「コラッタの頭」

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「ただいまーっ」

「おかえりなさい、はじめちゃん」

今日もお外でいっぱい遊んで、はじめちゃんはお家に帰ってきました。くつを脱いでスコップを置いて、しゃきっと玄関を上がります。

はじめちゃんはお外で遊ぶのが大好きな、普通の女の子です。これといって変わったところの無い、どこにでもいそうな女の子です。

「さあ、手を洗いってらっしゃい。綺麗にね」

「はーいっ」

はじめちゃんは元気な返事をして、奥にある洗面所まで走ってゆきました。

宅地造成でできた、大きな大きな団地。はじめちゃんは、そこにある一室で暮らしています。この辺りには、はじめちゃんのような年頃の子もたくさんいますから、遊び相手に困ることはありません。

手をしっかり洗ったはじめちゃんが、テーブルを囲む椅子の一つに座りました。

「はじめちゃん。今日もたくさん遊んだの?」

「うんっ。いっぱい遊んで、楽しかったよー」

「そう、それは良かったわ」

「たくさん遊んだよ。だからね、はじめのこと褒めてー」

はじめちゃんが、ぐっと身を乗り出しました。

「じゃあはじめ、ご飯の用意するねー」

「ええ。はじめちゃん、お願いするわ」

こうして、はじめちゃんの平和な時間は流れていくのです。

「明日の対戦カードは、ジョウト地方日和田市出身の女性トレーナー・嬉野玲花選手と、ホウエン地方カイナ市出身の小学生トレーナー・水瀬一海選手です」

「嬉野選手は昨年現役に復帰したというカムバック組、方や水瀬選手は今年初出場の新顔です。対照的な両者の対戦、見逃せませんね」

付けっぱなしのテレビから、そんな声が聞こえてきました。

朝になれば、はじめちゃんはきちんと早起きをして、元気に学校へ行きます。

あっという間に学校までたどり着いて、颯爽と教室に入ると、はじめちゃんはランドセルから教科書とノートをしゃきしゃきと取り出します。

「ねえ、またあったんだって。あの事件」

「数が増えてるって聞いたよ。見つかるたびに、だんだん……」

「それって、それだけいっぱい切ってるってことだよね……」

はじめちゃんの隣でお友達が二人、何やらひそひそ話をしていますが、はじめちゃんはこういうことにあまり興味が無いので、文字通り見向きもしていません。

学校でしっかりお勉強をして、一番に教室を出て、お外でいっぱい遊ぶ。はじめちゃんには、それが一番大切なことだったのです。

「はじめちゃん、おはよう」

「おはよっ、ともえちゃん」

登校してくるクラスメートに、丁寧に挨拶。はじめちゃんにとっては、ごく当たり前のことなのです。

クラスメートがみんな揃って、最後に先生が教室に入ってきました。

「みんなー、席に着けー」

立ち話をしていたり、遊んでいた子供たちをきちんと席に座らせると、先生は朝の会を始めます。

今日の予定のこと、明後日の授業参観のこと、提出物のこと。いつものように話をしてから、先生は「今日はもう一つ話がある」と付け加えて、また別の話を始めました。

「最近、刃物を持ってこの辺りをうろついてる人がいるらしい」

先生の話は、ご町内に刃物を持った怪しい人がいるというものでした。ぎらぎらと刃物をちらつかせながら、住宅街を一人で歩いている、とても危険な人だそうです。

けれど、はじめちゃんにはそれほど興味のある話ではなかったようです。

昨日ちょっと夜更かししたこともあって、お口を開けて大きな大きなあくびをしています。

「……最近、それがたくさん見つかる事件があった。皆も気をつけるように、な」

はーい、とみんなと揃って生返事をしたはじめちゃんの目は、やっぱりちょっと眠たそうでした。

 

学校の授業は、真面目に受けていればすぐに終わってしまいます。

はじめちゃんは教科書とノートをランドセルにぐいぐい詰め込むと、だだだっと教室から駆けていきました。今日も一番のお帰りです。

「守。俺、昨日ポケモンセンターに行ったんだぞ」

「そうなんだ。もしかして、ポケモンをもらいに?」

「そうだぞ。昨日は見に行っただけだけど、今週の日曜にもらいに行くんだ」

クラスメートの男子二人が、走っていくはじめちゃんのお隣で話をしています。ポケモンセンターに行ったという男の子はとても興奮した様子で、もう一人の男の子に話していました。

