第百二十二話「Expressionless」

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「それじゃあ、また明日ね」

「じゃあね〜。浩平に襲われないように、気をつけて帰るのよ」

「襲うわけねーだろっ」

「真琴、ちょっと買い物が残ってますから、一緒に買い物に行きましょう」

「うんっ! 真琴が荷物持つからねっ!」

「ほな、うちも一緒に行こか……酒も切らしとったはずやし、丁度ええわ」

「七瀬、夜道には気をつけろ。私がお前を討つ日まで、お前に先立たれては困るからな」

「あのねぇ……心配してるのか喧嘩売ってるのか、はっきりしなさいよっ」

華穂さんの家から帰る途中で分かれ道にさしかかり、僕らはそれぞれ二手に分かれた。七瀬さん、真琴ちゃん、秋子さん、晴子さん、藤林さんとここで別れ、残るはちょうど半分の五人になった。

「やれやれ……なんか、大変なことになっちまったな」

「そうだよね……でも、繭ちゃんと華穂さんのためだよ。一緒にがんばろうよ」

「うんうん。みんなでやれば千人力だよぉ」

「それにしても……」

胸を張って笑う佳乃ちゃんの姿を見た折原君が、ふと小さな声で呟いた。佳乃ちゃんが気づいたのか、前に向けていた視線を隣の折原君に向ける。

「なぁ霧島、あの時のあの雰囲気で、よく職業体験なんて提案できたな……」

「うむ。霧島の一言が無ければ、あの状況は打開できなかったはずだ」

「そうかなぁ? ぼくはごく普通のことを言ったつもりなんだけどねぇ」

「いや……別に否定する訳じゃないが、どうして職業体験なんだ?」

折原君からの問いに、佳乃ちゃんはまるで動じた様子を見せずに、いつもの調子でこう返す。

「簡単だよぉ。保育所で職業体験をしたら、繭ちゃんがいろいろなことを勉強できると思ったからだよぉ」

「社会勉強……ってことですか?」

「うんうん。大変だと思うけど……でも、繭ちゃんもきっと分かってくれるはずだよぉ」

「確かに、いろいろなことを勉強できそうだね。人との接し方とか、子供との関わり方とか……」

そう相槌を打つ長森さんの横で、七夜さんが何かを思い出したように口を開く。

「今になって思い出したが、確か長森は職業体験の経験者だと言っていたな」

「確か……瑞佳お姉ちゃんが中学校にいたときだっけ?」

「そうだよ。あの保育所でお世話になったんだ。大変だったけど、とっても楽しかったよ」

ああ、そういえばそんな話もあったっけ。長森さんと藤林さんはあの保育所で職業体験をしたことがあって、その時に真琴ちゃんと知り合ったという話だ。ひょっとしたら佳乃ちゃんも、長森さんや藤林さんという「前例」を考慮に入れて、職業体験という提案をしたのかも知れない、と僕は想像した。

「藤林もいっしょだったんだよな?」

「うん。私よりもずっと手際がよくて、いろいろと参考になったよ」

「そうなのか? 俺はてっきり、言うことを聞かない子供に藤林がキレて血祭りに上げようとしたところを、お前が必死で止めにはいるような恐ろしい構図を思い浮かべてたんだが」

「……藤林先輩がこの場にいたら、お兄ちゃんが血祭りにあげられちゃいそうだよ……」

「うんうん。血湧き肉躍るお祭りだねぇ」

「霧島君、微妙に用法が違うよ」

確かに血は湧き出るし肉は躍るだろうけど、根本的に間違っている。

「それはともかく……何にせよ、全員がシロウトって訳じゃないんだな」

「真琴や神尾氏といった現場で働いている人間も協力してくれる。後は、我々が全力を尽くすだけだ」

「そうですねっ。みんなで一緒に、繭ちゃんを一人前にしてあげましょうっ!」

「華穂さんと繭ちゃんが仲良くなれるように、私たちが応援してあげようよっ」

「ああ。一度乗りかかった船だ。やるからには徹底的にやるぞ!」

折原君が声を上げ、それに周りの面々が応じる。志気の高まりがこちらにも明快に伝わってきて、彼らの本気を感じることができた。

……けれども。

「……………………」

……この計画の発案者であるはずの佳乃ちゃんだけは、何故か神妙な面持ちをして、一人夕暮れ時の空に目を向けていた。

「……………………」

それが何を意味しているというのか、僕は察することができなかった。

 

