「布袋とアイパッチ」

586

*0*

あたしの隣の席が、うるさい。

「ミノリちゃん、出身地どこなの?」

「はい。セキチクシティです。よくサファリゾーンへ遊びに行ってました」

「じゃあ、最近こっちに引っ越してきたとか?」

「そうなんです。子供の時から、あちこちを転々としてたんです。って、私、今も子供ですけどね」

矢継ぎ早に浴びせられる質問という質問を、ミノリは苦もなく次々に捌いていく。

何回も何回も同じ事を繰り返してきたに違いない。引越と転校を繰り返したって言ってるし、間違いない。

こうやって行く先々で、転校先の生徒に愛想を振りまいて来たんだろう。

「けどその手さあ、いろいろ不便じゃない?」

「これですか? ふふっ、よく言われますけど、意外とそうでもないですよ」

「ビビっちゃうよ、ほんと。これで今までトラブル無かったの?」

「色々ありましたけど、最後はどうにかなっちゃうものなんです」

クスクス笑うミノリの顔が、視界にちらちら映る。

ああ、面倒だ面倒だ。なんだってこんなヤツが、あたしの隣に来たんだ。

今は最悪の気分だ。せめてミノリがあたしの視界の片隅にさえ入らないようにしないと。

やってらんないとばかりに、窓の外へ目をやった。

 

*1*

夏休み明けに転校生がやってくるなんて事は、どんな学校でだって大して珍しいことじゃない。

「紹介します。今月からこの学校へ通うことになった転校生の、カタギリ ミノリさんです」

「皆さん、初めまして。先生からご紹介に預かりました、カタギリ ミノリと言います。よろしくお願いします」

そう。転校生が来ること自体は、何も珍しいことなんかじゃない。

転校生がただの地味君やネクラちゃんなら、という条件が付くけど。

「あの……カタギリさん。一つ質問いいですか?」

「はい。なんでも訊いてください。あっ、プライバシーに関わることは、出来れば個別でお願いしますね」

「えっと、思いっきりプライバシーに関わりそうなんですけど……いいや。左腕を袋に入れてるのは、なんでですか?」

「これですか? やっぱり気になりますよね。先生、少しお時間をいただいてもいいでしょうか」

「いいですよ。クラスのみんなに説明してあげてください」

キャラ的には真面目、けどちょっと天然入ってるくさい。取り立ててなんか目立つようなことがあるかって言われたら、性格的には何も無さげ。

ミノリの問題、っつーか特徴は、あたしの二個斜め前に座ってるトモヤが訊ねた「左腕」だった。

左腕を茶色い布袋に突っ込んでる。しかもやたら長くて、先っぽが床に届くか届かないかってくらいはある。これがただ事じゃないのはまあ間違いなかった。布袋に左腕を突っ込んで登校してくる女子なんて普通は居ない。たくさん居たらきっと困る。

「実は、私──」

脱いだらすごいんです、とばかりに、布袋から左腕を引っこ抜く。

「よいしょっ、と」

完全に布袋を外したミノリの左腕を目にしたクラスメート一同が、なんだあれとざわざわ騒ぎ始める。目を見開くヤツもいたし、今時珍しい、口に手を当てて身を引くポーズをしてる子もいる。

「カタギリさん、左腕が……!」

「はい。見ての通り、ストライクの鎌、なんです」

ミノリの左腕は、ぎらぎらとやばそうな光を放つ、ストライクの鎌だった。

「カタギリさんは生まれつき左腕が人間のものではなくて、ストライクのものなんです。けれど、他に皆さんと変わったところはありません」

だから気にするなって? いやそりゃ無茶だろ。左腕がストライクの鎌って時点で十二分におかしいって、普通は思う。

どこからどう見たって普通なわけがない。常識に染まった人間が、すっと受け入れられるようなもんじゃない。

「ちょっと変わった子だってよく言われますけど、精一杯頑張りますので、皆さん、改めてよろしくお願いいたします」

変わった子って普通ちょっとトンだ性格の子に貼られるレッテルで、一般的に見てぶっ飛んだ形の腕の子にはあんまり噛み合ってない気がするぞ、あたしは。

まあどっちにしたって面倒な転校生なのは事実。なるべく関わり合いになりたくない。あたしは現状維持の方が大事。知らんふり知らんふり。

「皆さん、仲良くしてくださいね。ではカタギリさんには、空いている座席に座ってもらいましょう」

空いてる座席。そうそうたくさんある訳でもない。今はどこが空席だっけ?

ああ、思い出した。

「あそこですね。向こうの窓際にいる、ミタカさんの右隣へ座ってください」

「はい、ありがとうございます」

あたしの隣だった。

「ミタカさん。隣、座らせてもらいますね」

「……どーぞ」

めんどくさい。実にめんどくさい。とてもとてもめんどくさい。とてもかける無限大めんどくさい。

今この瞬間も面倒だったし、そしてこれから暫く面倒な事が続くと思うと、それだけでめんどくさくなった。

「ミタカ……えっと、ゼロカさん、ですか?」

「”ゼロ”じゃなくて”レイ”。レイカって読むの」

「あっ、そうだったんですか。すみません、私漢字が苦手で、よく読み間違えちゃうんです」

ため息一つ吐き出して、左サイドの窓の外いっぱいに広がる青い空に目をやる。

おい、神様とかいうやつ。あたし面倒な事が嫌いなんだけど。分かっててやってんのか。なんだってこんな面倒なやつを隣によこすんだか。あたしは面倒な事が嫌いだって毎日毎日念じてるってのに、人の話くらい聞いたらどうなの。

同じ”かみ”でもペーパーの方が数億倍は役に立つよ、マジで。

「レイカさん、って呼んでいいですか?」

「……ご自由に」

もう目を合わせるのさえ面倒。呼びたきゃ勝手に呼んで。

応えるかどうかは、あたしの気分次第だけど。

「あっ、レイカさん。右目、どうかされたんですか?」

「どうもしない」

ほら、やっぱり面倒な事になったじゃないか。

朝から実にかったるい気分。頭が痛くなる思いがして、思わず右目を抑えた。

 

*2*

いつの世の転校生も同じように、ミノリもこの学校的な意味でのセンパイ方から質問攻めに合っている。

「これでどうやってご飯食べてるの?」

「スプーンやフォークを使ってます。お箸はどうしても苦手で……うまく持てないんです」

「へぇー。大変だね」

「お気遣いありがとうございます。けれど私、食べるの好きなんです」

「この腕でさ、小学校の時とか運動とかできてたの?」

「えっへん、体育は得意でした! 徒競走はいつも一番でしたし、幅跳びもすごく飛べるんです。ただ、登り棒には登れなかったのと、水泳は左腕に塩素が染みちゃうとダメでしたので、夏場はプールサイドの常連でした」

布袋を被せた左腕に右手を添えつつ、笑顔で質問に応じるミノリ。

やっぱ慣れてるんだろうね、こういうのに。

「あと、ソフトボールの時は、グローブをした手で投げてもいいって特別ルールを作ってもらったりしたんですよ」

それ、単に付けたり外したりで手間取ってるのを見かねて、お情けで言ってもらっただけじゃん。

しかしまあよく笑顔で応対できるもんだ。あたしだったらそろそろ営業スマイル取り下げて一発机蹴ったりするぞ。

「飛行機とか乗れるの? 持ち物検査で引っかかるんじゃない?」

「私もそう思ってたんですけど、事情を説明したら乗せてくれました」

「シートベルトとか締めれるの?」

「はい。ちょっとコツが要りますけど、こう、ぐっと力を込めて……」

わいわい、がやがや。わいわい、がやがや。騒がしいことこの上ない。

貴重な貴重な休み時間が、隣のぶっ飛び転校生のおかげでもう台無し。十分間何もせずにボーっとするための大事な大事な時間だってのに。

「レイカったら、何いつも通りぶすっとしてんのよ」

「うっさい。いつも通りで何が悪いっての」

「せっかく隣にミノリちゃんが来たんだからさ、今日くらい笑顔笑顔」

「一時間二千円なら考えてやってもいい。マックを引き合いに出したら潰す」

「ないない。最低賃金上回り過ぎだし。相変わらず愛想無いわねー」

「愛想振りまいてお金くれるんだったら一日中やるけど」

「守銭奴ー。お金なんて貯めても地獄には持ってけないんだよ?」

「なんで地獄行き前提で話してんのさ」

「いいじゃんいいじゃん。仏頂面はこんくらいにして、レイカもミノリと話しようよ」

「興味ない」

「どうしてよー。転校生だし、左腕あんなだし」

「興味ないったら興味ない。左腕がああだこうだ。だから? って感じ」

あたしとミノリで話そうだって? 何言ってんだか。興味の無いことになんで首突っ込む必要があるっての。

日がな一日ヤることしか興味のない中坊に、ドヘタクソなプレゼンしかできないジジイがマルクス経済学を教えるようなもんだ。

「てかさ、レイカって毎日アイパッチしてなくない? 気のせい?」

「うっさい。アイパッチの話はしないって決めてんの」

「どうしてよー。いいじゃん、話くらい」

「一回一万円」

「いけずー。そんなんじゃお嫁にいけないよ?」

「婿貰う」

「本気で言ってんなら、よっぽどのドMを探さなきゃね」

頼むから放っといてくれ。特にアイパッチの話はしないでほしい。話すことを考えるのさえかったるい。

結局今日の休み時間は昼休みも何もかも含めて全部、ミノリを中心にわーわー騒ぐばかりだった。

憂鬱だ。

 

*3*

飽きもせずによくやるもんだ。少なくともあたしはそう思う。

「ねえミノリちゃん。せっかくだからさ、それで何か斬って見せてよ」

「ごめんなさい! 母から、学校にいる間は腕を袋から出しちゃいけないって言われてるんです」

「そりゃあ、抜き身で包丁持ってるようなものだしなあ」

「包丁は刃の部分を持てばいいですけど、私の場合は持ちたくても持てませんからね」

あたしが「何か斬って」って言われたら「じゃあまずズボンのチャック下ろせ」って返すだろうに。

あのなあ、考えてみろよ。わざわざ袋に入れてるような危なっかしいものをわざわざ出せとかさ、お前アホだろ。ミノリの立場を考えろよ。小学生じゃあるまいし。

小学生に失礼か。

「これって生まれつきって聞いたけどさ、だんだん大きくなってったわけ?」

「そうです。生まれてすぐは果物ナイフみたいな大きさだったんですよ。母がよく、ミノリは私の体を切って出てきたのよー、って言うんです」

「えっ、お母さんのお腹を切って、それで自分から外へ……?」

「ふふふっ。違います、帝王切開だったみたいなんです。切ったのは切ったけど、お医者さんが切ったんです」

「なーんだ、そういうことか」

ああ、これいつまで続くんだろ。マジかったるい。うんざりしてくる。

ミノリもくだらない質問なんてさっさと断りゃいいのに、律儀にご丁寧に一個一個ちゃんと相手してやってる。訊く方も訊かれる方も、馬鹿ばっか。

あたしには関係ない。ミノリに興味なんてないし、ミノリとあたしは全然違う。別世界の人間だ。

「家どこにあるの?」

「何回転校したの?」

「ポケモンには怖がられたりしない?」

昨日に引き続いて今日の午前中もずーっとこんな調子で延々続いて、隣のあたしは見飽きた空に目を向けるしかなかった。

おい空、たまには緑とかそんな色も見せろ。青色赤色灰色の三択しか無いとかつまんねーぞ。

 

