爽やかな朝の空気で満たされた通学路を、通学カバンを肩にかけた真央が颯爽と駆けていく。ゆるやかな上り坂になっているこの道を走るのが、真央にとって毎日のはじまりだった。走っていく先には交差点があって、真央はそこ目掛けてまっすぐ進んでいく。
交差点の真ん中には、真央と同じ制服を着た女子がひとり、背を向けて立っているのが見える。彼女の姿を見つけた真央はパッと目を輝かせて、大きく声を張り上げた。
「おーい! 紗久弥ーっ!」
名前を呼ばれた少女――紗久弥が、くるりと身を翻して振り返った。ふわりと揺れた髪の向こう側、そこにあったのは……。
否、「何もなかった」。真っ平な肌だけが広がって、そこには目も鼻も口もない。俗に言う「のっぺらぼう」だ。顔についているようなものは何ひとつ見当たらず、ただすべすべの肌だけが、髪の間から覗いていた。こう見えても真央のことはちゃんと認識しているらしい、しっかりと彼女の方を向いて、走ってくるのを待っているのが分かる。
紗久弥の元まで駆け寄った真央が息を整えながら、顔を上げて紗久弥を見る。
「ごめんごめん、待ったかな?」
ふるふると横に首を振るのが見える。紗久弥はただ「顔がない」だけで、他は真央たちと大して変わるところのない普通の女の子だ。真央の方もこれが自然だとばかりに、紗久弥と何の違和感もなくコミュニケーションを取っている。紗久弥には顔がないけれど、その分身振り手振りで自分の感情を積極的にアピールしていて、なんだったら他の子より感情豊かにすら見えてくるから不思議だ。
真央と紗久弥が出会ったのは、ふたりが中学へ上がってからのことだ。入学直後にたまたま同じクラスに割り当てられ、さらに偶然にも席が隣同士になったのがきっかけだった。さすがに出会ったばかりの頃は真央も紗久弥が「のっぺらぼう」なことに文字通り、文字通り『面食らって』いたけれど、それも最初だけのこと。すぐに意気投合して仲良くなった真央と紗久弥は同じ高校へ進学して、今も変わることのない友情を育んでいる。
紗久弥は真央たちと変わらない『顔のある』人間の母親と、のっぺらぼうである父親との間に生まれた子供だった。顔以外は上から下まで何もかも若い頃の母親と瓜二つで、父親の特徴は顔の部分にだけ現れたそうだ。赤ちゃんの頃は泣かない代わりに何をしてほしいか知るのが大変だったり、声が出せないゆえに幼稚園に上がる前から文字が書けるよう練習したりしたんだよ――いつだったか、紗久弥が昔を懐かしむように話していたのを、真央は今でもよく覚えている。
さて。ふたりが並んで歩いていると、とんとん、と紗久弥が真央の肩を指でつつく。真央がサッと隣へ視線を向けると、そこには。
「あっ! また新しい顔描いたんだ」
スケッチブックにクーピーで描かれたコミカルな「笑顔」のイラストがあった。紗久弥はそれを掲げてあたかも自分の顔のようにして真央に見せている。紗久弥がスケッチブックを一枚めくると、今度は眠そうに目を細めているキュートな顔が見えた。どうやらこれも新しい顔の絵らしい。真っ白な紙にカラフルに描かれた紗久弥の顔は、彼女の感情をとても分かりやすく表現していた。
紗久弥の顔には口がなく声も出せないものの、このスケッチブック――顔を表現することが多いので、紗久弥はこれを「フェイスブック」と呼んでいる――を使って言いたいことや伝えたいことを表現している。筆談に使うこともしばしばで、紗久弥にとっては何よりも大切なものだ。これのおかげで、紗久弥はコミュニケーションに困ることがないのだ。
「おはよー」
「紗久弥もおはよー」
通学路を抜けて普段通り学校へ着くと、教室で先に登校していたクラスメートから挨拶を受ける。真央が挨拶する横で、紗久弥が「おはよー!」と大きく元気に書かれたスケッチブックのページを掲げて応えた。ここでも紗久弥を奇異な目で見たり怖がったりする者は皆無だ。みんな紗久弥がただ「顔がない」だけで、それ以外は自分たちと変わらない普通の女子だと知っている。紗久弥の掲げる「おはよー!」に、周りの女子たちも気さくに返していた。
真央が席に着いてカバンから教科書とノートを取り出して机へ入れると、一足先に準備を済ませた紗久弥が真央の元へ近付く。スッと横に立った紗久弥が、ためらうことなく真央にぎゅっと抱き付いた。わっ、と真央が小さく声を上げる。だけど驚きはすぐに収まって、しきりにくっついてくる紗久弥に嬉しそうな表情を見せていた。こういうことは日常茶飯事、毎日のように繰り返していることだ。この様子を見ているだけで、紗久弥と真央が親友同士だということが誰でも分かるだろう。
そう、真央は紗久弥を親友だと思っている。それはきっと紗久弥も同じだと考えていて、今の様子を見ている限りは正しそうだ。真央は紗久弥と仲良くしていたい、一緒にいたいという気持ちが強いことを自覚している。紗久弥は自分と一緒にいるときいつでも楽しそうにしているから、これもきっと同じだろう、真央はそう思っている。
(私……紗久弥のホントの気持ち、分かってあげられてるかな)
……もっと正しく言うなら、そう思いたかった、なのだけど。
紗久弥はのっぺらぼうと人間の間に生まれた子で、のっぺらぼう故に顔も口もない。だから身振り手振りと「フェイスブック」で相手とやり取りしているのだけど、真央は紗久弥の言いたいこと伝えたいことをちゃんと汲み取れているか心配になることがしばしばあった。なるべく意識するように気を付けてはいるけれど、自分の思い込みを紗久弥に押し付けていないか、気配りのできる紗久弥が無理して合わせてくれていないか、真央はそれを気にかけていた。
平べったい顔をいっぱいに使ってほおずりする紗久弥はとにかく楽しそうで、何か心配するようなことはまるでなさそうだったけど、真央はもっと紗久弥と仲良くなりたかった。今でも紗久弥を親友だと思っているけれど、それよりももっと深い関係になりたいという気持ちがあることを自覚していた。
