「始まらない物語 #RELOAD」

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「……あゆのやつ、きっと怒ってるだろうな」

よりにもよってこんな日に遅刻するなんて、まったくどうかしていた。

家の事情があったとか、出てこれるようになるまで時間がかかったなんて、こっちの理由に過ぎない。つまらない、ちっぽけな理由に過ぎない。

「……遅刻ってことに……なるよな。やっぱり」

走って間に合うような距離じゃないことは分かっている。走って間に合うような時間じゃないことは、分かりきっている。

それでも、走らないことには落ち着かない。心も体も、落ち着かない。

「……走るっきゃない」

全速力で、街を駆け抜けた。

 

『それなら、明日の朝は、学校で待ってるよ』

 

昨日交わした、あの約束。

俺はふとしたことから、あのあゆという少女と知り合い。

ちょっとしたことから、毎日あのベンチで会うようになり。

気が付くと……それが俺にとってかけがえのない、大切な時間になっていた。

大切な思い出。

この街で過ごした時間は……どれだけ輝いていても、所詮、思い出に過ぎない。ずっとここにいることができないことは、とうの昔から分かっていたから。

だから、できるだけたくさんの思い出を、両手いっぱいに持てるだけの思い出を、持って帰りたかった。

いつまでも輝くような、そんな思い出を作りたかった。

あゆの笑顔。

少しでも……長い時間を……

 

木々の織り成す細い道を抜けると、そこは、雪化粧、というには些か厚化粧なほど雪を携えた木が、森を形作っている場所。

……俺とあゆの「学校」だ。

「これも渡さなきゃな」

手の中に、小さな包みがしっかりと収まっていることを確認する。

それは、今日の日のために用意した、あゆへのプレゼント。

かけがえのない時間をくれたことへの……ほんのお礼のつもりだ。

「気に入ってくれるかな……」

期待と不安で、胸が一杯になる。それでも期待と不安は押し寄せてきて、胸を打ち破りそうになる。

半ば心ここに在らずの状態のまま、雪の感触を靴底に感じながら、一歩一歩、歩を進めていく。

その時の俺は、ずっと信じていた。

裏切られることなど、無いと思っていた。

 

……あゆの笑顔を、ずっと見ていられると思っていた……

 

「祐一君っ、遅刻だよっ」

あゆの声は、枝の上から聞こえてきた。

森の開けた場所に堂々と立っている、一本の大きな大きな木。

その木の枝の上に、あゆの姿が見えた。

いつものように、ちょこんと腰掛けて、遠くの街を見つめていた。

「悪い。遅れた……」

俺は、それに手を振って応えようとした。

だけど……

その時……

 

その時 風が吹いた

木々を揺らす 強い風だった

ただ それだけだった

 

「祐一く……」

その瞬間、すべての時間が凍りついたような気がした。

耳鳴りのするような静寂が、全身を覆った気がした。

一片の雪のように、それはゆっくりと落ちていった。

コマ送りのビデオのように、あゆの体が空を舞っていた。

まるで、地面に向かって降り注ぐ、一粒の雪のように……

 

その、瞬間。

 

「……あゆ!!」

 

何かが弾けた。

俺の体の中で、確実に何かがはじけた。

自分でも、何をしようとしているのか分からない。

気が付くと、ついさっきまで遠目で見ていたあの木が、もう眼前にまで迫ってきていた。

何もかもから解き放たれた気がした。

己を縛るすべての鎖を、一撃の元に打ち砕いた気がした。

誰も、自分のことを止めることはできないような気がした。

ただ足だけが、雪を溶かすほどの熱を帯びていることだけは分かった。

それだけしか、分からなかった。

 

……そして、雪が地面に辿り着く……

 

(ごとっ……)

 

重い石を落としたような音が、滅茶苦茶に響き渡った。

 

「ぐあは!」

「うぐぅっ!」

「……………………」

「……………………」

……………………

……………………

……………………

 

「うぐぅ〜……鼻が痛いよ〜……あれ? 痛いのは鼻だけ? あれ? あれ? どうして?」

「……………………」

「どうして? ボク、あんなに高いところから落ちたのに……どうして? どうして?」

「……………………」

「も、もしかしてボク……幽霊さんになっちゃったのかも……!」

「……………………」

「う、うぐぅ……ちょっと、つねってみようっと……」

「……………………」

「あ、いたたたた! うぐぅ〜……頬をつねるとしっかり痛いよ〜」

「……………………」

「……でも、こんなに痛いってことは、ボク、ちゃんと生きてるって事だよね? どうしてだろう?」

「……………………」

……………………

「そう言えば、雪の上なのにどうしてこんなにあったかいんだろう……って、祐一君?!」

「……あ、あゆか……?」

あゆが無事なことを、かろうじて残った意識で確認する。

「ゆ、祐一君っ!? ど、どうしたの?!」

「……み、見ての通りだ……とりあえ……ず……お前は……無事……みたい……だな……」

途切れ途切れの言葉で、あゆに言葉をかける。きっと、もう長くはないだろう。

「祐一君っ?! ま、まさか、ボクの下敷きに?!」

「……なんか……多分……そんな気が……しないでも……ない……な……」

ああ……そうか。

間に合ったんだ。

まさかな……

絶対に間に合わないと思ったんだけどな……

……奇跡が起きたのかもな……

「う、うぐぅ……祐一君、ボクのために……!」

「……お前が無事なら……そ……それでいい……」

ああ、だんだん意識が遠くなっていく。

あゆの声が……遠くになって行く。

「祐一君っ?! ねえ、祐一君、どうしたの?!」

「悪い……ちょっと、救急車呼んでくれないか……体がどこも動かん……」

……このままだとリアルにやばい気がしたので、元気そうなあゆに救急車を要請してみる。

「分かったよっ! 祐一君っ、死んじゃダメだよっ! ボクが病院まで連れてってあげるからねっ!」

「いや……待て……頼むから……救急車を……」

……いや、俺は救急車を頼んでるんであって、あゆ、お前に運んでもらうことは想定……

「祐一君っ! 今度はボクが祐一君を助けてあげるからねっ! 病院まで全力ダッシュだよっ!」

「ちょ、こら、足つかむな、関節外れる、痛たっ、頭、頭当たってる、がぼっ、雪、雪雪、痛っ、腕、腕がちぎれる、ちょ、おま」

「あゆあゆダーッシュ!」

「ぎゃああああああああ」

 