*4*

ぶわーっと髪が揺らされて、ばたばたばたと耳元で音が聞こえる。割といい風だ。すっとする。

お昼ご飯の焼きそばパンをさっさと押し込んだあと、教室を抜け出して屋上へ向かう。なんか立入禁止らしいけど、鍵も開けっ放しだし知ったこっちゃない。

教室にいると体までだるい感じがして来そうだった。屋上で時間を潰して、授業が始まるギリ手前くらいで戻りゃいいだろう。先生来るのだって、どーせいつも通り三分遅れくらいだろうし。

しかしあれ、いつまで続くんだ。隣がうるさいのは勘弁して欲しい。ミノリだって面倒だろうに。

「大体、なんで左腕がストライクなんだか」

どう考えても不便そうだってのに、ミノリは平然と日常生活を送っている。それがまた違和感バリバリなのがなんとも言えない。よくあれで作図とかできるなー、って思う。

盗み聞きしたというか勝手に隣から聞こえてきた話だと、どうやら父親の方が人間じゃなかったようで。生まれてきたのは仮面ライダーに出てくる怪人の作成途中みたいな娘だったけど、大事にしてもらってますとのことだ。

でも相手がストライクってことは、あれなのかな。ミノリ母は蟲姦趣味だったりするのか。うわあ、濃い。お昼ご飯の後にする想像じゃない。胸やけしてくるっての。

まあ何かが歪んでるのは間違いない。人とポケモンの合作なんて、ロクなもんじゃない。 ホントにロクなもんじゃない。

「……かったるい」

「レイカさん、どうかしましたか?」

「お昼ご飯直後に胸やけする想像をした」

「それはつらいですね。お昼ご飯のあとは安静にして、お腹が消化し終わるまで休んだ方がいいんですよ」

「しれっと混ざってるけどさ。ミノリ、あんたどうしてここに」

噂をすればなんとやら、ってか。気がつくと、隣に例のストライク女子が立っていた。

布袋を被せた左腕を錆だらけの手摺りの上に置いて、遠くの風景を眺めている。左腕が鎌でもなきゃ、まあまあ絵になる構図だろう。前提条件を覆す方法が無いけど。

「私、こうやって風を浴びるのが好きなんです。気分も晴れますし」

「そりゃどーも。じゃ、あたしはここで失礼」

「あ、ちょっと待ってください」

「何さ」

「今見たら前歯に青のりが付いてました」

「えっ、ちょ、マジで」

「はい。マジです」

やべえ。後で歯を磨かなきゃ。さすがにそれは恥ずいぞあたし。一応生物学的には♀に分類されてんだから、歯に青のりは不味すぎる。

「焼きそばパンを食べてたのを見ました。私も好きです、焼きそばパン」

「あたしはからあげパンの方が好き」

「ふふっ、そっちもいいですね。私、食べるの好きですから。母は私が食べやすいようにって、いつもおむすびをメインにして、ミートボールと卵焼きを入れてくれるんです」

「小学生のお弁当じゃん、それ。大体なんでミートボールなのさ」

「フォークを使うときに、食べやすいからです。卵焼きもそうですし、あと、今日は茹でたにんじんも入ってました」

ますます小学生のお弁当だ。しかもどっちかっつーと男子向けの。

「普段からお昼はパンなんですか?」

「八割パン。二割は食べない」

「お昼を抜くのは、却って太る原因になりますよ?」

「いいし、別に。いつも標準体重切ってるし」

身長は普通、体重は痩せ型。取り立てて何かがおかしいってことはない。身体測定はいつも空気みたいなイベントだ。

ある一つを除いては、だけど。

「レイカさん」

「何さ」

「レイカさんは、私に興味を持たれないんですか?」

「どういう意味よ」

「ほら、私、こんな腕ですから。みんな興味津々で、いろんなことを訊いてくるんです」

「あたしあんたの隣だから、それはよく知ってる」

「そうですよね。けど、レイカさんは皆さんに混ざらずに、ずっと空の方ばかり見てますから」

見てたのか、あたしのこと。

「興味ないし、別に。左腕がそんなだからって、それだけがあんたの、カタギリミノリって人物のすべてってわけじゃないでしょ」

「左腕だけが私じゃない、そう、思ってるんですね」

「別にいいじゃん。どう思おうと、あたしの自由だし」

ミノリは左腕だけで生きてるわけじゃないってのに、そこが分かってないヤツが多すぎる。

左腕がストライクだから、なんだって言うんだ。

「じゃ、あたし行くから」

「はい。また、教室で会いましょう」

屋上にミノリ一人を残して先に階段を降りていく。

ああ、ダメだ。なんっかモヤモヤする。あいつと、ミノリと話すと、それだけでモヤモヤする。不快なんだかくすぐったいんだか、どっちにしろスッキリしないものが残ってる感じがする。

もう決めた。五限と六限は居眠りしてやる。ぜってー起きねえ。決めたったら決めた。

決めたったら、決めたんだ。

 

*5*

さんざん時間を潰してから、便宜上、あたしの家と呼ばれている場所へ帰る。

できるなら寄り付きたくない場所。けど、着替えはここにしかないし、シャワーも浴びなきゃいけないし、体を横にして眠れるのはここくらいしかない。

つくづく最悪だ。

がちゃり。鍵を開けて中に入る。よっしゃ、誰もいないぞ。あいつらのどっちがいても最悪な気分になるだけだし、いいこといいこと。

階段をさっさと駆け上がって部屋へ飛び込む。カバンをベッドにぽーんと放り捨てて、そのままあたしの体も投げ出す。

「……寝る前にシャワーだけ浴びとこうかな」

うとうとして眠りに落ちる多分三歩手前くらいで、シャワーを浴びてないことを思い出す。なんか体もベタついてる気がするし、シャワーだけでも浴びておこうか。

ああ、それにしても鬱陶しい家だ。ホント、何もかもが鬱陶しい。大学行ったら絶対一人暮らししてやる。なんとかしてここから出てってやる。本当にロクなもんじゃない。

何? あたしのことを考えてるって? あたしのためを思ってやってるって? はぁ? 馬鹿も休み休み言えよ、あのクズども。結局あたしをダシにして、自分の都合のいいように人生回したいだけじゃねえか。

馬鹿1は自分と一緒に田舎へ引きこもろうってほざいてる。馬鹿2はあたしを客寄せパンダにして人権がどうのとか並べてる。まとめて地獄に落ちろ。あたしはあたしで、お前ら馬鹿どもの道具じゃねえんだ。

あたしは普通に生きたいだけなんだ。

さっさとシャワー浴びなきゃ。ああでも体起こすのめんどい。マジ億劫。このまま布団と結婚したい。

ゴロゴロしながらうだうだやってると、下で何やら物音がした。

「……馬鹿2が戻ってきやがった」

馬鹿2。別名・ミタカミハル。ええっと、なんだ、あの、お役所で管理してる書類。そうそう、戸籍謄本。戸籍謄本の上だと、あたしの母親ってことになってるそうだ。母親ってあれ? 子供に首輪引っ掛けて連れ回す役目の人? まあそんなところっしょ。

うわあ、一階で馬鹿2が叫んでやがる。やれ私は間違ってないだの、平等な世界の実現のためなのとか。マジで知ったこっちゃない。どうせまたくだらないことでお仲間とやり合ったに違いない。ゲバ棒で殴り殺されればいいのに。

考えてみろよ。同じ惑星の同じ国の同じ地域で同じ言葉を使う相手と意思疎通できてねえんだぞ。そんなんで地球の裏側にいるやつとコミュニケーションなんてできるわきゃねえだろ。

考えるための脳味噌もないのか、あの馬鹿は。

やめだやめだ。あんな状態でシャワーなんて浴びにいけるわけが無い。さっさとこの世界からおさらばして、夢の世界へ引きこもらなきゃ。

れいかー、れいかーっ。下で呼んでやがる。うっさいんだよクソババア。あんたに呼ばれて部屋から出てって、ロクな事があった記憶が無い。喉引きちぎってミキサーに掛けんぞ。

大方グループの中で言い合いが合って、あたしに愚痴ろうとかその程度のしょっぼい魂胆しかないのは分かってるんだ。あんたはあたしを自分の理解者だとか思ってるだろうけど、あたしはあんたのことなんかこれっぽっちも理解してない。いい加減分かれよ。あたしが部屋から出ていかなくなってもう何年になると思ってんだ。

あんたの時計が止まってようが、あたしの時計は休まず動きつづけてんだよ。

ああもううるさいうるさいうるさい! あいつの叫び声を聞いてると頭がガンガンして痛くなってくる。誰か通報してくれ。そのまま檻にぶちこんで二度と出さないでくれ。

頼むから一人にしてくれ。

布団を頭の上まで引っ張ってすっぽり覆い隠して、家が静かになるまでひたすら耳を塞いだ。もうあんたの声は聞きたくないんだ。

アイパッチの下の右目が、ずきずきと痛んだ。

 

*6*

目が覚めた。

だるさの残る体を無理やり起こすと、家の中が再び静かになっていた。あいつはお仲間のところへ出掛けて行ったか、疲れて寝たんだろう。出てったんなら二度と戻ってくんな。寝たんなら二度と目覚めんな。

これ幸い今のうちとばかりに服を脱いでシャワーを浴びて、下着を替えてもっかい制服を着る。床へ転がり落ちていたカバンを拾って、これで準備完了。

こんな辛気臭い場所に長居するのは真っ平御免だ。

いつもの通学路を抜けて校門を潜って靴を履き替えて教室へ入る。時刻はまだ七時四十分とかそんなん。言うまでもなく誰も登校なんてしてない。あたし以外は。

静かな教室。窓を開けると、まだ朝の冷たさの残る風が吹き込んでくる。いい気分だ。この時間は大切にしたいとつくづく思う。

カバンを開けて中をごそごそ。取り出したのは紙カバーを掛けたままの文庫本。どこまで読んだっけとぱらぱらページをめくって、途中で栞の挟まったページに出くわした。ここだここここ。

