「私の世界」

586

閉じられた世界。たった一人を除いては、何人も入ることを許されない世界。永遠の世界。終わることのない夢の世界。終わることを忘れた、夢の世界。終わるための機構を外した、永遠に続く夢の世界。

「……夢眠病患者、三万人を突破。今後も増加の恐れ……やな世の中だ」

「そうだな」

同僚の言葉に、私は短い言葉で応じた。私の意識は同僚の話ではなく、目の前のディスプレイに向けられている。カタカタとキーボードを叩く音が、この空間の音楽だった。

私はキーボードを叩き続けた。目の前にある仕事を片づけることが、私がこの空間ですべきことだからだ。仕事は予定よりも少し遅れている。可能であれば、予定通りのタイムテーブルに乗せたい。

「なあ、今度の日曜日、一緒に釣りにでも行かないか?」

「すまない。日曜日はもう予定が入っているんだ。また今度にしてくれないか」

「それだったら仕方ないな。あんまり根を詰めすぎるなよ」

同僚はそう言ったきり、私に話しかけてくることはなくなった。私は特に気にすることもなく、目の前の仕事をさばき続けた。

最近、「夢眠病」(むみんびょう)という病が流行っているらしい。あたかも死んだように眠り続け、そのまま目を覚まさない病だ。

目を覚まさないといっても、体の各感覚器官はすべて生きているときと同じように動いている。言葉を発することもあるし、自分で体を動かすこともある。植物状態とは一線を画す、また違った状態だ。

夢眠病は外からの刺激に一切の反応を示さないという特徴がある。意識がすべて自分の頭の中で展開されている「夢」に向けられているため、何をされても気づかないのだ。そのため、この病の有効な治療方法は確立されていない。

この病は一九九九年初頭から確認されはじめ、現在はその患者数が三万人を超えるに至った。確認から六年あまりが経つにも拘わらず、未だに有効な治療法が提案されていないことに、多くの人々が不安と苛立ちを募らせている。

「それじゃあ、お先に」

「ああ。また明日」

私は仕事を切り上げて先に帰る同僚を見送り、すぐに自分の仕事に戻った。遅れていた分をもう少しで取り返せそうだったので、私は仕事を片づけてから帰ることにした。

それもすぐに終わり、私はコートを取って仕事場を後にした。エレベータで一階まで降り、ガラスの自動ドアをくぐる。そのまままっすぐ歩き、駅へと向かう。通い慣れた道だ。

「……広島で新たな夢眠病患者。患者は十一歳の少年……」

「……………………」

電光掲示板に表示されたニュース速報を眺めながら、私は横断歩道を渡った。これを渡れば、もうすぐ駅だ。

夢眠病の患者の大部分は、九歳から十四歳までの少年少女だ。二十歳を過ぎた大人の夢眠病患者が出たという話は、今のところ聞いたことがない。そして恐らく、これからも聞くことはないだろう。

不幸にして夢眠病に罹った(かかった)人間の多くは、そこで成長が止まる。体の代謝機能に変調を来し、その姿のまま、長い年月を生きてゆくことになるのだ。ある研究者の発表によると、夢眠病患者はそうではない人間と比較し、身体の成長速度が二百分の一にまで低下してしまうという。

九十九年に確認された最初の夢眠病患者は、十二歳の少女であった。十年が経った現在も、少女はその時の姿をとどめたまま、長い夢を見続けている。誰からも邪魔されることなく、自分の中に広がる世界の中で、終わることのない夢を見続けている。

私が歩いていると、前から私より少し年下の会社員が二人、何かを話しながら歩いてきた。

「聞いたか? 黒松さんとこの娘さんが、夢眠病に罹ったらしいって」

「聞いたよ。なんでも、学校でいじめられてたとか……」

「なんか関係あるらしいな。夢眠病の患者って、ほとんどが少し前に何かあって夢眠病になったらしいし」

「ああ。この前テレビで言ってたけど、『自分の世界』に引きこもっちゃうんだってな。こえーな」

二人の会社員がしていた会話を耳に入れながら、私は駅へと続く階段を下りた。そのまま駅の改札をくぐり、定期券を取って定期入れに戻す。そして、地下へと続く階段を一段一段降りてゆく。

