「Good-bye, Painkiller.」

586

あつくん、あつくん。遊ぼう、遊ぼう。一緒に遊ぼう。

目を閉じると、彼女の声が鮮明に蘇ってくる。僕は時折そのようにして、彼女が隣に居た日々を回想することがあった。かつての美しい日々、今は還らない日々。僕の隣に人の姿は無く、雲の迫り出した暗い空の下で孤独に佇むばかりだった。

それが自分には相応しいのだと、僕は無抵抗のまま受け容れる。今の己れの心境こそが、彼女と共に願い、彼女と共に望み、そして彼女と共に描いたものなのだと。

すべてに背を向けて進み続けよう、前にあるのは空虚な虚構だけだから。大人になっていく躰に残ったわずかな光、それは無知な子供の瞳。これを失うとき、それが即ち「いのち」の終わりなのだろう。

たぶん、彼女は全てが正常で、それでいて総てが狂っていたから、この世界には適合できなかったんだと思う。彼女は拒絶されて生まれてきた。世界という大きな躰のちっぽけな癌として生まれて、そして速やかに切り捨てられた。正常な細胞を壊さないために、「いのち」の終わりを遠ざけるために。彼女は躰から刈り取られて、塵箱に落ちていった。

ひとつだけ、消えることのない「いたみ」を残して。

 

――いたいの、いたいの、とんでかないで。

 

 

河原沿いの細い道。群れを成すうろこ雲が、碧色から橙色に移ろうカンバスに描かれている。僕はそんな空の下を一人、少しだけ覚束ない足取りで歩いていた。ふらついていたわけでもない、けれど大地をしっかり捉えていたわけでもない。空は飛べない程度に浮揚した感覚が、僕の躰を包み込んでいた。珍しいことではない、僕にとってはごく有り触れた感触。

空を見上げる。ずらりと並んだうろこ雲。空には今、はっきりと目に見える雲がある。誰もがその存在を認識することができる。雲は、確かに空にある。しかしひとたび風が吹けば、雲はたちまち姿を消してしまうことだろう。あれほど数が集まっていて、一つ一つが十分に大きくて、何より僕には手の届かない高みにあるのに、風という只一つの要因だけで、いとも容易く塵も残さず消えてしまう。そこに何らの例外は無く、地球が生まれてこの方数十億年、絶えること無く反復された夢現の泡沫。

そこに雲があったことを知る者はなく、雲は己れの儚さを知ることはない。

ポケットに込めた左手に籠もる力。あるいは僕もまた、空に於ける雲のような実体のない「いのち」なのかも知れない。僕の心に去来する思いを懸命に握りつぶすように、熱を帯びるほど強く強く、小さな握りこぶしを作る。

地べたに生きた骸が見えたのは、僕の独り善がりな懊悩に仮初めの決着が付いた時とほぼ一致していた。

僕は脊髄反射の如き速度でもって、未だ蠢く小さな骸の元へ駆け寄る。屈み込んで検分してみると、地面に身を横たえていたのはまだ子供のオタチだった。尻尾がほぼ根元から引き千切れ、切断面からは鮮血に塗れたクリーム色の骨がわずかに顔を覗かせている。道を走る乗用車に轢き逃げされたのだろう。この道ではとてもよくあることだった。慌てて逃げようとしたが間に合わず、タイヤに尻尾を巻き込まれたと見るのが妥当だと思った。

「君は善く生きた。僕が君を召そう」

ほぼ全身が血に濡れたオタチの子を抱えて、河原の下の河川敷まで降りてゆく。オタチの混濁した瞳に、果たして僕の姿はどう映っていただろうか。恐らくはもう、何かを思考するだけの余力も残余していないだろう。強いて言うなら、自分よりも大きな生物であるという程度の認識は、本能としてあったかも知れない。少なくとも、僕が自分を助けようと思っている、などとは思っていないことだけは間違いないだろう。

草むらに屈み込むと、そっとオタチの身を据える。真っ赤に染まった右手で十字を切ると、続けざまに左手をカバンのポケットに挿入し、すぐさま引き抜く。

取り出したるは、きらりと光る白銀の刃。よく研磨された、大きなナイフ。

「現世に於ける汝の魂が、主の御座します天の園へ帰り」

「来世に於ける汝の生が、より善いものとならんことを」

両手で木の柄を掴むと、僕は目を見開いたまま、オタチの躰の中心に刃を突き立てた。

顔に温かい飛沫が飛び散ったかと思うと、瞬く間に僕の体温と馴染んで、そこにあることの違和感を減じていく。刃を骸に突き立てた瞬間、眩暈と寸分違わぬ感覚が僕を襲って、全身を電撃が走るのを覚えた。微かに歯を食いしばって、飛散しそうになる意識を一所に集める。歪んだ視界が元の姿を取り戻すと、真っ赤になったオタチが見えた。

オタチは、とう事切れていた。

突き立てたナイフを引き抜くと、傷口から血が止めどなく溢れ出てくる。魂が傷付き損なわれた肉体から解放されたことを悦ぶように、躰を巡り躰を生かしていた血液が、我先にと外界へ噴き出してゆく。肉体という閉塞を打ち破った血は土へ還り、やがて風雨がその痕跡を消すのだろう。

さながら、風が雲を散らしてゆくように。

僕は再びナイフを手にすると、オタチの左胸に刃を添えてひと思いに切り裂いた。辺りに漂う血の匂いが、一層より一層、濃厚なものになる。鼻腔をくすぐる血の匂いを肺に取り込みながら、僕は機械的な手つきでオタチの腑分けを続ける。肉を掻き分けた先に見えたのは、小さなオタチのさらに小さな心臓だった。

血管を切断して肉体から孤立させると、まだ体温がはっきりと残る心臓を右手に取り出す。

「……さようなら。せめて天へ速やかに帰れるように、僕は君を記憶に止めることはしない」

僕はぐっと目を閉じると、躊躇うこと無く右手を閉じる。

手の中で命が弾ける感触がして、僕の周囲の時間が一瞬だけ、確かに凍りつくのを感じた。

開眼する。かつてオタチだったものを見下ろしながら、僕はすっと立ち上がる。軽い立ち眩みに襲われたのは、ただ僕が屈んでいたからだろうか。その答えを僕は知らない。右手の力を抜いて手のひらを大気に曝すと、中に止められていた命の破片が零れ落ちて、肉塊と血溜まりでできた海へ落ちていった。

終わった。そう考えた僕が回れ右をして、河川敷から消えようとした刹那のこと。

「血のにおい、いいにおい。みなぎる『いたみ』、あふれる『いのち』のほとばしり」

右手に立っていた女の子が――そう呟いた。

僕は不意を突かれて、とっさに返す言葉を見つけられなかった。輪郭のぼやけた、どこかふわふわした空気を漂わせながら、彼女は僕の隣に佇んでいる。何時から此処にいたのだろう、如何して此処にいるのだろう。面食らうばかりの僕に、彼女がゆっくり目を向ける。

ほっそりとした顔は青白さを帯びていて、触れると冷たい感触がしそうに見えた。口も鼻も小さいから、線の細い印象をなおさら強く与えている。だけど僕にもっとも強い印象を残したのは、光も濁りもない、吸い込まれそうなほどに黒い瞳だった。しばらく観察した僕は、瞳が僕の姿を映し出していないことに気付いた。

造り物の二つの瞳が、僕を見つめるふりをしている。

「こんにちは、こんにちは。あなたのお名前、<かたは>に教えて」

「<かたは>……それが、君の名前なの?」

「<かたは>は<かたは>。さくらいかたは。むずかしい方の<櫻井>に、片っぽの羽、ワン・ウィングド。素敵な名前、かたはのお気に入り、フェイバリット」

「そう、そんな名前なんだね」

「かたはも知りたい、あなたのお名前。名前と名前の物々交換。おあいこ、おあいこ、どっちもうれしい」

かたは。仮名は方羽。苗字は櫻井。櫻井片羽。それが自分の名前だと、隣の彼女は口にした。聞き覚えなどあるわけがない、初めて耳にする名前だ。けれど彼女は、かたはは何者も恐れぬ調子で、僕の名前を知りたいと繰り返しせがんだ。かたはの瞳は僕を捉えていない、彼女は僕を視てはいないはずなのに、僕はとても強い力でもって、全身を抑え込まれているような感覚に襲われた。

「……淳(あつし)。坂崎淳」

「あつくん、あつくん。きれいなお名前、すてきなお名前。教えてもらって、うれしい、うれしい」

「えっと、君ってさ、その……名前を集めるのが趣味とか? こうやっていきなり話し掛けてきてさ」

僕は漸く落ち着きを取り戻すことができて、今置かれている状況を把握するに至った。彼女が、かたはが何を考えているのかが分からずに、互いに名前を交換する羽目になってしまった。見知らぬ女の子に主導権を握られ続けていることに小さな悔しさを覚えて、僕はかたはに向けてぶっきらぼうに聞こえるように問うてみた。

「集めるのはキライ。大キライ。ばらばら、ばらばら、みいんな別々。わかれわかれがほんとのすがた」

「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて」

「あつくん、あつくん。今日のお仕事、これでおしまい? おしまい? 店じまい?」

お仕事、という言葉が何を意味するのか、僕は速やかに理解した。かたはの指差す方向には、僕が召したばかりのオタチだったものの姿が見える。かたはの目には見えていないはずなのに、指先はぴたりと肉塊と血だまりを指していて、少しばかりとてぶれていない。

「かたは、知ってる、知ってる。あつくんがしたこと、知ってる、知ってる」

「……他の人に言いたいなら、言えばいいじゃないか。僕は――」

「どうして?」

他人からなじられることなんか、とっくに慣れっこだ。そう啖呵を切る前に、かたはが言葉を被せてきた。どうして? 強い疑問の色を帯びた口調。今渡こそ僕は戸惑った。どうして、と問われても、僕は返すべき答えを持たない。僕のしていたことを見ていた、仮に視ていなかったとしても見たならば、それを詰るのが当然の反応じゃないか。なのに彼女からは、かたはからは、微塵も僕の想定していた感情を読み取ることができない。狼狽する僕を見透かすかのように――いや、それは違う。僕の気持ちの揺れ動きとはまったく無関係に、彼女は己れの感情に対してとても忠実に振る舞っているに過ぎない。

どうして? そう尋ねた彼女は、僕から回答を貰えることを期待して、暫しの間行儀善く待っていたけれど。やがて僕が答えあぐねている空気を察したのだろうか、顔をぐっと僕に近付けて。

「あつくんのお仕事、知ってるのはかたはだけ。それってすてき、とびっきりすてき」

「他の誰にもあげたりしない。欲張りなかたは、ぜえんぶ独り占め」

満足そうな笑み。小さな顔が綻んで、野に咲いた花のようになる。彼女は化け物だと、僕はこの時確信した。僕の知っているアルゴリズムやルーチンがまるで通用する気配のない、理のない動きを繰り返す異形の存在。そこに恐怖は無く、ただただ「どうしようもない」という言葉で表現される、曖昧な色の感情が繰り返し上塗りされていく。不快とも愉快とも思えない、只管に積もる「どうしようもない」の山。

「君って、変わってるね」

「変わってる? かたは、変わってる? あつくんの世界のかたはは、おかしなおかしな、ふしぎな子?」

今口にした答えそのものが、もう既に変人だよ。僕はそう言い掛けて、なんとなく言う意味を見出せなくて止めた。けれど、明白に奇怪なれど彼女と会話が成立しているのは実感できた。入力に対する出力はある。出力された答えの意図が、僕の脆弱なプロセッサでは追い付かないだけのことだと思うと、そういうものなんだという諦観にも似た安堵の気持ちが浮かんできた。

「それならきっとあつくんは、かたはのことを忘れない」

「あつくんの世界で、かたははきらきら輝くお星さま。星はきらりと瞬いて、彼方の空のみちしるべ。すてき、すてき」

不覚にも、僕はほんの少しだけ、かたはの他愛ない空想に愛嬌を感じてしまったことを告白しておく。

彼女はそうしてひとしきりはしゃいだあと、不意にぴたりと動きを止めて、今一度僕を平らな瞳で見つめてきた。

「あつくん、あつくん。できることならもう一度、あなたと会いたい、いつかどこかで」

「それは……どうして?」

僕が彼女の言葉を引いて尋ねると、かたははまるでアイスクリームでももらった子供のようににんまり笑って。

「君のにおいと血のにおい、かたはのお気に入り。フェイバリット」

「あつくんのお仕事、いのちのおわり、いたみのおわり。すてきな景色、もっと近くで感じてみたい」

お強請りをしてみせるような口調で、僕にその理由を告げた。

「さようなら、さようなら。今日のかたはと、今日のあつくん。今日の二人に、さようなら」

「今日がかたはに来たように、明日もかたはに来ますように」

最後にそう言い残して、かたは音もなくその場から去っていった。僕は特段はっきりとした理由も持たぬまま、ゆるりゆるりと去っていく彼女の背中を、ただぼうっと見つめ続けていた。

やがて彼女の姿が視界から消える。僕は足元の肉塊にはもう目もくれず、僕が行くべき道に向けて進行を再開した。

僕の居た辺りを、ヤミカラスが飛び回り始めていた。

 

方程式を解くためには、定数が必要になることだってある。僕を取り巻く世界という式も、それから外れる道理は無い。式にはもちろん、僕自身というファクターも含まれるだろう。今必要なのは、定数の定義だ。

僕は坂崎淳。地方の公立高校に通う、二年生の男子。此処まで文を追ってくれた誠実な読者の方なら、僕がどういった人となりをしているか、高校の教室というクローズドなフィールドで僕がどういったポジションに位置しているか、大づかみな想像は付くと思う。そして、大方そこから外れることは無いと、僕は今此処で明言する。言葉として表すなら、大人しくて、目立たなくて、一人の思索を好んでいて、言い回しがまどろっこしくてかったるい。きっと、僕のような人物は、今までだって文字通り掃いて捨てるほどいたと思うし、今この瞬間だって唸るほどいるとも思う。

もし僕に何か特筆すべき点があるとするなら、僕の家柄というか、家系についてだろう。僕の両親は「帰天主義」という、とある国際的に振興されている宗教から分派した思想を信じている。それも、相当に根強く。良く言うなら、心の拠り所にしていると言えばいいのだろうか。強く信じていることに異論は無い。

帰天主義。天に帰る、或いは天に帰す主義と解釈できるこの宗派の特徴。それは、ヒトを含むすべての生物、特にポケモンに関して、先進的・人工的な治療や施術を強く否定・拒絶し、自然治癒と最低限の施術のみによって身体のダメージを取り除こうというところにある。そして欠かすことのできない要素として、彼らの基準で治癒が見込めないほどの大怪我や重篤な病を賜った生物に対して、積極的な「安楽死」が推奨されている。

「すべての魂は天に帰り、新たな肉体を与えられて現世に再臨する」

傷付いた肉体を無理に修繕して使いつづけることに意義は無く、今の肉体は魂を保管するための仮初めの器でしかない。魂を天に返せば、新たな肉体を貰って次の生を賜ることができる。すべての生命はそうして永遠に生きつづけるのだ――彼らの、僕の比ではなく回りくどい言葉をできるだけ平易にすると、ほぼこんな意味になる。肉体や現在の生に対する過度の執着は忌むべきもの憎むべきものであり、よって安楽死が推奨されるという結論に至る。安楽死によって現世の痛みから解放することは、天に御座します神の意志というのが、この宗派の考え方だ。

そうした教義を、僕は物心付いた頃から熱心に教え込まれてきた。死は一時的なもの、肉体は執着してはならないもの。子供のかつての僕は、スポンジが水を吸い込むようにそれを受け入れ、心の内に溜め込んでいく。ふと気付いたときには、僕の左手には何時もナイフが握られていた。

――<Painkiller>、<痛みを殺すもの>。中学校へ上がる直前に父と母に命じられ、生きたエアームドから抜け落ちた羽を僕自身が加工して作った、とても鋭利で固い大型のナイフの名前だ。教義では、これを「送具」と呼ぶ。エアームドは乳飲み子の頃から巣からも親からも無数に傷付けられ、それでもなお自らの生命力のみで力強く生きる様がとても偉大だとされて、帰天主義では神聖な生き物として扱われている。古くなって落ちた羽を自分の手で鍛え送具として作り替えることは、帰天主義の親を持つ子ならばほぼ必ず通る道だと教えられた。僕のように送具を持ち歩いている子供は、確かに他にも見掛けた記憶がある。

僕がこの<Painkiller>を使って何をするか、改めて説明する必要は無いと思う。僕は<Painkiller>を手にしてから、両手両足の数に余るほどのポケモンを「召して」きた。この「召す」という言い回しは、帰天主義独特の考え方によるものだ。ご想像の通り、天に魂を召す、というところに由来している。帰天主義の死生観は、他にもこんな言葉で表現できる。

「死者は只魂の蛻でしかなく、即ち亡骸に魂は宿らない」

「亡骸に執着することは愚者の行いである。ましてや標を作るなど、愚行の極みである」

「形の有無は大きな違いではない。記憶の中とて、死した者を往時の姿で止めるべきではない」

「故に忘れよ。死者を忘却し、魂を解放せよ」

帰天主義は、ただ安楽死を推進しているだけに留まらない。亡骸はかつて生きていた頃の者とは異なり、魂という本質を失った空の器に過ぎないという考え方を、とても強く教え込まれた。器にさしたる意味は無く、魂の救済こそが真の目指すべき道である――ずっとそう教えられてきた。そう教えられて、ずっと律儀な姿勢で教義に従ってきていた。

そうして今に至って、僕は。

「零れたミルクを嘆いても、詮無きことかな」

座席に着いた僕の声に耳を傾ける者はおらず、僕は教室の喧騒という緩やかな渦潮に垂らされたぎとぎとした極彩色の油脂のように、ただただ周囲から浮いていた。僕が不意に此処から居なくなったとしても、きっと誰も気付くことはあるまい。僕は本心からそう思う。

僕が独りでいるのは今に始まったことじゃない。学校という閉鎖的な集団生活を営み始めて間もない頃から、僕は他者から異端の眼差しを向けられていることを実感していた。一言で言うと、僕は「気持ち悪い」存在だった。あまり口を開かず、いつも暗い顔をしていて、何より――何より鼻を突く嫌な匂いがする。

腥い血の匂い。死を想起させる匂い。子供の折から延々と僕に纏わりついて、決して離れることは無い。

だから僕は、何時も何時でも独りだった。

こうしてコミュニティに馴染めずにいるのは、僕だけに留まらない。帰天主義の家に生まれた子は、幼少期から教え込まれた死生観に対する考え方の隔たりと、「常識」から大きく逸脱した習慣や流儀のために、「一般的」な人々の輪に溶け込めない事例が後を絶たなかった。僕はその中の類例の一つに過ぎない。あくまでも、ケースの一つに過ぎなかった。

それでも、僕は特段気にしているということもなく、現状に従属している。ひらがなを教わるような頃から絶えることなくずっと気味悪がられてきて、今となってはそれが当たり前の風景と化している。一切合切に<慣れて>しまって、何も感じないようになってしまったのかも知れない。感覚が麻痺した、もしかするとその言葉に当て嵌まっている気がする。麻痺しているかどうかを僕自身が知る術は無いから、ただの当て推量とも言えるけれど。

今日も今日とて僕は誰一人として言葉を交わすことは無く、カバンを提げて学校を後にする。さしてものを入れているわけでも無いのにカバンが重いのは、左のポケットにいつも忍ばされている<Painkiller>によるものだと僕は思う。帰天主義者の子達は、どんな時でも死に瀕した生命を「召せる」ように、常に自分たちの送具を持ち歩くことが奨励されている。送具は傷付いた肉体から魂を解き放ち、天に御座します神の元へと送り届けるための道具。魂を召すこと、それは神の御意志の代行。信者と送具は不可分の存在。神より賜った畏れ多き物の具であるから、手から離れるようなことがあってはならぬ。何度もそう教えられてきた。

何かを考えているのか、それともただ言葉を垂れ流しているだけなのか。働いているようで働いていないような茫洋とした頭を、血肉の詰まった無価値な肉体にくっつけて歩いていると、僕はいつしかあの場所へ到達していることに気が付いた。今日の雲行きは特段記すべきことのない平凡なもので、昨日のような鮮烈な印象を齎してはくれそうにない。

けれど、そんな空模様などお構いなしに。

「あーつーくんっ」

「うわっと」

無防備な背中から肩へ腕を回して、ぎゅうっとしがみ付いてきた少女。僕よりほんの少し小さな体つきで、腕を目一杯伸ばして僕と一つになろうとする。僕の背中に目が付いているわけでもないのに、彼女の動きがはっきり目に浮かぶようで。突然のことに戸惑いつつも、こうなることを心のどこかで予想していた気もするようで。

「かたは、もうちょっと加減してほしいな」

「あつくん、あつくん。また来てくれた、また会えた」

自分の気持ちに何よりも正直なところは、相変わらずのようだった。

肩が軽くなったのを見計らい、僕は後ろへ振り返る。光を宿さない黒い瞳が、視えていないことなどお構いなしに、僕の顔をはっきりと見つめている。違和感がくすぐったくて、僕はほんの少し体をよじった。

「僕だったからいいけどさ、もし抱きついたのが僕じゃなかったら、どうするつもりだったのさ」

「あつくんはあつくん。かたはの世界でひとりだけ。間違えたくても、間違えられない。こまった、こまった」

こんなに困っていない「困った」は、僕の短い人生の中でも初めてお目に掛かったし、この先おいそれと拝めるものでもないと感じた。

「会えたのはいいけど、今日は<仕事>があるとは限らないよ。かたは、君は僕が<仕事>をするところに居合わせたいんじゃないの?」

「お仕事が無くてもすてき、百パーセント。あればもっとすてき、百二十パーセント」

今日どこかで僕がポケモンを召すとは限らない、予めそう断りを入れておいても、かたはの意志がぶれる気配は無い。本当にただ、僕の側に居られればいいという答え。ただ僕のすることだけに興味があるとか、それくらい割り切っていてもおかしくないのに。

どうして僕なんだろう。すっかり衰えたイマジネーションに鞭打って懸命に答えを捻り出そうとしても、眼前の不思議で不条理な少女の前には、僕の貧弱な想像力ではまるで歯が立たない。彼女を理解することはとても難しい、あるいはできないのかも知れない。僕はそんな感情を抱かざるを得なかった。

目の遣り処に困った僕は、開き直ってかたはを正面から見据えた。どうしても目が行ってしまうのは、一目で作り物と分かる漆黒の瞳だった。

「かたは。目が見えないはずなのに、どうして僕だって分かったの」

「それは簡単、ピースオブケイク。あつくんは、あつくんのにおいがするから」

「ゴマゾウやウリムーなんかじゃあるまいし、本当なの?」

「いのちのにおい、とってもすてき。くらくらしそう」

無邪気、その言葉が脳裏を掠める。かたはの紡ぐ言の葉には、表裏というものが感じ取れなくて、代わりにひどく生々しく聞こえることが少なくない。こんな物言いをする人に、僕は残りの人生の中であとどれくらい出会えることだろう。そうはいまいに違いない。

彼女は何者で、どういう存在なんだろう。どれだけ考えたところで答えが出るわけもなく、終わりの無い底なし沼へ沈んでいくかのようなもどかしさだけが僕を包む。

「この際だからはっきり訊くよ。君は誰で、何者なの?」

考えを纏められぬまま、気持ちだけが急いて飛び出した言葉の平坦さに、僕は心中で苦笑いを浮かべるしかなかった。

「かたははかたは。かたははかたは。ホントにホントに、ただただそれだけ」

「……うん。なんとなく、そう答えるんじゃないかなって思ってたよ」

僕の貧しい常識や思考を満足させ得る答えなんて、まかり間違っても出てこない、そうだと分かっていたはずなのに。

「かたはの気持ち、あつくん分かったの?」

けれど――僕の不器用な会話は、かたはの心を満足させられたのだと、彼女の仕草が教えてくれて。

「少しくらいは、ね」

彼女が嬉しそうにしていることに、僕は少しずつ違和感を持たなくなってきていることを自覚した。

「あつくん、あつくん。聞いて、聞いて」

かたはが僕に呼び掛ける。息を弾ませ身を乗り出して、彼女が次に発した言葉は。

「あつくんのお隣、かたはの場所にしたい」

「いっぱいいっぱい、あつくんの記憶に残りたい」

「かたは、あつくんがほしい」

僕が心の内に用意していた答え以上に、積極的で面食らう内容だった。

豆鉄砲を食らったポッポのように次の反応を見せずにいると、かたはが僕の手を取って、慈しむように撫ぜ始める。

「あったかい手、おっきな手。あつくんのぬくもり、あつくんの手ざわり」

「ねえ、かたは。あのさ、さっきの言葉……」

「きまり、きまり。これできまり。あつくんの横、かたはのスペース」

「ええっと……」

「いいね、いいね、うれしいね。うれしい、うれしい、たのしいね」

まだ答えを返してないよ、僕はそう言うことだってできたけど、そこに意味など無い気がして。

「かたはとあつくん、ふたりでひとり。ふたつでひとつ」

「うれしいことかなしいこと、たのしいことつらいこと、ぜえんぶいっしょ、いつでもいっしょ」

思考がまるで追い付かないままに、かたははかたはの言葉だけを僕に差し出して。

それでも――僕は不思議と、拒絶する気にはならなかったのだった。

 

僕がかたはと互いの名前を交換して、早いものでもう一週間が経った。あれ以来、僕は断続的にかたはと顔を合わせている。会って特段何をするわけでもなく、他愛ない無駄な話を重ねるばかりの冗長な時間。確かにその通りだったけれど、どうしてだか僕の中で、彼女と共に在る時間の比重が少しずつ増していることを自覚せざるを得なかった。今まで他人と顔を突き合わせて話すという経験が極端に少なかったから、そうかも知れない。彼女は僕の人生の中でも珍しい「話のできる赤の他人」で、かつ「自分と同年代の異性」というさらなるレアケースと合致していた。

彼女と過ごす非生産的な時間が僕の中に占める位置を徐々に増していくと同時に、それ以外の時間、特に学校で過ごす茫漠とした時間は、無味乾燥さをさらに増していきつつあった。

「この前拾ったガーディいたでしょ、あのすごいケガしてたさ」

「いたいた。祥子があの後ポケセン連れてったんだよね? どうなったの?」

「治してもらったよ、しっかりね。右の前足が引き千切れてるって言われてうわぁってなったけど、回復してもらったらあっさり元通り。すごいよねー、あの機械」

僕の右前辺りで、クラスの女子が四人ほど固まって話をしている。僕は視線を敢えて窓の外へ逃しつつも、彼女達の会話にしっかり耳を傾けていた。

女子の一人が口にした「あの機械」というのは、すべてのポケモンセンターに配備されている汎用携帯獣回復装置、通称「リカバリーマシン」の事を指している。リカバリーマシンは現存しない種を含めたありとあらゆるポケモンに対応した万能の機能回復装置で、即死に至るような怪我や疾病でなければほぼ完全に回復させることができる。毎日のように多くの人々が利用していて、その存在はもはや当たり前のものとして認知されている。