のっぺらぼうの紗久弥には、表情を現す顔も声を出す口もない。けれど真央が知っている誰よりも感情豊かでカラフルで、自分よりずっと輝いて見えていた。だから紗久弥のようになりたい、深くつながりたいという気持ちが強くあった。
「あっ、先生来た」
真央が声を上げると、紗久弥がぴょんと小さく跳ねてすぐに自分の席へと戻っていく。
その仕草ひとつさえこの上なくかわいらしくて愛おしい、真央はそう思わずにはいられないのだった。
*
さて、迎えたある日の休日。
「スマホよし、財布よし、ハンカチよし……これでバッチリだね」
提げたバッグの中身を一つずつ指さして、忘れ物が無いことをチェックする。これからどこかへ出かけるようだ。確認を終えた真央が靴を履いて家を飛び出し、学校へ向かうときと同じように坂道をパタパタと軽快な足取りで駆けていった。心なしかウキウキした様子は、彼女の気持ちが表に出ているかのよう。
向かった先は通学路、その先にあるのはいつもの交差点。けれど真央の目的地は交差点そのものではなく、交差点で待っているはずの誰かにあって。真央の想う「誰か」というのは、もちろん――。
「紗久弥ーっ! 今日もお待たせっ」
言うまでもなく、のっぺらぼうの紗久弥だった。真央の声を耳にした紗久弥がくるりと振り向き、走ってくる真央にぶんぶんと大きく両腕を振って応える。紗久弥には顔こそないけれど、ものを見たり聞いたりすることは普通にできるのだ。しっかり真央の方を向いて、もし目があるならきっちり目を合わせているだろう動きをしているのが見て取れた。
駆け寄った真央を、紗久弥がめいっぱい腕を広げてからのハグで出迎える。今日はこれから二人で出かける約束をしていたのだ。待った? 訊ねる真央に、紗久弥は首をふるふると横に振って「来たばかりだよ」と合図をする。待ち合わせの時間まではあと三分くらい余裕がある、お互い会いたさ故に早く来たのが分かる。
「よし。それじゃ、行こっか」
ふたりが連れ立って歩き、ほどなくして最寄りの駅に着いた。流れるようにして電車に乗り込み、真央と紗久弥が向かうのは六駅ほど行った先にある市街地だ。二人が住んでいる場所は閑静な住宅街で、住み心地はいいが遊ぶ場所としては物足りない。だから買い物をなどをするときは、こうして外に出かけるのがお決まりだった。
目的地の駅に辿り着いて電車を降りると、紗久弥が真央の手をそっと引いて歩いていく。行きたい場所があるらしい、真央は素直に付いていった。紗久弥に手を引かれるまま向かった先は、表の路地から少し入ったところにあるこじんまりした文具店だった。やっぱりここかぁ、真央が思わず頬をゆるめる。紗久弥はこの文具店でスケッチブックやクーピーを買うのが好きで、二人で出かけた折は必ずここへ顔を出すのがお決まりだった。
紗久弥が自動ドアをくぐって店内に入ると、品出しをしていた店主のおばあちゃんがそれに気付いてのそのそと振り返り。
「あら、いらっしゃい。今日も買いに来てくれたんだねえ」
真央を連れて入ってきたのっぺらぼうの紗久弥を見るなり、まるで孫の顔でも見たような様子でうれしそうに顔をほころばせた。よく買い物に来てくれる紗久弥とはすっかり顔馴染み、といったところだ。まあ、紗久弥には「顔がない」のだけど、それはご愛敬ということで。
他では見ないような珍しい色のクーピーがずらりと並んだ棚を、紗久弥が食い入るように見つめている。彼女に目があったなら、間違いなく星のようにキラキラと輝いていたことだろう。これとこれ、あとこれも。そんな声が聞こえてきそうな調子でひょいひょいと新しい色のクーピーを手に取る。これはどうかな? 紗久弥が真央に手にしたクーピーの色を見てもらう、春っぽくて可愛いね、真央が素直な感想を口にすると、そうだよねそうだよね、と言いたげにぶんぶんと頭を振る。顔はないのに実に表情豊かだ。
欲しいものを一通り見繕うと、紗久弥はおばあちゃんの待つレジまで小走りに駆けて行った。はいはい、いつもありがとうね。しゃがれた声でお礼を言いながら丁寧に商品を紙袋へ詰め、紗久弥へと手渡した。
早速いい買い物ができたと喜ぶ紗久弥と手をつなぎ、今度は真央が先導する形になった。真央が目指しているのは打って変わって表通りに建つ大きな百貨店、その中に期間限定で入っているポップアップストアだ。さて、二人が向かおうとしているのが何のお店かと言うと。
「見て見て! ハチワレの新しいぬいぐるみ!」
なんかちいさくてかわいいやつこと『ちいかわ』のグッズが並んでいた。刺又のようなものを持ったちょっと凛々しい『ハチワレ』のぬいぐるみを手に取って、真央が紗久弥に見せている。真央のお気に入りはこの子のようだ。一方紗久弥はきょろきょろと辺りを見回してから、あっ、と前に小走りで向かっていく。目当てのものが見つかったようだ。紗久弥が棚から取ったのは、「チュッ」とお猪口で一杯やっている『くりまんじゅう』の描かれたマグカップだった。紗久弥はこちらが推し、といったところだろう。
真央はハチワレのぬいぐるみとスマホカバーを、紗久弥の方はくりまんじゅうのマグカップを買うことに決めたようだ。レジで支払いを済ませてお店を出たふたりはどちらも満足げだ。欲しかったものは手に入る瞬間が一番テンションが上がると言うけれど、それは真央と紗久弥も同じなのだろう。
仲良し同士で買い物に来ているのだから、なおさらだ。
次はどこ行く? 百貨店を出た真央が紗久弥に訊ねると、紗久弥はサッとカバンからスマホを取り出す。カメラアプリを起動すると、写真を撮る……と思いきや、ディスプレイを真央の方に向けて、自分は横で顔に何かを描くジェスチャーをして見せた。紗久弥の仕草を見た真央は、すぐに何が言いたいのかピンと来たようだ。
「わかった! ゲーセン行こ!」
そうそう! それそれ! と言いたげに首を縦にぶんぶん振ると、紗久弥が足取り軽く歩き出した。真央も遅れることなく付いていく。カメラを真央に向けて顔に何か描く、というちょっと不思議な動きで真央が紗久弥の行きたい場所を理解したのはどうしてだろうか。これだけだとどうにも繋がりが見いだせないが……?