夢眠病の患者の大部分は、夢眠病に罹る直前、何らかの精神的な傷を負っていたという報告を読んだことがある。夢眠病の患者に共通しているのは、皆性格がおとなしく、どこにいても目立たないタイプだということだ。よく言えば穏やかで、悪く言えばいわゆる「いじめられっこ」のタイプに分類されるような子だ。

ある心理学者によると、夢眠病はそのような人間にとっての「逃げ道」であり、ある種の精神防衛機能ではないかという仮説があるそうだ。つらい現実から自分を守り、眠ることで外からの刺激を断つ。精神の安定のために、本人が意識しないうちにこの病に罹ることを選んでいるというのだ。

人間にとって眠りの中で見る「夢」というのは、誰にも邪魔されることのない唯一の絶対空間だ。自分以外の誰にも侵入されることのない、いわば聖域である。聖域の中で、患者は様々な夢を見る。夢眠病は人間に「楽しい」夢しか見せないところが、ただの夢とは違うところである。

「ねえねえ。ちょっと聞いて」

「どうしたの?」

私の横で、塾帰りとおぼしき少女が二人、おしゃべりをしながら階段を下りていった。

「この前ね、夢眠病になっちゃった歩美ちゃんのところにお見舞いに行ったんだけど……」

「うんうん」

「なんだか、死んじゃったみたいに眠ってて、すっごく怖かったの。もちろん息もしてるし、心臓も動いてるけど、なんだか生きてるようには見えなかったわ」

「そうなんだぁ……起きるの、いつになるかなぁ……」

「歩美ちゃんのお母さんの話だと、もっと先になるんだって……」

塾帰りの少女二人の会話を耳に入れながら、私は電車が来るのを待った。

「皆様、まもなく三番線に、電車が到着いたします。危険ですから、足下の白線まで、お下がりください」

電車はすぐにやってきた。私は素早くそれに乗り込み、つり革を持った。塾帰りの少女二人は、反対側のプラットフォームで電車が来るのを待っているようだった。

二人の少女を見送りながら、私を乗せた電車は走り出した。

夢眠病患者は、夢の中で冒険をしているという。

寝言や脳波の分析から分かったことだ。患者は夢の中で、この世界では到底できないような壮大な冒険を、ずっとずっとし続けているという。野を越え山を越え、川を渡り海を渡り、果てのない世界の果てを目指して進み続ける。そんな途方も無くスケールの大きな冒険だ。

最近さらに分かったことは、その冒険が「誰かを助け出す」という、実に明確な目的を持った冒険だということだ。最近の研究では、患者はその冒険の中の中心的人物になっており、他のメンバーを率いて冒険をしている夢を見ているという報告がなされた。夢の中で多くの「誰か」を助け出し、「誰か」に感謝される。

そんな夢だ。

立つ必要こそあったが、電車内の人影は少ない方だった。私は吊革に右手でつかまりながら、何気なく天井の吊り広告に目をやった。

「『夢眠病』背景にあの大ヒットゲームの陰」

「夢眠病患者に共通する『ポケットモンスター』というゲームの存在」

週刊誌の広告だった。

「……………………」

私はそれをじっと見つめながら、電車が目的地の駅に到着するまでの時間を過ごした。電車の中は静かで、時折誰かが新聞をめくる音が聞こえる以外には、これといった音は入ってこなかった。

ポケモン、正確には「ポケットモンスター」は、一九九六年二月二十七日、家庭用ゲームハード「ゲームボーイ」用ソフトとして発売された。発売直後の売れ行きは今ひとつであったが、口コミや噂で評判が広まり、徐々に売れ行きを伸ばしていった。

このゲームの世界では、「ポケモン」という、動物でも人間でもない第三の生物が住んでいる。人間はそれを捕獲し、お互いに戦わせたりする。設定としてはこの程度ではあるが、ノスタルジックな「虫取り」の要素に「戦い」というテーマを付け加えたことで、遊びの幅が大きく広がった。

当初「五万本売れれば上出来」と言われていた「ポケットモンスター」は、目標の五万本を楽々と突破し、現在も売れ行きを伸ばし続けている。シリーズの続編もリリースされ、すべての関連ソフトウェアの総売上本数は世界で一億本を超える。まさに「化け物」ソフトだ。

