「Tears」

586

この世界は、三日後に消える。それは唯一つの例外も無く、平等に訪れる最期。

今日から三日後には、形のあるものも、形の無いものも、すべてが消えて無くなる。

それが……この世界のたどり着く、最後の目的地だった。

 

ある夏の日の、朝のこと。

「望(のぞむ)ーっ! さっさと来なきゃ、日が暮れちゃうぞーっ!」

「大声で言うなって。すぐそっちに行くから」

坂の下で鞄を振り回している希(のぞみ)に、俺は幾分呆れ気味に返事をした。希は俺の気持ちを知ってか知らずか、悪戯っぽい笑みを浮かべて、こちらをじっと見つめている。

「もー。望ったら、ゆっくりしすぎなんだからっ」

「俺はせかせかしたものが苦手なんだ。それくらい、お前だって分かってるだろ?」

「まぁねー。せかせかした望なんて、想像もできないわねっ」

希は鞄をぐるんと回して肩へやると、またずんずんと速いペースで歩き出した。俺は希のペースに合わせて早足で歩きながら、その歩みに遅れまいと付いて行く。こうして希と一緒に歩くのも、かれこれ十年かそれくらいにはなるだろうか。細かいところまでは、よく思い出せない。

「でもさー。望は信じられる? あと三日したら、何もかも消えちゃう、なんてこと」

「さぁな。偉い人がそう言ってるんだ。多分、本当なんじゃないか?」

「ふーん……ま、あたし達には関係ない話よねっ」

「いや、思いっきりあるって」

軽口を叩きあいながら、通いなれた坂道を上っていく。ごくありきたりに、日常の風景の一つとして、それは存在していた。坂から望む景色も、足に伝わる坂道の傾斜も、隣で元気良く腕を振って歩いている希の姿も、すべては、あって当たり前の存在。

「……………………」

三日後にそのすべてが消えてしまうというのは、いささか信じられない話だった。

 

「この世界は消滅する」

その言葉が世界を駆け巡ったのは、かれこれ一ヶ月ほど前のことだっただろうか。あまりに唐突なこの発表に、最初はすべての人々がそれを冗談だと考えた。

それが冗談ではないと分かったとき、人々の顔面は蒼白になった。一ヵ月後には、何もかもが消えてしまうのだから。

理由はまったく分からなかった。分かったのは、一ヵ月後にはこの世界は跡形も無く消え失せて、チリ一つ残らない、あらゆる存在を消し去った世界になるということだけだった。それは唯一つの例外もない、ある意味ではこの世でもっとも平等な、万民に与えられた最期だった。

多分、多くの国で争いごとが起きたことだろう。生き残る方法を求めて、血眼になった人も大勢いたことだろう。シェルターみたいなものに引きこもったり、遠い遠い国へ移住したり……とにかく、唐突に訪れてくることになった「滅亡」という名の訪問者から、どうにかして逃げようとした人がたくさんいたことは間違いない。

すがれるものには何にでもすがった。権力者、有名人、名所旧跡、歴史、功績、宗教……特に、宗教は人気だったらしい。新興宗教が後から後から次々に生まれ出でて、人々はあっという間に、数百人近くの神様を得ることになった。誰を拝んで誰を忌めばよいのか、この神様の大売出しの中では、誰一人として正確に把握できなかった。

生きるために殺し合いをする者が後を絶たなかった。笑えない話だ。平穏と安息を得るための暴力と破壊が横行し、経済も政治もあっけなく破綻した。後に残ったのは、完全な滅びの訪れる前に半ば滅びてしまった、国家の体を成していない国家だけ。とある国では、この一ヶ月の間に首脳が六人も入れ替わったというところもあったらしい。

世界は滅びる前にもう、滅びてしまったのだ。

 

(……とは言え、今のは全部テレビとネットの受け売りなんだよなぁ……)

そんなことを考えながら、人通りの少ない道を希と共に歩いていく。俺や希の住んでいる町は、いわゆる「都会」からはちょっとばかり離れたところにある、言ってしまえば「田舎」だ。周囲を山々に囲まれ、近くには海もある。買い物をしに行くのは大抵商店街。川に目をやれば、大きなアズマオウが悠々と泳いでいたりする。そんな場所だ。

