「……………………」
夜、いつものように筋トレを始めようとしたオレの目の前に、残酷な事実が突きつけられる。オレは鞄を前にし、その事実にただ愕然としていた。
「なんてこった……」
「どうしたの真人? なんか柄にも無く青い顔しちゃって……」
「何ぃ……オレの顔には剃り残しのヒゲがあって青髭になっちゃってるだぁ?! 明日朝剃るから関係ねーだろっ!」
「そんなこと誰も言ってないよ……」
理樹とやり取りをしつつも、オレは鞄の中を探し続けていた。おかしい、何かの間違いだ。いつもはこの中にあるはずなのに、今日に限って無いという方がおかしい。一体、どこに消えちまったんだ。
「何か探してるの?」
「ああ……オレの命と筋肉と理樹の次ぐらいに大切なものだ……」
「僕が三番目に来てるのはちょっと嬉しいけど、そんなに大切なものなの?」
「ああ。どれくらい大切かってーと……」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……命と筋肉と理樹の次ぐらいに大切なものだな」
「いや、それさっきも聞いたから……」
隣でため息を吐く理樹はともかく、今のこの状況はまずい。このままでは、オレの日課である筋トレができなくなってしまう。もしそんなことがあれば、このオレの筋肉たちが嘆き悲しむ。そんな事態だけは避けなきゃいけねえ。
「ちくしょう、どこに行っちまったんだ……」
「そういえばさ、一体何を探してるのさ」
「鉄アレイだよ。いつも使ってたやつなんだが、今日に限って見つからなくてな……」
「……ひょっとして、お昼休みにクドと一緒に遊んでたあれ?」
「……………………」
そう言われ、昼休みの時の状況を思い返してみる。
――回想開始――
「わふ~……井ノ原さんは、いつもこれで体をきたえているんですかっ」
「ああ。クド公もやってみな。いい筋肉質になれるぜ」
「はいっ。それでは、早速やってみますっ!」
「よし! じゃあオレが掛け声やってやるから、それに合わせて上げたり下げたりしてみろ!」
「はいなのですっ! わふーっ!」
「っしゃーっ! 筋肉、筋肉ーっ!」
「筋肉、筋肉ーっ!」
「その調子だ! 筋肉、筋肉ーっ!」
「わふーっ! 体は筋肉でできているのですーっ!」
「もいっちょ! 筋肉、筋肉ーっ!」
「わふーっ! 筋肉はあるよ、なのですーっ!」
――回想終了――
「……うおぉーっ!! そういえばそんなことがあったのを今思い出したーっ!!」
そうだ……そんなこともあった。というか、あの時しか考えられねえ。どうして今の今までそのことを忘れてたのか、むしろそっちの方が気になってきたじゃねえか。クド公と一緒に遊んだ後、そっから先は鉄アレイに触った記憶もない。置き忘れるとしたら、あの時くらいだ。
「その時に忘れちゃったんじゃないかな? 多分、机の中に入ってると思うよ」
「そうだな……よし。じゃあ、ひとっ走り取ってくるか」
「今から行くの? もうすぐ恭介達も来るし、明日にしたら……」
「いや、それはできない相談だ。あの鉄アレイは、オレの命と筋肉と理樹の次に大切なものだからな。いつも手元に置いておきたいんだ」
「それだったら、最初から忘れないようにしようよ……」
留守番は理樹に任せて、オレは忘れ物を取りに行くこととしよう。今から行けば……まぁ、十分くらいで帰って来られるだろう。鉄アレイが手元に無いままじゃ、おちおち眠れもしないからな。
「というわけだ。理樹、留守番頼むぜ」
「分かったよ。恭介たちが来たら、後から来るって伝えておくよ」
「ああ。任せたぜ」
オレはそう言い残し、部屋のドアを開けた。
「……しっかしオレとしたことが、鉄アレイを忘れちまうとはな……」
夜の校舎を眺めつつ、裏にある非常口へと向かう。七時になると渡り廊下が施錠されてしまうので、それ以降は非常口を使って中に入るしかない。その非常口も八時以降は使えなくなるから、さっさと取りに行って戻ってくるのが一番だ。
「……とは言え、いくつか鍵のかかってない窓もあるにはあるんだがな」
以前恭介たちと肝試しをしたときは、その窓が役に立ってくれた。一箇所進入口を見つけておけば、後は中からすべての鍵を開けられるからだ……いや、開けられるのはいいんだが、あの後恭介はきちんとすべての鍵を閉めていた。一体、どこから鍵を調達したんだ?
「まぁ、恭介のことだからな……どうせまた何か……ん?」
寮から非常口へ向かう道の途中には、この学校の正門が見える場所がある。オレが何気なくそこに目をやってみると、何やら小さな影が動いているのが見えた。ふと気になって立ち止まってみると、それは校門の辺りをうろちょろと動き回っている。
「なんだ? こんな時間に……」
オレが言えたことじゃないが、ここはこんな時間にうろつくにはおかしな場所だ。オレはそいつのことが気になり、しばらく目を凝らして見つめてみた。向こうはまだオレの存在に気づいていないのか、校門の前で行ったり来たりを繰り返している。
「……………………」
手に何か抱えているように見えるが、夜の暗さと距離もあって、それが何かまでは分からない。うろうろ歩いている様子から察するに、どうやら何か困っているように見えなくも無い。心なしか、足取りも不安げだ。
「……行ってみるか」
どうせ大したことにはならないだろう。オレはそう考え、校門に向かって歩き始めた。
「……………………」
今更になって思い出したが、オレも忘れ物を取りに行かなきゃいけなかったはず……まあ、その忘れ物の場所は分かっている。いざとなったら窓から入りゃいいし、少しくらい遅れても理樹なら上手く説明してくれるだろう。気にするほどのことじゃない。
「……で、あいつは……下級生か?」
近づくにつれ、校門の側にいるやつの輪郭が見えてくる。背丈は低めで、この学校の制服を着ている。多分だが、下級生だろう。ついでに付け加えると、間違いなく女子だ。男子でスカートを履いているやつはいない。ああ……そう言えば、前に理樹に死ぬほどよく似た女子がいたような気がするが、それはまた別問題だ。
(手に持ってるのは……何だありゃ? ノートか何かか?)
