第百十六話「Sprout of Desire」

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「おっ、もうこんな時間か……」

「それじゃあ、食堂にご飯食べに行こっか」

しばらく雑談が続いた後、ぽつぽつとお昼を食べに部室を出る人が現れ始めた。夏休みの間も食堂は開いているようで、そこで昼食をとる人が多いみたいだ。長森さんの言葉をきっかけとして、折原君が席からすっくと立ち上がる。

「そうだな……よし。みさお、行くぞ」

「あっ、待ってよお兄ちゃんっ」

「では、私も行くとするか。岡崎、お前は如何する?」

「俺はここで渚を待って、あいつが戻ってきたら行くつもりだ。悪いが、先に行っててくれ」

「霧島さん、私たちも行きましょう」

「そうだねぇ。舞ちゃんも一緒に行くぅ?」

「……私は、佐祐理と一緒に……」

「みんな行くみたいだな。あゆ、俺たちも行こうか」

「うんっ。みんなで一緒に食べられるねっ」

「ふむ……どれ、わしも行くとするかの……」

食堂へ行くことにしたのは、折原君・長森さん・みさおちゃん・七夜さん・栞ちゃん・佳乃ちゃん・祐一君・あゆちゃん・幸村先生の九人。岡崎君は古河さんが戻ってくるのを待ってから食堂へ、舞さんは別の場所で佐祐理さんと合流、そして、残りのメンバーは……

「藤林さんは行かないのかな?」

「あたしはここにいるわ。椋と一緒にお弁当食べるから」

「澪ちゃんもそうするのかな?」

「……(うんうんっ)」

「お弁当、一緒に食べるの」

持参したお弁当をここで食べるみたいだ。ここならクーラーも効いているし、外に出るよりも快適だろう。上月さんはもうお弁当を取り出していて、一ノ瀬さんに机を寄せて食べる準備をしている。さっきからなんだかすごく嬉しそうで、見ているこっちも頬が緩んでくる表情をしている。

「……………………」

さて、僕はどうしようか。佳乃ちゃんたちについていってもいいけど、それだとなんだかありきたりでつまらない気がする。折角学校に来たんだし、ここはちょっと変わった場所にも足を運んでみたい。それなら、誰かについていくのが得策だろう。

……ということで。

「ぴこぴこっ」

「……ポテトさん?」

「ぴこー」

「……一緒に行く?」

「ぴこぴこっ」

僕は舞さんについていくことにした。舞さんはいつも通り僕を優しく抱き上げてくれて、僕の体に顔を深く沈みこませた。くすぐったくて気持ちよくて、僕は思わず体から力が抜けるのを感じる。昨日も同じことをしてもらったけど、これは本当に気持ちいい。僕が犬に生まれてきて本当に良かったと思える、数少ない瞬間だ。

「……………………」

……だからこそ、僕は信じられなかった。

「……ふわふわ……」

……僕をこんなに優しい気持ちにしてくれる人が……

「……もこもこ……」

 

……あんなに恐ろしい目をしていたということを。

 

だから、僕はこの目でこの耳で、しっかりと確かめたかったのだ。あの目を向けていた相手を、あの目を向けていた理由を、あの目を向けていた舞さんの気持ちを、僕は知りたかった。そこへ踏み込むことが許されるのかどうかは分からなかったけれど、僕のことを大切にしてくれる人がどうしてあんな目をする必要があったのか……気にならずにはいられなかった。

「……ぴこぴこ」

「……ポテトさん……?」

僕は知りたい。もっと、いろいろなことを知りたい……もっとたくさんのものを見て、もっとたくさんのことを聞いて……僕の中で渦巻く疑問に答えをぶつけて、綺麗に打ち消せるようになりたい。

……僕の中でそんな感情が疼き始めたのは、多分、この頃だったはずだと思う。

 

「……………………?」

舞さんはきょろきょろと無言で辺りを見回しながら、何かを探している様子だった――いや、それはどちらかというと「何か」というよりも、「どこか」という方が正しい感じだった。多分、佐祐理さんと合流するための教室を探しているのだろう。舞さんはのんびりと自分のペースで歩きながら、一つ一つ丁寧に教室を確認していく。

舞さんに抱かれて学校を周ってみて分かったことがある。この学校は僕が想像していたよりも、何倍も広くて大きな場所だということだ。空いている教室(夏休みだからというわけではなく、明らかに元から使われていない教室、という意味で)があちこちにあったし、教室一つ辺りの広さもかなりのものだ。一つのフロアが広い上に、それが四つも重なっている。僕が「広い」と感じるのも当然のことだろう。

