の調子もなんとか。血筋には逆らえませんね。今では歌の練習をしておかないと落ち着かない」

 ダイケンキを置いて、波打ち際へと向かう。湿り気のある砂地に体重を預け、おもむろに上体を起こし、太陽を抱かんとばかりに両ヒレを掲げた。

 熱気に塗りつぶされる寸前までとことん日光浴を楽しむと、その場を動かず、きのみに口を付けないダイケンキへ振り返って微笑む。

「なぜ助けてくれたのですか」

 ダイケンキはさっきからずっと自分より背後の沖に視線を据えたままで、こちらを見てくれない。

「あんたこそ、別にずっとここにいなくてもいいんだよ」

 なんだか真似したくなって、同じくダイケンキから目線をそらしてつぶやく。

「わたしは、もう行くところがありませんから」


「マリー!」

 これも青空によく響く甲高い声だった。二匹が揃って顔を上げ、正体を追うと、その先にはせわしなく羽ばたくケララッパが小さく見えた。声色からしてオスだろう。かなりの距離があるはずだが、そこからでもケララッパはこちらの様子を見て取ったようだ。

「なあマリー、おまえ、マリーだろう! まさかとは思ったが、よかった、こんなところにいたのか!」

 ケララッパがその名前を知っているのと同様に、こちらもケララッパの名前を知っている。

「ハイロゥ」

 否定すればよかったのに、呼び返してしまった。

 ハイロゥと呼ばれたケララッパはすぐさま急降下し、両者間に滑り込む。興奮のあまりか黄砂が繊維状に舞い上がるのもいとわず、羽ばたきながらアシレーヌと正対した。

「あー、えーっと、なあ、おまえどうして――いや、」

 こちらに対する色々な質問を矢継ぎ早にしたい様相が見て取れたが、喉でつかえて出てこないらしい。だから、アシレーヌから訊き返した。

「お変わりありませんか?」

 難しそうな顔を作るのが得意じゃないことも知っている。案の定ハイロゥはぱっと顔を明るくさせた。

「おう、みんなもな。今は博士のところに引き取ってもらってるけどさ、俺、心配で探してたんだよ。――っと、そちらさんは?」

 砂煙の背後からでも目線を感じたのか、ハイロゥは傍らへ寄り、ダイケンキのことを訊ねる。

「ここへ流れついたわたしを助けてくださったのです」

 せわしない羽ばたきをようやく終え、危なっかしい着地。立派な両翼を折りたたむと意外なほど華奢となるのだが、かんろくポケモンであるダイケンキと対峙し見上げてもびくともしないその肝っ玉ぶりは、確かに相変わらずのようだった。

「そうか、俺からも礼を言うよ。マリーをどうもありがとう」

「それには及ばない」

 これでもどうだ、とばかりに差し出されたきのみを、ハイロゥは喜んでくちばしで受け取ろうとした。

「ハイロゥ」

 先ほど『探してた』とハイロゥは言った。ひょっとしたらみんなは自分を連れ戻しに、こんなところにまで探しに来てくれたのかもしれない。それは嬉しいが、同時に申し訳なくもある。そして、それでも自分はもう戻る訳にはいかない。戻ってやり直すためには、決定的に足りない要素が、ひとつだけあるから。

 なので、先手を打った。

「わたしは、その名前を捨てました」

 察したハイロゥは、きのみを受け取ろうと大きく開けたくちばしをそっと閉ざし、ただ一言。

「そうか」

「すみませんが、独りにしてください」

 返事を挟ませず、アシレーヌは波間に潜り込むように、海へと身を投じた。


 ハイロゥとダイケンキは取り残され、アシレーヌの歌声なき今、キャモメたちの鳴き声と波の音だけを黙って耳にしている。

「あんた、あの子の仲間だった口ぶりだが」

「一ヶ月くらい前まではな。ちょっと、色々あってな。おまえはずっとここに?」

「いや、私もここへ着て長くはない。同じくただの流れ者だ。少し後であの子がここへ迷い込んできたのところを保護した。それだけの関係だ」

「じゃあ、何も聞いてないんだな?」

「ああ」

 ハイロゥがうつむき、その場の砂地を片足の爪でさくさくと耕す。

「じゃあ俺からも言うわけにはいかねえか。あいつだけの問題でもないんだが、本当、色々とあったからよ」

 さくさく。

「ハイロゥと言ったか。本音を言い当ててみせよう」

 さくさく。

「連れ戻したいんだろう」

 さくさく。

「そりゃな。マ……あいつが戻ってきてくれるならそれに越したことはないけど、元気そうな姿見たらなんか後ろめたくなった。他の仲間からすれば薄情だってけなされるかもしれないけど、俺はあいつのこと、強いと思う。――そうだ、過去の仲間の好(よしみ)として、伝言しておいてくれないか」

