#05 少年期と思春期のボーダーライン

586

涼ちゃんをみんなに紹介してから、大体三日か四日くらいが経ってからだった。

休み時間になって、さーてどっかで時間でも潰すかー、って立ち上がったあたしだったけど、ちょっと意外な光景が目に飛び込んできて、思わず歩き出そうとした足を止めた。

あたしの視線の先にいたのは、風太だった。

「はぁ……」

風太だったんだけど、ちょっといつもの風太と様子が違う。普段の休み時間なら智也たちと一緒に遊びに行ったりして、教室にいることなんてほとんどない。ましてや、教室で頬杖付いてため息付いてるなんて、明らかに風太のキャラじゃない。どうしたのかしら、なんか悪いものでも食べたとか? 分かんないけど、どっちにしろ風太らしくないわね。

「どーしたのよ風太ったら! 朝っぱらから元気ねぇぞ!」

ばしっ、と背中に軽く一撃。これで風太もシャキッとするっしょ!

……と、思いきや。

「あ……どうしたの? 天見さん……」

あっちゃー、反応が鈍いどころの話じゃないぞ、こりゃ。もんのすごくのっそり顔を上げたかと思うと、これっぽっちも覇気の感じられない超低い声で話しかけてきた。ばしっとやられたら、びくってなってしゅっとこっちに顔を向けるくらいでちょうどいいのに、それとは完全に正反対だ。風太ったら、一体どうしちゃったっていうのよ。

「いや、もうむしろこっちが『どうしたの?』って聞きたいくらいなんだけど。あんた全然元気ないじゃない。ねえ風太、何かあったの?」

「えっと……何でもないよ、何でもない。心配させちゃってごめんね、天見さん」

「あたしは別にいいけど、ホントに大丈夫なわけ? 保健室行くなら付き添ったげるけど」

「体の具合が悪いとか、そういうのじゃないんだ。ただ……ううん、やっぱりいいや。気にしないで」

「ふーん。まあ、あんたがそう言うならそうなんでしょうけど。じゃ、あたし行くから」

明らかになんか隠してるっぽいけど、肝心の風太が言いたがらないんじゃ仕方ないわね。あたしはそれ以上詮索せずに、さっさと風太の側から立ち去る。風太には風太の事情があるんだし、いつまでもあんな風に梅雨時みたいな顔してるわけでもないっしょ。ほっときゃ治る治る、心配ご無用。

……って言いたいトコロなんだけど、さすがにちょっと気に掛かる。影が差すような深刻顔した風太なんて今まで見たことないし、やっぱり風太らしくない。いつもの風太と違ってるのは、絶対間違いない。何があったのか知らないけど、とにかく普通じゃないって。

風太はいつも智也や琴樹とつるんでる男子の一人で、あたしともしょっちゅう遊んでる。智也と特に仲がいいから、他の子から智也と同じタイプだって思われがちなんだけど、実は結構違ってたりする。腕白単純馬鹿の智也と違って、風太は穏やかだしよく気が回るし気立ても優しいし、女子に配慮もできるキャラだ。下手すりゃあたしよりも。

仮に智也と風太を横に並べて、二人のうちどっちの方が真面目? って訊かれたら、えーっと骨髄? じゃなかった脊椎? いやこれも違う……ああ、そうそう脊髄脊髄。脊髄反射で風太って答えるくらいには、二人のタイプは違う。ついでに風太は勉強もよくできるから、あたしもしょっちゅう当てにしてるなあ、そう言えば。

そういうわけだから、風太は智也や公介のような馬鹿男子組とは明らかにキャラが違う。あたしも智也とはしょっちゅうケンカするけど、風太とは一回もケンカした記憶がない。そもそも風太と話したり遊んだりしててイラつくようなことも全っ然なかったし、一緒にいてすっごい気が楽な男子だったりする。それでいて、智也みたいなやかましい男子とも楽しそうに遊んでる。智也も風太が親友だってしょっちゅう言ってるし、風太も同じような感じだったっけ。なんか整理してみると、風太って結構不思議なキャラしてるわね。

