第五話「Blue Water Blue Sky」

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「たっだいまー!」

元気な声を上げて、佳乃ちゃんが診療所のドアを勢いよく開けた。佳乃ちゃんのでっかい声で気付いたのか、診療所の奥から聖さんが出てきた。

「お帰り。今日も何もなかったか?」

「ううん。とんでもないことがあったよぉ」

「ほほう……それは気になるな。喉は渇いてないか?」

「からっからだよぉ。冷え冷え麦茶一つくださーい!」

「分かった」

聖さんはにやりと笑って頷いて、ゆっくりと奥へと引っ込んでいった。

「あのことをお姉ちゃんに話したら、きっとびっくりしちゃうよねぇ」

「ぴこぴこっ」

「うんうん。お姉ちゃんにも見せてあげたいよねぇ」

佳乃ちゃんの言う「あのこと」というのは、さっき僕たちが見た人形劇のことだろう。少なくとも、遠野さんとのちょっと電波交じりの会話ではないことは確かだ。見ている限り、あの時佳乃ちゃんはちっとも驚いていなかった。だからきっと、あれは日常的な光景なんだろう。ちょっとヤな日常だけど。

「それじゃあ、行こっかぁ」

僕は佳乃ちゃんに抱かれて、診療所の奥へ入っていった。

診療所の中はひんやりと冷えていて、体中に溜まった熱気が心地よく飛んでいくような感触だった。

 

「それでねぇ、すごかったんだよぉ」

佳乃ちゃんは椅子に座って、いきなりそう話しかけた。

「ほほう。それで、何があったんだ?」

聖さんは特に驚いた様子を見せずに、佳乃ちゃんのことを微笑みながら見つめている。これから佳乃ちゃんが何を話してくれるのか、いろいろと期待しているような表情だ。

「えっとねぇ、なんかねぇ、ばーってなってねぇ、ひゅるるる〜って感じでねぇ、どどどーん!」

佳乃ちゃんの説明は、恐ろしく抽象的だった。というか、意味が分からない。声だけ聞いてると、なんか空襲でもあったみたいな恐ろしい光景を思い浮かべてしまう。

「ふむ。確かに大変な光景だな。いいものを見たじゃないか」

聖さんはまったく動じずに、微笑んだまま返事を一つ。分かっているのかどうか、甚だ怪しかった。

「それでねぇ、最後に人形さんが、ぼくの手の上に落っこちて来たんだよぉ」

「人形?」

「うん。人形遣いさんがねぇ、人形さんをばーんと大大大ジャンプさせてねぇ、それをぼくがキャッチしたんだよぉ!」

「……………………」

「すごいんだよぉ。人形遣いさんはねぇ、手もなんにも触れずに人形さんを動かして、あんなことやこんなことでびっくりどっきりのはちゃめちゃ大行進だったんだよぉ!」

佳乃ちゃんの畳み掛けるような口調に、聖先生は押し黙った。

「……………………」

けれどそれは、一気にいろいろなことを言われて戸惑っているというよりもむしろ、佳乃ちゃんの言った言葉を解釈するのに、いつもよりも多少時間がかかっている程度のものに見えた。

「本物の魔法だったんだよぉ! ぼくがこの目で見たんだからねぇ!」

「魔法……」

「お姉ちゃんの言ったとおりだったよぉ! きっといつか、ぼくもあんなことができるようになるんだねぇ!」

「……………………」

「ぼくも早く大人になりたいよぉ」

佳乃ちゃんは最後にそう言って、右手に巻き付けられた黄色いバンダナを掲げた。それはだらりと垂れ下がって、佳乃ちゃんの腕の上半分を覆った。

「……………………」

何故か少し難しい表情をして、聖さんが佳乃ちゃんのことを見つめていた。

 

「それじゃあポテトぉ、ぼくはちょっと宿題をしなきゃいけないから、また後でねぇ」

「ぴこぴこっ」

お昼ごはんを食べた後、佳乃ちゃんは勉強をするために自分の部屋へ引っ込んだ。残されたのは、僕と聖さんだけ。僕は診療所のソファに腰掛けて、

「……さて」

聖さんは食器を片付けると、とてとてとこちらに歩いてきた。

「隣に座らせてもらうぞ」

「ぴこっ」

そう言って、聖さんは僕の隣に腰掛けた。

「……………………」

「……………………」

ひんやりとした部屋の中で、僕と聖さんがソファに腰掛けている。どちらから相手に話しかけるでもなく、ただ、何ともしがたい沈黙だけがあった。

「……………………」

「……………………」

ひっきりなしに元気良くしゃべる佳乃ちゃんの存在がどれだけ大きいか、僕は今、ひしひしと感じている。

と、突然。

「……もしかすると、だ」

「ぴこ?」

聖さんが口を開いた。何がどう「もしかすると」なのかは分からないけど、僕は聖さんの顔を見て、その言葉に耳を傾けることにした。

すると、聖さんも僕のほうを見つめてきた。見詰め合う僕と聖さん。微妙な空気が流れる。

「これは、いい機会かも知れないな」

「ぴ、ぴこ?」

「実行するには、今しかあるまい」

「……ぴ、ぴこぴこぴこ……」

何故か物凄い寒気を感じたので、僕は思わず後ずさった。聖さんの視線が、突き刺さるようにいたい。

「そうだな……ポテト、君にも協力してもらおうか」

「ぴこぴこぴっこ……」

「何、怖がることはない。すぐに終わる事だぞ」

両手を構えた聖さんが、僕にじりじりと近づいてくる。その表情はあからさまに怪しげで、口元には不敵な笑みが見え隠れしている。明らかに、すぐに終わるようなことじゃない空気だ。

