SS「鎖」

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「……………………」

私以外、誰もいない診察室。乱されることのない沈黙が、部屋を縛っている。

光の溢れる窓に目を向ける。一瞬目を覆うばかりに眩しくなったかと思うと、それはすぐに、ごくありふれた外の風景を映し出した。

「……………………」

こうして一人になったとき、胸に去来するのはいつも、あの日の出来事。

それは他人に説明するには、あまりにも複雑で、繊細すぎる。

だからこうして、自分の胸の中でだけ、その出来事を思い出す。

一人で抱えて、一人で紐解く。

理解できる人などいないことは、初めから分かっていたから。

「……………………」

あの日起きたことは、もしかすると、夢の中の出来事だったのかも知れない。

二人揃って、泣き出したくなるような怖い夢を見たのかもしれない。

もし、そうなのだとしたら。

 

あの子を縛っている鎖を、一秒でも早く解いてやりたい。

ありもしないまじないを信じているあの子を、一瞬でも早く救ってやりたい。

嘘を、嘘だと打ち明けたい。

 

「……………………」

何度も考えた。何度も何度も、考えてみた。

これで私が楽になれるのなら、佳乃と元の関係に戻れるのなら、躊躇うことが躊躇われるほどだ。

けれど。

 

佳乃を縛ったのは、私ではないのか?

私が私の安心のために、佳乃を嘘で縛ったのではないか?

今更、どう顔向けができる?

 

いつも考えるばかりで、実行には移せない。

佳乃は、私のことをどれほど理解しているのだろうか。

分からない。どうしても、分からない。

いつも一緒にいるはずなのに、誰よりも長い時間、一緒にいるはずなのに。

何一つ、分からない。

 

佳乃は何も知らないのか?

本当に、あのまじないを信じているのか?

それとも……そうではなくて……

 

佳乃は……何もかも知っていて……

 

背筋に、気味の悪い寒気が走った。

考えたくも無いことを自分で考えて、胸が掻き回されるような気分だった。

落ち着いて考えることなど、できない相談だった。

乱れてしまった呼吸を落ち着けると、私は椅子にもう一度座りなおした。

 

こんな時、仮病でもいいから患者が来てくれれば、そこに神経を集中できるのだが。

生憎、この街は健康な人しか住んでいないらしい。

……父や母なら、純粋に喜べただろう。医者が暇なのは、病や怪我で苦しむ人が居ないからだ。

だが、今の私には、それを素直に喜ぶことができない。

気が紛れる瞬間が無ければ、いつまでもこうして終わりのない自問自答を、独り繰り返しているだろう。

それが、怖かった。

 

「……………………」

胸に手を当ててみる。

固い感触が、手と体に伝わる。

(きらり)

それは、一本のメス。

私が普段から持ち歩いている、一本の鋭いメス。

 

……その刃には、今も微かに、しかし確かに、赤い筋が残っている。

 

 

「……?」

物音で目が覚めた。時計の針は、まだ三時を指したばかりだった。

「……佳乃……?」

物音は、隣から聞こえた気がする。隣には、佳乃が眠っているはずだった。

暗闇の中、手探りでその姿を探す。

「……………………」

触れた布団には、微かなぬくもりがあった。つい今しがたまで、誰かがそこで眠っていたことを感じさせる、そんな暖かさ。

しかし、それは、つまり。

「……佳乃……?!」

そこに居るはずの本人が、どこかへ行ってしまったことを示していた。

「……………………!」

布団を蹴って立ち上がる。頭の中に、ありとあらゆる最悪の状況がよぎる。

最悪の状況しか、考えられなかった。

 

「佳乃っ!」

佳乃はすぐに見つかった。まだ遠くへは行っていないと思ったから、中を探したのが功を奏した。その姿を、すぐに見つけることが出来た。

だが。

その目に飛び込んできた佳乃は。

 

「……佳乃……?!」

 

佳乃のカタチをした、何か別の存在だった。

 

虚ろという言葉では表現できないほどの空虚さを持った瞳。

それは遠く、遠く、はるか遠くを見つめている。

何かを見つめているようで、その実、それには何も映し出されていない。

ただ空虚で、そこにあるがまま。

 

「……えば……しのかず……」

 

うわごとのように呟く声。か細いけれど、それはしっかりと、私の耳にも届いた。

何かの唄の一節にも聞こえなくはない。もちろん、聞き覚えなどはない。

口にしているのは佳乃だが、どう聞いても、佳乃の声ではない。

ただ、佳乃のカタチをした何かが、意味の分からない言葉を呟いている。

 

「……やまでは……きのかず……」

 

異様な光景だった。見たこともない、考えたこともない、異様な光景だった。

佳乃ではない、佳乃のカタチをした何かが、私の目の前にいる。

その瞳は、私を視界に捉えている。射抜くかのような視線。体が凍りついたように動かない。

けれど、私を見た佳乃が、わずかでも表情を変えることは無かった。

 

「……かやの……」

 

何かを哀れむような、何かを悲しむような。例えようもない、空虚な瞳。

身じろぎ一つせず、否、身じろぎ一つできず、それを見つめる。

目の前にいる佳乃のカタチをした何かの瞳以外のことには、意識が向かなかった。

だから

 

「……ならば……」

 

その時

 

「いっそ……」

 

佳乃が

 

「……………………」

 

冷たく光る刃を手にして

 

「わたくしの……」

 

それを

 

「手で……」

 

己の手首に押し当てている

 

