むかし、人と蟲はハッキリ分かれた生き物だったらしい。蓼子はときどき、そのことについて考える。
自分たち「蟲人」と大まかにはそっくりだが、触覚や中脚などがないどこか味気ない風貌をした「ニンゲン」は、きっと自分のように思い悩むことなどきっとなかったのだろう。もちろん別の悩みはあったかもしれない。将来は何で食べていくか、伴侶はどんな相手が望ましいか、なるべく長生きするにはどうすればよいか。生きていて悩みは尽きることがない。生きることはすなわち悩むことだ。誰かがこういう格言を残していてもおかしくない。
けれど、そんなことは自分たちも同じように悩んでいる。だからごく純粋に、ニンゲンというのは私たちよりも悩みの数自体が少ない生き物だったに違いない。蓼子はいつもその結論に行き着いた。展開の分かり切っている映画を何回も見るように、蓼子は同じことを同じカタチで、同じ時間をかけて考えるのだった。
(考えても考えても、結局いつも同じ答えになっちゃう)
一応聴覚は教壇に立つ先生に向けながら、ふと蓼子は前の席を見た。テントウムシの子が座っている。頭には触覚があって、更衣室で服を脱ぐと背中にいくつも黒い斑点があるのを知っている。大きなほくろのようだと思ったけれど、その子は特に気にしていないみたいだった。生まれつきでそもそも気にしていないか、あるいは気にしているけど「表に出したってしょうがない」と諦観しているか。できれば後者であってほしいな、と蓼子は願望をもった。
なぜ? 答えは単純。蓼子は自分の生まれ付き持っているものに、どうにも納得がいっていなかったから。
生まれつき持っていて捨てられないものに納得いかないのは、自分だけでなければいい、仲間が欲しいと思っていた。むかしのニンゲンも何かと仲間を欲しがったらしい。狩りをするときも、畑を耕すときも、鉄砲で殺し合いをするときも、SNSに写真をアップするときも。仲間というのは多ければ多いほどいい、そこについては蓼子も同じ意見だった。
今度は隣の席を見る。こっちはカマキリの子だ。両腕が鎌になってて、普段は上からケースを被せて他人や物を傷付けないようにしてる。書き取りは口にボールペンを咥えて、器用にすらすら書いていく。自分よりずっと綺麗な字だった。蓼子も子供の頃真似してみたけど、とりあえず字を書くのが精いっぱいだった。だけど隣の子は以前、他の友達に「ネイルをいじれないのがつまんない」と言っていたのを聞いた。
ああ、あの子もやっぱり生まれつき持ってるものに納得してないんだ。蓼子は自分の考えが補強された思いで、少しだけ嬉しくなった。あくまで少しだけ、ほんの少しだけ。
(生まれつき持ってるものは、交換もできないし、捨てることもできない)
むかし、人は「肌の色」で住処などを決めていたらしい。蓼子はときおり、そのことについて考える。
分からないような、分かるような。頭はひとつ、腕と足は二本、触覚や翅はナシ。カタチが型抜きクッキーみたいにほとんど決まり切っていて、最後の風味付けがチョコ味かバニラ味かくらいの違いしかない、なのにわざわざ別々の場所で暮らすのはいかにも効率が悪いじゃないか。そう思う気持ちと、カラダの特徴に基づく大きな決め事があるのは今も昔も変わらない、結局百パーセントニンゲンだった頃から根本は同じなのだ。そう思う気持ち。半分半分、ココロがチョコとバニラのクッキーのようになっている。
ひとまず。今では教科書の中くらいでしか「人」と「蟲」は分かれていない。身近にいる人も、テレビで見る人も、ネットで見る人も、「人」であって「蟲」でもある。カラダのどこかに腕と脚以外の何かがあるか、腕や足が多かったりカタチが違ってたりする。「ただの人」はだいぶ前にいなくなったらしい。あいまいな伝聞形が「そんなことどうでもいいじゃん」という感じがするな、と蓼子は思った。大昔、ずっとずっと前の時代に、人と蟲は交じり合う道を選んだそうだ。
カレールウを水に入れて加熱するとカレーができる。カレーは確かにルウと水からできてるけど、カレーからルウと水に分解することはできない。ひょっとすると超高性能なマシーンとかを使えばできるかも知れないけど、まあ普通にはできっこないしやる意味もない。今の自分たちはカレーで、むかしのニンゲンはルウだったのだろう。カレーはルウの味がする、けれど水分なしじゃ料理には使えない。リードしてるのは水の方だ。今の自分たちも水を飲まなきゃ死ぬのは変わらないし、全身の七十パーセントが水分でできてるのも変わらない。やっぱり主役は水なのだ、それが蓼子の結論だ。
(わたしは……食べる側? 食べられる側?)
むかし、蟲はお互いに食って食われてをしていたらしい。蓼子はときたま、そのことについて考える。
今でも動物がやっているけれど、それはそれは絵に描いたような弱肉強食だったそうな。でもニンゲンとひとつになって「蟲人」へ変化していく過程で「他のもの食べた方がいいじゃん」と気が付いたらしい。カマキリよりもから揚げ、チョウチョよりも白いご飯、コオロギよりもいちごの載ったショートケーキ。もっとおいしいものが楽に手に入ることに気が付いて「自分たちはなんで食い合ってたんだろう?」と我に返ったのだろう。蓼子はそう考えている。
そんなワイルドな生きざまだったからとにかくたくさん子供を産んで、できるだけ生き残れる確率を高くしたりもしたらしい。今の自分たちからすると……ちょっとは見習えって言われそうな気がすると蓼子は思う。人間も子供が少なくなったことに悩んだけど、今の自分たちも年々生まれる子供が減っていっているのが問題だと言われている。かと言って、今さら昔みたいに何百も子作りするわけにはいかない。ニンゲンとして生きてくからには、同じ問題に直面するのは当たり前ではある。蓼子は小さくため息をついた。
もうすぐ蓼子も「大人」になる。それは精神的な意味でも、身体的な意味でも。
蓼子は「アゲハチョウ科」の蟲人だ。蓼子はまだぎりぎり幼蟲だが、もうすぐ成蟲になるための準備が始まる。それは心構え的なことでもあるし、サイズの合う服を買うことでもある。でも何よりも大事なのは、カラダのつくりが変わるということに他ならない。かつてのニンゲンが、大人になるにつれて声が低くなったり乳房がふくらんだりと変化していったのと同じように、蟲人である蓼子にも変化の時が着々と近付いてきている。
周囲には同じアゲハチョウ科の子が多くいて、彼ら彼女らもまた蓼子と同じくソワソワしていた。みんなほぼ一斉に成蟲になるから、プロセスがどこまで進んだかとか、どういう気持ちでいるかとかを話し合っている様をあちこちで見かける。蓼子はその輪の中に入れられることもあったけど、自分から入っていこうという気持ちには少しなれなかった。同族と仲が悪いとかではない。「オトナになる」というこれから先確実に起こる現実との向き合い方に迷っているのだ。