さらに近づいてみると、下級生の持っているものも見え始めてくる。やけにでかいノートのように見えるが、そもそもあんなにでかいノートなんかあっただろうか? むしろこう、鉄板か何かにも見える。鉄板を持った少女? ああ……そう言えば、隣のクラスにそれっぽい名前のやつがいたな。えーっと名前は……幸村? いや、里宗? って、んなこたぁどうでもいいんだ。
「……………………」
声をかけられそうな位置まで来たが、あいつはまだオレの存在に気づいていない。困った様子でうろちょろするばかりで、周りにまったく目が向いていないようだ。待っていても埒が明かなさそうなので、オレから声をかけてみることにする。
「おい、こんなところでどうしたんだ?」
「!!!」
誰かから声をかけられるとは想像もしていなかったのか、下級生は驚いて飛び上がった。まさか声をかけられて本当に「飛び上がる」ほど驚くやつがいるとは……オレはむしろそっちの方が驚きだぞ。
「こんなところで何やってんだ?」
「……………………」
「一人なのか?」
「……………………」
「一年生か?」
「……………………」
校門ごしに話しかけてみるが、相手は一向に答えようとしない。間の抜けた表情で、ただオレのことをじーっと見つめるばかりだ。とりあえず悪意は無さそうだが、話が前に進まないのも間違いない。一体、どこから手を付けたものやら。
「学校に何か用か?」
「……(こくこく)」
「てことは、お前は自宅通学組か?」
「……(こくこく)」
「もう一度聞くが……学校に用があるのか?」
「……(こくこく)」
一応事情は聞き出せた。学校に用があるらしいが、こんな時間に一体何をしに来たんだ? ま、どっちにしろ学校に入れなきゃ意味が無い。ちょっくらこいつを中に入れてやるとするか。
「よし。今ここを開けてやるから、こっちに来い」
「……(ふるふる)」
「嫌々って、お前学校に用があるんだろ?」
「……(こくこく)」
「なら、オレが開けてやるから、中に入れよ」
「……(ふるふる)」
「何が嫌なんだよ。ひょっとして、オレが怖いのか?」
「……(こくこく)」
「全力で頷くんじゃねえ!」
「……(ふるふる)」
つくづく分からないやつだ。学校に入りたいが、目の前にいるオレが怖いと来てやがる。確かに背丈はオレの方が大分高いが、そこまで怖がられるとちょっとショックだぞ、オレは。背丈はクド公と同じくらいだが、こいつは手間のかかりそうなやつだ。それより、さっきから一言もしゃべってないのも変だな……恐怖で口が開かないとかなのか?
「分かったよ。開けた後向こうに行ってやるから、とりあえず中に入れ」
「……(こくこく)」
ようやく納得したのか、校門の前でぴたりと足を止める。オレは端にある鍵に手を掛けると、それをなるべく音を立てないよう静かに引いた。鍵が外れ、校門が開くようになる。そのまま力づくで門を押し、下級生が入れるだけのスペースを作ってやった。
「ほら、開いたぞ」
「……(こくこく)」
下級生はちらちらと周りの様子を窺いながら、恐る恐る学校の中へと入った。オレはそれを確認し、念のために門を閉めておく。鍵をしっかり掛け、改めて下級生の姿を見やる。
(……スケッチブックか?)
手に持っていたのは鉄板などではなく、絵を描くときなんかに使うスケッチブックだった。なんでまたそんなものを持ち歩いてるのかは分からなかったが、何やら大切そうに抱えている。よく分からないが、まあ大切なものなんだろう。
「……で、どうしたんだ?」
「……………………」
入ってきた下級生に声をかけるも、相変わらずの無言。ただ、さっきよりかは落ち着いている気がする。無言といってもこちらのことは気にしているようだから、あまり腹は立たない。ただ、何も答えられないとオレとしてもどうしようもない。何でもいいから、とりあえずしゃべってくれ。
「黙っててもしょうがねえだろ。ほら、なんか言ってみろ」
「……………………」
「ん? どうした?」
オレの言葉に反応したのか、下級生が自分の右奥を指差す。示された方向に目を向けてみると、そこにはぼんやりと地面を照らす電灯が一つ。なんだ? 電灯の下に何かあるのか? 見たところ、特に変わった様子は無いが……
「向こうに何かあるのか?」
「……(こくこく)」
「何が何だか知らねえが……何かあるんなら、向こうに行ってみるか」
そう言い、オレは電灯の下へ向かう。そのすぐ後ろを、下級生がおぼつかない足取りでついてくる。
「ほら、付いたぞ。で、ここに何があるんだ?」
「……………………」
間もなく、電灯の下に辿りつくオレと下級生。オレの言葉に下級生はしばらく無言のままでいたが、不意にポケットへ手を突っ込み、そこから何かを取り出した……なんだ? これから何を始めるつもりなんだ?
