「もしもポテトがチョコだったら」

586

空を眺めていると、不思議な気持ちになる。

「……………………」

僕は木陰に入り込んで、厚い入道雲の闊歩する夏の青空に目を向けていた。動きを止めてしまったかのような入道雲を見ていると、見ている間だけ時間が止まってしまったような気がしてくる。

大きなあくびを一つして、僕はその場で丸くなった。時間はたっぷりあって、僕はそれを自由に使うことができる。そんな気持ちになりながら、僕は何をするでもなく、ただのんびりするばかりであった。

「……………………」

こうして特に意味を持たない時間を過ごしていると、時折ふと、僕の脳裏に懐かしい光景が蘇ってくることがある。けれども不思議なことに、その懐かしい光景は、僕の記憶の中のどこを探してみても、同じものが一つも見当たらないのだ。懐かしい匂いのするあの光景は、一体何なんだろうか?

木の葉の揺れる音を聞きながら、僕は静かに目を細めた。目をぱたりと閉じてしまうと、瞼の裏にまた、懐かしくも見たことの無い光景が蘇ってきた。

――見知らぬ女の子とそのお母さんに見える人が、神社で何かをしている。女の子とお母さんが誰で、二人が神社で何をしているのか。そこまでは、ぼやけてしまってよく判らなかった。

「おーいっ! チョコーっ!」

「……?」

僕は自分の名前を呼ばれて、丸くなっていた体をさっと起こした。僕が尻尾を揺らして待っていると、まもなく、声の主であるみちるちゃんが姿を現した。僕は走ってきたみちるちゃんに近づいて、前足でみちるちゃんに寄りかかる。

「にゃははっ。チョコ、くすぐったいぞー」

「わんわんっ」

みちるちゃんは快活に笑って、僕の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。僕は声を上げて、みちるちゃんに返事をするのであった。

ここで僕は、僕自身と、僕がお世話になっている家の人たちについて、少し説明しておこうと思う。

僕は「チョコ」という名前をもらった、ごく普通の犬だ。名前が示す通り、僕の体は茶色い毛に覆われている。そんな僕の毛はふわふわのもこもこで、みちるちゃんからは「チョコというよりも『黒糖わた飴』って名前のほうが似合ってる」と言われたくらいだった。「黒糖わた飴」が実在するのかは、僕にはわからないけれども。

さっきから何度か名前が挙がっているみちるちゃんは、僕がお世話になっている遠野さん家の女の子だ。桃色の長いツインテールが目を引く活発な女の子で、なんだかんだで一番僕の面倒を見てくれている。撫でるときの手つきがちょっとだけ乱暴だけれども、慣れてしまうと、それもまた気持ちがよかった。

みちるちゃんには、お姉ちゃんと両親がいる。みんなとても仲が良くて、これこそが理想的な家族だと、僕は考えている。ケンカすることもあるけれども、悲しい影が差すことはない、明るい家族だった。その中に僕がいられているということは、とても、幸せなことなんだと思う。

「よーしチョコ。いつもの散歩の時間だぞー」

「わんっ」

みちるちゃんがやってきたのは、散歩に行くためだった。僕を散歩させるのは、主にみちるちゃんの役目だ。僕はみちるちゃんの言葉を聞いて、しゃきっと立ち上がった。

「にゅふふー。今日も元気に歩こうねっ」

みちるちゃんは僕を先導するように、大またでのっしのっしと歩き出した。遅れることが無いように、僕はみちるちゃんの後ろにしっかり付いて歩いていく。さあ、今日もいつもの散歩に出かけよう。日差しは強いけれども、やっぱり歩くことは楽しいからね。

「……………………」

ふと、もう一度空を眺めてみる。さっき僕の頭上にあった雄大な入道雲は、相変わらずその位置を変えることなく、僕の頭上で悠々と空を流れていた。代わり映えのしないその光景に、僕は不思議と、満ち足りた気持ちになるのであった。