「それよりさっ、来週英語のテストなんだよね。マジやばくない?」

「やばいも何も、来週なんかないだろ。後三日すれば、全部終わるんだから」

「えー? でもさっ、もしかしたらあれはネタかなんかで、ギリギリになって実は冗談でしたっ、なんて言われちゃうかも知れないじゃん。だからさ望っ、来週のヤマ教えてよっ」

「そんなことあるわけ無いだろっ。大体そんなネタ、やる意味が思い浮かばないぞ」

こんな冗談を飛ばしあえるほど、この町はいつも通りだった。ちょっとした混乱もあるにはあったが、それでも、世界の滅びを三日後に控えたこの町は、それを希の言うとおり「冗談」のようなものとして受け止めている節があった……少なくとも、まだここに残っている人間の間では。

(……どうなるんだろうな……)

横で英単語を復唱している希から目を離して、そのまま目線を空へと持ち上げる。何の変わりも無い青空と入道雲が広がるばかりの空は、このまま永遠に続いてゆきそうにさえ思えた。

三日後に終わる世界の空には、あまりにも不似合いに思えた。

 

「うっわー……今日もまたがっつり減ったね」

「仕方ないだろ。教える立場にある先生が率先して休んでるくらいだし」

授業開始二分前だというのに、教室の中は空席が半分近くを占めていた。「滅亡宣言」以降、この学校も少しずつ学校としての機能を失っていき、今では正常に行われる授業のほうが少ない。生徒も教職員もそれを理解しているのか、学校に通う人間の数は日に日に減っていった。

「おっはよー。なっちゃんはまだ来てたんだねっ」

「うん。他に行くとこ無いしね。あっきーも来るって言ってたよ」

「よう望。いよいよ減るとこまで減ったな」

「ああ。それでも来てる俺らって、一体何なんだろうな?」

「それはだな……朝起きて学校へ行き、友達とダベり、放課後を待ちわびながら先生の授業を寝て過ごす。それが、俺達平々凡々な高校生の成すべきことだからじゃないか?」

「そういうもんか……」

学校で学ぶことに何の価値も無くなった世界で、それでも学校に通い続けている俺たちがいる。それは確実に歩み寄る「消滅」という現実からの、浅ましい逃避と考えられなくも無い。けれどもどちらかというなら、「今までそうしていたから、最後までそうする」という程度の認識が正しかった。昨日まで学校に通っていた。だから、今日も学校に通う。それを、連綿と繰り返してきた。

「おーい、授業を始めるぞー。席に着けー」

「うわっ! 今日めちゃめちゃ人数少ないじゃん! 望っ、当てられたら答え教えてねっ」

「分かった分かった」

終わりが来るまで、それは続くのだろう。

 

「んーっ。やっぱり学校帰りはスイセン屋のアイスクリームに限るねっ」

「そうだな。こんなにうまいアイスクリームは、他じゃお目にかかれないさ」

学校帰りにアイスクリームを買って、希と一緒に食べながら帰る。中学生になった頃から、ほぼ一日おきに繰り返してきた習慣だ。むせ返る様な熱気の中で、舌を伝わる上品な甘さと確かな冷たさが心地よい。

「でもこの分だと、食えるのはあと一回きりになりそうだな」

「えーっ?! マジで?! おやっさん、店閉めちゃうんだ……」

「親父さんが言ってたぞ。最後の日には、店を早めに閉めるんだってさ」

「あっちゃー……それだったら、チョコレートも食べとけばよかったかも……あ、でもミントも捨てがたいねっ」

日に当てられて輝くバニラのアイスクリームにかぶりつきながら、希が名残惜しそうに言った。俺は俺で、イチゴ味のアイスも追加しとけばよかったな、なんてことを考えていたから、思考回路は希と大差ない。

「しょうがないかー。んじゃ、また新しいお店を開拓しなきゃねっ!」

「新しい店って言ったって、商店街の店はもう半分くらいシャッター下ろしてるぞ?」

「大丈夫大丈夫! 駅前のお店はまだばっちりやってるみたいだし」

「そういう問題でもないんだがな……」

希はあくまでもポジティブシンキングを貫くようだ。俺は苦笑いを浮かべつつ、アイスが溶け始める前にさっさと食べてしまうことにする。じっくりと味わって食べることができないのが、少々心残りだが。