「なんだそりゃ? マジックか?」
「……(こくこく)」
ポケットから取り出したのは、何の変哲も無い黒のマジックだった。そしてキャップを丁寧に外すと、
(ばららっ)
手に持っていたスケッチブックを開き、そこにいきなり何かを書き始めた。
「……(きゅっきゅっきゅっ……)」
「……………………」
程なくして、下級生がその手を止める。描いていたものが出来上がったんだろう。マジックにキャップを被せてポケットにしまいこむと、完成したばかりの何かが描かれているスケッチブックを、おもむろにオレへと向けた。
『忘れ物しちゃったの』
「忘れ物か……それで、あんなところでうろついてたわけだな?」
「……(こくこく)」
小さく頷き、下級生がその顔を俯けさせる。これでようやく、こいつがここにいる目的が分かったわけだ。
「そういうことか……で、お前誰だ?」
「?」
「いや、お前だよお前。どこの誰なのか、まだオレ聞いてねえぞ?」
「……………………」
オレの言われたことに合点がいったのか、下級生は新しいページをめくり、そこにまた何か書きつけ始めた。多分、今度もまた何か言いたいことを書いているのだろう。
「……(きゅっきゅっきゅっ)」
「できたか?」
「……(こくこく)」
頷きながら、下級生がスケッチブックをこちらに向けた。
『上月澪』
「……………………」
……やべぇ。素で読めねぇ。多分「上月」までが苗字で「澪」が名前だと思うが、「澪」の読み方が分からねえ。なんだっけか……これにすっげえ似た漢字があったんだ。それさえ思いだせりゃあこっちのものなんだが……
「……えーっとだ……」
「……………………」
「……うえつきしずく?」
「……(ふるふる)」
……ちくしょう、「しずく」じゃなかったか。じゃあ、今度は……
「……かみづきぜろ?」
「……(ふるふる)」
なにぃ……「ぜろ」でもないだと……これは超難関だぜ。オレの頭がオーバーヒートだ。なら……こいつはどうだ?!
「じゃああれだ、こうげつれい」
「……(ぶんぶん)」
なんてこった……「れい」でもないなんて……こりゃあひょっとすると、漢字じゃねぇのかも知れない。いや、もしかしたら日本の漢字じゃないだけで、中国とか台湾の方の超難しい漢字なのかも知れねぇ。うぉーっ!! ますます分からねぇーっ!!
と、オレが苦悩していると。
『こうづきみお、なの』
「何? こうづきみお?」
「……(こくこく)」
……ああ、そういえば「澪」は「みお」って読むんだったな。一週間前に漢字のテストで出てたのを、今更になって思い出したぜ。あの時は別の漢字に苦しめられてたからな、「澪」は想像の範疇に無かった。
「上月澪、だな。オレは二年の井ノ原真人。分かるか?」
「……(こくこく)」
これで自己紹介は終了だ。ようやく、お互いを名前で呼び合えるようになったわけ……
「澪……みお……」
「?」
……いや、ちょっと待て。「みお」といえば、そういえば……
「一つ聞いていいか?」
「?」
「お前、西園の知り合いか?」
漢字だけが違って読み方が違うのはかなり珍しい。しかも「みお」だ。オレも今まで一人しか聞いたことの無い、超レアネームだ。こりゃあ、何か関係があるに違いねえ。ひょっとすると、西園の生き別れになった妹とかそういうのかも知れねえ。
「??」
「何? 知らない? お前、西園の妹とかじゃないのか?」
『澪は一人っ子なの』
「なんだ、別人か……知り合いにも『みお』ってやつがいるから、てっきり妹かと思ったぜ」
「……(ふるふる)」
どうやら違うようだ。名前の読みが同じだから絶対に関係あると思ったが、西園とは関係ないらしい。まあ雰囲気も違うし、あいつに妹がいるって話も……いや、聞いたような聞かなかったような気もするが、まあとりあえずいないはずだ。
(……にしても、ずいぶんまどろっこしい会話だな……)
ふと思い返してみると、上月はスケッチブックを使ってオレと会話している。会話は成立しているが、はっきり言ってまどろっこしいことこの上ない。なんでまたこいつは、一言もしゃべろうとしないんだ? 別にスケッチブックなんか使わなくても、普通に会話すりゃいいじゃねえか。
「なあ、上月。お前、なんでスケッチブックで話してんだ?」
「?」
「別にそんなもん使わなくても、口でしゃべりゃあいいじゃねえか」
オレがそう言った時だった。
「……………………」
上月はオレの目を見つめながら、その小さな口をぱくぱくして見せた。俺は上月が何を言いたいのか分からず、とりあえずその様子をじっと見つめてみる。一体、どういう意味なんだ? 目の前で口パクされても、俺にはちっとも意味が……
(ん……? 待てよ、そう言えば……)
……待て。一つ思い出したことがある。この学校に通っている、少し変わった一年生の話だ。
(そいつは確か女の子で、口が……)
そうだ。そんな話だった。聞かされたのは、確かクド公からだった気がする。この学校にはちょっと変わった生徒が何人か通っていて、その中に一人、特に変わったやつがいる……
「上月、お前、もしかして……」
「……………………」
「……しゃべれないのか?」
「……(こくこく)」
オレの予感は的中した。上月はしゃべらないのではない、しゃべれないのだ。
(この学校には、目の見えないやつとか腕が不自由なやつも通っていると聞いたが……まさかこいつが、『しゃべれない』やつだったとはな……)
