「河童の川流れ」[立ち読み版]

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山辺市浅葱区東雲町、午前十時三四分。

みいん、みん、みん、みん――四方から響き渡るミンミンゼミの鳴き声を聞きながら、制服姿の加奈枝が、コンクリートで舗装された細い道をぽてぽてとひとりで歩いてゆく。学校での夏期講習を受け終わって、帰宅の途についている最中だった。

「今日もあっついわあ。汗かいてまう」

手にさげたカバンからタオルハンカチをぐいっと引っぱり出して、額に浮かんだ珠のような汗を拭う。強い日差しと蒸し暑さはなかなか堪えるものだったけれど、加奈枝はこの夏という季節が好きだった。言葉にするのは難しいけれど、何かうきうきした気持ちになれる。加奈枝にとって、夏はそんな季節だったのだ。

加奈枝の歩いている道の横手には細い水路があって、彼女の進んでいる方向とは正反対に水が流れている。すなわち、彼女は水路の源流に向かって歩いていることになる。

「あっこやったら人もおらんし、うちひとりでゆっくりできるやんな……」

ほっそりした顔立ち、つぼみのような小さなくちびる、透き通った声色、短めに切りそろえられた栗色のかった髪。決して子供っぽくはないけれど、大人っぽいって柄でもない。成熟しつつある子供、あるいは、幼さを色濃く残す大人。そんな中学二年生という時期相応の雰囲気を、自然体で着こなしているのが、加奈枝という少女なのだった。

浅葱区は区内をすっぽり山に囲まれた地区で、遠くには雄大な山々を、近くには広々とした田んぼを見ることのできる、<田舎町>のイメージがぴったり合う地域だ。東雲町は中でも特にその傾向が顕著で、町内にはまばらに一軒家が建っていて、他は水田や水路、果樹園で占められているといった具合だった。建物らしい建物はほとんどなくて、加奈枝の住んでいる家から歩いて十分ほどのところにある地元の選果場が、この辺りで一番大きな建築物だった。それさえも、取り立てて大きなものじゃない。

加奈枝は今からちょうど一年くらい前、山辺市の外からここ浅葱区東雲町に引っ越してきた。先ほどちらっと書いたとおり、中学二年生の女の子で、本人は自分のことを、どこにでもいる普通の子、もっとはっきり言うと、これといった特徴のない子だと思っている。見た目はいかにも線の細い、体を動かすのが苦手な女の子といった風貌だ。

学校の成績は並よりほんの少し上、だけど昔から数字に弱くて、小学校の頃は算数、今は数学がとても苦手。中学に入ってから始まった英語は、リーディングがちょっと覚束ないけれど、リスニングは得意でイントネーションも悪くない。好きな食べ物はいちご大福、特にいっしょに暮らすお婆ちゃんが作ってくれるいちご大福がとびっきりの大好物。ただ、あんまりおいしいものだからついつい食べすぎちゃって、余分なお肉が付いちゃいそうなのが悩みのタネ。

そんな加奈枝が山辺市へ越してくるときに、どういうわけか、それまで一緒に暮らしていた両親と離れることになってしまった。今はここ東雲町にずうっと昔から住んでいる、母方のお婆ちゃんの家で暮らしている。父母は加奈枝をほっぽり出してどこかへ行った、とかではなくて、何やら複雑な事情があって、加奈枝を厄介ごとの無いお婆ちゃんの家へ預けることにしたそうだ。それでも、一ヶ月に一度くらいのペースでどちらか片方がお婆ちゃんの家までやってきて、お小遣いをもらったり学校の話を聞いてもらえたりしていた。それに、お婆ちゃんもとても優しくて、加奈枝をよく可愛がってくれていたから、加奈枝自身はそんなに寂しいと思うことはなかった。