前斜め前、女子生徒の背中をじっと見つめる。彼女は「繭」。蓼子と同族のアゲハチョウ科の蟲人だ。背格好も大体同じで、繭の方が確か一センチメートルだけ背が高い。アゲハチョウ科ということはもう間もなく成蟲になる時期で、それゆえに起こる自分の変化についても向き合うことになるはずだ。そうに違いない、少し前まで蓼子はそう思っていた。
ほんの少し前、までは。
「はい、お弁当だよ」
「あんまりお腹すいてないんだよね」
「ちゃんと食べなきゃ、午後からもたないよ」
「お母さんみたいなこと言うじゃん。いつものことだけどさ」
お昼休み。蓼子と繭は屋上に出て昼食をとっていた。ここへつながるドアには「立ち入り禁止」の札が掛かっているけれど、肝心かなめの鍵が閉まっていないので出入りし放題だ。ふたりはそれを知っていて、ここをほぼ自分たちのプライベートスペースとして使っていた。
蓼子にとって繭とは何か。幼馴染と言うのが手っ取り早い関係だった。蓼子は繭を唯一無二の親友だと思っているけれど、それをもって繭の方が自分のことを「親友」だと思っているかは、蓼子には分からなかった。他に交友関係があるという話は聞いたことがないし、繭も学校にいるときは蓼子としかつるまない。それでも蓼子は繭の気持ちは繭のもので、自分が決めていい物じゃないと思っている。だから、繭が自分を親友だと認識しているかは留保していた。
もしかすると、親友という枠に収まっていない。そっちかも知れなかったから。
「わたし繭のお母さんじゃないよ。繭の方が大人っぽいし」
「またそう言う。蓼子のいじわる」
「違うよ、悪気があるわけじゃないってば」
「あたしが『いじわる』って思ったらそれはいじわる。分かるよね? そういうこと」
自分よりずっと大人っぽい。蓼子は繭と出会ってからずっとそう思っていたし、今も考えは変わっていない。蓼子は親の言うことに反抗した記憶がひとつもなかった。そもそも蓼子の親が「蓼子がしたいようにすればいい」というちょっとドライなスタンスだったから、そもそも反抗する必要がなかったというのはさておくとしてもだ。繭は気に入らないことがあると絶対納得せずに歯向かって、親との関係はそれほど良くは見えない。
「まあでも食べるよ、ちょうだい。今日の具って何?」
「いつものツナサンドだよ。きゅうりを混ぜてる」
「ふぅん。ま、悪くはないね」
だけど「お母さんみたいだ」と言う蓼子の言うことには、わりとすんなり従っている。ラップに包まれた大きなサンドイッチを受け取った繭は、さっきの「お腹が空いていない」という言葉を忘れたように思いっきりかぶりついていた。悪くない、繭は食べるたびにそう言う。繭の中ではかなりの誉め言葉で、蓼子もそれは十分理解している。まっすぐ「おいしい」なんて褒めないところも、蓼子にとっては繭が大人っぽく見えるポイントだった。
蓼子より早くサンドイッチを平らげてしまうと、繭が持っていた小さなカバンへ手を突っ込む。しばらくガサゴソやって、やがて「ちっ」と小さく舌打ちして探るのやめた。
「昨日で切らしてたんだった」
「タバコ?」
「そ。ま、今お昼休みだし、吸わない方がいっか」
繭に感じる大人ポイントは他にもある。喫煙者なのだ。蓼子自身は法的にも身体的にも未成年で、もちろんタバコは吸っていない。あまり吸いたいという気持ちもない。けれど繭はそんなのお構いなしで、蓼子の前でしばしばタバコをふかして見せた。ライターでサッと火を点けて吸い、口から紫煙をくゆらす姿は、蓼子から見ればどこからどう見ても「大人」だった。タバコへの憧れはないけど、タバコを吸う繭には憧れる。
蓼子は自分の家へ繭を招き入れることがしばしばあった。そういう時、繭は缶入りのチューハイやらをいくつか持ち込むのが常だった。そうして蓼子の部屋で静かに飲んで、ほんのり顔を赤らめる。蓼子はこの繭の振る舞いにも「大人っぽさ」を敏感に感じていた。本当に大人らしいかはさておき、蓼子がそう感じた以上これは「大人っぽい」のだ。繭も「自分が『いじわる』だと思ったらそれはいじわる」だと言っている。お互いさまだと蓼子は思っている。
喫煙と飲酒。どっちも大人の嗜みだと蓼子は考えている。だからそれらを愉しんでいるように見える繭は、蓼子にとって「大人」だった。年相応、あるいはそれより少し幼いかも知れない「マジメ」な振る舞いに終始する自分が、繭にはどう見えているだろう。蓼子はときどき不安になった。繭が自分を疎んじるならそれは仕方がない、繭が嫌がるくらいなら自分から去っていく方がマシだと思っている。幸いにして、繭がそんなそぶりを見せる様子はないけれど。
「これさ、もう三百回は言ってるけど」
何度でも繰り返す。蓼子にとって繭は「大人」だと、「大人の女性」なのだと。
「――あたしってさ、なれないんだよね。大人に」
けれど、繭自身は言う。「自分は大人になれない」、と。小さくため息をついて物憂げな顔をする繭にどんな言葉を掛ければいいか分からず、蓼子はただ側に寄り添うことしかできない。けれど繭にとってはそれが一番の正解で、求めるもので。自分に肌を寄せてくれた蓼子の腕に縋りついて、指先を捕まえるように絡め合った。
繭は……病気などではない。体力は同じくらいあるし、薬を決まった時間に決まった量飲んでいるというわけでもない。何か寿命が決まっていて、大人になるまでに死ぬことが宣告されているというわけでもない。生きるだけなら、繭は蓼子と同じくらいの長さは生きられると分かっている。そういう意味で「大人になれない」わけではない。
けれど、繭が「大人になれない」というのもまた揺るがない事実ではあった。
「今何時?」
「ええっと、十一時……四十七分」
「んじゃ、まだちょっと時間あるね」
自分に体を預けてくる繭。蓼子は胸が高鳴るのを感じて、緊張する躰で繭を受け入れる。
蓼子が大人の嗜みだと思っているもの。タバコを吸うこと、お酒を飲むこと。それともうひとつ、彼女にとって一番「大人っぽい」と思うものがある。
「する?」
「する。いいよね?」
「……うん」
それは――いつも決まって、繭のちょっと強引で一方的な口づけから始まるものだった。
口内に繭の舌が入り込んでくる。口づけまでは勢いがあるのに、舌遣いはどこか遠慮がちで繊細だった。繭らしいな、蓼子は率直にそう思った。外見は突っ張ってて、親とか学校とか法律とか、いろいろな枠組みに反発してる。だけど中身は一途で淑やかで、自分と相通じるものがある。それを知っているのはわたしだけ、蓼子は胸の奥底で小さな優越感を抱く。口をぴったり付け合って、外からはどんな遣り取りがされているのか分からない。繭の舌遣い、繭の本質を知っているのは、世界で自分ただひとり。