通りで今まで何もしゃべらなかったわけだ。しゃべろうにも、元々口がきけないのだからどうしようもない。スケッチブックを通して会話していたのも、間違いなくそのせいだ。
「電灯の下までオレを連れてきたのは、スケッチブックがよく見えるようにするためか?」
「……(こくこく)」
すべて合点がいった。こいつが今の今まで無言だった理由も、電灯の下まで連れてこられた理由も、スケッチブックにいちいち言いたいことを書いていた理由も、すべて一つに繋がった。こいつがしゃべれないこと。それがすべての理由だった。
「そういうことだったんだな。気づかなくて、悪かったな」
「……(ふるふる)」
上月は恐る恐る首を振り、スケッチブックで顔を半分ほど隠しながら、こちらの様子をちらちらと窺っている……多分、オレが怖いことは変わらないのだろう。さっきよりかは落ち着いているが、まだ怯えているのは同じだ。
「とりあえずだ、お前は忘れ物をしたんだよな?」
「……(こくこく)」
「それなら、早く取りに行った方がいいぞ。非常口は八時になると閉まるから、早くしねえと入れなくなるしな」
オレは非常口のある方向を指差し、上月に行くよう勧める。オレと一緒じゃ、怖がってまともに探し物もできねえだろうし、それなら一人で行ってさっさと戻ってくる方がいい。オレはそう考えた。
「……………………」
「……どうした?」
……が、上月は行く気配を見せない。スケッチブックから目だけ覗かせながら、さりげなくこちらに目線を送ってくる。一体こいつが何をどうしたいのか、オレにはさっぱり分からねえ。オレが怖いのなら尚更一人で行きゃいいのに、一体どうしたんだ?
「なんだよ、行かねえのか?」
「……………………」
「悪いが、俺も忘れ物を取りにいく途中だったんだ。お前が行かないなら、オレが先に行くぞ」
「!」
「じゃあ、気をつけてな……っておい、服を掴むなっ! 伸びたらどうするんだっ!」
「~~~!」
上月をその場に残して一人で校舎に向かおうとしたとき、上月がいきなりオレの服をがっしと掴み、その首をぷるぷると横に振った。多分、行かないで欲しいという意思表示なのだろう。とりあえず服が伸びるのは困るので、オレはその場で立ち止まる。
「分かった分かった……行かねえから、とりあえず服から手を離せ」
「……………………」
オレの言葉を受け、上月は服からぱっと手を離した。そしてそのまま二歩三歩と下がり、再びスケッチブックで顔を隠す。本当に分からないやつだ。ただ、不思議と腹は立たなかった。なんというか、小動物みたいなやつだと思った。
「とりあえず、お前はどうしたいんだ?」
「?」
「忘れ物を取りにいきたいんだろ? なら、早く行きゃいいじゃねえか」
「……………………」
そう言うと、上月はスケッチブックを手に取り、そこにまた何やら書き込んでいく。オレがその場でしばらく待っていると、上月は言いたいことを書き終わったのか、スケッチブックをオレの方に向けてみた。
『怖いの』
「オレがか? だから、それなら一人で行きゃいいって……」
『暗いのが怖いの』
「……何? 夜で中が暗いから怖いのか?」
「……(こくこく)」
どうやら上月は夜の校舎が怖いらしい。いやまあ、オレだって好き好んで行きたいとは思わねえが……
「じゃあ、オレは怖くねえのか?」
「……(ふるふる)」
「怖いんじゃねぇか……なら、一人で行って来い」
「……(ふるふる)」
「どっちも怖いのかよっ!」
「……(びくびく)」
本当にどうしろっていうんだ。オレが怖い、そして夜の校舎も怖い。どっちも怖いじゃ、埒が明かない。
「お前は一人で忘れ物を取りに行くのが怖い」
「……(こくこく)」
「で、オレと一緒に行くのも怖い」
「……(こくこく)」
「でもこんな時間に学校に来るくらいだから、忘れ物は絶対に取りにいきたい」
「……(こくこく)」
「……どうするつもりなんだよ。どれか選ばなきゃいけねえんだぞ」
「……………………」
「一人で行くか、オレと一緒に行くか、それとも忘れ物を諦めるか」
「……………………」
「夜の校舎か、オレか、忘れ物のどれかだ。どれか一つ選べ」
「……………………」
オレが上月に選択を迫ると、上月はスケッチブックを胸に抱き、おもむろに考え始める。
「……………………」
「……………………」
かなり迷っているようだったが(何度かそれぞれ校舎と校門の方に足が向きかけたのが見えたからな)、上月は……
「……(ぎゅっ)」
「……あんまり引っ張るんじゃねえぞ。伸びたら元に戻らねえんだからな」
……結局、オレと一緒にいる怖さを選んだようだった。
非常口を開け、校舎の中に入る……
……が。
「あのなぁ……」
「……(がたがた)」
大方の予想通り、
「分かってるとは思うけどな……」
「……(ぶるぶる)」
オレのすぐ隣では、
「お前に掴まれてたんじゃ、進めねえじゃねえか……」
「……(ふるふる)」
上月が震えて立ち止まってしまっていた。よほど暗闇が苦手なのか、オレの服にしがみついて一向に離れようとしない。当然オレも進むに進めないし、上月も進めない。非常口の前で固まる男女二人。傍から見るとかなりマヌケだろうな、多分。
「いいか? 忘れ物を取りに行くだけじゃねえか。さっさと行ってさっさと行きゃ、それで済む話だろ」