雲を存分に眺めた後、僕はみちるちゃんとの間に開いた距離を、走りこんで一気に詰めた。

「他の犬と違って、チョコは引っ張らなくていいから楽だね」

僕とみちるちゃんの散歩は、ちょっとだけ変わっている。普通、犬には必ず手綱をつけて、勝手にどこかへ走ってしまわないようにするものだと、僕は考えている。けれども、みちるちゃんを初めとする遠野さん家の人たちは、僕を拘束するようなことはほとんどしない。それは、散歩のときも変わらなかった。みちるちゃん達は僕のことを信用して、自由に動けるようにしてくれているのだ。僕にとって、それはとてもうれしいことだった。

さて、今日はどんなコースをたどるのだろうか。みちるちゃんの気分次第で、コースのバリエーションはいくらでも増える。神社へ行くこともあるし、商店街を抜けることもある。海沿いをのんびり歩くこともあれば、みちるちゃんの通っている小学校へ遊びに行くことだってある。どれをとっても、僕には楽しい時間に他ならなかった。

「んにー。せっかくだから、みちるは商店街に続く道を選ぶぜっ」

「……………………」

何がどうせっかくだから、なのかはさておき、僕とみちるちゃんは商店街方面へ行くことになった。あの辺りは人通りも多いし、何か面白いものが見られるかもしれない。まあ、この町はとても平和な町だから、そうそう変わったことは起きないと思うけれども……。

僕とみちるちゃんが連れ立って歩き出そうとしたところへ、不意に声が掛けられた。

「みちる、散歩へ行くの?」

「あっ、美凪お姉ちゃんっ」

カバンを肩から提げた、みちるちゃんのお姉さん――美凪さん――が、玄関から出てくるのが見えた。僕とみちるちゃんは揃って後ろを振り向いて、美凪さんに目を向けた。

「うんっ。天気もいいし、チョコも運動させてあげないといけないからねっ」

「ありがとうね、みちる。今度は、私も連れて行くから」

「にゅふふー。お姉ちゃんと一緒なら、きっと、もっと楽しいよ」

美凪さんは、みちるちゃんのお姉さんだ。とても優しい人で、僕のこともよく抱っこしてくれる。ちょっと心配性なところはあるけれど、いい人であることに間違いはなかった。元気のいいみちるちゃんとは、対照的な色を成している。

「お姉ちゃんは、これからどこ行くの?」

「電車で隣町まで行って、お婆ちゃんの様子を見に行ってくるの。夕方までには、必ず戻るからね」

「うんっ。みちるも、それまでには帰ってくるよ」

「あまり遠くへ行っちゃだめよ。車には、よく気をつけてね」

「にゃははっ。大丈夫大丈夫。じゃ、行ってきますっ」

みちるちゃんは元気にそう告げて、僕と一緒に歩き出したのであった。

……ふと。僕がみちるちゃんを見上げたときのことだった。

「……………………」

気のせいだろうか、僕は僕の脳裏に、見たことも無い光景が浮かび上がったような気がした。浮かび上がってきたその光景が、僕に足を止めさせた。

――曖昧にぼやけたその光景の中にいるのは……ああ、これは間違いない。夕暮れの赤の中で佇む、みちるちゃんと美凪さんの姿だった。随分と高いところにいる。背を向け合って、互いに何か言っている。けれども、僕にはそれが聞き取れない。あの二人は何故、互いに背を向け合っているのだろう?

おかしな感じだ。僕の記憶の中には、こんな光景など一つも見当たらないと言うのに。二人がどこかの屋上にいたことも、背を向け合って話をしていたこともない。夕方になれば二人とも家に帰ってきて、お父さんやお母さんと一緒に夕飯を食べている。何から何まで、僕の記憶の中に在りようが無い光景だった。

「おーいっ、チョコーっ! 早くしないと置いてっちゃうぞーっ!」

「……わんっ!」

いけないいけない。考え事をしていて、みちるちゃんについていくのをすっかり忘れてしまっていた。僕はタッと地面を蹴って、みちるちゃんの足元まで駆けていった。

「んもー。チョコったら、時々考え事して止まっちゃうんだから」

「くーん……」

「でも、犬なのに考え事をするのはすごいぞー。あとは、歩きながら考え事をする方法を身につけるだけだねっ」

「わんわんっ」

みちるちゃんの側にくっついて、僕はトテトテと歩き始めるのだった。

僕とみちるちゃんの仲がいいのは、みちるちゃんが僕を拾ってくれたからだ。みちるちゃんがまだ幼稚園に通っていた頃、段ボール箱の中で震えていた僕を見つけてくれたのが、そもそもの出会いだったらしい。僕はそのときのことをおぼろげにしか覚えていないけれども、みちるちゃんが僕を抱きしめてくれたときのあたたかさだけは、今でもはっきりと思い出すことができる。僕が今こうしてここにいられるのは、みちるちゃんのおかげなのだ。