「それにしても、ずいぶん人が減ったな……」

「そーだよね。みんな夏休みに入るの早すぎっ。フライングはよくないぞっ!」

「フライングとか、そういう問題じゃないって……お前、本当に分かってるのか?」

「ん? 何が?」

「三日だぞ? 今日入れてあと三日で、何もかも終わるんだぞ?」

「そうかも知んないけど、やっぱ夏休みは平等じゃなきゃダメだって。そうっしょ?」

「……あのなぁ……」

俺は頭を抱えるしかなかった。希は、本当に世界が終わるとは毛ほども思っていないようだった。俺自身そんなに実感があるほうではないと思うが、それでも、希よりかはあると思っている。三日経てば、本当に世界は消えてなくなると思っている。ただ、今ひとつ実感が無いだけだ。

「それよりさっ、来週英語のテストなんだよねっ。勉強しないとヤバくない?」

「だから、勉強するも何も……ん?」

希に返事をしようとしたとき、俺の目に奇妙な光景が飛び込んできた。夏の日差しと陽炎ではっきりとしない目を必死に凝らし、その光景の中にあるものを確認する。

「……ネイティオ? 児童公園に……ネイティオ?」

俺の目が捉えたのは、ここから目と鼻の先にある児童公園のど真ん中で佇んでいる、一匹のネイティオの姿だった。それは両方の翼を胸の辺りでしっかりと組み合わせたまま、遠くの空をただじっと見つめていた。

「あっ! あれ『ホープ』君じゃなくない?! うっわー……あたし初めて実物見たよっ」

「『ホープ』……?」

「知らなかった? 一ヶ月くらい前にここにふらーっと現れて、なんか知らない間に『ホープ』君なんて名前を付けられたネイティオがいたって話」

「……もしかして、ちょっと前までここで新興宗教の勧誘やってたおっさんが連呼してた『ホープ』ってのは、あいつのことだったのか?」

「そーそー。望も案外アンテナぴんと張ってるみたいだねっ。感心感心っ」

「あいつが……」

それは、聞き覚えのある名前だった。

消滅の混乱に乗じて急造された新興宗教の一つが、この町にも信者を広めるべくやってきたことがある。その時に教祖様がやたらと連呼していたのが「ホープはすべてを見通す」という言葉だった。俺はてっきり「ホープ」なんて名前の捏造神様ができたのだろうとばかり思っていたが、どうやらそういうわけではなくて、例の新興宗教は同時期にここに偶然やってきたネイティオを救世主か何かに仕立て上げて、それでもって信者を増やそうとしていた……というのが、この話の真相のようだ。結局、当の新興宗教は地元の神様の力が強かったこの町ではちっとも流行らず、早々に諦めて他にありがたい教えを広めに行ったそうだが。

「ねっ、ちょっと気になるし、見に行ってみようよっ!」

「お、おい希っ! 待て、待てって!」

唐突に走り出した希を追って、俺も走り出す。少しした後、揃って公園の中に入った。

「……………………」

「うっわー……前々から思ってたんだけど、なんかすっごいトーテムポールだよねー」

「トーテムポールって、お前いくらなんでもその例えは無いだろ」

ホープ――と呼ばれているそのネイティオは、俺達がすぐそばに近づいても何の反応も見せず、同じ姿勢を保ったまま、遠くの虚空をひたすらに見つめ続けていた。

「どこ見てるんだろ? 百億光年後と百億万年前ぐらい?」

「光年は距離の単位で、百億万なんて単位は無いぞ。大体、過去と未来を同時に見ることなんてできるわけないだろ」

「えーっ? 望、知らないの? ネイティオってさ、左右の目で見てるものが違うってこと」

「……どういうことだ?」

希の言葉に、面食らって問い返す。希は得意げにふんぞり返ると、こんな答えを返してきた。

「ネイティオは左目で過去を見てて、右目で未来を見てるんだって。便利な目だよねっ」

「左目で過去を……右目で未来を……」

「うんうん。それでさ、ネイティオが一日中ぼーっと突っ立ってるのは、未来予知して見た出来事がすっごく怖いから、それに怯えて動けないんだってさ」

「……なるほどな」

希の説明を聞いて、俺はホープが動かずにいる理由が分かった気がした。

(ホープは……今まさに「終わってしまった世界」を見てるんだろうな……)