分かれ道を越えてから、帰路についていた途中のこと。

「些事かもしれないが……」

「ん? 七夜さん、どうしたの?」

不意に、七夜さんが口を開いた。大したことではないかも知れない、と前置きしながらも、彼女の表情は微かに曇っていた。

「あの場で聞いた話のことだが……」

……それは心のどこかに「些事ではないかも知れない」という感情が存在していることを示しているように、僕には思えた。

「……華穂氏の口にした『他人事とは思えない』という言葉が……妙に気になってな」

「そんなことも言ってたな……確か、繭の両親が亡くなったって話をしたすぐ後だったか」

そう。それは僕も覚えている。華穂さんがふと口にした、繭ちゃんに対する思い。

 

『……繭のことが、他人とは思えなかったのです』

 

確か、こんな言葉だったはずだ。

他人とは思えない……それはとどのつまり、繭ちゃんが経験した一連の悲しい出来事に通じるようなことを、華穂さんもまた経験したという可能性を示しているのではないだろうか。

「あの様子だと、華穂さんにもなんかありそうな雰囲気だな……繭にあれだけ言われても繭の事を思えるのも、そこに関係がありそうだ」

「うん……まだ、何かあるって決まったわけじゃないけどね」

みさおちゃんが折原君に返事をしながら、一歩前に歩み出る。

「でも私、華穂さんは立派な人だと思うよ。繭ちゃんにあんなに拒絶されても、繭ちゃんのことだけ心配してるみたいだったもん。あんなに優しい人なのに……繭ちゃんはどうして、華穂さんにあんな態度を取っちゃうんだろうね?」

「……やはり、生みの親に対する感情と考えるのが自然だろう。今日保育所で、繭が華穂氏の前で『椎名』という姓を拒絶したとも聞いたが……」

「ああ、あのことか……繭が泣き声以外であんなに大声を出したのって、あの時くらいじゃないか?」

「そうだね……あんなに強く言うくらいだから、本心からの言葉だと思うよ……」

ため息混じりに言う長森さんの表情に、微かに陰が差す。保育所での情景を思い返してみて、改めてその衝撃を噛み締めているのだろう。あの時ほど繭ちゃんが感情的になったのは……それこそ折原君の言ったとおり、みゅーを埋めた後に大声で泣いた時くらいのものだ。

僕もそんなに人の表情を読むのが上手いわけじゃないけど、繭ちゃんは特に何を考えているのか分からない気がする。繭ちゃんは一見、表情が豊かそうに見える。けれども、頭の中でそれぞれのシーンにおける表情を並べてみると、存外無表情でいることが多いことに気づく。そうでない時は……泣いていたり、落ち込んでいたり、不満そうだったり……いずれにせよ、あまりいい表情は出てこないのだ。

「そういえば……華穂さんが話してるときに、神尾さんのお母さんが何か言わなかったっけ?」

「……七年前の地震のこと、かなぁ?」

「そうだそうだ。妙に驚いてたみたいだが、どうしたんだろうな?」

そんなこともあった。繭ちゃんの両親が亡くなった直接の原因――七年前にあったという、大きな地震の話だ――に話が及んだ時、晴子さんが急に声を上げたのだ。結局あの場は有耶無耶のまま終わってしまったわけだけど、気になっていなかったわけではない。