引っ越してきたばかりの頃は、もちろん環境が変わったこともあって戸惑うことも多かったけれど、一月くらいするとすっかり慣れてしまった。元々別段都会っ子というわけでもなく、東雲町での田舎暮らしにすぐに馴染めたのも大きかった。転校した先の中学校でもいじめられるようなこともまったくなくて、とてもスムーズにクラスに溶け込めた。誰にでも優しくできる人当たりのいい性格をしていたこともあったし、快活なイメージが強い関西弁を話すにも拘らず、いつものんびり・おっとりしているところがウケて、「癒し系キャラ」と程よくいじられつつも可愛がられる、なかなかいいポジションを得ることができていたのだ。ただ、本人は「うちに癒されるとこなんかあるかなあ」と、ちょっと自信が無い様子だったけれども。

舗装された道を途中でさっと外れて、乾いた土で覆われた砂利道を歩いていく。この先に、加奈枝の目指す場所はあった。しばらく進んでから不意に横道へ入ると、雑木林をがさがさとかき分けて、ぴょんと一歩前へ飛び出す。

すると間もなく、加奈枝の耳にざあざあという涼しげな音が入り込んできた。

「着いた着いた。珠川や」

珠川は浅葱区を流れるとても大きな川で、源流は東雲町の最南端にある「神谷山」という山にある。人の手がまったく入っておらず、川底が肉眼ではっきりと見て取れるような澄んだ水をなみなみと湛えるその姿は、まさしく<清流>という言葉が相応しかった。水の流れる涼やかな音に、加奈枝は胸を高鳴らせる。ここは彼女のお気に入りの場所で、こうやって一人でこっそり訪れるのが大きな楽しみの一つだった。

ひと段落したところで、加奈枝がおもむろに辺りをきょろきょろと見回し始めた。この辺りに誰か他の人がいないか、自分のことを見ている者はいないか。しっかりと確かめてから、加奈枝は近くの茂みへさっと隠れた。がさっ、という葉の揺れる音と共に、加奈枝の姿が森の中へ紛れる。

「暑っつう……もう汗だくやわ、かなわんなあ」

手のひらでぱたぱたと顔をあおいで、ぷふう、と頬をふくらませて息をつく。汗だく、と口にした通り、加奈枝の来ている薄手のブラウスは汗をいっぱいに吸ってしまって、生地の下がうっすらと透けて見えていた。彼女の肩口辺りに目を向けてみると、透けたブラウスの裏側に、下着にしてはちょっと違和感を覚える、紺色の生地が見え隠れしている。加奈枝も今更ながらそれに気が付いて、慌ててぱっと右手を当てた。あわわ、ここに来るまでに、誰かに見られちゃったりしてないかな……ここに来るまでの道すがら、誰一人としてすれ違わなかったこともすっかり忘れて、頬を真っ赤に染める。加奈枝はすうーっ……と深呼吸をして、大きくなった鼓動が少し落ち着くのを待ってから、おそるおそる、準備を始めた。

スカートのホックを取ると、腕を使ってぱたぱたと簡単にたたむ。カバンの中へぐいっと押し込んでから、今度はブラウスのボタンに手を掛けた。ひとつひとつ丁寧に外していって、これも腕にくるんでぐるりとまとめる。汗に濡れて冷たくなった腕を両腕で軽く払うと、仕上げに靴を脱いで、最後は靴下をおっとっととよろめきながら脱ぐと、どうにかこうにか、準備は完了した。

「ふう……学校の更衣室で着替えてきてよかったわあ。外で水着着るん、ちょっと恥ずかしいし……」

制服を全部脱いでしまった加奈枝は、水着姿――それも、学校指定の紺色の水着姿になっていたのだった。

汗で肌にすっかり張り付いた水着に指を突っ込んで、ぐいぐいと間を広げるように動かす。指をすっと引き抜くと、ぱちんと音がして再び肌へ密着した。体をひねったり、腕をぐるんぐるん回したりして、加奈枝はちょっとばかり、ぎこちなさを感じている様子を見せている。