「聞こう」

 すまねえな、とハイロゥは間に添えて、

「『おまえは悪くない』、とだけでいい。言っておいてくれ」

「承知した」

 ハイロゥは右翼を開き、無言で礼のサインを示すと、羽ばたいて青空へと吸い込まれていいった。渡したきのみはその場に残され、結局食べられずじまいとなった。


 一方のアシレーヌ。気を紛らわせる方法をどうにも閃かず、とにかく今日は思い切り疲れてぐっすり寝ようと力一杯泳いでみたが、こころはずっと靄がかっていた。かつての仲間に出会って、過去を少し思い出してしまった。まったくもってハイロゥに罪はない。あるとしたら自分だということも認めている。なのだが、今の気持ちと行動はそれとまるきり矛盾しており、背けたいばかりに、こうしてまた逃げてしまった。暗さと冷たさを求め、深深度を目指して尾びれでしきりに漕ぐ。海流が重く突き抜け、その先で海が孕んでいた闇とアシレーヌの細長い体はやがて同化する。途端に強烈な水圧が襲い掛かってきて、凄まじい頭痛を覚え、しかれどもアシレーヌはまだ潜水をやめない。何も見えないところへ、何も聞こえないところへ行きたいと強く思う。そうすれば、もうこれ以上何も考えなくて済むかもしれないから。泳ぐ感触や疲労などもうない。あるのは体を割りそうな水圧の痛みだけ。それだけをそばに置いて、海溝へと沈んでいく。

 真っ黒な海中に身を預けたかった一方、何もわからなくなる情報と感覚の欠乏が、アシレーヌの孤独感をひどく苛んだ。

 帰りたかった。

 でも、どこへ帰ればいいのだろう。


 そうして平等に、時刻は過ぎてゆく。

 自身の体を引きずり上げるのも難しいくらいへとへとになったが、余計な後悔はすまい。相当な時間、無理して泳いでいたことが、空模様の移ろいから判明した。浜辺にも夕刻が迫っていた。アローラは晴れた夕空も見物なのだが、かえってそれがアシレーヌには毒だった。心情はやはり女々しく湿気ており、いっそのこと土砂降りで罵倒してくれた方が、自分で自分のことをけなさずにすむ分だけ気楽だ。

 暑かったはずなのに、ダイケンキは置物さながらに座したままでその場をずっと動いていなかった。ハイロゥは帰ったらしい。戻ってきたことに気づいているはずだが、意にも留めず、自身の前足の爪がかすかに震えているのをじっと見つめている。

「聞きましたか」

「いいや、何も」

 ほっとしたような、踏ん切りがつかないような、決意を後延ばしにしたような。いつかは打ち明けるべきだと思っているし、本当は優しいダイケンキがここから追い出すはずがないと前向きな部分では考えている。反面、ずっとひた隠しにしたまま、ただ一緒に過ごして、こころの傷を癒したいとも思う。さておき、アシレーヌも不思議そうにその爪の震えを一緒に見ていると、ダイケンキは決まりが悪そうに振るってごまかした。やおら立ち上がると自分たちの寝床へと一足先に戻っていく。その途中、立ち止まる。

「あいつから言伝がある」

「はい」

「『おまえは悪くない』って」

「――はい」



 ―――



 傷ついたままあの者たちに捕らえられ、最低限の手当しか受けられず、わたしが最初にされたのは、洗濯機の中に放り込まれたかのような滅菌シャワー。そして、繰り返しの下剤と催吐剤投与による、体内外の洗浄だった。

 それだけで心身ともに参るのに、直後は点滴を何時間にも何種類にも渡って打たれ続け、その間に刺された注射は十本はくだらない。

 初日はその辱めだけで終わったが、それからが真の生き地獄だった。真っ白な監獄生活が続いた。わたしというポケモン一匹を閉じ込める収容所にしては不気味なくらい清潔感が漂っており、逆に挙げればそれくらいしか特徴のないただの息苦しい箱だった。

 食事は日に二度だけ。

 きのみ。フード。見たことのないラベルなし缶詰を二個。そして水。

 敵から情けをかけられているようで屈辱的だったが、わたしのプライドは水に濡れた紙のように脆く、背に腹は変えられなかった。

 食事係と思しき人間も白衣にマスク。だがその目つきは好奇のそれで、マスクの奥の口元は笑っているような雰囲気がなぜかした。

 時々食事係とは別の人間が入ってきて、そのときはまたしても注射を打たれた。一本打たれるごとに自律神経が削られていく気がする。麻酔で強制的に眠らされている間、きっと何か調べたり、別の薬物を仕込んだに違いない。

 そこでわたしはようやく気づいた。ここは単なる獄中ではなく、一種の観察部屋であると。

 白い壁越しの、無数の目線を感じた。

 捕虜という自覚から検体のそれへと意識が変わり、意味不明で済ませられた恐怖が、本物のそれに化けた。

 時計がなかったから、それが十日目のことか二十日目のことかだったかはわからない。食事の回数を思い出す気力もない。もしかしたら一週間と経っていない気もするし、一年が過ぎた感覚も否めない。窓もなく、昼か夜かが判別つかないのだ。

 時間感覚の喪失は、正気の喪失にも徐々につながっていった。

 ご主人はどうなったのだろう。

 みんなはどうなったのだろう。

 あの子はどうしているのだろう。

 ひょっとしたら、殺されたのかもしれない。

 あるいは、みんな無事に脱出できて、わたしだけがまだ捕まったままなのかもしれない。

 しかも、みんなわたしのことなんか忘れているのかもしれない。

 狭い部屋の中、自分の妄想だけが破裂しそうなほど膨れ上がっていく。

 でも壁を叩いて抵抗を示すことはとうに諦めていた。

 そんなことをすれば、またも鎮静剤を打たれ、その日は食事を抜かれると、一度目で十分に思い知らされたから。


 そうしてただ呼吸をするだけの人形のような日々を強いられていたはずなのに、なにか気にくわないことをしてしまったらしい。突然食事の間隔が遠のき、多分だが一日に一度きりとなった。缶詰二個と、喉を潤す程度の、浅い皿に注がれた水分のみ。食事係も別の人間へと代わり、缶切りの手つきもかなり乱暴で、中の肉を皿へ落とす動作がぞんざいだった。意識が摩滅し始めた中でも、そのことだけは意識していた。