(家でなんかあったとかかしら? わっかんないわねえ……)

気にはなってたし引っ掛かってもいたけど、考えててもしょうがないし、そのうち何とかなるって思うことにしよう。

「京ちゃん」

「おーっ、涼ちゃん。どったの?」

てなわけで教室の外へ、と思った瞬間、涼ちゃんにバッタリ出くわす。

「ちょっと顔を洗いに行ってたんだ。ねえ、さっき話してた男の子って、確か……今宮くん、だっけ?」

「そうよ。下の名前を風太っていうの。涼ちゃん、風太と話したことあったわよね、確か」

「うん。優しい感じで、私に理科室の行き方を教えてくれたよ。友達になれればいいけど……」

「ほほーっ、涼ちゃんったら、結構前向きになったのね。いいわ、今度風太のこと紹介したげる。きっと友達になれるわ」

「本当? ありがとう、京ちゃん。私も頑張るよ」

なるほど、涼ちゃんと風太か。どっちも気の利くいい性格だし、きっといい友達になれるわね。

風太が元気を取り戻した頃くらいを見計らって、涼ちゃん連れて話しに行こっと。

 

……とかなんとかやってる内に、休み時間はすっかり終わっちゃってて、結局あたしはそのまま席へ戻った。くっそー、せっかくだから外で走り回ったりしたかったんだけどなー。

まあ見ての通りだけど、あたしは昔っからとにかく体を動かしてないと落ち着かなくて、休みの日とかでも一日中外で遊んでる、なんてことはザラにあった。そういう時一緒に遊ぶのが、ご存知の通り智也や風太って寸法だ。琴樹もたまに混じってたけど、琴樹は運動苦手でだいたいのんびり動いてたっけ。それはそれで琴樹のキャラっぽくてよかったけどね。

なんで智也とか風太とよく遊ぶようになったかって言うと、理由はすっごく単純。二人共あたしの家のすぐ近くに住んでるからだ。どっちもあかね台に家があって、あたしもたまに上がり込んで遊んだりしてた。今もしてる。そういうわけで、一応女子のあたしも男子のグループに混ざって遊ぶようになってた……というか、周りには同級生の女子は誰もいなくて、反対に男子は何人もいるって環境だったから、そうするしか無かったって言った方がいいのかも。

でも、最初は結構苦労したっけ。もうあんまり憶えてないけど、なーんか面倒くさかった記憶があるのよね。どんなことがあったっけ――。

ま、いっか。今は考えないでおきましょ。

「きりーつ」

「れーい」

「ちゃくせーき」

いつもながらびっくりするくらい抑揚の無い日直の声に合わせて、立って・腰折って・座って、さあ授業開始。えーっとこの先生は……ああ、算数! じゃなかった、数学だった。未だに数学を算数って言い間違えちゃうのよね。てか何で中学に上がったら数学に名前変わるのかしら。別に算数のままでいいのに。

教科書とノートを机の中から引っ張り出して、とりあえずノートを広げる。途中のページをめくってくと、これがまあ自分で言うのもアレだけど、きったないことこの上ない。隅っこの方で延々と筆算してたり、暇な時にはしょーもない落書きしてたり、もっと暇な時はパラパラ漫画(これがまた輪をかけてしょーもない)を角に書いたりしてて、落ち着きが無いのがここにも出てるわねって、ママが例によってぼやいてたっけ。いいじゃん、スペース余ってるのを有効活用してるだけだし。

とは言え数学自体は嫌いじゃなかったし、問題解くのは好きだ。でもあの先生しゃべるのくっそ遅いから、聴いてると催眠術みたいに眠たくなってきちゃう。あたしが見た限り、智也は一学期で三回は爆睡してた。まー智也は単純馬鹿だししょうがないかー、ふふん。とか言いつつ、あたしも危うく寝掛けたことが二、三度。割と危なかったわね、あれは。