「なんか、水着ちょっときつなった気ぃする……身体、大きなったんかなあ」

水着は去年買い換えたばかりだったけれど、心なしか少しきつくなってしまったような気がする。引っ越す前に比べると明らかにふくらんだ胸にそっと手を当てると、なぜだか頬がかあっと熱くなってくる。保健の授業をちゃんと聞いていたから、これがどんな意味を持っているのか、加奈枝にも分かっていた。ほてった躰で、思考があさっての方向に行きそうになっていることに気付いて、加奈枝が慌てて両手で頬をぱちんと叩いた。

加奈枝が水着を着ているのは、言うまでもなく泳ぐためだ。場所はもちろん、ここ珠川に他ならない。加奈枝は小さい頃から泳ぐことが大好きで、東雲町へ引っ越してくる前にも、川やプールで元気よく泳ぎ回っていた。以前はスイミングスクールにも通っていて、小学生の時分で既にバタフライをマスターしていたくらいだ。中学生になってからは、習い事としての水泳はやめてしまったけれど、趣味としての水泳は欠かすことなく続けていた。

彼女の泳ぎの上手さはホンモノで、以前通っていた小学校で催されたクラス対抗の水泳大会では、見事一等賞を取ったくらいだった。それも男女混合の大会だったから、加奈枝は同年代の男子よりも速く泳げたということになる。それまで何につけてもあまり目立たなかった加奈枝が、体格のいい男子や運動の得意な女子をぐんぐん追い抜いていく様子は、同級生たちの注目の的になった。先生たちもびっくりしたほどで、これはすごいと口々に加奈枝を褒めそやした。水泳大会を通して、加奈枝は一躍有名人になったわけだ。

……とは言え。

「うち、そない上手ちゃうし……あれは、たまたま運よかっただけやから……」

元々加奈枝はとても恥ずかしがりやで、こんな風に褒められるとたちまちあがってしまうタイプだった。だいたい、自分よりももっと上手な人はたくさんいるのに、こんなに褒められちゃうのはおこがましい――なんて考えてしまうのだ。大会が終わって表彰台に立つ時も、耳の先まで真っ赤になってしまって、何もないところですてんと転ばないように歩くのが精一杯だった。自分にあんまり自信が持てなくて、褒められることに慣れていない。加奈枝はそういう一面も持っていた。

同級生には、地元のクラブで男子に混じってサッカーをしていたり、幼稚園の頃からずっと剣道を続けていたりして、男子顔負けの負けん気と身体能力を持っている女子が何人もいた。本当のところ、加奈枝も彼女らに引けを取らないくらいの能力はあったのだけれど、本人は「うちが人並みにできるん、泳ぐのだけやから……」とやっぱり引け腰で、他の子はすごいなあ、とか、自分は大したことないなあ、とか、いまいち前向きに考えることができなかった。

こんな背景があったので、いくら上手とはいえ人前で泳ぐのはとても恥ずかしくて、特に中学生になってからその傾向はますます強くなった。もちろん、思春期に入ったからだ。加奈枝だって立派な女の子である。けれども、泳ぐことの気持ちよさはどうしても忘れられない。そんな加奈枝にとって、自分以外の人が訪れることがほとんどなくて、流れもゆったりしていて泳ぎやすいここ珠川は、びっくりするくらい理想的な場所だった。ここなら人目を気にせず、いくらでも泳ぐことができる。補講帰りにわざわざ水着に着替えて立ち寄るだけの価値はあったのだ。

「誰もおらんやんな……見られとったら恥ずかしいし、ちゃんと見とかな」

両手でそっと胸元を隠しつつ、念には念を入れて茂みからもう一度外をチェックする。見えるのは緑の鮮やかな葉を茂らせる木々と透き通った清流、聞こえるのは賑やかな蝉の声と涼やかな川の音だけ。見ても聞いても、人気は欠片もない。ほっと小さく息を吐いて、加奈枝は茂みから身を躍らせた。軽く準備運動を済ませると、いよいよ待ちに待った泳ぎの時間だ。