さて、程なくして二人は商店街にあるゲームセンターに到着した。自動ドアをくぐって中に入ると、一階プライズコーナーの奥にある一角へまっすぐ進んでいく。そこには大きな筐体がずらりと並んでいた。そのうちの一つをピッと指差す紗久弥に、真央が「それにしよう」と頷く。二人は足並みを揃えて筐体の中へ入った。
「よーし、今日もいろいろいじって綺麗に撮っちゃお!」
真央と紗久弥のお目当て、それはいわゆるプリクラだった。さっきカメラを立ち上げて真央に見せた理由も、これならなんとなく分かるはず。写真を撮るだけならそのままカメラのシャッターを切ればいいけれど、紗久弥はプリクラで撮ってフレームを付けたり落書きをしたりするのが大好きだった。真央はもちろんそれを知っていたから、あのジェスチャーだけで彼女がどこへ行って何をしたいかすぐに分かった――というわけだ。
二人しておどけたポーズをとってみたり、わざとちょっとあざとい感じを出してみたり。ポーズが決まって写真が撮られると、今度は光の当て方を変えて肌を雪のように白くしてみたり、加工を入れてコントラストを強くしてみたり。二人で存分にいじって「盛って」、これで行こうと納得したところで、紗久弥が真央の肩をポンポンと叩いてから、さらに画面をタッチした。紗久弥が選んだのはペンで絵や文字を入れたりできる機能だ。周りに何かメッセージでも入れるのか、と思いきや。
「ね、今日はどんな顔にする?」
紗久弥は軽く腕まくりをする仕草を見せてからペンを執ると、自分の顔に『顔』を描いていった。紗久弥が一番やりたかったのがこれだった。普段はスケッチブックことフェイスブックにに表情を描いて見せているけれど、これなら直接自分の顔に表情を描くことができる。紗久弥が声を出せたなら鼻歌が聞こえてきそうなくらいゴキゲンな調子でペンを走らせると、瞬く間に紗久弥の顔に『顔』が浮かび上がった。
「おー! いいよいいよ、かわいいよコレ!」
そこにはニコニコと微笑み、頬にちょっぴり赤みが差したキュートな笑顔があった。紗久弥の今の感情がどストレートに伝わってくるなんとも素敵な顔だ。隣の真央に褒められて、紗久弥はもうすっかり得意げだ。どんなもんだい、とばかりに腰に手を当てて胸を張っている。子供のように喜ぶ紗久弥の様子が可愛らしくて、隣の真央もつられて笑うのだった。
できあがった写真を印刷したふたりが、持っていた手帳に一枚ずつ貼り付ける。出かけるたびにこうしてプリクラを撮っているせいか手帳はもう全体の半分くらいを使っていて、そのすべてに所狭しと写真が貼り付けられている。そのすべてに紗久弥には『顔』があり、ひとつひとつ違う表情を見せている。そんなページに、今日ふたりで撮った一枚がまた加わるわけで。
紗久弥はのっぺらぼうで顔がないはずなのに、真央の知っている誰よりも表情が豊かで、実にいろいろな『顔』を見せてくれる存在だった。全身を使った身振り手振り、こうしてプリクラの機能を使って書き込まれた顔、そして『フェイスブック』を用いたコミュニケーション。紗久弥といっしょにいると、つい彼女に顔がないことを忘れそうになる。ともすると、自分は紗久弥の気持ちを全部分かってる――そんな風に考えそうなこともしばしばだ。
……ただ。
「お腹すいちゃったね。そろそろどこかでご飯食べよっか」
真央がそう言うと紗久弥は頷いて、「ここに行きたい」的なジェスチャーを何かしている。両手で囲うようなジェスチャーをしてから、囲った間に何かを挟むような動きだ。たぶん何か食べたいものを示しているのだと思うけど、真央は「なんだろう?」と少し首を傾げている。しばらく紗久弥はジェスチャーを一生懸命続けて、真央の方も理解しようと目を大きく開いて彼女を見つめたものの、紗久弥が伝えたがっていることがどうにも分からない。
えーっと、と紗久弥に口があったら声に出していそうな身振りをしてから、カバンからスマホを出して地図アプリを起動して「ここ行こ」と指差して見せる。紗久弥が指差したのはゲーセンから二百メートルほど歩いた先にあるサンドウィッチショップの『サブウェイ』だった。あっ、そういうことだったんだ。真央はようやく気付いた。紗久弥のパントマイムのような振る舞いは、『パンに具材を挟んだモノ』だったと理解したのだ。
(気付いてあげられなかったな)
心の中で真央が少しシュンとする。自分は紗久弥のことをなんでも分かっている、紗久弥が道具を使わなくても何が言いたいかすぐに分かるんだ。そう得意がっていても、ふとしたことで意志を汲み取れない瞬間がしばしば訪れる。そういうとき、紗久弥はすぐに気を利かせてスマホや『フェイスブック』で分かりやすく伝えてくれるのだけど、真央はその度に申し訳ない気持ちになった。意気がっていたことを思い知らされると共に、紗久弥に手間を掛けさせてしまった、そう考えてしまうのだ。
くよくよしても仕方ない、真央は気を取り直し、紗久弥とゲーセンを出て『サブウェイ』に向かって歩き出した。幸いというかなんと言うか、紗久弥の方はまるで気にしていないようだった。彼女の方からすれば、もし必要ならすぐ筆談で伝えるのが普通だと思っている。なので、真央が気にしすぎということもちょっとあったのだけど、紗久弥のことをいつも気に掛けている真央がいるからこそ、紗久弥は楽しく過ごせているというのは間違いなかった。
だからこそ――だからこそ、もっと紗久弥と心を通じ合わせられるようになりたいと思うのだけれど。
ふたりで歩いて十分とかからず、次に行きたかった場所の『サブウェイ』まで到着した。席に余裕があるのを確かめて、二人はオーダーのためにカウンターへ向かう。
「いらっしゃいませ。ご注文を――」
どうぞ、と言いかけて、店員が目を丸くするのが見えた。視線の先には紗久弥の姿が。顔のないのっぺらぼうの紗久弥を目にして驚いているようだった。こういうことは珍しくない、すぐに気付いた真央が「メニューください」と横から声を掛ける。真央に言われてどうすればよいか気付いたようだ、店員がすぐにメニューを紗久弥に手渡すと、紗久弥は意気揚々と「これください」とオーダーを始めた。戸惑っていた店員も、追加の野菜を載せるか訊く頃にはすっかり普段通りの調子になっていた。
注文を済ませた紗久弥がふと真央の方を向いて、『フェイスブック』に描かれた笑顔をさっと掲げる。横から助け舟を出してくれたことに
紗久弥がツナサンドを頼んだのに続けて、真央はチキンサンドを注文する。二人とも追加の野菜をプラスして、ドレッシングにはシーザーサラダをチョイス。味覚の好みがよく似ているのも真央と紗久弥が気の合うポイントの一つだった。できあがったサンドウィッチを持って空いている座席へ行き、ふたりが向かい合って座る。
いただきます。ふたりとも丁寧に手を合わせてから食事を始めた。当たり前だが真央には『口がある』ので、ごく普通にサンドウィッチを食べている。何もおかしなところはない。では、顔に口が付いていない紗久弥の方はどうしているのかと言うと。
(いつも思うけど、これでちゃんと食べられるんだよね)
真央と同じようにサンドウィッチを掴んで、真央で言うところの口がある辺りまで持ってくると、まるで口があるかのようにパンが少しずつ吸い込まれていく。紗久弥には表に出ている口はないものの、何かを食べるときには口のようなものができる――らしい。「らしい」というのは、実際に口のようなものが見えたことは一度もないからだ。これはいつも紗久弥といっしょにいる真央も見たことがない。こういう不思議なところもまた、紗久弥のチャームポイントだ。