あらゆるもの、あらゆる心、あらゆる人間、あらゆる生物……考えられるすべてのものが消滅した虚無の世界を、ホープは見ているのだろう。それはどれほど恐ろしく、また悲しい光景だろうか。そこから始まるものは何一つとして無い、永遠に続く空虚な空間。ホープは未来予知をして、そんな悲しい世界を見つめているのだろう。

(……そう考えると、「ホープ」(希望)なんて名前は皮肉だよな……)

ホープが見ているのは、あらゆる希望の芽が絶たれた世界に違いない。そんな世界を見つめるのに、「ホープ」(希望)などという名はただただ皮肉なだけに思えた。希望のかけらさえ残っていない世界で、一体どんな希望を抱けというのだろうか。少なくとも、俺には思いつかなかった。

……そして。

(こいつ……)

その俺の考えを裏付けるようなものが、ホープの「目」にあるのを見つけた。

 

(泣いてる……のか……)

 

ホープは、その瞳に涙を湛えていた。

無表情なその顔を、一筋の涙が伝っていた。それは本当に微かに、けれども確かに、ホープの頬を濡らしていた。ホープは、泣いていたのだ。

(……それも、右目だけ……)

ホープが涙を流していたのは、その右側にある――「未来」を見ているとされている――目だけだった。左目はからからに乾いていて、涙一つ流していなかった。ホープはこれからの「未来」に対して涙を流し、「過去」にはこれといって悲しいものは見ていないようだった。

(……間違いない。こいつは「消滅」したあとの世界を見ているんだ)

俺は納得すると共に、世界の消滅が悲しみと共にやってくるという事実を突きつけられて、どうにも重い気分になった。

「ほらーっ! 望っ、そろそろ帰ろうよっ!」

「ん? ああ。今行く」

希に催促されて、俺はホープの姿を見やりながら、ゆっくりと児童公園をあとにした。重い気分を引きずりながら歩くというのは、なかなかに骨の折れる作業だった。

「……………………」

ホープはそんな俺達には一瞥もくれず、ただ、どこまでも青く広がる空を見つめ続けていた。

 

「望ーっ! 毎日毎日大声で名前呼ばせないでよーっ!」

「呼ばなきゃいいだろっ」

次の日の朝も、変わらぬ風景が広がる朝。俺はせかせかと歩く希を追いかけ、気だるい体で歩いていく。それはもう、何度と無く繰り返され、そして体に刻み込んできた感覚。

「んもー。ちゃっちゃと歩かないと、夜になっちゃうぞー?」

「そこまで遅くないだろ」

鞄をぶんぶんと振り回しながら元気良く歩く希に、俺はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。それでも、そんな希を隣に置いて歩くことに、俺は何の違和感も感じていなかった。

(……………………)

今日も入れて、あと二日。あと二日で、この世界は終わる。泣いても笑っても、あと二日しか時間は残されていないのだ。そこにどんな思いがあろうと……何をやり残していようと、二日経てばそれはみなすべて灰燼に帰す。いや、灰燼さえ残らないだろう。何もかもが、一瞬で消えてしまうのだから。

「……はぁ。やれやれ……」

「ほらほらっ、ため息なんか吐いてないでさっ。今日もぴりっと頑張るぞーっ!」

「……お前はいつでも元気だよな……」

……俺も、やり遂げられずに消えていくのだろう。ただ、己の心のうちにしまい込んで……終わってしまうのだろう。そうに違いないと、俺は思った。

 

「でもさー、なんか外国の方はやばいらしいねっ」

「うん。それにさ、最近知らない人がちょっとずつ増えてきたんだって」

「『疎開者』だろ。田舎に行けば助かると思ってる、都会の連中だ」

「どこも変わらないってのにな。でも、ある意味では積極的な人たちだよな」

早めに学校に着き、昨日よりもさらに来ている人間が減ったことに少々寂しい気持ちになりながらも、いつものように座席に着く。座席に着いて真っ先に始まるのは、始業前のとりとめも無い雑談だった。