そんなみちるちゃんが言うに、僕は「よく考え事をする犬」らしい。確かに言われてみると、僕はしょっちゅう考え事をしているような気がする。空を見ては考え、遠くの山を見ては考え、そしてみちるちゃんや美凪さんを見ては考えている。普通の犬は、こんなにもしょっちゅう物を考えたりはしないらしい。どうやら、僕は変わった犬みたいだった。

「今日は絶好の散歩日和だね、チョコ」

「わんっ」

「ちょっと暑いけど、しっかり歩くんだぞー」

僕はみちるちゃんに声に押されて、足取りも軽く歩いていった。

遠野家を離れて間もなく、僕とみちるちゃんは商店街までやってきた。夏の強い日差しのせいか、僕が考えていたよりも人通りは幾分少なく見えた。開けた商店街の道を、僕とみちるちゃんはのんびり練り歩く。

「あ、そうだそうだ。ね、チョコ。今度ね、お姉ちゃんが天体望遠鏡を買うんだよ」

「?」

僕が「天体望遠鏡」の意味がわからず首をかしげていると、みちるちゃんが説明してくれた。

「天体望遠鏡が何かって? えっとね、すごーく簡単に言うと、超スゴイ望遠鏡みたいなものだよ」

「……………………」

「それを使えば、空にある星とか月とか、そういうのがはっきり見られるようになるんだって」

みちるちゃんの話を聞くと、天体望遠鏡はすごく面白そうなものに思えた。この町は夜になると星がよく見えるから、天体望遠鏡を使えばきっととても綺麗な光景を見ることができるに違いない。

「お姉ちゃんは学校で天文部を立ち上げて、みんなと一緒に星を見るって言ってたんだ」

「……………………」

「それでね、みちるとチョコも来ていいって言ってくれたんだぞー。今から楽しみだよね、チョコ」

「わんわんっ」

僕は綺麗なものが大好きだから、すごく楽しみになってきた。みちるちゃんの言葉に、僕は大きく頷く。僕の様子を見て、みちるちゃんもまた満足しているようだった。

「にゃははっ。やっぱり、チョコはお利口さんだなっ」

みちるちゃんはしゃがみこんで、僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。その気持ちよさに、僕は思わず目を細めるのだった。

そうして、僕とみちるちゃんが商店街で立ち止まっていた時のことだった。

「お母さぁーん! 早く早くぅ!」

「ふふふっ。相変わらず元気ね、佳乃は」

僕たちの横を、買い物袋を手に提げた、美凪さんと同年代くらいの女の子が通り過ぎていった。その後ろから、女の子にそっくりな顔立ちをした、女の子のお母さんと思しき人が、悠々と付いて行くのが見えた。

「そんなに急がなくても、時間はたくさんあるわよ」

「えーっ? だって、早くしないとお姉ちゃんが帰ってきちゃうよぉ。それまでに、あたしがご飯の準備をしてあげなきゃねぇ」

「聖が帰ってくるのは、夕方になってからよ。今日も図書室で勉強するって、さっき電話があったから」

僕とみちるちゃんの側を通り過ぎて行った、水色の髪に緑色の瞳の女の子――佳乃、という名前らしい――とお母さんのやり取りを、みちるちゃんは微笑ましげに見つめている。

「にゃはは。佳乃お姉ちゃんはいつ見ても元気だなー」

僕も、同じ気持ちだった。屈託の無い明るさは、何かみちるちゃんに通じるものがある気がした。後ろ暗いところ、陰になっているところ。そういったところが、佳乃さんからはまったく感じられない。今ここに居ること、家族とともにあること、平穏な暮らしをしていること。そういったことに、心から満足しているようだった。