「佳乃!!」

そのことに気付くのが、僅かに遅れた。

「何をしている!」

凍り付いていたはずの体を無理矢理動かして、私は佳乃に飛び掛った。

(からららーん)

金属特有の鋭い音を響かせて、メスが床に落ちた。

床には、赤い飛沫が二、三滴、くっきりと零れ落ちていた。

「どうしたんだ?! どうしてこんなことをしたんだ?!」

「……………………」

問いかけにも、佳乃は虚ろな表情を崩さなかった。

ただ、その瞳には。

 

「待っ……て……」

「佳乃……?」

「行……かな……いで……」

「……………………」

「お……か……あ……」

 

うっすらと、光るものが滲んでいた。

 

佳乃は泣いていた。空虚な瞳に涙を滲ませて、泣いていた。

泣いていたのは、佳乃だったのか。

それとも、佳乃のカタチをした何かだったのか。

……どちらもが、一緒に泣いていたのか。

心を通わせて、共に泣いていたのか。

理解の範疇を超えた、そんな涙だった。

 

(傷は……?!)

ふと我に返り、佳乃の手を取って手首を調べてみる。

(……無い……?! 血が……血が滲んでいるのに……?!)

佳乃の手首には、確かに血が滲んでいる。けれど、いくら調べてみても、手首に傷は無かった。

メスにも、床にも、手首にも、まだ暖かい血が滲んでいる。

けれど、佳乃には傷一つ付いていなかった。出血しているのに、傷は見つからなかった。

(……何故……?)

考えて分かることなら、こんなに悩むことは無い。

いくら考えても分からないから、悩まざるを得ないのだ。

 

「……………………」

「……佳乃……」

気が付くと、佳乃の瞳はもう閉じられていた。

規則正しい寝息を立てて、静かに眠りについていた。

「……………………」

佳乃を起こさぬように静かに抱き上げると、診察室を後にした。

「……………………」

佳乃を布団に寝かしつけてから、もう一度、診察室へ戻った。

(……同じことを繰り返さないように……)

床に落ちていたメスを拾い上げ、そっと、ポケットの中へしまった。床にこぼれていた血も、丹念にふき取った。

ポケットの中のメスを握り締めるたび、佳乃のカタチをした佳乃ではない何かの姿が脳裏をよぎった。

 

 

「……………………」

その次の日、私は佳乃の手首にバンダナを巻いた。

バンダナを見れば、手首を切るようなことになっても、そこに行きつく前に気が付いてくれる。

私は幼心に、そう信じていた。

あのバンダナさえあれば、佳乃が佳乃のカタチをした何かに変わってしまうことは無い。

佳乃は、いつまでも佳乃のままで居てくれる。

そういうものだと、信じていた。

 

……けれど。

あのバンダナは、確かに、佳乃を佳乃のまま居させてくれるかも知れない。佳乃が、佳乃のカタチをした何かへ変わってしまうこともなくなるかも知れない。

しかし。

佳乃があのバンダナを外した時、約束どおり、大人になってあのバンダナを外した時。

佳乃は、どうなってしまうというのか。

佳乃は、佳乃のままで居てくれるのか。

佳乃は、ありのままで居てくれるのか。

もし。

バンダナを外した佳乃が、瞬く間に佳乃のカタチをした何かに変わってしまったら。

それが、今度こそ、自分の思いを遂げてしまったら。

私は、それを受け入れられるのか。

 

受け入れられるはずが無い。

あの時も、手首にバンダナを縛り付けて、佳乃に「佳乃」であることを強制したのだ。

バンダナを外すことで、佳乃が佳乃のカタチをした何かに変わってしまうのだとしたら、私はそれを受け入れられない。

 

だからバンダナを使って、佳乃を「佳乃」に縛り付けておかなければいけない。

佳乃を「佳乃」に縛り付けておくために、あのバンダナはある。

佳乃をこの世に縛り付けておくために、あのバンダナはある。

 

あのバンダナは、佳乃を縛り付ける、私のための鎖なのだ。

 

「……………………」

ずいぶん長い間考え事をしていたような気がする。

その間一度も邪魔されなかったところを見るに、どうやらけが人や病人は発生していないようだ。

「……………………」

何気なく時計を見ると、その針はもう、

 

「たっだいま〜!」

 

佳乃が帰ってくるいつもの時間を指し示していた。

「お帰り、佳乃。外は暑かったか?」

「うん。すっごく暑かったよぉ」

佳乃はぱたぱたと駆けて、診察室まで走ってくる。

手首には、黄色いバンダナが揺れている。

「暑かっただろう。ひえひえ麦茶か?」

「うん。ひえひえ麦茶一つください、だよぉ」

屈託無く笑うその姿を見ていると、まるで問題など何も無いように感じる。ただ、このままずっと同じような時が流れればいいと思ってしまう。

(……………………)

……この偽りの安心を得るために、私は佳乃を縛り付けている。

 

佳乃は分かっているのだろうか?

それとも、何も分かっていないのだろうか?

何もかも理解して、そしてこうして振舞っているのだろうか?

何も理解していなくて、自然にそう振舞っているのだろうか?

 

私がまた疑問に埋もれそうになったとき、佳乃の声が耳に飛び込んできた。

「それでねぇ、今日ちょっと気になる人に会ったんだよぉ」

「ほう。どんな人だ?」

「えっとねぇ」

 

「真っ白な髪でねぇ、カラスさんみたいな真っ黒い服を着た、ちょっと目つきの鋭い男の人だったよぉ」

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586