……その後病院で診察を受けたところ、全身に六十五箇所の複雑骨折。二ヶ月の絶対安静を言い渡された。

「祐一君っ、良かったねっ。命に別状はないみたいだよっ」

「……とてもそうは思えないんだが……」

ちなみに。

 

その内二十一箇所は打撲骨折で、恐らく病院への搬送中にできたものだと医者から言われた。

 

――Case.2 - 水瀬名雪の場合 #RELOADに続く。

Case.2 - 水瀬名雪の場合 #RELOAD

「祐一っ」

「……名雪か……」

「祐一君、大丈夫ですか?」

「秋子さん……」

「祐一君っ、お見舞いに来たよっ」

「……で、あゆね……」

全身六十五箇所の複雑骨折(その内三割五分があゆの輸送方法に原因あり)で入院していた俺を、名雪と秋子さんとあゆがお見舞いに来てくれた。

「急に病院に担ぎ込まれたって聞いたから、びっくりしちゃったよ」

「昨日はごめんなさいね。あまりにも驚いてしまって、病院に来ることができずに……」

「うぐぅ……祐一君、大丈夫?」

三人の心配そうな顔が見えるが、俺は全身を包帯でぐるぐる巻にされているのでロクに反応も返せない。

「でも祐一、高いところは苦手だって言ってたよね?」

「……え?」

「祐一君、木登りをするのはいいですけど、あまり高いところまで上っちゃいけませんよ」

「……あれ?」

「祐一、もしあゆちゃんがいなかったら、あのまま死んじゃってたかも知れないんだよ?」

「……いや、ちょっと待て」

何かおかしな形で話が伝わっているような気がする。というか、あからさまにすべてが間違っているような気がする。

「ち、違うんだよなゆちゃんっ。ボ、ボクが木の上に昇ってて、それで祐一君が下敷きになって……」

「あゆちゃん、気にしなくても大丈夫だよ。わたしとお母さんはね、祐一に怒ってるんじゃなくて、もうそんなことしちゃダメだよって言ってるだけだからね」

「そうよあゆちゃん。あゆちゃんがいなかったら、祐一君は今頃大変なことになっていたかも知れないのよ。あゆちゃんには、いくら感謝しても足りないぐらいよ」

「そうだよ。あゆちゃんのおかげで、祐一が助かったんだもん。あゆちゃん、本当にありがとうだよっ」

「う、うぐぅ……」

……何となく、構図が見えた気がした。

そしてそこはかとなく、涙を流したくなった。

というか、全然報われてないような気がした。俺。

「ほ、本当だよっ。ボクが木の上にいて、それで……」

「……あゆちゃん……」

「……あゆちゃん……」

「えっ? えっえっ?」

「あゆちゃん、そんなに祐一のことを心配してるんだね……」

「祐一君に何か罰があると思って、そんなに……」

「えっと……どうして二人とも、ボクのことをそんなに悲しげな目で見てるの……?」

「……お母さん、祐一のこと、もう悪く言っちゃダメだからね」

「分かっていますよ。そうしなきゃ、あゆちゃんがかわいそうですものね」

「うん。わたし、ちょっと感動して泣いちゃいそうだよ……」

「……………………」

ああ、なんと言うか。

何もかもが虚しい。

「あ、それでね祐一。お見舞いにね、ちょっと作ってきたんだよ」

「何をだ?」

「ほらっ」

そう言って、名雪が取り出したのは……

「……ほら。雪うさぎ。祐一のために、作ってきたんだよ」

「……………………」

「受け取って……くれるかな?」

小さな、雪うさぎだった。

「どうかな……?」

「……いや、どうかなって言われても、この通り、指一本動かせないし……」

「受け取ってくれる?」

名雪は雪うさぎを近づけてくるが、指一本動かせないので受け取りようがない。

「……とりあえず、溶けない場所に置いといてくれないか?」

「受け取ってくれるの?」

「……ああ。受け取るから、溶けない場所に置いてくれ。後でちゃんと手に取ってみるから」

「本当?」

「嘘は言わないぞ」

「前に一回嘘付いたもん」

「じゃあ受け取らない」

「わ、どうして」

「それが嘘だから」

「……回りくどいよ」

「お前が言うからだぞ」

「……でも、ありがとう。溶けない場所に、置いておくね」

名雪はそう言って、雪うさぎを冷蔵庫の中に入れた。とりあえず、室内よりは冷たいだろう。

「形が崩れたら、また、新しいのを作るからね」

「ああ」

「そのたびに、受け取ってくれるよね」

「もちろんだ」

「……うれしいよ」

小さく笑って、名雪が冷蔵庫のドアを閉めた。

 

冬はまだ、終わりの兆を見せない。

「なゆちゃん、今度はボクも作っていいかな?」

「うんっ。一緒に作ろうよっ」

けれども、今年の冬は。

「たくさん作ろうね」

「うんっ」

いつもの冬とは、少し違って。

暖かい冬に、なりそうだった。

 

――Fin.――

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586