はじめちゃんのいる地域では、子供は十歳になると、別の人からポケモンをもらったり、自分でポケモンを捕まえたりすることができるようになります。男の子が話していたのは、このことだったのです。

しかも。それに加えて、ポケモンと一緒にあちこちを旅して歩くことができるようになります。その間、学校に行ったりする必要はありません。

「公園っ、公園っ」

けれど、はじめちゃんにはまるで興味の無い話でした。ポケモンをもらいたくない子や捕まえたくない子は、別にそうしなくても良かったですし、家から学校に通うことをそのまま続けても、何も問題はありませんでした。

はじめちゃんは、きちんと勉強をして、それからお外でいっぱい遊んで、お母さんに褒めてもらうのが一番の楽しみです。ポケモンと一緒に旅に出ることなんて、考えたこともありませんでした。

「守は行ったりしないのか? ポケモンセンターに」

「うん、ぼくはいいよ。コラすけがいるからね」

「おっ、そういやそうだったな。でもよ、気をつけろよ。最近危なっかしいからな」

「大丈夫。コラッタの頭を切り落としちゃうようなひどい人は、僕が懲らしめるよ」

男子二人の会話を背にして、はじめちゃんは走っていきました。

 

さて、今日も日が暮れるまでたくさん遊んで、はじめちゃんは自分のお家に帰ってきました。

「ただいまーっ」

「おかえりなさい、はじめちゃん」

はじめちゃんはランドセルをベッドの上に投げるように置いて、スコップを靴箱の上へ戻しました。お片づけもそこそこに、はじめちゃんはリビングへ走って行きます。

「今日もよく遊んだわね、はじめちゃん」

「うんっ。たっくさん遊んできたよーっ。かくれんぼとか、鬼ごっことか!」

「元気が一番ね。さあ、はじめちゃん。いつものように、手を洗っていらっしゃい」

「はーいっ!」

洗面所で手を綺麗に洗うと、はじめちゃんはぱたぱたとリビングへ戻ります。

「お母さんっ、お母さんっ」

「どうしたの? そんなに慌てて」

「あさってねー、授業参観があるの。知ってる?」

「もちろん、知ってるわ」

「じゃあ、お母さん、見にきてくれる?」

はじめちゃんが話したのは、明後日に行われる授業参観のことでした。教室の後ろにお父さんやお母さんがずらりと並んで、はじめちゃん達が授業を受けている様子を見学するのです。お母さんが大好きなはじめちゃんは、もちろんこれに来てもらおうと考えていました。

「決まってるじゃない。はじめちゃんが頑張ってるところ、しっかり見に行くわ」

「わーいっ! はじめ、頑張って手上げたりするからーっ」

お母さんが見に来てくれると知って、はじめちゃんは飛び上がるほど喜びました。授業参観でかっこいいところを見せれば、お母さんに褒めてもらえること間違いなしです。

「お母さんお母さんっ、はじめのこと褒めてー」

「ふふふ。もう少ししたらね。その時は、たくさん褒めてあげるわ」

「はーい。はじめ、もっともーっと頑張るねっ」

テーブルに座ったはじめちゃんが、元気良く声を上げました。

「次のニュースです。本日行われた第六十八回ホウエンリーグ二回戦で、今年初出場となる小学生の水瀬一海選手が、対戦相手の嬉野玲花選手をストレートで破り、準々決勝へと駒を進めました」

「嬉野選手はこれが五度目の挑戦となりましたが、雪辱を果たすことはできませんでした。足早に会場を後にする嬉野選手の背中からは、悔しさに溢れた様子が伝わって来ました」

テレビでは、遠く離れた豊縁地方で行われた、ポケモンリーグの様子を伝えていました。はじめちゃんと同じくらいの年頃の子が、それよりもずっと年上の女性トレーナーに快勝した、ということのようでした。