「さてさて」

床にどんとカバンを下ろして机に肘を置く。本を読む体勢が整った。

あたしは本を読むのが好きだった。こうやって本を読んでいる間は、本の世界に一人で没頭できる。誰かに干渉されることもない。誰かに気を遣う必要もない。

一人でいれば、傷つくことも傷つけられることもない。

「何をお読みになってるんですか?」

「筒井康隆自選短編集『鍵』」

「わあ、ずいぶん怖そうな本を読んでるんですねっ」

「なんであんたがここにいるの」

「どうしてって、登校してきたからですよ」

ちょっと待て。またお前か。

「学校来るの早すぎ」

「それを言ったら、レイカさんの方が早いです」

「それは除外。あたしは早く教室に来たいから例外なの」

「ずるいですよ、それ。私も朝は早い方がいいですから」

ミノリは右手に提げたカバンをフックに引っ掛けると、静かに席に座った。言うまでもなく、あたしの隣だ。

面倒なのが来ちまったよ。さよならあたしの朝の穏やかな時間。

「お願いだから本読ませて。この時間の読書があたしの数少ない楽しみなの」

「大丈夫ですよ、レイカさん。私、隣で静かにしてますから」

隣でニコニコするミノリを横目で見つつも視線を本へ戻す。静かにするという言葉通り、ミノリは喋るのをピタリと止めて、カバンから黙々と教科書とノートを出していく。

ミノリの左腕にはいつもの厚手の布袋が被せられている。ぱっと見ただけでかなり頑丈そうなのが分かる。あれくらいごつい袋に入れなきゃ、鎌が袋を破いちゃうのかも知れない。重そうだし大変そうだ。

腕を机の上に置いた。関節に沿って腕を折り曲げてる。いつも真っ直ぐにしてなきゃいけないって訳でも無いらしい。どっちにしろ疲れそうだけど。やっぱり肩凝ったりするのかな。てかどこまでがストライクでどこからが人間なんだろ。腕の付け根の辺りっぽいけどよく分からん。

教科書はまあ当然っちゃ当然だけど、ノートも同じくらい真新しい。あたしと違ってキッチリ整理してるみたいだ。でもさ、別にいいじゃん。どうせ来年になったら大体捨てちゃうんだし。大切にしたって意味なんて無い。

やっぱあれなのかな。怒ったりしたら腕振り回すのかな。そりゃちょっと怖い。あたしはいつもぶすっとしてるから却って「怒っても怖くない」って言われるけど、ミノリがマジギレしたら超ヤバそうだ。左腕がガチで真紅に染まるぞ、きっと。

「あの、レイカさん」

「こら。静かにしてるって言ったじゃん」

「それはそうですけど……その、ずっと見られてると、ちょっとこそばゆいです」

「えっ、あれっ」

「もしかして私の顔、何か付いてたりします?」

キョトンとするミノリ。一方あたしはタジタジ。無意識のうちにミノリに目を向けていて、じーっとガン見していたらしい。ああ、くそっ、右目がアイパッチで塞がってるから、左目でものを見るクセが出たんだ。左目で見ようと思ったら首をだいぶ右に向けなきゃいけないから、ミノリからしたらガン見されてるようなもんじゃないか。

マジ鬱陶しい。ミノリじゃなくてあたしの右目が。何だってこんなことになったんだか。アイパッチなしじゃろくすっぽ外を出歩けもしない。友達相手にいちいちごまかすのだってかったるい。何もいいことなんか無い。

本気でもっかい生まれ直したい。

「……何も付いてない。大丈夫だ、問題ない」

「ふふっ、ありがとうございます。ちょっと、ドキドキしちゃって」

「あたしに見られて?」

「教室に他の方はいませんから。気にしないでください」

なんだろうなあ。なんなんだろうなあ。

微妙によく分からない。ミノリが何を考えてて何を思ってるのか。そりゃあ見られたままじゃこそばゆいだろうけどさ。

「レイカさんは……私のこと、興味が無いって言ってましたよね」

「そりゃ変わらない。興味なんて無いし」

「変わりないみたいですね。でも、おかげで落ち着きます」

「落ち着く?」

「はい。他の人は、みんな私に興味を持ってしまいますから」

「そりゃ、そんなんだしね。普通じゃありえない」

「私も、そう思います」

「けどあたしは興味ない。ミノリの腕なんて、ただの身体の特徴じゃん」

「身体の特徴、ですか?」

「腕がストライクの鎌だとかさ、背の高い低いとか顔の大きい小さいとかアレの長い短いとかの身体の特徴と同じようなもんでしょ。生まれつきなんだったら、尚更どうしようもないじゃん。そんなんであーだこーだ言うのって、馬鹿みたいだし」

そういうもんだとあたしは思う。

大体、人間なんて探せばどっか一つくらい他と違う箇所があるもんだ。身体になくたって脳味噌に違いがあるのは絶対に間違いない。何もかもが普通ってのはあり得ない。そりゃ普通じゃなくて、そいつが変わってるんだ。

だからそれを殊更喚いてあいつはこれが違うこの子はここが普通じゃないとか言うのがそもそも馬鹿馬鹿しい。天才野球少年でずば抜けて野球ができるとかならちゃんと言って伸ばしてやりゃいいけどさ、そうじゃないただの身体的特徴をぐだぐだ言う方がどうかしてる。

ましてやミノリはストライクの鎌が欲しくて生まれてきたわけじゃない。生まれつきのものをどうにかするなんて無理な相談にも程があるだろう。それを取り立てて騒いだところで、何の意味もない。ただの馬鹿だ。

「……ありがとうございます。レイカさん」

「えっ、いや、何でお礼なんか」

「今まで、そんな風に言われたことなかったんです。ですから、ああ、言われてみると、って思ったんです」

「別に、何かありがたいこと言ったわけじゃないし」

恭しく頭を下げるミノリにあたしはますます戸惑う。いやなんでそこでお礼言うの、ってかそういう目的じゃなかったんだけど。

じゃあ何で言ったかって? そりゃ──

(……なんでだっけ?)

……どうしてだろう?

「と、とにかくさ。質問とかされるの面倒くさかったら、断ったりしてもいいんだよ、別に」

「慣れてますから、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「いや、えっと、あ、あたしが隣でうざったいの! そこ勘違いしない!」

「あれ? 私、何か勘違いしてますか?」

もういい、黙秘だ黙秘! 刑事訴訟法万歳!

ああ、もう、調子が狂う。何もかもうまくいかない。ミノリと話すときだけ、何か歯車がかみ合わない。中でがたがた言って、言いたいことと違う言葉が出てきちゃう。

よく分かんない。何がどうなってんだか。

「そういえば、今日は購買でからあげパンを売ってましたよ」

「えっ、ちょっ、マジで」

「はい。マジです」

しまった、今日朝購買寄り忘れた、てか朝ご飯もお昼ご飯も買ってないのを今更思い出した。

「まだ在庫がありましたから、今のうちに買いにいけばきっと間に合います」

「よっしゃ待ってろあたしのからあげパン!」

財布をポケットに突っ込んで、教室からダッシュで出て行く。

朝から行動が全体的におバカな男子っぽくて、購買まで走りながら自分で自分にガン萎えするばかりだった。

 

*7*

あれから……あれじゃ分かんないか。ちゃんと言うとミノリが転校してきてから、あっという間に二週間が経った。

ちゃんと聞いてるのかろくすっぽ聞いてないのか自分でも分かんないまま六限が終わって、下校時特有のまったりした空気が流れ始める。最近時間が流れるのが早え。あたしも歳食ったんだなあ。

してあたしはどうかと言われると、まだ帰る気なんてさらさらない。学校に残れるだけ残って、その後寄り道できるだけ寄り道して、眠くなったら嫌々だけど家に帰る。あの家にいるのは一秒だって短くしたい。

とまあそういう理由で学校の中をほっつき歩いて、さてどこで時間を潰そうか。そうだ顔見知りが部長をやってるパソコン室へ行こう。いぇい、タダでネットができるぜいやっほい。ネカフェは費用対効果がイマイチだと思うの、あたし。

「こんちはー」

「レイカじゃない。まーた暇つぶしに来たんでしょ?」

「違う違う。高度情報化社会に備えたインターネットスキルを磨くためのトレーニングに来たのよ」

「高度情報化社会とかもう完全に死語だよ。結局ネットしに来ただけだしさ。ま、いいや。いつも通り好きに使って」

「ありがたやありがたや」

部長さんの承認もきっちりもらったし、準備は完了。隅っこの座席に陣取っていざ電源ON。スターティングウィンドウズなんちゃらかんちゃら。この黒い画面が消えるまでが微妙に長いのよね、ここのパソコン。

カバンに突っ込んであったフリスクをシャカシャカ二個取り出して口へ放り込む。なんかイメージほど口も頭もすっきりしないんだけど、でもなんかクセになるこの味が好きだ。今日はどうしようか、よし、決めた。噛もう。がりっ。鈍くていい音だ。

口の中に残った体感的に微粒子レベルのフリスクを舌でざらざらやってたあたしは、遅ればせながら前の方に男子が一人座ってるのを見つけた。誰だっけ、背格好に見覚えあるけど思い出せない。

「ちっ、あーもうマジきもい。なんなんだよマジで」

「何で俺があいつらと一緒にやらなきゃいけねえんだよ」

「マジ鬱陶しい。ああホントにきもい。何あいつら」

ぶつぶつぶつぶつ、ディスプレイにメンチ切りながら呟いてる。うわあ、これはヤバい。率直に言ってお前の方がキモいって誰か優しく言ってやれよ。あたしは面倒くさいからパス。

思い出したぞ、あいつヨコカワだ。ヨコカワタカアキ。自分のクラスにいるネクラ君だ。なんか前にも教室かどっかで独りでぶつくさ呟いてたのも一緒に思い出した。そういうキャラだったよ、あいつは。

ヨコカワの一番面倒くさいところは、ぶっちゃけ大したことないのに自分は特別だとかよくできるヤツだとか勘違いしてるところ。班で何かやっても大抵腕組みしたまま何にも言わなくて、意見がまとまり掛けたところに割って入ってきて禁句の「そもそも」から始まる演説で合意をひっくり返そうとする。で、うざいから大体スルーされて、「僕はこんなにできるのにこいつらは無能だから分からない」的態度でヘソを曲げる。絶対チームにいてほしくないキャラだ。

