SS「夏の始まり」

586

「ぴこぴこっ」

暑い夏の日。ぼくは日陰を選んで、商店街を一人で散歩していた。照り付ける夏の太陽が、アスファルトを熱して陽炎を作り出している。見ているだけで、とっても暑そう。

「ぴこっ」

商店街を歩く人は少ない。時々お店の人がお水をまいてたり、小さな男の子や女の子が走ってたりするぐらい。商店街をとことこ歩いているのは、ぼくぐらいのものだ。こんなに暑いから、外に出ないで中でじっとしてるのも良く分かる。ぼくは外にいるほうが好きだから、こんな風にして外を歩いてるんだけどね。

「ぴっこぴこ」

商店街はずーっと日陰が続いてるから、歩こうと思えば海まで日陰に入ったまま歩いていける。海に出れば、あとちょっとでぼくの裏庭に着くけど、あそこには時々とても怖い人がいるから、最近はあんまり行ってない。怖い人だけじゃなくて優しい人もいたけど、どうしてるかな。

「ぴこー」

とりあえず影に入って、ぼくは散歩を続ける。やめたくなったらやめればいいし、行きたいところまで行ったらそれでいい。そうじゃなかったら、ぼくの気が済むまで続ければいい。ぼくは、自由なんだから。

「……………………」

ふと、空を見上げてみる。

空には大きな入道雲があって、その背景は綺麗な青色だ。青い空、白い雲。そんなフレーズをぼくはどこかで聞いたけれど、それにぴったりの空模様だ。ぼくはこんな空模様が好き。見ているだけで、「夏」って感じがするから。

……でも。

「……………………」

ずっと空を見つめていると、時々、ふっと物悲しくなる瞬間がある。

本当に一瞬だけで、それはすぐに消えてしまうんだけど、確かに、それはぼくの心の中で起きていることだ。

「ぴこ」

どうしてかは分からない。空を見上げていると、なんだかぼくも空を飛べそうで、すごく楽しい気分になるのに。でも……ちょっとだけ、少しの間だけ、一瞬だけ、瞬きをするぐらいの間だけ……「悲しい」感情は、ぼくの中に確かに湧き起こる。

「……………………」

ぼくが考えたところでどうしようもないのは分かっているけど、でも、ぼくはこれがとても気になる。なんだか、誰かから「悲しい」っていう感情をもらったみたいな、そんな気がする。

ひょっとしたらあの青い空の向こうに、涙を流して泣いて、悲しんでいる人がいるのかもしれない。それがぼくにも伝わって、ぼくも悲しくなるのかも知れない。雲を掴むような、そんなふんわりとした話だけど、ぼくはそんな気がする。

 

「あーっ! ポテトぉ! こんなところにいたんだねぇ」

 

ぼくの後ろから、ぼくを呼ぶ声が聞こえた。ぼくはそれに気付いて、くるりと振り向いた。

「やっぱりポテトだねぇ。遠くから見ただけでばっちり分かっちゃったよぉ」

「ぴこぴっこ」

ぼくを呼んでいたのは、ぼくの飼い主の佳乃ちゃんだった。ぼくは佳乃ちゃんが走ってくるのに合わせて、同じ方向に向かって走った。ぱたぱたと走ってくる佳乃ちゃんとぼくの距離が、あっという間に縮まる。

 

ぼくは気がついたときから、佳乃ちゃんとずっと一緒だったような気がする。気がついたら、傍にいたような気がする。ぼくは佳乃ちゃんがどんな人か、大体分かっているつもりだ。

お姉ちゃんが一人いて、お父さんやお母さんはいなくて、病院に住んでいて、外をよく走り回っていて、いつもぼくを抱きしめてくれる。ここまではいいんだけど、料理だけはさせちゃいけない。佳乃ちゃんの料理は、とてつもなく恐ろしいからだ。ぼくが一度食べた時は、起きたら三日後になっていた。とにかく、恐ろしい。