けれども、はじめちゃんはまるで興味を示しません。

「お母さん」

「どうしたの? はじめちゃん」

はじめちゃんは声をあげて、確かめるような口調で言いました。

「はじめ、旅になんか出ないよ。トレーナーになんかならないよ」

「ええ。知ってるわ、はじめちゃん」

「ポケモンなんかといるより、お母さんと一緒にいたいもん。ね、いいでしょ? お母さん」

「もちろんよ。お母さんも、はじめちゃんが側にいてくれた方が嬉しいわ」

はじめちゃんは、それよりもここにいることの方が、ずっとずっと大切なのです。

「そうだよね! じゃ、はじめ、ご飯の支度するね!」

「いつもありがとうね、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんがいてくれて、とても嬉しいわ」

「ホントに? ずっと、そう思ってくれる?」

「ええ。初めのうちだけじゃなくて、今も、そして、これからも。ありがとうね、はじめちゃん」

お母さんに褒めてもらうのが、はじめちゃんの一番の楽しみなのです。

今日も今日とてはじめちゃんは、元気良く腕を振って学校への道を歩きます。

道なりに歩いていると、同じく学校へ行く途中のクラスメートが、何やら話をしているのが聞こえてきます。はじめちゃんが、少し耳を傾けてみます。

「琥珀ちゃん、今日学校休むんだって」

「えっ、どうして? 昨日は元気そうだったのに」

「昨日ね、家に帰る途中に、刃物を持った人に出会って、後ろから追い掛けられたんだって」

「そんなことあったんだ……」

「うん。なんとか逃げ切ったんだけど、すごくショックだったみたいで、今日は学校お休みするって。琥珀ちゃんのお母さんが言ってたよ」

何やら怖い事件があったようです。おそらく、昨日先生が話していた、刃物を持った怪しい人のことなのでしょう。どうやら、はじめちゃんの同級生が襲われてしまったようです。幸い命に別状はなかったようですが、怖い話に違いはありません。

はじめちゃんは話を聞いてはいましたが、特に興味があるわけではなさそうでした。自分には、それほど関係ないことだと思っているみたいです。

教室に入ると、はじめちゃんはいつも通りきびきびランドセルから教科書とノートを取り出して、授業を受ける準備をさくさくと進めていきます。

「にゃはは! いっちー、おはようぞよ!」

「おはようっ、まりちゃん」

はじめちゃんは、漢字で「一」と書きます。なので、このまりえちゃんのように、はじめちゃんを「いっちゃん」とか「いっちー」と呼ぶ子も時々います。

準備をして友達とおしゃべりをしていると、またいつものように、先生がのそのそと姿を表しました。はじめちゃんはさっと席に戻ると、佇まいを直して椅子に座ります。

「きりーつ!」

さあ、今日も授業の始まりです。

 

お昼休み。給食を残さず綺麗に食べたはじめちゃんが運動場へ遊びにいこうとすると、ふとある光景が目に飛び込んできました。

「戸川先生、昨日もまた、見つかったそうですね」

「ええ。そうみたいですね……一体誰が、あんな酷いことを……」

「まったくです。犯人は、コラッタを一体なんだと思っているのか……」

担任の先生が、誰かと話をしています。よく見ると、それはちょっと離れたクラスの担任をしている、戸川先生のようでした。

先生同士が話をしているのは珍しいことですが、はじめちゃんには大して気になることでもないようです。さっとその場を離れると、みんなが遊んでいる運動場へ走っていきました。

「あと……嬉野さんは、あれから大丈夫ですか?」

「ええ。色々ありましたが、今は落ち着いているように見えます。皆とも仲良くしています。ただ──」

「ただ?」

「はい。その……連絡帳の保護者欄に、何度言っても必ずサインがあるんです。何故か、必ず……」

興味のないことには振り向かない。それがはじめちゃんの性格でした。

「はじめも混ぜてーっ」

運動場に出てみると、もうクラスメートが数人、固まって遊んでいました。はじめちゃんは迷わずその輪の中に入っていくと、あれよあれよという間に馴染んでしまって、すぐに遊びに熱中し始めました。

お昼休みももうあと五分くらいで終わる。そんな時間になったころでした。

「やっぱり、コラすけと一緒に行くんだな。思ったとおりだけどよ」

「うん。ぼくも外の世界を見てみたいんだ。小さい頃からずっと側にいる、コラすけと一緒に」

「幼稚園の頃に拾ったんだよな、コラッタのコラすけ。よく懐いてて、羨ましいぜ」

クラスメートの守くんと準くんが、鉄棒にぶら下がりながら、この間の続きのような話をしていました。守くんはねずみポケモンのコラッタに「コラすけ」という名前をつけて、可愛がってあげているようです。