素足に伝わる石の硬い感触を味わいながら、加奈枝はごつごつした石が所狭しと敷き詰められた河原を歩いていく。浅瀬までやってくると、迷わず足を踏み入れた。ちゃぷん、と小さな音を立てて、つま先から水へと浸かる。暑さに慣れきった体に、流水の冷たさがじいん……と染みわたる。ぶるっ、と大きく身をふるわせて、加奈枝は冷たい水の心地よさに感じ入った。

ざぶざぶと水面を派手に揺らしながら歩いていって、太腿の中ほどまで水に浸かるくらいの深さのところまでたどり着いた。両手で水をすくって、ほてった頬や汗ばんだ胸元へ思い切りぶちまけた。激しい水しぶきが飛んで、髪にも珠のような雫がたくさんできる。その一つ一つが夏の陽光を跳ね返して、まるで加奈枝が輝いているかのよう。

「ああ……気持ちええわあ。涼しなったし、そろそろ泳ごかな」

汗をすっかり洗い流して、加奈枝は爽快な気持ちになった。ようし、この意気でそのまま泳ごう――気弱で引っ込み思案な加奈枝だったけれど、好きな事を始めるときは、こうやってすぱっと素早く決めることができた。大きく息を吸い込むと、ざばんと音を立てて水中へ潜った。

人魚を思わせる軽やかな動きで加奈枝が泳ぎ始めるまでには、少しの時間も必要なかった。

 

小一時間ほどたっぷり泳ぎ回って、加奈枝は満足したみたいだった。ざばざばと水をかき分けながら歩いて、元の浅瀬まで戻ってきた。ぽたぽたと冷たい雫を滴らせながら、陽の光を浴びて熱された石で覆われた河原を歩く。五、六歩ほど歩いたところでゆっくり落ち着けそうな場所を見つけて、よいしょ、と腰を下ろした。

ふっくらした丸みのあるお尻。ナイロンの生地がピンと張った上から、ごつごつした石がぎゅうっと食い込む。加奈枝は心なしかくすぐったさを覚えながら、河原でぺたんと三角座りをする。ふう、と息をつくと、満ち足りた思いが広がっていく。今日もたくさん泳げた、距離にすると三,〇〇〇メートルくらいは泳いだ気がする。二十五メートルプールを百と二十回も往復した計算だ。心地よい疲労感も合わさって、加奈枝は至福の表情だ。

いっぱい泳いで満足したし、いい具合にお腹も減ってきた。そろそろ家へ帰って、お婆ちゃんといっしょにお昼にしよう――なんて、のんびり考えながら、何気なく右手に目をやると。

「達者な泳ぎぶりだな、まるで魚のようだ。感心したぞ」

見ず知らず、まったくの見ず知らずの、二つか三つくらい年上に見える女性――いや、お姉さんが、加奈枝の隣にいつの間にか座っていたのだ。

「えっ……えぇっ!?」

もちろん加奈枝は驚いた。まさか珠川に自分以外の人が来るなんて思っていなかったし、声を掛けられるなんてもっと想定外だった。全然知らないお姉さんに呼びかけられて、しかも口ぶりからすると自分が川で泳ぎ回っていたのを見ていたようだから、驚くと同時にたちまち気恥ずかしくなって、頬をりんごのようにかあっと紅潮させた。

どぎまぎしつつ、お姉さんの姿を確認してみる。髪は黒くて艶があって、とても長い。所謂黒髪ロングというやつで、いかにも「お姉さん」という感じの見てくれだった。それはよかったのだけれども、服装の方はずいぶん奇抜だった。お祭りのときに着るような藍色の法被を身に着けていて、今にもお神輿を担いで走り出しそうな雰囲気だ。東雲町でも夏祭りがあって、去年は仲良くなったばかりの友達といっしょに楽しい時間を過ごしたけれど、お祭りは確か八月で、まだまだ先だったような気がする。お姉さんはどうして法被なんか着ているのだろうと、加奈枝は不思議で仕方がない。

だけど――そんなことより、お姉さんにはもっと大切な、そして大変な特徴があった。

(あれって……<水かき>、やんな……?)