でも、普段はとても優しくて、いつもぼくのそばにいてくれる。だから、料理さえしなかったらいい。料理さえなかったら、完璧なんだと思う。何回も言ってるけど、とにかく、料理だけはさせちゃいけないんだ。今度食べたら、生きて帰ってこれる保証はない。ぼくはまだ、向こうには行きたくない。

 

佳乃ちゃんとすぐに触れられるだけの距離まで近づくと、お互いにぴたっと止まる。ぼくが佳乃ちゃんと一緒になったときから、いつもこうやって距離を確認している。

「お散歩中だったのぉ? かのりんもお散歩してたんだよぉ。一緒に行こうねぇ」

「ぴこ!」

そう言って、佳乃ちゃんは歩き出した。遅れちゃいけないから、ぼくも横について一緒に歩く。佳乃ちゃんは歩くのがちょっと早めだから、ぼくは一人で歩いている時よりも多く足を動かさなきゃいけない。

「いいお天気だねぇ」

「ぴこ」

「太陽じりじりさんさんだよねぇ」

「ぴこー」

佳乃ちゃんはてくてく歩きながら、ぼくにいろいろと話しかけてくれる。ぼくは佳乃ちゃんの言葉で返事をすることはできないけど、佳乃ちゃんが何を言っているのかはちゃんと分かっている。こう見えても、ぼくはちょっと賢い。

「あっ、飛行機雲だよぉ」

「ぴこ?」

「知らないのぉ? 飛行機雲っていうのはねぇ、飛行機が通った後にできる、ながーい雲のことなんだよぉ」

「ぴこぴこ」

へぇー、そうなんだ。また一つ、勉強になったなぁ。

「飛行機雲を見たらねぇ、幸せになれるってお姉ちゃんが言ってたんだよぉ」

「ぴこ?」

「あの飛行機雲がねぇ、かのりんの知らないずーっとずーっと向こうの世界までつながってるんだって言ってたよぉ」

「ぴっこり」

「かのりんのお願いも、あの飛行機雲に載せたらずーっとずーっと遠くの世界まで届いちゃうかも知れないよねぇ」

佳乃ちゃんはなんだかうれしそうに言ってたから、ぼくもちょっとうれしくなった。

「今日もいつものところまで行くよぉ。準備はおっけーだよねぇ?」

「ぴこぴこっ」

「よーし! それじゃあ、でっぱつしんこう〜」

佳乃ちゃんの声に合わせて、ぼくはさらに早く歩き出した。

 

「とうつき〜」

「ぴこー」

たどり着いたのは、町からちょっとだけ離れた場所にある、小さな川だ。ぼくと佳乃ちゃんは、いつもここまで散歩しに来ている。川のせせらぎを見ていると、それだけで涼しくなってくる。

「ここに座ろうねぇ」

「ぴこっ」

大きな木で陰ができているところを選んで、ぼくと佳乃ちゃんは座り込んだ。他には誰も人はいない。ただ、川がさらさらと流れる音だけが、ちょっと控えめに聞こえてくるだけ。

「気持ちいいねぇ」

「ぴこぴこ」

木陰は日向よりもずっと涼しくて、なんだか気持ちいい。せみの鳴く声がみんみん聞こえてきて、ああ、夏なんだなぁ、って思う。

「ポテトはいつ見てもまん丸さんだねぇ」

「ぴこ?」

「ふわふわのもこもこだよぉ。こっちにおいでよぉ」

佳乃ちゃんがぼくを上にあげて、そっと膝の上に載せた。

「……………………」

「……………………」

そのまましばらく、ぼくも佳乃ちゃんも何も言わなかった。

「……………………」

ぼくは時々、佳乃ちゃんの顔を見た。

「……………………」

佳乃ちゃんは遠くの空を見つめて、何かを考えているみたいだった。何を考えているのかは少しも分からなかったけれど、佳乃ちゃんが何かを考えていることはぼくにも分かった。

