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第九十二話「The Gate was Closed, The Heart is Protected.」

……声。

……声が聞こえる。

……声が、聞こえてくる。

 

……誰かを呼ぶ声。

……女の子の声。

……小さな、女の子の声。

 

……おかあさん……

……どこにいるの?

……おかあさん……

……どこへいったの?

 

……消え入りそうな声。

……悲しそうな声。

……泣いているような声。

 

……あの子は、お母さんを探しているのだろうか。

……あの子は、お母さんを呼んでいるのだろうか。

……あの子は、お母さんを――

 

「……?」

すっと目が開く感覚がした。まったく違和感を感じない目覚めだった。静かに起こした体は、眠りに付く前と同じように、思い通りに動かすことができた。つい先程まで眠りについていたとは思えないくらい、僕の意識は明瞭に覚醒していた。軽く体をほぐして、カーテン越しに朝日を眺める。

「……………………」

不思議な夢を見ていた気がする。言葉で言い表すことはできないけれど、その夢が「不思議だった」という感触・感覚は、僕の中で確かな存在感を持って生きている。何かを意味するものなのか、それとも何の意味も持たない、僕の心が好き放題描き散らした心象風景の残滓なのかは分からなかったけれど、「不思議」という感情が心の中を蠢いているのは、疑いようも無い事実だった。

「んっ……う~ん……」

「ぴこぴこっ」

僕が夢についてあれこれと考えをめぐらせていると、隣で眠っていた佳乃ちゃんがゆっくりと体を起こした。寝ぼけ眼できょろきょろと辺りを見回してから、バンダナの下がっている右手でごしごしと目を擦る。

「ふわぁ……おはようポテトぉ……ポテトは早起きさんだねぇ」

「ぴこー」

「うんうん。早寝早起きが一番だよぉ。果報は寝て待てって言うしねぇ」

それはどちらかというと「寝る子は育つ」じゃないかなぁ? と、僕は思うのであった。

「それじゃあ、下に行ってお姉ちゃんと往人君におはようを言いに行こっかぁ」

「ぴこぴこー」

佳乃ちゃんは寝る前に畳んで近くに置いておいた服にさっと着替えて、二人の待つ一階へと降りていった。遅れないよう、僕もそれに続く。

「おはようございまぁす!」

「おはよう佳乃。今日も元気そうだな」

聖さんは朝ごはんの支度をしながら、佳乃ちゃんの元気いっぱいの挨拶に微笑みを浮かべて応じた。

「もちろんだよぉ! 往人君はどこかなぁ?」

「外に水撒きに出てもらってる。挨拶ついでに、裏庭の向日葵に水をやってきてくれ」

「了解っ!」

いい形の敬礼をした後、佳乃ちゃんはサンダルを履いて外へと出て行く。

「おはようございますだよぉ!」

「ああ佳乃。おはようさん」

外では帽子を被った往人さんが、バケツに水を溜めて打ち水をしていた。佳乃ちゃんは往人さんの背中をすり抜けて、向日葵を植えてある裏庭へと回り込んでいく。僕が行ってもあんまり役に立たないだろうから、僕は佳乃ちゃんが戻ってくるまで往人さんの側にいることに決めた。

「しっかし、今日も暑いな……」

「ぴこぴこ」

「ここに住んでるお前でも、それは同じなんだな……」

納得したように呟く往人さんに、僕はやはり自信を持って頷いて返事をするのであった。

 

「ん? 今日は半熟にしたんだな」

「ああ。気分によって固さを変えることにしているんだ」

「ふぇー。ほうあんあぁ(訳:へぇー。そうなんだぁ)」

三人で囲む朝食。ほんの少し前まで、ここにいたのは二人だけだったはずなのに、今じゃ三人揃ってないと落ち着かない。往人さんはごくごく自然に、霧島家の朝の風景の中に溶け込んでいる。あたかも、最初からこの場所に存在することが正しいかのごとく。

「佳乃。今日はどこかに行くのか?」

「えっとぉ、ちょっと学校に行って、文化祭の劇の練習をしてこようかなぁ。その前にちょっと散歩して、そのまま学校に行くつもりだよぉ」

「分かった。遅くならないうちに帰って来るんだぞ」

「大丈夫だよぉ。夕方までには必ず帰るから、心配しないでねぇ」

佳乃ちゃんは今日も学校へ行くみたいだ。せっかくだし、僕も付いていくことにしよう。

「今日もいつも通りの手順でいいのか?」

「ああ。変わりなくやってくれ。手は抜かないようにな」

「分かってる」

こうして、穏やかな朝の時間は、その空間に歩調をあわせるかのように、穏やかに流れていった。

 

「行ってきまぁす!」

「気をつけてな。遅くなるようだったら、必ず連絡を入れるんだぞ」

朝ごはんと学校へ行く準備を済ませて、僕と佳乃ちゃんは診療所を出た。さっき外へ出たときよりもずっと強い日差しが、僕らの体を遠慮なく焼いていく。

「うわぁ、今日も暑いよぉ」

「ぴっこり」

「日陰に入りながら歩こうねぇ」

太陽のような笑みを浮かべる佳乃ちゃんの隣に付いて、僕はゆっくりと歩き出した。

 