胸にそっと手を当てているお姉さん。すらりとした腕を追って手のひらを見たときに、加奈枝は思わず目をみはった。手に指は三本しか生えていなくて、指と指の間に薄い膜が張っている。どこからどう見たって、亀や蛙に付いているような水かきにしか見えなかった。あっ、これは――と、すぐさま加奈枝は思い出す。小学三年生くらいの頃にお婆ちゃんから聞かされた、浅葱に住んでいるという物の怪の話を。

「あ、あの……お姉さん、もしかして……『河童』と……違う?」

「うむ、いかにもその通りだ。押しも押されもせぬ河童だが、それがどうかしたか?」

やはり「河童」だった。加奈枝の思ったとおり、お姉さんは「河童」だった。

お婆ちゃんから聞かされた話。ここ浅葱区には、人ならぬ存在である「物の怪」が住んでいて、時折人の前に姿を現すという。物の怪は人智を超えた力と知恵を持っていて、とても畏れ多い存在だ。だから区内の人は皆物の怪を推尊し、畏敬の念を持って接している――のだそうだ。そして加奈枝は、水辺に住み人に似た姿形を持つと言われる「河童」という物の怪の話もまた、お婆ちゃんから聞いていた。

(嘘やん……河童って、ほんまにおったんや……)

物の怪については大好きなお婆ちゃんが熱心に話してくれたことなので、加奈枝もしっかり耳を傾けて聞いてはいた。ただ、どちらかというと「御伽噺みたいなもの」だと思っていて、面白い話ではあるけれど、自分にはきっと縁なんかありっこない。そんな風に考えていた。だからこうして目の前に堂々と人ならぬ河童が現れたことで、加奈枝はすっかり驚いてしまった。口元に手を当てたままカチコチに固まってしまって、上手く言葉が出てこない有様だ。

ぎこちなさを隠し切れないながらも、加奈枝は目の前に仁王立ちする河童のお姉さんを見ているうちに、今度は次々に疑問が沸き起こってきた。ちょっとばかり興奮気味に、加奈枝がお姉さんに言葉を投げ掛けていく。

「えっ……でも、河童って、頭にお皿みたいなん載っけてて……」

見ての通り、お皿なんて載ってない。

「背中に……あの、亀さんみたいな甲羅も背負ってて……」

そんなもの、まったく背負ってない。

「あと……せやせや、髪型は『おかっぱ』で……」

繰り返すが、お姉さんは黒髪ロング。

「ええっと……ごめんな、失礼やと思うけど……なんかこう、魚みたいな生臭い匂いするって……」

遠慮しいしい、加奈枝がちょっと鼻をならしてみる。するとどうだろう、柚子のような心地よい柑橘系の香りが、お姉さんの方からふんわり漂ってくるではないか。全然生臭くなんてない、むしろ清々しいいい匂いがする。これも違った。

加奈枝はますます慌てふためいてしまった。水かきは付いているし川辺にいるし、何よりご本人が「河童だ」と仰るのでお姉さんは河童で間違いない、間違いないはずなのだけど、お婆ちゃんから聞かされた「河童の特徴」にちっとも当てはまらない。お皿もなけりゃ甲羅もなく、髪はさらっさらの黒髪ロング、ついでに漂ういい匂い。あと、顔立ちも恐ろしいと聞いていたけれど、お姉さんはどう見たってクールでスマートな綺麗どころだ。けれど、さすがにこれは口に出して言うと失礼に当たると思ったので、加奈枝は心の中にしまっておいたのだけれども。