 ずっと見張られており、一個分を食べずに後で残しておこうと思うと没収され、その日は抜きとされた。だから、その場でどうしても二個とも食べざるを得なくなった。

 やることなんてない。体力を少しでも温存しておこうと、無理やりにでも寝続けるだけだった。意味不明の、つぎはぎだらけの夢をいくつも渡った気がする。浅い睡眠と白い床での覚醒を幾度となく往復して、日に日にやつれていくのが自分でもわかる。空腹感と倦怠感が体を内側から締め付けていくような感じで、起き上がる元気も湧いてこない。部屋の温度は悪くないのに、微妙な寒気。

 ある日、食事を終えたのを確認した人間が、空き缶を手にドアを閉めようとし、その向こう側にいた誰かと話していた。


 ――大分キまってるな。こいつもそろそろ上に持っていって実戦投入させてみるか?


 意味までは聞き取れず、音だけを拾い、空っぽの頭の中で鳴り渡らせていた。

 どうでもよかった。

 生きるだけだ。

 わたしは、こころの最後の一滴までは死んでいなかった。

 自分たちは決して間違った道は歩んでいない。

 その尊厳だけが唯一の味方だった。一秒でも長く生きていれば、それだけでも誇らしい。

 孤独も点滴も注射も耐えられる。あの者たちの視線も耐えられる。


 でも、空腹だけは耐えられなかった。

 それだけが唯一にして最大の敵だった。



 ―――



 夕日が闇に溶けてしばらくが経った。蒼い獣道を進みに進み、びよびよに伸びきった草木を強引に押し分けていく音。衣服に守られていない部分の肌に生傷をうんとこしらえ、靴底は草の汁でびたびたになっている。首から上は落ち着きがなく、何か捜し物をしているようでもある。それも、地面に落ちているものではないようで、視線は水平を保っている。冒険者と表せば聞こえはいいが、見てくれはまるで節操がない。

 この群生地帯の向こう側は野生のポケモンたちが巣くうただの浜辺なのだが、最近になって美しい歌声が聞こえるようになったと付近では口の端に上っている。それも、人ならざる者の声となれば答えは得てして決まっている。ご多分に漏れずその話を聞きつけたこのトレーナーは、ラプラスの群れではない別の何かだと勝手に打算した。

 ぜひともその真実をこの目で拝んでみたい。あわよくば捕獲したい。そう思って一足先に行動へ出た野次馬なのだった。常識や倫理はさておき、トレーナーの生き方や歩き方に教科書は存在しない。決められた道からあえて外れて進むことも、新たな発見や経験の上では確かに欠かせない要素ではある。ポケモンあるところにトレーナーあり。着たきり雀の格好でその理念を貫く根性だけでも、どうか認めてやろうではないか。

 出し抜くつもりで夕方ごろに進入したのは確かにまずかった。行き掛けに買った安物のコンパスはまるであてにならず、目的地はおろか出口や帰り道も危うい。いよいよ怪しくなってきた事態にトレーナーは段々こころ細くなってきて、暗闇の中を泳ぐように、手探りで歩く。もう無理だ、疲れた、やめたい。悪くなる一方の状況下、そういった諦めが何度も脳裏をよぎるのだが、ここまで来て収穫なしに回れ右をするのも虚しい。野宿なんてもってのほか、寝込みを襲われ、手足の一本くらいでは済まされないだろう。キテルグマ出没注意の看板はなかったから、その点だけは心底信じたい。

 かすかな声。

 トレーナーは電撃を浴びたように立ちすくんだ。目の前の草から手を離し、無音を呼び戻す。

 もう一度、耳をそばだてる。


 気力を振り絞り、踏み込んだ先は月の明かりが強烈だった。月光と星空と波の輝きに支配されたそこは天然の不夜城のようだった。海の黒と夜の黒が混ざり合って、水平線の彼方は一体化しており、あの先に別の世界、別の地方が存在するとはお世辞にも考えられない。長きに渡って嗅覚を苦しめてきた草の臭いからようやく解放されると、濃密な潮の香りに出迎えられた。波の音がいっそう深く耳にまで届くようになり、その中でもはっきりと何者かの声が聞こえてくる。

