第八十五話「in a wheat field」

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「それじゃ相沢。明日はちゃんと起きるんだぞ」

「まったくだ。お前はいつもいつも寝過ぎなんだ」

「寝てるのは名雪の方だっての」

「お兄ちゃんが言えることじゃないよ、それ……」

ひとしきりおしゃべりや打ち合わせも終わって、その場にいた人たちがぽつぽつと帰宅の途につき始めた。めいめい挨拶を交わしあいながら、戸をくぐって外へ出て行く。まだ残っている人も何人かいたけれども、ほとんどの人はもう帰るみたいだ。

「僕たちもそろそろ帰ろっかぁ」

「ぴっこり」

佳乃ちゃんに声をかけられて、僕も一緒に廊下に出た。

「久しぶりにみんなに会ったけど、元気そうで何よりだよぉ」

「ぴこぴこっ」

「やっぱり、元気が一番だよねぇ」

これといって中身のない会話だと思う。でも、僕はこうやって佳乃ちゃんとただおしゃべりをしているだけで、なんとも言えない安心感でいっぱいになるのだ。何故かは分からなかったけれども、それは僕にとってかけがえのない、代替の効かない大切なものだった。

「それじゃあ、そろそろ行こっかぁ」

「ぴこっ」

佳乃ちゃんと短く言葉を掛け合って、僕が歩き出そうとした時だった。

 

(ひょいっ)

 

「ぴこ?」

僕はさっと誰かに持ち上げられて、あっという間に抱きかかえられた。僕が目を丸くして、後ろにいた人の目を見やる。

「待って……」

「あーっ! 舞ちゃぁん! どうかしたのかなぁ?」

僕を抱きかかえたのは、いつもの表情――だったけれども、その口元が少し綻んでいたのを、僕は見逃さなかった――で真っ直ぐに立っている舞さんだった。左手で僕を抱えて、右手で優しくなでてくれている。ちょっとくすぐったくて、とても気持ちいい。

「一緒に……帰ろうと思って」

「うんうん。そうだねぇ。佐祐理ちゃんはぁ?」

「あははーっ。ちゃんといますよーっ」

後ろからひょっこりと顔を出す佐祐理さん。その手には、少し大きい風呂敷包みが提げられている。角張っているところから推測するに、たぶん、中には堅い箱が入っているのだろう。当然、その箱の中にも何かが入っているだろうことは、想像に難くない。