「佳乃がご飯を作ってくれるおかげで、お母さんも大助かりだわ」

「えへへ〜。あたしに掛かれば、夕飯なんて一ひねりっ!」

「子供の頃はよく失敗して、ちゃんとお嫁さんにいけるか心配だったけど……今なら、もうどこに出しても恥ずかしくないわね。立派なお嫁さんになれるわ」

「う〜。それはもう言わないって約束したよぉ」

買い物袋を持っていないほうの腕をぶんぶんと回して、佳乃さんが怒った様子を見せた。だけども、それも本心から怒っているわけではない。お母さんとのやり取りの中で見せた、一つの感情表現なのだと僕は思う。

「……………………」

僕はまた、さっきみちるちゃんと美凪さんを見ていたときのような感覚に包まれて、無意識のうちに目を閉じていた。目を閉じてしばらくすると、また、懐かしくも新しい、不思議な光景が浮かび上がってきた。

――白い何かが走っている。誰かを導いているみたいだ。格好と言うか容姿と言うか、そういったものは、色以外僕にそっくりに見えた。後ろから付いてきているのは、誰だろう? ぼんやりとしすぎていて、はっきりとその姿を見て取ることはできなかった。

全ての色が交じり合った後、再びそれが配置され直されて、新しい場面へと切り替わる。

――お母さんが女の子の手を引いて、賑やかな何かの中を歩いている。音は聞こえないけれども、わいわいがやがやという喧騒が、今にも伝わってきそうな光景だった。その中にあって、女の子は何故だか、不安な色を見せているように見えたのが、僕には不思議でならなかった。

しばらくすると、僕は私想の世界を抜けて、現実の世界へと帰還する。

「ふぅ……それにしても、今日もあっついよぉ」

「あらあら、汗をかいちゃったのね。お母さんが拭いてあげるわ」

僕の眼前では、佳乃さんのお母さんが、ポケットから黄色いハンカチを取り出して、佳乃さんの額を拭ってあげていた。

「えへへ……お母さん、ありがとぉ」

「いいのよ。女の子は、いつも体を綺麗にしてなきゃいけないからね」

背筋をピンと伸ばして、佳乃さんがうれしそうに目を細める。本当に仲のよい親子だなぁと、僕は感心することしきりだった。お母さんと一緒にいられること、佳乃さんと一緒にいられること。佳乃さんとお母さんにとって、それが一番の幸せのようにさえ、僕には見えた。

「にゅふふー。仲良きことは美しきこと哉、ってやつだなっ」

「わんわんっ」

僕とみちるちゃんは互いにそう言いあって、静かにその場を後にした。

「……………………」

――にっこり笑った佳乃さんの笑顔に、ふと懐かしい匂いを感じ取ったのは、やはり、僕の気のせいだったのだろうか。

二人して歩き続けて、佳乃さんとお母さんがすっかり遠くなってしまった頃。

「んに。チョコ、今日は時間があるから、神社にお参りしに行こっか」

「わんっ!」

みちるちゃんが散歩のコースを変えて、神社へ行こうと言い出した。僕もちょうど神社に行きたかったから、即座に賛成の返事をした。みちるちゃんはこくこくと頷いて、僕を導くように歩き出した。

この町の神社は、小高い山の上にある。それほど大きくは無い神社だけれども、夏になるとお祭りが催されて、町中から人が集まってくる。僕もみちるちゃんと一緒に行ったけれども、それはそれはすごい人だかりだった。普段はとても静かな場所だったから、お祭りのときは文字通り別の場所に来たような感覚だった。

僕は、そんな神社が大好きだ。変わったところの一つも無い、ごく普通の神社だったけれども、僕にはそれが、とても素晴らしいことのように思えたのだ。何の変哲も無いただの神社に、いつでも気軽にお参りすることができる。ただそれだけのことが、僕にはいたく幸せに思えるのだ。

そう思うと、神社に辿り着くまでのちょっと険しい坂道も、何の苦も無く登ることができた。相変わらず大また歩きのみちるちゃんの後ろにくっついて、僕はちょこまかと足を動かしていく。