 しなやかな後ろ姿をとらえた。

 生物の気配がない中、そのアシレーヌは一匹だけで浜辺で佇んでいた。誰か別のトレーナーがいるわけでもなく、本当に野生らしい。

 苦労を重ねて足を運ぶだけの価値はあったとトレーナーは内心で自身を誉め称えた。アシレーヌをこれほど間近で拝めるだなんて僥倖である。

 ただ、なぜ群れずに一匹だけなのか、それがわからない。

 はかなげで切ない、それでいて美しい声音で、月へと語りかけている。

 歌っているのではない、とトレーナーは直感で思った。

 鳴いているのでもない。

 泣いているのだ。

 どうしてそう思ったのかは、やはりわからなかった。

 ひょっとしたら人間慣れしているのかもしれない。非常に聞き取りやすい声だった。何を言っているかはともかく、何を言いたいかだけでも汲んでやりたいと思う。すでに下火となりつつあった、捕獲するとかという助平心は、ここで完全に消沈した。疲労感はさっき隘路(あいろ)に置いてきた。いっそ清々しいほどの寂しさが胸を一巡りして腹へ抜け、愛おしさが宿った。声をずっと聞いていたい。今夜だけでもいい、ただ一緒にいたい。

 一歩、なかば無意識にトレーナーは柔らかい砂浜を踏みしめて歩み出す。

 アシレーヌが気づき、歌を中断して、体をゆったりと翻す。トレーナーは思わず両手を上げ、首を静かに振り、戦意のないことを示した。

 意図を察してくれたのか、アシレーヌも戦ったり逃げたりするような体勢にはならなかった。少なくとも、歌の邪魔をされて不機嫌そうな顔ではない。

 アシレーヌが体をしならせ、優雅な挙動で近づいてくる。トレーナーも引き合うように歩む。両者は一歩と満たない距離にまで寄り合う。背筋を伸ばすアシレーヌは、意外にも大きかった。その両ヒレをトレーナーの両肩に優しく乗せてきて、顔が近づいてくる。その小さな口が、なぜか虚ろに開いており、


「だめだ」


 首など言うに及ばず、腹も内蔵ごとやられるから望みが薄くまず助からない。腕や足を失った場合も、人が思うほどよりか命を拾えない。断面からは間欠泉のごとき血潮が温(ぬく)くほとばしり、激痛よりもそれに目を剥いて驚き正気を失い、大抵はそれきりである。常日頃人間の代わりに体をいじめているポケモンがいるからなおのこと、人間の構造の複雑さと脆弱さがより浮き彫りとなっている。

 もちろん運と傷の程度に左右される話でもあるが、結論から言えば胸も大体同じだ。心臓は無論のこと必殺、仮にそうでなくとも胸中の血が喉と肺へと回って溺れ死ぬ可能性も十分にある。そのときトレーナーの背後から襲ったアシガタナは、背中から胸を貫き、途中の心(しん)を破り、突出した先端はアシレーヌの懐の寸前で静止していた。刀身と胸の傷の境目からは、黒色に近い血の泡がぶくぶくと細かく弾けていた。

 天から降ってきたのか、地から湧いてきたのか、アシレーヌには言い表せない謎の感覚だった。ダイケンキがトレーナーの背後へ近づいてくるのが、アシレーヌの視界にも入っていたはずだ。目の前の人間に集中しすぎたのか、ダイケンキには他者の無意識へ忍び込める業でも持つのか。

 アシガタナが抜かれた。

 すでに事切れたトレーナーの服の中に、断たれた腸や臓物が溢れていく。垂直のタオルが地に落ちるような動作で両膝をつくが、ダイケンキの攻勢は守りを知らなければ容赦も知らず、次の展開へ運んでみせる。更に背中へもう一太刀、重量にものを言わせて大振りの斬撃を叩き込んだ。まるで血袋を正面から叩きつけられたように返り血を浴び、ダイケンキは青い体と白い髭の大半を紅に染めた。同じくトレーナーの足元も、たちまち鮮血が溜まり、粘りのある泥土(ういじ)へ変貌した。

「それは、私の役目だ」

 まるで今まで離魂病にかかっていたような表情だったアシレーヌは、臓物から放たれる、むせかえるほどの異臭でようやく目を覚ました。

「あ。あ、」

 支えていたものの何かが音もなく折れ、アシレーヌもその場でくず折れて震え始める。

「わたし、わたし。わたしは――!」

 ダイケンキはトレーナーの頭を片手でつかみ、案山子のようにぞんざいに投げ捨てる。

「やっぱりあんた、あのときエーテルパラダイスにいたアシレーヌだったんだ」

 もともと近かった距離を更に詰める。

「はっきり訊こう」

 片膝を付き、アシガタナを杖に見立てて砂地へ垂直に刺し、アシレーヌと目線の高さをそろえる。瞳からこころを覗き込もうとする。

「自分の主を食ったね」

 質問ではなかった。

 断定だった。



 ―――



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 ―――



 何日も寝ていた気がする。

 次に目が覚めたとき、わたしはいつもの固い床ではなく、柔らかな診察台の上で横たわっていた。

 そこがエーテルパラダイスの、ポケモン用の治療室だとすぐに気づいた。

 緊急を要するほどだったのは自分でもわかる。海の向こう側のポケモンセンターへ搬送する前の、応急処置なのだろう。そんな扱い慣れない痕跡が、わたしの体のあちこちに残っていた。