聞いた話だと元々トレーナー志望だったけど、家の理由でトレーナーになれなかったとか。そのせいで今の知恵の輪みたいに歪んだ性格になった──てなエピソードがあるみたいだけど、あたしの家も大概歪んでる自信あるぞ。おい、誰だ。あたしも十分歪んでるとか言ったのは。

閑話休題。そんなんだから友達もこれっぽっちもいなくて……というか、同級生全員を見下してるから、そもそも友達なんて存在しないんだろう。どこからそんな自信が湧いてくるのか知りたい。

こいつパソコン部だったのか。今まで鉢合わせしなかったのは運がよかったに違いない。あ、いや、いたけど単純にナチュラルスルーしてたのかも。あたしの面倒くさいことセンサーは優秀だし。

なんかグチグチ言ってるけど、ほっといて時間つぶし時間つぶし。

五時半。さっさと帰れと言わんばかりの校内放送に背中を押されてパソコン室を出る。ヨコカワはとっくに出てったみたいでもう姿はない。職員室の隣を抜けて下足室に近い階段へ行こう。

「C組の、カタギリさんでしたっけ」

「そうですね。左腕がストライクの鎌になってる」

職員室の前で先生方が二人。ぼそぼそ小さな声で話しているのが見えた。

話の内容はと言うと。

「大丈夫なんですか、受け入れてしまって。危なっかしいじゃないですか」

「私も同じ気持ちです。このご時世ですから、何かあっては一大事です」

「そうですよねえ。何かの拍子に他の生徒に怪我をさせるようなことがあっては、学校の危機です」

「校長は多様性の尊重といいますが、それでもあの腕は危ない。今に新聞沙汰になりますよ」

転校してきたばかりのミノリは、一部の先生方に危険人物扱いされている。大雑把に言うとそんなところ。

まったくもって、聞きたくない話だった。

「我々の生活もかかっているのですから、厳正に対処しましょう」

「同意します。しっかり見ておかないと」

横をすっと通り過ぎて、早足で階段を降りる。これ以上耳に入れると耳が腐る。鼓膜が敗れる。脳が死ぬ。

ミノリが何をしたってんだ。あのクソ馬鹿ども。

新聞沙汰? なりゃいいじゃん。私たちはこんなに馬鹿なんですよおって全国にアピールできるぞ。狭量で器の小さい馬鹿ですよおって。ホントに馬鹿だ。

もしミノリがお前らの言うように危ない奴なんだったら、もうとっくに化けの皮が剥がれてるだろ。実物見てみろよ、自分の目かっぽじってちゃんと見ろよ。目かっぽじって失明しろ馬鹿。

今日だってそうだ。ミノリは掃除当番に当たってて、教室で箒持って掃除することになった。右手しか使えないのにどうすんだろって見てたら、右手で箒握って左腕で抱え込むようにしてうまい具合に箒を使ってた。見た目はちょいぎこちなくて違和感はあったけど、でもミノリは真面目に掃除をしてたわけだ。

お前らがお小言を言う相手はミノリじゃなくて一緒に掃除当番に当たってた別の連中だろ。あいつらほとんど何もしないでどっか行きやがって、ミノリ独りだけで掃除してたのあたし見たぞ。

どっちが間違ってんのか、お前らには分かんないのか。

「……面倒くさい」

ああもうだめだだめだ。ミノリが絡むと何だかうまく考えらんない。勝手に頭がカーッとしてくる。冷静さがどっかに吹っ飛んでっちゃう。

だから嫌だったんだ。だから、ミノリがあたしの隣に来るのは嫌だったんだ。

変わらないはずのものが、変わっていくような気がするからだ。

 

*8*

布団に入っても寝付けないなんてことは珍しくない。鍵の掛かったドアの向こう、あたしの知らない超空間にある異次元の別世界で、馬鹿1もしくは馬鹿2のどちらかが泣いたり喚いたり怒鳴ったり発狂したりしてるからだ。

けど今日は違う。自称父親の馬鹿1も母親失格の馬鹿2もどっちも出払ってる。おかげで家の中は死んだようにしんと静まり返っている。普段なら最高に幸せな気分で速攻夢の世界へ引きこもれるのに、今日に限ってちっとも寝付けない。

それもこれも、みんなミノリのせいだ。

ミノリの腕が危ないとかどうとかほざいてたクソつまらない噂話を聞いてから、もう十日くらいになるっけ。そんな今日の三時間目、リーディングの授業中に起きたことだ。

講義を聞いてるふりだけしながら、窓の外からぼーっと空に目をやる。なんかあたし、暇さえあれば空を見てる気がする。仕方ない。左目を開けてると空が目に付くからだ。

あたしの右目はいつも塞がってるから、視界がどうしても左に偏る。とっくに慣れたけど、おかげで距離感をつかむのはめっきり下手くそになった。朝なんて目覚まし時計を止めようとしてしょっちゅう空振りするし、飛び出る系の絵とか動画は全然見えない。ニンテンドー3DSとか遊べたもんじゃない。

まあいいや、それより続き。早く昼休みになんないかなーって思いながらぼけーっとしてたんだけど、ふと足元で小さく何かが跳ねる音が聞こえた。ごく小さな音だったから聞き逃したって不思議じゃない。けどその時は確かに、何か音が聞こえたのが分かった。

なんだろう。そう思って視線を右へ向けると、あたしのお隣の方が気まずそうに、口元へ右手を当てていた。

わざわざ言うまでもなく、ミノリのことだ。

ミノリの目線は下を向いている。それもあたしの足元の方向、つまりミノリからは向かって左側に当たる場所だ。つられてあたしも目をやると、そこにミノリが使っている消しゴムが転がっていた。

講義を聞いている最中、ミノリはうっかり消しゴムを床へ落としてしまったらしい。しかも落とした方向が悪くて、ものを拾うのにはまったく使えない左腕の方へ転がってしまった……というとこみたい。あるある。

ミノリは困っているみたいだった。右側に落ちたなら、融通の利く右腕を伸ばしてさっと拾ってしまえるけれど、左側だとそうは行かない。右手で拾うためには立ち上がらなきゃ届かない。けど、授業中に立ち上がったりすると面倒なことになる。それが分からないほどミノリだって馬鹿じゃないだろう。

あたしはちらちら目線をやってどうすべきか逡巡しているミノリを見ていたけれど、ふっと身体が動いて、気がつくと──

「これ、あんたのでしょ」

「えっ?」

足元に落ちてた消しゴムを拾い上げて、ミノリに差し出していた。

彼女の代わりにあたしが拾った、というわけだ。

「あの、これ……」

「見えてたって。ミノリが消しゴム落として困ってたの」

「……はい、私のです。すみません、レイカさん」

「そっち側じゃ拾うの面倒だろうしね。もう落とさないようにしなよ」

どうして拾ったのかは分からない。無意識のうちに消しゴムを拾い上げていて、意識がはっきりしたときにはもうミノリに消しゴムを手渡していた。

(あたし、なんでこんなことを?)

まったく意識せずに消しゴムを拾っていた自分に戸惑う。消しゴムを拾うこと自体は別に大したことでも何でもない。落ちてれば拾うことだってある。だけど、今回は何か違う。知らない間に手が伸びて、ミノリにそれを手渡していた。

そして、あたしから消しゴムを受け取ったミノリはと言うと、

「レイカさん」

右手を胸に当てながら、ぺこりと小さくお辞儀をして。

「ありがとうございます」

くらっ、と一瞬視界が揺らめいた気がした。

ミノリは、眩しい、眩しい、とても眩しい笑顔でもって、あたしにお礼を言った。

さながら太陽の光を裸眼で直接見てしまった時のように、眩しい太陽のようなミノリの笑顔が網膜へ強烈に焼き付いて、一時も離れようとしなかった。

そして今に至ってもまだ、あたしの心は酷くかき乱されたままだった。

「なんで、あんな笑顔ができるんだろう」

枕の中でぼそりと呟く。誰にも届かない、発した瞬間跳ね返って自分に戻ってくる問い掛けの言葉。

ああ、もう、どうしてだろう。ミノリはなんであんなに綺麗に笑えるんだろう。

普通笑顔って影があったり、打算的だったり、上辺だけ取り繕ってたりするようなものじゃん。けど、今日ミノリがあたしに見せたそれは、そういうのが影も形もカケラもなかった。本物の笑顔って言えばいいのかな。なんかそういうありきたりな言葉は使いたくないけど、ボキャ貧なあたしじゃそうとしか表現できない。

あたしただ消しゴム拾っただけなのに、それであんな眩しい笑顔を見せられるなんて。どう受け止めればいいの? 誰か教えてほしい。誰でもいいから教えてほしい。

もしかしてミノリって、今まであの程度の思いやりも掛けてもらえなかったのかな。あたしがただ消しゴムを拾うくらいの。あんな腕だから、危なっかしい腕だから、何でも切り裂くストライクの鎌だから!

いや、そんなの考えたくない。それじゃああんまりだ!

ダメだダメだダメだ、まともに物事を考えられなくなって、頭ん中がぐっちゃぐちゃに掻き回される感じが収まらない。新しい何かが沸々と湧いてきて、今までのあたしを上書きしようとする。

真っ平らに舗装された新しいあたしの中心に、ミノリが立っているビジョンが見えた。

(だから面倒だったんだ)

こうなる気がしてた。初めて見た瞬間から、こうなる気がして仕方なかった。

だから面倒なんだ。だから嫌なんだ。だから、ミノリと関わりたくなかったんだ。

こんなにも気になって、こんなにも苦しい思いをすることになるんだから。

 

*9*

文化祭を一週間後に控えた日の放課後。とっくに日も暮れた放課後のことだった。

「レイカー、まだ残るのー?」

「うん……もうちょっといる」

「分かった。じゃ、最後に電気消して、ドアに鍵かけて、職員室まで返しといてねー」

「……分かった」

先に帰るというマユコを見送って、あたしが教室に残される。他の同級生もみんな先に帰った。文化祭は家庭科室を借りて焼きそばだったかたこ焼きだったか(よく覚えていないあたりから、あたしの関与の薄さを察した貴方は鋭い。あたしはチラシ配りくらいしかやらない予定だ)を出店で売ることになってるから、遅くまで練習なんてこともない。

残ったあたしは読み掛けの本を開く。この間の本はとっくに読み終わった。今読んでるのはまた別の本。文庫本サイズなのは同じだけど分厚さが全然違う。前の奴の二倍くらいはある。それを今半分ほど読み終わったところ。

「……はぁ」

ため息が止まらない。

本を開く、目を文字に向ける、ページをめくる。あたしのしている動作は間違いなく本を読むという行為そのものなのに、その結果として得られるはずの本の内容がまるで頭に入らない。理由は簡単だ。目から読み取った本の内容の受け皿になる筈のあたしの脳味噌が、別の用途でいっぱいいっぱいになってるからに他ならない。