「それよりさー、なっちゃんが持ってるDVD、一本貸してくんない?」

「いいよっ。いろいろ持ってるけど、何がいい?」

「んー……じゃ、とびっきり怖いの貸してよっ。最近怖いもの分が足りてないからさっ」

「なあ春樹。今日入れてあと二日で、本当に終わっちまうのか?」

「終わるんだろうな……でもだ望。始まりがあるものには、必ず終わりがあるものだぞ」

「……………………」

「どんなに楽しい夢だって、いつかおはようを言わなきゃいけない時が来るんだ。四十六億年続いた夢も、あと二日で終わりって訳さ」

「……だな。後は目覚ましが鳴るのを待つだけ、ってとこか」

春樹の言葉を聞きながら、俺は机から教科書を引きずり出す。そろそろ始業だ。

「よーし。まだ学校に来ている賢明な生徒諸君は席に着けー」

「望っ、あたし達賢明なんだってっ。なんか得した気分だよねっ」

「お前が『賢明』の意味を知ってたことに驚いたぞ、俺は」

いつか終わる夢の中で、俺はいつものように過ごすことを選んだ。終わりが現実として近づいてきている中でも、俺は何も変わらなかった。ただ、いつものように学校へ行って、友達と話をし、希と一緒に家へ帰る。その繰り返しが、俺には何よりも性にあっていた。今更それを変える必要など、どこにもないと思っていた。

……ただ。

「望は数学苦手だよねっ。英語と交換して教えあいっこしようよっ」

「ん? あ、ああ……って、する意味無いだろ……」

……ほんの少しだけ、変えたかったものがあった……

 

学校帰りに、俺は希と一緒に本屋に立ち寄った。まだ営業を続けている、数少ない店だ。

「うわっ! 望、見て見てっ! あたしと望、来月超運勢いいみたいだよっ!」

「なんだって?」

希に言われて、俺は希の持っていた雑誌を覗き込んだ。

「『ちょっとした決断が、あなたの運勢を大きく前進させます』……これが俺か」

「うんうん。んで、あたしは『身近にいる人が、あなたに幸運を運んでくれるでしょう』だって! 超期待しちゃうよっ。テンションアガるねっ!」

「……いや、待て希。ここをよぉーく見てみるんだ」

「へ?」

ノリノリの希を落ち着かせるために、俺はその雑誌の上部を指差した。そこには……

「げっ……これ、先月の占い……?」

「ちょうど一ヶ月前か……多分、ここの本屋、一ヶ月前から品揃えが変わってないんだな」

「うっひゃー……ってことは、これって来月じゃなくて、今月を占ってるってことだよね?」

「そうなるな」

ちょうど今の時期を内に含んだ、占いが有効になる(らしい)日付だった。「滅亡宣言」が出てから、どうやら出版物は揃って死んでしまったらしい。ここに置いてある雑誌はみんな、一月前のものだった。

「あーぁ……なんか損しちゃったかもっ。テンションサガるよっ」

「上がったり下がったり忙しいな、お前は」

ふてくされながら店を後にする希の後について、俺も店を出た。

 

「でもさー、ここって平和だよねっ。山吹とか小金とか、もうマジヤバいらしいじゃん」

「そうみたいだな。略奪や暴力がはびこってて、どうにもならないって聞いたぞ」

道すがら、まるで他人事のように交わす会話。他人事のようでいられるのは、この町がそういった崩壊を迎えることなく、そのままの形で消滅できそうな町だったからに他ならない。それは消えゆく世界の中にあって、とても幸せなことなのかも知れなかった。

「スズの塔とかも壊されちゃったって言うし、なんかもうぐだぐだだねっ」

「まぁな。文化遺産つったって、『遺す』意味が無くなる……ん?」

俺がそう言いかけたとき、またしても、あの光景が目に飛び込んできた。

「えっ? 何々……って、うわっ! ホープ君、まだ公園で突っ立ってるよっ!」

「どうやらあいつは、あそこを自分の住処に決めたみたいだな……」

公園の真ん中に立つ、ホープの姿。それは相も変わらず遠くの虚空を見つめたまま、何にも流されること無く、その場に佇んでいる。それはまるで、もはや生きる気力をなくして立ち尽くしているかのような、絶望を思わせる風貌だった。この世界の置かれた状況と重なって、嫌に印象的に映って見えた。