それから、少しした後。

「ねぇポテト。ちょっと、かのりんのお話、聞いてくれるかなぁ?」

「ぴこ?」

佳乃ちゃんが、不意に口を開いた。

「……………………」

ぼくはそのまま、佳乃ちゃんの話を聞くことにした。

 

「えっとねぇ、ちょっと難しいお話なんだけどねぇ」

「……………………」

佳乃ちゃんは空を見つめながら、静かにぽつりとつぶやいた。

「お姉ちゃんのことなんだけどねぇ」

「……………………」

お姉ちゃん……聖さんの事だ。

「ポテトは、お姉ちゃんのことどう思う?」

「ぴこ?」

急に言われて、ぼくは「えっ?」と思った。聖さんのことは、実はぼくもあまり知らない。ただ、佳乃ちゃんと一緒にいて、時々ぼくと遊んでくれることぐらいしか、ぼくは知らないから。

「かのりんはねぇ、お姉ちゃん、すっごく頑張ってると思うんだよぉ」

「……………………」

「全然気にしてないように見えるけど、本当はすっごく頑張ってると思うんだよぉ」

「……………………」

「かのりん、そんなお姉ちゃんの事、世界でいっちばん大切に思ってるよぉ」

佳乃ちゃんはいつもの口調で、でも、少しだけ違った口調で、ぼくに語りかけ続けた。

「……でもねぇ、かのりん、ちょっとだけ悲しいんだよぉ」

「ぴこ?」

「お姉ちゃんはねぇ、かのりんのために一生懸命頑張ってくれてるんだけどねぇ」

「……………………」

「それはねぇ、かのりんもすっごくうれしいんだけどねぇ」

佳乃ちゃんが、空を見上げた。

「ねぇポテト」

「ぴこ?」

「かのりんがどうしてこのバンダナを巻いてるか、知ってるかなぁ?」

「ぴっこり」

それは、ちょっと前に聞いたことがある。

聖さんと約束して、腕にバンダナを巻いた。それを巻いたまま大人になれば、「まほう」が使えるんだって。佳乃ちゃんがぼくに話してくれた。

ぼくにはちょっと分からないことだったけれども、大切なお話みたいだった。

「うんうん。知ってるよねぇ。これを巻いたまま大人になるとねぇ、魔法が使えちゃうんだよぉ」

「ぴこぴっこ」

「どんなところにだって行けるしねぇ、どんな人にだってあっという間に会えちゃうんだよぉ」

「……………………」

「ポテトは、魔法が使えたらって思ったこと、あるかなぁ?」

「ぴこぴこ」

「うんうん。あるよねぇ。かのりんもねぇ、魔法が使えたらどんなにうれしいかなって、たくさん考えるんだよぉ」

佳乃ちゃんはぼくに笑顔を向けながら、ゆっくりとしゃべった。

「……………………」

「……………………」

少しだけ間が空いた。

「……………………」

佳乃ちゃんの表情から、少しずつ、少しずつ、笑顔が消えていった。だんだんだんだん、真面目な表情に変わって行った。

それから……ほんの少しした後。

「でもねぇ、本当はねぇ」

「……………………」

「かのりん、知ってるんだよぉ」

「……………………」

「どうしてかのりんがこれを巻いているかっていうの、やっぱり、知ってるんだよぉ」

佳乃ちゃんは寂しく微笑んで、空を見つめている。

「かのりん、時々知らない人になっちゃっててねぇ、夜遅くに一人で歩いてたりするんだよぉ」

「……………………」

「自分でもねぇ、歩いてる、っていうのは分かるんだよぉ。外に出て、一人で歩いてるっていうのがねぇ」

「……………………」

「……でもねぇ、どうしても、止められないんだぁ……」

「……………………」

「……本当はすぐにでもお姉ちゃんのところに帰りたいのにねぇ、自分でも、どうしようもないんだよぉ……」

