あれは私が大学生だった頃なので、今からもう三十年くらい前になりますね。
当時は「ま、いっか」と気にしていなかったのですが、振り返ってみると筋の通っていない不気味な話に感じます。
何か被害があったとかひどい目に遭った訳ではないものの、奇妙な話ですので聞いてもらえればと思います。
大学に通っていた当時、私はAという友人とよくつるんでいました。
酒とタバコが好きな典型的な不真面目キャラでしたが、それと同じくらい読書を好む一面もありました。
神田の古書店街へ行って、よくあちこちの店を一緒に冷やかしていたのを覚えています。
そういうわけでAは大量の本を買ってアパートに置いていたのですが、学生ですのでそう収入があるわけでもなく。
Aはしばしば私に「金を貸してほしい」と頼み込んで、それを本の購入資金に充てていました。
面白いのは、Aは遊び人でしたが借りた金はちゃんと返すタイプで、返済されなかったことは一度も無いです。
変なところで生真面目なヤツだったなと、今振り返ってきても思います。
二年生の秋頃、例によってAにお金を貸しました。五千円ちょうどだった記憶があります。
どうせいつも通りしばらく返ってこないだろうと思い「金ができたら返せよ」と言いました。
金を貸してから一週間ほど経ったでしょうか。遠出したりしてしばらくAに会っていなかったのですが、学食にいるのを見つけました。
うどんの載ったトレイを置いて椅子に座っています。辺りに他の人はいませんでした。
学食はマズいと言って普段は寄り付きもしなかったのに珍しいこともあるな、そう思いつつ声を掛けました。
Aはすぐこちらを向いて、挨拶もそこそこにこう切り出しました。
「この間借りた五千円、ここで返させてくれ」
財布を取り出すと五千円札を抜き取り、私に手渡してきました。
素直にお金を返してもらって嫌な気持ちになる人はいないでしょう。私も「早かったじゃん」と言って受け取りました。
私はまもなく次の講義が控えていたので会話もそこそこに、Aを残して学食から立ち去りました。
これで終わっていれば記憶にも残らなかったのですが、その後奇妙なことが起きました。
金を返してもらってから二日くらいして、図書室で再びAと会ったんです。今度はAの方が私を見つける形になって。
私の顔を見るなりAは小走りに寄ってきて、いきなりこんなことを言い出しました。
「悪い、今借りてる金だけどさ、もう少ししたらバイトの給料入るからそれまで待ってくれ」
Aの言葉を聞いた私は目を丸くしていたと思います。Aの方もずいぶん素っ頓狂な顔をしていましたから。
私が「五千円ならおとといに返してもらった」と言うのですが、Aは「そんなはずはない」と否定するのです。
食堂で偶然会ったこと、その場で返してもらったことなどを伝えましたが、Aは「知らない」の一点張りです。
お金を返してもらっていない時に「知らない」とか「もう返した」と言い張られるなら、納得はいきませんが理解はできます。
違うんです、まるで逆だったんです。すでに返済されているのに「まだ返していない」と言われ続けたのです。
返してもらった五千円札を出して見せたりもしましたが、Aは「絶対に俺じゃない」と言って聞きませんでした。
そのあと少し落ち着いてから話を聞いてみると、二日前にAはそもそも大学にいなかったとのことでした。
サボってアパート近くの喫茶店で本を読んでいたらしく、一度も顔を出していないというのが本人の言です。
もし万が一大学に来ていたとしても学食に行くことだけは絶対無い、とも付け加えました。
翌日、大学に行っていなかったというAからも金が返ってきて、最終的に五千円分余分に増えた形になります。
学食で会った方のAから渡された五千円札がいつの間にか消えた……とかもなく、ごく普通に使った記憶があります。
汚れや折り目ひとつ無い完全なピン札だったのは、今考えてみると少し不自然な気はしますが。
大学を出てからすぐにAとは疎遠になってしまい、あの一件がなんだったのかは分かりそうにありません。
Aに金を貸していたことは誰にも言っていませんし、Aに顔がうり二つの兄弟がいるとかそういう話もないです。
確かに言えるのは、Aを名乗る誰かが私に金を返したということ、その人物がAと別人とは思えなかったということだけです。
……彼は一体、何者だったのでしょうか?