「……………………」

そして、目を凝らしてみると……その右目にはやはり、きらりと光る涙を湛えているようだった。ホープの予知した未来に対する悲しみは、どうやら尽きることの無いもののようだ。一体どれほどの絶望を、ホープは感じているのだろうか。それを推し量る術を、俺は持っていない。

「なんか悟った感じだねー。やっぱトーテムポールだって」

「……………………」

希の軽口にも、俺は返事をすることができなかった。

 

「望ーっ! さっさと来ないと、明日の朝になっちゃうぞぉー!」

「分かった分かった。すぐ行くから、そこで待ってろ」

朝の風景。見慣れた風景。坂道を上る俺、その隣で歩く希。

「今日さ、なっちゃんと一緒に出かけてくるから、悪いけど一人で帰ってくれない?」

「別にいいが、どこに行くんだ?」

「ん? それがさっ、なっちゃんからDVD借りようと思ったら、全部見たことあるやつだったんだー」

「で、夏樹と一緒に新作を物色しに行く、ってとこか」

「あったりーっ! さすがは望っ! これなら英語のヤマもばっちりだよねっ!」

「……あのなぁ……」

朝の風景。叩き慣れた軽口。突っ込む俺、マイペースで話す希。

(これも……今日で最後か)

そう。今日という日が終わってしまえば、もう二度とこの風景の中に戻ることは無い。

「……これで、おしまいなのか」

「ん? 何が?」

「いや……」

……俺は言いたいことも言えずに、消えるのだろう。それが、定められた最期なのだろう。

 

「おっはよーっ! なっちゃんっ、今日放課後空いてるよね?」

「ばっちりだよ。一緒に見に行く約束したからね」

「よっす。いよいよ今日で最期だな」

「ああ。なんだかんだで、ここまで来てみるといろいろと名残惜しいもんだ」

春樹は机の上にノートを置いて、慈しむように眺めていた。

「なんだそりゃ? 授業用のノートじゃないな」

「これか? まあ、俺の努力の結晶ってとこだ」

「努力の結晶……?」

「小説を書いてたんだ。長編のな。百八十五話までできてたんだぜ」

「お前が小説を……? しかも、えらく長いのを書いてるんだな」

「ああ。もう少しで最高の山場だったんだが……どうやら、未完に終わりそうだ」

小説の案をまとめているであろうノートを両手でしっかりと持ちながら、春樹がつぶやいた。

「でも、俺は最後まで書き続けることにするぞ。頭の中に留めたままじゃ、勿体無い」

「……………………」

「頭の中から出してしっかりとした形にしてやらなきゃ、人物もプロットも可哀想だ」

「……ああ。最期の瞬間まで、全力を尽くしてくれよ」

「もちろんさ」

春樹はそう言うと、ノートを机の中にしまった。

「よーし、授業を始めるぞー。席に着けー」

「望っ、今日も当てられたら頼むねっ」

「……はいはい」

そしてまた……何度も繰り返された、けれども、もう繰り返されることの無い、ありきたりな日常が幕を開ける――

 

「今日は一人か……隣にあいつがいないと、寂しいもんだな」

夏の日差しが照りつける中を、俺は一人歩いていく。いつも隣にいる希は、今日は夏樹と共にいるはずだ。

「希……夏樹を振り回してなきゃいいんだがな……」

歩きながらも思い浮かんでくるのは、元気に声を張り上げ、俺の前をしゃきしゃきと歩いていく希の姿だった。希が落ち込んでいるところなど、俺は見たことが無い。それだけ、あいつはいつだって元気で、俺はいつだってそんな希の後ろについていた気がする。希と一緒にいると、俺も知らない間に元気になっていた気がする。

「……………………」

……俺には、伝えたいことがあった。十数年間も一緒にいた希に、どうしても言いたい、けれども、どうしても言えなかった事があった。そうして言えないまま日々を過ごしている間に、世界はもう終わろうとしている。俺が逡巡している間も容赦なく、世界は消滅へと向かって歩んでゆく。遅すぎた。今更になって、それを痛感する。

「……ふぅ。このまま終わるのが、俺らしいといえば俺らしいか……」

口でそう言っても、本心から納得することは無い。暗澹たる気持ちが、静かに鬱積していく。

……と、その時だった。

「……ホープ……」

気がつくと、俺は公園の前まで差し掛かっていた。そこには昨日一昨日とまったく変わらない、静かに佇むホープの姿があった。俺は無意識のうちに、ホープの元へと向かって歩いていく。