コラすけは、守くんが幼稚園に通っていた頃、道端で弱って倒れていました。食べ物が見つからなくて、弱ってしまったようでした。守くんが拾ってあげたことでコラすけは命をつなぎ、以来守くんにくっついて離れなくなりました。守くんも、そんなコラすけのことをとても大事にしてあげています。

そんな守くんも、もうすぐ十歳になります。一人で旅に出ても、もう大丈夫な歳です。一緒に旅をするパートナーとして、守くんはずっと一緒にいるコラすけを連れていくみたいですね。

「……」

ずっと一緒にいましたから、きっと心も通っていることでしょう。辛く厳しい旅路も、仲間と一緒なら乗り越えられるものです。

守くんの旅立ちは、もうすぐそこにまで迫っていました。

 

すっかり日も沈んで、辺りが赤く染まった頃のこと。

「さぁて。今日もたくさん遊んだし、帰ろうっと」

はじめちゃんはお気に入りのスコップを手に取ると、森を抜けて公園に出ました。だいぶ派手に遊んだのでしょう、服は泥だらけになって、おまけにあちこち濡れています。ちゃんとお洗濯をしないと、服が台無しになっちゃいそうです。

ぱたぱた走って、はじめちゃんは家のちょっと重いドアを思い切り開けました。

「ただいまーっ」

「おかえりなさい、はじめちゃん。今日はたくさん遊んだみたいね」

「うん。今日はねー、お友達と一緒に遊んだんだー」

「そう、それはよかったわ。楽しかったでしょう。さあ、手を洗ってらっしゃい」

「はぁーいっ!」

はじめちゃんは靴を脱ぎ捨てると、洗面所にダッシュしていきました。水をざーっと流して、手を綺麗に洗います。石鹸も使って、ごしごし、ごしごし。染み付いた汚れを、剥がすように洗っていきます。

何度か水でゆすいで、はじめちゃんの手はすっかり綺麗になりました。

「お母さんお母さんっ。明日だよっ、明日なんだよっ、授業参観っ」

「ええ、分かってるわ、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんの授業を見にいくの、楽しみにしてるもの」

「うんっ。いっぱい手を上げて、黒板に答えを書いて、お母さんに褒めてもらうんだー」

明日は待ちに待った授業参観。はじめちゃんはお母さんに褒めてもらおうと、今から大張り切りです。きっと、日頃きちんと勉強している成果を見せられることでしょう。

「ねえ、お母さん。はじめ、授業参観で頑張るから、お母さんもはじめのこと、なでなでしてね。約束だよ」

「約束するわ。頑張ったら、たくさん撫でてあげるわね」

はじめちゃんの一番してほしいこと。それは、お母さんに頭を撫でてもらうことです。お母さんの優しい手つきで、ゆっくりゆっくりなでなでしてもらう。はじめちゃんが、この世で一番幸せだと思える瞬間です。

「明日お母さんが元気に学校に来れるように、はじめ、とびっきりおいしいご飯作るね!」

「ふふふ。お母さん、今から楽しみだわ」

はじめちゃんの楽しげな声が、リビングに響いていました。

翌日。朝の教室は、いつもとちょっと違っていました。

「みんな。この中で、昨日新本君と放課後に会った子はいるか?」

いつもと違うのは、今日がはじめちゃんの待ちに待った授業参観の日だから、というわけではなさそうでした。担任の先生が、みんなに質問をしています。

教室の座席が、一つだけ空いていました。守くんの座席です。先生は新本くん、もとい守くんと最後に会った子は誰かと、みんなに尋ねていました。

「昨日から、新本くんが家に帰っていないんだ。もし見かけたら、先生に教えてほしい。みんなの家の人でも構わない。見かけたら、すぐに教えてほしい」

先生がみんなに呼び掛けていますが、はじめちゃんはどこ吹く風という面持ちで、この後の授業参観のことで頭がいっぱいです。

そうですね、どちらかというと、授業参観そのものよりも、授業参観でお母さんに格好いいところをたくさん見せて、褒めてもらうのが一番の目的でしょうね。それが、はじめちゃんの楽しみですから。

窓の外を眺めているはじめちゃんは、先生の話もちっとも聞かず、ずっとお母さんのことばかり考えていたのでした。

それにしても、守くんはどこへ行ってしまったのでしょう?