「ねえチョコ。あの神社に何が祭られてるか、知ってる?」

「わんっ」

「うんうん。前からちゃんと教えてるから、知ってるよね」

頷きながら呟いて、みちるちゃんが更にこう付け加えた。

「神社には、お稲荷様が祭られてるんだ」

そう。あの神社には、お稲荷様……簡単に言うと、キツネの神様のようなものだ。それが祭られているらしい。かつてはこの近くで野生のキツネを見ることができたらしいけれども、今ではみんなどこかへ引き払ってしまったようで、残っているのは神社に一人建っている石造りのキツネだけだと、みちるちゃんから聞いた。

「ここのお稲荷様は、学問をつかさどってるんだって」

「わんわんっ」

「だからね、たくさんお参りすれば、頭を良くしてくれるかも知れないんだぞー」

得意げに話すみちるちゃんの姿が、木々の間に間から差し込む木漏れ日と重なって、キラキラと輝いているように見えた。みちるちゃんはそれからひとしきり話し終わると、境内へと続く階段に足を踏み入れた。

「とうつきーっ!」

元気な声を上げて、みちるちゃんが神社の境内に入る。遅れること数秒、僕もまた、神社の領内に足を踏み入れた。夏の日差しをいっぱいに浴びた木々の鮮やかな緑が、目に心地よい刺激となって飛び込んでくるのを感じる。

境内の真ん中には、さっきみちるちゃんが話していた石造りのキツネが、天を仰ぐ恰好で建っているのが見えた。キツネの見つめる先には、さっき僕が見ていたあの大きな入道雲が、相も変わらず雄大な姿を存分に披露していた。

「にゃはは、チョコ。ここでもう一つ、みちるのマメ知識を伝授してやるぞー」

「?」

僕がキツネに目を奪われていると、横からみちるちゃんの声が聞こえてきた。僕はさっと顔を向けて、みちるちゃんに意識を移す。

「ああ見えて、あのキツネは実は女の人なんだって」

「……………………」

「あのキツネが空を見つめてるのはね、昔空に飛んでいったツルを待ってるからなんだって言われてるんだよ」

みちるちゃんの話を、僕は静かに黙って聞いていた。

「キツネとツルって、仲が悪いっていうイメージがあるよね。そーいうお話も、幼稚園のときに聞いたし」

「でもね、本当はすごく仲がよくて、お互いに好き同士だったんだって。お姉ちゃんが聞かせてくれたんだ」

「ツルは旅に出ちゃったんだけど、キツネはツルが帰ってくるのを待って、この場所にいるんだって」

「キツネは知ってるんだ。自分がツルの旅にとっての『はじまり』であると同時に……」

「ツルの旅にとっての『おわり』でもあることをね」

話し終えたみちるちゃんは満足げな表情を浮かべて、境内の中央に立っているキツネの像に目を向けた。つられるままに、僕もまたそちらに視線を動かす。

「……………………」

すると、どうだろう。僕の周囲の時間が、またゆっくりになり始めた。無意識のうちに目を閉じると、僕が考えていた通り、また、懐かしい匂いのする光景が浮かび上がってきた。

――何かが宙を舞っている。いや……誰かが、それを宙に舞わせている。不器用に一手一手、ぎこちなく空を舞っている。彼女――僕の無意識は、それが女の子であると告げていた――は、何故、そんなことをしているのだろう。その行いに、どんな意味を見出しているのだろう。何も判らないながらも、僕はその光景に目を奪われていた。

「あっ! みちるおねーちゃんっ!」

「にょへ?」

僕の時計の針を再び動かしたのは、神社に遊びに来ていた女の子達の声だった。唐突に名前を呼ばれたみちるちゃんが、きょとんとした顔で呼びかけに応じた。

「にょわ! 志乃さん家の元気っ娘姉妹っ! いつの間にみちるの背後にっ!」

「さっきから、ずっとうしろにいたよー」

「ふたりとも、ずっとうしろにいたよ〜」

後ろにいたのは、遠野さん家のすぐ近くに住んでいる「志乃」さんの家の、双子の姉妹だった。それぞれ「まいか」と「さいか」という名前らしい。

「んにゅ。みちるの背後を取るとは、まいかもさいかも成長したなぁ。お姉ちゃんはうれしいぞー」

「まいかはねー、このまえせが二センチものびたんだよー」

「さいかもね〜、このまえせが三センチものびたんだよ〜」

言葉をそろえて言うまいかちゃんとさいかちゃんに、みちるちゃんは腰に手を当てて、すっかり二人のお姉ちゃんの気分になっていたようだった。その様子がなんだか微笑ましくて、僕は思わず笑ってしまった。