もくもくと口らしき場所を動かして、頬がちょっとだけぷくっとふくれている。ハムスターがヒマワリの種をほおばっているみたいでかわいい、と真央が思わず頬を緩ませる。紗久弥が食事をするときはだいたいこんな感じで、結構勢いよく食べるところがある。紗久弥は学校で昼食をとる時は決まって真央と二人でいるので、この様子を知っているのは紗久弥の家族と真央くらいのものだ。そう考えると、真央はちょっと得意な気持ちになった。
あちこちで遊んでお腹が空いていたこともあって、十分もしないうちにどちらも食べ終えてしまった。おいしかったねー、と言う真央に紗久弥がうんうんと頷き、残り少なくなったオレンジジュースをストローでちまちま飲んでいたときのことだった。
「お母さん見て! 顔がない人がいる!」
そう言われて声のした方を見ると、母親に手を引かれた幼い男の子の姿があった。母親の方は慌てて「よしなさい」とたしなめているものの、男の子の方はのっぺらぼうの紗久弥に興味津々だ。真央がどうしようかときょろきょろしていると、声を掛けられた本人である紗久弥の方が椅子から降りるのが見えた。そのまま男の子の方へとてとて歩いて行って、視線を合わせるように屈み込む。
顔を両手で覆って「いないいない……」と言わんばかりの仕草を見せてから、「ばあっ」と手を広げて何もない顔を披露した。「顔がない!」と男の子は大はしゃぎし、紗久弥の方も「顔ないでしょー」と言わんばかりに自分を指さして笑っている。紗久弥には顔がないので笑っているのかは分からないはずなのに、どこからどう見ても笑っている、嬉しそうにしているのだから不思議なものだ。さらに続けて紗久弥が男の子の手を取って、「触ってごらん」と自分の顔に触れさせている。「すべすべだー」ぺたぺたと触る少年の顔には驚きが満ちていた。
紗久弥が「顔がない」ことで驚かれるのはよくある光景だった。決して気にしていないわけではないだろうけど、紗久弥は割とあっけらかんとしている。こうやって直に触れ合いに行くようなことも珍しくなかった。お母さんの方は「すみません」と平謝りしているが、紗久弥はひらひらと手を振ってから『フェイスブック』を取り出し「私も楽しいです」とすばやく書いて掲げた。『フェイスブック』をパラパラめくっていい笑顔を描いたページを出すと、男の子に向けて自分の顔のように見せている。
最後に二人でハイタッチをして、男の子は母親に連れられてサブウェイから立ち去った。紗久弥は最初から最後まで楽しそうにしていて、隣の真央はただただ感心するばかりだ。
「紗久弥は……なんだろう、やっぱりすごいよね」
意識しない内に言葉が漏れた。紗久弥のアクティブさやポジティブさを、真央はただ「すごい」と思うばかりだ。言われた紗久弥は「そうかな?」と首を傾げて、『フェイスブック』をめくるとさっきの「私も楽しいです」のページを真央に見せた。あえて同じページを使いまわすのは、紗久弥がよくやるおふざけだった。自分を不思議に思って奇異な目で見る人にも分け隔てなく接する紗久弥の姿勢を、真央は本当にすごいと思うばかりだった。
そんな紗久弥と友達でいられることをうれしく思うし、それと同時にもっと深く心を通わせたくなる。紗久弥の顔のない顔に惹かれるのを、真央は深く感じていた。
外をしばらく歩いて、さらに買い物をしたり軽くお店を冷かしたりして、もうすぐ昼下がり……という時間になった。真央と紗久弥は一休みしようということで、近くにあった『ドトールコーヒー』へ入った。ここでも店員は顔のない紗久弥に戸惑ったものの、そこはもう二人とも慣れたもの。真央が紗久弥に飲みたいものを訊いて、彼女の代わりにオーダーしてあげる。真央がアイスコーヒーを、紗久弥がピーチティーを受け取り、窓際の席へ移動する。
「今日もけっこう歩いたねー。紗久弥、疲れてない?」
真央の問いかけに、紗久弥がふるふると首を横に振ったあと「まだまだ元気」とでも言うみたいにお茶目にマッスルポーズをして見せた。紗久弥はこう見えて剣道をやっていて、高校でも部活に入って稽古に明け暮れている。見た目は細身だが、意外なくらい体力があるのだ。真央もしばしば紗久弥の試合を応援しに行って、力強く立ち回る姿に惚れ惚れしたものだった。
紗久弥が剣道を始めたきっかけを訊いた時のことを、真央はよく覚えている。その時から使っていた『フェイスブック』に、紗久弥がこう書いて見せたのだ。
「『面を被っちゃえば、顔があってもなくても同じだから』」
普段自分に「顔がない」ことを意識する機会が多い紗久弥だからこそ、お互いに面を着けて顔が見えなくなる剣道に特別な何かを見出すというのは、真央にも理解できる気がした。もっと小さかった頃は揶揄われたり気味悪がられたりして、辛い思いをすることも多かったらしい。今はすっかり気にしていないように見える紗久弥だったけれど、自分に「顔がない」ということは常に意識しているようだった。
真央は飲み物を飲みながら話していた紗久弥が、ふと隣の席に座る同い年くらいの女子二人組に目を向けるのを見逃さなかった。紗久弥は二人の会話を横で聞いているようだったので、真央も意識して耳を傾けている。少し集中して聞いてみれば、何を話しているのかはすぐに分かった。
(メイクと……コスメの話かぁ)
何のことはない、今はどんな化粧水を使っているとか、今度出るリップの新色が気になる――そういった化粧に関する雑談をしていただけだった。特に紗久弥がどうこうというわけではなくて、なんなら向こうの二人は真央と紗久弥のことに気づいてすらいない。それでも紗久弥が目を奪われている理由を、真央は察することができた。
幾度となく繰り返しているけれど、紗久弥には「顔がない」。だから特に顔にお手入れをすることになる化粧とはあまり縁が無くて、せいぜい肌の潤いを保つようにしているくらいだった。だからだろう、紗久弥は「化粧をすること」そのものに憧れを持っているのだった。けれど紗久弥には、形を整えるまつげもリップを塗るための唇もない。あるのはただ真っ新な素肌だけだ。
しばし隣の席に座る二人の会話に耳を傾けて、紗久弥が少しだけセンチメンタルな雰囲気を漂わせつつ視線を元に戻す。紗久弥には顔がない、けれど見る人が見れば、彼女の「表情」がいかほどのものかは容易に想像が付く素振りだった。もちろん、真央は想像が付く側だ。紗久弥がふたたび正面を向くのに合わせて、自然と顔を上げる。
何か自分にできることがあるはずだ、と真央は考えた。自分を可愛らしく見せたい、綺麗に彩りたいという気持ちは多くの人が抱くものだ。それは真央自身も同じこと。紗久弥に今から顔を付けるような真似はできなくとも、紗久弥に楽しい気持ちになってもらうことは不可能じゃない。真央は定期テストの時なんかよりもずっと素早く脳を回転させて、紗久弥が喜ぶのはどういったものかを懸命に考えた。
こういうとき、真央はしばしば「これだ!」というひらめきを得るもので。
「ね、紗久弥」
真央が呼びかけると、紗久弥がぱっと顔を上げてそちらを向く。紗久弥が自分の方を見たことを確かめた真央が、続けざまにあることを頼み込んだ。
「普段使ってる『フェイスブック』、一ページだけ私に描かせてくれないかな」
紗久弥はすぐにうんうんと頷くと、カバンから『フェイスブック』を取り出し、ボールペンと一緒に真央へ手渡す。受け取った真央はパラパラとページをめくって何も描かれていない真っさらなページを探し出すと、ペン先を繰ってさらさらと何かを描いていく。真央の様子を、紗久弥は明らかに不思議そうな、それでいて興味津々の面持ちでじーっと見つめていた。