「……」

守くんが学校に来ていませんが、授業参観は予定通り始まりました。みんなのお父さんやお母さんがずらりと並んで、中にはお兄さんやお姉さん、それにおじいちゃんやおばあちゃんも混じっています。

「ともえちゃん! お母さん、応援してるわよーっ!」

「あの人、ともえちゃんのお母さんなんだね。お姉ちゃんみたい」

「えへへっ。今日は来られないかも、って言ってたから、来てくれてうれしいよ」

張り切って子供の様子を見にきている人もたくさんいます。その人達の姿を代わる代わる見つめながら、はじめちゃんがもう待ちきれないとでも言いたげな様子を見せています。

お母さんが来てくれる、お母さんが授業を見てくれる、お母さんが褒めてくれる、お母さんが頭を撫でてくれる。楽しみで楽しみで、仕方がありません。

「よーしみんな、席に着け」

さあ、いよいよ授業参観の時間です。先生がいつもよりちょっとだけぴしっと決めて、教室に入ってきました。クラスメートのみんなと父兄の皆さんが、一斉に先生の方を向きます。

はじめちゃんが、ぐっと気合いを入れ直します。

「お母さん、見ててねっ」

「ねえはじめちゃん。はじめちゃんのお母さんって、どの人? もう来てる?」

「はじめのお母さん? えっとねー……」

隣の席のみどりちゃんが、はじめちゃんに話しかけました。はじめちゃんはくるりと後ろを向いて、きちんと並んだお父さんやお母さんたちの中から、はじめちゃんのお母さんを探します。あれほど来てくれると言っていたのです、必ず、はじめちゃんのお母さんもいるはずでしょう。

……けれど。

「あれ……? お母さん、いない……」

「まだ、来てないのかな?」

はじめちゃんのお母さんの姿は、教室の後ろの、どこにも見当たりませんでした。何度見回してみても、お母さんの姿がありません。

きょろきょろと、繰り返し繰り返し、はじめちゃんが後ろを見返します。お母さんはきっといるはず。そう信じて、はじめちゃんは背筋をピンと伸ばして、大きな瞳をいっぱいに開いて、お母さんの姿を探します。

その時でした。

「あっ。誰か、走ってきてる」

廊下の方から、誰かが走ってくる音が聞こえます。かなり慌てているようです。はじめちゃんのいる教室に、走って近付いてきているようです。

お母さんだ。はじめちゃんはそう確信しました。きっと、どこかで信号待ちをしていたり、遠回りをしてしまったりしていたのでしょう。みんなのお父さんお母さんたちからはちょっと遅れてしまいましたが、まだ授業は始まっていません。

はじめちゃんの晴れ姿を見せる、その時が近づいて来ました。

「お母さんっ、早く早くっ」

逸る気持ちが言葉になったはじめちゃんの、大きなくりくりとした瞳の先で──

(がらららっ)

ついに、教室のドアが開きました。

「お母さんっ」

待ちに待った時の訪れに、はじめちゃんは思わず声を上げました。

 

 

「嬉野さんっ! 警察の人が、あなたを連れてくって! 新本君のことで、話を聞きたいって──!」

 

 

教室に飛び込んできたのは、はじめちゃんのお母さん──ではなく、隣のクラスの戸川先生でした。

「戸川先生?! い、一体どういうことです?!」

「警察?」

「はじめちゃん、何かしたの……?」

事情が飲み込めない担任の先生。騒然とする教室の中。みんなが、戸川先生の口にした「警察」という言葉に、驚いた様子を見せています。

けれども──

──けれども。

「なーんだ、お母さんじゃなかったんだ。早く来てほしいなー」

──はじめちゃんだけは、違っていました。

はじめちゃん、だけは。

 

 

──ガラス越しに、取調室の様子が窺える。連れて来られた少女から、女性の捜査官が話を聞いている。男性では話しづらいだろうと、特別に配慮がされたためだ。

「殺された新本守くんの……同級生なんですか、あの子は」

「ああ。同級生で、しかもクラスメートだ」

「信じられません。あの女の子が、同級生の頭を切り落として、殺してしまうなんて」

連れて来られた少女の名前は、嬉野はじめ。連行された理由は、同級生の少年である新本守の頭部を切り落として殺害した疑いが掛けられたため。

そしてその疑いは、はじめ自身の言葉であっさりと肯定された。

「そうだよー。コラすけとずっと一緒にいたいって聞いたから、いっしょにいられるようにしてあげたんだよ。はじめ、えらいでしょ? えらいでしょ? ね?」

無惨に頭部を切り落とされた守の亡骸の傍らには、同じように頭を切断されたコラッタの死体が、まるでそっと添えるかのように置かれていた。守がいつも連れていた、コラッタのコラすけだった。