「……(こくこく)」
「何かありゃオレに掴まっていいから、とにかく行くぞ」
オレがそう促すと、上月はようやく決心が付いたようで、オレの後ろについて恐る恐る歩き始めた。これでようやく、まともに学校の中を歩けるようになったわけだ。さっさと忘れ物を見つけて、俺も寮に帰らないとまずい。
(しっかし、夜の校舎ってのはこんなにも雰囲気が変わるもんなんだな……)
前にも肝試しで校舎に入った事はあるが、その時は理樹や恭介も一緒だったから、いつもと大して変わらない感じがした。が、今はどうだ。怯えるばかりの上月とオレの二人だけで、やけに静かな廊下を歩いている。雰囲気が違うと感じるのも、まあ当然だ。
「で、上月。お前は何を忘れたんだ?」
「……………………」
「オレは教室に鉄アレイを忘れちまったんだ。お前の忘れ物は何だ?」
そういえば、まだ上月の忘れ物を聞いていなかった。一体何を忘れたのか気になり、オレは上月に問いかけてみた。
「……(じーっ)」
上月はしばらくオレの目を見つめていたが、やがておずおずとマジックを取り出し、例によってスケッチブックに文字を書き込んでいく。オレがしばらく待つと、上月はそれを書き終わり、俺にスケッチブックの内容を見せた。
『スケッチブックなの』
「……………………」
その突拍子もないというか、理解しがたい内容に、しばし固まるオレ。上月は硬直したオレを不思議そうな表情でもって、やや距離を取りつつ眺めている。
「なあ、上月」
「?」
オレはかなりの確信を込め、上月にこう問いかけた。
「お前、ひょっとしてアホな子か?」
「……(ぶんぶんっ)」
どう考えてもアホな子としか思えなかったのだが、本人曰く違うらしい。だが、こいつはどう考えてもアホな子だ。間違いなく謙吾といい勝負ができるくらいのレベルだな……いや、あいつは馬鹿だから、そもそも目差している方向が違うか。
「だってお前……スケッチブックって言ったって、もう持ってるじゃねえか」
「……………………」
ごく当たり前のことを指摘してみると、上月は少し顔を俯けさせ、スケッチブックを胸の中に抱いた。
「……………………」
「……………………」
何か思うところがあるのだろうか。オレはそれ以上急かさず、上月の次の「言葉」を待ち続ける。そうして待っていると、やがて上月が顔をあげ、ポケットにしまいこんでいたマジックを取った。
「……(きゅっきゅっきゅっ……)」
「……………………」
いつものようにスケッチブックの新しいページに言いたいことを書き付けると、上月はまたしてもいつものように、オレに書き終えたスケッチブックを見せた。
『もう一冊あるの』
「もう一冊? それとは別ってことか?」
「……(こくこく)」
上月は頷きつつ、そこへさらに何かを書き足していく。
『大切な人からもらった、大切なスケッチブックなの』
「そんなに大切なものなのか……?」
「……(こくこく)」
静かに頷く上月の表情は、どことなく浮かないものだった。その様子を見ていると、上月がそのスケッチブックをどれだけ大切にしているかが分かる気がした。こんな夜遅くにまで学校へ取りに戻るくらいだ、それも当然か。
「そうか……それなら、さっさと取りに行った方がいいな」
「……(こくこく)」
「よし。じゃあ、一年生の教室のある四階まで上るぞ」
オレは上月を引きつれ、近くにあった階段を上りはじめた。
「さすがに誰もいないか……いや、いたら困るけどな」
「……(こくこく)」
上月と共に、三階まで上る。四階へと続く階段は数が限られていて、オレと上月が上った階段じゃ三階までしか上れない。四階へ行くためには、三階の廊下を通って別の階段へ行かなきゃいけないってわけだ。
「……(がたがたぶるぶるびくびくふるふる)」
「……というか上月、いくらなんでも、そんなに怖がらなくてもいいだろ」
隣にいる上月はなんとか付いてきているものの、階を上がるごとにどんどん震えが増している気がする。確かに暗いことは暗いが、そこまで怖がるほどのものか? ……いや、こいつの場合、オレと一緒にいるのが怖い、ってのもあるかも知れないが……
「とにかく、ここにいても上には行けねえからな。向こうの階段まで行くぞ」
「……(こくこく)」
とは言え置いていくわけにもいかない。オレは時折上月を励ましつつ、三階の廊下を歩き始める。
「……いやに静かだな……」
「……………………」
リノリウムを叩く無機質な音が、やけに大きく木霊する。いくらなんでも静か過ぎると思った。あまりにも静か過ぎて、逆に何か出てきそうな……そんな雰囲気がした。
「……………………」
「……………………」
上月がオレの服を掴むが、オレはもう何も言わなかった。正直、この雰囲気はオレも居心地のいいものじゃない。怖がりの上月なら、尚更何かにすがりたい気持ちだろう。もともと伸び気味の服だ、今更ちょっとやそっと伸びたくらいでどうってことはない。
「もうすぐ階段だぞ。しっかり歩けよ」
「……(こくこく)」
しかし、怖がりながらもちゃんと付いてくる上月は大したもんだ。よっぽどそのスケッチブックに思い入れがあるらしい。一体何が書いてあるのかは知らねえが、まあ上月の大切なものなんだからそれなりにいいことが書いてあるんだろう。例えば――
(シャッ!!)