「次は、梅田、梅田です。お乗り換えの方は……」

そうアナウンスが入り、間もなくして電車は梅田駅にたどり着いた。人影がまばらだった車内に、多くの人が乗り込んでくる。私は吊革をしっかりとつかみ、自分の位置を確保した。

「えーっ?! あいつの弟が?!」

「そうらしいぜ。一週間前からずっと眠ったままで、全然起きないって」

「それってさ、前から言われてるあの病気じゃね?」

「だろうな。家族もみんなどうしたらいいか分からねえって、おろおろしてるってさ」

二人の男子学生の会話が、私の耳に入ってきた。

「でもなんであいつの弟が?」

「なんかさ、学校でいじめられてたらしいぜ。それが原因じゃね?」

「なんだか怖ぇな。それ」

私は真っ暗な窓の外を眺めながら、すぐ近くで展開されている二人の男子学生の会話に、じっと耳を傾けていた。

「そう言えばあいつ、『弟がやたらとポケモンにはまってた』とか言ってなかったか?」

「言ってた言ってた。あいつの弟、その『ポケモン』とかいうゲームにすげえはまりこんでたんだってさ。なんかもうそれしか生き甲斐ないの? っていうぐらいに」

「やっぱなあ……夢眠病とポケモンって、なんか関係あるらしいし」

「それでさ、これはあいつから聞いた話なんだけど、あいつの弟、ずっと寝言でそのポケモンってゲームに出てくる『技』とか『キャラ』の言葉を言い続けてるらしいぜ」

「なんかさ、他の夢眠病患者もそうらしいな」

「テレビで見たぜ。みんなあいつの弟そっくりだった」

私は目を閉じ、電車が目的地に到着するのを待つことにした。

夢眠病患者に共通すること。それは先程述べた「精神的な傷」のほかに、もう一つある。これまでに確認された夢眠病患者は、例外なくあの「ポケットモンスター」の熱烈なファンだったのだ。ほとんど患者がゲームのみならず、後に発表された漫画作品やアニメ作品にも、強い興味を示していた。

彼らの夢の中には、彼らが大好きなポケモンが出てきているという。これもごく最近の研究で分かったことの一つである。脳波を映像化する装置が開発され、その映像を解析した結果、夢の中にポケモンが出てきているということが判明したのだ。夢眠病患者はその夢の中で、ポケモンたちと一緒に長い冒険の旅を続けている。

彼らは終わらない夢の中で、ポケモンたちに囲まれながら生きている。自分達が大好きなポケモンに囲まれて、永遠に終わることの無い楽しい夢を、ずっとずっと見続けている。邪魔をするものは誰もいない。彼らは聖域の中で、いつまでもいつまでも、楽しい夢を見続けるのだ。

「……………………」

私は人ごみに押し出されるようにして電車を降りた。人の流れに逆らうことなく、階段を昇り、改札をくぐり、次の電車に乗るための別の改札を目指す。私がその方向に向かって歩き出すと、人の流れが急に減った。私が家に帰るために乗る路線は、利用者が他の路線より少ない。