そして、その周囲には。

「一年程前から起きていたコラッタの虐待事件も、すべてあの子が? 守くんの側に、他にもたくさんコラッタの首の無い死体があったと聞きましたが」

「そうだ。スコップでコラッタを叩き殺して、一つ一つ頭を切断していたらしい。あちこち血だらけで錆びついたスコップが、あの子の家から見つかった。スコップを使ったのは、切った首を後で埋めるためだったようだ」

「それは酷い……しかし、なぜそんなことを」

ガラスの向こうにいるはじめは、あてがわれた女性の捜査官を前にして、身振り手振りを交えながら、無邪気にこれまで彼女が積み重ねてきた「遊び」の数々を、惜しげもなく披瀝していった。

全容が明らかになるまでは、さほど時間を必要とはしなかった。

「あの子の母親は、現役のポケモントレーナーだ。今は豊縁地方にいて、向こうの警察が事情を聞いている」

「えっ? しかし、お母さんと一緒にいるとか、授業参観に来るとか、そういった話をしていますが」

「それは全部、あの子の空想だ。家にいたのはあの子一人で、他には誰もいなかった。母親が契約していたハウスキーパーが、あの家の手入れを続けていたことも分かっている」

「空想、ですか……」

「ああ。自分の空想の中で、あの子はお母さんにとても可愛がってもらっているようだ」

しかし──と、前置きし。

「実際は酷いものだ。母親はあの子を捨てて、ポケモントレーナーとしてあちこちを旅し始めたんだからな」

「それ、本当なんですか?」

「この間、テレビでやっていただろう。女性のトレーナーが、リーグの予選で子供に大敗したと」

「まさか、その女性が親だっていうんですか」

「ああ。あの子を置き去りにして、豊縁まで行っていたというわけだ」

あっさりと話しはしたが、実状はかなり悲惨なものだった。

「嬉野玲花は、元々ポケモントレーナーとして活動していた」

「だが、他の多くのトレーナーと同じように、頂点には立てずドロップアウトした」

「同じようにドロップアウトした男のトレーナーと、なし崩し的に一緒になって、そして──」

──そして。

「あの子が、嬉野はじめが生まれた……そうですよね?」

「そうだ」

沈黙が辺りを包む。言葉を発するのがためらわれる、重苦しい沈黙。

やや間を置いて、捜査官が再び口を開いた。

「向こうの警察と話をして、母親が──嬉野玲花が、あの子に言った言葉が明らかになった」

「それは……一体、あの子に何と言ったんです?」

捜査官は、あえて感情を殺した声で、相方に答えた。

 

「『あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ』」

 

あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ──

──それが、はじめに向けられた言葉だった。

「そう言って、そのまま家を出て行ったそうだ」

もう一人の捜査官は、完全に言葉を失っていた。何も言うべき言葉が出てこない様子だった。

「どうやらその言葉で、嬉野はじめは完全に壊れてしまったようだ」

「遊びと称して、あちこちでコラッタの頭を切断し始めた」

「その矛先が、コラッタを可愛がる新本守にも向けられたわけだ」

「今回の事件は、そうやって起きたんだ」

守が殺されたのは、コラッタのコラすけを可愛がっていたからだった。はじめが言うには、まずコラすけをスコップで殴り殺して、次いで守も同じように叩き殺したらしい。傷跡の分析から、はじめは何のためらいもなく、守にスコップを振り下ろしたことが分かっている。

そして事後、はじめは持ち前の「優しさ」を発揮し、守とコラすけの頭を同じように切り落とした。これが、今回の事件のあらましである。

「皮肉なものだな」

捜査官が呟く。

「あの子は」

 

「ポケモンよりも、母親に愛されず」

「ポケモンを何匹も何匹も、その手に掛けていたというのに」

「ポケモンがいなければ、母親はトレーナーになることもなく」

「あの子もまた、生まれてくることは無かったのだから」

 

ガラスの向こうでは、はじめが屈託の無い笑顔を見せて、こう捜査官に話していた。

 

「だって、コラッタの頭がぜーんぶなくなれば、お母さんがはじめの頭を撫でてくれるんだもん」

 

無邪気に話すはじめの声は、あくまでも、明るいものであった。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586