「!!」
「?!」
暢気にそんなことを考えていたとき、俺の目の前を何かが飛んでいった。オレは驚いてその場に立ち止まり、上月はまた飛び上がって驚いた。なんだ……? 今のは……
「何だ……? 虫か何かか……?」
「……(ぶるぶるびくびく)」
オレは平静を装ってはいたが、内心かなり驚いていた。隣の上月に至っては今にも泣き出しそうな表情で、遠目から見ても分かるくらいぶるぶる震えている。こりゃまずい。静か過ぎる廊下が、逆にこの空間の緊張感を異常に高めていた。
「……………………」
「……(がたがたふるふる)」
服を掴んで怖がり続ける上月にも気を配りながら、オレはさっき近くを横切った「何か」の正体を掴もうと躍起になる。息を潜め、相手の次の行動に神経を尖らせる。まだあの「何か」は近くにいる……それも、明らかにオレ達を狙って。
「……………………」
「……………………」
オレが一瞬廊下の先に目を向けた――その時だった。
(ヒュンッ!)
「危ねえっ!」
「!!!!!」
そいつはいきなり真正面から飛んできやがった。オレは咄嗟に身を投げ出し、上月に向かって恐ろしい速さで飛んできた「そいつ」を胸板で受け止めに入る。
「?!」
不意を突かれた「そいつ」はオレにぶつかり、少しばかりひるんだようだった。そのまま盛大に羽音を響かせ、オレと上月から距離を取った。一旦距離が離れたことで隙ができた。オレは素早く後ろを振り向き、上月の姿を目に映す。
「おい上月! 怪我はねえか?!」
「……(こくこく)」
ほとんど泣きながら頷く上月。幸い怪我は無かったようだが、完全に怯えきっている。状況は危険なままだ。オレは涙目の上月の頭を、できる限り優しく撫でてやった。これで泣き止んでくれるとは思わねえが……何もしないよりかはマシだ。
「……………………」
一旦上月から目を離し、廊下の奥でホバリングしている「あいつ」の姿を見据える。
(あの野郎……くちばしで突付きやがったか?)
オレはオレで、「あいつ」に突付かれた胸に走る鋭い痛みを堪えていた。暗くてよくは分からないが、恐らくあいつはカラスかタカか……種類ははっきりしないが、とりあえず鳥だ。月明かりに映った影を見るに、それなりにガタイのでかいやつだってことは分かる。
「てめえ……ただじゃ済まさねえぜ」
オレは泣いている上月を背中に回し、「あいつ」と正面から対峙した。
「ギィィーッ!」
オレに睨まれたことで、「あいつ」は明らかに殺気立っている。上等じゃねえか! オレもてめえをぶちのめしたい気持ちでいっぱいなんだ。こうなったら、徹底的にやってやるぜ!
「来るなら来やがれ! オレはここにいるぜ!」
「ギェーッ!!」
甲高い叫び声を挙げながら、「あいつ」はオレに猛スピードで迫ってきた。だが、同じ攻撃を二度食らうオレじゃねえ。「あいつ」の真っ直ぐな動きを先読みし、オレは大きく拳を振りかぶる。
「うらぁあっ!」
「?!」
(バキッ!)
真正面からぶん殴る。正確には、くちばしの少し上辺りだ。くちばしをぶん殴ったんじゃ、こっちもダメージを受けかねないからな。少しだけポイントをずらし、やつの頭目掛けて拳を振り下ろした。
「……………………」
「どうだ? まだやる気か?」
頭を殴られたことで平衡感覚が乱れたのか、「そいつ」の飛び方が急に乱れ始めた。一気に攻めるチャンスだ。オレは再び構え、追い討ちとばかりにさらに拳を繰り出す。
「食らえぇっ!」
「……………………!」
だが。
(シュッ)
拳が空を切った。
「何ぃっ?!」
「ギィィイーッ!!」
そいつはオレをあざ笑うかのように声を上げると、オレの後ろへと回り込んだ。不意を突かれたオレに、なす術は無い。
(ガキッ)
後頭部に走る鋭い痛。
「ぐぁっ……!」
鳥のくちばしの硬さを、身をもって味わう。突付かれた場所が酷く熱を持ち、そこから波状に痛みが広がっていく。生暖かい感触がして、血が流れていることを悟った。こいつは……只事じゃねぇ。
「このっ……!」
オレは痛みを無理矢理抑え込みつつ、背後に回りこんだ「あいつ」の姿を追う。だが、既に背後にその姿は無い。焦燥に駆られつつ、見失った「あいつ」の行方を追う。
……だが、その時だった。
「ギィァァァーッ!!」
「!!!!!」
「何っ……上月ぃっ!!」
オレは今にも上月に襲い掛かろうとする「あいつ」の姿を目にし、無我夢中で上月目掛けて走り出した。オレと「あいつ」の速さはほぼ同じくらい。
「くそっ……!」
「……………………」
横に並んだ「あいつ」が一瞬ニヤけた顔をしたように見え、オレは思わず歯噛みした。このままじゃ、上月が襲われちまう……下手すりゃ、大怪我もありうる……それだけは、それだけは避けたかった。
(上月っ……!)
目に涙を浮かべ、絶望の色でいっぱいになった上月の顔が見える。成す術無く立ちすくむ上月の姿が、俺の目に映る。一人絶望の淵に立たされている上月の恐怖が、オレの心にも直接伝わってくる。
(オレは……オレはっ……!)