「むむむ? 向こうから誰か歩いてくるよぉ」

「ぴこ?」

歩き出して間もなく、佳乃ちゃんが不意に足を止めた。額に左手を水平に当てて、前方からこちらに向かって歩いてくる一団に目を凝らす。僕は目と耳を同時に澄ませて、その一団が誰なのかを確かめてみた。

 

「何だって夏休みの朝から散歩なんてしなきゃいけないんだ……」

「夏休みの朝だからだよ。浩平ったら、夏休みだからってお昼まで寝てるんだから。みさおちゃんも私も、毎日浩平起こすの大変なんだからね」

「そうだよ。これからは毎日同じ時間に瑞佳お姉ちゃんと私が起こしたげるから、お兄ちゃんも早起きの習慣つけてよね」

 

割とはっきり聞こえてくる声を聞くと、グループの構成と歩いている理由を大体知ることができた。それは佳乃ちゃんも同じようで、うんうんと一人で頷いていた。そしてつかつかと前に歩いていくと、おもむろに、

「折原君、みさおちゃん、長森さん、まとめておはようございますだよぉ」

「あ、霧島先輩っ。おはようございますっ」

「おはよう霧島君。元気そうで何よりだよ」

「……よぉ霧島。お前の元気を俺にも十割ほど分けてくれ……」

「あははっ。十割分けちゃったらぼくがへなへなさんになっちゃうよぉ」

二人は元気に、一人は陰気に挨拶を返すと、揃って佳乃ちゃんの顔を見つめた。

「霧島先輩はどちらに行かれるんですか?」

「ちょっと散歩してから、演劇部に練習に行くんだぁ。もうすぐ文化祭だからねぇ」

「わ、奇遇だね。浩平とみさおちゃんもそうするつもりなんだって」

「……別にいつ行ってもいいんだから、午後からでもいいだろ……」

「もうっ! お兄ちゃんったら、またそんなこと言って! みんな一生懸命練習してるんだから、私たちも頑張らなきゃダメだよ」

折原君は面倒見のいい幼馴染としっかり者の妹に囲まれて、ただただため息の数を増やすばかりだった。

「もしよかったら、霧島君も一緒に散歩しない? 人数多い方が楽しいと思うよ」

「いいかなぁ? それじゃあ、ぼくもご一緒しちゃうよぉ」

「ああ……これで男女比が一対三になってしまった……」

「お兄ちゃんっ! 霧島先輩に失礼だよっ」

「ホントだよぉ。ぼく、その内怒るよぉ?」

佳乃ちゃんは口をへの字に曲げながら、折原君たちの隊列に加わった。

 

蝉時雨が間断なく響き渡る中を、一団はゆっくりと歩いていく。

「へぇー。みさおちゃん、体丈夫なんだねぇ」

「はいっ。小さい頃にちょっと入院しただけで、後は風邪一つ引いたことが無いんです。お兄ちゃんもだよね?」

「ああ。昔から風邪とは縁遠いんだ。いっぺん引いてみたいところだな」

「浩平ったら、学校休みたいからって、二週間に一度は『風邪引いたー』って言ってるんだよ。そんなにしょっちゅうしょっちゅう風邪引いてたら、衰弱して死んじゃうよ」

「いや、寝てるときは風邪だと思うんだ。なんかこう体が熱くなってだな、学校に行きたくないと大声で訴えてくるんだ」

「行きたくないのはお兄ちゃんの意志でしょっ。もうっ、すぐそうやってサボろうとするんだから……」

会話は途切れることなく続き、楽しげな声がひっきりなしに聞こえてくる。ああ、僕もこの一団に混じって、佳乃ちゃんや長森さんとおしゃべりができたらなぁ。それはきっと、すごく楽しいことだろう。僕は上手く話せるかどうか分からないけど、でも、何も話せないよりかは絶対に楽しいはずだ。

そんな会話が、少しの間続いた頃だった。

「そういえば霧島君。神社にヘンな穴がいくつも掘ってあったって話、聞いたことあるかな?」

長森さんがこんな話題を口にした。二日ほど前に往人さんから聞かされた、あの不審な穴のことに違いない。

「聞いたよぉ。誰かが地面を掘り返したんだよねぇ」

「らしいな。二日前に俺が見に行った時には、もう神主が埋めた後だったみたいだが……」

「でも、昨日美汐ちゃんと話したんだけど、また掘ってあったらしいよ」

「本当か? それは初耳だぞ……」

折原君がそう呟いて、一瞬間を置いた後のことだった。

 

「へぇ~。あの噂、結構あちこちに拡散してるみたいね」

「うんっ。なんだか面白くなってきたわよぅ」

 