「愛美ちゃん、今日も起きなかったね」

「そうね。早く元気になってくれるといいわね」

私の横を、幼い少年とその母親が歩いてゆく。少年は母親に手を引かれ、母親に遅れまいと足を運んでいる。二人は私と同じ方向に向かって歩きながら、なおも話を続けた。

「でも愛美ちゃん、すっごく楽しそうだったね。『ゆきとくん、がんばって!』とか。起きてるみたいだったね」

「そうね。きっと、すごく楽しい夢を見てるのよ」

「ほかにもこんなこと言ってたよ! 『みずでっぽう!』とか! なんだかポケモンになりきってたみたいだった!」

「愛美ちゃんはきっと、大好きだったポケモンになる夢を見てるのよ。愛美ちゃん、ポケモンが大好きだったでしょ?」

「うん! いっつもポケモンの話をしてたからね!」

親子はしばらく私の近くを歩いていたが、ある時右に曲がり、そのままその姿を消した。私は真っ直ぐに進み、次に乗る電車がやってくるプラットフォームへと降り立った。

夢眠病患者は、ポケモンになっている。

夢眠病患者の見ている夢は、周囲をポケモンに囲まれているというだけではない。夢を見ている彼ら自身も、ポケモンになりきっているのだ。

彼らは終わることのない永遠の夢の中で、自分が大好きなポケモンになりきることができる。これが楽しくないはずはあるまい。

ポケモンになった彼らは、他のポケモンを率いて冒険をする。彼らは皆人語を解し、会話も人語によって行われる。そのため夢眠病患者は、ただ眠っているだけの人間とは全く比較にならないほど、鮮明で聞き取りやすい「寝言」を言う。それは寝言と言うよりも、普通の会話に近い。

彼らの寝言には、他のメンバーを応援するような言葉、独り言、何かの技の名称のような言葉といったものがほとんどだが、中にはとても長いものもあるという。ある病院では、最大十分間に渡って他のメンバーに自分の意見を訴え続けるような、そんな寝言も記録された。

私は先ほどとはうってかわって閑散とした電車の座席に座りながら、目的地に着くのを待っていた。乗り込んでいるほとんどの人間が、居眠りをしているか新聞を読んでいるかのどちらかの姿勢をとっている。

その中で唯一、そのどちらでもない姿勢をとっている人間がいた。

「……そうか。今日もそんな感じか……」

口に手を当てながら、小さな声で誰かと携帯電話で話をしている、中年の男性だ。恐らくは、私と同い年かそれより少し年上の人間だろう。他人の目をはばかりながら、それでも話を続けている。

「どうだ? お前や私、いや、あの子の友達でもいい。誰か知り合いの名前だとか、そんな言葉は……」

「……………………」

「……今日も……あの子が言った『人』の名前は『きょうすけ』と『ゆういち』だけか……」

私は聞こえてきた会話を耳に入れながら、ネオンサインがきらびやかに光る夜の外の景色を眺めていた。

少し前に分かったことがある。夢眠病患者は、彼らが「人間」だったときの記憶を、夢を見始めたときからずっと思い出さなくなるという。忘れたわけではない。自分の意志かはたまた無意識のうちにか、自分が「人間」だったときの記憶を「思い出さない」ようにしているのだ。

彼らは「人間」としての記憶を捨てることで、普通の人間なら例外なく戸惑うような状況に、驚異的なスピードで順応してしまう。最初は物珍しかったそれが徐々に「普通」の光景となり、今までの「普通」が「普通」ではなくなってしまうのだ。

その代わり、彼らが「人間」だった時に近くにいた人間や親しくしていた人間の名前も、例外なくすべて思い出さなくなってしまう。寝言に出てくる名前は、聞いたこともないような名前ばかり。彼らは「人間」だったときに親しくしていた人間をあっさりと忘れ、周囲の人間が聞いたこともないような名前の仲間を、この上なく大切にするのだ。

自分が忘れられてしまった。このあまりにも残酷な事実を受け入れることができず、苦悩と懊悩(おうのう)の果てに「自殺」という悲しい道を選んでしまった夢眠病患者の親を、私は何人も知っている。特にそれは母親に多い。自分の腹を痛めて生んだ子供が、自分のことを何もかも忘れてしまうのだ。そのときの心境は、察するにあまりある。

「ご乗車ありがとうございました。堺東、堺東です。お乗り換えのお客様は……」

私は目的地の駅にたどり着くと、さっと電車を降りた。ここからは歩いて帰ることができる。私は定期券を改札に通すと、右側の出口を通って、駅から外へと出た。突き刺すような冬の寒さが、身に応える。

私は特に寄り道をすることもなく、もう何度通ったかも忘れてしまった、いつも通る道を通って家へと急いだ。途中に出会う人間の数は少なく、物寂しい印象を与えている。

「ただいま」

私は家のドアを開けて、家の中へと入った。私の挨拶に、返ってくる声はない。時計は午後九時を指している。家の中は電気がすべて消され、完全な暗闇を形成していた。

「……………………」

私は無言でリビングの電気を点け、テーブルからいすを引き出す。手にしていた鞄をいすに座らせた。そのまま手を背広に回し、濃いグレーの背広を脱ぐ。それもいすに掛けると、私はリビングを後にした。