「佳乃と私の将来のために必要な事だ。君も佳乃の事は大切だろう?」

「ぴ、ぴっこり……」

「ならば大人しく、その体を……」

「ぴ、ぴこぉぉぉーっ!!」

僕はその言葉を聞いた途端、とてつもなく恐ろしい気分になって、大きな声を上げながら、勢い良く診療所を飛び出した。

「あれれぇ〜? お姉ちゃん、さっきポテトのおっきな声が聞こえてきたけど、何かあったのぉ?」

「……ふむ。少々悪ふざけが過ぎたみたいだな」

「ええぇ〜っ?」

 

「ぴ、ぴこぴこぴこ……」

僕は命からがら、診療所を抜け出してきた。暑い中を全力疾走したこともあって、へとへとになっちゃった。

「……………………」

こわごわ、後ろを振り向いてみる。聖さんは追いかけてきてないみたいだ。

「……ぴこっ」

小さくため息を吐いて、僕は太陽の照り付ける商店街を歩き始めた。日差しは容赦なく僕を焼くけれど、肝を冷やした後の体には、むしろこれぐらいがちょうどよかった。

それからしばらく歩いていると、ドキドキしていた心臓も元に戻り始めて、気持ちも落ち着いて着たから、いつものペースでゆっくり歩くことができた。佳乃ちゃんと一緒だとちょっと急ぎ気味になっちゃうから、独りの時はゆっくり歩くようにしている。

僕は日陰に入って、休みをかねてゆっくり歩き始めた。

「……………………」

歩きながら空を見上げて、これからどこへ行こうか考えた。

空はどこまでも広くて青くて、思わず吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えた。でっかい入道雲がひょっこり顔を覗かせていて、ああ、夏なんだなぁ、っていう感情が、僕の小さな体いっぱいに広がっていく。

「ぴこー」

さっきは学校と川に行ったから、そっちに行くのはあんまり面白くない。だったら残っているのは、神社と海の方面だ。僕はどっちも好きだから、迷っちゃう。

「ぴこぴこぴこ」

散々考えて、迷って、選びかねて……大体、十分ぐらい、日陰の中で思案した挙句。

「ぴこっ」

僕は、海の方面に向かって歩き始めた。

 

「……………………」

ざざーん、ざざーんと、波が砂浜に打ち寄せる音が静かに聞こえてくる。潮風が吹いてきて、僕の鼻腔をくすぐる。

「ぴこぴこっ」

僕は堤防の向こう側にあるであろう、境目のない青い海と青い空の光景を頭に思い浮かべて、やっぱり、海に来てよかったなぁと思った。

海と空。僕はこの二つに、なんだかとても不思議な魅力を感じてる。それはどちらも、どこまでもどこまでも、ずっとずっと続いていく。そこには、終わりがない。

それはまるで、いつまでもいつまでも回り続ける、風車を僕に思わせた。

風車は風が吹き続ける限り、どんなに遅くなろうと、まるで止まってしまったかのように見えても、いつまでもいつまでも回り続ける。そこにも、終わりがない。

「……………………」

終わりがない。なんだか、不思議な感覚だ。僕の知ってるものには、すべて何かの終わりがあるからだ。

ご飯は食べちゃえば「終わり」だし、お水も飲んじゃえば「終わり」。他にも、いっぱいある。あれもこれもみんな……どこかに、「終わり」がある。

でも海や空には、それがない。どこまでも終わらずに、いつまでも変わらずに、ずっとずっと、永遠に思えるほど長く、それは続いてゆく。

「ぴこぉ……」

僕はここまで考えて、改めて、僕は海や空が好きなんだなぁ、ということを確認した。そして、海や空をいつまでもいつまでも眺めていたいなあと思った……

……その時。

 

「かー」

 

不意に、何かの鳴き声が聞こえてきた。僕は首を動かして、鳴き声のした方を向いた。

それは、僕から向かって右にいた。

「かーっ」

真っ黒な体に、小さなくちばし。短い足でちょこちょこ歩きながら、しきりに羽をばたつかせている。

「かーっ」

一羽の、カラスだった。

「ぴこっ」

僕はそれが気になって、カラスのほうに向かって走り出した。カラスは僕のいる方向を向いたまま、かーかーとさっきよりも激しく鳴き出した。

「ぴこぴこー」

「かーっ!」

羽をじたばたさせて、必死に何かを訴えている。僕にはカラスの言いたいことは分からなかったけれど、少なくとも、ケンカをしに行くつもりはなかった。

ただ、こんなところにカラスがいることなんて滅多になかったから、ちょっと興味をもっただけだった。

「ぴっこー」

「かーーーっ!」

「ぴこぴこぴこー」

僕は特に気にせずに、カラスのほうにどんどん近づいていった。きっと、話せば分かってくれると思っていたから。

……その時はまだ、気がつかなかった。

「ぴこぴっこー」

僕はカラスに向かって走ることに夢中になっていて、周りには全然目が届いていなかった。

普通だったら気付くような状況の変化にも、僕はまったく気付かなかった。

「かぁぁぁぁっ!」

カラスが一際大きく鳴いて、僕がカラスに最接近した時――

 

「あっ、そら。こんなところにいたんだね」

「……………………」

「あれれ? そら、この子、お友達かな?」

僕の目の前に、でっかい影が現れた。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586