「何か聞いたこと無いか? 地震で大変な目に遭ったとか」

「う〜ん……観鈴ちゃんからはそんな話聞いたこと無いし……私には分からないよ」

「私も同じだよ。今まで何回か会って話したことはあるけど、そんな話は一回も聞かなかったし」

長森さんもみさおちゃんも、満足な返事をすることはできなかった。折原君も最初から分かっていたのか、それ以上突っ込んだ話をすることはなかった。

……それから、少し間を置いて。

「……わからない事だらけだな」

呟きとも取れる口調で、折原君が言った。

「……そうだね。落ち着いて考えてみると、分からないことだらけだよ」

「うむ……折原の言う通りだ。我々には、知らないことが多すぎる」

「……………………」

……みんなの言うとおりだ。

僕らには、分からないことがあまりにも多すぎる。あまりにも分からないことが多すぎて、何が分からないのか、それさえも分からなくなることがある。僕の周りには……分からないことが多すぎる。

「これから、少しずつ分かっていくといいのにね……」

「……そうだな」

みさおちゃんの言うとおり、少しずつでも分かっていけばいいのかも知れない。何も知らないよりも、知っている方がいいのだ。僕はもっと、もっともっと、いろいろなことを知りたい。分かりたい。理解したい。

「……………………」

……前にも増して、僕の中で膨らんでいく感情。僕の中ではっきりと意識できるほどに、その感情は膨らんでいた。それは止め処なく広がり続け、僕の体をいっぱいに満たしていく。

――その感情は――

 

知識に対する渇望。情報への欲求。他者の感情への興味。

僕は知りたい。いろいろなことを知りたい。分からないことが多すぎるから、分からないことを無くしたい。僕は知りたい、たくさんのことを知りたい。知らないことが多すぎるから、知ることの喜びを感じたい。僕は知りたい。すべてのことを知りたい。理解できないことが多すぎるから、すべてを理解できるようになりたい。

知ることの喜び。分かることの喜び。理解できることの喜び。

 

――僕は、すべてを知りたい――

 

……そんな感情が僕を支配するまでは、そう、長い時間はかからなかった。

「ぴこぴこ…………」

僕が独り、そんなことを考えていた時のことだった。

 

「……………………」

「……?」

 

ふと、僕の横を誰かが通り過ぎる気配がした。今まで向かいから歩いてくる人は誰もいなかったから、僕は反射的に、僕から見て後ろへと歩いていったはずのその人の背中を追った。

それは僕だけではなかったようで、

「ん……?」

「七夜先輩? どうしたんですか?」

「いや……今、誰かがすれ違って行ったような……」

釈然としない表情の七夜さんが、しきりに後ろに目をやっていた。僕もそれに倣って後ろを見てみたけれども、そこに人影らしき姿は無かった。ただの思い過ごしかなぁ?

「見間違いじゃないか? 俺からは見えなかったぞ」

「うん……私も気づかなかったよ。どんな人だった?」

「気のせいかもしれないが……手に、花を提げていたような気が……」

「ずーっと向こうにお墓があるから、お墓参りに行ったんじゃないかなぁ?」

「こんな時間にか? まあ、可能性が無いわけじゃないが……」

しきりに首を傾げながらも、七夜さんは再び歩き出した。それに続いて、他の四人も歩き出す。

「……………………」

……きっと、気のせいだろう。

 

「それじゃあ、また明日な」

「霧島君、気をつけて帰ってね」

「うんうん。みんなも気をつけてねぇ」

住宅街へと差し掛かり、佳乃ちゃんは残る四人ともここで別れた。散り散りに住宅街へと消えていく折原君たちを見送りながら、僕は佳乃ちゃんの側に寄り添った。

「ふぅ……今日はいろいろあったねぇ」

「ぴこぴこっ」

「ポテトも一日ご苦労様っ! それじゃあ、僕たちもお家に帰ろっかぁ」

「ぴこっ!」

そう言葉を交わし、僕らも家路に付こうとした――

――その時。

 

「どうだ? 怪しい奴はまだ尾けて来てるか?」

「……たぶん、もう大丈夫……」

 

そんな会話が、僕らの耳に飛び込んできた。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586