「なるほど。それはきっと、古くから東雲に住まう老君から耳にしたことだろう」

「えっ? う、うん……うちのお婆ちゃん、河童ってこないな物の怪さんなんやで、怖い物の怪さんやねんでって、うちに教えてくれたから……」

「やはりそうか。ならば、納得だ」

河童のお姉さんはふっと柔らかな笑みを見せて、緊張している様子の加奈枝に優しい目を向けた。

「往時は人と河童の間に隔たりがあった。互いを侵さぬために、人は河童を畏れ多いものとして伝えてきたのだろう」

「けれどご覧の通り、浅葱の河童とはこのような姿形をしている。まあ、驚くのも無理からぬことだな」

水かきの張った手でそっと頬を撫でつつ、お姉さんはさらに続けて。

「わらわの名は水穿。水を穿つ、と書く。人の子よ。できれば、わらわに名前を教えてくれないか」

「あっ……はいっ。ええっと、うち……か、加奈枝って言います。湯村加奈枝、です」

河童のお姉さん――もとい、水穿と言の葉の名刺交換をして、加奈枝が深々と頭を下げた。

この人……ちゃうちゃう、河童さん、自分のこと<わらわ>って言うんや。もしかしたら、偉い河童の娘さんやったりするんかな――なんて、加奈枝はあれこれと想像の翼をはためかせる。

「カナエ、か。うむ、憶えやすい名前だな。わらわのことは好きに呼んでくれて構わない」

「はいっ……ええっと、いきなりすいません。あの、一個、訊いてもいいでしょうか」

「ふむ、質問か。構わないぞ、カナエ。どうした?」

「水穿さんって、なんやこう……あの、河童の、お姫さん……やったり、するんでしょうか」

「河童の姫君? わらわがか?」

加奈枝から唐突に飛んできた質問を受けて、水穿は人で言うところの人差し指で自分の顔を指しつつ、鳩が豆鉄砲を喰らったようなきょとんとした表情を見せる。どういう意図で質問したのか、うまく図りかねているみたいだ。無理もない、これはいくらなんでも突拍子に過ぎる。加奈枝もあとからそれに気が付いて、いささか慌てながらフォローを入れた。

「あ、えっと……その、自分のこと、<わらわ>って言うてるから、ちょっとこう、高貴な感じなんかなあ、って……」

「ああ、そういうことか。カナエの言う<わらわ>は<妾>、『妾』という字の方だな。わらわの言う<わらわ>はそうではない。『童』という字の<わらわ>だ」

「えっ!? 童って、そないな読み方あるんですか……」

「うむ。わらわはまだ心身共に半人前、未成熟だ。ああ、ここは解り易く子供と言うべきかな。浅葱に住む河童の女子には、おおよそ嫁に行けるようになるまで、己れのことをわらわと呼ぶ風習がある。そういうことだ」

水穿からすぱっと解説してもらい、加奈枝は疑問が見事に氷解した。なるほど、まだ子供だから「童」なんだ。初めはびっくりしたけれど、なかなか理にはかなっている。うんうんと頷いて、加奈枝は納得してみせた。

「さて、カナエ。ここで折り入って話がある。聞いてくれるか」

佇まいを直して「折り入って話がある」と水穿から切り出された加奈枝が、再び緊張を取り戻して目を見開く。眼前の水穿は透き通った美しい肌をしていて、顔立ちは端整で非の打ち所はなく、そしてその目からは加奈枝にはない、大人の色香を醸し出している。こんな綺麗なお姉さんが、うちみたいなちんちくりんにどんな話があるんやろ――と、加奈枝が興味と不安で胸をいっぱいにしていると。

「先ほどの泳ぎぶり、間近で見せてもらった。実に見事なものだ。素晴らしかったぞ」

「その腕前を見込んで、ひとつ、頼みがある」

ひと呼吸置いてから、水穿は――。

「――カナエ」

「わらわに、泳ぎの手解きをしてくれないか」

 

※立ち読み版はここまでとなります。続きはイベントにて頒布します本編にてお楽しみください。