 目と首を精一杯使って、部屋の中を見渡す。

 みんな、無事だった。

 よかった。本当によかった。

 勝った。

 負けたけど、勝った。

 あの部屋と変わらない蛍光灯の光を見つめ、わたしは涙を殺した笑顔を力なく浮かべる。

 この瞬間を、ずっと待ちわびていた。

 あの長い監獄生活から解き放たれた。


 捕まったあの日、無事だったポケモンが一匹だけいる。

 ポケモン図鑑のロトムだ。

 まさか向こうとしてもそんなところにポケモンがいただなんて夢にも思わなかったのだろう。相手の目を盗んで図鑑から一足先に飛び出し、すぐ近くにあった機材へと侵入。長い時間をかけて電脳空間を駆け巡り、外隔壁を切り崩し、息を潜めてデータバンクを漁り、あれこれを徹底的に準備してから手引きをし、外部通信可能な回線からご主人の友人と少女へ、応援を要請したのだ。

 その結果が、これなのだろう。

 これで、おこなわれてきた悪逆非道の数々が白日のもとにさらされるはずだ。


 ロトムいわく、わたしの『刑期』は約650時間だったそうで、わたしは27日ぶりに窓の先の青空を見つめる。

 人工の光ではない、太陽の光がこんなにもまぶしいものだったなんて。

 またこれで、みんなと島巡りを続けられる。

 まだ視界には足りないものがあった。

 ご主人は、と訊ねた。

 みんなが思い出したように暗い顔をした。

 誰によってだったかは忘れた。わたしのすくそばの小さなテーブルに、ことり、とあの缶詰が置かれた。

 これに見覚えがあるかと訊ねられた。

 肯定した。

 その瞬間、誰かに突き飛ばされ、わたしはあっさりと転げ落ちた。数瞬遅れて点滴チューブが引っ張られ、点滴台車(ガードル)も同じような顛末をたどった。人間のやることとは思えないほどの、砂時計のようにこころをすり減らした獄中生活である。この期に及んでこれが『痛い』とは思わなかった。

 状況を逐一と追えない中、両ヒレを押さえられ、わたしは仰向けで仲間のルガルガンを見上げた。


「主人も、食ったのか!」


 意味がわからなかった。



 ―――



「マリー!」

 聞き覚えのある甲高い声は、今度は夜空に響いた。

「おや、やっぱり連れ戻しに来たのか」

 先刻よりも更にせわしない羽ばたきを見せ、ハイロゥが声を震わせる。

「お、おまえ、もしかして、まだ――」

 二匹のほぼ上空にいたことが、ハイロゥの命運を決定づけた。ダイケンキは幾ばくかの力を込め、鏢(ひょう)打ちの曲芸師よろしくアシガタナを軽々放り上げる。回転は車輪、斬れ味は丸鋸。夜の虚空を裂き、何もかもが絶望的な速度で、ハイロゥの左翼を下から襲った。

 左の半分以上を失い、血を撥ね散らしながらハイロゥは絶叫し、頼りない軌道で墜落した。直後、ダイケンキの重い左前足がハイロゥの頭を砂地へ押さえつける。空いた右前足を素っ気なく横へ差し出し、そこへ落ちてきたアシガタナを片目もくれずにぱしりと迎えた。

「やれやれ、覗き見とは感心しない。お楽しみはこれからなのに」

 激痛と灼熱に体を絡みとられ、ハイロゥは吠えてもがく。必死の抵抗を試みて砂を蹴るが、ダイケンキの胸元にも届かなかった。

「てめ、え。まさか、あの施設の、」

 がつん。

 アシレーヌにはそう聞こえた。具体的な仕草までは見えなかった。

 ハイロゥの側頭部からダイケンキが離れ、申し訳程度の血振りを経て、納刀。二、三滴がアシレーヌの前ヒレへと飛びついた。心臓を直に絞られているような気がして、喉奥が一気に乾燥した。悲鳴の一つもあがらなかった。尊ぶべき一人の人間の死よりも、仲間だったはずのハイロゥの死よりも、ダイケンキの残虐性よりも、もっと恐ろしいものに、自分は向き合おうとしていた。磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、顔から血の気が引いていく。

「今更隠そうとは思わん。私もおまえと一緒だ。エーテルパラダイスの地下研究所にいた。もっとも、私は捕らえられた側ではなく、最初からエーテル財団側だったが」



 ―――



 この場で噛み殺してやろうかと心火を発散させているルガルガンの尻尾を、ケララッパが噛み付いて一心不乱になだめる。ようやくルガルガンが離れるも、わたしは冷たい床の上で仰向けになったまま、いまだ事の重大さを飲み込めず、そばのロトムに先程の言葉の意味を訊ねた。

 いつも陽気だったロトムの顔が、哀愍と悲壮の間を幾度となく右往左往していた。小さくか細い声で、エーテルパラダイスの実態をわたしに告げてきた。


 海原に浮かぶあの巨大な施設はただのポケモン保護のためのそれではない。

 トップに君臨する代表の目的を成就させるための、凶悪な実験場所。

 なぜ周囲を海とした場所にわざわざあんなデカブツを作ったのか。

 当然公にはされていないが、あそこの最下層モジュールには特殊な犯罪者や裏社会の要人を収容する区画がある。

 その者たちを脱獄させないため。

 エーテル財団の職員たちも、代表を含め、ごく一部のものたちしか知らない。エレベーターにて特定のパスコードとカードキーを操作した者のみが、更なる地下へエレベーターを降ろすことができる。