カラダの心地よさとココロの気持ちよさが蓼子を溶かして、現実と妄想、自分と繭、いろんな境界がことごとくあいまいになっていく。繭に飲み込まれているような思いもするし、繭を包み込んでいる感覚も同時に味わっている。抱き合って交わっると、何もかもがあやふやになって一つになる。蓼子はこれがたまらなく好きだった。繭に求められてされるがまま、入り方はそう見える。けれど本質はどうだろう。蓼子が内心で求めているのを大人の繭が察して気を利かせてくれているのかも知れない。これもまた境目のない、どちらとも取れるもののひとつだった。
「ん……」
「声出てるよ、蓼子」
繭は蓼子と触れ合うのが好きだった。繭が触らない場所なんてひとつもない。蓼子のすべてを触り違って、自分のすべてで触れたがる。例外なんてない、禁忌なんてありっこない。繭は無遠慮で丁寧な手つきで、蓼子のそこかしこに触れていく。蓼子は少しも抵抗しなかった。心地よいことを我慢する必要なんてない、そう繭に教えてもらったから。繭の手で自分自身が溶かされていく、あるいは自分が繭を飲み込んで融かしていく。二人の間に境界を感じるのは、布の擦れ合う音を聞くときだけ。
蓼子は繭を抱きしめるばかりで、まるで彼女へ懸命にしがみついているかのよう。でも見ようによっては、じゃれてくる繭を抱擁しているようでもある。母親と赤子の関係に近しい。どっちが母親で、どっちが赤子か。教会の不安定さを楽しむ蓼子と繭にとっては、しごくどうでもいい疑問だった。蓼子は繭で、繭は蓼子。それが唯一絶対の答えだ。自分たちが唯一になるのが答えだ。物事が交わると、いかなる形であれひとつになる瞬間がある。その瞬間を共に求めているだけなのだから。
指先が、手のひらが、蓼子の全身をはい回る。ずっと繭が蓼子を先導して煽動しているようだけれど、蓼子にとって繭は大人で自分は子供。当然のことで、望ましいとさえ思った。大人の蓼子に切り拓かれることで、自分も一歩ずつ大人に近づいていく。そんな感覚さえあった。
「ねえ、蓼子。好きって言って。恋人だって言ってよ」
「あたしのこと、大人だって思わせてよ」
けれど、実態は不思議なもので。繭はこうしてまぐわっているとき、決まっていつも蓼子に「好きって言って」「大人だって言って」とせがむのだ。欲しいものを大人にねだる子供のよう、と言うのに相応しい光景だった。蓼子にとって繭は大人だけれど、繭は自分のことを大人だなんて思っちゃいない。大人に駄々をこねて欲しがれば、自分の求めるものがもらえると信じている子供だった。
あちこちに触れて、指先を濡らして。どう見たって繭が蓼子をむさぼっている。蓼子は繭にされるがまま、従属しているようにしか見えないはず。なのに、そんな繭の求めるものの決定権はいつだって蓼子が握っている。蓼子は与えることも与えないこともできる、なんなら繭から自分自身を取り上げて、情事を味気なく終わらせることさえできた。すべては蓼子の感情ひとつ。繭は蓼子にマウントを取っているようで、実はどんな時だって平伏している。
蓼子自身がその構図をどこまで自覚しているかは、この際さておくとしても。
「……繭」
「ずるいよ、蓼子。蓼子だけ大人ぶらないで」
そんなひねくれた難しい繭を、蓼子はいっそう力を込めてハグした。わがままを言う子供をたしなめる大人そのものだ。蓼子に全身を預けて任せて委ねているのに、口だけは「大人ぶらないで」と文句を言う。蓼子にとっては、それさえも愛しいものだった。
あたしも連れてって、大人にして。何度も繰り返す繭を見たしたかったのか、それとも黙らせるためなのか。今度は蓼子の方から口づけた。蓼子は自分がつたなくて子供っぽいと感じる舌遣いでもって、繭の口内を慈しむように蹂躙する。大人なのはどっちだろう、蓼子は繭だと思っている。繭は蓼子だと思っている。ガタガタの境界を反復横跳びして遊ぶふたりのナカで、これだけは明確な違いとしていつまでも残っていた。
「こんなんじゃ足りないよ、もっとちょうだい」
息継ぎをするように言葉を発した繭の求めに応えたくて、蓼子はまた口づけるのだけど。
「違うってば。そうじゃない」
「繭」
「欲しがるものを片っ端からあげてたら、ちゃんとした大人になんかなれないでしょ」
「でも、だって……」
「子供みたいなこと言わないで」
繭は肩をつかんで無理やり距離を開ける。二人の間にとろんと糸が引いて、そしてたちまち切れてしまって。
「あたしが欲しがっててもあげない、蓼子が欲しかったら取り上げる」
「大人になるってのはこういうことなんだよって、このカラダに教え込んで。刻み込んで」
「蓼子の手で――あたしのこと、躾けてよ」
欲しがっているのを見てあげれば拒絶する、だからと言って手を引くと無理やり引き寄せられる。ああ言えばこう言うわがままな繭を、蓼子はただただ愛しく思った。愛しさの中に感じる、ほとんど痛みのような切なさと向き合う。
繭が「大人」に固執するのには、理由があった。
「もうすぐか。もうすぐなのかな」
心なしか肌がべたつくような気がして、蓼子は憂鬱な気持ちになった。タオルでそっと肌を拭う。流れ出ているのは汗、汗をかいているのはお風呂に入ったばかりだから。入浴を済ませたのはかれこれ一時間も前なのだけど、蓼子は自分は暑がりなのだと言い聞かせた。それにしては肌は冷たいし、全身が湿っているというわけでもないのだけど。
(いやだな。『蛹』になるの)
蛹。蟲が幼蟲から成蟲になる過程において、たった一度だけ変化する特殊な形態。多少の差異はあるけれども、あるタイミングで全身から粘液が分泌されて体を覆いつくし、硬化した粘液の中で体を丸ごと作り変えるというプロセスを踏む種が大半を占める。これは蟲人がただの蟲だった頃から存在する生理機能で、進化していく中でも失われずに残ったものだ。
この幼蟲が蛹を経由して成蟲に変貌する過程を「完全変態」と呼ぶ。
蓼子と繭が属するアゲハチョウ科にも「完全変態」は存在していた。なんならもっとも基本的な「完全変態」の流れに沿っていると言っても過言ではない。健康なアゲハチョウ科の幼蟲はいずれ必ず「完全変態」を遂げることになっており、それを完遂して初めて法的にも肉体的にも「大人になった」と言える。例えどれだけ思考が大人びていようと、成人してから愉しむものを先取りしてつまみ食いしていても、「完全変態」を終えなければあくまで幼蟲のままなのだ。
アゲハチョウ科の「完全変態」は、概ね次のようなフローを辿る。肉体年齢が満十四歳を迎えてしばらくすると、全身から「蛹」になるための粘液が分泌され始める。進行はゆっくりなので、粘液が分泌されたからと言って慌てなくてもいい。学校へ連絡して「変態休暇」を取得し、自室のような落ち着ける場所で全裸になって安静にしておく。やがて分泌される粘液の量が増えてゆき、全身が粘っこくなって動きづらくなる頃に次の段階へ入る。