「久しぶりですから、三人でお弁当を食べようと思って作ってきたんですよー」

「本当ぉ?! ありがとうだよぉ。ちょうどお昼時だしねぇ。どこで食べるぅ?」

「……あの場所……」

舞さんがぽつりと口にした「あの場所」という言葉に、佳乃ちゃんも佐祐理さんも揃って頷いた。

「そうだねぇ。あそこならひろびろさんだし、ゆっくり食べられるよぉ」

「そうですねー。そんなに遠くないですし、久しぶりに行ってみるのもいいですねー」

「……(こくこく)」

話がまとまったみたいだ。三人はでこぼこに並んで歩き出し、一緒に階段を下りていった。

……と。

「……………………」

「ふぇ……舞ー、どうして犬さんを抱いたままなのー?」

僕を抱いたままの舞さんに、佐祐理さんが声をかけた。舞さんはちょっと顔を背けて、聞き取りづらい声でこう返事をした。

「……ポテトさん、きっと疲れてるはずだから……」

ちなみに、言うまでもないことだとは思うけど、僕はちっとも疲れてないことを付け加えておく。

「大丈夫だよぉ。ポテトは丈夫だから、無理しなくても大丈夫だよぉ」

「……だめ。きっと、疲れてるはずだから……」

よりいっそう強く僕を抱きしめて、舞さんが首を横に振った。僕は何となく、舞さんがどうしたいのかわかった気がした。

「そうかなぁ……? それじゃあ、僕が抱いていくよぉ」

「……えっと……」

「むむむ?」

「……佳乃は、佐祐理のお弁当を持ってあげて……」

「いいよぉ。佐祐理ちゃん、お弁当はぼくが持っていくよぉ」

「あっ、ありがとうございますー。それじゃあ、そろそろ行きましょうか」

「……(こくこく)」

舞さんは佳乃ちゃんの追求をうまくごまかして、ほっと小さく息を吐いた。そのままどこか嬉しそうに僕を抱きかかえて、二人の後ろについて行く。

「……………………」

「……ぴこ……」

さっき一瞬だけ垣間見せた怖いくらいの鋭い視線がまるで嘘のような、気の抜けた目で僕を見る舞さんの表情が、僕にはなんだか可笑しかった。

 

「一弥君、元気にしてるぅ?」

「もちろんですよー。今日は家で留守番をしてますけど、また一緒に遊びたいですね」

「そうだよねぇ。夏休みの間に遊べたら、きっと楽しいよぉ」

前を行く佳乃ちゃんと佐祐理さんは、休むことなくおしゃべりを続けている。二人ともとても楽しそうで、いつまで経ってもおしゃべりが止む気配はない。何となく予想はできていたけど、佐祐理さんはずいぶんと口数の多い人みたいだ。佳乃ちゃんと気が合うのも、納得がいく。

「……………………」

その中にあって、ほとんど口を開かずに黙々と歩き続けている人が一人。仲良くしゃべる二人と、無口な一人。構図としては、あまりよくないものに思えるかもしれない。けれども、

「……ふわふわ……」

「……………………」

その人は別の意味でとても幸せそうだった(顔はさっきからずっと綻びっぱなしだ)ので、特に問題はなかった。

三人揃って順調に歩き続けて、しばらくした後のことだった。

「さっき聞いたんだけどねぇ、長森さんのところのねこ、また増えちゃったらしいよぉ」

「はぇー……そうなんですかー。確か、猫さんをたくさん飼ってる人でしたよね」

「……長森?」

佳乃ちゃんが長森さんの話題を出した途端、それまで二人の会話にちっとも興味を持っていなかった舞さんがずずいと身を乗り出して、佳乃ちゃんに問いかけた。佳乃ちゃんは大きく頷いて、舞さんにこう答えた。

「そうだよぉ。浩平君のお友達でねぇ、家でねこをたくさん飼ってるんだよぉ。二年生の子なんだぁ」

「……ねこ……たくさん……」

「うんうん。確か、八匹くらい飼ってたかなぁ。前に見せてもらったけど、あちこちで寝転がってたりして可愛かったよぉ」

「……………………」

舞さんは無言で頷いて一歩下がると、また二人に付いて静かに歩き始めた。

「そんなにたくさんいたら、面倒をみるのも大変ですよねー」

「そうだよねぇ。長森さん、みんなの面倒をみてあげてるんだよぉ。すごいねぇ」

「ですよね。長森さんって確か、黄色いリボンの女の子でしたよねー」

「うんうん。いつも黄色いリボンをしてるんだよぉ。あと、何か言うときによく『〜だよ』とか『〜だもん』って付けちゃう癖もあるねぇ」

「あははーっ。一度会ってみたいですねー」

そうやって二人が長森さんについて話していると、何やら僕の頭上で、ごそごそと物音が聞こえてきた。

「それでねぇ、確か黄色いねずみが出てくるアニメに、長森さんとそっくりな声の人がいたって……あれれぇ?」

「はぇー……舞、どうしたの? イメチェン?」

「……なんでもない……もん」

不思議に思って頭上を見上げてみると、舞さんは(どこから取り出したのか)短い黄色のリボンを頭に結びつけていた。ちなみに、普段の青いリボンは外したみたいだ。佐祐理さんの言ったとおり、イメージチェンジを図ったのだろうか。あんまり変わったようには見えないけども。

「……だよもんだよもん」

「あははっ。舞ちゃん、長森さんみたいだねぇ」

……いや、長森さんはそんなしゃべり方しなかった気がするんだけどなぁ……

「……だよもんだよもん」

 