「……………………」

(ガチャ)

私はリビングから少し歩いたところにある、小さな部屋のドアを開けた。部屋の中も電気が消され、真っ暗だった。私は手探りで電気のスイッチを探し、それをパチンと押した。

「……………………」

「……すー……すー……すー……」

私の目の前には、安らかな表情で眠る、私と亡き妻の愛娘の姿があった。

「ねえお父さん、これなぁに?」

七海がそれに興味を示したのは、彼女が八歳の時だった。彼女の小さな指が指さす先には、コンピュータのディスプレイがあった。

「やってみるか?」

「うん!」

私は席を七海に譲ると、彼女はうれしそうにキーボードをたたき始めた。私はそれを、おそらく、微笑みながら見つめていたのだと思う。その時はその光景に、不安や焦燥は何一つとして覚えなかったからだ。

七海はしばらくキーボードを叩いていたが、不意にくるりと私の方を振り返り、

「お父さん、これ、おもしろいね!」

「そうだろう。今お父さんたちが一生懸命作っているものだからな」

「いつできあがるの?」

「そうだな……よし。七海の誕生日までに完成させて、七海にプレゼントしてやろう」

「ほんと?! やったぁ!」

私は飛び上がって喜ぶ七海の姿を、うれしさとともに見ていたはずだ。娘が喜ぶ姿を見てうれしくない父親がいたならば、お目にかかってみたい。私は間違いなく、その時に「幸せ」を感じていたはずだった。

「七海ったらどうしたの? そんなに大きな声を出して……」

「あっ! お母さん! 聞いて聞いて!」

「なぁに?」

「お父さんがね、七海にプレゼントをくれるって言ってくれたんだよ!」

「あら! よかったじゃない! 何をくれるの?」

「えっとね……」

妻もはしゃぐ娘の様子を、微笑ましく見ていたはずだ。私の記憶の中のその時の二人は、とてもうれしそうな表情をしている。

していた、と言うべきか。

「……さあみんな、そろそろいくよ……」

「……………………」

社内のプロジェクトチームの士気は、これ以上なく高かったはずだ。皆はこのプロジェクトが成功するものと信じて疑わず、誰も不安や疑問を口にする者はいなかった。それは過信からではない。自信からだった。

皆の頭の中には、すでに完璧な完成型が頭に入っていた。自分たちが何を作っているかが、手に取るようにわかっていたはずだ。それまでにも多くのプロジェクトに関わってきたが、これに比肩するほどスムーズな進行のプロジェクトは、これまで経験したことがなかった。

七海の期待は、日増しに膨らんでいるようだった。

「ねえお父さん、あとどれぐらい?」

「もうあと少しだ。できあがったら、真っ先に七海にプレゼントするぞ。約束だ」

「うん! 約束だからね!」

「あらあら。そんな約束しちゃって、大丈夫なの?」

「大丈夫に決まっているだろう。私はこのプロジェクトの……」

私も妻も七海も、笑っていたのだと思う。いい顔を、していたのだと思う。

今となっては、うまく思い出せない。

「……きめたよ……きょうは……ここにいこうね……」

「……………………」

ついにそれは完成した。一九九六年二月二十七日、それは店頭で売り出され始めた。私たちは成功を確信し、あえて大々的なCMは打たなかった。出足は鈍いだろうと、そこまで予想していた。後からじわじわ売れて、それがだんだん爆発的なヒットにつながるだろうと、全員が予測していた。

その予想と予測は、見事なまでに的中した。社内はそのスマッシュヒットに大きく沸いた。

私は発売日にわざわざそれを買って帰り、家で待つ娘にプレゼントした。

「うわぁ……できあがったんだね!」

「そうだとも。さあ、やってみなさい」

「うん!」

七海は大きく頷いて、手にしていたゲームボーイにそのカートリッジを差し込んだ。

「ピコーン」

あのときに聞こえた、ゲームボーイの起動時に聞こえるロゴマークが降りてくる効果音が、今も私の耳から離れない。

あの音はあのとき間違いなく、私と娘をつなぐ、幸せを象徴する音だったはずだ。私が娘と会社のために心血をそそぎ込んで完成させたものを、私の愛する娘が遊ぶのだということを証明する、幸せな音だったはずだ。