 人間を使った実験は様々だった。臨床、心理、身体、疫病など。その中の一つに、『加工』があった。

 人間を屠殺し、不要な部分を切り落とし、食肉へと調理。同じく地下に建造された工場ラインで最終段階にまで加工し、缶詰にまで押し込める。

 それを上層のポケモンの食糧へ回す。

 その過程のデータを見つけ、処分される人間たちのリストを恐る恐る精査した。その中でただ一人、子供の、カントー地方出身の、

 トレ


 こころと体がばらばらになりそうだった。

 そのあたりでわたしは半狂乱となって、頭を抱えてうつ伏せて声にならない声を叫び続けた。狂気に身を任せておけばその分現実から遠ざかれるとすら思った。鎮静剤を打とうとみんながわたしに殺到して押さえつけたが、憎しみを込めての力だと感じてやまなかった。

 こうなってしまえば、もう道はあまり残されていない。

 清潔感のある白い部屋という点では同じ、第二の独房に変わっただけだ。

 だからわたしは治療半ばの体にむち打ち、黙ってみんなのもとから抜け出した。自分の犯した罪から逃げたかったのが本音だ。そのまま渦潮に巻き込まれて死んでしまえば、まだそれほど深くない場所の地獄へ堕ちるに済んだかもしれないのに、がむしゃらに海原を泳いで無駄に生き続けようとした。

 一番手であるわたしの次に、ご主人の仲間に加わったからだろう。経過観察、勘当、私刑。みんなの口から沸き起こる様々な意見に真っ向から対立して、ケララッパ――ハイロゥは、最後の最後まで、わたしをかばってくれた。



 ―――



 あの施設はポケモンを保護し、また製造し、そして実験する場所だ。

 片側にしか寄ることの出来ない、不器用な人の心理を絶妙に突いていると私は思う。次いでポケモンの荒々しい研究を踏まえている実情だけならまだしも、よもや人間をも利用している、とは思うまい。感心もすれば、呆れもした。

 それもこれもすべて、あらゆるデータを集め、代表の理想とするポケモンを造り、この世ならざる者へ対抗するためだ。職員が家畜を定期的に仕入れ、そして私が殺して肉と臓器へ解体した。不要な部分はきのみに使う農薬を使って溶かした。そしてベトベトンが食った。自らの手は汚したくなかったのだろう。実験やデータ収集は我先にと鼻息荒くしていた誰も彼も、畜殺だけは私に丸投げした。

 非道い話だと思うか。おまえがずっと人間と一緒に過ごして、人間の良いところばかりを味わってきたのなら、仕方のない話だ。

 しかし、豪胆ながらもこの流れを設けたエーテル財団は、裏の人間界では悪くない位置にいたらしい。臓器ブローカーからすれば、美味い部分を捨てているもったいないやり口かもしれない。けど、つくづく世界は広いと思った。酔狂な個人スポンサーも意外なほどいたそうだ。表立って始末できない裏の人間どもを密かに処分できる絶好の場として、斯界ではそれなりに名が広まっていたらしい。

 そこから先はあんたの知っている通りだ。人肉を加工して缶詰にし、保護区にいるポケモンたちの食糧とする。生肉でないのは、仕入れる量が不安定だし、長期保存のためだろう。

 トップはポケモンならざるものを掌中に収めようと、あらゆる手段を使っている。どのようなポケモンなら、ポケモンならざるものに対抗しうるのか。ただ保護して育てるだけではまるで歯が立たない。より猟奇的に、本能的に、相手を食って生きるために、ひたすらに戦うことだけを追い求め続けるポケモン。ポケモンを食い、そして人間も食っていた時代にまで本能を逆行させ、本来の力を遺伝子の底から引っ張り上げる。

 すでに実験データはいくつか取られていて、実績に沿えば、かなりの有力説として確立されつつあった。あんたが主人の最初のポケモンであり、一番近しい存在だったと執行の事前に聞いていた。だからこそだろう。その絆を翻らせることでより強力なデータの採取ができる実験体とされていた。あと三日もすれば、向こうからあんたへ真実を告げていたはずだ。

 今日日、ポケモンは人間に近づきすぎた。与えられたものだけを食べて生きている輩が増えてしまった。そういう点ではアローラ地方のポケモンたちはまだいい。他の地方よりもずっと野性的で、補食活動の文献も多く記録されている。代表がまだ正気だったころにこんなところへ施設を築いてしまったのも、何かの運命だったか。

 あんたは、刻まれていたジーンを引き出し、ミームを殺すための、一旦を担わされたんだ。


 なぜ私がこんなことをさせられていたか。

 簡単な話だ。私はあの施設の保護区で生まれ育ったからだ。そこに私がいたからだ。得物を持っている故に、他のポケモンたちより都合がよかっただけにすぎない。それ以外には、何も、ない。脅迫観念だとか恩義だとか、そんなもの全部あとからくっついてきた言い訳だろう。

 それに――

 生かしているだけ無駄だと思うと、斬ることに別段ためらいはなかった。


 だが、あの日だけは違った。子供が一人、連れてこられた。

 ずっと泣いていたんだろう。目を真っ赤に腫らしていた。抵抗する元気も使い果たしたのか、相当に弱っていた。私よりもずっと小さくて細かった。

 こいつは違うと思った。今まで斬ってきた家畜とは立場が違う。

 今までは、こんな地獄の深淵にまで運び出されるだけあって――

 。

 失礼。

 そうだな。独特で謎の凄みがあった。人間は私たちのようなポケモンと違って、ずっと柔軟で不可解な思想回路を持つようだ。おまえは神を命の底から信じるかと問いかけてくる奴もいれば、処刑寸前まで数式を延々と唱え続けている奴もいた。今わの際で生殖本能が働いたからか、メスという理由からか、私に向けて魔羅(まら)を熱り立たせて唾液を垂らす阿呆までいたな。何らかの間違いで連れてこられたという可能性も否めないが、あの土壇場で終始命乞いをする輩なんて、ほんの数えるほどしかいなかった。