リカバリーマシンの根幹を担うのが、ポケモンの「上書き回復」を行うプログラム群である「オーバーライト・キュア」だ。

「もうね、拾ったときはほとんど死にかけだったけど、すっかり全快したよ」

「あんなえぐいことになってても全快させちゃうんだから、科学の進歩ってホントすごいよねえ」

「全身血まみれで目泳いじゃってたからね、あれ超怖かったし」

半死半生のポケモンさえ立ちどころに回復させてしまうオーバーライト・キュア。その仕組みはとても単純というか、名前通りと言うべきか。健康なポケモンの身体情報を内部にデータベースとして持っておいて、回復の対象となるポケモンと情報学的な差分を取得する。その上で、必要な情報が欠落していたり不正な情報が存在していると判断した場合、正常な情報で「上書き」することで根本的な解決を行う。

一言で言えば、ポケモンを上書き(オーバーライト)して回復(キュア)する。見ての通り、正しく名前通りのメソッドだ。

上書きを行うことで、怪我や疾病による「痛み」を完全に「殺し」てしまい、ポケモンを「回復」させる。オーバーライト・キュアの性質は、このように説明できる。

「今はリハビリの準備をしてて、もう一回歩けるようにしてあげてるとこ」

「あれ、治しただけじゃダメなんだ」

「ううん。ホントはリハビリもする必要ないんだけど、なんか怪我が酷かったから念のため、ってことみたい」

「どんだけやばいケガでも病気でも、ポケセンなら治せちゃうってすごすぎだよね」

「バトルとかさせてボロボロにされちゃっても、これさえあれば大丈夫ってわけ」

大切なポケモンが健康を害しても、安全かつ完全に回復することができる。仕組みも単純明快でとても理解しやすい。故にオーバーライト・キュアは、たくさんの人々から全幅の信頼と支持を得ている。今となってはこれなしでのポケモンとの共生は考え得ない、そう断言する人だって少なくない。

痛みを殺して、回復させる。多くの人に受け入れられるのも、僕は理解できる。

「けどさ、なんかこないだテレビでやってたけど、ポケモンをポケモンで上書きして回復させてるんでしょ?」

「なんか聞いたことあるかも。継ぎ接ぎみたいなものだ、自然の摂理に反してるーって」

「あーなんか言ってる人いるねー。そういうこと。たまに駅前でマイク持って叫んでたりするあれ」

「見たことある見たことある。あれでしょ、あのなんかよく分かんないキモい宗教みたいなの」

「多分それー。なんかお父さんの知り合いにもあれ信じてる人いて、たまに勧誘とかされるんだって」

僕は窓に向けていた目線を、ほんの少しだけ下に落とす。

今のこのシチュエーションで空を見るのは、少しばかり僕には酷だ。

「あの人たち怖い。安楽死安楽死って言いながらポケモン殺してる連中じゃん」

「あたしさ、幼稚園くらいの頃にあの宗教の人がコラッタ殺してるところ見ちゃってさ、しばらく夜眠れなかったし」

「うわっ、見ちゃったんだ……それキツいね、シャレにならないよ」

落とした目線に、いつしか僕の手が映り込む。

視界に入り込んだ僕の手が、真っ赤な血でしとどに濡れていたように見えたのは――果たして、僕の気のせいだろうか。

少なくとも今の僕に、答えは出せそうにない。

 

河原へ向かう足取りが早くなっていることを、そして気持ちがポジティブなものになっていることを、僕はどこか快い思いで受容していた。

僕に背を向けて道端に立つ、黒髪の小柄な少女。背格好だけ見れば、大人しい印象を与える普通の女の子と錯覚してもおかしくない。外見の与える印象はとても大きい。そこでイメージが固まってしまってもなんらおかしなことではない。彼女がこれまで生きてきた中にも、彼女をこれといった特徴を持たない、ただの小市民だと認識した人だって居たに違いない。

だけど。

「あつくん、あつくん。今日もまた、あつくんがかたはの世界に来てくれた。うれしい、うれしい」

「背中に感じる気配だけで、僕だって分かっちゃうものなんだね」

彼女はどこを取っても普通なんかじゃないと、僕は知っている。

「今日は一日どきどき、はらはら。かたはのお隣、車がびゅんびゅん。小さなこころ、元気に弾んでお祭り騒ぎ」

「それでも、事故には遭わなかったんだ。杖も無いのに、よく歩けるね」

「ひびきとかおり、それからぬくもり。かたはの世界のマテリアル、体が感じる全部のよろこび。どんな風にみえるかは、かたはの気まぐれ、好き放題」

失われた視覚の代わりに、他の感覚器官がよく発達している。彼女の言わんとする処はそこにある。残った感覚器官から得られた情報を頭の中で的確に分別し処理して組み立てて、イメージとして世界を「見ている」。しばしば出てくる「かたはの世界」という言葉の意味が、僕にも少し分かった気がした。

一切の躊躇いなく僕に無邪気な笑顔を向ける彼女を、僕は僕の瞳でしっかりと捉える。光を宿さない目は人形のようで、それが却って彼女に不思議な愛嬌を齎している。ここに来て初めて僕は、彼女に抱く好意を明確に認識した。

「あのさ、かたは」

彼女の正体、彼女の出自、彼女の意図。解答を得られていないことは山ほどあったけど、これ以上そんな瑣末なことに時間を費やすのは馬鹿馬鹿しいと、僕は考え始めていて。

いかに「曲がりなり」であろうと、彼女が僕に好意的な感情を向けてくれているのは、現時点に於ける間違いのない事実、なのだから。

「この間の答え、まだ返してなかったよね」

「いいよ、かたは。僕なんかで構わないなら、隣はかたはのために空けておくよ」

僕の言葉に、今度はかたはが首を振って。

「違うの、違うの、そうじゃない」

「かたはのベスト、それがあつくん。スマートに言うと、『あつくんじゃなきゃヤダ』」

「あつくんはあつくんで、あつくんだから、一番すてき」

本当に、思ったことをそのまま言うんだなと、僕は少しばかり照れくささを覚えた。

僕なんか、じゃなくて、僕だから。彼女はとても分かりやすく、そう言ってくれた。僕をこうして「選んで」くれた人が、これまでにいただろうかと思案する。軽く記憶の海を探って、僕は彼女が記念すべき一人目であると認めることにした。なるほど、僕じゃなきゃヤダ、か。なんとまあ、こそばゆくも心地よいものなのだろう。

かたはが僕に右手を差し出す。ぴんと伸びた腕に、迷いは微塵も見られない。

「かたはを信じて、ためらわないで」

「手をつないで歩いたら、でこぼこ道も、さんぽ道」

僕が意を決して彼女の手を取ると、かたはは直ちに頬を緩ませ、力いっぱい手を握る。

「あつくんの手、かたはの手の中。かたはの手、あつくんの手の中」

真っ黒い偽りの瞳が、眩い光を得てきらりと輝く。そんな、ありもしない錯覚を見た気がして。

「あつくんの鼓動、伝わってくる。かたはの鼓動とひとつになって、とくんとくんとこだましてる」

「かたは、感じたい。あつくんといっしょに、たくさん<いのち>を感じたい」

分かったよ、かたは。僕は君に――。

いや。

僕は君「と」、付き合うことにしようじゃないか。

 

休日の朝。それは、僕が家の中で自由な時間を作れる数少ない機会だった。慣れた手つきで紅茶を淹れて、何も加えずにそのまま口にする。僕はこうしてよく紅茶を飲んでいる。好きだから飲んでいるのだろうか、自分でも分からない。有力な可能性は、まだ小さい頃から飲んでいたのが習慣化しているというものだろう。自分の嗜好である以前に、ルーチンワークとして「紅茶を飲む」という動きが組み込まれている、それが実態だと僕は考える。

概ね、僕の嗜好思考指向は、僕自身の意志に拠るものとは言い難いところがある。端的に言えば自我がない。かねてからこうしていたから、そう教えられて来たから。過去や他者に理由を求めて、僕が自ら何かを選んだという自覚があまり無い。よくないことだと理解はしている。頭で理解はしているけれど、心がそれに追随できない。頭と心は独立独歩。協調路線を取りたいならば、互いの譲歩が不可欠だ。

時折紅茶を啜りつつ、何気なくテレビを観る。放映されていたのは、朝のワイドショー番組だった。チャンネルを変えようか、そんな風に考えて、変えるべきチャンネルを見出せないことに思い至る。何を観たい、何を見たい、何を視たいというものが欠落している。我ながら困ったものだと思う。空虚で空疎な自分という存在を、否が応にもたっぷりと味わうことになる。この感覚は、なかなか辛い。

そうしていると――僕は何気なく新聞を取ろうとしていた。途中で無意識の動きに気がついて、思わずその手を止めた。体が固まってしまって、思うように動かせない。逡巡、逡巡、また逡巡。滑稽な光景だったと思う。孤独で無意味な闘争を経て、僕は漸く新聞を手にした。手にはした、だが目は通せない。一体何の為に新聞を持っているのだろう、それは僕が一番知りたかった。まったくもって理解できない、何の意味もない行動。胸がぎゅうっと締め付けられる思いがした。胸が痛い、だから僕は胸を労らなきゃいけないんだ。とっさに理由を作ると、心中の番人が不承不承「許可」の印を押してくれた。新聞をテーブルに置き直して、僕が胸を抑える。鏡があれば、青白くなった僕の顔をお目に掛かれたことだろう。

虚ろな光を宿したままの僕の瞳が、点けっぱなしにしていたテレビに「人間の『上書き』臨床試験間近か」という大きな見出しが掲げられているのを捉えた。

「負傷したポケモンの治療に広く使われている『オーバーライト・キュア』、これを人間にも応用しようという試みが、生体情報学の権威である半場恒彦博士によって進められています」

レポーターが原稿を読み上げる。僕はそれに聞き入る。淡々とした説明が耳から入って、頭の中に蓄積されていく。

オーバーライト・キュア。ポケモンを上書きして治療を行うこのメソッドを、ポケモンだけでなく人間に対しても適用しようという試みが、少し前から姿を現しつつあった。どんな難病や大怪我であっても、健康な人間の情報で上書きすれば完全に修復できる。ポケモンに対しては完全な実用段階にあるこの手法を、人間にも用いようというのはごくごく自然な流れだ。僕にはそう理解できた。

「人間の『上書き』を行うというこの手法を巡っては、倫理的な面から問題を指摘する声も上がっています――」

とは言え、おいそれと受容できる性質のやり口ではないという意見も、当然のように聞かれた。自然の摂理に反しているのではないか、道徳的に不味いのではないか、生命の愚弄につながるのではないか。異口同音の種々の声。もちろん、人々を苦しめる内患外憂を根本的に抹殺できるという観点から、諸手をあげて歓迎する人だって少なくない。そこまでではないにしろ、「便利だからいいじゃないか」という考えを持つ人は大勢いる。賛否両論。この言葉を当てるのが相応しい状況だった。

否の声を上げる人は互いに結束して、なんとしてもこの邪な研究を成就させまいと目論んでいる。自分たちの意見を如何にして知らしめるか、そのために知恵を振り絞っている。

「『勉強会へ行ってきます』、か」

例えば、僕の父母のように。

 

いつも河原じゃ代わり映えしない。そう考えた僕は、かたはと並んで近場の公園にくり出した。利用者もなく、整備も滞りがちの寂しげな場所。真っ当な神経をしていれば、こんな場所に来ようなんてそうそう考えるものじゃない。考えたとしても、実現に移すまでにはとてつもなく高いハードルがあるだろう。

「しずかでひっそり、サイレント。あつくんの声、しっかり聞こえる」

「かたはの声も同じだよ。まあ、これはいつものことだけどね」

「いいところ、いいところ。すてき、すてき」

けれど、案の定と言うべきだろうか。かたははとても喜んでくれた。雑音の無い場所なら、かたはは思う存分僕を「感じる」ことができる。なるほど確かに、彼女の言う通りだ。はしゃぐかたはを隣において、僕らは公園で二人佇む。

「だけど、ざんねん、ざんねん。とびきりざんねん」

「残念って、どういうこと?」

「かたはの瞳はツクリモノ。あつくんのひかり、受け止められない。かたはの世界のあつくんは、かたはの作ったお人形。それがざんねん、とってもざんねん」

本心から残念そうに言う彼女に、僕は他では得がたいほどの愛嬌を感じていた。

「なんかこう、時々忘れそうになるんだけど、かたはって目が見えないんだよね。大変じゃない?」

「大変、大変、ほんとに大変。あつくんのお目々が見られない、いっしょになってはじめて気付いた。大変、大変、一大事」

「ええっと、他には? 他にもあるよね?」

「あるある、あるある、盛りだくさん。あつくんのお耳が見られない、はわわ、はわわ。どうしよう、どうしよう」

「僕の顔以外にもさ、見られないものはたくさんあると思うけど……」

「ほんと、ほんと、その通り。あつくんのお手々も首すじも、なんにもかんにも見られない。がっかり、がっかり、底無しがっかり」

彼女の言葉を額面通り受け止めるなら、目が見えなくて困ったのは、僕の姿を見られないことだけ、らしかった。いかにもかたはらしいと言うか、彼女ならではの答えだと感じずにはられない。

広くもない公園をぶらつきながら、取りとめもない会話を楽しんでいた僕とかたはだったけれど。ある時かたはが歩みを止めて、いつもよりもほんの少しだけ改まった口ぶりで、僕の名前を発して見せた。

「あつくん、あつくん」

「かたは……?」

「かたは、もっとあつくんを感じたい。いっぱいいっぱい、感じたい。だから」

彼女は僕の前に立つと、おもむろに僕に両腕を巻き付けて、強く抱き締めてきた。ぎゅうっと、ぎゅうっと、力いっぱい。かたはの行動に不意を突かれて、僕は意識が一瞬飛んだ感覚を覚えた。それを知ってか知らずか、かたはが僕を抱く手を緩める気配はない。

飛んだ意識はありもしない光景を視る。僕は眠っていた旧い記憶が、速やかに目覚めるのを鮮やかに感じ取った。

傷が――じくりと疼いて。

(ダメだ、やめてくれ!)

僕の深層が発した声なき声が、僕の表層を責め苛んで、反射的に体を動かさせた。

「かたは、離してっ、離すんだ!」

「わぁっ」

体を動かしたことで、僕は抱き付いてきたかたはを振りほどいて、その場から突き落とすという結果を作り出していた。

突き飛ばす力を目いっぱい弱めることのみが、僕の理性に許された唯一の抵抗だった。距離を取られたかたははぽかんと口を小さく開けて、それでも目線はしっかり僕に合わせて来ていた。びっくりした、驚いた。そうとしか取れない表情。模造の目とは思えぬほどに、自らの心を惜しげもなく披瀝し伝えてくる視線を受けて、僕は湧き上がる罪悪感で直ちに支配された。

落ち着きを取り戻してから、僕は項垂れて肩を落とした。反射的だったから、なんてのは僕の身勝手な理由に過ぎない。僕を知りたがった彼女を拒絶してしまったのは、今この瞬間の確かな事実だったからだ。

「あつくん、あつくん。かたはのこと、キライ? キライ?」

どうしてそんな質問を、いつもの表情でできるんだろう。僕は純粋に疑問に思った。かたはは平時通りの顔つきで、自分のことが嫌いか、嫌いになったのかと問うてきた。どう表現すべきだろう。とても他人事とは思えないのに、いつも通りの顔つきをして見せている。彼女固有の思考回路に付いていけない、愚鈍な僕が情けなかった。

「……ごめん、かたは。本当にごめん」

「違うんだ、そうじゃない。僕は、かたはのことが嫌いなんかじゃないし、嫌いになったわけでもない」

「僕は――誰かに触れられることに、慣れてないんだ。信じてほしい」

僕のこの、言い訳としか取れないような言葉を受けて、かたはの方は。

「だいじょぶ、だいじょぶ。あつくんを信じる、ためらわない」

「これでかたははまたひとつ、あつくんのことに詳しくなった。オーライ、オーライ」

ゆるゆるになった頬が、かたはの心を嘘偽り無く顕している。僕は自信を持ってそう言うことができる。

「だから、だから、こうしよう、こうしよう」

彼女は僕の手を探し出すと、いつもより少し緩い力で軽く握る。

「ちょっとずつ、ちょっとずつ」

「あつくんがかたはに馴染むように、ちょっとずつ、ちょっとずつ」

伝わる鼓動、それは彼女のもの。伝わる鼓動、それは僕のもの。

この間、かたはが僕に言った通りだと――かたはの手の柔らかさを感じながら、僕は考えた。

 

何をしたのかよく覚えていない学校を出て、かたはと待ち合わせをするいつもの川沿いの道へ急ぐ。そう、僕は急いでいる。自分でもハッキリ分かるくらいに、先を急いでいた。これの意味するところはただ一つだけ。

一刻も早くかたはに会いたい、彼女と話がしたい。それに尽きた。

「電話、か」

だからだろうか。普段なら大して気にも留めない着信さえ、今の僕にはとても大きな枷のように思えた。別の言葉で言い換えるなら、煩わしいものに感じられて仕方なかった。それでも表向きばかりでも気持ちを落ち着かせて、カバンのポケットから使い古した携帯電話を引き摺り出すと、ディスプレイに表示された番号を視認する。

ああ、やっぱりか。こんな時間に掛けてくるとしたら、確かにあの人しか考えられない。確かにため息交じりに着信ボタンを押して、端末を耳に当てた。

「もしもし。坂崎です」

「こんにちは、淳君。久しぶりだね。元気にしてたかい?」

「ええ、それなりには」

聞き覚えのある声。紛れもなく義徳さんのものだ。何時ものように、僕に向かって「元気にしていたか」と問うてくる。彼が僕に電話をしてくる折には、必ずと言って良いほどここから会話が始まる。彼なりに僕に目を掛けてくれているのだと思う。善意なんだと理解はしている。

けれども、けれども。

「それならいいけど……本当に、大丈夫?」

――けれども。

「大丈夫です。心配しないでください。それじゃあ」

「あっ、淳君、ちょっと――」

理解はしていても、僕はこれ以上踏み込まれたくない。これ以上僕に触れて欲しくない。そんな負の感情がマグマのように競り上がってきて、僕は感情の赴くままに通話を終了した。電源ボタンを押してディスプレイの電源も落としてしまうと、カバンの奥深くへと仕舞い込む。河原で待っているだろうあの黒い瞳の少女の姿を思い浮かべると、僕は少しばかり遅めていた足取りを再び早める。さあ、急がなきゃ。

これ以上、かたはを待たせるわけにはいかない。

 

僕がかたはと会う度に、彼女のことを少しずつ知っていく。それはそれで間違いは無いけれど、知れば知るほど知りたいことが増えていく。それもまた間違いの無い事実だった。

「あつくん、あつくん。今日もすてきなことのはの束、かたはにもっとたくさん聞かせて」

かたはについて分かったことの一つに、彼女は相当な「知りたがり」で「聞きたがり」だということだ。僕の考えていること、感じたこと、そうしたとりとめも無い話をとにかくたくさん欲しがって、止めなければいつまでもお強請りをやめない。それでいて、彼女は一つ話を聞く度に、突飛な感想を僕に投げ返してくる。如何にもかたはらしい、彼女としかできないやり取りだった。

もっと話を聞かせて欲しい。せがむかたはのまやかしの目に誘われるまま、僕は記憶の中からエピソードを一つ抽出する。

「一年くらい前に、エアームドの巣を子供たちが取り囲んでいるのを見たんだ」

「小学二年生か、三年生くらいの男の子と女の子が、合わせて四人くらいだった」

「親は居なかった。まだ幼い、小さな雛が一羽だけいて、親が帰ってくるのを待ってたよ」

学校から自分の家へ戻る途中に、いつもと違う道を選んで歩いた折のこと。かたはと出会った時に似た、紅と青のグラデーションになった空が広がっていたのを覚えている。そんな空の下で、子供たちに周りをぐるりと取り囲まれた小さなエアームドの雛が、親が戻ってくるのを辛抱強く待っていた。

巣の中で。エアームドの作る、小さな巣の中で。

「人の住み着いているところに巣を作るエアームドは、変わったものを巣に使うんだ」

「有刺鉄線? とげとげ、ちくちく?」

クエスチョンマークを付けているのは、純粋な疑問からではない。彼女はとうに答えを知っていて、それでいて僕の語りとリズムを合わせてくれているから。僕にはそう思えてならなかった。

「そう。どこからか有刺鉄線を集めてきて、器用に編み上げて巣を作るんだよ。自然の多い地域だと、代わりに茨や固い木の枝を使うようだけどね」

「鉄分たくさん、吸収吸収。えふいーえふいー」

「うん。鉄分を増やして、翼をより固いものにするためだ、って説もあるね」

有刺鉄線で作られた巣。目にするのはこれが初めてのことじゃない。僕の住んでいる近くでは、ちらほら見掛ける程度に数はあった。エアームドはそこでタマゴを孵化させて、大人になるまで育て上げる。むろん、中にいる雛は大小無数の傷を負うことになる。有刺鉄線の棘に刺され、引っ掻かれ、肉を引き千切られる。そうして傷を負いながら、エアームドは長い時間を掛けて成長していく。

雛を傷付けるのは、巣の材料だけには留まらない。時には親のエアームドが率先して、雛を自らの手で痛め付けることもある。文字通りの血塗れになって巣で横たわり、傍から見ると瀕死の重傷を負っているような有様になっていることも珍しくない。こうして育てられたエアームドの巣はいつも血の跡がこびり付いていて、雛鳥が巣立った後に残された有刺鉄線の巣は、往々にして酷く赤茶け錆び付いている。

「僕が見た雛も巣の中で傷付いて、たくさんの血を流してた」

「大きな傷もあちこちに見えた。あれはきっと、親が雛を切り裂いたんだと思う」

「それでも内蔵や筋肉、骨が傷付くのは避けてたみたいだから、本能的に『どこをどれだけ傷付けてもいいか』が分かってるんだろうね」

「生かさず殺さずという言葉がぴったりだと、僕は思うよ」

女の子の前で何の話をしているのだろう。僕は時々我に返って、かたはの顔を見つめることがある。

だけど直ちに、もしそこにヒトの瞳が入っていれば、真夏の太陽のように爛々と輝いていただろうことは間違いない眼差しを見て、もう一度我に返る。僕の隣にいるのは名無しの「女の子」ではない、他でもない「かたは」なのだ、と。

「傷だらけで眠ってるエアームドを代わる代わる指さして、子供たちはこう言うんだ」

「『かわいそう』『痛そう』『血が流れてる』『死んじゃわないのかな』」

「誰も彼も、心配そうにして見せてはいる。彼らはもしかしたら、本当に本心から、可哀想だと思ったのかも知れない」

「だけど、誰も手を差し出そうとはしないんだ」

「一人として、雛を触ろうとか、巣から出そうとか、そういう動きをする子供は居なかった。一人として、一人として」

「ただ、何度も繰り返すだけなんだ」

「『かわいそう』『痛そう』『血が流れてる』『死んじゃわないのかな』」

「手が血で濡れることを、無意識のうちに避けているに違いない。僕にはそんな風に見えて仕方なかった」

「彼らには帰るべき家がある。暖かく、柔らかく、そして優しい空間がある。だからかも知れない」

血染めの雛と、無垢な子供たち。彼らはとても無自覚なままに、エアームドと自分たちを「別のいきもの」として区別していたのだろうと、傍から見ていた僕は考えた。雛と子供たちをさらに遠巻きに見つめている僕は一体何なのか、そんな根本的な疑問を棚上げにして、僕は僕の身勝手な感想を垂れ流した。

一呼吸置く。かたはの肩に手を添えると、僕の話はこれでお終いだと読み取ってくれたのだろう。顔を上げて僕の目を見た。

「すてき、すてき。イバラの中のけなげな小鳥、真っ赤に染まったせかいの中で、かすかに聞こえるこころのパルス」

「すべてのいたみはいのちのあかし。すべてのいたみのないせかい、それはすべてのいのちのないせかい。おそろし、おそろし」

「いいはなし、心躍るはなし。あつくん、あつくん。ありがとう、ありがとう」

彼女は僕の話に満足してくれたようだ。なら、それで十分じゃないか。

いつの間にか、僕の思考回路が戸惑うことを止めていることに、遅ればせながら気がついた。

 

その日のかたはとの別れ際。僕は何気なくカバンのポケットから携帯電話を取りだして、この時間になると何時も届いている迷惑メールを処理しようとしていた。

「あつくん、あつくん。手の中のものは、携帯電話?」

「うん、そうだよ。夕方になるとさ、いつも迷惑メールが来るんだ。溜まらないうちに消しちゃおうと思って」

「削除、削除、電子のもくず。けれどそこにいたみは無くて、あるのはただ1が0になるだけのプロセスだけ。ノーペイン・ノーライフ」

メールを削除していることを教えると、かたはは彼女の思考回路に沿って静かに感想を述べた。少しずつ、本当に少しずつではあるけれど、彼女が生きていく中で何に重きを置いていて、逆に重視していないものが何かが分かってきた。錯覚かも知れないけど、理解できるようになってきた感触がある。

彼女はよく「いたみ」という言葉を使う。物理的な痛みを指すことがほとんどだったけれど、時には精神的な痛み、辛い記憶やトラウマに対して用いることもあった。そしてかたはがしばしば口にする「いたみはいのちのあかし」というフレーズ。彼女の価値観に於いては、痛みこそが生きている証左であり、大切にすべきものであるという軸があるように思えた。そこがまだ僕には飲み込みきれなくて、今の段階では単なる音の塊としてしか受け止められていない。

「ところで、拝啓あつくん様」

「急に変な畏まり方しちゃって、どうしたのさ」

「実はね、実はね、実はですね」

無造作かつ勢いよくポシェットへ手を突っ込むと、かたはが中からしゅばっと何かを取り出したではないか。

「かたはも持ってる、携帯電話」

「持ってたんだね。まあ、持っててもおかしくないけども」

彼女の持っているモデルは、僕が使っているもう数世代前の古いものと大差ない、折りたたみ式のものだった。カラーは薄い桜色。特に理由は無いけれど、彼女らしいなと僕は感じた。