ミノリ。カタギリミノリ。あたしの隣の席の、左腕がストライクの女の子。

あれからはっきりミノリと何か話をしたわけじゃない。もちろん二言三言言葉を交わすことくらいならある。けど、それで何かあたしとミノリの関係が変わるとか、そんなことはあるわけない。

変に意識すると気持ち悪がられる、そう思って意識しないようにすると、却って何もかもぎこちなくなる。だから余計にミノリからどう見えているのかが気になって、また意識しそうになる。それで意識しないように無理をする……絵に描いたような悪循環だ。

あれからもミノリはいろんな子にちやほやされて、やれ珍しい左腕だの、やれ危なっかしいねだのと、相手の言いたいように言われるがままになっている。それを見る度に胸がシクシクと痛む。ミノリが嫌な顔一つせずに応えているのを見ると、痛みがズキズキと大きくなってくる。

なんであんなに綺麗なんだろう。なんであんなに汚れてないんだろう。

なんで、あたしみたいにヒネてないんだろう。

「ミノリ……」

「はい。どうしました?」

「どうしてミノリはあんなに素直なんだろう、って考えてたのと」

「ふふっ。母にもよく、貴方はとても素直ねって言われるんです。他にもあるんですか?」

「あと、毎回のようにしれっと混ざってくるなあって思ってた」

気がつくと、隣にミノリが立っていた。

自分の席に座ってあたしの方を見つめる。あたしは少し視線を落としながら、ミノリを左目の視界に捉えた。いつものようにふわりとした笑顔を向けてくる。左腕を包む布袋もいつも通りだ。

「今日は教室に残って、勉強をしていたんですか?」

「いんや、何もしてない。ただ、ぼーっとしてただけ」

「ふふっ。なんとなく、そうじゃないかと思ってました。レイカさんは、考え事をするのが好きそうですから」

「別に、好きってわけじゃないけど。でも、考えずにはいられないことだってあるし」

ミノリはあたしを「考え事をするのが好きそう」だって言った。あながち間違っても無い。好きというより、それくらいしかすることを思いつけないって言うほうがもっと正しいけど。

「もうすぐ文化祭ですね。私はあまり関われなくて、ちょっと残念ですけど」

「あたしもそんなにやることないし。てか、関わっても面倒なだけだよ、多分」

「そうでしょうか? みんなと一緒に何かを成し遂げるって、大変だけど素敵だと思うんです」

「かったるい。面倒くさい。興味ない」

「ふふっ。レイカさんらしいですね。ところでさっきは、どんなことを考えてたんですか?」

「それは……」

それは……ミノリ、あんたのことだよ。無意識のうちにそう言いかけたけど、これはさすがに直球過ぎると思い直して言葉をごくりと飲み込んだ。

ミノリがあたしを見つめる視線があまりにも柔らかすぎて、胸が痛くなった。

右目がひくひく痙攣して、思わずアイパッチの上から手で押さえつけた。

「その、さ。あたし、ミノリの隣の席にいて、思うんだけど」

「あんたさ、いろんな子に延々質問攻めされてるじゃん。それ見てて……ずっとこんな調子だったのかな、辛いことばっかりだったんじゃないかな、って」

「そんなこと、勝手に考えてた。無かったわけないでしょ? 嫌なことだってさ」

自分でも何が言いたいのかよく分からなかった。思ったことを言葉にしたら無茶苦茶になった。言ってから後悔した。

これじゃあたしも他の連中と変わらないじゃないか。ミノリに質問を投げつけて、自分の知りたいことを一方的に知ろうとしてる。全然変わらないじゃないか。あたし、何やってんだ。

ミノリは、自分に興味を持たないあたしの側にいるのがいいって言ってたじゃないか。

「ごめん……こんなこと訊いて。ちょっと前に、興味を持たれない方が気持ちが落ち着くって聞いたのに」

「レイカさん。私のこと……」

右目を覆ったまま、あたしがミノリに目を向ける。

「”心配”、してくれてたんですね」

ミノリは笑みを絶やさず、表情を崩さず、わた飴のようなふわっとした雰囲気に包まれて、席に座ったあたしをじっと見つめている。

つられて心が絆されてしまいそう。そんな感情を抱いた。

「……ごめん、その通り。隣にいて、ちょっと心配になってさ」

「私に、”興味”を持ってくれる人は、とてもたくさんいます。けれど、”心配”してくれる人は……レイカさんみたいな人は、父と母くらいしか思い当たりません」

「けど……けど、こんなのただのあたしの感情の押し売りだし、それに……」

「いいえ、そんなことはありません。うれしいんです。私のこと、レイカさんに心配してもらえて」

「嬉しい……?」

「はい、うれしいです。とても、です」

右と左、アンバランスな長さの腕を膝の上で交錯させる。仕草の一つ一つを見る度に、胸が……これは痛いのか、それとも熱くなっているのか。分からなくなってきたけど、胸に何かが灯る感触が断続的に続いた。

「レイカさんの言う通り、今までに辛いことや嫌なこともありました。ちゃんと数えたことはありませんけど、それなりにあると思います」

「けれど、よく言うじゃないですか。生きていれば苦しいことも楽しいこともあるって。だから、何もかも辛いことばかりで、真っ暗な人生だったわけではありません」

「いいことも悪いことも全部、私が私だったから得られるものなんだ、って。これ、母が小さいころに教えてくれた言葉なんです。その時からすごく気に入って、今でも私の大事な宝物なんです」

いいことも悪いことも全部、自分が自分だったから得られるものだ。

「左腕も左腕以外も、全部ひっくるめて”私”ですから」

――それが、ミノリの信条、或いはポリシーらしい。

なんて綺麗なんだろう。ため息が出るほど綺麗だ。

あたしには──綺麗過ぎる。

「……やっぱり、ダメだよ」

「えっ?」

「あたしなんかと一緒にいたら、ミノリ。あんたがダメになっちゃうよ」

「レイカさん、そんな……」

「だって……あたしそこまでシャキっとできないよ。ミノリみたいにシャンとするのなんて、あたしには無理だよ」

あたしとミノリが一緒にいちゃいけない。あたしはミノリみたいに強くなれない。何もかもさらけ出すなんてできない。

一緒にいたら、ミノリがダメになっちゃう。

「ごめん、ミノリ。あたし、そろそろ帰るから」

「あっ、待ってください、レイカさんっ」

文字通り後ろ髪を引かれるような気持ちを無理やり振り切り教室から飛び出す。あたしを呼ぶミノリの声が胸を貫く。足がもつれて倒れそうになりながら、でもとにかく走った。

あたしなんかがミノリと一緒にいちゃダメだ。いろんなものから逃げてきたあたしと、ちゃんと向き合ってきたミノリじゃ何もかもが違いすぎる。あたしなんかじゃ絶対釣り合わない。

引かなきゃ。ミノリがあたしにならないように、あたしが引かなきゃ。

ミノリは、ミノリのままでいなきゃいけないんだ。

 

*10*

逃げるように走って走って最後に辿り着いた先は、下足室だった。

また逃げた。その言葉が湧いてくる。そうだ、あたしは逃げた。ミノリの前から尻尾巻いて逃げた。その通りだ。

ミノリはあまりにも綺麗でまっすぐで、あたしなんかじゃ隣にいられない。側にいたらミノリがダメになる。あたしみたいに擦れて、投げ遣りになって、綺麗な部分が欠けちゃう。

あたしが側にいちゃダメなんだ。

「なんでだろうな……ホントなんでだろう」

あたしがミノリに抱いてる感情。言葉にしようとしたら無茶苦茶になって結局出てこない。何か言おうとすると舌がこんがらがる。喉がカラッカラになって、声が出なくなるみたいだ。

同情かも知れない。不自由な左腕を持って生まれて、いっぱい辛い目苦しい目に遭って、そんなミノリにあたしが同情の眼差しを向けてる。そうかも知れない。

羨望かも知れない。左腕のハンディキャップをものともせず、明るく元気に振る舞って見せている。あたしにはできっこない芸当だ。だから羨ましいと思ってる。そうかも知れない。

嫉妬かも知れない。あたしと違って明るくて、あたしに無いものをたくさん持っている。ミノリの方が大変だったはずなのに、あたしよりずっと”持ってる”。これは嫉妬。そうかも知れない。

馬鹿だ。あたしは馬鹿だ。本物の大馬鹿だ。同情なんてできる身分じゃない。羨望なんてしていいわけがない。嫉妬なんてする権利がない。今抱いてる感情は全部ひっくるめて、あたしの我侭以外の何者でもない。

ミノリとどう接すればいいのか分からない。ミノリにどんな感情を抱けばいいのか分からない。誰にも訊けない。誰も教えてくれない。気持ちがあたしの中でグルグル渦を巻いていく。渦巻きができて、あたしのありとあらゆる感情を巻き込んで、水に垂らしたガソリンのようにテラテラと薄気味の悪い虹色を作り上げていく。

畜生畜生、あたしにピッタリだ! 誰にも打ち明けられない気持ちの悪い渦! まったくあたしそのものじゃないか! お似合いだよミタカレイカ! あんたにピッタリじゃないか!

今のあんたの気持ちは、あんたそのものなんだよ!