「とうつき〜」

「……到着」

「あははっ。言われなくても知ってるよー」

僕たちがしばらく歩き続けた末に辿り着いたのは、広大――本当は、そんな言葉で表現するにはあまりにも広すぎたけれども――な麦畑だった。夏の日差しを一身に浴びて、微かに吹き抜ける風にその身を大きく揺らしている。

「ぴこ……」

こんな場所があったということを、僕は今初めて知った。この町に生まれて、この町に育って、この町に生きてきた僕だけど、ここの存在を知ったのは初めてだった。広い広い、とにかく広い麦畑。

「ぴこー……」

僕は小さな目と耳を一杯に広げて、この場所からあふれ出るすべてを飲み込もうとした。僕の小さな体の中へ、瞬く間に新鮮な風景と空気が吸い込まれていって、お腹の底から満ち足りた思いが湧き起こってきた。新しい場所を見つけたときに感じる、特有の満足感。

「……………………」

けれどもそれは、僕にとってここが「新しい場所」だから、という単純な理由だけで説明できるものじゃないことは、僕自身が一番感じていることだった。単に新しい場所を見つけただけなら、僕は単に「ここは新しい場所なんだ」と満足するだけで終わって、そこが「新しい場所」でなくなったら、僕がそこに興味を持つことは無かっただろう。

「……ぴこぴこ」

ここは……この麦畑は、違う。僕はこれから先何度ここを訪れても、今日と同じ気持ちを感じることができる。そんな確信があった。

素晴らしい場所だ。僕は純粋にそう思った。何も無い、ただだだっ広い麦畑。けれどもそこには、他では得がたい「空気」や「風景」……それに、簡単な言葉では表現できない「何か」が、当たり前のように広がっている。尽きることの無いそれを、僕はここを訪れるたびに感じることができるだろう。

この場所が、ここに在り続ける限り。

「ここに来るのは久しぶりだねぇ」

「前は……佳乃の卒業式の日に……」

「そうだったよねー。あれからもう一年半になるんだー」

「時間が経つのは早いねぇ。時は鐘なりだよぉ」

「佳乃、字が違う」

舞さんが左手で佳乃ちゃんに鋭く突っ込みチョップを入れて、佳乃ちゃんがおどけたように笑って見せた。それはいいんだけど、正直、この町には同音異義語を見分ける能力が高い人が多すぎるような気がした。往人さんとか。

「どこかお弁当を食べられる場所を探そうかぁ」

「そうですねー……でも、この辺りには……」

佐祐理さんが困ったように周囲を見回す。辺り一面はひたすらに麦畑が広がっていて、三人が座り込んで昼食を取れそうなスペースは見当たらない。折角来たのに、来ただけでお弁当を広げずに帰るのはあまりにも忍びない。

けれども、それはすぐに解決された。

「……向こうに開けた場所があるから、そっちに……」

「わっ、本当だよぉ。向こうにちょうどいい場所があるねぇ」

「はぇー……舞、よくすぐに見つけられたねー」

「……目は、いいから……」

涼しい顔をして言う舞さんが、どことなく恰好良い人に見えた。無口な人だけれども、たまに口にする言葉はみんな、舞さんの何がしかの一面を表しているようだった。凛々しさ、強さ、可愛さ、それから優しさ。無表情と無口の裏側にあるのは、どれもこれも手垢のついていない、純粋で美しい心。それをむやみやたらに見せるのではなく、本当に必要な時にしか露にしない。

――真に腕の立つ剣士は、本当に必要な時にしか刀を抜かない――舞さんの心と言葉は、その傍らにいつも在る剣によく似ているなと、僕は思った。

その時だった。

「……………………」

「……ぴこぴこ?」

「……(ぎゅっ)」

僕を抱きしめる舞さんの腕に、一際強い力がこもった。

「……………………」

「……………………」

……彼女なりの照れ隠しなのだろう。

 

僕は、そう考えることにした。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586