「あつくんも持ってる、携帯電話。かたはも持ってる、携帯電話。それならそれなら、こうか――」

「あっ、ちょっと。ちょっと待ってかたは」

「ふみゅっ」

僕はかたはがすべて言い終わってしまう前に、彼女の口に人差し指をそっと当てて言葉を遮った。元々大きく開いた目をさらにまん丸くして、かたはが僕を見つめる。

「ええっとさ、せっかくだけど、男の子の僕の方から言わせて欲しいんだ」

「ほほう、ほほう。あつくん、男の子。かたは、女の子。言われてみれば、おっしゃる通り」

僕もかたはも、一般的な「男の子」「女の子」のカテゴリに入っているとは思えないから、かたはがきょとんとした顔をしても無理はない。僕だって口にしていて、こんなにもむず痒いだなんて思ってなかったくらいだ。

だけど、あれだ。古くさい考え方かも知れないけど、こういうことは男の子の方から言った方が、やっぱりそれらしいじゃないか。かたはが積極的で、僕のことをたくさん知りたがるのは分かる。とってもよく分かる。だけど、それだけじゃなくて。

「それにさ……僕も、かたはのことをもっと知りたいんだ」

「あっ。あつくん、あつくん。今ね、今ね、かたはのこころ、高鳴っちゃった。ぴょんぴょん跳ねるバネブーみたいに、とくんっ、って」

相も変わらず躊躇せず、思ったことをストレートに言う。けれど、それがかたはをかたはたらしめる、押しも押されもせぬアイデンティティだと理解できてきた。本当に不思議で、変わった女の子だ。だけど僕だって、彼女に劣らずズレている。似た者同士、割れ鍋に綴じ蓋ってやつなんだ。僕はそう思いたい。

「……こほん、じゃあ、言うよ」

かく言う僕も僕で変に畏まって、泳ぎがちになりつつも、かたはにきちんと目を向ける。一度息を吸って、深く深く吐き出してから、なるべく、なるべく、さらりと聞こえるようにと意識して。

「僕と、交換しない? メールアドレスと、電話番号」

「いいね、いいね。いいよ、いいよ」

あちこち回り道して、ようやく言うことができた。軽い脱力感が僕を襲う。もう少しだけ、肩肘張らずに言えたら良いのにと思いつつ、こういうのも悪くないともまた思う。

「赤外線で情報を送ろうか。受信状態にしてくれる?」

「おまかせ、おまかせ。ショートカットは3・4・1。さあさあいつでもウェルカム」

「よし、送ったよ」

「来ました、来ました、ありがとう。贈り物には、お返ししましょう。ショートカットは3・4・2。いち・にの・さんで送っちゃおう」

「こっちはいつでもいいよ。さあ、送って」

「いっちゃえかたはの贈り物、わん・つー・すりー!」

いつの間にか英語になっているのはご愛敬。

「ありがとう、かたは。受け取ったよ。アドレス帳に登録するね」

「かたはのアドレス、あつくんの手の中。これでいつでも、ツナガレル」

「こうしておいた方が連絡もできて、お互い便利だね……あれ」

かたはからもらったアドレスと電話番号を目にして、僕は少しだけ、ごくごく少しだけ、違和感を受けていた。

「……『motoko-84@』……?」

メールアドレスのユーザーネーム、そこには「motoko-84」なる文字列が設定されていた。「84」は重複防止のために付与した数字だとしても「motoko」――恐らく「素子」だろうけど、これは一体どういう意味だろう。彼女なりの拘りかも知れない。訊いてみよう。

「かたは。メールアドレスの『motoko』って、これ――」

「あつくん、あつくん。どうしたの?」

「えっ、いや……教えて貰ったアドレスなんだけどさ、『motoko』って何か意味が」

「あつくん、あつくん。どうしたの?」

「……待ってかたは。最後まで聞いて。メルアドの『motoko』は誰かの名前だったりする」

「あつくん、あつくん。どうしたの?」

僕の形を変えた三度の問い掛けに対して、かたはは眉一つ動かさずに、唯々「どうしたの?」とだけ繰り返す。その様があまりに「いつも通り」過ぎて、どこからどう見ても「いつも通り」で、だからこそ「いつも通り」であることに、僕は違和感を覚えざるを得なかった。こんな彼女の姿は目にしたことが無かったから、僕は少しばかり緊張して身を固くした。

これ以上の質問は無意味だろう。何か、かたはに取って触れられたくないことなのかも知れない。かたはの頭にそっと手を載せて、小動物を慈しむようにそっと撫ぜた。

「ごめん、何でもないよ、かたは。今のは忘れて」

「あつくん、あつくん。すてきな電子のおくりもの、かたははとってもうれしいです」

無限ループブロックでずっと待機し続けて、次のプロシージャへ進むための条件が成立するのを待っていたかのように、かたはが「メールアドレスを交換して貰ったこと」に対する喜びの声を上げた。僕は緊張の糸が切れたようにふっと力が抜けて、元の流れに戻ったんだと実感していた。

分かった、詮索するのは止めよう。彼女が本当に僕に心を開いてくれれば、もしかするとその時に何か聞かせてもらえるかも知れないじゃないか。仮に話してくれなかったとしても、それで彼女の何かが変わるわけでもない。僕はそう考えて、メールアドレスを見て湧いた疑問を握りつぶした。

忘れてしまえば――どうということはない。

 

ベッドの上で寝転がりながら、携帯電話をぽちぽち弄る。ただそれだけのことなのに、そわそわした気持ちは一向に収まらない。

「『「にく」もすき、「さかな」もすき、「おこめ」もすき、「おやさい」もすき』……意外と何でも食べるんだなあ」

目を向けた先にあるディスプレイには、かたはの綴った短いメールが映し出されている。彼女が声に出して話をする時をイメージさせる、ほとんどがひらがなで構成されたメール。ただ一つ特徴的なのは、絵文字がとてもたくさん使われていることだ。「にく」「さかな」「おこめ」「おやさい」、それぞれの単語をイメージさせる絵文字を使って、文字だけのメールに彩りと潤いを与えてくれている。名詞のほとんどが絵文字に置き換えられているから、それが彼女なりのルールなのかも知れない。なかなかどうして可愛らしいものだと、受け手たる僕は思った。

「『ぼくも、きらいなものはないよ』……っと」

チャットでレスポンスを返すように、僕は手短に内容を固めてメールを送る。その本文は一切の漢字を含まず、ひらがなとカタカナのみで構成している。事前に聞いた話だと、目の見えない彼女がメールの内容を確認したい時は、携帯電話へ特別に組み込んで貰った自動テキスト読み上げツールを使っている、とのことだった。ツールは漢字も読める、けれどそれほど精度が高くないから、全部ひらがなとカタカナにして送って欲しい、意味は自分で組み立てられるから。僕に彼女の要望を無碍にする理由はなかった。

彼女に頼まれるままほぼ無変換の平たいメールを送り続けていると、いつしか自分の感情もまた複雑な内容に逐一変換することなく、もっと素直な素の感情が顕れ始めてくる気がしてきた。

「『あつくんといっしょに「ごはん」がたべたい。「ごはん」をたべて、それから「アイスクリーム」もたべたい』」

「『アイスをたべるなら、チョコレートあじがいいよ』」

「『かたはは『いちご』あじ。あつくんといっしょに「いちご」あじ』」

「『ふたりで、べつべつのアイスをたべればいいんじゃないの?』」

「『ばつ』『ばつ』。それじゃ『ばつ』。ふたりでひとつ、いつでもいっしょ。それがいちばん『にじゅうまる』」

二人で一緒に食事して、それからデザートにはストロベリーのアイスクリームを食べたい。僕がチョコレートアイスクリームがいいと返すと、ストロベリーじゃなきゃ嫌だ、それも二人で一緒がいいと主張して譲らない。普通なら「わがまま」だと感じるだろうけど、かたはがあの表情でお強請りしているところを想像すると、良い意味で逆らえなさそうだった。光はなくとも強い意志を湛えている、彼女はそんな目をしているから。

だけどこう、こうして他愛ないメールを互いに送って送られてを繰り返していると、僕とかたはは確かに互いに「付き合って」いるんだな、ということを実感する。彼女の送ってくるメールが絵文字とひらがなカタカナばかりで、どことなく普通の「女の子」が送ってきてもおかしくないような見てくれをしているのが、余計にその実感を強めている。

(そうか。かたはも「女の子」なんだ)

今更ながらにそんな感情を抱いて、僕はかたはが少しずつ愛しいと思えてきていることを実感した。

彼女としたいこと、それが少しずつ思い浮かんでくる。彼女だって、僕としたいことは山ほどあるだろう。少しずつ進めていけばいい。それこそ、彼女が僕に言ってくれたように「ちょっとずつ」「ちょっとずつ」。

「かたは、あしたもまたあえる?」

「『まる』『まる』『にじゅうまる』!」

そう――「ちょっとずつ」「ちょっとずつ」。

 

人は目でものを見ているのではなく、頭でものを見ている。誰かが口にしていたこの言葉の意味を、僕は今まさに実感している最中だった。瞳に映る光景と、僕が今頭の中で思い描いている光景は、僕自身が笑ってしまいそうになるほど噛み合わなかった。

左隣に母が、右隣に父が陣取る形で、僕は木製の固いベンチに腰掛けている。前には紺色のベストを身に着けた「識者」が壇上に立っていて、日曜の午前から訪れた信者達に弁舌を揮っていた。

「始まりがあるものには、必ず終わりがあります」

脳裏に浮かぶのはただ一人。それは言うまでもなく、かたはだった。電話番号とメールアドレスを互いに交換し合い、言葉をやりとりする機会が格段に増えた。もちろん、直接会うことだって欠かさず続けている。彼女は僕の気配を感じると直ちに歩み寄ってきて、遠慮なく僕の手を取る。あつくん、あつくん、今日の日もこんにちは。いつも彼女が口にする挨拶を、いつの間にか覚えてしまっている僕が居た。

「終わったことを受け入れることで、新たな始まりを迎えられるのです」

彼女にはずいぶん突っ込んだ話もするようになった。僕が送具である<Painkiller>を持ち歩いている背景や、<Painkiller>を使って死に瀕したポケモンを召している理由といった、少しデリケートな話題もだ。彼女の口ぶりを聞いていると、僕が思っていた以上にかたはは物知りだったようで、概ね僕がどういう立場の人間かを理解しているようだった。

面白い、いや可愛らしいと言うべきだろうか。かたはは既に知っているからと言って僕に話を止めさせたり、あるいは途中で割り込んだりするようなことはまったく無かった。彼女自身が言うには、僕から話を聞けることそのものが嬉しくて、自分が既に持っている知識かどうかはさしたる理由ではない、とのことのようだ。

「現世には終わりが在ることを認めようとせずに、偽りの永遠を欲する子羊たちが群れています」

僕は彼女に乞われるまま、僕が物心付いた頃から教え込まれてきた教条のうち、特に大切だと言われてきたものを教えた。かたはの方はというと、僕が日常生活を送るに当たって気を付けねばならないこと、そして禁忌とされていることを特に知りたがっていた。

「彼らを善き道へ導くこともまた、現世を生きる我らの責務であります」

何人たりとも、死者を偲ぶものを作ることは許されない。かたはには、まずこの教条について教えた。

帰天主義に属する人間は例外なく、如何なる理由があろうと、墓標・墓所・墓地・墓碑――その他有形のあらゆる「死者を偲ぶもの」を作ることや、既に存在するそれらのものに加わることを固く禁じられている。これは帰天主義について詳しく知らない市井の人々にも広まっていて、帰天主義が一般に異端視されることの一因ともなっている。

「天に御座します神の眼差しは遍く我らを捉えており、我らの奉仕する様を見守っておいでなのです」

神の子たる人間の本質は、魂である。生者は肉体に魂が宿った存在で、死者は魂を肉体の束縛から解き放たれた存在である。帰天主義の根幹になる考え方はここに尽きる。死者は物言わぬ屍、言うなれば只の肉塊に過ぎず、それに執着することに何らの意味も見出さない。墓標や墓碑などは文字通り無用の長物で、むしろ肉体から解き放たれた魂を現世に束縛する悪しき象徴として見られている。厳格な教義に撚れば火葬や埋葬によって死者を葬ることも禁忌に当たり、野晒しにして自然に還すことのみが唯一許された死者に対する扱いとされている。

「昨今の現世に於ける風潮、これが非常に嘆かわしく、悲しきものであることは論を俟ちません」

そこから派生して、他の人間の血肉を自らの肉体に取り入れることは望ましくないという教条もある。経口摂取はもちろんのこと、臓器移植や輸血もこれに当たる。ただ、これはあくまで「望ましくない」というものに止まっていて、厳しく強制されているものではない。実状としては、もし信者が臓器移植や大量の輸血が必要な怪我や疾病に見舞われれば、その肉体は「天へ帰る時が来た」と見做され、近しい者によって患者が「召される」ことの方がずっと多いのだけど。

禁忌である死者を弔うこととは対照的に、積極的に推奨されていること、つまり「すべきこと」もある。

「しかし我々は恐れてはなりません。天に御座します神は我らを護り、止むことの無い愛を抱いておいでです」

その筆頭が、「死者を忘れること」だ。

死者が魂の無い肉塊であるというのは先に述べた通り。そこから派生して、死者を忘却し記憶に留めないことが推奨されるようになった。人々の記憶という精神的な束縛から解き放たれることで、魂がより速やかに神の御座します天へと帰ることができるようにするというのがその主旨だ。だから、死者を忘れることが奨められる。最初からいなかったかのように振る舞えることが、もっとも望ましい。

「祈りましょう、祈りましょう。我らの思いが現世を遍く包み込み、善き世界へと生まれ変わりますようにと」

死者を思うことは禁忌とされ、死者を忘却することは奨励される。かたはにこの二つの点を教えると、彼女は何度も何度も頷いて、満足げな表情をして見せていた。なるほど、なるほど。あつくんの世界には、そんなルールがあるんだね。そんな感想を零していたのを憶えている。いい表情をしていた。知りたいことが分かった、僕の見ている世界をもう一歩踏み込んで理解できた。彼女の喜びが滲み出た表情だった。

「では、これにて。皆様の日々に幸多からんことを」

僕が頭でものを見ることをやめると、ちょうど説法が終わっていた。

 

ベッドの上で右手の人差し指を見やる。先っぽには小さな傷跡。傷そのものはとうに塞がって、これ以上血が流れてくることも無い。それほど深い傷でもないから、あと数日もすれば跡形もなく消えてしまうだろう。惜しいな、と僕は思う。こんな傷痕であれば、残ってくれていても構わないのに。指先に傷を作った経緯を、僕は今一度振り返ってみた。

夕刻。いつものように二人で待ち合わせた折に、かたはが僕の送具である<Painkiller>に触れてみたい、と言い出したのが切っ掛けだった。僕がカバンから<Painkiller>を取り出そうとした時に、僕は指先に冷たい感触が走るのを覚えた。冷たいと思った次の瞬間には、翻すかのように指先が熱くなるのを感じた。

「あっ……」

「あつくん、あつくん。どうしたの?」

エアームドの翼で切られると、初めに一瞬冷たくなって、それから遅れて火傷にも似た強い痛みを覚えると言われる。切れ味が鋭すぎるために痛覚が痛みを知覚するよりも先に傷口が開いて、身体が外気に晒されて冷たいと感じるからだそうだ。実際に切ってみると、確かに説得力があると僕は得心した。

つまるところ、僕は指先を<Painkiller>で切ってしまった、ということになる。

「大したことないよ。ちょっと、指先を切っちゃったんだ」

「これかな、これかな?」

かたはが子犬のようにすんすんと鼻を小さく鳴らすと、ほとんど迷わず僕の人差し指に両手を絡めてきた。どの指が傷ついたか、文字通り手に取るように分かっているようだった。

「それで合ってるよ、かたは。よく分かったね」

「血のにおい、いいにおい。君のにおいとひとつになって、かたはのからだを包み込む。くらくらしそう、ゆめみたい」

うっとりとした、という形容詞が似つかわしい表情で、かたはが僕の指先に絡めた手を艶かしく蠢かせる。どこか子供らしさを残すあどけない顔つきをしているのに、僕は彼女から放たれる色香をひしひしと感じずにはいられなかった。彼女は「くらくらしそう」と口にしたが、それは僕もまた同じことだった。

僕はかたはがこの後どんな行動を取るか、大筋で想像が付いていた。想像が付いていたけれども、それは僕に息を飲ませるには十分に過ぎた。彼女の熱を帯びた吐息が指先に掛かる。指先には鮮やかな紅色の珠が浮かび上がって、今にも零れ落ちそうになっていた。

「あつくん、あつくん。あつくんの血、かたはにちょうだい」

ああ――やっぱり、そうだよね。僕は納得し、同時に胸が高鳴るのを覚えた。

「いいよ、かたは。かたはの好きにして」

僕がいいよと答えると、頬を緩ませたかたはが平たい瞳を僕に向けて、おもむろに指先に口付けた。口からピンク色の舌をちらつかせると、間を置かずほんの少しだけざらついた感触が指先を撫ぜた。指先に集められていた紅い血が彼女の舌を伝っていき、目には見えないけれども、彼女の喉の奥へ飲み込まれていくのを感じることができた。

彼女の中に、僕が入っていく。

「あつくん、あつくん。かたはの舌、あつくんの味でいっぱい。あつくんの味がする」

愛しげに指先へ舌を這わせる彼女の様子を眺めていると、僕は明白に鼓動が早くなるのを自覚した。喉の奥から絞り出される呼気が、唾液で濡れた人差し指に生温かい感触を齎す。あつくんの味がする、あつくんの味がする。恍惚とした表情でしきりに繰り返す。もっと見せてほしい、僕にもっと、君の生々しい姿を見せてほしい。剥き出しの欲望と願望が際限なく膨らんでいく。僕を欲しがるかたはの姿は、僕の見てきたありとあらゆる人間の中で、抜きん出て生き生きとしていた。

彼女の言葉を借りるなら、「いのち」に満ち充ちていた。

かたはがひとしきり指先を弄ぶと、血はそれ以上流れなくなった。かたはもそれに気づいて、咥えていた指先をそっと解放する。彼女の表情からは物欲しそうな様子がありありと伺えた。もっと血が欲しい、僕の血が欲しい。無言の言葉が僕に押し寄せてくる。かたはが訴える欲求の奔流に、僕は自らの意志で身を委ねることを選んだ。

「かたは、もっと欲しい?」

「ほしい、ほしい。たくさんほしい、いっぱいほしい」

「分かった。僕も、血を啜る君の姿をもっと見てたいんだ」

カバンから取り出した<Painkiller>を左手に握ると、躊躇わず先端を塞がり掛けている傷口へ押し当てた。見る見るうちに鮮血が滲み出てきて、指先を静かに伝い始める。かたはが再び小さく鼻を鳴らす。僕の血のにおいを嗅ぎ付けたようだった。

「あつくん、あつくん。いたい? いたい?」

「痛みなんて――もう、とうの昔に忘れちゃったよ」

小首を傾げて訊ねる彼女に、僕はありのままの言葉を返す。

そう、もう痛みなんて忘れた。忘れてしまったんだ。

「あげるよ、かたは。君の望むままに」

無意識のうちに、僕はかたはの口内へ自ら指先を差し入れていた。

 

「坂崎くん、ちょっといい?」

「どうしたんですか、稲森先生」

いつものように――いつの間にか「いつものように」という形容がしっくり来るようになっていた、僕にはそう思えた――河原で待っているだろうかたはの元へと急ごうとした矢先、僕は担任の稲森先生に呼び止められた。英語のリーディングを担当している、二十代後半の女性の教師。それが僕の知っている稲森先生のすべてだった。

僕は足を止めて、稲森先生のいる方向へ向き直る。彼女は一つ咳払いをしてから、おもむろにこんな話を切り出してきた。

「大したことじゃないんだけど……進路のことで、一つ話があって」

「僕の進路について、ですか」

ここまでに言っていなかったかも知れないけど、僕は今高校二年生だ。稲森先生がどうして今の僕に進路の話をしようとしているのか、僕にはいまいちピンとこなかった。もちろん、早いうちから進路のことを考え始めるのは別に悪いことじゃないのは、僕だって頭では理解してる。だけどそれは自主的なもので、担任と顔を突き合わせてするようなものじゃないと思わずには居られなかった。

今頃かたははどうしているだろう。いつも彼女が先に来て待っていてくれているから、僕としては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。今日こそはかたはよりも先にあの場所へ赴いて、彼女が来るのを待っていたかったんだけれども。

「隣の県に坂崎くんと合いそうな大学があって、そこへ行ってみたらどうかな、って思ったの」

「けれど先生。隣の県だと、実家から通うのは難しいと思うんですが」

「そうね、家を出て一人暮らしをすることになるわ。けれど、坂崎くんももう大人だし、独り立ちしてもいいんじゃないかしら?」

「今の法律では、二十歳未満は未成年です。まだ大人とは言えません」

この会話を通して、先生は僕に何を伝えたいのだろう。そこのところが少しも分からなくて、僕はしきりに首を傾げざるを得なかった。

「理屈では、確かにそう。だけど……坂崎くん、あなたは家を出た方がいい、先生はそう思うの」

「僕は、実家での暮らしにそれほど不便を感じていません」

「今はそうかも知れないわ。けれど外の世界に出れば、新しいものの見方ができるようになる。そうでしょう?」

「こうして学校に通うことも、外の世界に出ていると言えると思います」

会話が噛み合っていないのだろうか。僕は稲森先生の意図を汲もうとしているけれど、どうにも上手くいかない。先生も僕にどう言葉を掛けるべきか迷い始めているようだった。

「先生。すみませんが、僕は用事があるので、これで失礼します」

「あっ、ちょっと、坂崎くん!」

稲森先生の声を背中にして、僕はその場から早足で立ち去る。

さあ――かたはの処へ急がなきゃ。

 

僕が遅れてしまったために、彼女は今日も待っていた。僕の立場からすると、彼女を待たせてしまったということになる。

些かの罪悪感を覚えながらかたはに歩み寄る。こちらに背を向けて立っている彼女は、たとえ僕が声を掛ければいつものようにはちきれんばかりの笑顔を見せてくれると分かっていても、まるで待ちぼうけを食らわされたことを不満に思っているかのようで、僕にとっては居た堪れなかった。僕がもっと早く行動していれば、彼女を待つことだってできたかも知れないのに。仮定に基づく悔恨が僕を苦しめる。

せめて、ほんの少しであってもかたはを歓ばせてあげられないだろうか。僕は歩きながらも思案を重ねて、ふと――一つの案を思い浮かべるに至った。普通では考えられない、仮に考えたとしてもまず実行に移そうとは思わない、普通の人が相手なら間違いなく拒絶されるような案だった。だけど不思議と、かたはなら歓んでくれる、僕にはそんな確信があった。

反射的にカバンから<Painkiller>を取り出し、右手に構える。彼女のすぐ後ろにまで音を立てずに歩み寄って、かたはの感覚器官が僕を捉えるよりも先に射程圏内に入ることができた。僕は息を殺して彼女の真後ろに立ち、ほんの少し勢いを付けて彼女に飛び掛った。

「お待たせ、かたは」

「わあっ――」

僕は彼女に後ろから抱きつくと、首筋にきらりと光る<Painkiller>を突き付けた。

「分かるかな? 今、君がどんな状況にいるか」

かたはは小さく声を上げて見せると、そのまま身じろぎ一つせず立ち続けていた。

「……みえる、みえる、とってもみえる。かたはの首筋、その近く。きらりとひかる、つめたい刃」

「やっぱり全部分かっちゃうんだ。すごいよ、かたは」

「えへへ。かたは、あつくんにほめられた。ほめられちゃった」

かたはの声には、戸惑いとか困惑とか、そういった要素が微塵も混じっていなくて、ただただ「驚いた」「嬉しい」「楽しい」――そんなプラスの感情だけが前面に全面に押し出されていた。首筋に当てられた<Painkiller>の感触を、彼女は心から愉しんでいるようだった。

「背中のぬくもり。あつくんの体温、あつくんのぬくもり」

「首筋のつめたさ。刃の切っ先、今にも触れそう。その気になったら、すぐに消えちゃういのちの灯火」

「――しあわせ。あたたかいしあわせ、つめたいしあわせ。前と後ろ、正反対の幸せを、かたはがぜんぶ独り占め」

「あつくん、あつくん、ありがとう。すてきな贈り物、おしゃれな贈り物。かたははとってもしあわせです」

後ろから刃物を突き付けられる。常識で考えれば、驚かれこそすれ間違いなく拒絶されるような行為だったけれど、かたはにとって僕からのそれは、紛れもなく「すてきな贈り物」に感じられたみたいだ。密着した躰から伝わる彼女の鼓動は高鳴っていて、今の状況を好ましく思っているのは明らかだった。

首を回して僕に目を向ける。彼女の顔は、いつにも増して素晴らしい笑顔だった。

「歓んでくれたみたいで、何よりだよ」

「あつくん、あつくん。やっぱりすてき、とってもすてき。かたはの目に狂いはございませんでした」

「こういうのって、確か『あすなろ抱き』って言うらしいね」

「いえす、いえす、そのとおり。ロマンティックでドラマティック。かたはのからだ、今にもとろけてしまいそう」

そこにこうやって刃物が出てくるのが、いかにも僕ららしいよね。僕がおどけてそう付け加えると、彼女は声を上げて笑ってくれた。

少し間を置いてから、かたはが僕に尋ねてきた。

「あつくん、あつくん。かたはを抱っこしても、平気になった?」

「――うん。君は、僕のことを受け入れてくれるって、そう思えるようになったから」

「じゃあかたは、あつくんの特別な人?」

かつて抱いていた恐怖心が、誰かに身を寄せること、身を寄せられることへの畏れが、かたはに対しては生じてこなくなってきていた。

「そういうことだよ」

「えへへ。それはそれは、グッドニュース。ベリーグッドニュース」

そういう意味では――確かに、「特別な人」だった。

 

ひっそりとした表通り。人の往来も少なく、今ひとつ活気というものが感じられない。シャッターが降りたままの店舗も珍しくない。僕たちの入った喫茶店は、そんな寂寥感漂う商店街の一角に位置していた。

「木のにおい、やすらぐ香り。初めてなのに、ノスタルジック」

「気に入ってくれたみたいで何よりだよ。一人で落ち着きたい時に、たまに使ってる場所なんだ」

確か「ルージュ」って名前だったはずだ。確かめようと思ってお店の入り口にあるガラス扉を覗き込むと、鏡文字になったそれが目に飛び込んできて、僕は自分の記憶が正しかったことを確認した。

ここは僕が物心付いた頃から、今と変わらぬスタイルで経営を続けている。内装もメニューも、そして店長を含む従業員の顔ぶれも変わっていない。小学生の頃にホットコーヒーとトーストサンドが美味しいと聞いていて、僕も高校生になってからしばしばそのセットを注文している。苦いコーヒーは僕には合わないと感じていたのが、今となってはずいぶん前のことのように感じる。