 もちろん全員、何の感情も挟まず、分け隔てなく斬った。生皮をはいで、臓器を抜き、必要な部分の肉を切り出した。

 でも、

 でも。

 この子供だけは、そんな奴らよりもずっと単純だ。

 エーテル財団にとっての邪魔者として、私に殺処分されるんだ。

 その時、私のそばにいた研究員の言葉、まだ憶えている。マスク越しの口臭まで想像できそうなほどだ。


 ――危険因子は早めに始末しておく。ほら見ろよ、こいつの手持ちのデータだ。アシレーヌが一番の相方らしい。相当経験値が溜まっているはずだ。結構な戦闘データが取れるだろうから、こいつに食わせるのもオツなもんだろう。被験体の主従愛がどこまで歪むのかを見るのも一興だ。いつもの部屋で待機させておく。


 反対できる立場ではなかったし、する気も起こらなかった。

 与えられた職務をこなすだけだった。


 今まで斬り殺してきた大人ではなく、子供だから肉付きが違うっていうのもあるだろう。脂肪や、間接の柔らかさで衝撃が分散されるからかもしれない。そのときそいつに抱いていた感情もあるだろう。私は、あの時の、おまえの主人を斬った感触だけは、今でも忘れられない。

 そこで私は、思い知らされた。

 今まで殺してきた『あれら』も、殺すよう私に指示してきた『あれら』も、人間の皮をかぶった別の何かだったんだ。ある意味、私たち以上の化物だ。

 私はあのときになって初めて、『人間』を斬ったんだ。


 もう、語れることもあまりない。

 あんな小さな子供に、この場所がどんなところか知られるくらいだ。長くは持たないだろうと思っていた。

 すると案の定だった。あんたのお仲間と主人のお連れが一気に乗り込んできた。そこから先は一網打尽。その混乱に乗じて、脱出した。別に一緒に捕まって裁かれても構わなかったのだが、大きな思い残しがあったから。斬れるし泳げるダイケンキでよかったとつくづく思った。


 名前か。

 ああ。

 施設の上階でのうのうと過ごしてきたポケモンたちとは立場が違ったからな、便宜上の呼び名なら一応つけられていた。私もあんたと一緒で、あの施設に置いてきた。

 シュダン。

 それが、私の名前だ。


 私とあんたは、この浜辺で出会ったのではない。

 それよりもずっと前、同じ施設の、同じ階層の同じ空間、真逆の状況下で、邂逅を果たしていたんだ。



 ―――



 あの日の続きのすべてを聞き終えたアシレーヌは、なんとも言えない目つきでダイケンキを見つめ返していた。己の過去を悲しいと思うことは幾度とあれど、怒りを覚えることはなかったはずだ。しかしこの状況下なら、その感情もお門違いと言えるだろう。

「わたしを助けて、どうするつもりだったのですか」

 珍しくシュダンがアシレーヌの眼力に気圧され、己の黒い爪に染み付いていた血をひと嘗めした。

「別にどうするつもりもなかった。ひょっとしたらというつもりで様子見していただけだ。正体を確信したのも今しがただし、あんたの主人をばらしたのは紛れもなく私だ。何の言われもない人間を斬ったというところでは、私もあんたと変わらない、大罪を犯したんだ」

「ならば、わたしの正体を知った今、その気持ちは本物の同情に変わりましたか。自分だけでも罪滅ぼしをしてわたしよりもいい気になろうと、こころのどこかでは思っていたのではないのですか」

「それも違う」

「ではなぜ」

 そこで初めて、シュダンが頬を裂いて笑った。

「あんたが一番よく知っているんじゃないか?」

 シュダンがふいと月を眺め、視線を誘導されたアシレーヌもつられて見てしまう。

「あれから一ヶ月か。お互いよく耐えたものだよ」

 今しがた投げ捨てたトレーナーへ平然と足を運ぶ。もはや穴開きの肉塊と化した『それ』に対し、とどめのとどめを見舞おうと再び左からアシガタナを抜いた。一切のためらいを捨てた斬り下ろし、切っ先は鋭い振り子の軌道をもってその喉へ迫り、音を伏せてかっさばいた。わずか下にあった泥砂を一掴みとすくい上げることなく滑空し、血しぶきだけが砂地を更に右一直線へ伸びた。右一文字の残心。胴と頭を異のものとされた『それ』は、静かな衝撃を受け、最後に一度だけ小さく跳ねた。アシガタナの先端からぬらぬらと滴り落ちる命の液体に、アシレーヌは音を立てて生唾を飲む。

 右へ開く腕越しに、シュダンが振り向く。粘りのある熱を帯びたような口調で、ゆっくりと指摘する。

「あんた、理性では否定しているが、本当は人を食いたくて仕方がないんだろう。それと一緒だ。私も人を斬りたくて仕方がないんだ。それも、悪人じゃない、ただの人間を。背徳感も後遺症も超えて、中毒になってしまった」