五分ほど一心不乱に描き続けて、「描けたっ」と声を上げて真央が『フェイスブック』を掲げる。描き上がった絵を見た紗久弥は、これまたもし彼女に目が付いていたならこの上なくまん丸くなっただろう仕草をして見せた。
「結構可愛く描けたつもりだけど……どうかな?」
画用紙には普段紗久弥の使っているキュートな顔文字のようなイラストとは少し毛色の違う、写実寄りで細い線をいくつも重ね合わせて描かれた美しい顔があった。笑みを浮かべた優しい表情をしていて、いろいろな場面で「顔」として使えそうなよく出来たイラストだ。渡された『フェイスブック』を受け取ってしげしげと見つめる紗久弥の様子は、見るからにうれしそうだった。
絵を描いてもらった紗久弥がすぐさま新しいページをめくってボールペンを走らせると、真央に向けてパッと見せる。
「『ステキな顔だね、ありがとう!』」
真央にとってこの上ない反応をもらって、紗久弥の掲げた『フェイスブック』に負けないくらいの笑顔を見せるのだった。
日も少しずつ傾きかけた頃。行きたい場所にはことごとく足を運んで、心地よい疲労感といっぱいの満足感に包まれながら、真央と紗久弥は公園のベンチに腰掛けてくつろいでいた。ぐーっと伸びをする紗久弥の隣に座る真央の表情はとても満足げだ。すごくいい一日を過ごせた、真央の表情はそれがありありと見て取れるものだったし、紗久弥には「顔」がなくとも満足しているのが誰の目にも明らかな様子だった。
「今日も楽しかったね、紗久弥」
だんだんと鮮やかなオレンジに色を変えていく空を眺めながら、真央が紗久弥に声を掛ける。紗久弥は「言われずとも」といった調子だ。ぱたぱたと両腕を動かして、今日が楽しい一日だったことを全身でもって真央に伝える。それには言外に、一緒に付き合ってくれた真央への感謝の気持ちも含まれていた。例によって例のごとく、紗久弥の伝えたいことが理解できない真央ではない。楽しんだのは自分だけではなかったことを知り、真央がいっそう深く満足する。
そろそろ家に帰る時間なのだが、こうして二人で過ごす時間が惜しくてなかなか立ち上がれない。真央は言うまでもなかったし、紗久弥も同じ気持ちなのが見て取れる。明日からまた学校だね、とか、宿題全部終わったか確かめなきゃ、とか、なんてことない雑談をずっと続けている。紗久弥はジェスチャーで応じたり、スマホのメモ機能に書き込んだり、もちろん『フェイスブック』も使ってみたり。使えるものはみんな使って、真央と目いっぱいコミュニケーションを取っていた。
「あっ、電話だ」
楽しい時間を過ごしていた真央だったが、不意にスマホに着信が入った。見ると母親からだ。何か要件があるのだろう。ちょっとごめんね、そう断って紗久弥の元を離れると、歩きながら電話に出る。母親が「まだ出かけてる?」と訊ねる。真央が出かけていることを告げると、帰りに買い物をしてきてほしいと頼まれた。いつもよくあることだ、分かったよー、真央が快く引き受ける。遅くなるようだったら連絡してちょうだい、最後にそう付け加えて電話が切れた。
これでよし、ひと息ついて後ろへ振り返ってみると……
「……わっ!? 紗久弥!?」
何もない顔を密着ぎりぎりまで寄せた紗久弥がすぐ後ろに立っていた。電話中密かに後ろに立っていたようだ。素っ頓狂な声を上げた真央を指さして「ビックリしてるビックリしてる」と言わんばかりにはしゃいでいる。紗久弥はいたずらっぽいところがあり、親しい相手にはこうやってドッキリを仕掛けることがしょっちゅうあった。真央は気を抜いていたところだったのでまんまと引っかかった、というわけだ。もー、ビックリしたよ、と真央がちょっと頬をふくらませる。それが紗久弥には可愛く見えたのか、ますます楽しそうな仕草を見せるのだった。
母親に買い物を頼まれたことを告げると、時間も遅くなったしそろそろ帰ろう、という流れになった。紗久弥と並んで公園を出ると、元来た駅に向かって歩いていく。順調に進んでいって何事もなく駅まで辿り着くと、改札をくぐるために真央はSuicaを、紗久弥はスマホを取り出す。ところが。
「ん? 紗久弥、どうしたの?」
紗久弥が「あれ?」という顔をしてカバンの中をしきりに探っている。スマホが見つからないのだろうか、いやそうではないようだ。紗久弥の手にはしっかりとケースに入ったスマホが握られている。では他に何か見つからないものが? 真央が気になって声を掛けると、紗久弥は慌てた様子でスマホを操作し、メモ帳アプリにこう書いて真央に見せた。
『スケッチブックがなくなっちゃった』
普段肌身離さず持っているスケッチブック、もとい『フェイスブック』がカバンの中に無い、というのだ。言われた真央の方も驚いて思わず目を見開いた。駅へ来るまでのどこかで落としてしまったのだろうか。歩いている間ずっと真央とおしゃべり――「喋って」いるのは真央だけだったけれども――をしていて、落としたことに気付かなかったのかも知れない。スケッチブックは顔にかぶせるために使う小さなものだから、会話に夢中で落としてしまうというのもあり得ない話ではない。
普段自分の感情を表したり意見を伝えたりするために使っている『フェイスブック』だけに、紗久弥はかなり困っているようだ。意思疎通をするだけならスマホのメモアプリなどを使えばよいものの、紗久弥の『フェイスブック』には単なる道具以上の価値と意味があった。普段失くしてしまうようなことがないだけに、紗久弥の戸惑っている様子、焦っている様子がありありと伝わってくる。紗久弥とずっと一緒にいてそれが分からない真央ではなかった。
「紗久弥、捜しに行こうよ。行ったところ回っていけばきっと見つかるよ」
真央が動くのは早かった。どこかに落としてしまっただろう『フェイスブック』を捜すために戻ろうと切り出した。せっかく駅まで来たのに悪いんじゃ、と紗久弥は少し気が引けている素振りを見せるも、真央は紗久弥の手を引いてもう行こうとしている。真央の気持ちが伝わったに違いない、紗久弥が「ありがとう」と伝えるように頷くと、二人で再び駅を出て歩き出した。
「ドトールにいたときまでは持ってたから、落としたとしたら公園かドトールのどっちかだよね」
ふたりが真っ先に向かったのは公園の方だった。ここで真央は母親から電話を受けて、少しの間だが紗久弥から離れている。その後ベンチに戻る前に紗久弥が真央の方へ向かってきたので、元居た場所に『フェイスブック』を落としてしまったというのは大いに考えられることだ。真央も紗久弥も急いでいたので口にこそ出さなかったものの、きっとそこにあるだろうと揃って考えていた。ベンチに忘れられたそれを見つけて、ああよかった、となって終わり……と期待する気持ちがあった。
程なくして公園まで戻ってきた二人は、先ほどまで座っていたベンチへまっすぐに向かった。
「……無いね。ここには無いみたい」
ところがいざベンチを見てみると何もない。『フェイスブック』がぽつんと取り残されている、ということももちろんなく、ただただベンチがあるだけだった。大方ここにあるだろうと思っていただけに真央は少し落胆しているものの、それ以上に紗久弥はショックを隠し切れないようだ。口元……紗久弥にもちろん口はないものの、口があるとしたらその辺り、という部分に手を当てて「どうして」と言わんばかりの雰囲気になっている。