「かたは、何がいい? コーヒー? それとも紅茶?」

「アップルジュース! 日本語で言うと、りんごのしずく!」

かたはのマイペースぶりは相変わらずだった。コーヒーでも紅茶でもなく、アップルジュースがいいらしい。じゃあ、僕はホットコーヒーでも頼もうか、そう考えていた折のこと。

「ご注文はお決まりですか?」

「きまり、きまり! アップルジュース! あーんど・ストローをダブル!」

えっ――ちょっと、かたは、それって。

「確認します。アップルジュースがお一つ、以上でよろしいですか?」

「あの、かたは、ストロー二本って……」

「いえす、いえす!」

「承りました。少々お待ちください」

僕が疑問を差し挟む余地を与えず、かたはは素早く注文を確定させてしまった。呆気に取られた僕に、かたはが人懐っこさといたずらっぽさが同居した笑顔を向けてくる。背を向けてカウンターの裏側へ去っていく店員から目を離すと、僕は頬を綻ばせるかたはの肩に手を載せた。

「ジュースは一つ、ストローは二本。ということは、つまり……」

「かたはとあつくん、ふたりでひとつ。アップルジュースも、ふたりでひとつ。うれしはずかし、ダブルストロー」

「……まあ、そうなるよね」

態々確認せずとも、分かりきったことではあったけれど。

注文を取った店員が気を利かせてくれた(お節介を焼いた、とも言う)ようで、グラスに並々と注がれたアップルジュースには既にストローが二本差しされていた。向かい合って座る僕らの真ん中にジュースを据えると、かたはははち切れんばかりの笑顔でそれを見つめ始めた。これもやっぱり、匂いで場所が分かるらしい。

「ちょっとこそばゆいけど……けど、かたはと僕は付き合ってるんだ。堂々としてなきゃね」

「かたはとあつくん、恋人なう。できたてほやほや、どきどきアベック」

「アベックって言い方はもう死語だと思うけど、なんだか僕ららしい気もするよ」

苦笑いを浮かべて応じる僕に、かたはの方はキャッキャッと無邪気な様子を見せている。戸惑っていた頃が嘘のように、僕は今の彼女から純粋に愛嬌を感じとることができている。これも、付き合い始めたことによる変化なのかもしれない。

だから、彼女からこんな提案をされても、僕は何一つ驚かなかった。

「あつくん、あつくん。きいて、きいて」

「どうしたの、かたは」

「アップルジュース、りんごのしずく。紅いりんごの成れの果て。けれどちっとも紅くない、りんごだけれど紅くない」

「だから、紅色が欲しい――そういうこと、かな?」

その通りだよ。彼女は言葉を口にする代わりに、大きく頷くことで応じた。

彼女の意図がさっぱり汲めないほど、僕も朴念珍ではない。店員が僕らに目を向けていないのを素早く確かめてから、僕はカバンをさりげなくテーブルの上に載せた。ポケットのファスナーを開くと、中に手を差し入れてしばし小細工をする。済んでから手を除けると、天井に取り付けられたシックなランプが放つ光を、ポケットの中の冷たい刃がきらりと跳ね返していた。

僕は静かに手を入れると、中指を選んで刃先に押し当て、ほんの少しだけ指先を沿わせた。冷たい感触がしたかと思うと、知覚する頃には熱い感触へ変貌していた。グラスに注がれたアップルジュースの上で傷口を潰して血を滲ませると、間もなく僕の血が下へ落ちていった。

「ジュースに僕の血を加えたよ。それで満足してくれるかな?」

「ううん、ううん。もっとほしい、もっともっと紅がほしい」

かたはがテーブルに置かれた僕のカバンを探り当てて、ぺたぺたとしきりに触って感覚を確かめている。彼女の仕草が何を示しているか、かたはが彼女の世界の中で何を探しているか、僕にはすぐ理解できた。彼女の意図が分かる、この感触が得も言われぬ心地よさとなって、僕をやさしく包み込む。

「分かった。それなら、もっと紅くしよう」

「ここにかたはの血も入れて、ひとつにするんだ」

勢いよく頷く彼女を見て、僕は一層自分の感触に自信が持てた。

「よし。じゃあ、その手を――」

「あつくん、あつくん。ストップ・ストップ」

側に置かれた右手を取ろうとした僕を、彼女が素早く制止した。

「どうしたんだい、かたは」

「あつくん、あつくん。かたはからの大切なお願いです」

「僕にお願い?」

「ダメダメダメ子なこっちじゃなくて、大事な大事な左の手。かたははこっちがいいのです」

かたはは僕に左手を差し出すと、こっちの指先を傷付けてくれというサインを送ってきた。彼女なりのこだわりがあるようだった。僕は二つ返事で了承すると、硝子細工でも扱うような手つきでもって、彼女の柔らかな繊手をそっとポケットへ忍び込ませる。細心の注意を払いつつ、ポケットの中で蠢く送具の刃先を、彼女の中指に押し当てた。

その時の彼女の表情を、僕はきっと忘れられないだろう。至福という言葉がここまで綺麗に当て嵌まる顔つきも珍しかった。あぁ、と声が漏れる。喘ぐような悩ましげな声だった。生暖かい吐息が微かに僕の頬を掠めた、そんな錯覚を覚える。ポケットの内部を覗き込む。<Painkiller>の先端が、彼女の指先を包む皮膚を貫いて、紅色のしずくを湛えている様が目に飛び込んできた。かたはに目を向ける。恍惚とした表情を浮かべながら、指先から伝わる刺激に小さく身悶えしていた。

「かたは、痛い?」

「いたい、いたい。とってもすてき、くせになりそう」

心底心地よさそうな面持ちだった。強がりでも虚勢でも何でもない――そもそも、僕には彼女がそんな稚拙な仮面を被るようなタイプとは、欠片も思えない――、本心から出た言葉に見えた。彼女にとって痛みは快感、或いは悦楽、若しくは愉悦。幼さを残す顔立ちとは裏腹な彼女の先鋭的な性癖に、僕は無意識のうちに胸が高鳴るのを感じていた。

「いたいの、いたいの、とんでかないで」

「いのちの波動、からだを巡って頭へとどく。小さな波動、大きく育って、頭の鎖を引き裂いて」

「からだのいたみ、いのちのあかし、ああっ」

感じ入った声をあげて、彼女が大きく身震いした。

僕が彼女の手の甲に手を添えると、かたはは名残惜しげに<Painkiller>から指先を離す。中指には紅い珠がくっきりと浮かんで、今にも零れ落ちそうになっていた。僕が彼女の手をグラスの真上まで持ってきてあげると、器用にくるんとひっくり返して指先とグラスを対面させた。

ぽたり、ぽたり。彼女の血がアップルジュースの注がれたグラスに落ちていった。浅葱色のジュースに、紅色の薄いもやが少しずつ広がっていく。三滴ほど垂らしたあと、手をグラスから除けてやる。未だに外へ零れようとしている血を見ながら、僕は彼女の指先を手で包んで温めた。そうしてしばらく待つと、かたはの指先から溢れていた紅珠が姿を消して、紅い小さな染みを残すばかりとなった。

眼前には、僕とかたはの血が加えられたアップルジュース。血はいつしかジュースの中でひとつになって、外からは血が混じっているようには見えなくなっていた。ストローを探していたかたはの口をグラスの前へ運んであげてから、続けて僕も白いストローに口をつけた。

「じゃあ、かたは。一緒に飲もうか」

かたはが大きく頷いた。白い歯を浮かべて笑う。つられて僕も一緒に笑う。ストローから液体を吸い上げて、喉の奥へ流し込んでいく。

僕たちの血を加えたアップルジュースは――いつもより少し、瑞々しい味がした。

 

ジュースを飲み干してからしばらく談笑して、僕らは連れ立って喫茶店を後にした。

「かたは、ありがとう。おいしかったよ、アップルジュース」

「おいしいりんご、自然のめぐみ。かたはも満足、だいまんぞく」

僕らは結局あのジュースを分け合って飲んだだけで、他には何も口にしなかった。けれど、他には何も要らないというのが僕の偽らざる本音だった。少しだけ混ぜものを加えただけの、何の変哲もない林檎のジュース。それさえあれば、今の僕たちにとっては十分に過ぎた。

「だけど、ざんねん、ざんねん」

「何か気になることでもあるの? かたは」

「りんごのしずく、かたはのしずく、あつくんのしずく。三位一体のいのちの水。とってもおいしかったけど、時計の針がくるんと回れば、後はお外へ出ていくだけ。からだにたまったゴミといっしょに、押し流されて消えていく。それがざんねん、とびきりざんねん」

口から摂取したものは体内で吸収されて、不要なものは外へ排泄される。かたははあのジュースも同じ運命を辿ると言い、それが残念だとこぼした。舌がとろけるような美食も、喉を潤す命の水も、体に取り込まれてしまえばすべて同じ。彼女の口ぶりからは、そんな無常観が見て取れた。

かたはの言葉に僕は少しばかりの切なさを覚えて、おもむろに彼女の肩に手を置いた。いつものように満面の笑みを浮かべて返す彼女に、僕はもっと尽くしてやりたい、気持ちに応えてやりたいという思いを強くした。どれだけ歪なカタチであれ、僕たちはまごうことなき男女の仲だ。側で笑っていてほしいと思うのは、当然のことだろう。

「じゃあさ、あれだよ。外に出て行かないようにすればいいんじゃないかな? 寒い部屋に篭もれば、汗をかかずに済むよ」

「ヤ、ヤ。さむいのはキライ。おしっこの数も増えるから、とびきりキライ」

「はははっ。ま、寒いと確かにそうなっちゃうよね」

感情を包み隠さず露にするかたはの様子が、愛しくてならなかった。

元来た道を遡って歩いていく中で、辺りから人影が消えた頃のことだった。

「あつくん、あつくん」

「どうしたの、かたは」

道端に立ち止まった彼女は不意に僕の右手を掴むと、そのまま自分の元へと近づけて行って――。

「うわっ……か、かたは……!?」

「えへへ。あつくんにも、かたはのどきどき、おすそわけ」

自分の胸へと、迷うことなく押し当てた。

指先に伝わる柔らかな感触は、かたはが身につけているこざっぱりしたブラウスのものなんかじゃ無い。紛れもなく間違いなく、彼女の肉体が齎すものだった。それは、僕が考えていたよりも少しばかり大きくて、ふわふわとした触り心地をしていた。布越しであることを忘れさせるほどに、はっきりと体温が伝わってくる。春の陽射しを浴びたようなぬくもりが、胸にぴったりとくっ付けられた僕の掌に広がっていく。

自分の胸へ男子である僕の手を無遠慮に押し付けるかたはの大胆さに、さすがに僕も面食らってしまった。何も知らぬ子供のような表情に混ざり込んだ、すべてを見透かす小悪魔のような瞳。そこに僕の姿が映し出されていないことだけが、困惑し狼狽している僕にとっての唯一つの救いだった。

「おいしいジュース、たのしいおはなし、すてきなあつくん。かたははとってもいい気持ち。きょうはとっても、しあわせな日」

「その、かたは……胸……」

「どきどき、どきどき。高鳴るかたはのこころのパルス、あつくんにもちゃんと伝えたい」

彼女の言う通り、手から伝わるかたはの鼓動は確かに早くなっていた。一度それを意識してしまうと、手を当てているこちらまでつられて脈拍が上がってきそうだった。かたはが僕の気持ちを理解して態とこうしているのか、あるいは無邪気さが齎す天性の色香なのか。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。それが、かたはという不思議な少女の性質だった。

脈打つ鼓動、朱に染まる頬。それは僕だけでなく、かたはも同じだった。丸みを帯びた彼女の頬は、恰も林檎のようだった。先程僕らが飲み干したあのジュースに使われた、陽の光を浴びて育った林檎のよう。無垢な表情が見せる甘味と、時折紡がれる言葉の直截さが齎す酸味。

かたはは――確かに林檎のような少女かも知れなかった。

「かたは、伝わってくるよ。君の鼓動も、体温も、皮膚の感触も、全部」

「あつくん、あつくん。かたはは今、うっとりしています。背中にはがねのつばさがはえて、今にも空へうかんでゆきそうです」

「空へ、か。僕はかたはと――」

一緒にここで、地上で居たい。僕がそう続けようとした直後だった。

「あつくん――」

「おっとっと」

かたはが僕の胸元へ大きく寄りかかってきて、そのまま脱力してしまった。眩暈でも起こしてしまったのだろうか。僕は彼女を両腕で抱きとめて、倒れ込まないようにその華奢な体を支えてやる。彼女の目はとろんとしていて、心ここに在らず、といった具合だった。ぼーっとした表情で平らな瞳を僕に向ける彼女に、僕は今一度胸の高鳴りを覚えた。

「大丈夫?」

「平気、平気。しあわせすぎて、かたはのこころがオーバーヒート。ただそれだけ、ただそれだけ」

にこり、と笑って見せながら、彼女は僕に寄り掛かるのを止めなかった。僕もかたはの求めるまま、自分の胸を彼女に明け渡していた。彼女の体温を間近に感じられるから、何も悪いことじゃない。僕にとっては、望ましいとさえ言えるシチュエーションだった。

「また今日みたいに、一緒にジュースを飲もうか」

「のみたい、のみたい。たくさんのみたい」

彼女を抱きながら物思いに耽る。僕らは「ルージュ」で互いの血を混ぜたアップルジュースを飲んだ。一昔前でさえ時代遅れだと評されるような、一つのグラスに二本のストローを差して飲むあの飲み方で、だ。今の僕の躰には、例えごくわずかとは言えど、かたはの血が流れている。対する彼女の躰にも、僕の血が巡っている。二人で一つ。今の僕らは紛れもなく、二人で一つだった。

「もし」

「もし?」

「もしもかたはが魔法を使えたら、ふたりでいっしょに魔法をかけて、海のお水を飲んでみたい」

「海水を飲みたい?」

「飲めるのは、かたはとあつくん、ふたりだけ。そんな魔法を使ってみたい」

「それは、どういう意味?」

「海のお水は無限大。りんごみたいに終わりが無くて、いつまでもいっしょに、ふたりでいっしょに、ひとつのものを飲んでいられる。それができたら、ずっとしあわせ、無限にしあわせ」

海の水を僕ら二人だけが飲めるようになれば、世界中の海を涸れ果てさせるまで、二人だけで一つのものを飲んでいられる――かたはの空想は途方も無く突拍子も無く、だけど言いたいことは驚くほどストレートに伝わってくる。彼女の見ている世界はどんなカタチをしているのだろう。僕はそれを知りたいと思った。

もっと彼女の側に居たい。彼女を感じていたい。そう思いながら、僕は胸に寄り掛かる彼女を今一度強く抱きしめた。

 

早いもので、もう二ヶ月が経った。それは僕とかたはの二人が、見ての通り些か世間ずれしつつも、「付き合っている男女」らしい有り様を身に付けつつあった頃のことだった。

僕らに――ある一つの転機が訪れた。

人気の無い裏路地を二人して当て所なく散歩していた折のことだ。僕は道端に横たわるものを見つけて、反射的に足を止めた。

「あつくん、あつくん。見つけた、見つけた」

「君も分かったみたいだね、かたは」

僕が声を上げるよりも先に、隣のかたはが口を開いた。

「オニスズメ? オニスズメ?」

「へえ……種族まで分かっちゃうなんて、さすがだね。合ってるよ、かたは」

道端に横臥するオニスズメ。少し遠くから眺めても、衰弱しているのは明らかだった。外傷は見当たらず、萎れた尾羽はこのオニスズメが老体であることを如実に示していた。老衰、この二文字が僕の脳裏を過っていく。先はもう長くない、今は生きているか死んでいるか、自身にも判然としない状態だろう。最早救う手立ては無く、これ以上生きることは徒に苦しむ時間を長引かせるだけだ。

「お年を召したオニスズメ、今までほんとにお疲れさま」

「あのオニスズメは善く生きた。この期に及んで苦しむ必要は無い。だから、僕が――」

あのオニスズメを召そう。そう言い掛けて、言葉を準備し終えたと同時に。

かたはが僕の手を少しだけ強く握って、自らの存在を訴えてきた。僕は喉まで出ていた言葉をぐっと飲み込んで、彼女の意志を確認することにした。何時もと何ら変わらない、弾むような調子でもって、僕に向かってかたはが呟く。

「あつくん、あつくん」

「いたみのおわり、いのちのピリオド」

「かたはも近くで感じたい。いのちあるものの最後のひととき」

手に込められた力が一層強くなる。かたはが手を強く握ることの意味を、僕は一切合財の言葉なくして、はっきりと理解するに至った。思わず息を飲む。知らず知らずのうちに、僕の手にも強い力が込められていて。

「かたは、君は……」

僕は言葉を途切れさせた。それでも一分も余すところ無く、僕の思いは伝わっていて。

「おしまいに、してあげよう?」

「いのちのピリオド、刻んであげよう?」

頭に思い浮かべていたものと寸分違わぬ言葉を、彼女は口にした。

来るべき時が来た。僕は身が引き締まる思いを抑え切れなかった。いつかはきっと彼女も、自分の手で死に瀕したポケモンを召したいとせがんでくるに違いないとは思っていた。その時が来たら、ありのまま受け容れようとも考えていた。心構えは持っていた筈なのに、今こうして矢面に立たされると、否が応にも緊張してしまう。

この一線を越えてしまったら、僕らは何かが変わってしまうのではないか。かたはが今までとは異質な存在になってしまうのではないか。具体性の無い抽象的な不安が僕を包み込む。何がどう不安なのかは説明できないけれど、僕の胸騒ぎは収まる気配を見せなかった。彼女の血が手で濡れてしまうことを恐れているのか、彼女が醒めてしまうのを恐れているのか、或いはその何れでもないのか。無数の可能性が脳裏を過って、僕の思考力を奪っていく。

半ば凍結していた僕を、再び元通りに動かしたのは。

「ふたりで、いっしょに」

「かたはとあつくん。ふたりでいっしょに」

「おしまいに――してあげよう?」

他ならぬ、かたはの言葉だった。

「……そうか、そうだね。僕とかたはの二人で、あのオニスズメを召せばいいんだ」

僕は、自分の思考が凝り固まっていたことを自覚して、苦笑いを浮かべるほか無かった。

「かたはとあつくん、あつくんとかたは。互い互いに手をとって。ふたりでいっしょに、共同作業」

そうだ。彼女が口にした通り、僕らは二人で一つなんだ。ポケモンを召すことだって、二人で力を合わせれば、恐れることなど何もない。「いのちのおわりを感じたい」。かたはは確かに言っていた。彼女は僕が味わっている感覚を、自分もまた味わいたいと考えてくれている。

もしかすると、彼女は僕にとって初めての「真なる理解者」になってくれるかも知れないんだ。

僕の脳裏にヴィジョンが広がる。赤茶けて錆び付いた刺々しい有刺鉄線を踏み越えて、巣の中へ入ってきてくれる。血で濡れた躰を抱いてくれる。傷口に手を触れてくれる。彼女なら、この女の子なら、かたはなら――何の苦もなく、それができる気がした。

「分かった。かたは、一緒にやろう」

「あのオニスズメを楽にして、痛みを殺してあげるんだ」

手際よくカバンのポケットから<Painkiller>を取り出す。かたはの手を導いて柄を握らせると、僕が側に手を添えてアシストする。彼女の手を包み込むことはしなかった。手を血に濡らして、彼女の言う「いのちのおわり」を感じてもらいたかったからだ。かたはもそれを望んでいると、僕は確信していた。

二人して呼吸を整える。眼前のオニスズメの瞳は酷く白濁していて、僕らの姿はもはっきり視えていないに違いなかった。仮にもし何かが見えているとしたら、僕らはどう認識されていることだろう。手を差し伸べにきた善意の人間か、苦痛を与えにきた悪意の人間か、若しくは死者を異界へ連行する天使か死神か。既にそこまで思考が回らなくなっているというのが、最も理に適っていただろうけど。

「あつくん、あつくん。かたははいつでも大丈夫」

終わりにしよう。

「よし。じゃあ、そろそろ行くよ。せーの、だからね」

この老いたオニスズメの命を。

「――せー、のっ!」

始めよう。

「……!」

僕らの新しい関係を。

「――ああ」

「はいった、はいった」

「しろがねの刃、小さなからだを貫いて」

「確かに刻んだ――いのちのおわり」

恍惚とした表情という言葉が、今の彼女を表現するに当たってもっとも適切だと、僕には思えた。

「あったかい、あったかい」

「ふるえるからだ、ながれるちしお、こぼれるといき」

「きえゆくほのおのさいごのかがやき」

「これが、いのちのおわり。いたみのおわり」

夢を見る少女のような顔つきで、手を血に塗れさせたかたはが、ぽつりぽつりと言葉を漏らした。

オニスズメの心臓に深々と突き立てられて、文字通り即死に至らしめた<Painkiller>から手を離し、かたはが手探りでオニスズメだったものの骸を探す。彼女の手が血を湛える傷口付近に触れると、そこで動きが止まった。まるで慈しむように両手を回し、肉塊と化した骸をしきりに撫ぜた。その度に夥しい量の血が手に纏わり付いて、馴染めなかった分が地面へポタポタと垂れていく。そんな様相を呈していた。

彼女は確かに感じた。感じ取った。生きていた者が死ぬということを、生物から非生物へ遷移するということを、それが「いのちのおわり」だということを。すべてを自らの手に受け止めて、摂食して、咀嚼して、嚥下して、そして胃の腑に収めていく。

「――すてき、すてき」

「いのちのおわり、それは、いのちがいちばんかがやくとき」

「最後のほのお、やみを破って、せかいを照らして」

「かたはのせかいで――きらきらひかる」

満足げに血で濡れた手を空に翳すかたはを、僕もまた満足な気持ちで眺めていた。

僕らは二人で、二人でいっしょに、ポケモンを召したのだ。

「うれしい、うれしい。とってもすてき、いい気持ち」

「僕もだ、かたは。これで僕たちは、もっとつながりを強くすることができた。僕はそう思うよ」

血塗れの手で、同じく血塗れの彼女の手を取る。

握り返された彼女の手からは、彼女の刻む胸の鼓動が、確かに伝わってくるのを感じた。

 

僕らの関係は、その日を境にますます深化していった。

傷つき死に瀕したポケモンを見つけては、二人の「共同作業」で召していく。僕らの手が血に染まって、躰に血のにおいが纏わりついて行くごとに、僕らはより深く心を通わせるようになっていった。血に濡れた手を空に掲げて無邪気に喜ぶかたはを見ていると、僕まで彼女に感化されて童心に帰ってしまいそうなほどだった。

命の灯火が尽き掛けているポケモンはいくらでもいた。ポケモン同士の諍いで傷ついた者もいたし、事故に巻き込まれて生死の境を彷徨っている者もいた。もちろん、身勝手な人間に捨てられて、生きる術を見つけられずに死に逝こうとしている者もいた。それらを見つけては、僕らは<Painkiller>で召していった。

ポケモンたちを<Painkiller>で召すのは、ひとえにかたはの喜ぶ姿が見られるからだった。ポケモンを召すことの意義や是非は二の次で、僕は彼女が歓喜する様をただ見ていたいだけだった。倫理も教義も、主義も思想も関係なく、ただかたはが喜んでさえくれれば僕は満足だった。

「あつくん、あつくん。かたは、上手に切れてる?」

「綺麗に切れてるよ。うまく小さい方だけを切り取ってくれたみたいだね」

ホームランボールを手にした少年のような爽快な表情で、かたはが戦利品を――切り取られたチェリンボの顔を、空に向けて掲げる。切り口からはまだ赤い血が溢れていて、手首に流れたそれを舌を使って嘗め取る彼女の姿が見て取れた。

「じゃあさ、一緒に食べようか。チェリンボの実は美味しいって言うからね」

「さんせい・さんせい・だんさんせい!」

僕が手早くチェリンボだったモノを切り分けると、小さく開かれた彼女の口へそっと押し込んでやった。歯を食い込ませて果実をその場に固定すると、指先でそれを指して僕に続くよう訴え掛けてきた。望むところだとばかりに、僕は果実の反対側にかぶりついた。

かたはが実を齧る、僕が反対側から食べ進める。鉄のような血の味が広がったかと思うと、刹那によく熟したさくらんぼのような強い甘味とほとばしる果汁が口内を埋め尽くした。さほど大きいとは言えない果実が零れ落ちるか、さもなくば僕らの口の中へ収まりきるかするまでには、さして時間は掛からなかった。僕らの間を隔てていたのは果実だけだったから、それが無くなったということは、自ずと意味するところも決まってきて。

「あつくん、あつくん」

「かたは……」

僕らは自然と、口付けを交わすことになる。

僕が少し前に彼女を生まれて初めて目にしたとき、触れると冷たそうな印象を受けたのを、僕はよく覚えている。では、今はどうだろう? 青白い顔をしているという外見的なファクターに変わりは無いけど、触れ合うときの体温は暖かさに満ちていることを、僕はよく知っている。そう、知っているんだ。彼女と肌を重ねるときの感触を、僕は知っているんだ。

舌を絡ませあって戯れあった後、彼女は僕の背中に回した手でとんとんと合図を送ってきた。彼女の「お強請り」を、僕は着実に理解し受容しつつあった。近くに放り捨てていた<Painkiller>を手にすると、僕は躊躇わずに自分の人差し指を切りつけた。傷口から血が浮かんで来るのが見える。彼女から唇を離すと、半開きになったままの彼女のそれに指を差し入れた。

「あつくん、ああ、あつくん」

「美味しい? 僕の血は」

「すてき、すてき。かたはの味覚をとろかして、からだの奥へしみていく。デリシャス、デリシャス」

あつくんの血はごちそう。かたはの一番のごちそう。僕が血を供する度に、彼女はしきりに繰り返した。舌の蠢く艶かしい感触が指先を撫ぜて、徐々に徐々に溶かされていく錯覚を覚える。彼女はいつも僕の血が止まってしまうまで、絶えず舌を動かし続けていた。

夢見心地で僕の指先を味わう彼女を見ていると、僕はいつもかたはと出会えたことを心から喜ばしく思う。僕自身、彼女に傷口を嘗めてもらうこの行為に、この上ない快楽と愉悦を見出していた。他人には真似などできない、かたはだからこそできる僕への奉仕。僕は彼女に血を供するし、彼女は僕に奉仕する。主従の曖昧な僕らの関係はとても理想的で、僕はこれ以上望むものなど無かった。

「かたはのせかい。とってもとってもちいさなせかい。だけどあつくんの血は、そのせかいでいちばんおいしい」

「大袈裟に聞こえるかもしれないけど、僕は君の躰を巡る血を、いつか全部僕の血にしてあげたい。本気でそう思ってるよ」

「いいね、いいね。かたはの血、みいんなあつくんの血になったら、きっとあつくんとひとつになれるね」

無関係の第三者からすると、僕とかたはの交流はどう見えることだろう。かたはと付き合い始めた最初の頃、そんなことを気にしていた覚えがある。今はどうだろう。そんなことは最早どうでもよくて、僕はかたはが喜んで、歓んで、悦んでさえくれれば満足できる。第三者のことを気にしていたら、かたはに向ける気持ちが薄れてしまうじゃないか。