粘液は空気に触れると徐々に硬化して、肉体を守るように包み込む。この時には既に意識はもうろうとし、心地よい安堵感と程よい快楽が毛布のように全身を包み込む――と多くの経験者は語る。ここでほぼすべての幼蟲は激しい眠気を覚えてそのまま眠ってしまう。表層の硬貨が終わると別種の粘液が分泌され始め、今度は肉体を溶かしていく。だが心配する必要はない。主要な臓器はこの粘液の影響を受けず、体が作り変えられる過程においても生命活動は継続されるからだ。
皮膚、爪、髪、筋肉、腱、目、鼻、口、耳、ほとんどの骨。すべては一度どろどろに溶かされて、さながら「原初のスープ」のようになる。
(それから、何もかも変わって外に出てくる)
最後の段階は、これらを基に体を作り直す作業だ。わずかに残った骨と臓器をコアとして、成蟲に相応しい肉体が形成される。この過程でかつての容姿はあまり参考にされず、脳が生まれつき持っている「成蟲としての姿」の設計図に基づいて構築されることになる。ほとんどの者は「完全変態」の前後で容貌が著しく変わり、さらに肉体の変化に合わせて思考や嗜好も様変わりすることが多い。文字通りにして字面通りの「完全変態」を成し遂げるわけだ。
概ね七日を掛けて自分の作り直しを行い、意識を取り戻して蛹から出てくれば「完全変態」は完了だ。肉体の作り直しという一大イベントであり、本人はほとんど眠って過ごすと言え大きな負担を伴う。「思春期の幼蟲に触れてはいけない」とはまさしくその通りであり、蛹に触れることは親であろうと禁じられている。地域によっては蛹化が始まった時点で施設へ送られ、プロセスの完了まで個室へ隔離されるようなところも少なくない。幸か不幸か、蓼子の地域では自宅での「完全変態」が常識とされていて、そこまで厳格なものではなかったけれども。
「昔のお母さん、ガキ大将みたいだったんだよね」
蓼子がため息を吐く。まず思い浮かぶのは、おっとりして何事にも動じない今の母の姿。長い黒髪をいつも丁寧に梳いて、蓼子にもそれが引き継がれたことを喜んでいた。蓼子にとっても、髪がきれいなことは純粋に喜ばしかった。この難しく繊細な年頃にしては珍しく、蓼子は母と衝突することがまるで無かった。母が蓼子の主体性を重んじてくれているからというのもあったけど、蓼子自身が今の「今の母親そっくりの自分」を結構気に入っているのも大きかった。別にイメチェンしたいわけでもなく、このまま大人になりたいとさえ思っていた。
そして次に浮かんでくるのは、「完全変態」する前の母の様子だった。写真や動画が多く残っていて、蓼子はそれを目にする機会があったのだ。昔の母は今とまるで違い、ぼっさぼさの髪で野山を駆け巡るほとんど野生児のような子供だったそうだ。男子を手下にして連れまわし、女らしくしろと言われると拳骨を見舞って返事だと言い張る「がさつ」を絵に描いたような子供だ。母は気恥ずかしそうにしていたけれど、蓼子にとっては相当なギャップを感じさせる衝撃的な出来事だった。外見にも内面にも、今となってはもう名残さえなかったからだ。
母に「完全変態」はどんな気持ちだったかを訊ねた。母は少し悩んで「怖かった」と返した。今までの自分が消えてなくなるようで、蛹の中で意識を失うまでずっと泣いていたとも。いざ蛹から出てみると、確かに昔の記憶は残っている。けれど鏡に映るのは「オトナ」の第一歩を踏み出した自分のカラダで、この時に「自分は女なんだ」と強烈に印象付けられたという。性格も別人のように落ち着いて、以前の自分は懐かしく思いつつ、どこか他人のように感じてしまうとも。
(怖いよ。わたし、わたしのままでいたいのに、わたしのままじゃいられない)
自分が他人のように思える。この言葉を耳にした蓼子は震えあがった。自分は今の自分が嫌いではない、言ってしまえば――好きでさえある。母親からもらった黒髪も、父親譲りの顔立ちも、両親から「いいところだけを引き継いだ」と言われたものの考え方も、蓼子自身はすべて好ましく思っていた。両親が自分にくれたもの全部が好き、これが珍しいことは分かり切っている。だけど好きなものは好きなんだからしょうがない。ナルシストだって言われても構わない。自意識過剰呼ばわりされる怖さより、今のまま変わりたくない、両親からもらったものを手放したくないという気持ちの方がずっとずっと強かった。
大人になるのが怖い。何もかも変わってしまうのが怖い。穏やかで自分を尊重してくれる大好きな母親は、かつて乱暴な男子のようだった。変貌がいい方向へ働くこともある、頭ではそれも分かっている。だけどそうじゃないのだ。変わることそのものが恐ろしい。昔の自分を「つまらないもの」「子供っぽいもの」と切り捨ててなかった事にしてしまいそうな、変化した後の自分がこの上なく恐ろしかった。けれど自分はアゲハチョウ科の蟲人。かつての父と母のように、自分もまったくの別人へ生まれ変わってしまうことは避けられない。
(ダメだよわたし、またこんなことばっかり考えて)
広がる一方の憂鬱な気持ちに耐えかねて、蓼子は電気を消してベッドへもぐりこんだ。カラダのベタつきを思い込みではごまかせるのはそう長くない。本格的に蛹になる前に、予備的に近しい成分の粘液が分泌されることを蓼子は知っていた。もう変化は始まりかけているのだ。徐々に蛹になるための準備が進んでいって、あと一週間もすれば自分は蛹の中へ閉じ込められる。大切にしていたものすべてがどろどろに溶けて、まったく違う自分へ作り変えられてしまう。過去の経験や懊悩、大切な記憶はただの客観的な映像記録になり、「新しい自分」に適した思考で塗りつぶされる。
嫌だ! 蓼子は枕に顔をうずめて、声なき声の限りに叫んだ。誰か自分を自分のままでいさせてほしい。変わりたくない、変わってしまった自分を自分だと認めたくない。変わり果てた自分を見られたくない。誰に? 蓼子は自分に問う。両親に見られるのも怖かった。変わってしまった自分を娘だと認めてくれるか不安でならなかった。けれどもっと怖い、誰よりも見せたくない相手がいる。それは誰? 蓼子の中の蓼子が問いかける。名前を口にするまで許してくれない、観念した蓼子が、消え入りそうな声でつぶやく。
「……繭」
繭。彼女の姿が脳裏に浮かぶ。学校でいつも隣にいて、誰よりも長く一緒に過ごしている。仕草ひとつひとつが好きで、憧れていて――自分だけのものにしたい。蓼子は自分の独占欲の強さを自覚させられて驚いたのを覚えている。人知れず繭とまぐわうときも、蓼子はいつも繭を全力で抱きしめて離さない。誰にも渡したくなかった、どこへも行ってほしくなかった。今はいい、繭が自分を好きでいてくれているように見えるから、繭が自分以外の誰ともかかわろうとしないから。でも、「完全変態」してしまった自分をそのまま好きでいてくれるだろうか、他の誰かに気が移ったりしないだろうか。そんなことは誰にもわからない。誰も保証なんてしてくれない。