あると思っていたはずの場所に目的のものがなかった。周りをきょろきょろ見回しては幾度も意気消沈する紗久弥を見て、真央がすぐさま気持ちを奮い立たせる。公園で紗久弥が『フェイスブック』を取り出していた記憶はない、一方その前に行っていたドトールでは確かに使っていた。となると、ドトールに忘れてしまったということも十分に考えられる。誰かが勝手に持ち去っていなければ店員さんが保管してくれていることも期待できた。
「ドトール行ってみよ! あそこに忘れたかも知れないよ」
紗久弥の手を取る真央。紗久弥は落ち込んで気が引けているように見えたものの、真央に手を繋いでもらったことで少し元気づけられたみたいだ。こくりと小さくうなずき、真央に手を引かれていっしょに歩いて行った。次に向かうのは、もちろん休憩場所として使ったドトールコーヒーだ。一刻も早く『フェイスブック』を見つけ出したい一心で、真央はどんどん足取りを早める。紗久弥の方は、もし顔があるなら不安でいっぱいになっていただろう仕草を見せている。大切にしていたものを失くしたのだから、動揺は大きくて当然だろう。
二人で公園を出てドトールへ向かう最中、紗久弥がスマホを操作して何か書いている。肩をトントン叩いて呼びかけられた真央が一度立ち止まり「どうしたの?」と紗久弥に声を掛けた。紗久弥はおずおずとスマホを見せると、そこにはこう書かれていた。
「『ごめんね』」
自分の落とし物捜しに真央を付き合わせてしまって申し訳ない……という紗久弥の気持ちが伝わってくる、短いながらも痛切な一文だ。目にした真央は自分の胸がキュッと締め付けられる感触を覚える。辛いのは紗久弥の方なのに、自分を気遣っているのが見て取れてしまう。紗久弥はそういうところがあった。自分に表情がない分相手の表情や仕草をしっかり観察して、自分がどう振る舞ったらよいかをいつも考えている。紗久弥がこんな時も自分よりも誰かを慮っていることを理解して、真央は思わず紗久弥の手を取った。
「大丈夫、きっと見つかるよ。私が見つけるから」
絶対に見つけ出すぞ、急がねば。真央がこれまで以上に早い足取りで進んでいく。
これまた十分ほど早歩きを続けて、真央と紗久弥は再びドトールコーヒーまでやってきた。自動ドアを通ってまっすぐにカウンターまで向かうと、真央が迷わず声を上げた。
「あの! すみません! ここにスケッチブックの忘れ物ありませんでしたか!?」
何事かと店員が目を丸くする。真央はとりあえず自分に注目してもらえたことを理解して、「三時ごろにここへ来たんですが……」と話を切り出す。ここで一時間ほど友人と過ごしていたが、その時席にスケッチブックを忘れていったかも知れない、経緯を詳しく説明する。最初はぽかんとしていた店員も状況が飲み込めたようで、少々お待ちください、と断ってバックヤードへ走っていった。『フェイスブック』はあるだろうか、期待と不安が入り混じった気持ちで真央が待つ。隣にいる紗久弥の浮かない顔を見ていると、ただただ早く見つかってほしいという気持ちしかなかった。
バックヤードへ続く通路から先ほど走っていった店員が出てくる。手には何も持っておらず、表情も芳しくない。これは無かったか、そう思いつつも真央が前に出る。どうでしたか? そう訊ねる真央に、店員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「確認してみましたが、こちらでスケッチブックはお預かりしておりませんでした」
なんとなくそうではないかと思っていた。ここで『フェイスブック』を忘れるようなことがあれば、さすがに真央も紗久弥もそれに気付くだろう。何も気にすることなくドトールコーヒーを出たという記憶しかなく、その記憶通りだったということだ。紛失したのは公園でもドトールでもない。では一体どこで? それが分かればすぐに取りに向かうところだが、あいにく分からないので困っているわけで。確認してくれた店員にお礼を言ってとりあえずドトールを出たものの、どうすべきか分からず二人して途方に暮れる。
もちろん真央も困っていたが、紗久弥はそれ以上にひどく落ち込んでいた。普段使っているものを失くした、というだけでも十分ショックだったが、紗久弥にはもうひとつあの『フェイスブック』を大切にしていた理由があって。
「『せっかく真央が綺麗に描いてくれたのに』」
スマホの画面を真央に見せて、紗久弥ががっくりとうなだれた。つい先ほど他でもないこのドトールコーヒーで、真央は紗久弥の『フェイスブック』に丁寧に絵を描いてプレゼントしたばかりだった。いっそう手離したくない宝物になったはずの『フェイスブック』をその日のうちにどこかへ落としてしまった、忘れてしまった。紗久弥がどれほどショックを受けて落ち込んでいたか、真央には痛いほどよく分かる。仮に自分と紗久弥の立場をそっくり入れ替えたら、まるで同じ様子になっていただろう。
じゃあ、もし自分が大切なものを失くして一緒に探してもらっている立場だとしたら、どんな風に声を掛けられたら嬉しく思うだろうか、落ち込んだ気持ちを奮い立たせられるだろうか。厳しい時やピンチの時ほど頭がよく回る、真央が自覚していない彼女の強みだった。
「紗久弥、交番行ってみようよ。誰かが届けてくれてるかも知れないよ」
落し物は交番へ届けましょう、子供の頃から何度となく言われていることだ。果たしてどの程度この言いつけを守っている人がいるのか、それは真央にも分からない。けれど、もし親切な誰かが『フェイスブック』を拾っていたとしたら? その人がかつて言い含められたように律儀に交番へ届けていたとしたら? 望み薄とは言え、可能性は決してゼロではない。場所が分からない以上、少しでも可能性があるなら行ってみるべきだ。
「きっと見つかるよ、大丈夫!」
不安げな紗久弥を励まして、真央はさらにこう続けた。
「紗久弥の『フェイスブック』が見つかるまで、私も一緒に捜すから!」
行こ、真央が再び紗久弥の手を取る。励まされた紗久弥は元気を取り戻し、真央と足並みを揃えて走り始めた。
交番はドトールコーヒーと駅のちょうど間くらいにあったはずだ。この辺りは二人で何度も遊びに来ていてその都度通りがかっていたから、どこに何があるかは大まかに分かっていた。今度も決して迷うことなく交番までずんずん進んでいく。真央の足取りはとても力強くて、いつもは真央を引っ張っていきがちな紗久弥と立場が完全に入れ替わっている。足を止めることなくまっすぐ歩いていく真央を見つめる紗久弥には顔がなくて、どんな感情を持っているのか表情には現れない。
だけど――彼女の仕草を見れば、真央に特別な感情を抱いているだろうことは、もう誰の目にも明らかだった。
「すみません! 落とし物を捜してるんです!」
交番まではノンストップで辿り着いた。ドトールで店員に向けて発した第一声に勝るとも劣らない大きな声を張り上げると、駐在していた警察官が驚いて顔を上げる。そこでのっぺらぼうの紗久弥が目に飛び込んできたものだからさらにぎょっとして、思わず大きく目を見開くのが見えた。だがそれからワンテンポ遅れつつ、ふたりは落とし物がないか交番まで確かめに来たことに気が付いたようだ。椅子から立ち上がり、入り口近くに立っている真央と紗久弥の元まで駆け寄る。
「落とし物ですか? どんなものです?」
「ええっと、これくらいの大きさの……スケッチブックです! 表紙はオレンジ色で、結構使い込んでて、サイズは小さめで、あと……」