「かたはのせかいは、ちいさなせかい」

「井の中の蛙、籠の中の鳥、ボールに入った携帯獣」

「けれど、けれど、けれどもです」

「かたはは鳥でも蛙でも、況してやケダモノでもありません」

「ニンゲンなのです。かたはは、ただのニンゲンなのです」

詩を紡ぐような口ぶりの彼女を、僕がそっと抱き締める。

「そうだね、かたは。その通りだよ。だけど、一つ付け加えさせてほしい」

彼女はニンゲンだ。他の誰が何と言おうと、彼女が自らをニンゲンだと称するなら、それが唯一絶対の答えになる。僕はそれを充分理解している。受容もしている。拒絶するつもりも否定するつもりも一切無い。欠片もない。けれど敢えて、彼女に意見する形になるのを承知で、僕は彼女の言葉に付け加えさせてもらった。

「かたは。君は――ニンゲンである前に、<かたは>だよ」

「他の誰でもない、他に替えが無い<かたは>なんだ」

かたははかたはだ。ニンゲンであろうと無かろうと、ケダモノであろうと無かろうと、それよりも先ず、かたははかたはだ。僕の中で絶対に揺るがない軸、それはかたはがかたはであること。僕は彼女に、そう伝えた。彼女の驚いた表情が瞳に映る。僕の言葉に心動かされた様子が、手に取るように分かる。

「あつくん、あつくん。もういっかい、もういっかい聞かせて」

「一度と言わずに何度でも言うよ。かたはは、かたはだ」

「かたははかたは?」

「そう。かたははかたはだ」

「かたはは、かたは」

「かたは。君が自分をニンゲンだと言うなら、それは正しい。間違ってなんかない。僕はそれを信じるし受け入れる。だけどね、かたは。僕にとっては、かたはは何よりも先ずかたはなんだ」

かたははかたは。たった七文字の言葉で、僕と彼女はより一層強い結びつきを得られた。喜びを爆発させて、両腕を目一杯広げて僕に抱きついてきたかたはを、余すところ無く受け入れる。僕はいつしか、彼女に懐へ飛び込まれても何も恐れなくなっていた。彼女を突き飛ばしてしまったかつての記憶が、まるで嘘だったようにさえ思えてくるほどだ。

これほど近い距離で人と触れ合えるようになったのは、いったい何時以来だろう。或いは、僕の懐へ飛び込んできてくれるような人と出会ったのは、いったい何時以来だろう。

少しだけそんな感情が過って――僕はまたすぐに、胸の中で何度も頬ずりする彼女にすべての気持ちを向け直した。

 

僕らの世界に異物が入り込んで来たのは、夕暮れ時が終わって夜を迎えようとしていた頃のことだった。

「ああ、こんなところに! お待ちください、お待ちください!」

前から声が聞こえてきて、僕は思わず足を止めた。進行方向に見える人影は声を上げたのに続けて、こちらに向かって駆け寄って来る。駆け寄ってきた人の容姿を確かめてみると、概ね三十代半ばくらいに見える女性だった。誰だろう、少なくとも僕の記憶には一致する顔はない。だとすると、かたはの知り合いだろうか。

ねえ、かたは。あの人は――僕は彼女に問いかけの言葉を投げ掛けようとして、隣に居たはずのかたはが僕より幾分先を歩いていることに気が付いた。距離的に、僕が立ち止まっていた間もそのまま歩き続けていたと考えるのが自然だろう。やがてかたはも僕が隣に居ないことを知ったようで、足を止めて後ろへ振り向いた。

「あつくん、あつくん。どうしたの? どうしたの?」

「前に女の人がいて、僕らに声を掛けてきてるんだ。かたはの知り合い?」

「知らない、知らない。アイ・ドン・ノウ。かたはのちいさなお耳には、そんなお声は聞こえません」

知らない、とあっさり否定して、彼女が僕へこちらへ来るよう促す。そうか、知らないんだ。彼女の言葉に嘘は無い。彼女の言葉を信じよう。かたはの側まで駆け寄って、再び手をつないで歩き出す。手をつながれたかたははうれしそうに頬を緩ませて、あつくん、あつくん。あつくんの手、あったかい。あったかくて、とろけてしまいそう――僕にそんな言葉を贈ってくれた。

「そちらの方はどなたですか? どなたかは存じ上げませんが、すぐにこちらへ来てくださいませ!」

女性はしきりに声を上げている。けれどかたはが反応する気配はなく、何か行動を起こす素振りも見せない。僕もすっかり興味が失せてしまって、あれがどんなポジションの人物で、僕らに声を掛けている理由が何であろうと、僕らには何ら関係ないという気持ちを持ち始めていた。

ただ――引っかからない点が何も無いわけでもなくて。

「素子さま、素子さま! お願いですから、私めの声を聞いてくださいまし!」

モトコ。僕はその音韻に聞き覚えがあった。

かたはの使っているメールアドレス。そのアドレスのアットマークの前部分は「motoko-84」だ。かたはと、モトコ。もしかすると、かたはの本名と言うかもう一つの名前がモトコ――漢字表記は恐らく「素子」――なんじゃないか。勝手ながら、僕はそんな考えを抱いていた。あの女性が「素子」と呼ぶ理由は、もしかすると僕の考えが当たっていたから、かも知れない。

そうこうしている内に女性はすっかり距離を詰めてきて、そのまま迷わずかたはの右手を取った。

「素子さま!」

女性から「素子」と呼ばれたかたはは、取られた手をぶんっ、と無造作に振り払って、中空でぱたぱたと振って見せた。穢らわしいものに触れられてしまった。彼女のジェスチャーからはそんな印象を見て取れる。

「今日の風、なまあたたかくて、ヤな気分。べっとり、じっとり、ねっとり、しっとり。とってもとっても、ヤな気分」

手を触れられたことを「風に吹かれた」と解釈して、かたはは強い不快感を露にした。しきりに手を振り回して、かたはの中で纏わり付いている「風の感触」を振り払おうと躍起になっている。僕は彼女の仕草を見て、女性は彼女にとって歓迎されざる存在であり、彼女の世界には存在しない扱いを受けているのだと確信した。なら、僕も彼女に倣おう。僕とかたはの関係に割って入ろうとするなら、出て行ってもらうだけだ。

「素子さま、素子さま。お母様もお父様も、素子さまのことを心配されておいでです」

「早く家に戻られないと、お体の具合を悪くしてしまいます。どうか聞いてくださいまし」

縋りつく女性をその都度その都度無表情のまま振り払いながら、かたはは僕と並んで一緒に歩き続ける。僕は厄介事に巻き込まれているかたはのことが不憫に思えて、組んでいる腕に力を込めて彼女を自分のすぐ側まで引き寄せた。僕の存在を皮膚で感じ取れたかたはが、不満げだった表情を和らげて笑ってくれた。こちらに顔を向けたかたはの頬を撫ぜると、くすぐったそうに目を細める。ただただ愛しかった。

そろそろ行こうよ。僕が呼び掛けるとかたはも呼応して、追ってくる女性を振り払うかのように歩き始める。いい加減、僕とかたはに纏わり付くのはやめてほしい。僕がかたはと共に居られる時間はとても貴重で、どこの馬の骨とも知れない外の人間に土足で踏み入られるのは迷惑極まりなかった。

「致し方ありません。本意ではありませんが……」

僕らのすぐ横にいた女性がそう呟いて、ポケットへ手を突っ込んだ。間もなく中身を探り当てて、ポケットの外へ持っていたものを出した――その瞬間だった。

 

「あぁぁあああぁぁぁあッ!!」

 

金切り声。本当にそう表現するしか無い、耳を劈くような凄まじい声を上げて、かたはが左手で女性の手を薙ぎ払った。

「あッ」

声を上げると同時に、女性の手から何かが吹き飛ぶ。僕は反射的に吹き飛ばされたものを目で追いかけて、落ちた先の地面を凝視する。

雑草を下敷きにして転がっていたのは――落ちた衝撃で蓋の開いた、空のモンスターボールだった。

この女は一体何をしようとしていたのか。僕の疑念が一気に増幅する。まだ、何かポケモンが入っていたなら理解もできた。そいつにかたはを力づくで連れて行かせようとしたのだと考えることができる。けれど、地面に転がるモンスターボールは空で、中には何も入っていなかった。用途が想像できない。僕は何ら理解できぬまま、転がったボールを凝視し続ける。

「――キライ」

「キライ、キライ、キライ」

隣からかたはの声が聞こえてきて、僕はそれ以上無意味にボールを凝視するのを止めた。

「キライ、キライキライ、キライキライキライ」

「キライキライキライキライキライキライキライキライ」

何かに取り付かれたかのように「キライ」と連呼し始めて、見る見るうちにそのスピードが速くなっていく。息が切れるのも構わずに繰り返して、何もかもすべてを拒絶しようとしている。癇癪を起こした子供、僕は彼女の姿にそんなビジョンを見出していた。

「キライっ! キライキライキライキライキライキライキライキライ! キライキライキライ、キ・ラ・イ!」

「キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ! キライキライキライ!」

すぐ側にいるあの女が何かしでかそうとして、かたはがそれを力づくで止めさせた。それはかたはにとって絶対的に「キライ」なもので、許容することなど到底できないものに違いなかった。髪を振り乱して暴れる彼女の様子を目にして、僕は一瞬で理解することができた。

僕は自分に言い聞かせる。あの女はかたはに危害を加えようとした。かたははそれで酷いストレスを感じて、己れの身を守るためにこんな反応を見せているんだ。彼女は今パニックに陥っている。誰かが側に寄り添ってあげなければ、彼女はもっと苦しむことになる。

「かたは」

こんな時、彼女の側にいられるのは。

「――あつ、くん」

僕を置いて他にはいまい。そう思いたかった。

「大丈夫、心配しないで。僕が側にいる、すぐ側にいるよ。だから安心して、かたは」

力を込めてかたはを抱き締めると、あれほど強い拒絶の意志を見せていたはずの彼女が、瞬く間に落ち着きを取り戻した。乱れていた呼吸のペースも落ち着いて、高ぶった感情がクールダウンしていくのが分かる。僕が背中に回した腕で彼女を労るように擦ると、彼女も僕の背中に腕を回して、より一層互いの躰を近づけ合う。

僕らは、ふたりでひとつだ。

「君の世界にいないなら、僕の世界にもいない。いないんだ」

「ここには僕とかたはしかいない。二人だけだよ」

「いつもと同じ、僕たち二人だけなんだ」

彼女が胸の中で大きく頷いたのが分かる。肯定の意がストレートに伝わってきて、とても心地よかった。僕の気持ちがかたはに伝わり、かたはの気持ちが僕に伝わる。心と心が通じ合う、そんな使い古された言葉を引っ張り出したくなる心境だった。千々に乱れていた彼女の心が安寧を取り戻してくれたことが、僕にとっては何よりも喜ばしいことだった。

「あつくん、あつくん。ありがとう、ありがとう」

「かたはのせかい、しずかになって、あつくんだけがそばにいて」

「ほかにはいない、だれもいない。いるのはただ、かたはとあつくん、ふたりだけ」

かたはが僕と腕を組み直す。僕らはぐっと近付き合って、互いに顔を寄せ合う形になる。かたはの匂いがする。僕はこの上なく穏やかな心持ちになって、かたはが本当にすぐ側にいることと、彼女が僕だけを「見て」いてくれていることの素晴らしさを堪能していた。彼女と同じ空間にいる、彼女と同じ空の下にいる、彼女と同じ空気を吸っている。そのすべての現実が、僕に力を齎してくれる。心を潤してくれる。

「さあ、そろそろ行こう。日も暮れちゃうしね」

彼女をリードする形で、僕は歩き出す。

モトコサマ、モトコサマ――後ろから聞こえる声は、異次元の別世界からの声。僕とかたはの世界では、その音塊は意味を成さない。

無意味なものに意識を向けるほど、僕らは退屈ではなかった。

 

僕のセカイにはかたはがいる。かたはのセカイには僕がいる。

いつしか僕は、それが当たり前のことだと思うようになっていて。

僕とかたはのセカイは繋がっていて、二つのセカイは確かに繋がっていて、他のセカイからは切り離されていて。

いつしか僕は、それが終わることなく延々と続いていくのだと思っていて。

――けれど。

けれど、僕らのセカイは、揺らぎ始めていて。

 

僕らが出会った頃は、まだわずかに夏の匂いを残していた記憶がある。それがいつしか、コートに袖を通していても肌寒さを感じるような季節になっていた。この日も僕らはいつもの場所で落ち合って、取り立てて特徴のない高校生の連れ合い同士の仮面を被りながら、神への――或いは、僕ら二人への――供物を探し歩いていた。

「あつくん、あつくん」

僕はその時、彼女から呼びかけられたと思った。僕が平時と同じように隣を見ると、そこに在るはずの彼女の姿が見当たらない。あれ、どこへ行ったんだろう。僕が視野を広げてかたはを探すと、すぐに彼女を見つけることができた。

彼女は僕のすぐ後ろで、ぼうっと空を見つめて立ち尽くしていた。視線はまっすぐ天を向いていて微動だにせず、僕がすぐ側まで歩み寄っても何ら変わるところがない。かたは、かたは。僕が呼び掛けてみても応答は無い。一体どうしたのだろう、僕がかたはの肩を叩こうと歩み寄る。

――ぱたん、という音がした。僕の耳にその音が届いたことを、僕の頭は確かに認識していた。

「かたは――?」

僕が目にしたものは、仰向けになって地面に横たわっているかたはの姿だった。

ハッとした僕は直ちに屈み込んで、かたはを抱き起こそうと手を差し伸べる。かたははまるで眠ってしまったかのように薄く目を閉じて、とても安らかな、けれど拭いがたい悲しみを纏った、静謐な表情をしていた。葬儀を前にした死者――僕自身は葬儀に出た経験は一度として無かったけれど、穏やかに亡くなった死者の表情は幾度と無く見たことがある――のような顔つきだ、僕はそんな感想を抱いて、そして直後に雑念として切って捨てた。

かたはに何があったんだ。僕は些か動揺しながら、かたはの華奢な躰を助け起こす。かたは、どうしたの。かたは、目を覚まして。僕の呼び掛けは、閉じられた彼女の瞳を開くには至らなかった。急に眠気が襲ってきたのか、もしや発作を起こして倒れてしまったのか。様々な可能性の断片が僕の脳裏を掠めて、次に取るべき行動を考える余地を失わせていく。

ピピピ、ピピピ……という、デジタル時計のアラームを思わせる警告音が、不意に辺りに響き渡る。音源はどこだと周囲を見回すが、それらしいものは見当たらない。耳を澄ませてみて、音の出所はかたは、より正確に言うとかたはの左腕に巻かれている旧式のポケギアだった。状況が飲み込めず、僕はかたはを抱いたまま動けずにいた。

さらなる動きがあったのは、警告音が鳴り始めて二十秒ほど経過した後のことだった。かたはの提げていた小さなカバンから小型化した状態のモンスターボールが転がり出てきてカタカタ震えたかと思うと、光とともに中から一体のポケモンが姿を現した。

(レアコイル……だったっけ)

眼前のポケモンの名前を思い出すのに、ほんの少しだけ時間を要した。鉄と磁石を思わせる器官によって構成されたフォルムを持つ、一風変わった生態のポケモンだ。三つの小さなユニット――形状は進化前に当たる「コイル」に酷似している――が互いに付かず離れず一体となって、常に地面から少し浮いている。見れば見るほど生物とは思えない、生物として認識するには有り余る違和感を持つポケモンだった。

加えて、このレアコイルには今まで見たことのない特異な点があった。僕から見て右下にいるコイルだけが、他の二体とは明確に異なっていた。二体が明るいしろがね色をしているのに対して、その一体だけは鈍いくろがね色に染まっていた。表情も異なっていて、くろがね色のコイルだけはどこか悲しげな目を見せているのが分かった。残る二体が一般的なコイル・レアコイルに見られる感情を感じさせない無機質な目をしていたものだから、尚更特徴が際立っていた。

レアコイルは三匹揃って僕に目を向けて、ふわふわと忙しなく動いている。僕はその様子から、レアコイルが「かたはから離れろ」というメッセージを送っているんだと察した。僕は状況がよく飲み込めないながらも、ともかく一旦かたはから距離を置いた。僕がかたはから十分離れたことを確認したレアコイルは、一斉に視線を僕から外してかたはへ向け直す。右下の黒いコイルが体を揺らすと、残る二体がかたはにアプローチした。コイルがかたはの身に付けていたブラウスに磁石を引っ掛けると、次の瞬間大きく動くのが見えた。

ばりっ。布を引き裂く耳障りな鋭い音がして、かたはのブラウスからプラスチックのボタンが弾け飛んだ。二体のコイルが力を合わせて、かたはの服を引き千切ったのだ。僕は突然の出来事に面食らって、思わず目を見開いてしまう。僕の視界に映し出されたのは、かたはの細くしなやかな肢体だった。

彼女の乳房が剥き出しになったのを、僕はこの目で確かに見てしまった。

胸を包むためのブラジャーを、かたはは身に着けていなかった。ふくらみはどちらかというと控えめな部類に入る。普段彼女と触れ合う中で自然と躰に接触する機会もあったから、概ね想像通りだった。突然彼女の胸が露になった瞬間は、さすがに驚いて鼓動が高鳴るのを感じたけれど、下着を身に着けていないことはかたはなら十分有り得ると思えたから、その驚きは間もなく落ち着いていった。

だが――僕は別のことで、比べ物にならないほど驚いていた。

(あれって……手術の痕……?)

彼女の痩せた腹部、胸の少し下から足の付け根に掛けて広がる、生々しい手術痕。明らかに切開してから縫合したと分かる、大きな大きな傷跡があった。それだけなら、まだ大したことは無かったかもしれない。僕が目を見開いたのは、彼女のお腹にそんな手術痕が幾つもあったことだ。一つや二つではない、軽く数えただけでも四つか五つは傷跡があった。少なくともそれだけの回数、彼女は体にメスを入れたということになる。

そして――その中でも一際目立つ大きな傷。左右の乳房のちょうど間に見える、酷い火傷の痕だった。

戸惑う僕を文字通り尻目に、モンスターボールから飛び出したレアコイルはかたはのすぐ側まで近寄っていって、体に取り付けられているネジを回し始めた。ばちばちっ、という火花の音が耳に飛び込んできて、レアコイルが体内で発電しているのが外からでも見て取れる。

こいつは、かたはに一体何をするつもりなんだ。発電なんかして、一体どうしようっていうんだ――僕はレアコイルの行動に疑問を覚えながらも、頭のどこかでは、これから起こることの想像が付いていて。

(まさか、あの痕は……)

十分発電してエネルギーの蓄積を済ませたところで、レアコイルは帯電した磁石をかざして、すぐさま無造作にかたはの胸元に押し当てる。

それは、僕が想像した通りの行動だった。

「……かはぁっ!」

かたはの喉から、絞り出すような苦悶の声が吐き出された。

耳を劈くような炸裂音ビクンと躰を大きく揺らして、眠ったように目を閉じていたかたはが不意に覚醒する。目をカッと大きく見開き、びくびくと軽く躰を痙攣させながら、はー、はー、と荒い呼吸を繰り返している。意識を取り戻して、今自分がどういった状況に置かれているのかを把握しようと努めているように見えた。

僕は今度こそ息を飲んだ。レアコイルはかたはに電気ショックを与えて、彼女を蘇生させたんだ。やり口はとても荒っぽくて、彼女の躰を慮っているとは到底思えない。意識がそこまで回っていないからかも知れないけれど、彼女の胸にある火傷の痕は、今しがたの電気ショックで真新しい傷跡に塗り替えられてしまっていて、明らかな痛みを伴っているようにしか感じられなかった。

目を覚ましたかたはは暫く呆然としていたけれど、やがて自分が倒れていることを認識したようで、よろめきながらも躰を起こそうとする。その過程で、僕とかたはの視線が交錯した。

「かたは……」

「あ――あつ、くん」

感情が失われたかのような惚けた表情でもって、僕の顔をじいっと眺めたまま、かたはは視線を動かそうとしない。いつも思っているけれど、この時ほど彼女の目が作り物だとは感じられないことはなかった。僕も彼女につられて無遠慮に視線を投げ掛け続けていたけれど、不意に自分の無粋さに気を咎めて、かたはから目を逸らした。

「ごっ……ごめんっ、かたは。僕、無神経に見ちゃったりして……」

「胸?」

「……うん。かたはなら、きっと分かるよね。僕が君のこと見てた、って」

「もちろん、もちろん、お見通し。だけどね、あつくん。かたははあつくんの視線を感じて、とってもしあわせなのです」

胸を大きくはだけさせたまま、まったくもっていつも通りの調子で語るかたはに、僕は却って気恥ずかしさを覚えてしまった。対するかたはは一向にお構いなしで、甘えるような仕草で僕にしなだれ掛かってきた。首筋に彼女の熱っぽい吐息が掛かるのを感じる。

僕にぐっと顔を寄せて、かたはが密やかな声で囁いた。

「あつくん――見た?」

「見たって……その、さっきも言ったけどさ……胸、とか?」

「ううん、ううん。それよりもうちょっと、もうちょっとだけ、下のぶぶん」

下、と言われて、僕はハタと気を取り直した。かたはの胸の下――つまりは腹部。そこを見たかと問われて、僕はつい先ほど目にした、目にしてしまった光景を、まざまざと脳裏に蘇らせる。

「あれって……手術の痕、だよね?」

「ピンポン・ピンポン・だいせいかい。おなかをバッサリ切り裂いて、あとから糸でちくちく縫って。かたはのからだはパッチワーク」

「そっか、やっぱりそうだったんだ」

「あつくん、あつくん。かたはのおなか、どうでした?」

自ら口にしたように、かたはの腹部は「パッチワーク」の様相を呈していた。それを見て僕がどう感じたか、どう受け止めたか。かたははそれを知りたいと僕にせがんできた。知りたがりの彼女なら、ある意味当然とも言える反応だった。

僕は問いかけを受けて思考を巡らす。何か気の利いた言葉を返そうとか、当たり障りの無い返事をしようとか――そうした「一般的」な考えはあまり保たずにすぐ消え失せて、僕は僕の思ったことをそのまま口にしようという考えを固め始めていた。かたはに虚飾は必要ない。僕の持つ剥き出しの感性こそが、彼女を最大限に悦ばせられるに違いないと、僕はいつしか確信していた。

「かたはの傷痕――綺麗だったよ」

「白くてしなやかな肢体についた、荒々しくて無遠慮な傷痕」

「僕は思ったよ。かたはにぴったりだ、って」

綺麗だった。僕は彼女にそう告げた。

彼女の、痩せた白い躰。ともすると人形のような印象を受けるその身には、赤みを帯びた傷痕がそこら中に付いている。白い躰に、紅い傷。僕はそれを純粋に「綺麗だ」と思った。如何にもかたはらしくて、かたはならあってもおかしくないもので、あるべくしてあったような気さえしてくる。

僕がそっと彼女の傷痕に触れると、あっ、と小さな声を上げて、かたはは感じ入った表情を見せた。くすぐったそうに目を細めると、いつものように――いや、いつも以上に頬を緩ませて見せる。小さなえくぼを作って僕に微笑みかけると、すうっと腕を伸ばして僕に抱き付いてきた。呼応するかのように僕も腕を回して、かたはをいっそう己れの身に近付けた。

「あつくん、あつくん。うれしい、うれしい。あつくん曰く、かたはは『綺麗』。あつくん曰く、かたはは『綺麗』」

「何度だって言うよ。かたはは綺麗だ」

「ああ、うれしい。うれしい」

お気に入りのぬいぐるみを抱きしめるようにして、かたはが僕をぎゅうっと抱き締める。彼女のカラダが僕のカラダに押し付けられて、彼女の持つ体温が直に僕の体温になっていくかのよう。

「ねえ、かたは」

「あつくん、あつくん。どうしたの?」

「君のぬくもりや匂いが直に感じられて、僕は嬉しいけど……胸、はだけたままだよ」

彼女の、年齢的に見て少し小ぶりな乳房が、ちょうど僕の胸板に押し付けられて、わずかにその形を歪ませていた。かたはが気にするとも思えなかったけれど、僕は一応念のために、彼女にそのことを告げてみた。

「知ってる、知ってる。かたはのお乳、みんなにまる見え、見たい放題。ぜんぜんおっけー」

「だって、だって。ミルタンクはいつでもそのまま、いつでもオープン、吹きっさらしの雨ざらし」

「だから、かたはもそのままでいい」

「ヒトは服を着たケダモノ、服が無ければただのケダモノ」

「もろいカラダを服で隠した、か弱いか弱い、ちいさなケダモノ」

かたはが一旦僕から離れると、すっくとその場に立ち上がって。

「それにね、それにね」

大きく、大きく、目一杯に腕を広げて、僕の前に立つ。

「からだに風を感じると、とっても気持ちいい」

「くすぐったくて、つめたくて。ふわふわしてて、からっとしてて」

「からだがいろんな刺激をもらって、かたはのせかいがあざやかになるの」

まさしく全身でもって、かたはは風を受け止めていた。

目に光を宿さない彼女は、残った感覚を惜しみなく使って、自分の世界を作り上げている。彼女は耳で世界を見て、鼻で世界を見て、舌で世界を見て、肌で世界を見ている。風を全身で感じれば、彼女の言う通り「あざやか」な世界が広がることだろう。肌をさらけ出して、微笑みながら冷たい風を浴びる彼女の姿を、僕は尊いものだと感じた。これ以上ないほどに、素敵だと感じた。

「そうだよね、かたは。かたはの言う通りだ」

「かたはの言う『あざやか』な世界。僕には見られないけれど、感じることはできる。素晴らしいと思う」

だからこそ――だからこそと、僕は思った。

「かたはの意見を尊重したい。かたはの気持ちを大切にしたい。これは、絶対に揺るがない」

「だけど……矮小だけど、僕にも思いがある。薄っぺらいとは理解してるけど、僕は僕なりに気持ちがあるんだ」

羽織っていたコートをさっと脱ぐと、僕は手早くシワを伸ばして整える。

「僕は、かたはに風邪をひいてほしくない。熱を出しちゃったりしたら、大変だ」

僕は無防備に胸をはだけさせたままの彼女に、着ていたコートをそっと掛けた。

「あっ――あつくん……」

「それにね、かたは」

惚けた表情で僕を見つめるかたはをしっかりと捉えながら、僕はかたはの耳元でこう囁いた。

「僕以外の人に、かたはの綺麗な躰を見せたくないんだ」

かたはの躰を見られたくない。彼女の躰を見られるのは、僕だけでいい。僕一人だけが、彼女の躰を識っていたい。

眼前の彼女が俄にかあっと頬を赤らめる姿を、僕は決して見逃しはしなかった。

「あつくん、あつくん」

「あつくん、あつくん」

「うれしいです。かたははとってもうれしいです」

「あつくんは言いました。かたはは、あつくんだけのモノであってほしい」

「あつくんだけが、かたはのからだを知っていたいと」

「かたははうれしいです。うれしすぎて、次に顔を上げたら、ぱちんとはじけてしまわないか、こわいくらいです」

「とってもとっても、とってもうれしいです」

僕が掛けてあげたコートをぎゅうっと羽織り直して、かたはが大きく息を吸い込む。すんすんとしきりに鼻を鳴らしている様を目にして、彼女はコートに沁み付いた僕の匂いを嗅ぎ取ろうとしているのだと理解できた。己れの身を抱き締めるようにして、露にしていた胸元を決して見られまいと包み隠す。