頬杖付いてぼーっと授業を受けてたんだけど、途中で先生の動きが止まった。黒板をチェックすると、何やら問題が書かれてて、いかにも答えを書いてくださいよーってスペースがぽっかり空いてる。んー、これは恐らくあれね。間違いない。

「はい。では、この問題が分かる人ー」

はーい予想通り来ましたー、「この問題が分かる人」ー。問題が解けた人は挙手をして、黒板に回答を書きましょうってパターンだ。これかったるいのよね、やっぱり。大体誰も手挙げなくて、ほっとくと先生が勝手に当てにくるのよ。どうせ今日も同じパターンだろうし、誰かに任せて放置するのが得策……

「はいっ」

……なんて悠長に構えてたら、意外なことが起きた。起きたというか、起きていた。

挙手とともに声を上げた張本人は、あたしのすぐ近くにいて。

「えーっと……ああ、橋本さんですね。橋本さん、答えを書いてください」

「はい」

すぐ近くというか、隣の座席の、涼ちゃんで。

あたしが隣で目をまん丸くしていると、立ち上がった涼ちゃんが一瞬だけあたしに目配せして、さながら(頑張ってくるよ)とでも言うかのような凛とした表情を見せた。あたしが大きく目を見開いて広げた視界の中で、涼ちゃんが黒板へと吸い寄せられていく。涼ちゃんの背中が小さくなっていって、黒板の前でぴたりと止まった。

チョークを手にすると、涼ちゃんはカツカツと音を立てて黒板に答えを書き付けていく。その動きは淀みない。ちゃんと答えが頭に入っていて、自信を持って書いているのがこっちにも伝わってくる。やがてすっかり答えを書き終えると、涼ちゃんはチョークを置いて先生の顔に視線を向けた。

「先生、以上です」

「はい、ありがとうございます。では、答え合わせをしましょう」

前方では先生による答え合わせが始まってたけど、あたしの意識はもう今の教室には無くて、ずっと昔の、もっと広く感じた教室へと移っていた。

小二の時だった。涼ちゃんとあたしは座席が離れていて、授業になると涼ちゃんは一人ぼっちになってしまっていた。

「じゃあ、この問題を……橋本さん、答えを書きに来てください」

縮こまってなるべく目立たないようにしてたけど、どういうわけかよく先生に指名されて、黒板に答えを書くように言われてたのよね。なんかこう、当てやすい雰囲気があったのかも知れない。名前を呼ばれるたびに、涼ちゃんは驚いて大きく顔を上げて、じーっと前を見てた。

名前を言われたからには、前に出て行かなきゃいけない。だけど涼ちゃんはみんなの前で目立つのがヤだったから、黒板まで出て行くのが怖くて仕方ないって言ってたっけ。なかなか出て行けない、でも出なきゃ先生に怒られる。行くのも大変、引くのも大変。さあ、どうすればいい?

そういうときは、決まって――

「はーいっ! あたしが書きますっ!」

――あたしが代わりに出て行って、涼ちゃんは前に出なくてもいいようにしてあげたっけ。

先生が戸惑ってる隙にずんずん前に出て行って、慌ててる間に有無を言わさず答えを書いて、有耶無耶のうちに終わらせちゃう。大抵これでうまく行って、あたしの代返は成功した。たまに追い返されることもあったけど、それでも仕切り直しで全然別の子に当てたりして、涼ちゃんが関わらなくて済むようになるのが大半だった。

あたしがそうやって涼ちゃんを助けた後の休み時間には、涼ちゃんはあたしに決まって「ありがとう」とお礼を言ってくれた。そう言われるとあたしは照れくさくなってきて、「別に、お礼なんて言わなくてもいい」って言ったりしたっけ。でも、涼ちゃんはそれでホントに嬉しそうにしてくれて、あたしもその涼ちゃんの顔を見るのが好きで――。