「うんうん。二人とも、風邪とかは引いてないかー?」

「ひいてないよー。まいかね、ようちえんいちどもやすんだことないもん」

「ひいてないよ〜。さいかも、ようちえんいちどもやすんだことないもん」

近くにいるからよく知ってるけど、この二人は生まれながらの健康優良児だ。重い病気はおろか、軽い風邪にも一度として掛かったことが無い。いつも外を駆け回って遊んでいるけれども、怪我をしているのも見たことが無い。本当に、怪我や病気とは無縁の姉妹なのだ。

「にゅふふー。まいかもさいかも、元気で何より何より。その調子で、頑張って育つんだぞー」

「うん。まいか、がんばるよー」

「うん。さいか、がんばるよ〜」

みちるちゃんはまいかちゃんとさいかちゃんにそう挨拶して、神社の階段を下りていった。遅れることが無いように、僕も後ろについていく。

「……………………」

あの二人が、ずっと元気でいられますように……僕は心の中で、ひそかにそう願うのだった。僕には二人の元気さがまた、僕の何気ない毎日を幸せなものにしてくれるのだと感じていた。あの様子を見ていると、僕なんかがお願いしなくても、まいかちゃんもさいかちゃんも、ずっと元気でいられそうだったけれども。

僕とみちるちゃんはそのまま山を下りきって、ふもとの入り口にまで辿り着いた。

「それじゃ……最後に、海沿いを通って帰ろっか」

「わんわんっ」

みちるちゃんの提案を受けて、僕達は海沿いの道を通って帰ることにした。

神社の入り口から海沿いの堤防までは、歩いて十分も掛からない。五分も歩けば、潮風がこちらに吹き抜けていくのがわかる。僕もみちるちゃんも元気よく歩いて、あっという間に海沿いに出ることができた。

「……にゃはは。何度見ても、この海は綺麗だね」

「……わんわんっ」

みちるちゃんが見惚れるほどに、僕達の住んでいる町の海は美しかった。澄み切った青が、どこまでも延々と広がる。その光景に、僕もみちるちゃんも、ただ目を奪われるばかりだった。今の僕達のこの状態は、「魅了されている」という言葉が、最も合うような気がした。

僕は思う。やっぱり、この町に生まれてくることができて、よかったと。みちるちゃんに拾ってもらうことができて、よかったと。こんなにも美しい海を見ることができる。それだけで、僕は満ち足りた気持ちになった。今ここにあることが、最高に幸せなことだと思えた。

「今度……お姉ちゃんと一緒に、海に遊びに行きたいな」

「……わんっ」

「んに。チョコも連れて行ってやるから、安心するんだぞー」

「わんっ!」

いつものように僕の頭をわしゃわしゃと撫でて、みちるちゃんは笑って言った。

僕らがそうして、堤防の前で戯れていたときだった。

「お前、また赤点ぎりぎりだったろ」

「にはは……うち、アホの子やから」

堤防の向こう側から……声が、聞こえてきた。

「自分でアホの子って言ってりゃ、世話ないな」

「でも、そっちも結構すれすれやったんと違うん?」

「……それは言うな」

「にははっ。相変わらず、素直なんやから」

美凪さんと同い年くらいの、男の子と、女の子だろうか。姿は見えないけれども、声は、はっきりと聞こえてくる。

「でも、あと三日もすれば夏休みや。今年も、目いっぱい遊ぶでー」

「お前は夏休みとか関係なく、いつも遊んでるだろ」

「それはそれ、これはこれ、や」

「都合のいいヤツ……」

他愛も無い話が、延々と続いている。僕には何の関係もない、男の子と女の子の、他愛も無い雑談。

「……それで、今年はここにいてくれるん?」

「……ああ。父さんも母さんも、今年の夏は静養するって言ってたからな」

「……そか。去年は夏休み中おらんで、寂しかったからなぁ……それやったら、よかったわ」

「……そうだな。俺も、そう思う」

僕はそれに耳を傾けながら、吹き抜けていく潮風を浴びて、とても落ち着いた気持ちになっていた。今ここにこうして自分がいることが、ごく自然なことに思えてならなかった。

「なあ、せっかくやから、二人で一緒に遊ばへん?」

「いつもやってることだろ、改めて言わなくても」

「せやけど……あれや。ちゃんと、約束しときたいんや」

「相変わらず、心配性なヤツだな」

僕の隣で、みちるちゃんがちょっと頬を緩めながら、二人の会話をこっそり聞いていた。まあ、僕も笑っていなかったことをのぞけば、盗み聞きをしていたことに変わりは無いのだから、お互い様なのだろう。