寂しい笑顔が、ぼくを見つめた。

「かのりん、すっごく悲しいんだよぉ」

「……………………」

「外に出て、かのりんじゃない誰かがかのりんになって歩いてる時、かのりんはすっごく悲しいんだよぉ」

「……………………」

「とっても悲しくて……涙が出るほどなんだけどねぇ、かのりんはかのりんじゃないから、泣いたりできないんだよぉ……」

ぼくをじっと見つめる、その寂しい笑顔に。

微かな輝きが、見えた気がした。

「お姉ちゃんはねぇ、そんなかのりんのこと、ずっと大切にしてくれてるんだよぉ」

「……………………」

「かのりんのためにねぇ……嘘まで付いて、これを用意してくれたんだよぉ」

佳乃ちゃんは静かに、バンダナをぼくに被せた。

「本当はねぇ、かのりんのせいなのに」

「……………………」

「お姉ちゃんに無理を言ったから、こんなことになっちゃったのに」

「……………………」

「悪いのは、全部かのりんなのに」

「……………………」

「お姉ちゃんはねぇ、自分が悪いと思ってるんだよぉ……お姉ちゃん、何にも悪くないのにねぇ……」

寂しげな笑顔が、ほんの少しだけ崩れた。

輝きが、いっそう増した気がした。

「かのりんのせいで、お姉ちゃんにいっぱい迷惑をかけちゃってるんだよねぇ」

「……………………」

「本当はかのりんもお手伝いしたいんだけど、お姉ちゃん、全部自分でやるって言って、本当に全部頑張っちゃうんだよぉ」

「……………………」

「頑張ってるんだけどねぇ……それを見てると、悲しくなってきちゃうんだよぉ……」

佳乃ちゃんの表情から、笑顔が消えた。

「前はねぇ、お姉ちゃん、もっと自分のやりたいようにやってたんだよぉ」

「……………………」

「でもねぇ……かのりんがおかしくなっちゃってから、お姉ちゃんの時間、全部かのりんに使っちゃってるんだよぉ」

「……………………」

「おかしくなったのは……かのりんのせいなのに……」

「……………………」

「かのりんが無理を言ったから……お姉ちゃん、すっごく苦労してるんだよぉ……」

ただ、悲しみだけが。

そこにあった。

「かのりんは……とっても、ひどい子だよねぇ……悪い子だよねぇ……」

「……………………」

「こんなに悪い子だから、お母さんもきっと、かのりんを生んじゃったこと、後悔してると思うんだよぉ……」

「……………………」

「こんなに悪い子だから……お姉ちゃんが、二倍大変になっちゃってるんだよぉ……」

見ているのが、とっても辛かった。

「もしお母さんに会えたら、かのりん、ごめんなさいって謝りたいんだよぉ」

「……………………」

「こんな悪い子に生まれてごめんなさいって、いっぱい謝りたいんだよぉ……」

佳乃ちゃんの気持ちが……

……ただ、辛かった。

「かのりん、お姉ちゃんに迷惑ばっかりかけちゃってるんだよぉ……」

「……………………」

「どうにかしてお姉ちゃんを助けてあげたいんだけどねぇ……やっぱり、できないんだよぉ……」

「……………………」

悲しい表情で。

ぼくを見つめている。

「あのねぇポテト。もしもの話だけどねぇ」

「……………………」

 

「かのりんがいなくなったら……お姉ちゃん、ちょっとは楽になるかなぁ……」

「……………………」

「お姉ちゃんに負ぶさってるかのりんがいなくなったら、お姉ちゃん、もっと楽に生きられるのかなぁ……」

「……………………」

「かのりんは……お姉ちゃんの、邪魔になってるよねぇ……」

 