確かに、そうだったはずなのに。

今の涼ちゃんは、自分から挙手をして、進んで前に出て行くようになっていた。堂々と答えを書いて、落ち着いて先生に確認してくださいって言えるようになっていた。

どうしてだろう。黒板へ向かって行く涼ちゃんの姿が、心なしか、自分のすぐ近くにいた涼ちゃんが、遠くへ行ってしまうかのような構図に見えて。あたしの心が一瞬、ほんの一瞬だけ、微かにざわついた――気がした。

そんなことありっこないのに。涼ちゃんがどっかに行っちゃうなんて、もう、考えたくも無いのに。

(あたしが日和田にいない間に、変わったのかしら……)

今度、日和田にいた頃の話を聞いてみよう。一人で何してたとか、別の友達はできたのかとか、新しい遊び場は見つかったかとか。そうだ、それがいい。あたしがいなかった頃の涼ちゃんをしっかり知って、こんなちっぽけなことで戸惑わないようにしなきゃ。

あたしと涼ちゃんが、今の関係をいつまでも続けていくためにも。

 

お昼休みを挟んで、待ちに待ったこの時間がやってきた。

「よぉーし! 次は水泳よ水泳!」

体育の時間。それも九月の頭だから、まだやることが残ってる水泳の授業になる。いやーもう今日もうんざりするくらい暑いから、ここらで冷たい水でも浴びて涼しくなりたかったのよね。ホントにいい時間にあるわね、体育。

それに、あたしも泳ぎたかったけど、それよりもっと大きなことがあるのを忘れちゃいけない。

「ねえ京ちゃん。次の時間、体育だよね?」

「その通り! し・か・も……涼ちゃんの得意な水泳なんだから!」

そう。涼ちゃんがこの学校で迎える、初めての水泳の時間なんだから。

前にも言った通り、涼ちゃんは水泳が大の得意だ。小さい頃からすっごく速く泳げたし、川とかで遊んでもあちこちすいすい泳いでたのを憶えてる。みんなの前で水泳が得意ですって言ってたし、今もそのテクニックは衰えてるわけがないって話よ。涼ちゃんの華麗な泳ぎっぷりを見れば、みんなも涼ちゃんに一目置くのは間違いない。つまり、涼ちゃんがこのクラスにポジションを作る絶好の機会ってことよ。

さぁ、教室なんかでちんたらしてる暇は無いわ。さっさと更衣室へ行かなきゃ。

「えっと、京ちゃん。実は……」

「よっしゃー! 涼ちゃん行くわよー!」

「うわっ、ちょっと、待ってー!」

涼ちゃんの腕をむんずと引っつかむと、階段をダッシュで駆け下りて女子更衣室へ一直線。階段降りて廊下通って下側室の横通って、反対側の階段の裏にある扉を抜けてあとはまっすぐ! まっすぐったらまっすぐ!

てな具合で、あたしと涼ちゃんは女子更衣室の前までやってきたんだけども。

「まだみんな来てないみたいねー。ったくお昼休みだからって気が抜けてんだから」

「うわったたた……ちょ、ちょっと京ちゃん、危ないよぉ……それに、ちょっと待ってほしかったんだけど……」

「あら、どったの涼ちゃん。何かあったっけ?」

「あのね京ちゃん、今日の水泳……」

「……あーっ! やばっ、涼ちゃん水泳セット持ってきてないじゃない!」

「あ……うん。それは確かに……」

なんてこった……あたしが全力ダッシュかまして急ぎすぎたせいで、肝心の涼ちゃんが忘れ物をキメちゃった。しかもよりによって水泳セットだ。これがなきゃ始まるものも始まらない。一体何のためにここに来たのか分かりゃしないわ。さすがにちょっと急ぎすぎたみたい、反省しなきゃね。