「……あぶないよみんな、きをつけて……」

「……………………」

私と妻、そして七海は、それを三人で楽しんでいた。

「あっ! 野生のキャタピーが出てきた!」

「あら! 青虫みたいなデザインね。やだわ、私、虫苦手なのに」

「七海に任せて! がんばって! ひとちゃん!」

狭く小さな画面を、三人で見つめていた。黄色と黒で作り上げられたそれはしかし、私たちにとっては、どこまで美しく広い世界に思えた。

「ほぉー。ずいぶん強くなったな」

「えへへ……七海、がんばったでしょ!」

「その調子だぞ。ゴールはまだまだ先だからな」

「うん!」

笑顔で頷く七海の姿が、私にはとてもとても美しいものに見えた。それさえあれば何もいらないと思えるような、それほどのものだった。私は間違いなく、心から満足していたはずだった。私が求めていたものが、そこにあったはずだった。私の苦労に見合うものが、そこにあったはずだった。

その手に、しっかり掴んだはずだった。

「……………………」

「……………………」

それがおかしくなり始めたのは、いつからだろうか。もうよくは覚えていない。いや、正確には違う。私の中の何かが、その時期のことを思い出すことを抑えつけているような感覚があるのだ。ちょうど夢眠病患者が、自分達が「人間だった」時のことを、自ら思い出すことをしないのと同じように。

七海が十歳になって、しばらく経った後のことだった。

「……七海、どうしたの? なんだか元気がないみたいだけど?」

「……ううん。なんでもないよ」

学校から帰ってきた七海にどこか元気がないのを、妻が見つけて理由を問うた。しかし七海はそれに曖昧な答えしか返さず、そのまま自分の部屋へとこもってしまった。

妻も私も、その時は特に気にも留めなかった。気に留めるほどのことでもないと、自分達で判断していた。大したことではないと、そう考えていた。

今思えば、何から何まですべて、それが始まりだったのかもしれない。

「……かずきくん……そっちにいって……」

「……………………」

七海はそれから一年ほど、「学校へ行く→学校から帰ってくる→自分の部屋に引きこもる」というサイクルを、何度も何度も繰り返していた。同じ場所を回り続ける風車のように、その通りの行動をとり続けた。必然的に、私や妻と会話する時間は減った。私や妻が話しかけても、七海は相変わらず曖昧な答えしか返さなかった。

妻の話によると、七海は学校から帰ってきてからほぼすべての時間を自分の部屋の中で過ごし、その間ほとんど外に出ることはないという。私は問うた。

「七海は部屋の中で、何をしているんだ?」

私の妻はこう答えた。

「多分……あのゲームをしてるんじゃないかしら……」

私はその言葉を、寒々しい思いで聞いた。

「……みんな、だいじょうぶ? さっ……いくよ……」

「……………………」

そこから先は、今まで以上によく覚えていない。

七海の通う学校から担任の教師が訪れて、「七海ちゃんがクラスでいじめに遭っている」と言われたり、私と妻が深刻な顔をして六時間も話し込んだり、妻が泣きながら途方に暮れていたり、私と七海が初めて口喧嘩をしたり、それきり七海が私と口を聞いてくれなくなったりしたはずなのだが、よく覚えていない。

どれをとっても一大事のはずなのに、よく覚えていない。

七海がクラスでいじめの対象になった理由は、ごく些細なものだったらしい。私は消えかかる記憶を手繰り寄せながら、その理由を思い出した。忘れたと思っていたのに、思い出すまいと思っていたのに、それは実に簡単に、しかも思いの外明瞭に思い出すことができた。それが幸運だったのか不運だったのかは、私にも分からない。

七海がいじめられた理由を、担任はこう理由付けていた。

「七海ちゃんのお父様が、『ポケモン』というゲームの開発者の一人で、七海ちゃんが他のみんなより先にゲームをさせてもらっていた、そんなのはずるいと、クラスメイトの数人が言っておりまして……」