「……………………」

ホープは俺にまったく興味を示すことなく、ただ、雄大な青空を見つめていた。俺はそんなホープの姿を、ぼんやりと見つめる。

(まだ……泣いてるんだろうな)

左側からは見えなかったが、きっとホープはまだ右目に涙を湛えたままだろう。ホープの目に映る未来というのは、もう終わってしまった後の世界しかないはずだ。それがどれほど悲しいものかは、容易に想像が付く。俺は特に意識することなく、ホープの涙をもう一度見てみようと思った。その涙が、暗澹たる気持ちを洗い流してくれる――俺は、そう考えていた。

――しかし。

「……ホープ……?!」

そこには、俺の想像もしなかった光景が広がっていた。想像もしていなかっただけに、俺の驚きは相当なものだった。

 

「涙が……止まってる……?!」

 

ホープの右目からは、もう涙は流れていなかった。その目は雄大な青空をまっすぐに、歪めることなく映し出していて、涙は欠片も見当たらなかった。ホープの涙は、止まっていたのだ。

「どうしてだ……? 明日にはもう、何もかも終わるってのに……」

俺がそう言葉を発したとき、ホープの首がほんの少し動いて、こちらの目をじっと見据えるのが分かった。無意識のうちに、俺がホープに問いかける。

「……なあ、ホープ。お前が今まで泣いてたのは、どうしてだ?」

この問いかけを聞いたホープは、俺をじっと見据えたまま、

(ひゅうぅっ)

不意に、一陣の風を舞わせた。

「おっと……」

その風に乗って、一枚の新聞紙が、明らかに俺に向かって飛んでくるのが見えた。ホープがどういうポケモンか――「超能力」を使う、ということだ――はよく分かっていたから、俺はそれをホープからのメッセージと受け取って、その新聞紙をキャッチした。からからに乾いて干からびた新聞紙を、俺は目を凝らして読む。

「……………………」

……それだけで、俺はホープの言いたいことを理解した。そして、ホープが何故涙を流していたかということも。

「そうか……今日だとか昨日だとかの、少し前から見た『近い未来』を……」

「……………………」

頷くホープ。俺の考えは正しいようだった。

「……荒れる世界、壊れる世界、崩れる世界……」

「……………………」

「……嘆く人間、悲しむ人間、怒る人間……そういうのを、ずっと見てきたわけか」

干からびた新聞には、「滅亡宣言」が出て以降、国や地域としての形を失い、尊厳を放棄した人間の姿を報じる記事が、所狭しと書かれていた。それはあまりにも悲しい光景で、絶望的な風景だった。そんな光景、風景が、世界中のありとあらゆる場所で展開されている……ホープの目は、そのすべてを見ることを余儀なくされたのだ。そんなものを見せられて、涙を流さずにいられようか。悲しまずにいられようか。ホープの涙の理由は、そこにあったのだ。

「今のお前が見ている未来は、もう『消滅』した後の世界なんだよな……」

「……………………」

「お前は……悲しいものを見て、涙を流してたんだよな……」

「……………………」

「じゃあ、お前が泣くのを止めたってことは……」

「……………………」

ホープが頷いたとき、俺はすべてを理解した。

「……ああ、やっぱり、そういうことだったんだな……」

その意味が分かったとき、俺の中に生まれたまったく新しい感覚。それは一種の安堵。それは一種の安寧。それは一種の安息。

 

……それは、一種の「希望」。

 

ホープの見ている未来に、「涙」はない。それが何を意味しているかなんて、簡単に分かる。つまり……涙の無い世界。もっと言うのなら……泣く必要の無い、そんな世界。

ホープの見ている未来は……その名の示すとおりの「希望」のある世界なのだ。それがたとえどういった形であれ、今の悲しい世界よりもずっと素晴らしいものであることは、ホープの乾いた目が雄弁に物語っていた。それは確かにあらゆるものが失われ、すべてが消滅した世界ではあるけれど……けれども、ホープはそこに、今の世界には無い「希望」を見出していた。