……今にも消えちゃいそうな、小さくて悲しい声で。

でも確かに……佳乃ちゃんは言った。

「ごめんねポテト。ちょっと、難しい話だったよねぇ」

「……ぴこぴこ」

「ごめんねぇ。でもねぇ……ポテトにしか、お話できないことなんだよぉ」

「ぴこ?」

「ポテトはねぇ、やっぱり特別なんだよぉ」

そう言って、ぼくをぎゅっと抱きしめた。

「あのねぇポテト。一つだけ、お願いしてもいいかなぁ?」

「ぴっこり」

ぼくは静かに頷いて、佳乃ちゃんの言葉を聞いた。

「もしねぇ、今度かのりんがポテトの知らない間にどこかに行っちゃったらねぇ」

「……………………」

「きっとあの場所にいると思うから、来てほしいんだよぉ」

「……………………」

佳乃ちゃんの言う、「あの場所」……

 

山の上にある、古びた神社。

 

ぼくも佳乃ちゃんに連れられて、何度も行ったことがある。

「一人でいるのは寂しいからねぇ、ポテトに一緒にいてもらいたいんだよぉ」

「ぴこぴこ」

「誰かが一緒にいてくれれば……最後まで、寂しくならずにすむと思うから……」

「……………………」

「だからポテト、お願いだよぉ」

「ぴっこり」

佳乃ちゃんはまた笑って、ぼくを抱き上げた。

 

「そろそろ帰ろっかぁ。お姉ちゃんが心配するといけないからねぇ」

「ぴこぴこっ」

佳乃ちゃんが立ち上がって歩き出したから、ぼくもそれに合わせて立ち上がった。

「いいお天気だよねぇ」

「ぴこぴこ」

「何かいいことあるかもねぇ」

「ぴこっ」

行く途中にも言っていたようなことを言いながら、佳乃ちゃんがもと来た道を引き返そうとしたときだった。

「かー」

「あれれ〜? あんなところにカラスさんがいるよぉ。まだお昼なのにねぇ」

「ぴっこり」

ぼくと佳乃ちゃんの先に、一匹の真っ黒なカラスがいた。

カラスはおぼつかない足取りで歩きながら、ゆっくりゆっくり道を渡っていく。

なんだか、危なっかしかった。

「空、飛べないのかなぁ……」

「……………………」

「……………………」

ぼくと佳乃ちゃんが、揃ってカラスを見つめている。

「……でも、きっといつか飛べる日が来るよねぇ」

「ぴこ?」

「空を飛んで、どこまでも高く飛んで……どこにだっていける日が、きっと来るよねぇ」

「……………………」

気がつくと、カラスはどこかへと行ってしまっていた。思っていたよりも、歩くのは早いみたいだ。

「それじゃあポテト、帰りは堤防を通って帰ろうねぇ」

「ぴこぴこ」

「行きと帰りで違う道を歩くと、ちょっとだけ得した気分になるよねぇ」

そんなことを言いながら、ぼくは佳乃ちゃんと一緒に歩き始めた。

 