「……ねえみんな、ちょっといい? わたし、おはなしがあるの……」

「……………………」

くだらない理由だと思った。七海がいじめに遭う理由は、七海自身にはない。私にあるのだ。私が七海のためを思って作り上げたものが、七海を苦しめ、孤独の淵に追いやっていたのだ。

それだけではない。七海は孤独から逃れるために、さらにあのゲームをプレイし続けたのだ。自分を孤独へと追いやったものに、孤独の辛さを忘れさせてくれることを求める。これ以上の皮肉があると言うのならば、是非ともお目にかかってみたい。少なくとも私には、これ以上の皮肉は思いつかなかった。

当時、私はどうにかして、七海にまともな学校生活を送らせようと苦心していたはずだった。七海と話し合い、私が学校に行って説明するとも言った覚えがある。

それを七海が「やめて」と激しい調子で返してきたのにも、覚えがある。

「……わたしね、すこしまえ、ちょっとおもしろいものをみたの……」

「……………………」

その時は、不意に訪れた。

会社で仕事をしていると、妻が私に電話をかけてきた。仕事中に妻から電話がかかってくることは滅多になかったので、それはとてもよく覚えている。その時交わした、会話の内容もだ。

「どうした? 何かあったのか?」

「あなた、七海の様子がおかしいんです」

「七海がどうしたんだ?」

私はその時妻が発した言葉を、とてもよく覚えている。

「朝からずっと眠ったままで、いくら起こしても起きないんです」

私は珍しく定時で退社し、家路を急いだ。その時ほど急行電車が遅いと感じたことはなかった。恐らく、これから先経験することもないだろう。

「……………………」

(朝からずっと眠ったままで、いくら起こしても起きないんです)

私は頭の中で、妻が発した言葉を何度も何度も反芻していた。

「……たぶん、ねむってたときなんだけどね……」

「……………………」

私が家に着くなり、妻が私の元へ駆け寄ってきた。その表情は戸惑いと憔悴に満ち満ちた、今まで見たこともないような表情だった。私はそれを見るなり、七海の身に何か途方も無く恐ろしいことが起こったのだと、直感的に理解してしまった。妻も同じようだった。多分、私も妻と似たような表情をしていたのだろう。

「七海……」

「……………………」

私の呼びかけに、返って来る言葉は無かった。

その日から、七海はポケモンになった。

「……なんだか、ちいさなたてものみたいなばしょにいたの。ひみつきちより、ちょっとおおきいぐらいの……」

「……………………」

私は会社に長期休暇を申請し、妻と共に方々を駆けずり回った。あらゆる医者に七海の容態を調べさせたが、皆一様に首を振るばかりだった。内科医が言うには「代謝機能の一部に異常が見られます」、外科医が言うには「体温が平均より少し低いですね」、精神科医が言うには、

「恐らく、何か精神的なショックがあったのでしょう」

原因はそれしかなかった。思い当たる節は、いくらでもあった。原因など、突き止めようと思わなくてもたやすく突き止めることができるであろう。

しかし、七海がこんなことになった原因を突き止めたところで、何が変わるのだろうか。七海が私たちの手の届かない――物理的には手の届くところにいたとしても――場所に独りで旅立ってしまったという事実は、七海が旅立った理由を突き止めた程度では覆せないのだ。

もう、手遅れだった。

「……それでね、そこにあった『かがみ』をみたの。ほら、じぶんのすがたがみえる、あのひらべったくてつめたい……」

「……………………」

私と妻はすれ違いが増えた。しかし、お互いにいがみ合うことは無かった。ただ、会話が少なくなっていた。

私は仕事に復帰した。いつまでも私情で会社を休むわけには行かなかったからだ。現在進行中のプロジェクト――「ポケットモンスター 金・銀」――が、私がいなくなったことによってその進行速度を著しく落としていた。社内の人間からの要請だった。あるメンバーは、私にこう言った。

「プロジェクトリーダーが休まれては、プロジェクトが進行しません」

と。

「……そしたら、わたしのみためが、ぜんぜんちがったの。てもあしもながくて、あたまからはくろくてながいものがはえてたんだ……」

「……………………」

私は働きづめだった。いや、正確に言うならば、自分を働きづめの状況に追い込んでいたというのが正解か。働いている間だけは、七海のことも妻のことも、きれいに頭から消し去ることができる。落ち着いた気分になれる。