唯一人僕を除いて、他の人間の目には決して触れさせまいとするかの如く。

「あつくんのぬくもり、あつくんのにおい。あつくんのコートは、あつくんでいっぱい」

「何より何より――あつくんのまごころでいっぱい」

「かたはに風邪をひいてほしくない、いつもあったかくしててほしい」

「かたはのからだを他の人に見せないでほしい、あつくんだけが見られるようにしてほしい」

「誓います。かたはは誓います。あつくん以外の人に、かたはのからだは見せません」

「あつくんの、あつくんだけのモノに、かたははなりたいです」

僕だけのモノになりたい。僕はかたはの言葉を耳にすると同時に、彼女を引き寄せて強く抱き締めた。壊れないようにそっと、けれど離れないようにぎゅっと。頬ずりをしてくる彼女の、その仕草が愛しかった。

「くやしいです。とんでもなくくやしいです」

「こんなにもうれしくて、とってもうれしくて、こころがうれしさではちきれそうなのに、かたはは泣くことができません」

「ツクリモノの瞳は、涙を流すことができません」

「うれしくて、くやしくて、でもやっぱり、とってもうれしいです」

大丈夫だよ。僕の心は、君の涙を感じ取っているから。ささやかながら慰めの言葉を掛けて、僕は彼女の目元を拭った。

そこには確かに、熱い涙が流れていたのだから。

 

日を改めて、僕とかたはは何時ものように二人きりで寄り添っていた。今いるのは公園。以前僕らが話をした、あの人気の感じられない公園だ。隅のベンチに二人で座って、しっかりと互いの躰を密着させる。風を肌寒く感じる季節になった。だから僕らがこうして寄せ合っても何もおかしなことじゃない。僕はそんな思いを抱いていた。

「かたは。今日は、かたはのことをいろいろ聞かせてくれるんだよね」

「あつくんの望むままに。かたはの秘密、なんでも教えちゃう」

じゃあ、と僕は少し間を入れて。

「この間かたはが倒れたとき、すぐ側にレアコイルがいたよね」

「あれって一体、何者なの?」

僕が先ず訊ねたのは、彼女が意識を失った直後にカバンから姿を見せて、三つのユニットのうち一つだけが奇怪な容貌をしていたあのレアコイルについてだった。僕はその後のレアコイルの行動から、あいつの正体に大筋で予想は付いていたけれど、ここはやはり彼女にきちんと確認しておくべきだと思った。

「アレはね、あつくん。かたはのセーフティネット」

「ふつうのコイルがふたつに、ちょっぴりイジったコイルがひとつ。くっつきあって、レアコイル」

「かたはのこころがイネムリしたら、起きなさいって出てくるの」

「ばちばちばち。死なないくらいに電気を溜めて、かたはのからだに押し付ける」

「じゅうじゅうじゅう。お胸が焼けるにおいがして、からだが泡立つ感触がすると、かたははイヤでも目を覚ますの」

想像したとおりの答えだった。レアコイルは、かたはが心臓発作を起こしたときに電気ショックで強引に心臓の機能を回復させて、手遅れになる前に彼女を自動的に蘇生させるために、いつもすぐ側にいるのだ。

彼女の胸に深く刻み込まれた火傷の痕は、あの荒っぽい蘇生措置が何度も何度も繰り返されてきたのだということを、あまりにも如実に物語っていた。

「かたはのこころは欠陥品。いつコワれたっておかしくない」

「こころだけではございません。からだの部品のほとんどが、はらはらどきどき、ツナワタリ」

「地球に生まれたその日から、壊れるさだめにあったのです」

異常を抱えているのは、心臓だけではない。生まれつきの障害で、身体機能が不規則に停止したり、低下したりする。彼女はごくごくいつも通りの口調で、あっけらかんと世間話でもするかのように告げてきた。

「夜眠るときはいつも言う。さよなら、さよなら。グッバイ、グッバイ。明日が来るかは、カミサマしだい」

「朝起きるときもいつも言う。ありがと、ありがと、サンキュー、サンキュー。今日もまた、昨日の明日を迎えられました」

「いただきます。そしていっしょにごめんなさい。食べたいのちを大事にできない、ガタつくばかりのかたはのからだ」

「いのちを食べても活かせない、明日が来るかもわからない。食べれば食べるほど、無意味な消費」

「かたはのからだ、いのちの処理場。嗚呼勿体ない、嗚呼勿体ない」

飄々とした調子で語る彼女の目には、すべてに対して達観した、或いは諦観したと言うべきか、行くところまで行ってしまった者が持つ、あの独特の鈍い光が宿っているかのようだった。

「かたは。さくらいかたは」

「かたははかたは。かたっぽの羽。半分ぽっちのつばさ、半分ぽっちのいのち」

「いい名前、すてきな名前。名刺みたいなお名前です」

彼女が僕に名乗った「かたは」という名の由来は、彼女の「壊れやすい」身体に由来しているのだということも、併せて教えてくれた。

そして、自分の「名前」について口にした彼女は。

「あつくん、あつくん。ここで一つ、ご質問」

僕に質問したいことがあると言って、それから。

「『ハンバツネヒコ』」

「こんなお名前、見たり聞いたりしていませんか」

ハンバツネヒコ。その名前に聞き覚えは無いかと、僕に訊ねてきた。

「知ってるよ、かたは」

「『半場恒彦』、だよね」

聞き覚えのある名前だった。むしろ、よく耳にする部類に入る。特にここ最近は、目にしない・耳にしない日の方が珍しいとさえ言えたかも知れなかった。

僕の答えを受けたかたはが、こくんこくんと二度頷く。

「あつくん、あつくん。続けてもひとつ、ご質問」

続くかたはの質問は。

「『ハンバツネヒコ』のしたことしてること」

「見たり聞いたりしていませんか」

半場恒彦のしていることは何か。それを知ってはいないか。彼の名前が出てくるときは、いつも決まって彼のしたこと・していることにフォーカスが当たる。そんな状況で、知らないはずなどなかった。

「知ってるよ、かたは」

「『オーバーライト・キュア』の研究をしている人。そうだよね」

ポケモンの身体機能を「上書き」することで何でも治してしまう、あの回復メソッドの研究者だと、僕は答えた。

僕の答えを受けたかたはが、こくんこくんと二度二度頷く。

「あつくん、あつくん。最後にひとつ、ご質問」

最後の質問。そう前置いて、かたはが口火を切る。

「『ハンバツネヒコ』に子供がいること」

「見たり聞いたりしていませんか」

僕は、一度瞼を閉じて、小さく息をついて、心が微かに軋むのを覚えながら――静かに、答えた。

「知ってるよ、かたは。子供がいるって話は、僕もどこかで聞いたことがあるからね」

新聞で目にした記憶がある。半場博士には子供が一人いて、その子供にしようとしていたことがあった。

それは、確か。

「――かたはは、かたは」

「かたはが言ったように、かたははかたは」

「あつくんも言ったように、かたははかたは」

「かたははかたは。さくらいかたは」

「どこまで行っても、かたははかたは」

幾度も幾度も繰り返して、かたはが「かたははかたは」と呟く。彼女の紡ぐその言葉一つ一つに、心から、心の底から、心の奥底から、僕は完全に同意する。ほんの一欠片の疑いも持たずに、僕はただ純粋に同意する。

「けれど」

けれど――。ひとしきり反復したのち、彼女が思考を反撥する。

「かたはを、かたはじゃない名前で呼ぶ人もいる」

「いつまでもいつまでも、かたはをかたはと呼んでくれない人もいる」

「その人たちは、こんな名前をつかっているの」

すう、と音もなく僕に視線を投げ掛けて、かたはは。

「『ハンバモトコ』」

ハンバモトコ。はんば・もとこ。

――半場、素子。

「かたはを、そんな名前で呼ぶ人もいたりする」

そこで、彼女は言葉を切った。

僕は漸く、彼女がどんな人物か、僕以外の目から見た彼女がどのようなポジションに位置する人物かを知ることができた。彼女にとってそれがどういう意味を持っていて、僕と共に在ることがどんなニュアンスを持っているのかも、僕はほぼ同時に理解することができた。

彼女は――半場博士の娘だった。

オーバーライト・キュアの権威である半場博士。その半場博士には、子供が一人いる。男の子なのか女の子なのか、それすらも知られていなかったけれど、子供がいるということは確かな情報だった。子供がいるということに加えて、もう一つ確かな情報があることも、僕は忘れていなかった。

「じゃあ、かたは。君が」

「君が、『人間用の』オーバーライト・キュアの、被験者になるんだね」

人を「上書き」して治療するという、あの技術の最初の被験者が、半場博士の子供だということを。

「その通り、その通り。あつくん、物知り。なんでも知ってる」

「もろいかたはのからだを書き換えて、元気で健康なニンゲンにしてしまおう」

「ポケモンにできるなら、ニンゲンにできないはずはない。できないはずがないのだあ」

「これも我がムスメのためだ、我がムスメもきっと喜ぶだろう。わっはっは」

「ハンバツネヒコは、そんなお考えを持っております」

致命的な身体機能の異常を起こしやすい身体を持って生まれてきたかたは。そのかたはの根本的な治療のために、ポケモンのための医療技術である「オーバーライト・キュア」を転用しようと考えた。半場博士のあの発表は、本質的には、娘である素子、つまりかたはのためのものだということになる。

けれど。その父親の思いは、かたはの様子を見る限り、どこまで行っても一方通行のモノのように思えてならなかった。

「こうなるまでに、かたはのからだはたくさんイジられました」

「かたはのからだにメスを入れて、いろんなものを詰め込みました。いろんなものを切り捨てました」

「初めはニンゲン。他のニンゲンの部品を入れて、元気にならないかと試しました」

「ダメでした。ダメダメでした。元気な部品もかたはに掛かると、たちまちくさって仕事をやめてしまうのです」

「お腹を切って、部品を入れて、しばらくするとダメになって、また切って、取り出して」

「そんなかたはは、病院の常連さんでした」

腹部に付いた無数の傷痕。その由来は幾度も繰り返された臓器移植にあった。身体機能を回復させることを目的として、かたはは他人の臓器を移植する手術を幾度も受けてきた。けれどそのほとんどが効を奏さずに、かたはの身体には適合しなかった。拒絶反応に見舞われて、結局取り出さざるを得なくなってしまう。縫った傷を再び切開するようなことも、きっとあったに違いない。

「そして、たぶんかたはが七つくらいの時」

「起きてみると、せかいがまっくらで、どこまでいってもまっくらで」

「灯りが消えたみたいで、たのしい、たのしい。そんな風にはしゃいでいたら、あの女の人とごっつんこ」

「転んだかたはがのそのそ起きて、ああやっと立てたと思った瞬間、大きな大きな叫び声」

「『モトコさまの目が無い、目が無い、目が無い』」

「あの人は、そんな風に叫んでおりましたとさ」

身体機能の異常は内臓に止まらなかった。今度はかたはの眼球が機能停止して――この話ぶりだと恐らく、眼底からこぼれ落ちてしまったのだろう――彼女は完全に視力を失うことになった。

「ひかりのないせかい、ぜえんぶ真っ黒で、たのしいことはたのしいけれど、やっぱりちょっと不便は不便」

「ここで、ハンバツネヒコは考えました」

「お目々は新品をくっつけられないけれど、代わりになるものはある。あるんだあ、って」

かたはが自分のポシェットをまさぐって、中に入っているモノを取り出そうとしている。指先に探し物が引っ掛かったのだろう、口元を少し綻ばせて、そうっとポシェットから手を引き抜く。

「かたはの目が見えないなら、耳をつかえばいいじゃない、鼻を使えばいいじゃない」

「目の見えないポケモンが持ってるチカラ。狭い場所でもするする動ける、すてきなチカラ」

ポシェットから取り出したのは。

「コウモリモドキのあのポケモン」

「そこからいろいろ持ってきて、かたはとひとつにしちゃおう」

「かたはにいっぱい、詰め込んじゃおう」

「そんなこんなで、またかたはのからだにメスが入れられましたとさ」

小さな、小さな、ズバットのキーホルダーだった。

(そうか。そういうことだったのか)

ズバットの器官が移植されているから、かたはは辺りの空間を正確に認識できる。目の見えないかたはが、あんな風に自由に動くことができる理由は、そこにあったのか。僕は不思議な納得感を味わっていた。驚きでも衝撃でもない、ただただ、かたはの話に大きな納得感を受けていた。合点がいく、辻褄が合う。何の違和感も覚えなかった。

「目が見えなくてもせかいが分かるのは、コウモリモドキのパーツが組み込まれてるから」

「ゆんゆん、ゆんゆん、電波ならぬ、音波がゆんゆん。かたはのせかいは、音で満ちてる」

「かたはにぴったり、ヒトとケダモノの間をフラフラ、かたははコウモリ、コウモリさん」

彼女は自分をコウモリだと言う。ヒトとケダモノの狭間にいる、どちらでもあり、どちらでもない。暗喩としての「コウモリ」だと、自らを喩えて語って見せた。

「コウモリモドキがうまく行ったので、ハンバツネヒコは閃きました」

「ヒトの部品は取りやめにして、ケダモノの部品を使うようにしてみよう」

「そんなこんなで、またまたばっさり。かたはのお腹を、ばっさり、ばっさり」

「中の部品をぜえんぶ捨てて、一つを除いてぜえんぶ捨てて」

「いろんなケダモノから持ってきた、選りすぐりの部品を詰め込みました」

「ついでに手足もほとんどくさってきたから、つくりものと取り替えられて」

「残っているのはこころと右腕、それから脳みそ。ただそれだけなのです」

右手を軽く翳して、かたはが呟く。

「だからね、あつくん」

「かたはのからだは今、『半分くらいポケモン』なのです」

「『半分くらいポケモン』なのです」

半分くらいポケモンなのです。二度に渡ってそう強調して、話はそこで終わりを告げた。これが、僕の目の前にいる少女の、かたはの本当の姿なのだと、僕は認識した。

「あつくん、あつくん」

「かたはのお話、これでおしまい。これがかたはのホントのホント」

「目が見えなくて、お腹はキズだらけ、手足もだいたいツクリモノ」

「お腹の中はほとんどポケモン、ついでにいつでも音波をゆんゆん」

「絵本に出てくるカイブツみたい。とってもグロテスクな女の子」

「あつくん、あつくん」

「それでもあつくんは、かたはのとなりにいてくれる?」

「あつくん、あつくん」

「それでもあつくんは、かたはを『スキ』でいてくれる?」

自分の特徴を並べて、それを「カイブツ」「グロテスク」と表現して見せる。その上でかたはは問う。

僕はかたはの隣に居つづけるか、好きでいてくれるか、と。

「――かたは」

無意識のうちだった。

「わぁ」

僕の答えに、言葉なんか必要なかった。

「あつくん……」

「あつくんは、優しいです」

「とってもとっても、優しいです」

「こんな、フランケンシュタインみたいな娘を」

「迷わず迷わず、ぎゅうっと抱き締めてくれるから」

かたはの問いに、僕は何も言わずに彼女を抱きしめることで応えた。どんな言葉よりも、どんな仕草よりも、僕の思いをストレートに伝えられる方法。ずっと側にいる、ずっと好きでいる。ずっと側にいてほしい、ずっと好きでいてほしい。ずっと側にいさせてほしい、ずっと好きでいさせてほしい。僕の思いは、きっと彼女にも伝わっているだろう。

いつも見せてくれるあの笑顔。頬をマシュマロのように綻ばせて、顔いっぱいに喜びを表現してくれる。僕は彼女のこの顔を見るのが、好きで好きで仕方なかった。

「フランケンシュタインは、あのモンスターを作った博士の名前だよ。モンスターの名前そのものじゃないんだ」

「はわわ、知らなかった。ありがと、あつくん。かたははまた一つ賢くなりました。やっぱりやっぱり、優しいです」

僕は――本当に、かたはが好きだ。

いびつで、不思議で、純粋な彼女が、この上なく好きだ。

 

彼女のぬくもりを独り占めして、この上ない幸せを味わった僕は、やがてある一つの考えを胸に宿すに至った。

「かたは、聞いてほしいことがあるんだ」

かたはが平らな瞳をこちらに向ける。光を持たない彼女の瞳を見ていると、その深淵に吸い込まれていくかのような錯覚を覚える。彼女の瞳がモノを見るための機能を持たない模造品で、僕の姿形を視覚的に捉えることはできていないことは知っている。けれど同時に、彼女は彼女なりのやり方で、僕の姿形を捉えてくれていることも知っている。

僕を文字通り肌で感じてくれる存在は、かたはしかいないんだ。

「かたは。君が何もかも全部話してくれたことを、僕はとても嬉しく思うよ」

「君は文字通り、裸の話を聞かせてくれた。身に着けている服を全部脱いだ、裸の話をね」

「だから僕も君に倣って、裸の話をしようと思うんだ」

「かたはに、僕のすべてを話そうと思う」

「何もかも、一つも残さず、すべてを」

何もかも話す。僕はそう宣言してから、かたはから少しだけ距離を置いた。僕はシャツのボタンに手をかけると、一つずつ一つずつそれを外していく。幾重にも渡って巻かれたプレゼントのリボンを取り去るように、或いは幾つも取り付けられた枷を外していくように。

すっかりシャツをはだけさせると、肌着と併せてひと思いに脱いでしまう。躰を外気に晒したのは久方ぶりのことだった。僕は風が肌を撫でていく感触に幾ばくかのくすぐったさを覚えながら、傍らに座るかたはの手をそっと取り上げた。

「かたは。僕の躰に触れてみてくれる? 好きなようにしてくれていい、君の思うままに」

彼女は瞬時に大きく頷いた。断る道理など無い、と言わんばかりの様相だった。かたはの手が――彼女の言う「ヒトとしての右手」が――艶かしく蠢いて、僕の躰を撫ぜ始める。

無垢な指先が僕の肌に触れた途端、かたはの顔色が目に見えて変わった。ハッとしたように顔を上げて、彼女は僕の顔をまっすぐに見据えてきた。

「おなじ」

「おなじ、おなじ」

「あつくん、かたはとおなじ」

幾度も幾度も同じ線をなぞって、輪郭を確かなものにしていくかのように、かたはが呟いた。おなじ、おなじ、おなじ。何度も何度も、呟いた。

「分かってくれたんだね、かたは」

「おなじ、おなじ。あつくんのからだ、キズだらけ。こんなにたくさん、いっぱいいっぱい」

「そうだよ。君がさっき触れたのも、今指先でなぞっているのも、全部傷痕なんだ」

「おおきなキズ、ちいさなキズ。こんなにたくさん、大盤振る舞い」

何もかも皆、彼女の言う通りだった。

僕の躰には――大小様々な傷痕が、誰の目から視ても、或いは視えずとも触れれば即座に分かるほど、ハッキリと刻み込まれていた。

「かたは。僕が以前、君に聞かせた話を覚えてるかな。まだ僕らが出会って間もない頃に、君が聞かせてほしいと強請った話だよ」

「おぼえてる、おぼえてる。ちいさなヒナの、すてきなお話」

「そう。有刺鉄線の巣の中に一羽で残された、エアームドの雛の話だよ」

「キズだらけの小鳥さん、てのひらサイズのちいさなからだ。キズと血を身にまとった、いのちのあかし」

周りを有刺鉄線に取り囲まれて、独りで親が帰ってくるのを待ちつづけていた、傷だらけのエアームドの雛。僕が聞かせたその話を、かたははしっかりと覚えていてくれた。

「僕がかたはにあの話をしたのは、エアームドの雛が僕自身とオーバーラップしたからなんだ」

「独りでたくさんの傷を負いながら、いろいろな人に指を指されて、ただじっと空ばかりを眺めている」

「あれは、他人とは思えなかった」

目を閉じて視界を遮り、かつて目にした血まみれの雛の姿を脳裏に浮かび上がらせる。

今こうして記憶の中の姿を振り返ってみても、あのエアームドの雛は――紛れもなく、僕そのものだった。

「僕の話をするためには、僕の両親の話から入った方がいいと思う」

「今の僕があるのは、どういう経緯であれ、両親がこの世にいたのが理由だからね」

かたはが父親の話を聞かせてくれた返礼というわけではなかったけれど、僕もまずは両親について話すことにした。

「知っての通り、父も母も熱心な帰天主義者なんだ。今も昔も、変わらずにね」

「そんな二人の間に生まれたものだから、当然僕も帰天主義者として育てられることになった」

「子供の頃からたくさんの教条を覚えさせられて、週末には教会へ通って話を聞いた」

「僕はそんな環境に、何の疑問も抱いていなかった」

父と母から受けた数々の教えは、僕の中で未だ変わらずに生きつづけている。安楽死を尊び、延命を蔑む。物事を見る際にバイアスを掛けまいと努力し意識していても、意識の下にある無意識の領域で、僕は両親から教わった帰天主義の教条というフィルターを通して物事を見ていることをたびたび自覚する。

僕の中に固く根を張って、容易には抜き難いもの。それを植え付けたのは、紛れもなく父と母だった。

「僕は小学校には通わなかった。両親や教会の宣教師から勉強を教わって、それを学業の代わりにしていたんだ」

「教会に来る同じ年代の子とはよく遊んだけど、誰から話を聞いても同じだった。みんな同じで、それが『普通』なんだって思うようになった」

「僕はあの時、自分の家族のあり方を『普通』だと思っていたよ。他の家でも同じようにしてる、みんな同じなんだ。そんな風に考えてた」

「だから、かつて僕が両親から受けていた『祝福』も、ただの習慣の一つだと信じていたんだ」

祝福。この言葉を口にするとき、僕は決まって言いようの無い浮揚感を覚える。他人が離れた場所で口にした言葉を聞くような、とでも言えばいいのだろうか。驚くほど実感の持てない言葉だった。

「始まったのは、僕が五歳くらいになった頃だったかな」

「週に一度、決まって同じ曜日の同じ時間に、父親か母親の二人が、僕の部屋に姿を見せるんだ」

「『祝福』をするために、ね」

あれは確か、毎週金曜日の夜だった。階段が軋む音がして、ガチャリとドアが開かれる。その瞬間に僕はピンと背筋を伸ばして、入ってくる父と母を出迎えた。

「僕は何度か『祝福』を受けて、事前に手洗いを済ませておくことを覚えた」

「『祝福』のある日は、朝からあまりものを口に入れないようにすることも併せて」

「粗相があると後始末が大変だって、子供ながらに分かっていたからね」

勝手が分からない初めのうちは、いろいろと大変だった記憶もある。

「両親が僕の部屋に入ってくるときは、必ず手に何かを持っているんだ」

「それは――刃物のこともあったし、金槌のこともあった、ライターのこともあった」

「もちろん、他のもののこともあった」

「二人揃って僕の前に立ったのを見てから、僕は両親の前に跪いて、心から感謝の言葉を述べる」

「『僕を傷付けてくれてありがとうございます』」

「『神様の元へ近付けてくれてありがとうございます』」

「僕の言葉が合図になって、僕は両親から『祝福』を賜るんだ」

目を閉じると、父がいつも通りの表情で金槌を大きく振りかぶった瞬間の姿が、まざまざと蘇ってくる。

鈍い音がしたかと思うと、僕の体に鋭い痛みが走って、波動が全身に広がっていく。腕に冷たい感触が走ったかと思うと、途端に傷口がぱっくりと開いて、熱を帯びた血が溢れ出してくる。目の前で炎が煌めいたかと思うと、太腿に小さな火が灯っていて、肉の焼ける腥い匂いが漂ってくる。

両親から賜った「祝福」のすべてを、僕は今でも明瞭に記憶に止めている。果てしなく生々しい記憶のはずなのに、思い出すときは決まって心が乾いていて、どんな感傷も湧いてこない記憶。不思議なほど落ち着いて、僕は記憶を取り出すことができてしまう。

「帰天主義の旧い教義の一つに、肉体への執着を捨てなさいというものがあるんだ」

「子供の頃から肉体への執着心を持たせないようにさせて、次の輪廻を速やかに迎えられるようにするためなんだって」

「肉体への執着心を捨てさせるために行われるのが、肉体を傷付けることなんだ」

「けれど、帰天主義者の間では、肉体を『傷付ける』という考え方はしていなくて」

「あくまで『天に近付ける』ために行うものだ、そんな風に考えてるんだ」

「だから彼らはその行為を『「祝福」を与える』と呼んでいた。もちろん、僕の両親もそれに倣った」

「痛みは肉体に執着するから感じるもの、執着を捨てれば、『痛み』を感じることは無いはずだ」

「だから『痛み』を当然のものだと思うようにして、執着を捨てるように諭すんだよ」

「僕の両親はその教えを忠実に守って、僕の身体を規則正しく痛めつけた。とても規則正しく、儀式的に」

「母と一緒に湯浴みをして、身体を洗ってもらったりもした。丁寧に丁寧に、母が子に対してごく当たり前にするように」

「庭で父と僕との二人で遊んで、ごく普通に笑い合うこともあった。父は僕に向けて、優しくボールを投げてくれた」

「勿論、全員で一つの食卓を囲んで食事をしたりもした。母がケーキを切り分けて、僕の皿に盛ってくれたりもした」

「帰天主義じゃない、他の『普通』の家族と、まったく同じように」

「そして――そんな日常風景の一コマとして、僕の身体に『祝福』を与えることをした」

僕は不思議と落ち着いていた。誰かから聞かされた話を、また別の誰かに話して聞かせているかのような心持ちだった。僕自身がどこにも介在していない錯覚を覚える。見事なまでに現実感がなくて、リアリティが少しも感じられない。