オレは……
「……うおおぉーーーーっ!!」
高く声を上げ、立ちすくむ上月へと飛び掛った。
「上月っ!!」
「!!」
そのままの勢いで揃って床へと倒れこむ形になり、
(シュッ)
飛び掛ってきた「あいつ」の攻撃をかわすことに成功する。
「くおぉっ……!」
俺は空中で身をよじり、上月が下敷きにならないよう体勢を立て直す。上月をできるだけ強く抱きしめ、床との衝突で生じる衝撃を和らげる。俺の体はストレートに廊下からの衝撃を受けるわけだが、そんなことはどうでもいい。とにかく、上月に怪我さえなけりゃいいんだ。
「……………………」
「……………………」
空中で一瞬、上月と目が合う。
「……………………」
「……………………」
怯え一色に染まったその目を、オレはどんな目で見つめていただろう? 上月から見たオレの目は、一体どんな目だっただろう?
(……安心しろ上月。オレ……いや、オレの筋肉がお前をがっちり守ってやるから、安心しろ)
……一瞬の後。
(ドシャッ!)
廊下へ倒れこむ。
「ぐおおぉっ?!」
「……!」
想像以上の衝撃に、思わず声が上がる。それでも、上月を抱きしめる力だけは緩めない。走りこんだときの速さがかなりのものだったせいか、それに比例……で合ってたよな。反比例じゃないよな……比例して衝撃もでかい。
「いててて……上月、大丈夫か?」
「……(こくこく)」
上月は無事だった。未だに涙目のままだったが、怪我は無さそうだ。オレはどうにか、上月を守ることができたわけだ。やれやれ、普段から鍛えておいた筋肉が、これ以上無く正しく活かされた格好だぜ。
「よし……お前はここにいろ。後はオレに任せとけ。いいな?」
「……こくこく」
オレは上月を廊下の端へと座らせると、
「ギィィィ……」
低い唸り声を上げ、相変わらず戦意剥き出しの「あいつ」に目を向けた。
「てめぇ……よく聞け」
「……………………」
「オレは今……猛烈に怒ってるぜ。つまりは……」
「……………………」
「オレの怒りが……有頂天に達したって訳だ! 分かるか!?」
「……………………!」
「分からねえなら教えてやるぜ……その体によぉ!!」
低空を飛んでいた「あいつ」目掛け、オレが渾身の力を込めて拳を振り下ろす。
「うらぁぁあっ!!」
「!!」
拳が風を切る。
(ゴォッ)
その速さは、どうやっても見切れるものなんかじゃねぇ。
「……!」
動いたときには、もう遅い。
(バキャァッ)
手ごたえ、あり。
「グ……ェ……」
「……決まったな」
カエルを捻り潰した時のような声を上げ、「そいつ」は廊下の床へその身を落とした。見るとぴくぴく震えているので、まあ多分死んではいないが、少なくとも三日くらいはまともに空を飛ぶことさえできないだろう。これくらいでちょうどいい。
「筋肉のフルコース、その身で堪能させてやったぜ」
「……………………」
最後にそう言い残し、オレは端で座り込んでいる上月の下へと歩いていった。
「おい上月、大丈夫か?」
「……………………」
上月は惚けたように口を開け、オレのことをじっと見つめている。さすがにあんなことがあったあとじゃ、すぐに立ち上がるなんてことはできないか……あの中でもスケッチブックを手放さなかったのは、さすがだと思ったが。
「ほら、そんなとこにいつまでも座ってたら、服が汚れちまうぞ」
「……(こくこく)」
ようやく今の状況に気づいたのか、上月が小さく頷く。オレは上月の手を取ってやり、ゆっくりとその場で立ち上がらせてやった。制服に付いた埃を払い、上月がオレの顔をじっと見つめる。
「まあ色々あったが、怪我しなくてよかったな。服は汚れちまったが、まあ洗えばすぐだろ」
「……………………」
上月はオレの目をじーっと見つめ続けていたが、やがて思い出したようにポケットへと手を突っ込み、いつものようにマジックを取り出す。
「……………………」
「……………………」
そして、上月がスケッチブックに書き付けた言葉は――。
『守ってくれて、ありがとうなの』
……そのストレートさに、オレは思わず苦笑した。
「大したことじゃねえよ。怪我が無くて、良かったな」
「……(うんうんっ)」
今までよりもずっと力強い頷きに、オレも心なしか嬉しい気持ちになったから、不思議なもんだ。
「お前の教室はここか?」
「……(こくこく)」
四階へと上り、上月の教室へと入り込む。教室の鍵は閉まっていたが、下の窓は開きっぱなしになっていた。体の小さな上月が中に入り込み、中からロックを解除する。それを確認してから、オレも教室の中へと足を踏み入れた。
「……………………」
上月はまっすぐ自分の机へと向かい、その中へとおもむろに手を突っ込んだ。
「あったか?」
「……(うんうんっ)」
懐かしい感触が伝わって安心したのだろう。上月は机から古びたスケッチブックを引っ張り出し、机の上へと丁寧に乗せた。
「良かったじゃねえか。お前の大切なスケッチブックなんだろ?」
「……(うんうんっ)」
嬉しそうに頷く上月の頭を、オレは優しく撫でてやった。上月は嬉しそうに体をよじらせ、オレの体にくっついてくる。ずいぶんと手を焼かされた気もするが、今の様子を見ているとそれもどうでも良くなってくる。つくづく、不思議なやつだ。
「……………………」
上月の頭を撫でてやりながら、オレは机の上に置かれた古いスケッチブックに目をやる。それは相当使い込まれていて、表紙はもうボロボロになっていた。適当な推測だが、恐らく上月がまだ子供の頃に作られたスケッチブックだろう。色のあせ方や端の破れ具合から、かなり年季が入っているのが分かる。