「……気持ち悪い」

口からようやく吐き出された言葉は、あたしの今の心情そのものであると同時に、あたし自身に向けられた底なしの軽蔑でもあった。

よろめきそうになる体を柱に一旦預ける。少しだけ波が引く感触がした。今だ。さっと柱から離れて靴箱へ行く。帰ろう。もうさっさと帰ろう。今日はあの馬鹿どもも帰ってくるのが遅い日だ。部屋に引きこもって寝てよう。何もする気が起きない。

使い古した運動靴を取り出して下履きと履き替える。外はすっかり日も落ちて暗くなっている。グラウンドにも誰も残っていない。いつも練習してる陸上部の連中も引き上げたみたいだ。早く帰らないと正門が閉められちゃう。裏門まで行くのは面倒くさいからさっさと行くに限る。

カバンを持ち直して、半分閉まり掛けた正門を潜る。何も食べる気がしないから、真っ直ぐ家に帰ってシャワーだけ浴びて寝よう……そこまで思考が及んだ直後だった。

「いたっ!」

どん。後ろから誰かにぶつかられて、体が大きく前のめりになった。無防備なまま地面に投げ出されて、アスファルトの道路に体を思い切り打ち付けた。胃の方から熱いものがこみ上げたかと思うと、続いて胸骨の辺りに鈍い痛みが走った。まともに道路に転んだせいで、骨にまで痛みが響いた。なんだなんだ、一体なんなんだ。

「ったぁ……ちょっと、誰よ!」

「……ちっ!」

「ちょ、こら、待て! なんか一言くらい言ってきなさいよ!」

ぶつかってきた奴は小さく舌打ちをして、ごめんの一言もなくその場から走り去って行きやがった。あたしの声も無視して脱兎の如く走っていく。なんなんだあの野郎。男だか女だか……感覚的には男くさいな。実際どっちだか分かんないけど、どっちにしろぶつかって何も言わずに走ってくなんて最低以外の何者でもない。

いつもならとっ捕まえて一発引っ叩いてやるのに。今回は転んだ場所が悪かった。胸を打った、手も怪我した、多分膝も擦り剥いたくさい。最悪な気分がもっと最悪になった。なんだってこんな目に遭わなきゃいけないんだ。

ふらつきながら立ち上がって、制服についた小石と土をパタパタ払う。こりゃ洗濯しなきゃダメだ。ホントに最悪。一体誰だよ。正門から走ってきたから、学校の生徒なのは間違いなさそうだけど。誰だろうがぶつかってきて謝罪もなしに逃げてったんだ。最悪なことに変わりはない。

「痛ったぁ……マジありえないし。一体どこのどいつ……あれ?」

ふと目を向けた先に、キラリと何かが光っているのが見えた。なんだあれ。落し物だろうか。

痛い足を若干引き摺りながら落し物の近くまで向かう。すぐ近くまで来て、屈み込んで拾い上げてみる。

「カッターナイフ……?」

道路の上に転がっていたのは、大きめの刃を収納したカッターナイフだった。まだほとんど土も付いてなかったし、落ちて間が無いはずだ。すると考えられるのは、さっきぶつかってきた奴が落としていったかも知れないってことか。

どっちにしろ、今はこんなのを詳しく調べるつもりもない。気持ちも体も重くてもうズタボロだ。さっさと帰りたい。帰って眠りたい。何にもしたくない。何にも考えたくない。

あたしはカッターナイフをカバンのポケットに押し込んで、そのまま綺麗さっぱり忘れて家へ帰った。

半分義務的にシャワーだけ浴びて、あとはもう死んだように眠った。

何もかも面倒くさすぎて、もうこのまま死ねたらいいのに、朝起きたら死んでたらいいのにって思いながら、眠った。

やっぱり生まれ直したい。何もかも嫌だ。

眠りに付く間際、最後に浮かんだのは、その感情だった。

 

*11*

かったるい気持ちがいっぱいに詰まっただるさの取れない身体を引き摺って、大して行きたくも無い学校へ行く。あたしにはそこにしか居場所が無いからだ。けど、昨日の事がある。ある意味家よりずっと居心地が悪い場所かも知れない。

「……はぁ」

うだつの上がらないおっさんのようなため息を繰り返し吐きながら学校へ。正門が見えてくる。なんか人だかりができてるけど、どうせ大した事じゃない。どうでもいいことに興味を持てるほど、あたしの心は広くできてない。容積だか体積だかが小さすぎるんだ、あたしは。

関わらずに素通りすると決め込んで、ちょっと無理して早歩きをした。

「まさか、カタギリさん。あなたがこれを?」

「違います。私じゃありません。本当です」

ハタと足が止まった。今なんて言った。

人ごみの向こうへ目をやる。目を凝らす。目を見開く。

「ミノリ……」

ごった返す生徒たちの中の一番奥。そこに、ミノリの姿があった。同級生たちにずらりと取り囲まれて、困ったように右手を口元へ当てている。

なんだ。一体何があったんだ。

すぐさま踵を返す。人だかりを無理やり掻き分けて進んだ先には、各種の連絡事項を載せるための掲示板があった。ミノリが佇む横、掲示板の中央には、俄かには信じられない光景が広がっていた。

(あれ、文化祭のポスター……だよね? なんであんな滅茶苦茶に……)

掲示板に貼られていた文化祭のポスターは、刃物か何かでズタズタに切り刻まれていた。

方々にポスターの残骸が零れ落ちて、掲示板には深い傷跡が残されている。誰かがポスターを切り裂いたのは明らかだ。態々言うまでも無く、悪意を持ってやったとしか思えない。

ポスターからふっと右に目を向ける。ミノリがそこに立っている。

そのミノリが学校の生徒たちにぐるりと取り囲まれていることを、この時になって初めて気付いた。

「ちょっとあんた、カタギリって言うの? C組の転校生の」

「はい。カタギリミノリです」

「男子が話してるの聞いたんだけど、あんた左腕がストライクの鎌なんだって?」

「そうです。生まれつき、左腕だけがストライクなんです」

「ふーん。じゃあ、それで紙切ったりもできるってことよね」

……おい。

おい、どういうことだ。

「カタギリさん、あんたがこんなことをしたのか?!」

「一体どういうつもりで……」

「待ってください! 確かに、私はこんな腕をしています。紙だって切れるかもしれません。けれど、私はこんなことしていません! 本当です!」

この流れはどういうことなんだ。

なんで、ミノリが疑われてるんだ。

「ポスター作るの大変だったのに、なんでこんな酷いこと……!」

「転校してきたばかりで文化祭に混ざれないから、とかじゃ……」

「大人しそうな見た目してるけど、そういう子に限って中身は結構腹黒かったりするしさ」

何勝手なこと言ってるんだ、こいつら。証拠でもあるのか。ミノリがポスター破いたって証拠が、どっかにあるってのか。あるんなら出せ、出してみろ。

どういう理由でミノリがやったって決め付けてんだ。お前ら自分たちのしようとしてることがどれだけ残酷なことか分かってるのか。いい加減にしろ馬鹿。くだらないことしてんじゃねえよ。

「あの腕だし、間違いなさそうじゃない?」

「なんだか危なっかしいと思ってたんだ、実際」

「ストライクの鎌って何でも切り裂いちゃうんでしょ? だったら紙なんか余裕じゃん」

おい。

今お前、なんて言った。

今、なんて言ったんだ。

「お願いです、皆さん。信じてください。私の腕は、確かに危なっかしくて、下手に触ると怪我をするのは間違いありません。けれど、私はやっていません」

「文化祭だって、皆さんと仲良くなれる絶好の機会だと思っていました。入学してからずっと楽しみにしていたんです。本当です。どうか、信じてください」

ミノリが深々と頭を下げて、みんなに潔白を訴えている。

なんで。なんでミノリが頭を下げて、皆に許しを乞わなきゃいけないんだ。

どうして――どうして! どうして! どうして!!

左腕がストライクの鎌だから? それが何で、やってもいない悪事の許しを乞う理由になるんだ。何の関連性も無い、ただのこじ付けだ。

どうしてミノリがこんな目に遭わなきゃいけないんだ。

誰も信じてやんないのか! 誰も彼も、ミノリが嘘吐いてるって思ってんのか!

(だったら……)

だったら、だったら――

「ミノリっ!! あたしは信じるっ!! あんたを信じるからっ!!」

「……! レイカさん……!」

 

あたしだけでも、ミノリを信じてあげなきゃ!

「ミノリの腕は、確かに人と違うかも知れない! けど! ただそれだけで何の証拠も無いのにミノリを犯人扱いするなんて、酷すぎるだろ! お前ら間違ってる、間違ってるぞ!」

立ち竦むミノリのすぐ前に出て、他の奴らが手を出せないようにあたしの左腕を前へ差し出す。

ミノリの左腕が使えないなら、あたしの左腕が代わりをすればいい! それだけだ!

「ミノリがポスターをバラバラに切り裂いたって、お前ら何か証拠でも持ってんのか! ミノリが破いてるとこを見たって言うのか! 言え! 言ってみろよ! 何かあるならさっさと出せ!」

突然あたしが割り込んだせいだろう。周囲の奴らがざわざわして互いに顔を見合わせ始めた。けど、あたしに何か言おうとする奴は誰もいない。どうすればいいか迷ってる感じだ。

ざわついた空気の中だった。どこかで見覚えのある顔が人ごみを押しのけて、あたしとミノリの前までやってきた。

「あの、ちょっとさあ、ミタカさん。なんで犯人を庇うの?」

「お前、ヨコカワ……!」

「どう考えても、カタギリさんが犯人でしょ? 転入生で、文化祭に溶け込まなさそうで、左腕がストライクの鎌なんだから、間違いないって」

「いきなり何言ってんだ、てめえ!」

同じクラスのヨコカワだった。あたしが割り込んだことに不服そうな顔を見せて、あくまでミノリが下手人だと言い張るつもりだ。

なんだこいつ、どういうつもりなんだ。

「俺さあ、昨日見たんだよ? カタギリさんが遅くに校舎を歩いてるの」

「それは……その……」

「ミノリ……! 確かに、確かにミノリは最終下校時刻くらいまでいたけど、でも! あたしも一緒にいたし、何かおかしなことなんてしてない! 絶対に!」

「へぇー、ミタカさんも一緒にいたんだ……じゃ、二人で一緒にやらかしたとか?」

こいつ、ぶん殴ってやろうか……!

「二人、隣の席同士だったよね? だったらさ、そういう密談だってしてそうじゃん」

「ふざけんのもいい加減にしろ! なんであたしやミノリがそんなことしなきゃいけないんだ!」

「さあ? 自分の胸によく聞いてみたら?」

はらわたが煮えくり返るって、こんな気持ちなのか。なるほど、確かに煮えそうだ。頭に来る。

ヨコカワの奴、あくまでミノリがやったって言い張るつもりなんだ。一体何を考えてやがんだ。そんなことして、あいつが何か得することでもあるってのか。さっぱり分からない。どういう意図なんだ。

けど……あたしがこのまま言い返さなきゃ、やっぱりミノリが怪しいってことにされちゃう。それじゃ何の意味も無い。ミノリがやってないってことなんか百も承知だ! けど、それには何か証拠がいる。ミノリがやってないって証拠か、あるいは別の奴がやらかしたって証拠が!

そんなことは分かってる。そんな証拠があればとっくに出して、こんな辛気臭い場からミノリを連れてさっさと逃げてるよ。証拠なんて無いから、こんな理不尽な目に遭わされてる。そういうことなんでしょ?

言い返さなきゃ、という気持ちだけが膨らんで、歯軋りが止まらなかった。完全に進退窮まってる。何を言っても、ミノリの左腕の前には説得力が無い。あたしが信じてたって、どうしようもないんだ。

焦る気持ちをほんの僅か少しでも落ち着けたい。そう思ってカバンのポケットへ手を突っ込んだ直後だった。

(これは……?)