あるいは繭も「完全変態」してしまえば、変わってしまった者同士で向き合って新しく関係を繋ぎなおせるかも知れない。あるいはお互いの思考と嗜好がガラリと変わって、あんなに粘着していたのにあっさり別れてしまうかも知れない。自分と繭、もしも二人共に「完全変態」してしまうなら、辛いけれどまだどうにか飲み込めたような気もする。
(でも、これは「もしも」の話で)
そう。蓼子の考えは「もしも」の話に過ぎない。現実は違う。「もしも」は起こり得ないからこそ「もしも」なのだ。繭はいつも「大人になりたい」と言っている。大人になりたいという気持ちが溜まりに溜まって、ひねくれた感情になって蓼子にぶつけている。それを蓼子は全身で浴びていた、ゆえに繭の想いが口先だけでないホンモノなのだと深く理解していた。繭は大人になりたい、自分を大人にしてくれと幾度となく蓼子に言った。子供が玩具をねだるように、繭は大人になりたいとせがむ。
けれど――繭は「大人になれない」。言葉通り、繭は「大人になれない」のだ。
「……もう、そろそろなんだね」
どれだけ拭ってもカラダのべたつきは取れない。頭がどこかぼーっとして、意識が別の場所にあるような気がする。母親に説明するとすぐに学校に連絡を入れてくれて、しばらく休みを取ることになった。何のための休みなのかは分かっているけど、それを意識したり口にしたりすることが本当に怖くてならなかった。まだどこかで、これはただの体調不良なんだと言い訳をしている自分がいる。もはや動くことさえ億劫で、部屋の隅で小さくなっている。すぐ隣に、近くに着古したパジャマを畳んである。
今、蓼子は一糸まとわぬ裸体だった。いつ「始まっても」問題がないように。
(繭は、大人になれない)
アゲハチョウ科の中には、極めてまれに「変態不全」という体質を持って生まれてくる幼蟲がいる。言葉通り「完全変態」に重篤な不都合が生じるもので、もっと端的に言うなら「完全変態」そのものができない。必要な粘液がまったく分泌されず、適齢期を迎えても蛹になることができないのだ。蛹になることが「完全変態」の前提であるから、根本的に自分を作り直すことができないことになる。ただそれだけで他の身体機能に影響が生じることはほぼ無いのだが、アゲハチョウ科の蟲人にとってこれは極めて重大な問題だった。
もし「完全変態」ができないとどうなるか。十四歳を迎えた後は、外見の変化が完全に止まってしまう。「変態不全」は代謝機能の異常から生じるものであり、外見の成長はおろか老化すらも完全に止まってしまう。身長が伸びることもないし、性徴が現れることもない。文字通り、死ぬまで完全に同じ姿で過ごすことになる。「変態不全」を発症したアゲハチョウ科の蟲人の寿命は健康なそれと大差ないと言われるが、多くが自らの置かれた境遇に思い悩み心身を患っていると言われる。
(大人になれないのは、カラダだけじゃない)
こうした「変態不全」の蟲人たちを待ち受けるのはそれだけではない。社会的にも大きな制約が課せられる。
彼ら・彼女らはどれほど年齢を重ねても外見的には明らかに未成年のままであるため、職に就くのも並大抵のことではない。成蟲でない故に法的にも幼蟲扱いのままで、大半の企業では「変態不全」の蟲人は受け入れられないという姿勢を示している。これは社会的な要請に基づくもので、事情は分かるがやむを得ないこととされている。かつて蟲人が社会の中心になるまでの過渡期において、まだ幼蟲に過ぎない者たちが過酷な労働を課せられて命を落としていった経緯があるためだ。
建前上、これは永遠に子供のまま大人になれない者たちを守るためのもの。少なくとも、ほとんどの蟲人はそう認識している。
(じゃあ、繭みたいな子はどうやって暮らしていくのか)
もちろん、単に「仕事には就けません」で終わっているわけではない。大人になれない蟲たちは、「変態不全」が完全に確認された時点で保護の対象となる。政府機関の運営する施設へ移送され、そこで同じ身体的特徴を持つ者たちと共同生活を送ることになるのだ。そこで軽作業に従事し、決まった形で社会に組み込まれることになる。衣食住が保証される代わりに、生き方はほとんど決められない。あまり評判が芳しくないことは、蓼子も伝え聞いていた。
肉親や友人と引き剥がされて二度と会えないわけではなく、面会そのものは行える。しかしながら彼らが暮らす場所はかなりの僻地にあり、会いに行くのも大変な労力を要する。ゆえに自然と顔見知りのものと疎遠になり、中にはもう十年以上近親者と会っていないというような者も決して少なくない。彼らは概して生きる気力を喪失しており、思春期の若々しい容姿を保ったままだというのに、内面はもはや死に瀕した廃人に近しいものとさえ言われていた。
(繭は……こうなるって分かってたから、家族や先生に反抗してたんだ)
施設に送れるまで親しいままでいれば、自分だけでなく相手も傷付いてしまう。繭はそのことを嫌というほど理解していた。親に疎まれるように、教師に煙たがられるように、非行を重ねて反抗を繰り返した。果たしてそれが繭の思い通りうまく行っているのかは分からない。繭が飲酒や喫煙を始めたのは十二になるかならないか、「変態不全」の体質が無いかを確かめる検査を受けた直後からだ。それまでの繭は、蓼子をそのまま明るくしたような品行方正で快活な少女だった。
みんな過去の繭を知っているから、今の繭が自暴自棄になっていると内心理解している。しかも、それは他人と距離を置いて心に傷を負わせまいとしているから――ということも、結局のところ皆ちゃんと把握している。自分の心を名前通り繭の中へ押し込めて、自分が消えていなくなってもいいようにしなきゃ。繭の横暴なふるまいは、家族や知り合いを想うがゆえのもの。屋上に行く姿を見られても、タバコで煙たいまま教室にいても誰一人咎め立てないのは、他ならぬ繭自身が一番辛いからだと分かっているからだ。
繭は独りぼっちになろうとした。今もなろうとしている。だけどなれていない。どうしても、完全な独りぼっちにはなれなかった。
(何回か、わたしとも頑張って縁を切ろうとしてたっけ)
ある時は、屋上で蓼子をいきなりぶん殴ろうとした。けれど拳は蓼子の脇へそれて、固い壁にひどく打ち付ける形になった。思っていたより痛くて涙目になる繭を介抱していると、繭は「蓼子は自分の顔が好きだって言ってたのを思い出した」と言って、その瞬間無意識のうちに拳をそらしたらしかった。理不尽に暴力を振るれば、蓼子も自分から去ってくれる。そう思ったのだけど、蓼子の大切なものを壊したくないという気持ちがずっと勝ってしまった。結局、この時は骨にひびが入る結構なケガを負っただけで終わってしまった。骨折り損のくたびれ儲けとは、このことなのだろう。