「うーみーはひろいーな、おおきいなー♪」

「ぴっこぴこ♪」

佳乃ちゃんはでっかい声で歌を歌いながら、海沿いの堤防を歩いている。見ているとすごく楽しそうで、さっきまでの佳乃ちゃんとは別の人みたいだった。

「つーきーがのぼるーし、ひがしずーむー♪」

「ぴっこぴこ♪」

……………………

「うーみーにおふねーを、うかばーせーてー♪」

「ぴこぴっこ♪」

「いーって、みたいーなー、よそのーくーにー♪」

「ぴっこぴっこ♪」

ちょっと大きすぎるかなと思うぐらいの声で、佳乃ちゃんは歌った。スキップしてるから、ぼくはいつもよりもさらに早く足を動かさなきゃいけない。

「わーれーは、うーみーのこー、しーらなーみーのー……あれれ?」

「ぴこ……ぴこ?」

突然、佳乃ちゃんが立ち止まった。

「うぬぬ〜。あんなところに人がいるよぉ」

「ぴっこぴこ」

佳乃ちゃんの視線の先に在るのは、砂浜とこの道を隔てる堤防の先に見える……

……一人の、男の人の姿だった。

佳乃ちゃんは興味津々みたいで、目を凝らしてじーっと男の人のことを見つめている。

「地べたに座ってるねぇ」

「ぴっこり」

「夏なのに真っ黒い服を着てるよぉ」

「ぴこー」

「しかも、長袖だよぉ」

「ぴこぴこぴこ」

「暑そうだよぉ。カラスさんみたいだねぇ」

「ぴっこり」

「背は高いみたいだねぇ」

「ぴこぴこ」

「見たことあるかなぁ?」

「ぴっこぴこ」

「うんうん。ポテトもないよねぇ。かのりんも見たことない人だよぉ」

「……………………」

「……………………」

ひとしきりしゃべった後、佳乃ちゃんが少しの間静かになった。

ぼくはその間もずっと、堤防の上で座っている人の姿を見ていた。

「気になるねぇ」

「ぴこ?」

「ちょっと、お話してみたいなぁ」

「……ぴこ……」

佳乃ちゃんは堤防の先の黒い人を見つめながら、あれこれとつぶやいている。

「でも、いきなり話しかけちゃったら、向こうはびっくりさんだよねぇ」

「ぴこぴこ」

「今日はやめておこうねぇ。忙しいかも知れないからねぇ」

「……………………」

そう言いながらも、でも、佳乃ちゃんはどこか名残惜しそうだった。どうしてかは分からないけど、佳乃ちゃんはあの黒い男の人とお話がしたいみたいだ。

(……………………)

どうしてかは分からない。けれど佳乃ちゃんは、あの黒い人とお話がしたい。

ヘンな話だけど……もっとおかしなことに、ぼくもあの黒い人がなんだか気になる。

あの人は今までに一度も見たことのない人で、何か、とても大きなことをやってくれそうな気がした。ぼく自身、今ぼくが何を言っているのかさえよく分からないけれど、とにかく、あの黒い人から何かを感じたのは、確かな事実だ。

(……………………)

ぼくの心の中で、次第に膨らんでいく想像。

上手く行くかどうかは分からないけれど、やらなきゃ、失敗も成功もない。

ぼくだって、時にはそんなことも考える。

「それじゃあポテト、今度こそ帰ろうねぇ」

「ぴっこり」

佳乃ちゃんは三回ぐらい後ろを振り返りながら、ゆっくりと堤防を後にした。

「……………………」

ぼくは、この時。

珍しく、ある決意を固めていた。

 

「……………………」

ぼくは、何か薄っぺらいものを頭を抱えながら見ているあの人の隣に、音もなく近寄った。あの人は薄っぺらい紙に目が釘付けになっていて、ぼくのことにはちっとも気付いていない。

堤防にいるかと思ったら、そこから少し離れた場所にいた。それでも、そんなに時間をかけずに見つけることができた。こっそりと隣について、着かず離れず歩いていく。

「むむむ……」

耳を済ませると、唸っているような声が聞こえる。

「むむむむむむ……」

それはだんだん、大きくなってきているような気がする。

それから、十秒ぐらい経ったあと。

「こんな暗号みたいな地図、使えるかっ」

手に持ってずーっと見つめていた薄っぺらいものを、ばっと掴んで押し込む姿が見えた。そのまま、つかつかと歩いていく。歩いていく先に在るのは、堤防だ。

ぼくはここで少し距離を置いて、あの人からちょっとだけ離れた。

 

「……………………」

ぼくはその時をじっと待った。

「……………………」

向こうから振り向いてくれるのを、じっと待った。

「……………………」

待っている間、ぼくはどきどきしっ放しだった。ぼくから声をかければよかったかも知れないのに、そんなことも思いつかないぐらいだった。

……そして。

「……ん?」

「ぴこぴこっ」

 

「何か用か」

 

それが――

ぼくと、佳乃ちゃんと、聖さんと……黒い人の。

見たことのない夏の、幕開けだった。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586