さて、僕が舞さんの腕の中でそんなことを考えていると、

「……あった」

「ぴこぴこ?」

どうやら目的地に到着したようだ。顔を上げ、その教室に付けられた名前を確認する。

 

『資料室』

 

……ということらしい。一体どんな資料が置いてあるのかとか、どういう目的で使われるのかとかが今ひとつ判然としない、曖昧感でいっぱいの名前だと思った。窓から中を覗いてみると……ああ、確かに資料っぽいものがたくさん置いてある。とりあえず資料っぽいものを置いておくから「資料室」。まあ、適切なところだろう、多分……

「……………………」

それにしても、佐祐理さんもまた随分変わった所を待ち合わせ場所に指定するな、と思った。普通に演劇部の部室で待ち合わせをすればいいのに、どうしてこんなところを選んだんだろう? 中に誰かいる気配も無いし……舞さん、ひょっとして場所を間違えちゃったんじゃないかなぁ……?

「……よいしょ」

僕の不安をよそに、舞さんは扉に手をかける。がらららら……という音と共に、廊下と資料室とが一つになる。

そして……

 

「いらっしゃいませっ」

 

……資料室に入ったはずなのに、何故かいきなり入店のご挨拶をされてしまった。戸惑いながら声のしたほうへ顔を向けてみると、そこには……

「初めまして。今日もいいお天気ですね」

佐祐理さんに通じる朗らかな笑みを浮かべた二年生――リボンの色で判断できた――の女の子が、テーブルについて座っていた。今まで見たことの無い、初めて出会う人だ。穏やかで優しそうな印象を与える表情と仕草をしていて、見ているとなんとなくこっちも安心した気持ちになってくる。

「……えっと、佐祐理の友達の……」

「川澄先輩ですね。倉田先輩からお話は伺ってます」

女の子は舞さんに先んじて穏やかな調子で答えると、続けてこう言った。

「私は宮沢有紀寧です。普段はこの資料室にいます。どうかよろしくお願いしますね」

「……はちみつくまさん」

この人は「宮沢有紀寧」――とりあえず、宮沢さんと呼ぶことにしよう――という名前の人らしい。普段はこの資料室にいるということだけど……夏休みでもいるということは、ひょっとして寮生なのだろうか? 誰かが言っていたけど、寮生のうち半分くらいは夏休みでも学校にいるらしいし。

「……佐祐理はまだ来てない?」

「はい。あと少しで講習が終わる時間なので、もうすぐ来ると思いますよ」

「……他には?」

「はい。こちらに、一年生の方が来られてますよ」

「……一年生?」

宮沢さんの言葉に首をかしげて、舞さんが視線を横に向けたときだった。

 

「あっ、素晴らしい人」

「……風子?」

 

とりあえず「素晴らしい人」っていうのがどういう呼び方なのかさっぱり分からないけど、そこにはとてもさりげなく風子ちゃんが座っていた。きりっとした(でもどこか可愛らしい)表情を舞さんに向けて、瞬きもせずにじーっと見つめている。

「一年生の伊吹さんです。お知り合いの方同士なんですか?」

「……えっと、演劇部で……」

「はい。演劇部でお知り合いになりました。風子のことを大変よく分かってくださっている素晴らしい方です」

「……えっと……」

戸惑い気味の舞さんに、風子ちゃんは勢いを止めずに続ける。

「この方はすごいんです。風子がこの風子フィンガーで彫り上げたヒトデを手渡したところですね、風子がヒトデだと説明する前にヒトデだと見抜いてしまったんです。素晴らしい方です」

「……そんなこと……」

「いえ、謙遜はいけません。川澄さんはこのかわいいヒトデをですね……」

「……………………」

「……………………」

「……風子?」

「……………………」

「……風子……?」

風子ちゃんはヒトデを抱えたまま、なにやら夢でも見ているかのような幸せそうな目つきをし、口を半開きにしながら、そのままどこかへとトリップ(多分、これが適切な表現だろうと思う)してしまった。舞さんが隣からいくら呼びかけてみても、風子ちゃんからの応答は無い。