またある時は、自分の部屋に呼びつけた蓼子を力づくで凌辱しようとしたこともあった。服を無理やり脱がせるところまではなんとかできたけど、その後は結局普段と何も変わらない触れ合いになってしまった。他でもない蓼子が繭を受け入れる気だったから、カタチだけ無理やりでもお互いただキモチイイだけだと悟ったのだ。普段よりもたくさん触れ合い、汗と体液で濡れたカラダで悦楽を分かち合いながら、繭はしくしくと泣いた。「嫌いになってほしいのに、蓼子のこと好きになるばっかり」。子供のように泣く繭を、蓼子は両腕でしっかり抱きしめたのを覚えている。
またまたある時は、「男ができたから別れて」と切り出されたこともある。同い年の男子と裸になっている写真も見せられた。だけど蓼子は、繭がカレシだと言い張るその男の子がどう見たって繭の弟にしか見えないことを指摘した。繭はがっくりうなだれて「なんで顔知ってるの」とあっさり白状した。続けて「それっぽい写真は撮ってくれたけど、一緒に寝てはくれなかった。『姉ちゃんは酒くさいしタバコくさい』なんて言ってさ」と自嘲する。蓼子は繭が気の毒でならなかった。どんな思いで弟にこんなことを頼み込んだのか、想像すると思わず胸が痛んだ。
どれだけ小細工してみても、繭が蓼子から離れることはできなかった。どれもこれもひどく子供っぽくて荒っぽいやり方とはいえ、繭は本気で蓼子のためを思ってこんなことをしていたのだろう。けれど蓼子にとっては、繭が自分に対してどれだけ本気で「好き」でいるのかを試してくれているようにも思えた。だから、その一つ一つに応えた。繭の体質ごときで嫌ったりなんかしないよ。蓼子の姿勢こそが、繭の本当に求めていたものかも知れなかった。
繭は蓼子と離れ離れになりたくない。しかし繭は大人になれない。自分一人では何もできないことを分かり切っているからこそ、繭は自棄になっていろいろなものに反抗し、蓼子に「大人にしてよ」と何度もねだるのだ。繭は言う。大人になれば蓼子といられる、蓼子から離れずに済む。だけど自分独りじゃどうにもならない。どうにもならなくて、どうにもならないから、気持ちが千々に乱れて滅茶苦茶になっている。独りじゃどうしようもないんだ、繭が泣きじゃくりながら言う姿が何度も脳裏に浮かんでは消える。
どうしようもない――「独り」では。
(このままじゃ、繭は……どこか遠くへ行っちゃうんだ)
いずれ、繭は遠くへ行くことになるだろう。蓼子はもうすぐ成蟲になるとは言えまだまだ幼い。繭に会いに行くことは並大抵のことではない、非常に難しくなるだろう。ましてや、面会の場所や時間は厳しく制限されている。今のように、時間を忘れて好きなだけ互いに触れ合うことなど二度とできなくなる。蓼子は思わずゾッとした。繭と触れ合うことが日常の、生活の、常識の一部になっていて、それが無くなったあとのセカイなどまるで想像もつかなかったから。ブラックホールに何かも飲み込まれた後の真っ暗な宇宙のような未来を視て、蓼子はただただ戦慄した。
繭がもがき苦しんで懸命に足掻いているのに、自分はただベッドの中でぶるぶる震えているだけ? 蓼子の中にいる別の蓼子が、あざける様に詰ってきた。震えてたって何もならないって分かり切ってるくせに、そんな甘っちょろいガキみたいな心持ちのまま、カラダだけいっちょ前にオトナになろうとしてる。思わず耳をふさいだけれど、声がするのは頭の中から。そうやって「いやだいやだ」してる内に、繭はどっか遠くへ行っちゃうんだよ。あんたが意気地なしだから、繭の気持ちに気付いてあげられないから。
(……違う! そんなの、わたしだって嫌だ!)
嫌。微かな反抗心が芽生える感覚を覚えて、それが急激に育っていくのを感じた。塞ぎ込むばかりだった心の殻をぶち破って、自分が本当に何をしたいかと向き合う気持ちが固まった。
(繭は言ってた。「独りじゃどうにもならない」って)
いつだっただろうか、学校の屋上で過ごしていた時のことを思い出す。
その日の放課後も、二人で夕暮れを見ながら風を浴びていた。蓼子は繭が「大人になりたい」と言っているのを誰よりもよく知っていたから、自分が「大人になりたくない」と怖がっていることを隠していたつもりだった。本心を隠すのが下手くそなのは、蓼子も繭もおあいこだ。繭はある時「蓼子ってさ、自分が変わるの怖がってるよね」と言って、蓼子の本心をあっさり言い当ててしまった。しどろもどろになる蓼子に、繭が「いいって」と笑う。
「変わらないままも怖いけど、変わるのだって怖い。それが普通じゃん」
「でも、繭は」
「そうだね。あたしは変われない。今のカタチのままじゃ、一生変われないよ」
ちょっと含みのある言い方だな、と蓼子は不思議がった。「今のカタチのまま」ってなんだろう。蓼子はその意味を考えるけれど、うまく解釈できずにいる。だけどそれは答えが分からないんじゃない。自分のどこかに存在しているけど、見つけるのが怖いものだった。舞い上がった気持ちのまま書いたけど、ポストへ投函できないまま引き出しにしまい込んだラブレターのようなもの。精いっぱい近いものを探すと、こんなところだろうか。他人に見られたくない、自分で触れるのもためらう。そんな生々しい気持ちのカタマリだ。
でも、繭は蓼子の書いたラブレターを見つけてしまった。しかもそれに興味を持って、中身を知っているのに自分へ渡してくれるのを待っている。蓼子は頭が真っ白になった。そのラブレターには自分の本心が赤裸々につづられている。赤裸々すぎて、どぎつさすら覚えるものだ。それを繭に把握されたというだけで心臓が飛び出してきそうなのに、繭はそれをすごく欲しがっている。でもそれはいけない。常識ってものがあるから、ルールってものがあるから。そう表向きだけ取り繕った言い訳をしようとする蓼子の本心に、繭はずかずかと踏み込んでくる。
「ね、蓼子。思ったんだけどさ」
あっけらかんと容赦なく、一番近い道をさっさと選んで、まったくもって無遠慮に。
「あたしって『カタチ』がなくなったら、『ずっと一緒』でいられるかもね」
ホントの本音の本心に、繭は踏み込んできた。
アゲハチョウ科の蟲人に起こる「完全変態」。蛹の中では元の肉体が「カタチ」を失って、完全に一から作り直される。生きるために主要な臓器はある程度安定した状態に置かれはするが、それとて完全な例外ではない。肉体を溶かしたスープの中で、臓器の再構築も一緒に行われる。不活性化した細胞は代謝されて、粘液から必要な分だけ作り出して補われるけれど、もし「もっと使いやすい状態」で存在していれば、そちらが優先して使われると言われている。