普段ポケットに入れていないような、固くて冷たい感触。なんだっけ? そう思って、無造作にポケットから手を引き抜いて取り出した。

「カッター……ナイフ……? 確かこれ、昨日拾った……」

手の中にあったのはカッターナイフ。オレンジ色のフレームに収まった、大型のカッターナイフだった。

ぽかんとした表情でそれを見つめていたあたしの隣で、突然絶叫に近い声が上がった。

「ミタカ……ミタカ! お前、なんでそれ持ってんだ!? なんでお前がそれを持ってるんだ!?」

絶叫の主は明らかに狼狽した表情で、あたしの名前をしきりに呼んでいる。

声の主は――ヨコカワだった。

「……どういうことですか、ヨコカワさん。このカッターナイフに、見覚えがあるようですけれど」

「しっ、知らない! 俺は関係ない、悪いのはお前だろ!」

「……おい、ヨコカワ。あんた、下の名前『タカアキ』だったでしょ。Tから始まる」

「だ、だから、なんだって言うんだ!」

あたしはカッターナイフを裏返していた。そこにある文字を凝視する。

「Y.T……ヨコカワ・タカアキってとこ?」

「……!!」

裏側にはご丁寧にも、持ち主と思しきイニシャルがマジックでもって書かれていた。

「あんただったのね。昨日あたしにぶつかってきて、何も言わずに逃げてったのは!」

「立ってたのは……ミタカ、お前だったのか?!」

ますますうろたえるヨコカワの前で、カッターナイフの刃をカチカチと取り出す。

少し出にくいと思っていたら不意に刃が前へ押し出されて、その拍子に刃と収納ケースの間に挟まっていた小さな紙切れがぽろりと零れ落ちる。地面へ落ちる前に引っつかむと、萎れた紙片を広げた。

「これ……文化祭のポスターの……!」

「紙質も同じだし、この部分にぴったり嵌るし、間違いないわ」

「それじゃあ、やったのはまさか……!」

明らかに空気が変わったのを感じた。言い逃れのできない証拠が出てきて、集まっていた生徒たちの意識が、一斉にヨコカワへ向けられるのが分かった。

ざり。あたしが一歩前に出て、ヨコカワをぎろりと一睨みする。

「ヨコカワ。あんたがやったんでしょ?」

「……いや、確かに俺がやったかも知れない、けど」

「けど?」

あたしが前へ踏み込むと、その分ヨコカワが後ろへ後ずさりする。

「そもそもさ、文化祭なんてつまらないし、くだらないし、やる意味ないじゃん」

「で?」

「そんなことに貴重な時間を使うのは、俺の感覚じゃ許せないし、ありえないから」

「で?」

「いや……分かれよ。俺はあくまで、いや、俺がやったのは、文化祭があったからだ。何か揉め事起きればさ、文化祭なんて上手いこと止められるだろ、分かるだろ」

「で?」

「文化祭がなけりゃ俺はこんなことしなかった。分かる? 俺は悪くない、責任はないって言ってるの」

「それで? なんであんたはミノリがやったとか喚いてたの?」

そこを言わせなきゃいけない。

なんでミノリに濡れ衣を着せようとしたか、こいつの口から言わせなきゃいけない。

「いや、それは……そもそもさ、カタギリさんが悪いんだよ」

「何が?」

「いや、雰囲気で察しろって。よく言うじゃん、詐欺なんてだまされるほうが悪いって」

「何が?」

「危なっかしい鎌なんか付いてるから悪いんだよ。俺は何も悪くないってこと」

「何が?」

「皆だってほら、怖いとか言ってたじゃん。だから……うわっ?!」

「グダグダグダグダ、くだらないことばっかほざいてんじゃないわよ!!」

もういい。もう十分だ。

こいつにこれ以上しゃべらせちゃいけない。吐き気がしてくる。

ヨコカワの首根っこを引っつかんで、あたしのすぐ側まで引き寄せた。

「あんたは……あんただけは絶対に許さない! よりにもよって、ミノリを巻き込んでこんなくだらないことをして! 自分のやらかしたことが分かってんのか! おい!!」

「レイカさん、待ってください!」

そのままヨコカワを締め上げようとしたあたしに、ミノリがストップをかけた。

「待ってよミノリ! こいつはあんたを嵌めようとしたんだよ?! こいつは、あんたを……!」

「分かってます。だから……私が話をしたいんです」

ミノリの射抜くような視線を受けたあたしは渋々手を離して、ヨコカワをミノリの前へ突き出した。

怜悧な視線。そう形容するほかない、まっすぐで純粋で、だからこそ逃げ場がない。大勢の人に取り囲まれているはずなのに、恰も一対一で相対しているかのような圧迫感を醸し出す。ヨコカワはかろうじて目を合わせるのが精一杯みたいだった。

「ヨコカワ、タカアキさんでしたか。あなたがポスターを台無しにしたのは、間違いないのですね?」

「い、今のを見てなかったのか、その通りだよ!」

「それで、私がポスターを切り裂いたと言い張った。そうですよね?」

「確かにそうともいえるだろうけどさ、言ってるだろ、俺は悪く……」

刹那。

 

「人でなし!!」

 

パチン。気持ちのいい音が、辺りに響き渡った。

怒りの形相を浮かべたミノリが右手を勢いよく振り抜いて、ヨコカワを張り倒した。吹き飛ばされたヨコカワはそのまま地面に倒れて、顔面蒼白のまま呆然とした表情を見せていた。

「ふざけるのも、いい加減にしてください!」

ミノリは、ストライクの鎌である左手ではなくて――ヒトが持つ手そのものの形をした右の手で、強烈な一撃を見舞ったのだ。

「あなたがどう思おうと自由です。どういう主義主張を持っていようと、私の知るところではありません」

「けれど――あなたの独りよがりな思いに、私を巻き込まないでください」

「私は私であって、間違ってもあなたではありません。あなたが何かを成したいなら、あなたの力で何とかするとわきまえてください」

「もう一度言います。私はあなたではありません。あなたの思いに、勝手に私を巻き込むのはやめてください」

ミノリから痛いビンタをもらって、この上なくはっきりと「私はあなたではない」と言い放たれたヨコカワは、もうくだらない言い訳の一つも出て来ないようだった。

奥の方から生徒指導の先生が走ってくる。誰かが呼びに行ったんだろう。

この一件は――これで、終わりみたいだった。

 

*12*

昼休み。

学校の屋上は今日もいい風が吹いていた。ばたばたと制服と髪があおられる感触が気持ちいい。抜けるような青空に真っ白い雲が流れていくのが見える。

錆だらけの手摺りにつかまるあたしの背中には、ミノリが立っている。

「レイカさん」

自分を呼ぶ声が聞こえる。ミノリがあたしを呼んでいる。

もう覚悟を決めなきゃ。ちゃんとミノリの目を見て、しっかり話をしなきゃいけない。

いつまでも逃げてるんじゃない。そう言い聞かせて、後ろへ振り返った。

「あの、朝は……」

「……ごめん、ミノリ」

「えっ?」

「もっと早く来て、もっと早く『ミノリはやってない』って言えればよかったのに」

「レイカ、さん……」

学校の生徒たちに取り囲まれて、口々に疑いを掛けられる姿がフラッシュバックした。

ミノリの気持ちになって考えてみろ。あれがどれだけ過酷で残酷なことか。ほんの少し思いを巡らせるだけで、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられそうになる。

あんな思いはさせたくなかった。取り囲まれる前にあたしが割り込んで、ミノリは潔白だ、何もしてないって叫んであげられればよかったのに。

あたしが愚図だったから、間に合わなかった。

「あたし、ミノリの顔を見ると、まともに話せないんだ」

「いっぱい、いろんな感情が湧いてきて、上手く言葉にならなくなる」

「そんな無茶苦茶な気持ちで話したらミノリに失礼だって思って、余計にこんがらがっちゃう」

「今だって、ちょっとでもまともそうな言葉を選んでるんだもん」

アイパッチの下の右目が脈打つ。胸の鼓動に呼応しているのがつぶさに伝わる。

ミノリがアンバランスな長さの腕を交差させながら、ふっと口元に笑みを浮かべるのが見えた。

「真面目なんですね。レイカさんは」

「あたしが……?」

「はい。すごく真面目で、真摯さを忘れない。そんな人なんだって、私は思いました」

真面目だとか真摯だとか、あたしに一番縁遠そうな言葉を並べられる。無論、戸惑う。

戸惑いを見透かしたかのような朗らかな表情をして、ミノリが笑った。

「私、嬉しかったんです。レイカさんが『あたしは信じる』って言い切ってくれたことが」

「皆さんに囲まれて、誰も信じてくれそうにない……私が、左腕のせいでこういう目に遭うのは、やっぱり仕方ないことなのかなって諦めかけたときに、レイカさんが来てくれたんです」

「『あたしは信じる』。あの時の私が、一番聞きたかった言葉でした。それを迷わず言ってくれたレイカさんは、とても、とても素敵でした」

消しゴムを拾ったときのあの眩しい笑顔――いや、それ以上に明るい笑顔があたしに向けられる。

他の子たちに向けている笑顔とは明らかに違う、一際印象に残る笑顔のミノリが、あたしの目の前にいる。

掛け替えのないそれを左目だけで見るなんて、失礼だ。

「……ミノリ。もしかしたら、気付いてるかも知れないけど……」

「レイカさんの……右目のことでしょうか」

いつも白いアイパッチをつけていた右目。外では晒したことのない秘密の部分。

引っ掛けていた紐に手を掛ける。もう一瞬の逡巡もない。

あたしは意を決して、アイパッチを外した。

 

「レイカさんの右目……それは、パッチールの……」

「……そう。あたしさ、生まれつき右目”だけ”が、パッチールの渦巻きなの」

 

ずっと押し隠していた秘密。誰にも明かせなかったあたしの恥部。

きちんと「ヒトの瞳」が入った左目と、ぐるぐる巻きで何が見えてるのかさっぱり分からない「パッチールの瞳」が入った右目。それが一つの顔に同居してるのがあたしだった。

ミノリはあたしの顔をまじまじと見つめている。見た目には少し驚いたようだったけれど、それ以上身を引いたり、あるいは戸惑っていたりする様子はない。どうしてかは言わずとも分かった。

「……予想はしてた?」

「はい。隣に座ったときから、レイカさんはきっと私と同じような特徴を持ってるに違いないって、ずっと思ってました」

「やっぱり、なんとなく分かったりするわけ?」

「パッチールとまでは分かりませんでした。けれど――分かるんです。ポケモンの特徴がある人は、やっぱり少し雰囲気が違いますから。私の場合は、雰囲気とかそういう問題じゃありませんけどね」