ちょうど……夢眠病患者が、自分にとって辛い思い出しかない「人間だった」時代のことを、「思い出さなく」なるように。

そんなある日のことだった。私はいつものように残業し、ある程度仕事を片付けてから、遅い家路に着いた。定時に帰ることもできたが、私は敢えて残業することを選んだ。一秒でも長く、家のことを忘れていたかったからだ。妻や七海のことを考えると、仕事が手につかない。

いっそ消えてくれればいいと思ったこともあった。

「……………………」

こういう歪んだ願いだけは、神様は実によく聞き入れてくれる。私は神様の存在を信じている。私が願ったことを、見事にかなえてしまったからだ。

……私が帰ったとき、妻はすでに冷たくなっていた。

手首から流れ出た血だまりの中に倒れる妻の姿を見たとき、私は何も感じられなかった。目の前に示された情報があまりにも多すぎて、自分で何かを考えてそれを抱くだけのスペースが残されていなかった。

「……………………」

私は無意識のうちに、かばんを取り落としていた。

かばんだけではない。妻、七海、平凡な暮らし、小さな幸せ、夢、希望、未来、将来。すべてがその手の中から、ことごとく零れ落ちていく。すべてが零れ落ちてゆく。押しとどめる暇も無く、掴むこともできず。

ただ、零れ落ちてゆく。

「……それでね、へやのどあをあけたら……わたしよりちょっとせのたかいひとがふたりいて、わたしのほうをにこにこしながらみてるの……わたしもなんだかうれしくなって、にこにこしてたの……」

「……………………」

私は独りになった。妻は自ら命を絶ち、七海は永遠に終わらない夢を見ている。私だけが、「現実」という黒い箱の中に閉じ込められている。否。私だけが、箱の中に入ることができないのかもしれない。他人の見ている夢を見ることができないように、入ろうにも入れないのかも知れない。

妻が死んだ後も、七海は夢を見続けた。

「かずき……あなたのなまえは、かずきなの?」

「……………………」

「かずきくんって、よんでもいい?」

「……………………」

私の知らない名だった。知るはずも無い名だった。

七海は「聖域」にいる。私が作っておきながら、私は絶対に入ることのできない、私が作ってしまった「ポケットモンスター」という聖域に、七海はいる。

私が作り上げた私の入れない私の世界に、私の娘がいる。

「……でも、それでおわっちゃったんだ……なんだか……」

「……………………」

「……へんな『ゆめ』だった……かな……」

七海にとっての現実は、私にとっての夢。

私にとっての夢は、七海にとっての現実。

「……ずっと……いっしょにいようね……かずきくん……」

「……………………」

「……あなたのこと……わたし、せかいでいちばんすきだから……」

「……………………」

七海の現実の中に、私はいない。

私の現実の中に、七海はいない。

「……せかいのなかで、いちばん、いちばん……」

「……………………」

「……だいすきだから……」

七海は私が知ることのできない「何か」に、私が知ることのできない感情を注ぎ込んでいる。昔私や妻が受けていた感情を、今は私の知る由も無い「何か」に向けている。

私の知ることのできない、「何か」に。

「……さっ、わたしのはなしはこれでおしまい。そろそろ、さきにすすみましょ……」

「……………………」

七海はポケモンになった。

七海は彼女の夢の中で、自分自身の夢をかなえた。私たちがかなえてやれなかった夢を、七海は自分ひとりの力だけでかなえてしまった。私たちが手を差し伸べる暇も与えず、自分ひとりでかなえてしまった。自分でかなえた夢を、自分だけで楽しみ続けている。

永遠に終わることの無い夢。終わることを忘れてしまった夢。終わるための方法を、自分から捨てた夢。

他に干渉されない夢。誰にも邪魔されることのない夢。手を差し伸べられることを、自分から拒んだ夢。

楽しい夢。外にいる人間にとっては、悲しい夢。

希望に満ち溢れた夢。外にいる人間にとっては、絶望に満ち溢れた夢。

「……きゅうじょたい、しゅつどう!」

「……………………」

聖域の中で繰り広げられる、永遠に続き続ける夢。

それはもう、終わることを忘れてしまったようだ。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

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