繭の「カタチ」がなくなるとは。「ずっと一緒」とは。もう言い逃れなんかできない。蓼子は最初から分かっていて、ただ目を背けていただけのこと。だけど繭が「こっち見なよ」って言ってくれたから、勇気を出してそっちを見ることにした。蓼子は恐れていたけれど、今となっては何を怖がっていたのかよく分からない。繭がいなくなるから? それは今のまま何もしなくても同じだ。繭を怖がらせるから? でも繭は何も怖がっちゃいない。求めてるじゃないか。法律とか常識とか? そんなこと、今となってはどうでもよかった。
蓼子は思う。繭と「ずっと一緒」でいたい。自分も繭もカタチが変わっても、ただ「ひとつ」でありさえすればいい。
「まだ、間に合う」
近くに置いてあったスマホを手に取る。べたつく手をタオルで拭いながら、蓼子は夢中になってメッセージを打ち込んだ。繭は自分に何が起きているかを全部知ってる。自分が学校にいないのを見て、もう二度と自分に会えないと諦めかけている。蓼子は繭が孤独でいる姿を想像して、涙が止まらなかった。もう独りになんかしない、ずっといっしょだよ。蓼子は自分の状況――蛹になり始めていること、今夜にも完全に蛹になってしまうこと、もうすぐ自分が「完全変態」することを書きなぐった後、最後にこう付け加えた。
「繭とひとつになりたい」
メッセージを送って、恐らく五秒も経たなかった。
「その言葉を待ってたよ、蓼子」
「はぁ……はぁ、ふぅ。頭、ぼんやりする……」
窓の外はすっかり暗くなっている。蓼子は自分がまだ動けるうちにロックを解除して、窓を少しだけ開けておいた。冷たい風が吹き込んでくるけれど、変化の時を迎えてじんじんと熱を帯びる躰には心地よかった。ドアをしっかりと閉めた部屋の中で、蓼子の微かな息遣いだけが聞こえてくる。繭はこまめに連絡をくれて、一番新しいメッセージには「もうすぐ家に行く」と書いていた。もちろん玄関から入ってくるわけではない。きっと母親が丁重に断るだろう。そのために窓を開けておいたのだ。
蓼子は自分が少しずつ蛹になっていくのを感じていた。粘液は今やあふれるほど分泌されて、全身を粘っこく覆っている。息が苦しくならないように口を半開きにして、そこから懸命に空気を取り入れる。粘液は無から染み出してくるわけじゃない。ちゃんとエネルギーを消費して、体内器官が働くことで作られるものだ。それも全身に生じるわけだから、見た目よりもずっと激しく体力を消耗する。近くには母親が作ってくれたおにぎりがあった。五つほど並べてあったそれはもう残り二つになっていて、今すぐにでも手を伸ばしたいくらいの飢えを覚えていた。
ああ、自分が変わっていくんだ。蓼子はとろんとした目つきで、粘液を滴らせる腕をじっと見つめる。目の前には鏡が置かれていて、自分の様子をつぶさに伺うことができた。一番楽な三角座りの姿勢を取って、時折鏡を見つめる。サラサラの黒髪はハチミツのような粘液でべっとり固まり、蓼子の背中へくっついている。終わったらどんな風になっているのだろう。蓼子は働かない頭で懸命に考えた。両親からもらったこのカラダが、少しでも残ればいいのだけど。
疲労困憊した中でも、蓼子は痛みや苦しみはないことを不思議に思っていた。自分の全身がドロドロに溶かされてしまうと聞いた時、蓼子は全身が総毛立つ思いだった。どれほどの痛みが襲うのだろう、苦しみのあまり死んでしまうのではないか。「完全変態」について聞いた日から、幾度となくその恐怖に脅かされてきた。けれどいざ蛹化が始まってしまうと、なんとなくぬるいサウナにいるような感覚だな、としか思わなかった。体力が減っていくのを感じるし、思考はぼやけてまとまらない。でも痛いわけじゃない、死の恐怖も感じない。
これならまだ、初めて血が流れたときの方がずっと痛かった。蓼子は思う。母親も同じようなことを言っていたことを振り返り、そういうものなのだろうと重ねて納得した。
「――よっと。いい感じに始まってるじゃん。べっとべとだね」
「繭」
窓をそっと開けて、繭が部屋へ忍び込んできた。かつて地上を闊歩していたただの人より、蟲人の跳躍力はずっと優れている。おまけに繭の運動神経は抜群だ。二階から部屋へお邪魔することなんて朝飯前だった。窓をちゃんと閉めると、すぐさま蓼子の元まで歩み寄る。
「どんな感じ? 痛かったりする?」
「ううん。なんかね、ずっと……汗が止まらないみたいな感じ。痛くはないよ、ただ熱いだけ」
「そっか。でも大変そうだし、一番楽な姿勢でいなよ」
「ありがと、繭」
お腹がすいた。蓼子はおずおずと近くのお皿に手を伸ばそうとするけど、もうその為の体力も残っていなかった。諦めて元の姿勢へ戻ると、察した繭がおにぎりを手に取って食べさせてくれた。しっかり食べな、蓼子は気力を振り絞ってかぶりついた。内側から責め苛んでいた飢えが少し収まって、呼吸が落ち着いたものに戻る。風邪を引いたときに看病してもらってるみたいだな、蓼子はふとそんなことを考えた。
「今のわたし、ひどい姿だよね。全身べとべとで、裸になって。繭に、あんまり見られたくなかったかも」
「でも、蓼子じゃん。蓼子は全部綺麗。だから、あたしは今の蓼子も好き」
「わたしも好き。繭、わたし繭が大好き」
繭が蓼子の頬をそっと、そっとなでる。指先に粘液が絡みついた。これから大人になるんだね、繭はあやすような口ぶりで言った。蓼子がずっと恐れていたこと、大人になって身も心もがらりと変わってしまうこと。今まさにその渦中にある。蓼子の中に浮かびかけた恐怖を、繭の指先が優しく拭ってくれた。いつもそうしてくれるように、蓼子の――いちばん見られたくないけれど、いちばん触れてほしい場所を、誰よりも丁寧にほぐしてくれるかのように。
あたしも準備するね。繭は立ち上がると着ていた制服に手を掛けて、ベッドの上へ脱ぎ散らかした。ブレザーにスカート、下着まで全部取り払って、蓼子と同じ裸体を晒した。「最後だから畳んどこうか」繭はそう言って、蓼子の前で服をすべて畳んだ。わざとじらしてるみたいだ、蓼子は心の中でちょっと笑った。だけど今は、そんな繭の仕草や振る舞いひとつひとつがたまらなく愛おしい。これからすることを思えば、尚更だった。
「抱きあえるの、これが最後になるのかな」
「うん。でも、一生抱き合ってる、そういうカタチでもあるよ」
「そうだね。じゃあ、あたしたち一生幸せだ」
蓼子は姿勢を少し崩して、繭を深く迎え入れる体勢を取った。繭は迷わず蓼子の胸の中へ飛び込んで、後ろ手にして蓼子を抱き締めた。蓼子の全身からあふれるように分泌される粘液は繭にもあっという間に絡みついて、蓼子と同じくらいべたついたカラダになる。繭はあえて粘液がよく絡むように、蓼子の中で繰り返し身をよじった。繭を全身で感じられる。蓼子は安堵と快楽でいっぱいに満たされて、たくさんあった不安が少しずつ溶けていくのを覚えていた。