 いきなりたくましい片腕に抱き寄せられた。アシレーヌは無抵抗に上半身をシュダンの胸に預けてしまい、仰向けに抱擁される。つい胸が高鳴ってしまいそうなほど、シュダンの顔が近い距離にある。それなのにシュダンときたら、やはり憎らしいくらい落ち着いており、鼻から漏れているかすかな息遣いがどこかあだっぽくて扇情的だ。鈍く光る瞳孔には収まり切らぬ戦意がいまだ小さく乱舞していて、初めて獲物を手に掛ける子供のような獰猛さが見え隠れしていた。アシガタナを逆手に持っており、その延長線上にはアシレーヌの顔がある。まだ乾ききっていない血が、アシレーヌの口元を点々と斑に染めていく。

「食うのは趣味じゃない。味を知って暴走してしまわないためにも、絶対に食わないよう訓練されてきた。ただ人を斬れたらそれでいい。そこから先はあんたの好きにすればいい。食いきれなかった残骸を更にバラして沖へ流す処分など、そういう手伝いくらいならばしてやれる。私もあんたと同様、ずっと悩んで考えていた。どうすれば忘れられるかと。そして今、たどり着いた。過去と同等、あるいはそれ以上のことをし続けて、罪の意識を薄めてしまえばいい」

 柄を握る逆手が少し強まり、切っ先がアシレーヌの喉元へ、そっとあてがわれる。

「さあどうする。人食いマリー」

 拒否すれば即座に始末される。ここで袂を分かてば、同じ獲物を求める間柄となってしまうのだから。シュダンのことだ。このまま命を奪うことも、もうひとつの命でもある声帯のみを器用に斬り殺すことも容易いことだろう。そもそもシュダンに助けられた身である。そして、自分のことを本当にわかってくれている相手でもある。打ち明ける前からお互い『こちら側』だった。全部を強気な理性でごまかし、どっちつかずのままで生きることなど許されないところまで、とっくに墜ちてしまっていたのだ。かつての仲間たちのような『処置』ではなく、『容認』という形で取り入ろうとしてくる。だからこんな似合わない脅迫なんかで、こちらから返事を待ち、過去に見切りをつけ、自覚させようとしている。

 月光に顔と兜の半分だけを炙り照らされ、こちらを見つめてくるシュダンは、どんな悪鬼よりも素敵に思えた。言葉の一つ一つが、どんな誘惑よりも芳しく響いた。

 そしてマリーはとうとう、あえて断るだけの理由を見つけられなかった。

「先に申しあげた通り、それは捨てた名前です。が、あなたがそう呼びたいのなら構いません。あの缶詰を口にした瞬間から、わたしの運命は決まっていました。一ヶ月間、ずっとこの場を離れずに歌い続けて噂を流したことが、そして今宵、あなたに黙って、こうして独りで人間を誘い出そうとしたのが紛れもない証拠です」

 そこでヒレをさしだし、シュダンの頬のひとつでもさすってやれば、いくらかの光景にはなったかもしれない。

 ところがマリーはたおやかな挙動でアシガタナをそっと払い、シュダンの体温から離れ、自分なりの返答を示そうと画策する。

 シュダンの作品へと近づき、鼻を高く向けたままじっと見下ろす。脱獄以来初めての晩餐に思わず気分が高ぶり、人間には到底作れそうにない表情を面(おもて)に浮かばせた。これを喰う。その瞬間、マリーはそう考えるだけの物体となった。やがて首を叩き下ろし、欲に命じられるまま喰らいついた。血の臭いはもはや自分から発せられているような気がしたし、口いっぱいに肉叢(ししむら)を詰め込み、歯肉を剥き出しに汚らしく咀嚼する自分が、歌姫と称されるにふさわしいポケモンだとは今更思わない。粘っこい人間の血をずるずると啜り立てる自分が歌姫のしかるべき有様だとは一切と考えない。なんという皮肉か、自分の舌はあの缶詰の味に馴染みすぎてしまった。それに比べてこの肉ときたら固く、臭く、生暖かく、これといった味もろくに感じられない。取り柄なのは、魚と違って小骨がないということくらいだ。それでもマリーは止まらない。はしたなく食い散らかし、胃の中はたちまちに血と唾液と肉塊が詰め込まれていき、まだまだ満腹感は訪れない。人間とポケモンが原初の時代から知っている、血と糞の臭い。それらとともに、人間の肉を喰らったという原始的な事実で、こころと体を満足させ、劣情をかき消すしか他の道はない。

 シュダンは、黙って待っていてくれた。

 程なく、先程よりも口周りを真紅に染めたマリーは蒼碧の髪を翻し、黄金色に輝く月よりも明るい笑顔を見せた。

「まさに、毒食らわばなんとやら、ですね」

 次はマリーから近づき、今度こそ赤いヒレをシュダンの頬へと添えた。無機的なシュダンの面構えに対し、マリーは恍惚とした表情で、吐息がかかる距離にまで鼻と鼻を近づけ合う。潮の匂いと血臭の漂う中、月を仲立ちとして、両者は密約を交わす。

「これからも一緒に、夜釣りをしましょう、人斬りシュダン」