真央は探し物である『フェイスブック』の特徴を懸命に警察官に伝えていたが、「そうだ!」と手を打ってスマホを取り出し、素早く操作してから警察官へ見せた。出てきたのは『フェイスブック』の全体が映った写真だ。これならより正確に特徴を伝えられるだろう。真央は自分と紗久弥のことに夢中で、情報を伝えられる警察官の方まで見ている余裕がなかったものの、言いたいことをひとしきり言ったところで少し気持ちに余裕ができた。顔を上げて様子を見てみる。
警察官は「なるほど」と深く頷いていた。「これは……?」と真央が息を吞む。
「お手数ですが、落とした方のお名前をお願いします」
「あのっ、こっちの子……私の友達が落としたんです! 斎木紗久弥、斎木紗久弥です!」
「分かりました。ちょっと待っててください」
交番の奥へさっと移動すると、一分もしない内に警察官が真央たちの元へ戻ってきた。その手には……。
「こちらのスケッチブックですか?」
「……これです! 間違いないです! 紗久弥の『フェイスブック』!」
年季の入ったオレンジ色の表紙、隅に書かれた「しゃくや」の名前、そしてページをめくった先にある――紗久弥のために真央が描いた顔のイラスト。紛れもない、間違いない、他でもない、捜していた紗久弥の『フェイスブック』だ。手渡された紗久弥は驚きを隠せないようで、手にした『フェイスブック』を手に取りなおしては眺め回し、再び自分の手に戻ってきたことを確かめているかのよう。夢ではなく現実に取り戻せたことを実感したのか、紗久弥は『フェイスブック』を愛しげに抱き締めた。
「あの、どなたが届けてくれたんですか?」
「お子さんを連れた母親らしき人が来て、お子さんが公園のベンチに置き忘れていたのを見つけたとのことでした」
「えっ、お母さんと子供……?」
「お子さんがそちらののっぺらぼうの人……斎木さんに親切にしてもらったそうで、その人の忘れ物に違いないと言っていたのでピンと来たんですよ」
誰のことかすぐに思い至った。サブウェイで食事をしていた時に紗久弥が遊んであげた男の子、あの子の母親がたまたま落ちていた『フェイスブック』を見つけて届けてくれたのだ。サブウェイにいるときも『フェイスブック』を使って遊んだ記憶が確かにある。あの時のことを見逃していなかったのだ。
紗久弥もあの時のことを思い出したようだ。感慨深げに『フェイスブック』を見つめている。情けは人の為ならず、とは言うけれど、こうしてすごく早く自分を助ける形で戻って来るとは思いもしなかった、例によって例のごとく紗久弥に顔はないが、雰囲気や仕草でそんな感情に包まれているのは簡単に読み取れた。
「見つかってよかったね、紗久弥。男の子に優しくしてたの、神様も見てくれてたんだよ」
我が事のように喜ぶ真央を見た紗久弥が、もう離すまいと『フェイスブック』をぎゅっと胸に抱きつつ真央もまた抱きしめて、何度も何度もほおずりをする。くすぐったいよ、そう言いながらも紗久弥の肌は柔らかくて、あたたかくて。真央はこの上ない心地よさを覚えて、幸せを分かち合っていることを噛み締める。
こうして紗久弥の『フェイスブック』は、無事再び紗久弥の手元まで戻ってきたのだった。
「紗久弥っ、おはよー」
さて。紗久弥が『フェイスブック』を忘れる事件が解決してからも、真央と紗久弥の関係は何ら変わらず続いていた。いつも同じ交差点で待ち合わせて学校へ向かい、部活がないときは並んで帰る。休日になればいっしょに遊び、その中でたまに互いの家へ行き来する。今までと何一つ変わるところのない日々が続いている――はずだった。
「紗久弥?」
真央がおはようの挨拶をして紗久弥に呼びかけたが、紗久弥はうわの空でぽけっとどこかを見つめている。おーい、と目の前に出て手を振ってみると、そこでようやく真央に気が付いたようだ。ピョンと小さく飛び跳ねたかと思うと、慌てて真央の方を向いた。ビックリしたー、と言わんばかりに胸に手を当てている。すぐ側まで真央が来ているとは本当に思いもしなかったようだ。そんな紗久弥の様子を目の当たりにして、真央はなんとも不思議な気持ちになった。
最近の紗久弥は割とずっとこんな感じだと真央は思う。物思いにふけることが多くて、声を掛けてもなかなか気が付かないということもしょっちゅうだ。何か悩み事があるのだろうかとも考えたが、それとは少し雰囲気が違う。気が沈んでいるというものではなく、むしろどこかふわふわしている風なのだ。何かに見惚れている時の、あの周りがまるで目に入っていないときのような感じと言えば伝わるだろうか。ご存じの通り紗久弥には目が無いものの、紗久弥のぽけっとした様子はその事実を忘れそうになるくらい明らかだった。
「大丈夫? 熱とかない?」
「!」
真央が何の気なしに紗久弥の額に手を当ててみる。そこでまた紗久弥がぴょこんと跳ねて二度ビックリだ。触れた手のひらからは紗久弥の体温が伝わってくるが、取り立てて熱っぽいということはない。大丈夫そうだね、真央が安心したように手を離すも、紗久弥の方は今までに輪をかけてぽけーっとした顔をしていた。真央はと言うと、紗久弥が風邪を引いていないことを文字通り肌で感じたからかほっと安心している。学校行こ、そう言って真央が肩を叩くと、紗久弥は慌てて真央の後ろについていった。
とりあえず具合が悪いわけではなさそうだが、紗久弥の様子がおかしいのは今に始まったことではない。ぼんやりすることが明らかに増えて、声を掛けてもなかなかこっちを向いてくれないということがしばしば起きるようになった。かと言って体の具合が悪いというわけではなさそうだし、何より休み時間になるといつも真っ先に自分のところへ来てくれるので、紗久弥に何か悪いことをして距離を置かれている……というわけでもない。
(じゃあ……どうしたんだろう?)
どこか煮え切れない紗久弥の様子に、真央はただ心配になるばかりだ。他の人なら表情からもっと気持ちを読み取ることもできただろうけど、紗久弥は顔なしの「のっぺらぼう」、そういう小細工は通用しない。普段から一緒にいて紗久弥の気持ちはなんでも分かっているつもりだったけれど、こういう状況に置かれているとそれが思い込みだったことを痛感させられる。ひょっとしたら何か悩みがあるのだろうか、それは自分には言い出しづらいことなのかも。真央の考えはどんどん膨らんでいって。
そんな状況で放課後に紗久弥から「話したいことがある」なんて言われたら、もうドキドキは倍増どころの話じゃ済まないわけで。
あまり人の来ない児童公園が通学路から少し離れた場所にあることを、真央も紗久弥もよく知っていた。よく知っていたというか、ふたりはよくここで日が暮れるまでおしゃべりをしていた勝手知ったる場所だ。友人関係や将来の進路、それぞれの家族の話、そして自分たちのこと。どれだけのことをこの公園で話したか分からない。誰かに聞かれたくない、自分たちだけで話したい時には決まってここに足を運んでいた。
この児童公園でふたりが会うことは、とても重要な意味を持っていたのだ。
真央がベンチに座ると、彼女の横にくっつくようにして紗久弥が座る。ぴっとりと肌がくっつくほどに身を寄せているけれど、これはよくあることだ。紗久弥が大事な話を切り出すときは決まってこんな形になる、そう理解していても、紗久弥のことで頭がいっぱいになっている真央は気が気ではない。何を切り出されるのだろう、真央はやきもきしながら紗久弥の出方をうかがう。