さながら――これから起きる「完全変態」の準備みたいに。
どれだけ抱き合っていただろう。気が付くと繭の体からも粘液が分泌され始めていた。粘液が繭の体を作り変え始めて、「変態不全」を起こしていた器官が少しいびつだけれど活性化したのだ。増えた粘液は二人を完全に覆い、やがて境界をあいまいなものにしていく。
「ああ……わたし、溶けてくんだ。みんな、なくなっちゃうんだね」
「あたしも……感覚無くなってきちゃった。もうちょっとしたら、口も開けられなくなるかも」
「繭は、怖くない? わたし……まだ、少しだけ怖いよ」
「怖くないわけない。初めてのことなんだもん。するときだって、初めては怖かったでしょ」
「うん、怖かった。繭もなんだね」
「今だから言えることだよ。だから、今も怖くて当たり前」
でもね、蓼子。繭が蓼子にそっと囁く。
「あたしが側にいるよ。今だけじゃない、これから先も、ずっとずっと」
蓼子に巣くっていた最後の不安が、安堵のスープの中へ溶けていくのを感じた。自分は独りじゃない。ひとつになるけど、ひとりじゃない。変化に身をゆだねよう、その先にどんな未来が待っていても、繭と共に在ることだけは決して変わらないから。
「手、動かせなくなっちゃった。蓼子とくっついてる」
「わたしももう、目と口しか動かないよ」
「意識もあいまい。寝てる気もするし、まだ起きてる気もする。でもね、怖くない」
「うん。怖くないよ。もう怖くない」
「だよね。終わった後どうなるのか、ちょっと楽しみなくらい」
蓼子も繭もカタチを失いつつあった。ふたつがひとつに交わって、どこからが蓼子でどこからが繭か、もう分からなくなりつつあった。すべてが溶けて、解けて、融けていく。ふたりはそれでも何も恐れない。一番大切な人と、文字通り「ひとつ」になれるのだから。
「あったかい。ぽかぽかする。屋上とかで、触りっこしてるときみたいな」
「そっくりだね。あれより、もっと柔らかくて優しい感じ」
「うん……気持ちいいよ、繭」
「なんだろな……あたし、蓼子のナカに融けてくみたい。今のあたし、人生で一番気持ちいいよ」
自分が繭を溶かして飲み込んでいる、繭が自分のナカに入ってきている。繭の言葉を蓼子が噛みしめる。繭のいうことはもっともだ、正しい。そう思いながらも、蓼子は蓼子の想いもあった。
「わたし、今繭に抱かれてる感じだよ。自分がね……繭のナカに入ってくの」
繭は蓼子に溶かされて、蓼子は繭に融かされて。それから、互いに一番奥に相手を受け入れる。そんな思いが二人に去来していた。これ以上に気持ちのいいことが、この先の人生であるだろうか。無いに違いない。そんなもの、ひとつたりとも思い付かないのだから。
いよいよ意識を保てなくなってきた。自分が蓼子なのか、あるいは繭なのか、それさえも分からなくなりつつある。まだかろうじて口は動く、かすかに頭も回る。目の前で融けていく最愛の人を最期の瞬間まで捉えながら、最愛の人の前で溶けていく自分の姿を捉えてもらいながら。
「ずっといっしょだよ」
ふたつの声とふたつの命は、いつしかひとつに交わって。アゲハチョウの幼蟲は、蛹の中で長い眠りについた。
「うぅん……。ああ、終わったのかな」
瞼が自然と開いた。自分が硬化した蛹の中で眠っていたことに気が付いて、おずおずと様子を見てみる。手も足もすっかりできあがっていて、狭い中でも思い通りに動かすことができる。この後どうすればいいかは本能が知っている。羽化するだけだ。かつて幼蟲の少女だった成蟲が、自分を包み込む蛹に手を掛けた。
呆気なく破れた隙間から、新鮮な空気が流れ込んできた。蛹を壊して全身を外気にさらすと感覚が一気に蘇って、自分が完全に生まれ変わったことを理解する。今一度体を動かしてみる。やっぱりすべてが思い通りだ。違和感はひとつもない。話を聞くだけだと、カラダを作り直すなんてうまく行くはずがない、まともに起き上がることさえできないんじゃないか。そう思っていたのに、いざ我が身を以て経験してみるとこんなものだ。つくづく、生き物というのは上手くできているなと感じるばかりだった。
立ち上がってみる。新しい体に慣れ切っていなくて少しふらつきはするけれど、思いの外しっかり立つことができた。歩くのも問題ない、すべては順調だ。
「わたしは……蓼子、だよね」
意識は蓼子の方にあった。過去の出来事はすべて思い出せるし、蛹に包まれてからのことも最期の瞬間まで綺麗に覚えている。全部が溶けてしまう中で、ちゃんと記憶がつながっているというのはとてつもなく不思議だった。生まれ変わった蓼子は、目の前に置きっぱなしにしていた姿見に自分の容姿を映し出した。
顔立ちはかなり変わっていた。母とは逆に、写真で見たかつての母のボーイッシュな姿をより端正に、より穏やかにしたような佇まいだ。大切にしていた髪は、ショートにはなってしまったけれどちゃんと受け継がれている。雰囲気は昔の母に似ているように思う、だけどそれ以上に、蓼子は新しい自分の姿に面影を見出している人がいた。
「繭。繭みたいだよ、わたし」
体つきは――かつての繭そっくりだった。蓼子が一番よく知っている、一番大切な人のカラダ。それこそが今の自分。蓼子はこの上ない満足感を覚えていた。
「それにね、繭。繭の見てきたこと感じてきたこと、それも思い出せるよ」
記憶もそのまま引き継がれていた。まるで自分のことのように、繭が経験してきたすべてのことを思い出せる。ともすると自分の記憶と混ざってしまいそうなほどだけど、蓼子は何も恐れていなかった。自分と繭は、完全にひとつになったのだから。
蓼子、そして繭は、自分の変化を受け入れていた。喜んでいた。蓼子はもちろん、繭も大人になれたことを喜んでいるのが感じられる。ずっと怖がっていたこと、大人になること。ずっと望んでいたこと、大人になること。ふたりはひとつになって蛹を作り上げて、共に羽化を果たして大人になったのだ。
学習机に飾ってあるふたりで撮影した写真を見た。自分たちはホントの意味でひとつになった。これからはいついかなる時もいっしょで、離れ離れにされることを恐れなくていい。ここから先の人生すべてが順風満帆だとは思わない。大変なこともあるに違いない。だけど、心から大切な人はいつも自分の中にいる。自分の中にいて、自分と共に在って、誰も分かつことなどできなくなった。
鏡が自分の姿を映す。蓼子は繭に、繭は蓼子に。今、祝福の言葉を捧げる。
「大人になれたね、繭」
「大人になったよ、蓼子」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。