「……えっと……」

「大丈夫ですよ。先ほども、同じようなことをしておられましたから」

「……………………」

「伊吹さんが戻ってくるまでに、伊吹さんがここに来られた理由を話しておきますね」

宮沢さんは風子ちゃんの突然のトリップにも全然動じていない様子で舞さんを見やると、手を合わせて静かに話を始めた。

「ここに来る途中に木片をたくさん抱えた伊吹さんと出会いまして、それで、少しお話をしたんです」

「……………………」

「伊吹さんの話だと、今伊吹さんが手に持ってらっしゃる木彫りのヒトデを作る場所が欲しいとのことなんですが、なかなかいい場所が見つからなかったそうです」

「……もしかして……」

「はいっ。それで、ここなら静かに作業ができますから、ここに来ていただいたんです」

そういうことだったらしい。確かに、この場所は静かだ。グラウンドからも離れているし、隣接している教室のどちらも今は使われていない。実際今こうしてここにいても、中にいる三人の話し声以外はまったく聞こえてこない。宮沢さんの言うとおり、静かでいい感じの場所だ。

「ところで、川澄先輩が抱いてらっしゃるのは、犬ですか?」

「……ポテトさん」

「ポテトさん、というお名前なんですね?」

「ぴこぴこっ」

僕が肯定の意味を込めて返事をすると、宮沢さんもそれを綺麗に汲み取ってくれたようで、僕にむけてにっこりと笑みを浮かべると、

「ポテトさんもいらっしゃいませっ。ここは犬や猫も大歓迎ですから、ゆっくりしていってくださいね」

「ぴっこり」

僕も歓迎してもらった。僕の見た目も鳴き声も不思議には思わなかったみたいで、すんなり受け入れてもらえた。これは今まででも珍しいことで、僕はちょっと嬉しくなった。もこもこの見た目や「ぴこぴこ」という鳴き声で驚かれるのも面白いといえば面白いけど、やっぱり、ごく普通に接してもらえる方が気持ちがいい。

「この子は川澄先輩が飼ってらっしゃるんですか?」

「……(ふるふる)」

「他の方が飼ってらっしゃるんですか?」

「……(こくこく)」

「そうなんですか。かわいい子ですねっ」

「ぴこぴこー」

頭を撫でてもらって、僕は気持ちよくて目を細めた。優しい手つきだ。僕のもこもこの毛が気持ちいいのか、宮沢さんは繰り返し僕の頭を撫でてくれる。こういうのはお互いにいい気持ちになれるから……それこそ一ノ瀬さんの受け売りだけど、幸せを「半分こ」できているような気がする。幸せを半分ずつ共有するという幸せ。それは幸せを独り占めにしている時には感じられない、特別な「幸せ」だ。

そんな風にして、僕も入れて三人で時間を潰していると、

「お邪魔しますねー」

「はいっ。いらっしゃいませっ」

ちょうどいい具合のタイミングで、重箱を抱えた佐祐理さんが姿を現した。この前佳乃ちゃんと一緒に麦畑でお昼を食べた時に使った、あの大きな重箱だ。多分、ここで広げてみんなで食べるつもりなのだろう。

「……はっ! 知らない間にもう一人増えちゃってますっ」

「あははーっ。佐祐理は増殖魔法が使えるんですよー」

「佐祐理、嘘はよくない」

「楽しい方たちですねっ。では、皆さん席についてください」

宮沢さんの声で、舞さんと佐祐理さんが並んで席に着く。風子ちゃんもトリップから復帰したようで、さりげなく宮沢さんの隣へと移動した。僕はというと、舞さんの座席のすぐ下で丸くなっている。

「コーヒーを準備しますから、少し待っててくださいね」

宮沢さんが慣れた手つきでカップを用意し、全員分のコーヒーを注いでいく。カップから白い湯気が上がり、部屋いっぱいにほろ苦いコーヒーのよい香りが広がる。

「では、佐祐理はお弁当の準備をしますねー」

その隣では佐祐理さんが重箱を広げ、座っている四人のちょうど中央にバランスよく配置する。宮沢さんが手際よく紙皿を配ると、佐祐理さんは用意しておいた箸を全員に配る。

「はい。熱いですから、上の方を持ってくださいね」

「舞ー、いつも使ってるお箸だよ。落とさないようにね」

二人の息が驚くほど合っていて、びっくりするくらいのスピードで準備が進んでいく。舞さんと風子ちゃんは二人の様子を代わる代わる見つめながら、その速さに圧倒されているようだった。

……それから、暫くもしないうち。

「……はいっ。これで準備完了、です」

「あははーっ。宮沢さんはいつも手際がいいですねー」

すべての準備が整った。色とりどりの惣菜が詰められた重箱が三つ並び、それぞれのカップには淹れたての熱いコーヒーが注がれている。後は、誰かが音頭を取るだけだ。

「では皆さん、手を合わせてください」

その役目は、宮沢さんが買って出た。

……そして。

 

「いただきましょう」

「いただきます」

「……いただきます」

「いただかせていただきます」

 

資料室のお茶会は、こうして幕を開けたのだ。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

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