真後ろから不意にかけられた声。一同揃って振り向くと、そこには二つの人影があった。

「おっはよー。朝からこんなに知り合いに会うなんて、珍しいわね」

「あっ、おはよう藤林さん。真琴ちゃんも一緒だったんだ」

「あっ! 長森のお姉ちゃんっ!」

「知り合いか?」

「うん。職業体験の時にお世話になったんだよ。藤林さんも一緒だったんだよ」

「そーいうこと。瑞佳から聞かなかったの?」

「多分聞いたはずなんだが、すっかり忘れてたな」

真琴ちゃんと藤林さん――お姉さんの「杏」さんの方だ――が、並んで立っていた。藤林さんの言うとおり、今日は朝からえらく知り合いに会っている気がする。

「藤林先輩っ。噂って、もしかしてあの穴のことですか?」

「そーそー。前に椋から聞かされて、ちょっと気になってたところだったのよ。真琴もそうよね?」

「うん。昨日、晴子さんと京子さんが話してたから」

「そうなんだぁ。ひょっとして、これからそれを見に行ったりするのかなぁ?」

「あったりー。さすがに佳乃は鋭いわねぇ」

「保育所に行くまでまだちょっと時間があるから、その間に見に行くつもりなのよぅ」

二人はどうやらこれから、神社にあるという小さな穴を見に行くつもりらしい。この分だと、多分……

「ところで、瑞佳達はこれからどっか行くつもりなのかしら?」

「うん。少し散歩してから、浩平の練習を見に行くつもりだよ」

「あ、そーなんだ……じゃ、あたしも手伝いに行くわ。どーせなら、散歩も一緒に来ない?」

「……なんとなくだが、そんな提案をされると思ってたぞ」

「ま、流れ的にこうなるのが自然でしょ」

「あははっ。藤林のお姉ちゃんの言うとおりねっ」

……大方の予想通りの展開で、六人という大集団が結成された。ちなみに、僕を入れると七人だ。なんだか朝からとんでもないことになってるけど……面白いからいいか。

 

「……それにしても、朝からこの山道は堪えるな……」

「あぅー……ちょ、ちょっと苦しいかも……」

「ほらほら。もうちょっとだから、頑張って頑張って」

「みさおちゃんと長森さん、足速いんだねぇ」

「うーん……多分、毎朝1500mマラソンにフル出場してるからだと思うよ……」

「はぁ……お兄ちゃんがもっと早く起きてくれたら、余裕を持って登校できるんですけど……」

みさおちゃんと長森さんを先頭に、神社へと続く坂道を上っていく。みさおちゃん・長森さん・佳乃ちゃん・藤林さんは涼しい顔でどんどん坂道を上っていくけど、その後ろから間を開けて付いてくる折原君と真琴ちゃんはいささか苦しそうだった。確かに、朝からこの急な坂道はちょっと辛いかもしれない。ちなみに、僕は佳乃ちゃんのすぐ隣に付いて歩いている。そんなにきついとは思わない。

「もうすぐ神社だから、頑張って登ってねぇ」

「あ、あうぅぅ……」

「これで神主が穴を埋めてたら、この神社に空を飛ぶ不思議な巫女を寄越してやる……」

折原君は謎の恨み言を吐きながら、重そうに足を上げて坂を上っていった。

 

「とうつき~」

「さーて。どの辺りにその穴があるのかしらねぇ……」

「噂だと、ご神木の辺りにあるって聞いたが……」

一同揃って神社に到着すると、早速問題の穴を探して行動を開始した。あちこち目を凝らし、穴ぼこだらけになっているであろう地面を探す。

……ところが。

「……あれ?」

「真琴ちゃん、どうかしたの?」

探し始めた途端、不意に真琴ちゃんが足を止めた。そのまま難しい顔をして、しきりに何かに耳を傾けている。場が急にしんと静まり返り、真琴ちゃんに一同の視線が集まっていく。

「何かあったんですか?」

「えっと……ごめん。みんな、ちょっと静かにして……」

そう断ると、真琴ちゃんは一歩ずつ、神社の中へと歩いていく。その後ろについて、残る五人が続く。

「……どうしたの?」

「……何か聞こえるの。ざっ、ざっ……って」

「……ホントだねぇ」

「佳乃も聞こえる?」

「聞こえるよぉ。何か掘ってるみたいだねぇ」

「本当か……? とりあえず、その方向を教えてくれ」

「たぶん、こっちだよぉ」

佳乃ちゃんと真琴ちゃんが先頭に立って、残りのメンバーを率いていく。僕は佳乃ちゃんの隣について、その音の出所を一緒に探った。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

押し黙ったまま、忍び足で神社の中を進む。それはだんだんと右にずれていき、神社を取り囲む森の中へと進路を変えていく。

「……あっ。確かになんか掘ってるっぽい音が……」

「うん……私も聞こえたよ」

「……私も聞こえました」

「……俺もだ。向こうの方から聞こえてくるぞ」

「うん。間違いなく向こうよぅ」

忍び足を重ね、僕らは進んでいく。木々の間を抜け、静かに土を踏みしめ、そして……

……そして。

幾本目かの木の裏に、佳乃ちゃんたちが回りこんだとき――

 

 

「……………………」

――ただ一人穴を掘り進める、幼い少女の姿があった。

 

 

――「水たまりの空」第一部 完 ――

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。