話の主軸にいるのは、紛れもなくこの僕のはずなのに。

「僕はそれが当たり前のことだと、常識的なことだと思っていた」

「『どうしてこんなことをされるんだろう』とか、『いつまでこんなことが続くんだろう』とか、そんなことは夢にも思わなかったよ」

「父と母が僕に祝福を与えることは当然のことだったし、祝福に終わりがあるなんて初めから思って無かったからね」

「僕にとってはそれくらいのレベルで、両親の行為は『当たり前』のものに見えていたんだ」

「だからかな。僕がまだ小学生の時くらいだった。両親と三人で一緒に、外へ出掛けた」

「何気なく外を歩いていたら、通りすがった人が僕の姿をまじまじと見つめてくる。僕はまだものを知らない子供だったけれど、道行く人々が僕に投げかける視線がどんな色を帯びているかは直感的に理解できた」

「哀れんでいる。僕の姿を見て、彼らは僕を哀れんでいた」

「腕や足にはたくさんの痣があって、切り傷も少なくなかった。今は消えたけれど、あの頃は顔にも同じような痕があった気がする」

「彼らは僕が両親から酷い目に遭わされていると認識して、それで僕を哀れむ目で見てきたんだと思う」

「だけど僕にはその意味が理解できなくて、ただ言いようの無い居心地の悪さを覚えるばかりだった」

「家に帰ってから僕は両親とそのことを話して、両親は僕にこういい聞かせたんだ」

「『彼らは恵まれていないんだ。この世界にいつまでも執着して、肉体から魂を昇華させられずにいるんだよ』」

「両親から易しい言葉で諭されて、僕は認識を新たにした」

「きっとあの人たちは僕よりも恵まれていないんだ、肉体に執着して、本質を見失ってしまった人たちなんだ」

「そう思うと、僕は彼らの目線が、彼らが僕に哀れむ目を向けてくることそのものが、とても哀れに見えるようになった」

「僕は恵まれている、幸せなんだ。一切の疑いを持たずに、僕はそんな風に考えるようになった」

今にして、僕は思う。

結局のところ――哀れなのは、僕も道行く人々も、さして変わらなかったんじゃないか、と。

「祝福を受けていると、決まっていつの間にか気を失って、世界が真っ白になっていくんだ」

「初めは耐え難かった痛みも、徐々に和らいでいって。少しずつ少しずつ弱まって、やがては完全に消えていく」

「本当に何も感じなくなるんだ。刃物で腕を切られても、金槌で頭を叩かれても、火でお尻を炙られても、何も、何も」

「すべての感覚がスープのように溶けていって、最後はみんなひとつになる。何もかもが収斂されていく」

「痛みを忘れて、ただ魂だけがそこに在る感覚が広がっていく」

「祝福が終わって何時間かが経つと、僕はもういちど目を覚まして、いつも汚れたシーツの上に横たわっているんだ」

「真っ暗な天井を見つめながら、僕は思っていた」

「『僕はこんなにも両親に愛されてる、とても幸せなんだ』、って」

僕は信じていた。僕が恵まれているのだと、僕が純粋に愛されているだと。

僕は、幸せなのだと。

「十二歳になる頃に、僕は両親に手伝ってもらいながら<Painkiller>を創った」

「エアームドから抜け落ちた鋼の羽を鍛えて、鋭いナイフに仕上げたんだ」

「<Painkiller>を使って初めて召したポケモンは、エネコだったよ」

「公園で箱に入って捨てられていたのを拾ってきて面倒を見てたんだけど、具合が良くならなくてさ」

「この子を楽にしてあげたい。これ以上苦しませたくない。そう思って、僕はエネコの喉笛を切り裂いた」

「手の中で息絶えていくエネコを見ていると、僕は――胸の高鳴りを抑えられなかった」

「これが、命の終わり。そして、ここから新しい命が始まるんだ、って」

「もちろん、両親からはたくさん褒められたよ。よくやった、それでこそ我が子だ。そんな風にね」

虚ろな目で僕を見つめながら逝ったエネコの姿を、僕は今なお鮮明に記憶に止めている。帰天主義の考え方で死者を記憶に止めてはならないと頭で理解していても、あのエネコの最期だけは生涯忘れることができないだろうと、僕は考えていた。

「僕が十四歳になるまで――つまり、今から三年くらい前までは、僕の世界は家と教会だけだった」

「ごくたまに両親と一緒に出掛けたり買い物に出たりしたことを除けば、本当にそれだけで世界が完成されていたんだ」

「そのまま僕は両親の手で、純粋な帰天主義者として育てられるはずだった。大人になった僕は同じく帰天主義者の女の子と結ばれて、僕の両親がそうしたように、僕のような子供を育てるはずだった」

「だけど、そうは行かなくなった」

何事も、終わるときは呆気ないものだと思う。

「近所に前々から僕のことを気に掛けていた人がいて、ある日僕が傷だらけで外へ出たのを見掛けた」

「僕があまりに酷い有様だったからかな、その人はついに僕の家のことを児童相談所へ持ち込んだんだ」

「それから数日もしないうちに児童相談所の職員がやって来て、有無を言わさず僕を両親から引き離した」

「名前は……義徳さん。岡本義徳さんって名前だった」

「僕は訳が分からないまま保護施設へ連れて行かれて、義徳さんから色々なことを教えられた」

「『君は酷い目に遭わされてきた』」

「『君は不幸な家に生まれた』」

「『君は碌な人生を送れなかった』」

「要約すると、概ねそんな意味だった」

「僕はずっと家に閉じ込められていて、親から歪んだ教育を受けていて、普通の子とも遊ばせてもらえなくて……何より、数え切れないほどの『暴力』を受けていた。そのことを、認識させられたんだ」

生まれて初めて外の世界から客観的に見られた僕の有様を告げられて、僕は完膚なきまでに叩きのめされて、あらゆる言葉を失った。地面が熱したバターのように溶けていって、為す術なく飲み込まれていくかのような感覚だった。実際僕は立っていられなくなって、床にへたり込んでしまったのを憶えている。

「同じ時期に全国でこんな風に帰天主義者の家族に調査が入って、僕のような子供が大勢保護された」

「さすがに不味いと思ったのか、教会が急ごしらえで教義の解釈を変えて、子供を傷付けるのは止めさせたんだ」

「それから僕はしばらく施設で保護されたあと、両親がこれ以上僕を傷付けることは無いと判断されて、家に戻された」

「いろいろと手続きをして、学校にも通うようになった。ずいぶん面倒だった記憶があるよ」

「僕が保護されて以来、父も母も、僕の身体を痛め付けることだけはやめた。教義が変わったからね」

「そして、僕と両親は――『祝福』を除けば一応これまで通りの関係のまま、それらしく一つ屋根の下にいる」

「僕もまた、教会には通い続けているし、ポケモンを召すことも止めていない」

表向きは何も変わっていない、これまで通りの日々を過ごしているかのように見えているに違いなかった。

「だけど、変わってないわけなんかなかった」

「何もかも何もかも、何もかもすべて、変わってしまったんだ」

けれどその内情は、あまりに激しい変化に曝されていた。

「僕はあの時、全部知ってしまったんだ」

「眼前の世界は大きく歪んでいて、恵まれていたわけでも幸せなわけでもなかったということを」

「あの家が、僕の家族が、異常な性質を抱えた、異質なモノなんだということを」

「僕は――<りんご>を食べてしまったんだ」

変化の奔流に押し流されるまま、僕は不安定でありつづけた。

「何もかもすべてが揺るがされて、僕はどうすればいいのか分からなくなった」

「どうすればいいのか分からないまま、今もこうやって生きているんだ」

僕は拠って立つ地を失って、そこから這い上がれないままこの瞬間にまで至っている。

己れの信じていたものをことごとく打ち砕かれて、それは悪しきことだ、信じていてはいけないことだという現実を突き付けられた僕は、何かを信じることを極端に恐れるようになった。再び裏切られることに怯えて、僕はあらゆるものに対する思い入れを無くすように努めてきた。

「今の僕は、何が『正しい』のか分からずにいる」

「躰に付いた傷痕は今も消えなくて、身体が憶えた習慣も未だ消えずにいる」

「教会には通い続けているし、冠婚葬祭のルールも変わっていない」

「そして僕自身も、今もポケモンを召し続けている」

「けれど、理解しているんだ。把握してはいるんだ」

「僕は――異常で、異質なんだって」

自分自身がこの世界においてイレギュラーでアノマリーな存在であると自覚して、それでもこの世界で生きていかなければならないことの不条理さ。息を潜めて、己れを押し殺して、それでも生きていかなければならないことの理不尽さ。僕はどこにも持っていく場所のない懊悩を背負わされて、今にも押しつぶされそうになっていた。

「そうやって日々を無為に過ごしていると、不意に僕は生きていることの意味を喪失しそうになる」

「この世界に馴染めずに、癌細胞のような存在として此処に在ることを認識して、無性に死が恋しくなる」

「堪らずに<Painkiller>を引っ張り出して、勢いに任せて喉笛を掻っ切ろうとしたことなんて、数え切れないくらいある」

「死を願って刃を首筋に当ててみるけど、でも、その時にいつも決まって思い出すんだ」

「『自殺はもっとも尊ぶべき行いである』――帰天主義にはそんな教義があるってことを」

「そう思うと僕は急に醒めてしまって、死にすら意味を見出せなくなる」

「意味の無いことをする意味なんて無いから、僕はそのまま<Painkiller>を片付ける」

「ケースに<Painkiller>を仕舞いながら、こんな考えが頭に浮かんでくる」

「『とうに痛みを忘れた僕に、<Painkiller>が何の役に立つんだろう』」

「どこまで言っても僕は縛られていて、有刺鉄線の巣の中に閉じ込められたままなんだ」

「翼を血に塗れさせて、消えない傷痕を懸命に隠しながら、外から浴びせられる視線に何も応えられずにいる」

「僕は、ずっと巣の中から出られずにいたんだ」

すべてを言い終えると、僕は小さく肩を落として息をついた。僕のすべてを、ありのままをかたはに話して、僕は文字通り裸になった。裸の僕を、かたはにぶつけた。

隣に座るかたはは片時も目線を離すことなく、ただ僕だけを見つめ続けていた。向けていたのは目だけじゃないことは明らかだった。耳も、鼻も、肌も、彼女のすべてが僕に向けられていた。何もかもすべてを表沙汰にした僕と、何もかもすべてを僕に向けたかたは。静寂で満たされた公園で、僕らは全身全霊のぶつけ合いを展開したわけだ。

「あつくん、あつくん」

しばしの空白の後、先に口火を切ったのは、かたはの方だった。

「あつくんは」

「あつくんは、巣の中から出たい?」

外に、出てみたいか。

「とげとげ、ちくちく、いたいいたい。ぎらぎらまぶしくかがやいて、ぷんぷん広がる血のにおい」

「そんな巣からお外に出て、気持ちいい風、たくさん浴びてみたい?」

外に出て、その身を心地よい風に晒してみたいか。

彼女は僕にそう問うた。

何かが腑に落ちていく感触がした。大きな大きな納得感が体中を満たしていき、鬱屈した思いがすべて消え失せていくのが分かった。

彼女は――かたはは、何もかも分かっていた。僕が何を求めているかを、僕が何を訴えたかったかを、すべて、すべて、すべて。

「あつくん、あつくん」

「もし、あつくんが望むなら」

「かたはがお手々で巣をかき分けて、あつくんを外へ連れてってあげましょう」

「ふたりでいっしょに、たのしくおでかけ。どこまでも、どこまでも」

目一杯に両腕を広げて、頬を緩ませにっこり笑う。それはかたはだけに許された、僕のすべてを受け入れてくれるサイン、僕のすべてを受け止めてくれる証。

僕は、青空を覆い隠す分厚く堆積した黒い雲を切り裂いて、眩い太陽の光が差し込んでくるヴィジョンが見た。周囲を取り囲んでいた赤茶けたイバラが取り払われ、心地よい風が身体を撫ぜていく感触がした。

「ありがとう」

「ありがとう、かたは」

「君と一緒なら、僕はどこへでも行ける、どこまでも行ける」

「僕が君を導いて、君が僕を導く。何も恐れることなんてない」

「ありがとう。ありがとう、かたは」

大きく開かれた彼女の胸へ飛び込むと、僕は彼女をきつく抱きしめた。僕に負けじとかたはも僕を力一杯抱きしめる。お互いに相手を絞め殺さんばかりの強さで抱いて、思いのたけを込めた抱擁を続けた。彼女の鼓動が僕の鼓動とシンクロして、一つの「いのち」になったかのような感覚が僕らを包み込む。

自分のすべてを明らさまにして、相手のすべてを受容する。僕らは服を着ているかも知れない。けれど心は丸裸で、隠しているものなど一つもない。裸の自分と裸の相手、あるがままの姿でぶつかり合い、せめぎあい、そして今こうして一つになっている。腕に力を込める度に、その思いが一層強くなっていく。

「あつくん、あつくん」

「あつくんは、かたはのこと、信じてくれました」

「はだかのかたはを、すっぽんぽんのかたはを」

「いま、こうして、おしつぶされそうなほどに、強く、強く、だきしめてくれていること」

「それが、何よりの『あかし』です」

うれしい、うれしい。彼女は何度も繰り返して、背中に回した手でペタペタと僕に触れる。あつくんだ、あつくんだ。手のひらを通して僕を感じながら、かたはは感じ入った声をあげた。首筋に彼女の熱っぽい吐息が掛かって、僕の全身に快い刺激が走る。

やがて僕は右手を内側へ差し入れて、そっと彼女の服の中へ忍ばせた。手探りで彼女の腹部に付いた傷を探し当てると、縫い目に沿ってすうっとなぞっていく。かたはは一瞬身を固くしたかと思うと、たちまち弛緩させて躰を震わせた。僕に倣うようにかたはも右手を回し、同じく傷痕を撫で始める。

「気持ちいい? かたは」

「あつくん、あつくん。きもちいい、きもちいい」

「それは良かった。僕も同じさ」

そう、気持ちいい。

君といると――気持ちがいいんだ、かたは。

 

僕たちは一つだ。

「あつくん、あつくん。ああ、あつくん」

「かたは、美味しい?」

「おいしい、おいしい」

握り締めた<Painkiller>、刃に絡みついた真っ赤な血、無造作に転がるスバメの躯、しなだれかかる最愛の人、まとわり付く桃色の舌。すべてが一つになって、僕を満たしていく。何も恐れるものなどなく、何も気に掛けることなどない。僕の側にはかたはが居る、かたはの側には僕が居る。

それだけで、僕は満たされた。

「かたは、こうもりさん。いびつでぶきみなこうもりさん」

「だからね、だからねあつくん」

「まっかっかな血、だあいすき」

「あったかい血、だあいすき」

舐め回された<Painkiller>が、唾液で濡れてテラテラと光っている。僕が舌を這わせて残った血と一緒に唾液をするりと舐め取ると、かたはは赤子のように頬を綻ばせて見せた。

「あつくん、あつくん。あつくんの中に、かたはが入っていく」

「そうさ、かたは。僕の中で混ざり合って、一つになるんだ。だけど――これだけじゃ、物足りないよ」

「ものたりない、ものたりない。かたはもいっしょ、ものたりない」

僕もかたはも同意見だった。これじゃあ物足りない、もっと互いを交わらせたい。

「そうだね、かたは。じゃあ、僕に任せて」

「あつくん、あつくん。痛くして、痛くして」

今一度<Painkiller>を強く握る。肩に置かれたかたはの右手を取り上げると、掌に刃の先端を押し付けた。あっ、と小さな声が漏れる。その様相に僕は感情が昂るのを感じて、より深く刃を差し入れていく。この刃が彼女を傷つけて、彼女にまた一つ傷痕を作る。そしてそれは紛れもなく僕の手で付けられた傷痕だ――だらだらと流れる鮮血を目にして、僕の鼓動は早鐘を打つかの如く律動を増していた。

刃を引っ込めると、傷口に口付けて彼女の血を啜る。舌を赤い血が流れて、喉の奥へ吸い込まれていく。彼女の肉体の一部、彼女を構成する組織の一部、彼女の<いのち>の一部。

僕の中に、かたはが吸い込まれていく。

「いたみはいのちのあかし」

「かたはの手の中、いたみでいっぱい、あふれそう」

「うれしい、うれしい。しあわせ、しあわせ」

「だから、だから」

「いたいの、いたいの、とんでかないで」

掌から血を飲む僕にぐっと顔を寄せて、かたはが僕の耳をそっと甘噛みする。かぷっ、という音が聞こえてきそうだった。くすぐったくじれったい、湿った舌の感触。僕は感情の赴くままに、かたはの綺麗なうなじを撫でた。

「くすぐったい、くすぐったい」

「きもちいい、きもちいい」

彼女の上げてくれる声は無上の歓びとなって、僕に止めど無く降り注いでゆく。

 

自転車に乗って河原を駆け抜ける。僕の後ろには、かたはの姿もある。

「一度こうやって、かたはを自転車に乗せてみたかったんだ。絶対に気に入ると思ってね」

「あつくん、あつくん。すてき、すてき」

「君も素敵だよ、かたは。腰掛ける姿、とても絵になってるよ」

かたはは身体を進行方向から見て右へ向けている。けれど上半身は少し折り曲がって、僕の背中から両腕を回してしがみつく体勢を取っている。そうして身体を重ね合わせていると、かたはの心音が聞こえてくるのがはっきりと分かった。きっと僕の鼓動も、かたはに直接伝わっていることだろう。

こんな風にして、僕らは街中を駆け巡っていた。歩き慣れた道も見慣れた風景も、自転車に乗っているだけでずいぶんと変わって見えるものだなんて、思ってもみなかった。かたはと肌を合わせながら、流れるように移り変わっていく風景を楽しむ。僕にしてみれば、最高の贅沢以外の何者でも無かった。

「あつくん、あつくん。自転車こぐの、じょうず、じょうず」

「中学生くらいまではよく乗ってたからね。今だって、腕は衰えちゃいないさ」

僕らが乗っている自転車は、駅に違法駐輪されていたものを失敬してきたものだ。これが触法行為だということくらい言われずとも理解はしていたけれど、僕には罪の意識はまるでなかった。長らくフェンスにチェーンで束縛されていた自転車を解放してやった時は、清々しささえ覚えたくらいだ。この自転車にしても、乗られないよりも乗り手がいる方がずっといいに決まっている。僕にはそう思えてならなかった。

「自転車さんもおよろこび。あつくんとかたはを乗せて、久しぶりのオシゴトタイム。たのしい、たのしい」

「そうさ。僕らはこの自転車の束縛を解いて、助けてやったんだ。僕だっていい気分だ」

「かたはもいっしょ、いい気分。あつくんもかたはも自転車も、決して縛られはいたしません。カラダもココロも何もかも、どこまでいっても束縛不可能。かたはとあつくん、ふりーだむ! おーるたいむ・ふりーだむ!」

かたはが腕にさらに強く力を込めて、僕をぐっと抱きしめた。僕は背中に背負った幸せをひしひしと噛み締めながら、ペダルを踏む足に熱が入るのを感じた。

力強く進み続ける自転車。その前籠には、血まみれになった<Painkiller>が放り込まれている。二時間ほど前に街外れの草むらで衰弱して死に瀕していたマッスグマを見つけて、二人の「共同作業」で召したためだ。

「あつくん、あつくん。風、きもちいい。風、とってもきもちいい」

「かたはも風を浴びてるんだね。こうして冷たい風を感じると、生きてるって感じるんだ。そう思わないかい?」

「思う、思う。かたはは生きてる、あつくんも生きてる、ふたりはいきてて、いたみのある世界に生きてる!」

風を切って道を駆け抜け、生きていることを強く強く実感する。その過程で死に掛けたポケモンたちを召して、命が燃え尽きる瞬間を手の中に残す。血を啜り、肉を食らい、そして互いの躰を傷付け合う。

僕らは文字通り、生を謳歌していた。

 

死に寄り添うことで生を実感できる。僕らはその考えについて、頭の先から足の先まで、あるいは骨の髄まで一致していた。

「あつくん、あつくん。すごい、すごい、すごい数。とってもたくさん、うなるほど」

「うん。かたはの言う通り、物凄い数だよ」

すっかり冷たくなった風の吹き荒ぶ砂浜を、かたはがはしゃぎながら歩いていく。僕は彼女の姿を目で追いながら、自然と頬を綻ばせる。

新聞の小さな記事で取り上げられていた、ある海沿いの街。僕らの住んでいるところから電車を乗り継いで三時間ほど掛かるその場所に、僕はかたはと共に訪れていた。訪れた目的はただ一つ。記事に書かれていた事象を、より肌で感じたいと思ったからだ。

「こっちにも、ほらあっちにも。どこもかしこも、お祭りさわぎ!」

「ああ、素敵な光景だね。こんなにも沢山の亡骸を見るのは、生まれて初めてだよ」

僕らが歩いている砂浜には、シェルダーやメノクラゲといった、かつてポケモンだった肉塊が、そこかしこに転がっていた。

記事に書かれていたことを要約すると――この辺りの海水の温度が例年に比べて異常に上がって、環境の変化に耐えられなくなった海棲のポケモンたちが次々に死んだ。そして、かつてポケモンだったそれらが砂浜へ大量に打ち上げられて、大きな騒ぎになっている――そんなところだった。

僕はその記事を見つけて、すぐにかたはにメールを打った。かたはからは、すぐさま「いきたい」という返事が来た。僕は即座に「いこう」と応えた。僕たちがここにいる理由は、それだけで説明できた。

「あれも死んでる、これも死んでる、みいんな死んでる! カラスさんもおおいそがし!」

「聞こえてるみたいだね、かたは。キャモメやペリッパーの代わりに、ヤミカラスが空を飛んでるよ」

少し先を見れば、腐乱の始まったラブカスにヤミカラスが群がり、そのすぐ側には既にカタチを喪失しつつあるママンボウが転がっている。ふと隣に目を向ければ、死んで間もないマンタインと随伴していたテッポウオの姿がある。彼らの周囲にも、またヤミカラスが集まり始めていた。

数え切れないほどの「死」。気が遠くなりそうな数の「死」。

立ち込める死臭に混じる潮の匂いを嗅ぎ分けながら、僕はそっと天を仰いだ。

「かれらは屍肉を啄んで、いのちをさらに燃え上がらせる」

「死骸は血となり肉となり、明日を迎えるカテになる」

「昨日を生きて、今日を生きて、明日を生きて」

「そしてかならず訪れる、死ぬための日を待ち続ける」

「朽ちたカラダはホシへと還って、新たないのちをつくりだす」

死骸の散乱する砂浜を、かたはが軽やかに舞う。

「死は生をはぐくみ、生は死をもたらす」

「生は死のはじまり、死は生のはじまり」

「りーいんかーねーしょん。りんね・てんせい」

「終わらないチクセキを続けて、いのちはぐるぐる廻る、廻りつづける」

「永遠に、永遠に。いつまでも、いつまでも」

命のサイクルは終わらない。外から手を差し伸べることはできず、完全に閉じた輪廻の中で、僕らは生きている。救いもなければ、破滅もない――かたはの紡いだ言葉を、僕はそう解釈した。

「かたは、手をつなごう。君と一緒に歩きたいんだ」

「つなごう、つなごう。かたはとあつくんのコネクション、ピア・ツー・ピアのネットワーク」

観光地を歩くような気楽さでもって、僕らは手をつないで歩く。

見るべきものは、たくさんあった。

 

あの公園は、僕とかたはだけのプライベート・スペースではないか。そんな他愛ない錯覚を抱いてしまいそうになるほどに、件の公園は人気というものが感じられなかった。

「あつくん、あつくん」

「かたは、君は今日も素敵だね」

「すてきなあつくんがとなりにいるから、かたはもすてきになるのです」

隅にある朽ち掛けた木製のベンチに腰を落ち着けて、僕とかたはが何の遠慮も無しに抱き合う。僕らを見咎める無粋な者の姿はなく、僕らを見物する物好きな野次馬も存在しない。両腕を使って抱き締めた最愛の人の熱を取り入れて、僕の身体は俄に熱くなっていく。かたはもまた、同じようだった。

傷だらけの身体を抱き合う男と女。かろうじて身に纏っている衣服が剥がれてしまえば、そこかしこに付いた無惨な傷痕が露になる。僕らの傷痕を見れば、常識の世界で生きている人々はきっと気味が悪いと感じることだろう。自分たちのクラスターから排除して、存在しなかったことにしてしまいたい。そんな考えを抱くに違いないと、僕は考えていた。

「あつくんのからだ、あったかい」

「あったかいのは、いのちがもえているから」

「もえるいのちを胸に抱いて、あつくんは今も生きている」

痛々しい傷痕が無数に残された僕の体を抱いて、かたはは「あったかい」と口にする。僕の体が暖かいのは、僕の命が燃えているから。命が燃えているのは、僕が生きている証拠に他ならない。そしてそれは、かたはもまた同じことだ。

例え常識から排斥されようとも、僕らは生きているのだ。

「あつくんはココにいる」

「かたはもココにいる」

「今この瞬間、あつくんも、かたはも、確かにココに存在してる」

僕の背中にぐるりと腕を回すかたは。彼女の右手、その薬指の付け根には、関節をなぞるように付けられた歪な傷がある。それは僕もまた同じで、あたかも指を切り取ろうとして失敗したかのような様相を見せている。昨日の夜に僕の<Painkiller>を使って、彼女の傷を僕が付けて、僕の傷を彼女が付けたものだ。

外から見ると――それはまるで、リングのようにさえ見えた。

「あつくん、あつくん」

「あつくんからもらったリングは、かたはの一生のタカラモノです」

「ううん、ううん、そうじゃない」

「一生じゃ足りなくて、二生でも、三生でも四生でも、百生でも足りません」

「いつまでもいつまでも、かたはが分子になってもなお残る、絶対的なタカラモノ」

うっとりとした口調でもって、かたはが僕にそう告げる。

「これで、僕たちは完全に一つになった。一つになったんだ」

「かたはとあつくん、二人で一つ。分かつことはできなくて、どこまでいっても、ひとつの存在」

「そう――その通りだよ、かたは。君の言う通りだ」

僕たちは一つになった。身も心も一つになって、僕らという存在を分離させることはできなくなった。

「ほんとうは、いっしょにいてはいけないふたり。であってはならなかったふたり」

「それが、あつくんとかたは」

帰天主義者の子供たる僕。オーバーライド・キュアの開発者の娘たるかたは。僕らは共にあってはならなかった、めぐり逢ってはならなかった――僕らを取り囲む大勢の人々は、きっと一人残らずそう言うだろう。