「……なあ、上月」
「?」
「このスケッチブック、誰からもらったものなんだ?」
オレがそう問いかけると、上月は。
「……………………」
机の上に置かれていた古いスケッチブックを手に取り、今使っているスケッチブックと共に、その小さな胸に抱きこんだ。
「……………………」
「……………………」
上月が目を閉じる。オレは近くの椅子に座り、上月がこれから何を伝えようとしているのか、静かに待ち続けた。思い入れのある品物なんだろう。上月はそれを抱きしめることで、そこに込められた思い出をよみがえらせている……多分、そうに違いない。
「……………………」
「……………………」
……穏やかな沈黙が、幾許か続いた後だった。
『えっとね』
「ああ」
『澪が小さい頃にね、スケッチブックをくれた子がいたの』
「……………………」
上月が……静かに、「語り」始めた。
『澪はしゃべれないから、その子とも話せなかったの』
『その子だけじゃなくて、他の子とも話せなかったの』
『だから、澪は一人ぼっちだったの』
一人ぼっち。
「お前……一人ぼっちだったのか」
「……(うんうんっ)」
その言葉が、オレの心にずしんと響く。
(……こいつも、一人ぼっちだった頃があったのか……)
一人ぼっち。
それは……
……昔のオレ、そのものだった。
『澪はしゃべれないから、お友達にうまく気持ちを伝えられなかったの』
『他のみんながしゃべってるのを見て、とっても寂しい気持ちになったの』
『みんなができて澪だけできないって、すごく辛いことだったの』
……分かる。
分かるさ、上月。
オレにだって、一人だった頃があったんだ。
(……何が原因だったかな……)
今となっては、その理由を思い出すこともなくなった。
誰かに笑われている。みんなから仲間はずれにされている。
今じゃもう、そんなことは感じない。
『でもね、その子がスケッチブックをくれたの』
『これでおしゃべりしようって、澪にプレゼントしてくれたの』
『それが、このスケッチブックなの』
……そうしてくれたのが、恭介と鈴だった。
オレを一人ぼっちから救い出してくれたのは、間違いなくあの二人だ。
そうして……今の毎日がある。今の日々がある。とてつもなく騒がしい、この毎日がだ。
(オレに……恭介がいたように……)
……そう。上月にも、一人ぼっちから救い出してくれたやつがいたわけだ。
あのスケッチブックは、上月にとって何よりの宝物に違いない。
オレが、あいつらとの関係を大切にしているように、上月もまた、あのスケッチブックを大切にしているのだろう。一人ぼっちという地獄に手を差し伸べてくれた、「友達」のくれたものなのだから。
オレが掛け替えの無い「仲間」をもらったように、上月も掛け替えの無い「言葉」をもらったのだ。
「……そうか。そういうことだったんだな」
「……(うんうんっ)」
上月の話を聞き、俺は久しぶりに落ち着いた気持ちになれた気がした。目の前にいる上月が、急に親しく思えてきたから、やっぱり不思議なもんだ。
「オレとお前、結構似てるぜ」
「?」
「体格は違うにも程があるが……まあ、いろいろとだ」
「♪」
上月は嬉しそうに、オレの体へと飛び込んでくる。オレは慌てず騒がず、飛び込んでくる上月を受け止めてやった。ばふっ、という音がして、俺の懐に上月が収まる形になる。
「どうやら、もうオレは怖くなくなったみてえだな。ま、オレとしてもいつまでも怖がられてるのもアレだから、さすがにそろそろ慣れてもらわねえとな」
「……………………」
「いろいろあったが、まあ楽しかったぜ。今からじゃ非常口も閉まってるから、窓を開けて帰ることになりそうだがな」
「……………………」
「帰りもオレが送ってやるから、心配する必要はねえぞ。お前一人放っておくのは、むしろオレの方が不安だからな」
「……………………」
「さて、今度はオレの忘れ物を取りに――って、上月? おい、上月?」
「……………………」
オレが上月に声をかけてみても、上月は何の返事もしなかった。
「上月……?」
目を凝らして耳を澄ませ、胸の中にいる上月の様子を窺ってみると……
「……………………」
「……眠っちまったか」
……上月は静かに寝息を立て、オレの胸の中で眠っていた。色々あった上にずっと気を張っていたものだから、疲れが一気に出たんだろう。
「おい、上月。起きろ、起きろって」
「……………………」
揺さぶったり声をかけたりしてみたが、上月が起きる気配はまるでない。そんなことはまるで気にしている様子も無く、とても気持ち良さそうに眠っている。
「……………………」
「……………………」
どうしようかとも思ったが……
「……………………」
「仕方ねえな……」
オレは眠り込んでいる上月の体を落とさぬよう、しっかりと静かに抱きかかえる。上月の体は軽くて、楽に支えてやることができた。
「理樹は心配するかも知れねえが……ま、明日になりゃ、どうにでもなるだろ」
理樹のことだ。恭介や謙吾にも上手く説明してくれるだろう。あいつは何だかんだで、こういう時は頼りになるやつだからな。ちょっとばかり筋肉が足りないのが、オレにとっちゃ不安なところではあるが。今度一緒に鍛えるように誘ってみるか。ああ、それがいいな。
「……………………」
「……お疲れさん、上月。ゆっくり眠れよ」
机の上に置かれた二冊のスケッチブックを眺めながら、オレは静かに、上月の寝息を聞き続けた。
――深まっていく夜を感じながら、オレは上月を抱きしめた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。