まったく新しい形の、「希望」を。

「ホープ……」

……そして。

「望ーっ! あーっ! やっぱりここにいたーっ!」

俺にとっての「希望」が、不意に姿を見せた。いつものように駆け寄る姿さえ、今はたまらなく眩しいものに見えた。

「希……お前、夏樹はどうしたんだ?」

「それがさー。駅前のビデオ屋行ったら、もう閉まってたんだよねー。テンションがた落ちだよっ。なっちゃんは家に帰っちゃうし、もうダメダメだねっ」

「仕方ないな。もうこんな時間だし」

そういって見上げた空は、どこまでも青かった。

「……………………」

明日はもう来ないと分かっている。今ここでこうして見ている風景は、これでもう見納めだと分かっている。

「なあ、希」

「ん? どしたの?」

明日には消える世界。明日には消える俺。明日には消える希。明日には消える思い。

すべては、明日には消える。

……だからこそ。

……だからこそ、俺は……

 

「英語のテスト勉強、一緒にやろうぜ」

 

ほんの少しだけ、前に進むことにした。いつも通りの形で、いつも通りの、二人の形で。

「えっ?! ホント?! 教えてくれるの?!」

「ああ。お前が理解できるまで、何度だって教えてやるさ」

それは本当に少しだったけれども……俺と希の距離を縮めるには、十分すぎる一歩だった。

「うっはー……でもでも、あたし英語からっきしなんだよねー……途中で帰ったりしない?」

「しないって。徹夜でさ、ぶっ通しでやりゃいいんだよ。お前、今までだって一夜漬けだっただろ?」

「あははっ、そういえばそうだったねっ。うんうんっ! テンションアガって来た!」

「よし。こうなりゃ、徹底的にやるぞ。その代わり、数学はお前に任せるからな」

「任しといてよっ! 計算はあたしの十八番なんだからねっ!」

そう言って鞄を振り上げる希の顔には、喜びが満ち溢れているように見えた。きっと、俺も似たような表情をしていたことだろう。

「そういえば、まだ三時だったな。スイセン屋のアイス食ってこうぜ」

「うんうんっ! さっき行ったときも、まだばりばり開店中だったよっ」

「ああ。チョコでもミントでも、食いたいものを食っていいぞ。俺も食べたいのが結構あるんだ」

ちょっとした決断が、運勢を大きく変える。それはどうやら、正しいことのようだった。

「でもさー、徹夜するとなると大変だよねっ。総力戦だよっ」

「まぁな。眠くなったら、俺が起こしてやるよ」

「うんうんっ! これで来週のテストはカンペキだよねっ!」

「ああ。俺とお前が一緒なんだ。テストが終わったら、ぱーっと遊びに行こうぜ」

「さんせーいっ! 約束だからねっ!」

「ああ、約束だ」

この世界は、明日で終わる。それは唯一つの例外もなく、平等に訪れる最期。

明日になれば、形のあるものも、形の無いものも、すべてが消えて無くなる。

それが……この世界のたどり着く、最後の目的地。

……けれども、俺には。

「どうせなら、二人っきりでどっか行きたいよな」

「あっ! それいいそれいいっ! あたし、望とだったらどこにでも行っちゃうよっ!」

「……ああ。俺も希とだったら、どこでも行くぞ」

「いいねいいねっ! 来週が待ち遠しいよっ!」

そんなことよりも、来週のテストが終わった後の、希との約束の方がよっぽど大事だった。

「望っ」

「どうした?」

「今日は……」

「……………………」

「今日は……ずっと、ずっと一緒にいてねっ」

「……ああ。もちろんだ」

ああ、どうやら俺は、つまらない一人相撲をしていたらしい。こんなことなら、最初から迷ったりせずに、きちんと言えば良かったんだ。

希は俺と一緒にいることをのぞみ、俺は希と一緒にいることをのぞむ。二人とも、同じだったってわけだ。

ずいぶんと遅くはなったが……けれども、ちゃんとやり遂げることができた。もう悔いは何も無い。やり残したことを、きちんとやり終えることができた。それだけでもう、俺には十分だった。

希の気持ちが、俺にはうれしかった。

「それじゃ、行くか」

「うんっ」

そう短く言葉を交し合って、児童公園を後にする。

「……………………」

……背中に、涙を流すのを止め晴れ晴れとした面持ちをした、ホープの眼差しを受けながら。

 

 

それでは、皆さん……

 

……また、明日。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

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Written by 586