あの時無事に見つけ出した『フェイスブック』をしっかり膝の上へ置いて、紗久弥が真央をじっと見つめる。何度書いたか分からないけれど、紗久弥には目と呼べるものはない。ただ真っ平な顔が向けられているだけなのに、他の人と話している時の何倍もハッキリと「見つめられている」という感覚に見舞われる。紗久弥はしばらく真央に顔を向けていたけれど、おもむろに『フェイスブック』を手にしてページをめくり始めた。紗久弥が目当てのページを見つけて、普段している通り顔に被せるようにして真央に見せる。
「紗久弥、大丈夫? 何かつらいことあるの?」
そのページには、「><」という困り顔が大きく描かれていた。目をキュッと閉じて、頬にあたる部分が赤らんだ表現が加えられている。これは悲しいことやつらいことがあった時に使っている顔だ。真央はますます心配になる。こういうとき、紗久弥の気持ちを分かってあげられないのはとてもつらい。けれど本当につらいのは、気持ちを表現するのに様々な苦労が伴う紗久弥の方だ。なんとか紗久弥の困りごとを理解してあげたい、真央が身を乗り出して紗久弥に問いかけた。
「もしかして、誰かからいじめられてるとか?」
紗久弥がふるふると首を振る。一番恐れていたのが紗久弥が学校で酷い目に遭っているというものだったので、紗久弥からすぐさま否定されたことで真央は少しだけ安堵する。紗久弥は珍しいのっぺらぼうゆえに、他人から誤解されたりからかわれたりすることが今までよくあった。
「部活で上手く行かないこと、あったりする?」
これまた紗久弥が首を横に振って否定した。スマホをぽちぽち操作して真央に見せると、稽古の後に部員たちで撮った楽しそうな写真だとか、次の試合で紗久弥が出場する予定だとかを次々に見せられる。まったくもって順調と言ってよいだろう。部活の方も大丈夫そうだ、真央がまた少しホッとする。
「お父さんやお母さんとケンカしちゃってるとかもない?」
ぶんぶん。またしても首を横に振られた。紗久弥が今度は家族のLINEグループを引っ張り出してくると、紗久弥と両親が和気あいあいと会話している様子が見て取れた。スタンプも使ったりして実に仲睦まじい感じだ。家族にも何も問題はないだろう。真央はさらに安心するものの、ではいったい紗久弥は何で思い悩んでいるのだろうかと気になってくる。例によって頭をフル回転させて、紗久弥を悩ませていそうな物事を考え出す。
あっ、と真央がひらめく。紗久弥が思い悩んでいそうなことはこれしかない、真央が勢いよく切り出した。
「誰か好きな人ができたの?」
紗久弥の身体がピョンと跳ねた。これは図星の合図だ、真央が手応えを得てぐっと拳を小さく握る。なるほど、恋わずらいなら今までのことにもすべて合点がいく。ぼんやりすることが多かったのも、紗久弥にとって好きな人を考えていたというなら納得だ。そうなると、紗久弥のハートを射止めた気になるアイツというのは誰だろうか、真央はもっともっと身を乗り出して、口がないゆえに言葉を話せない紗久弥に代わってどんどん名前を挙げ始めた。
「えっと、去年から同じクラスの……真田くんとか」(ふるふる)
「違うかぁ、それじゃ……その隣の五十嵐くん!」(いやいや)
「これも違う? うーん、じゃあ、中学から一緒だった鴨志田くん?」(ぶんぶん)
「えーっ、分かんないなぁ。あっ、分かった! 剣道部の野上くんでしょ!」(ううんううん)
顔を思いついた男子の名前を片っ端から並べるものの、紗久弥は「><」というページの『フェイスブック』を掲げたまま、さながらイヤイヤ期の子供みたいに首を横に振るばかりでまったく当たりそうにない。紗久弥が好きになったというのは一体誰なのか? 自分に相談するからにはきっと知っている人のはずなのだろうけど、どうにも思いつかない。
出せる名前をあっという間に出し尽くしてしまい、真央は「うーん」と首を傾げて悩んでしまう。紗久弥の様子を見る限り、今まで出してきた名前はまるでかすりもしていないのは明らかだった。もっと別の誰かだろうか? 同じ学校にいない、例えば剣道の試合で会った別の高校の男子だろうか? 思いつく候補はまだあるものの、真央にとっては名前も顔も見たことのない未知の誰かだ。ここに来て次に誰の名前を出せばいいか分からず、真央は困り果ててしまう。
だが、そこで。
「えっ? 紗久弥――わっ!?」
隣に座っていた紗久弥が「もーっ」とばかりに腕をぶんぶん振り回すと、いきなり真央の体に思い切り抱き付いた。顔を胸にうずめて、両腕を背中へ回してがっちり組み付いている。いきなりのことに真央は大いに戸惑う。好きな人がいると言われてから紗久弥が好きになりそうな人のことばかり夢中になって考えていたものだから、こんな展開は文字通り思いもしていなかったのだ。
紗久弥からぎゅーっと力強く抱き締められた真央はしばしの間戸惑っていたのだが、紗久弥があんまり強く自分のことを抱き締めるものだから、これには何か意味があるに違いないと考える。なんだかいつもより回転がもたつく頭を懸命に働かせて、紗久弥が伝えたいことを必死で考えた。
(……ひょっとして)
まさか。真央が自分の考えに驚く。そんなことは思いもしていなかった、少しも考えたことがなかった。心のどこかで「そうだったらいいな」と思ったことくらいはあったかも知れないけれど、あくまでおぼろげな願望に過ぎなかった、儚い願いのまま終わると思い込んでいた。けれど――今の紗久弥の様子、仕草、振る舞いを全身で感じ取っていると、どうやらそういうわけではないらしい、ということがひしひしと伝わってくる。
恐る恐る、でもどこか確信をもって、真央が紗久弥に問いかける。
「紗久弥。ね、紗久弥の『好きな人』って、もしかして……」
「――私、なのかな」
真央の声を聴いた紗久弥がそっと顔を上げる。上げた顔に『フェイスブック』が追従して、先ほどとはうって変わって満面の笑みを描いた顔が見えた。ああ、やっぱりそうだったんだ。真央が気付く。自分と紗久弥の想いは同じだったんだ、ということにも。普段はよく紗久弥の考えていることや気持ちを汲み取れるのに、一番肝心な時にニブいのが真央らしいというか。鮮やかな夕焼け色に染まった空、いつも大事な話をしていた公園、他には誰もいない自分たちだけで二人きり。これだけおぜん立てをしたのに、真央がさんざん遠回りしてなかなか答えを言ってくれないものだから、紗久弥はさぞもどかしかっただろう。
そんなとんでもなく鈍感な真央でも、こんなにまっすぐ想いを告げられては気付かないはずがない。紗久弥が勇気を出してくれたのだから、自分もとびっきりの形で応えたい。真央がそう考えていると、相対していた紗久弥があたかもその気持ちを汲み取ったかのように、手にしていた『フェイスブック』をそっと下ろして、何もない「のっぺらぼう」の顔を真央に見せる。
「紗久弥」
真央は紗久弥の肩を抱くと、まっすぐに、ただまっすぐに自分の顔を近づけていって、それから――。
彼女の蕾のように柔らかな唇が、そっと紗久弥の顔に重ねられた。
しばし口づけてから、真央が気恥ずかしそうに顔を離す。向かい合った紗久弥は頬を鮮やかに染めて、真央に負けないくらい気恥ずかしそうにしていた。自分たちのしたことを考えれば、お互い無理のない反応だった。
「えーっとさ、紗久弥」
はにかみながら真央が口を開く。紗久弥が「どうしたの?」とばかりに小首をかしげる。
「……キスするところ、そこでよかったかな」
そんなの終わってから訊くことじゃないよ。紗久弥が笑って、大笑いしている姿が、真央には確かに見えた。
『フェイスブック』の向こう側に、真央は紗久弥の晴れやかな笑みを見たのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。