同じだからだ。あたしも、ミノリも。

ただ持って生まれたものを今までひた隠しにしてきたか、きちんと向き合ってきたかの違いでしかない。それだけでしかない。

「……あたしの家系のどっかに、パッチールとヤった奴がいるって話を聞いたんだ」

「なんか頭の螺子が外れてたらしくてさ、後でその筋の病院へ入れられて、最期は自分で自分の舌を噛み切っておっ死んだって話だった」

「しばらく誰も気にしてなかったし、あたしみたいに変な特徴が出る奴もいなかった。けど……」

「隔世遺伝っていうんだよね、こういうの。生まれてきたときに右目が気持ち悪い渦巻きになってて、あたしにパッチールの特徴が遺伝したってのが分かった」

家系の中で異質な遺伝子が混じると、ある時突然身体的な特徴となって発現することがある。

パッチールの特徴があたしに出たのはそのせいだった。

「そっから先が、情けない話でさ」

「母親はあたしを駆り出して、『ヒトとポケモンの相の子にも人権を』みたいな運動のマスコットに使おうとか考えてた。パッチールの右目なんて普通じゃないって一発で分かって便利だから、あたしを使ってご大層な主張を並べようって考えてたらしい」

「父親は全然逆でさ、あたしをどっかの田舎へ隠して、そこで静かに……てか人様の目に付かないように育てようって考えてた。名目上はあたしが苛められないようにって繰り返し繰り返し言ってたけど、結局てめえの世間体が大事なんだろってしか思えなかった」

「じゃあ、あたしはどう思ってたか」

前面に出したい母親、後ろへ隠したい父親。

その板挟みに遭ったあたしはどう思っていたか。

「どっちも興味なかった。”普通”に、周りの子と同じように生きたかった。ただそれだけ」

「学校行って、お弁当食べて、適当に遊んで、それを繰り返す。それだけでよかった」

「何回も言ったよ。前に出るのも後ろへ引っ込むのも嫌だって。けど、あいつらは分かってくれなかった」

「あたしを”特別”扱いして、普通に生きるって選択肢を提示しようとはしなかった」

「だから、あたしはあいつらを無視して、自分で、”普通”に生きるって道を選ぶしかなかった」

ただ、普通に生きたいと思っていた。

母親のやろうとすることにも、父親の言っていることにも、どっちも興味がなかった。

「アイパッチして、右目だけ隠せば”普通”の子と変わらなかったから、それでずっと誤魔化してた」

「誰にもばれないように、誰にも右目を見られないように……それだけ考えて、今までずっと生きてた」

「けど、そこへ――ミノリが、転校して来た」

左腕がストライクの鎌の少女。カタギリミノリ。

あたしの前に現れるには、あまりに刺激が強すぎた。

「必死に無視しようとした。興味ないって言い張ってた」

「でも、ダメだった。自分の想いには逆らえない」

「どんどん気持ちが強くなって、折り重なって、止め処なく溢れて」

「いろんな感情が混ざって、止められなくなりそうだった」

「同情、羨望、嫉妬、憐憫、憧憬、焦燥。いろんな色のいろんな気持ちがわーっと湧いてきて、あたしの右目みたいに渦を巻き始めた」

心の中で渦を巻いていた無数の感情。

「そのど真ん中、渦の一番中心にあった気持ち」

「今……やっと、それが分かったんだ」

無秩序な感情を全部ひっくるめた結果は、ただ一つだった。

 

「好きなんだ。きっと……あたしミノリのことが好きなんだ」

 

好き。渦巻く感情の正体を一言で言い表すなら――もう、それしかない。

「こんなこと言っていいのかなんて分かんない。けど、自分の気持ちを一番素直に、無理せずに言ったら、ミノリが好き、ってなった」

「明るくて、芯が強くて、柔らかい。あたしにはとても真似できない、けど、側にいたい、近くで一緒にいたい。ずっとそう思ってた」

あたしはミノリにはなれない。かも知れないじゃなくて、絶対になれない。だから一緒にはいられないと思って、昨日のあたしは逃げ出した。

だけど――そのミノリはなんて言ったか。

「ミノリは言ったよね。私は私で、あなたじゃないって」

「だから、あたしはミノリにはなれないけど、でも、一緒にいても許されるんじゃないかって」

「許される可能性があるんじゃないかって、そう思ったんだ」

あの時の言葉が形を変えて、今のあたしに降り注ぐ。

私は私で、あなたではありません。ヨコカワに対する拒絶の言葉は、同時にあたしにとって一筋の希望の光となった。

一緒にいても、いいんじゃないか。いられる可能性だってあるんじゃないか。言ってみなきゃ分からないじゃないか。そう考えさせる言葉だった。

「左腕も、左腕以外も、全部ひっくるめて私です、って言ってたよね、ミノリ」

「あの言葉の意味が、今やっと分かった。馬鹿な自分でも、ちゃんと意味が分かった」

「あたしも――右目もひっくるめて、あたしなんだ」

「ミノリに好きだって言うからには、何も隠し事せずに、自分という自分を全部受け入れて、さらけ出さなきゃいけない。もう逃げちゃだめだって思ったんだ」

いつだって逃げてばかりだった。自分の気持ちを抑え込んで、上っ面だけ分かった風をする。

こんなことしてたってダメなんだ。ミノリに気持ちを伝えたいって言うなら、自分を全部受け入れて、正直にならなきゃいけない。

そうしなきゃ――ミノリに失礼だ。

「……やっぱり、真面目です。レイカさんは、本当に真面目です。そこまで考えてくださってたなんて」

「ミノリ……」

「レイカさんに、好きだ、ってはっきり言ってもらえて、すごく嬉しいはずなのに……どうしてかな、涙が出てくるんです」

ミノリの口にした言葉通り、ガラスのような透き通った瞳は微かに潤んで、涙が零れ落ちていた。

すっと無意識のうちに手が伸びて、気が付くとミノリの涙を拭っていた。

「レイカさん……」

「泣かないでよ、ミノリに涙は似合わないから……って言いたいし、言わなきゃいけないところだけど、あれだ。ミノリは泣いてるところも可愛いから、反則」

「もう、レイカさんったら」

心の渦が消え失せていく感触がした。

今まで口にできなかった思い。自分の右目が渦巻いてるってことと、自分の気持ちが渦巻いてるってことを、どっちも逃げずにはっきり吐き出して――やっと、心の重荷が下ろせた気がした。

あたしは、ミノリが好きだ。

そう。一番嘘偽りのない感情は、これなんだ。

「本当は、私の方から言うつもりだったんです」

「ミノリの方……から?」

「はい。ダメでもいいから、好きって伝えたい。そう思ってたんです」

「いや……ダメとかあり得ないから! あたしそんな告白断ったりしないし! てか、どうしてあたしなんかのこと……」

「レイカさんと同じです。だんだん気になってきて、どんどん気持ちが大きくなっていったんです」

あたしと同じように気持ちが膨らんでいったというミノリの顔を、あたしは、左目と右目の両方で、はっきりと捉える。

「私はこんな腕ですから、隠しようがありません。だから、ある意味開き直れたんです。そうですよ、私の左腕はストライクですよ、何か文句はありますか、って」

「けれど、私と違ってレイカさんは、目をアイパッチで隠せてしまいます。ポケモンの特徴のない人間のように振舞うことができます」

「でも、一度アイパッチで隠すことを選んだら、ずっと隠してなきゃいけない。自分の特徴を表に出せないまま、ずっと自分に嘘をつき続けなきゃいけない」

「そう思うと、途端に辛くなって」

「レイカさんが今までどれだけ辛い思いをしてきたのか、少し考えただけで、胸が締め付けられそうでした」

「他にもいろんな感情が湧いてきて、もう、抑えられなくて」

「昨日、あんな時間に教室へ行ったのは、本当は……レイカさんに、自分の想いを伝えたかったからです」

ミノリは言う。あたしはあたしで、ずっと辛い思いをしてきたんじゃないか、って。

自分に対してずっと辛い嘘を突き通し続けてきたんじゃないか、ミノリはそう言う。

ああ。その通りだ。本当に何もかも、ミノリの言う通りだ。

今までずっと、嘘のつき通しだった。自分の目を表沙汰にできなくて、どこかで鬱々とした気持ちを抱えてた。

ミノリの言葉は、何もかも正しかった。

「昨日言いそびれたけれど、でも、今ここでちゃんと言おうと決心して、タイミングを待っていたら……先に、レイカさんに全部言われてしまいました」

「だって……ミノリが同じこと考えてただなんて、夢にも思わなかったし」

「私だって同じです。私が一生懸命伝えて、『興味ない』って言われたらどうしよう、屋上だからそのまま手摺りを越えて……とか考えてたんですよ?」

「待って待って! あたしそんなこと言わないから、てか死んじゃだめ、死んじゃだめだって!」

「ふふっ。レイカさんったら、可愛いです。それに、今せっかく幸せなのに、死んじゃったら元も子もないです」

ああ……やっぱあれか。

こういうのの王道らしく、ミノリに主導権を握られるわけね、あたし。

「それもまあ、悪くないか」

「えっ? どうかしましたか?」

「いんや、あたしの独り言」

いいじゃない。それでも。

自分の気持ちに素直になれるんなら、さ。

「そろそろ昼休みも終わりみたいね。じゃ、帰るとしましょうか」

「はい。一緒に帰りましょう」

次の時間は数学だ。眠たいから寝てしまおうか、それとも真面目に受けようか。

「じゃあさ――手を繋いで帰ろっか」

そう言って、あたしは右手を差し出す。

「……はい、喜んで!」

差し出されたミノリの”左手”を、あたしはしっかりと掴んだ。

さあ――教室へ戻ろう。

「そう言えばレイカさん、アイパッチは付けたままにするんですか?」

「まあ、しばらくはね。いきなり外すとなんか面倒くさいことになりそうだし」

「ふふっ。それもそうですね」

「そ。あと、さ……」

「あと?」

表向きの理由は、面倒くさいから。

本心は――。

 

「……あたしの秘密を知ってるのは、ミノリだけがいいの」

 

ミノリだけが知ってる、あたしの秘密を作りたかったから。

「レイカさん……やっぱり、可愛いです」

「もう、うっさい。何回も可愛い可愛い言うなっ。こっちが恥ずかしいんだから」

「そういうところも、また可愛いんです」

アイパッチをした右目。布袋を嵌めた左腕。

あたしとミノリが、並んで階段を下りていった。

 

今日からは、今この瞬間からは――もう一度生まれ直したいなんて考えなくて済みそうだ。

あたしはあたしで、他の誰でもないのだから。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586