「ごめんね涼ちゃん。お詫びにあたしもっかいダッシュして、涼ちゃんの水泳セット持ってくる!」

「待って――待ってったら! 京ちゃん!」

「えっ……?」

走り出そうとしたあたしの背中から、想像もしていなかったような調子の――普段なら見せないくらいの強い調子の声でもって、涼ちゃんが「待って」と声が飛んできた。あたしが面食らってその場に立ち止まると、涼ちゃんはあたしの方へ向かって歩いてくる。あたしのすぐ前に立つと、涼ちゃんはあたしにこう言った。

「京ちゃん、ごめんね。せっかく、わたしと一緒に泳げるの、楽しみにしてくれてたみたいだけど」

「今日の体育……見学するよ」

今日の体育は見学する――涼ちゃんがあたしに告げたのは、そんな内容だった。

あたしは少しの間何の反応も返せなくて、どんな風に返事すればいいのか分からなくて、そもそも涼ちゃんが何を言ってるのかもうまく飲み込めなくて。頭が追いついたのは、涼ちゃんが言葉を発し終えてから、たっぷり十秒くらいも経ってからだった。

「えっ……涼ちゃん、体育の時間、休むの……?」

「うん。だから、それを京ちゃんに伝えなきゃって……」

「じゃあ、水泳セットも……?」

「そうだよ。今日は、初めから見学しようって思ってて、持ってきてないよ」

「そんな……涼ちゃん、ちょっと、どうして……?」

要領を得ないあたしの質問に、涼ちゃんは困ったように顔を俯けながら。

「わたし、体の具合が、その……」

詰まりそうな声で、そう応えて見せた。

「涼ちゃん、体の具合悪いの? 保健室行く? あれだったら、早退しても……」

「ううん、そういうことじゃないの。ただ……水泳は、できなくて……」

保健室へ行ったり、早退する必要があるような「体の具合が悪い」とは、何かが違う――涼ちゃんの様子を見ていると、あたしでもなんとなく言いたいことは分かる気がする。だけど、具体的に涼ちゃんがどんな状態になってるのかは、全然、想像も付かなかった。だから、心配なことに少しも変わりなんて無かった。

隣のあたしがよっぽど情けない顔をしていたんだろう、涼ちゃんは少し申し訳無さそうにして、ぽつりぽつりとこんな言葉を口にした。

「心配掛けてごめんね。わたし、いつも京ちゃんに迷惑掛けてばっかりで……」

「そんな! 迷惑とかじゃないし! だって、涼ちゃんあたしの大事な友達だもん。全然迷惑とかじゃないけど……でも、ホントに大丈夫だよね?」

「うん、体調は大丈夫。ただ、水泳は見学するよ」

涼ちゃんが嘘を付くとは思えない。今の真面目な顔付きを見てても、涼ちゃんの言うことは信じていいに違いない。だから、今の涼ちゃんは体調が悪い訳じゃない、だけど水泳はできない。それを信じてあげるべきだ。

あたしは、涼ちゃんの親友なんだから。

「そっか……分かった。話聞かずに飛び出してきてごめんね」

「ううん。わたしも、もっとしっかり言えばよかったよ」

「でも、残念。せっかく涼ちゃんのすんごいテクニックが見られると思ったのに」

涼ちゃんが水泳を見学すること。それは涼ちゃんの選択だから尊重したげないといけないし、あたしもしっかり尊重するつもりでいる。尊重するつもりだけど、でも……涼ちゃんが上手に泳ぐ姿を見られなくて残念だって気持ちも、またあたしの中にあった。

「涼ちゃんさ、泳ぐのすごく上手だったじゃない。それ見られると思って、楽しみだったから。それに、みんなも涼ちゃんがかっこよく泳ぐの見たら、橋本さんってすごいんだー、って、そんな風になって、クラスがもっと楽しくなるに違いないって思ってたから……」