「今から楽しみやなぁ……トランプしたり、虫取り行ったり、海で泳いだり!」

「子供か、お前の夏休みは」

「だってうち、まだ未成年やもん」

「そういう意味じゃないっての」

そういえば、もうすぐ夏休みみたいだ。みちるちゃんも楽しみにしていたみたいだし、堤防の向こう側にいる女の子も、随分楽しみにしているようだった。遊びの内容はちょっと子供っぽかったかもしれないけど、それはそれで、なかなかいいものじゃないかなと、僕は思うのだった。

「茂美ちゃんと徹夜で遊ぶのもそうやし……あと、朝顔も育てやな!」

「高校に自由研究は無いだろ……」

「ええやん。なんか、夏休みっていったら、朝顔の観察日記は欠かされへんし」

「育てるのはいいが、枯らすんじゃないぞ」

男の子はちょっと呆れた様子で、女の子に告げた。けれどもその声色や口調からは、これに似たやり取りをもう何度も繰り返してきたことを感じさせる、落ち着いたものを感じるのだった。

「あとは……花火もええし、スイカとカキ氷も忘れたらあかんな!」

「前みたいにカキ氷の食べすぎで風邪こじらせて、郁子さんを困らせるんじゃないぞ」

「大丈夫やって! うちのお母さん、めっちゃ優しい人やから」

「だからこそ、心配させるなって言ってるんだよ」

活発で明るい女の子に、一見するとぶっきらぼうだけれども、本当は面倒見のいい男の子。僕の頭の中に、そんな構図が浮かんだ。たぶん、それで概ね合っているのだろう。僕の勘は、こう見えて中々鋭いからだ。

「それに……」

「それに?」

「……せっかくの、夏休みやから……」

「……ああ」

僕は……今、とても自然な気持ちで、ここにいる。ここにこうしていること。それが、とても幸せなことに思えた。理由は思い浮かばなかったけれども、何の理由も無くそう思うことがあったとしても、それはそれでいいんじゃないだろうか。

「……どっか、旅行とか行きたいな」

「……そうだな。遠くへ行くのも、悪くない」

「せやなっ。それで、みんなも誘って――」

僕の見てきたもの。それはみんな、ごく当たり前にここに存在していて、そして同時に、かけがえの無い、大切なものであるということ。

「……いや」

「……え?」

――ひょっとすると、これは。

「せっかくだから……俺は、お前と……」

「……………………」

――誰かが、強く望んだものなのかも知れない。

「……二人っきり?」

「……おい、人の台詞を取るんじゃない」

どうしてだか、僕はそんなことを考えるのだった。

「……にはは。なんや、結構積極的なところもあるやん」

「……うるせぇ」

「ええでええでー。うちとの仲やん。もっと自然でええんやでー」

「……ったく、お前ってヤツは……」

しばらく、ぼうっとその場に佇んでいた僕だったけれども。

「にゃははー。これはこれは、こそばゆい会話だなっ」

みちるちゃんのささやくような声で、僕は静かに、意識を取り戻した。隣のみちるちゃんは、男の子と女の子のちょっと甘酸っぱい会話が聞けて、とても満足したようであった。

「んじゃ、そろそろ帰るかっ」

「わんわんっ」

そろそろ帰って、お昼寝でもしよう。みちるちゃんも僕もそう考えて、再び並んで歩き出す。

「……………………」

その時だった。ふと、何か声が聞こえた気がして、無意識のうちに、僕は空に目を向ける。

「あっ……」

「ん……?」

「んに?」

「……………………」

そこで、僕たちは――

「かー」

――微かに傾きかけた夏の太陽を背に、一羽のカラスがどこへともなく飛んで行くのを、この目で見たのだった。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586