「盛者必衰の信奉者と、永久不滅の探求者。鏡合わせのイデオロギー、そこから生まれたコドモたち」

「コドモとコドモが一つになって、虚像と虚構に牙を剥く」

けれどその中心たる僕とかたはは、まったく逆の感情を抱いていて。

僕とかたはは、既に不可分な存在になっていて。

「あつくん、あつくん」

「かたはのカラダは半分ケダモノ。半分くらい、ポケモンなのです」

「ポケモンはヒトに捕まると、あるじと呼んで忠誠を誓います」

「あつくんはかたはのあるじ。あつくんは、かたはのあるじ」

「かたはは幸せです。あつくんに支配されていると感じるとき、かたはは天にも昇りそうな気持ちになるのです」

見えていないとは思えないほど蠱惑的な瞳で、かたはが僕を撫で回すように見つめる。

「君は――かたはは、本当に悪い娘だ」

「僕に甘い言葉を囁いて、すべてを曝け出して、生まれたままの姿でぶつかってくる」

「いつの間にか僕の心を掴んでいて、決して離しはしない」

「僕のような狂信者の子供と肌を重ねて、あまつさえ僕が君を支配しているなんて言う」

「まったく可笑しい話だよ。支配しているのは君、支配されているのは僕なのに」

僕とかたはが口付けを交わす。僕が求めたわけでも彼女が求めたわけでもなく、どちらともなく自然に口付けていた。僕はかたはの、かたはは僕の感情を理解しているから、意識せずとも一つになれる。

いつまでもこんな時間が続く――僕は、そんな幻想に浸っていた。

 

「臨床実験、間近に」

リビングで何気なく読んでいた新聞の見出しに、僕は無意識のうちに吸い寄せられていた。オーバーライド・キュア、件の「上書き治療」の人間版の臨床実験が、もう間もなく実施される予定――とのことだった。

こんなことがあってはならぬ、命を冒涜する行為だとして、帰天主義者たちがこぞって声をあげていた。その中には、むろん僕の両親も含まれる。今ここに二人の姿は見当たらない。いつものように朝早くから出掛けて、教会で団体行動のための準備をしているに違いなかった。僕は少し遅くまで眠っていたから、彼らの集まりには巻き込まれずに済んでいた。

彼らは、大規模なデモを計画しているようだった。恐らくは僕も参加させられることだろう。上書き治療に賛成か反対か、趨勢がどちらに向いているのかは定かでは無かったけれど、彼らは少しでも流れを自らの元へ引き寄せたいと考えているに違いなかった。

僕がこれといって何の感慨も持たず、単調に新聞の字を追っていたけれど。

「――かたは」

側に置いていた携帯電話のサブディスプレイに彼女の名前が踊っているのを見た僕は、即座に新聞を置いて立ち上がった。

 

彼女とあの河原で待ち合わせるのは、少しばかり久しぶりのことだった。

「あっ。あつくん、あつくん」

「お待たせ、かたは。遅くなっちゃってごめんね」

「ううん、ううん。あつくんが来るまでどきどきすることも、かたはの素敵なおたのしみだから」

僕が側に近づいてくるのを認識した途端、彼女は僕めがけて勢いよく飛び込んできた。僕は地に足を着けて、しっかりと彼女を抱き留める。華奢な身体は僕の力でも簡単に持ち上げられるほど軽くて、彼女はこうして僕に持ち上げてもらうことをとても好んだ。抱いたまま軽く一回転してから、僕が彼女を地上へ下ろしてやる。

メールで僕を河原へ呼び出した彼女の様子は、昨日までと何ら変わらないように見えた。色の無い瞳はしっかりと僕を見据えていて、彼女の世界に僕が彼女なりの姿形で描き出されていることが容易に想像できた。持ち上げられてからぐるんと一回転したことで少しだけ乱れてしまった彼女の髪を直してやると、くすぐったそうに目を細めた。

かたはの仕草一つ一つに心奪われながらも、僕は今日彼女がここに僕を呼び出した理由について考えを巡らせていた。既に考えは固まっていて、僕は彼女から何か「話」をされるだろうと踏んでいた。

「あつくん、あつくん」

「今日のかたはには、ひとつ、おはなしがあります」

どうやら、僕の予想は当たっていたようだ。

「何の話かな、かたは。教えてくれる?」

「たいむ・たいむ。ここでおひとつ、こーひー・ぶれいく。あつくんは、かたはのおはなし、なんだと思う?」

「かたはのお話か……そうだね」

彼女のしようとしている話が何か、僕はここに来るまでにとっくに考え付いていた。

「――さしずめ、君が君でなくなる、ってところかな」

白い歯を見せて屈託無く笑う彼女の表情が、予め用意しておいた答えの正しさを物語っていた。

「あのね、あつくん」

「もうすぐ、かたははここからなくなります」

「かたはは専用の病院へどかんとぶち込まれて、手術までお外に出られなくなるのです」

彼女は手術を行う日程が決まり、特別な病院に入れられることになった。何もかも想像していたとおりだった。何の驚きもなく、そして一切の意外さも無かった。完全に思ったとおりの内容だった。

「それでですね、あつくん。手術の前に、ぷち手術を行うことも決まりました」

「ほんのちょっぴり残ってる、かたはオリジナルの臓器たち。これをぜえんぶ取り出して、ケダモノのからだから作ったものと取り替えっこします」

「そしてそして、それだけじゃあありません。かたはの大事な右腕も、手術の前に引き千切って、人工のものと交換します。えくすちぇんじ・えくすちぇんじ」

「一見だいじょぶそうなこの右腕ですが、実はちょっとずつダメダメになってきていて、放っておくとどろどろでろでろに腐ってしまうんだそうです。おお、怖い怖い」

手術に先立ち、彼女に残された僅かな「人間性」たる右腕も切除されることが決まった。今は何の変哲もない、他人と変わらないに見える右腕だけれど、それもまた他の器官と同じように、機能を失いつつあるという。彼女はそんな内容の話を、いつも通りの表情と、いつも通りの口調と、いつも通りの声色で、僕にしてみせた。

「あつくん、あつくん」

「かたはを使った実験が成功すれば、オーバーライドなんとかは、実用化のメドが立つそうです」

「どんな怪我も疾病も、ちょっとの時間でぱあっと治せちゃう。そんな夢みたいなお話」

「いたみはかりそめのものに成り下がり、いたみの無い生を、いたみを味わうことのない生を、永遠に過ごすのです」

「かたはを栄えある第一号にして、ニンゲン向けのオーバーライドなんとかを普及させるのが、ハンバツネヒコの狙いなのです」

そこまで言うと、かたはは目線を上げて、僕と目を合わせた。

かたはが受けようとしている手術。もしそれが成功すれば、かたははいかなるダメージも即座に取り除くことができる身体に生まれ変わることになる。痛みはごく希薄なものに成り代わって、いつでも取り除くことができるようになる。痛みを失ったまま、かたはは悠久の時を生きることになる。

――それは「生きている」のだろうか。「生きている」と言えるのだろうか。僕は意識せぬまま、そんな疑問を胸に抱く。

痛みの無い人生。かたははかつて、それを恐ろしいと口にしていた。痛みの無い世界、それは命の無い世界。彼女の言葉を借りるなら、こう表現される。

痛みの無い生はなく、生と痛みは不可分である。仮に生と痛みを分かとうとするならば、それは即ち虚無に至る。

彼女は今まさに――虚無へと足を踏み入れようとしていた。

「――ダメだ」

「行っちゃダメだ、行っちゃダメだ、かたは」

「かたはは、ここにいなきゃダメなんだ」

ほんの数刻濁っていた意識が不意に意識が明瞭になると、僕は感情に突き動かされるまま、かたはをきつく抱き締めていた。

「君が君でなくなるのは嫌だ」

「かたはは、痛みを感じるから、人間だから……だから、かたはなんだ」

気持ちをありのままに言葉にする。美辞麗句で着飾ることも忘れて、僕は剥き出しの言葉を口から吐き出していた。かたはに行ってほしくない、ここにいなきゃダメだ、君が君でなくなるのは嫌だ。心の赴くまま、僕は彼女に言葉を投げかけ続ける。

僕らの細腕では抗いがたい大きな波が、僕とかたはを押し流そうとしているのが分かっていたから。

「あつくん、あつくん」

「あつくんは、分かってくれる」

「あつくんだけが、分かってくれる」

「いたみのないせかい、それはいのちのないせかい」

「かたはは、かたははそんなところへなんか、行きたくありません」

「カタチを変えても、どんなカタチであっても、かたはは『生き』つづけたいです」

かたはが僕にすがり付き、しきりに「生きたい」と繰り返す。

それが一般的なコンテキストで用いられる「生きたい」とは大きく様相の異なる、僕とかたはの間でだけ通用する意味を伴うものだということは、僕にはよく理解できていた。

「あつくん、あつくん」

「かたはに、いたみをください」

「ずっとずっと消えることのない、いたみをください」

「それが、かたはのねがいです」

「それが、かたはののぞみです」

「いたいの、いたいの、とんでかないで」

彼女は求める。痛みを求める。しきりに求める。何度も求める。

僕に、痛みを求めている。

「――分かった」

「分かったよ、かたは」

「僕が、君の望みを叶えるから」

拳に力を込め、僕はかたはに誓う。

彼女に――消えない痛みを与えなければ、と。

 

ここがどこで、今が何時か。それは僕らに取って、取るに足らない些事と言えた。

三日後のことだった。オーバーライド・キュアの適用準備の手術を間近に控え、翌日から病院に入院することになっていたかたはを屋敷から密かに連れ出し、僕らは闇に紛れてその場を後にした。彼女を誘拐する試みはあっさり成功して、かたはは容易く屋敷から抜け出すことができた。

彼女から寄せられた希望を受けて、僕は彼女の部屋を訪れた後、彼女の両手首と両足首をそれぞれロープで固く縛り上げた。続けてガムテープを口に張り付けると、持参したボストンバッグに丁寧に詰めてその場を後にした。彼女が前もって窓のロックを壊しておいてくれたから、僕は悠々と屋敷を出入りできたことも記しておく。

人気のない場所でバッグを開封してから、中で丸くなっていたかたはに声を掛けた。彼女は満ち足りた表情を浮かべながら、自由の利かない両腕と両脚を敢えてもどかしそうに揺らして見せた。僕がそっとガムテープを剥がしてやると、ぷはっ、と小さく息を吐き出して見せた。

「やあ、かたは。誘拐された気分はどう?」

僕が少しおどけて問い掛けると、かたはは頬に愛らしく笑窪を作りながらこう応えて見せた。

「すてき、すてき。とってもすてき。かたは、あつくんの所有物になった気分」

「ハンバツネヒコの所有物じゃなくて、あつくんの所有物」

「自分の居場所ががらりと変わって、あたらしいせかいに来たみたい」

「からっぽのお屋敷から、においと音に満ちたお外のせかいへ。ああ、きもちいい、きもちいい」

敢えて誘拐のような形式を取ることによって、あの屋敷から精神的にも離脱したかった――かたはの言葉は、彼女のそんな心境を顕している気がしてならなかった。僕の所有物になることで、あの屋敷の、彼女の家族の齎す束縛を断ち切りたい。彼女がそう願うなら、僕が彼女のために動かない理由などなかった。

不要な荷物を近くに捨てて、僕とかたはは肩を並べて、手を繋いで、歩調を揃えて歩き出す。夜の森は光源というものが見当たらなくて、ただ月明かりだけが僕らを照らしているだけだった。隣を歩くかたはの息遣いが聞こえてきて、僕は感情を昂らせまいと抑え込むことにとても難儀した。けれどそれは決して苦痛ではなく、むしろある種のゲームのような、大きな楽しみを伴う行為だった。

「ハイキングみたい。あつくんとかたは、ハイキングしてるみたい」

「今まで一度もしてないけれど、やっぱりこれって、ハイキングみたい」

「ふたりでいっしょ、森の中。ずんずんずんずん、進んでく」

「たのしい、たのしい。うれしい、うれしい」

僕らが織りなす夜の逃避行をハイキングに例えて、かたはは楽しそうに声を弾ませた。

「君に同意するよ、かたは。これはきっと、ハイキングなんだ」

「僕も一度だってハイキングなんてしたことない。君が言うんだし、僕も思うんだから、間違いない」

「思う存分楽しもうよ。ここにいるのは、僕と君だけなんだから」

彼女が僕らの行為をハイキングだと考えるなら、僕もまたハイキングだと考えるのが道理だった。僕が彼女に同意を示すと、かたははきゃっきゃっと声をあげて喜びを表現して見せた。

外が闇に包まれていることを除けば、僕らはあまりにもいつもと変わらなくて――これから僕が彼女にしようとしていることを、何かの拍子にふっと忘れさせてしまいそうで。

「あつくん、あつくん。かたは、喉が渇きました」

「よし。じゃあ、少し休憩しようか。僕も一息入れたいと思ってたんだ」

手頃なスペースを見つけて、僕がかたはをそこに座らせる。彼女が腰を落ち着けたのを見届けてから、僕もすぐ隣に座り込んだ。ポケットから<Painkiller>を取り出すと、躇いなく左手を切りつける。手のひらにささやかながら血溜まりを作って、僕はかたはの口元へ左手を持っていった。

「わあ」

「いいよ、かたは。さあ、味わって」

「あつくん、あつくん、ありがとう、ありがとう。いただきます、いただきます」

かたはは僕の作った血溜まりに鮮やかな色をした舌を差し出すと、チロチロと少しまどろっこしさを感じる舌遣いで血を舐め取り始めた。彼女の舌先が僕の手のひらを撫ぜる度に、僕の神経がざらついた柔らかな感触を捉えた。血溜まりの周囲に彼女の唾液が付着して、風に晒され冷たくなっていく。そのすべてに関して、僕は心地よさを感じずにはいられなかった。

血溜まりをすっかり空にしまうと、かたはが僕にしなだれかかって、右手に握っていた<Painkiller>に手を掛けた。お返しをしてあげるというサイン。僕は一切抵抗せず、彼女が求めるままに<Painkiller>を手渡した。彼女は少し危なっかしい手つきで柄を握ると、右手の指先を楽しげに切りつけた。

「ああ――いたい、いたい。きもちいい、きもちいい」

感じ入った声をあげて、指先から血を滴らせる。僕は息を飲みながら彼女の手を取って、指先を口の奥にまで咥え込んだ。舌を絡ませると、滲み出た鮮血を僕のものにしていく。かつてかたはのものだった血、今は僕のものになった血。血は体の奥深くへ潜り込んで行って、一瞬で僕とかたはの境界を失う。僕はかたはで、かたはは僕だ。一体感が僕を支配する。

心ゆくまで互いの血を体内で混ぜ合わせ合って、僕らは再び立ち上がって歩き出した。どこを目指しているわけでもない、目的地なんて有りはしない。今は二人で歩いていられさえすれば、ただそれだけでよかった。歩いて行った先で、今の僕らにとってふさわしい場所が見つかれば、そこが目的地になるだろう。

「あつくん、あつくん。ここ、風がきもちいい」

「うん。少し小さいけれど、なかなかいい広場だね」

少しばかり歩いた先に、僕らは目的地になり得る場所を見つけることができた。木々の林立する森の中にあって、僕らのいる場所は不思議と開けていた。まるでポケットのよう、僕はそんな感想を抱く。あるはずの木が無い、周りとは明らかに異なる異質な場所。とてもとても、浮いた場所。

僕らにはぴったりの場所だった。

「あつくん、あつくん」

「いいよ、かたは。僕の中へおいで」

かたはが甘えた声をあげて僕に抱きつく。僕は腕をいっぱいに広げて彼女を受け入れると、お返しとばかりに彼女を抱き締める。僕の中へ彼女を取り込まんばかりに、僕の内側へ彼女を飲み込まんばかりに、強く強く、強く。

「あつくん、あつくん」

「かたはの中には、あつくんがいっぱい」

「あつくんの中にも、かたはがいっぱい」

「いっぱい、いっぱい、あつくんがいる」

「からだの中を巡り巡って、ひとつの場所にあつまって」

「あつくんの熱、それがかたはのエネルギー」

胸の中にかたはを感じて、僕は思いを巡らせる。

痛みとは、なんだろうか。

(痛みは生きていることのあかしだと、かたはは言った)

痛み。それは僕がずっと忘れていたもの。幼い頃に与えられて、たくさん与えられて、飽きるほど与えられて、本来の意味を喪失してしまったもの。すべての痛みに無自覚になった僕は、生きているのか死んでいるのかさえ判然としないまま、ただ動くことのできる人形、或いは血の通った肉の塊として、この世界に在った。

そんな有様だった僕が、今は生きていることをはっきりと自覚している。僕は今この世界に生きている。もう一度生きている実感を得られるようになったのは、かたはのおかげだ。他の誰でもなく、他の何でもない。紛れもなくただ一つだけ、かたはが側にいるという実感が、僕をもう一度この世に蘇らせた。

(生きることは、痛みを伴うこと)

(痛みが在るから、人は生きている)

痛みを抱いて生きていく。かつて痛みのために社会的に死んだ僕が、痛みを抱いて生きていく。それは一体どんなものなのだろうか。どんなことなのだろうか。

分からない、解らないし判らないけれど、それは僕に必要なことだと本能が告げていた。かたはが呼び覚ましてくれた、僕の眠っていた一部分。生きているから痛みを覚える、痛みを覚えるから生きている。つまり痛みは、生きている実感を持てるもの。生きていることの意味を理解させてくれるもの。

生者には、痛みが必要なんだ――僕はその境地に至った。

(痛みは生きる上で欠かすことのできないもの、切り離すことができないもの)

(すべての痛みを殺すことは、生きることをやめてしまうこと)

かたはを抱き締める。彼女のぬくもりが僕を包み込む、彼女の甘い匂いが鼻をくすぐる。僕は彼女が好きだ。他の何者も及ばないくらい、彼女のことが好きだ。生きている彼女が好きだ。僕の側にいる彼女が好きだ。

こんなにもかたはを好きでいるのに、かたはの命は消えようとしている。脆弱でも赤々と燃えている炎が、形ばかりの作り物に挿げ替えられようとしている。

僕もかたはも、少しも望んでいないのに。そんなあり方など、これっぽっちも望んでいないのに。

(少し前に――かたはは、痛みが欲しいと言った)

(かたはにとってもっとも大きな「痛み」は、なんだろう)

かたはの痛み、それはとりもなおさず僕の痛みにもなり得るはずだった。僕にとってもっとも大きな痛み、僕は今一度それを思い描いてみる。僕にとってもっとも辛く苦しいこと、身が引き裂かれるような思いを味わうことになるもの。

手の中に在る<Painkiller>を握り締める。強く握り締める。とても強く、強く握り締める。幾つもの命を召してきた刃。夥しい量の血を啜ってきた僕の半身。すべてを闇へ葬る光。

<Painkiller>、痛みを殺すもの。痛みに満ちた生を終わらせて、新しい体に生まれ変わる。痛みは拒絶すべきもの、根絶するべきもの、殺すべきもの。<Painkiller>という名前には、すべての「痛み」を完全に否定する、頑ななメッセージが込められているのが分かる。

かたはから聞いたことがある。偶然かはたまた必然か、オーバーライド・キュアの核になるプログラムの名前も<Painkiller>ということを。ポケモンの持てる痛みを根こそぎ殺しつくし、すべての傷病を無に還すという確固たる意志。与えられるものが死か生かというだけで、そこに大きな違いは無い。

僕もかたはも、痛みを拒絶することを是とする家に生まれた。痛みを拒絶して、終わりの無い輪廻や、永劫の命を手に入れようともがき続ける。そんな人々の背中を見ながら、僕らはここまで育ってきた。

(僕は彼らに言われるまま、ただ教義に盲目的にしたがって、たくさんの「痛み」を殺してきた)

その中には――僕自身が受けるべき、与えられるべき「痛み」も含まれている。

(僕はもう一度「痛み」を取り戻したい)

(それが、僕がここに生きている唯一の証左になる)

かたはがくれた「生きている実感」。それは確かな存在感を持っていたけれど、まだ完全ではないことは僕自身が一番よく理解していた。嵌め込むべき最後のピース、埋めるべき最後の一かけら。それこそが、まさしく「痛み」だった。

僕が「痛み」を取り戻すには、捨てなきゃいけないものがある。断ち切らなきゃいけないものがある。

(<Painkiller>)

<Painkiller>、痛みを殺すもの。あるいは、痛みを失わせるもの。

この刃が<Painkiller>として、痛みを殺すものとして、僕の一部として在り続ける限り、僕は「痛み」を取り戻せない。生きている実感を得られない。

僕の手の中に在る<Painkiller>の意味を、変えなきゃいけないんだ。

「――あつくん、あつくん」

かたはが僕の名前を呼んで、そっと顔を上げる。僕は思索を止めて、彼女の目をじっと見つめた。

「あつくん」

「あつくん、あつくん」

「あつくん、あつくん、あつくん」

かたはがしきりに僕の名前を呼ぶ。

彼女の透き通った美しい声が、僕の体内で響き渡って。

彼女が空気を震わせる度に、僕の心が激しく戦慄いて。

「かたは」

僕は、

「かたは」

僕は、

「かたは」

――僕は。

 

「――!」

「……君の願いを、叶えるよ」

 

握り締めた<Painkiller>で、かたはの胸を貫いた。

重ね合わせた胸の間に、熱い血が溢れてくる。赤黒いそれは瞬く間に僕らの隙間を満たして、地面へばたばたと落ちていく。かたははきょとんとした顔を見せて、僕の目を見つめつづけている。

「あつ……くん」

「あつ……くん」

「むねが……いたい……」

震える手で僕の肩に手を置き、かたはが絞り出すような声で僕に言う。作り物の眼は闇夜のように真っ暗で、僕の姿を映し出してなどいない。形だけの瞳は表向きだけ繕っているばかりで、そこから涙を流すことなどあり得ない。

頭でそう理解していても、彼女の仕草は、理屈や理解を軽々と無視するもので。

彼女は――泣いていた。

「二回め……にかいめ……」

「あつくんが、かたはの、中に……」

「これで……さいご……」

僕はただじっと、血を流すかたはの姿を見つめていた。痛みを抱き、痛みに震え、痛みと共にある彼女を、僕の生きている瞳に焼き付けておくために。

これが僕の選択なのだということを、二度と忘れることのないように。

「いたい……いたい……」

「かたは、あつくんの……あつくんのやいばで……つらぬかれて……」

「だいすきな、だいすきな、だいすきな……あつくんに……あつくんに……」

「いたい、いたい、いたい……」

すべてを見透かした瞳で、彼女が僕に呟く。

僕はかたはを殺すことにした。かたはは僕に殺されることになる。僕に生きている実感をくれた唯一人の少女、僕のことを生けとし生ける者の中でもっとも好きだと言ってくれた女性。彼女は僕に殺され、僕は彼女を殺す。

最愛の人を殺し、最愛の人に殺される。

「かたは」

「これが、僕の答えだ」

「僕が導き出した――『痛み』の答えだ」

彼女は何も言わずに、ただ僕から目を離そうとしない。彼女の世界の中で、僕はどのような形で描かれているのだろう。いかなる形であっても構わない、僕が彼女の世界に在るなら、彼女の中で僕が生きているなら。

それだけが、僕の願いだから。

「あつ、くん……あつ、くん」

「かたは、さよならは、いいません」

「この、おわりのない、『いたみ』を」

「この、かぎりのない、『いたみ』を」

「ただ、このむねにいだいて」

「からだをつめたくして、にくをくさらせて、くちてゆくだけ……です」

淡々と淡々と、僕に向けた言葉を紡ぐ。彼女の口調はいつもと変わらない。何も変わらない。ただ、今にも声が消え入りそうになっているだけ。

それはあたかも、彼女の命のように。

「かたは、ずっと」

「あつくんからうけた『いたみ』を、この『いたみ』を」

「わすれずに、ただかたちをかえて、すがたをかえて」

「おわりのおわりまで、いきてゆきます」

「きえない『いたみ』を、いやされることのない『いたみ』を」

「『あつくん』につらぬかれた、この『いたみ』を――ずっと、ずっと、ずっと……」

薄く眼を閉じる。言葉が途切れる。鼓動が静まっていく。

命が、消えてゆく。

「――そうだよ、かたは」

「君はカタチを変えて、ずっと生き続けるんだ」

「僕に躰を奪われた痛みを抱いて、終わりの無い生を続けるんだ」

かたははもう応えない。声を掛けても、手を取っ手も、頬を撫ぜても、すべては無意味で。

「……あつ、く、ん……」

だけど――最後に、最期に。

「……………………」

もはや聞き取ることさえ難しいほど掠れた声で、彼女は僕に――「いきて」と言った。

裸の心は驚くほど無防備なまま、獣の爪で引き裂かれるような痛みを受けて。

「かたは、受け取ったよ。確かに受け取った」

「僕は生きていくよ。『生きて』いくんだ」

「君を喪ったという『いたみ』を、僕の手で君を葬ったという『いたみ』を」

「永遠に味わいながら、この世界で生きていくんだ」

血塗れの最愛の人を、僕はそっと地面に寝かせる。血溜まりに眠る彼女は青白い肌をしていて、この世のものとは思えないほど美しく見えた。彼女以上に美しいものなど、僕は決して見ることなどできまい。これまでも、そしてこれからも、ずっとずっと、永劫に。

鮮血の装束を身に纏った彼女を手放した僕は、意識せぬまま両手を上げて、真正面から掌を見つめる。

(――ああ)

右手も左手も、赤くて、赤くて――ただ、赤くて。

(僕は、かたはを)

(かたはを――手に掛けたんだ)

流れる血を眺めながら、僕は彼女の最期を想った。

 

泥と血に塗れてボロボロになった手と、小さく盛られた土の山を交互に見つめる。

この下には、かたはの躰が眠っている。死装束を身に付けたまま、冷たい土の中に眠っている。

「けれど君は……君の心は、君の『いのち』は」

眠っているのはかたはの躰。彼女の心は、僕の中に在る。未来永劫離れることなく、僕はかたはと共に歩いていく。彼女と見つめ合えない痛みを、彼女と語り合えない痛みを、彼女と触れ合えない痛みを――すべての消えることのない痛みを抱いて、僕はもう一度生きていく。

それが彼女の願いであり、僕の成すべきことだから。

「僕は、かたはと共に生きていく」

「自分の足で立って、痛みを受け入れて、生きていく」

僕は転がっていた<Painkiller>を、そっと拾い上げる。目を閉じ思考を巡らせて、あらゆる記憶に想いを馳せる。

「僕たちは痛みと共に生きていく。だから――」

手の中に在る<Painkiller>。痛みを拒絶するもの、痛みを殺すもの。

すべての痛みを殺したい。僕の親と彼女の親が相反する概念をもって成そうとした、決して交わることのない二つの思想。

継ぎ接ぎだらけの彼女の躰と、血塗れになった<Painkiller>は、まさしくその象徴だった。

「僕たちは歩き出す」

「無数の<いたみ>と<いのち>に満ちた、生ける者たちの世界を」

膝を突いて屈み込み、最後にもう一度天を仰ぐ。

「さあ、お別れだ」

目線を動かした先には、小さな小さな土の山があって。

「――さようなら」

 

「さようなら、<Painkiller>」

 

盛られた土の上に――小さな墓標が突き立てられた。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586