「そうだよね。優しい京ちゃんのことだから、きっと、そこまで考えててくれたと思う。わたしが早くクラスに馴染めるようにって、いろいろ気を遣ってくれてるからね。だけど……あれを、上手って言っていいのかな」

「えっ、だって涼ちゃん、すごい上手だったじゃん。それこそ水泳選手になれそうなくらいだったし。ええっと、誰だったか忘れちゃったけど、昔さ、日和田出身のすごい水泳選手がいたじゃない、女の人の。あの人顔負けの泳ぎっぷりだったわよ、外から見てたら」

困ったことに名前がさっぱり出てこないんだけど、とにかくそんな水泳選手がいたのは憶えてる。日和田の川を遊び場にしてて、子供ながらに大人を打ち負かすくらいの凄まじい泳ぎを見せた女の子がいたらしい。で、その腕を見込まれてずーっと昔のオリンピックに出場して、その競技で初めての金メダルを獲ったんだって聴いた。涼ちゃんはテレビで見たその人に負けないくらいの力強い泳ぎをしてて、こりゃすごいって目を見開いたものだったわ。

「どうしたのよ、涼ちゃん。なんかこう……自信無さそうな顔しちゃてさ」

「ううん。なんでもないよ。ただ……」

「ただ……?」

「あれが――本当に、自分の実力なのかな、って……そう思って」

涼ちゃんはそう言って、そのまま口を噤んでしまった。

対するあたしはまたしても何を言えばいいのか分からなくなって、ただ時間の流れるに任せていたけど。

「おっ、いたいた。京香ーっ、更衣室開いてるー?」

「あ、かっちゃん……うん、もう開いてるっぽい」

そうこうしているうちに、他のクラスメートたちが続々とやってくるのが見えた。

「あら? 京香ったら、まだ着替えてなかったの? だいぶ早い内に出てったから、もうとっくに着替え終わってると思ってたけどねえ」

「うん、まあ、ちょっと……涼ちゃんと話してたら、遅くなっちゃって」

「あの……すいません。今日ちょっと、見学したくて……」

「あれ、橋本さんも? よかったぁ、私もだよ」

そう言って前に踏み込んできたのは、あっきーだった。涼ちゃんと同じで、水泳セットを持っていないから、これは間違いなさそうだ。

「あっきー、今日見学するの?」

「そうだよ。先生にはもう伝えてあるけど、橋本さんは今日が初めてだったよね。私が先生のところまで案内するよ」

「ありがとう、助かるよ」

先生に見学することを伝えにいくために、あっきーと涼ちゃんが連れ立って元来た道を戻っていく。

「でも涼ちゃん、どうしちゃったんだろ……体調悪くないのに、見学なんて……」

「えっ、そりゃあそんなことも普通にあるっしょ。この年頃の女の子だったら、尚更ね」

「そうそう。七月はあたしも休んでたからねえ。橋本ちゃんもあっちゃんも、大変だわ」

「ちょっとかっちゃん、それになおちゃん。どういうこと、どういうことなの?」

「あー、もしかして、京香はまだだっけ? でも、こんなとこでする話じゃないわね」

「あんまり嬉しいもんでもないけど、ま、仕方ないわねえ。個人差あるし、京香もその内分かるようになるって」

かっちゃんもなおちゃんも、いまいち何が言いたいのか分からない。こんなとこでする話じゃない? あんまり嬉しいものでもない? 個人差がある? その内分かるって言われても、ちっとも分かる気がしない。

もやもやした気持ちを抱えたまま、あたしはとりあえず更衣室で着替えることにした。

(プールで泳ぎ回れば、忘れられるかも……)

微かに汗のにおいがする制服を脱いで、ビニールの水着に足を通しながら、あたしはそんなことを考えていたけれど。

結局、授業の終わりまで、あたしの言いようの無い気持ちが晴れることは無かったのだった。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586