お昼休みのこと。
「ねえ鈴、ちょっと話が……あれ?」
理樹が鈴の名を呼んだとき、その場に彼女の姿はなかった。理樹は教室の中をぐるりと見回してみるが、幼馴染の少女の姿はどこにも見当たらなかった。困ったように周囲に目をやっていると、
「鈴を探してるのか? あいつなら、昼飯食ってすぐに教室出て行ったぞ」
「本当に? それじゃあ……」
側にいた真人が理樹に告げた。理樹は真人の言葉で凡その状況を把握したのか、小さくため息を吐いた。理樹には鈴がどこへ向かったのか、大体の見当がついていた。
「ちょっと話があったんだけどな……仕方ない。放課後にしよう」
「それがいいと思うぜ。よし理樹、昼飯も食ったことだし、一緒に遊ぼうぜ」
「うん。真人っ、筋肉、筋肉ーっ!」
「よっしゃ! 筋肉、筋肉ーっ!」
鈴への話は後回しにすることに決めた理樹が、真人といつものように遊び始めた――
――その頃。
「……………………」
鈴は無言で中庭へと続く道を歩いていた。廊下を抜け、教室の前を通り、渡り廊下へ向かう。昼休みということもあってか、行き交う人の数は少ない。鈴はいつもよりも早い調子で、中庭へと歩を進めてゆく。
「……今日は、ゲイツの日だ」
人知れず、そんなことを呟く。彼女の頬がかすかに緩み、それと反比例するかのごとく、彼女の歩みは速くなる。
「あいつはくせっ毛だからな。いっぱい毛づくろいしてやろう」
彼女の目的はただ一つ。昼休みになると中庭に集まってくる、この学校に住んでいる猫たちと遊ぶためだ。鈴はその猫たちの面倒も見ていて、こうして遊びに行くのもその一環である。
「今日はいつもより三十五秒早く食べ終わったからな。あいつらと三十五秒長く遊んでられるぞ」
一秒でも長く猫たちと一緒にいたい鈴にとっては、わずかな時間の余裕さえありがたいものだった。猫に囲まれている自分の姿を頭に思い浮かべ、鈴は頬をさらに緩ませた。
「……………………」
最後の角を曲がり、鈴が渡り廊下に辿りつく。そしてそこから横へ抜け、裏庭へと続く道へ足を踏み出した――
「……!」
――その時。鈴が何かの気配を感じ取った。普段は誰もいない裏庭に、今日に限って先客が来ている――鈴はごく僅かな雰囲気の違いで、裏庭の先客の存在を察知した。途端、鈴が表情を険しくし、口元をきゅっと閉じる。
「……………………」
見た目からはあまり想像できないが、鈴は人と接することが大の苦手だった。クラスでも理樹や真人といった幼い頃から行動を共にしている友人らを除き、友達らしい友達はほとんどいなかった。休み時間に猫たちと遊んでいるのは、そうしたことも一つの理由となっている。
「……………………」
鈴は息を潜め、校舎の角から裏庭の様子を窺う。体を晒してしまわぬよう慎重に行動しつつ、目線を裏庭の奥へと向ける。すると、そこには……
「……ねこさん、よしよし」
……見知らぬ上級生が一人、猫たちに囲まれながら立っていた。猫たちはその上級生に懐いているようで、彼女の足にくっついて離れない。
「にゃーん」
「……今はこの子だから、また後で……」
猫たちはしきりに抱いてくれとせがみ、上級生の足元に殺到している。上級生は頬を緩ませながら、猫たちを順に抱きしめてやっている。それは、とても楽しそうな光景だった。
「ねこさん……」
「うなー」
「……よしよし」
「……う~……」
物陰から上級生と猫の様子を見ている鈴が、困ったように唸り声を上げた。猫たちと一緒に遊びたいのはやまやまなのだが、見知らぬ人と鉢合わせしてしまうのは困る……その板ばさみにあっているのだ。
「……こまったな……出て行くと、間違いなく顔をあわせてしまう……」
時折ちらりと顔を出しては、それを慌てて引っ込める。鈴はそれを繰り返していた。相手はまだ鈴の存在に毛ほども気づいていないようで、猫とのふれあいに夢中になっている。その様子を見て、鈴は余計にもどかしさを募らせた。
「……う~……」
そうして、鈴が逡巡を重ねていると。
「にゃ?」
上級生の足元にいた一匹の猫が鈴の存在に気づき、彼女に向かって歩き始めた。
「……!」
その様子を見た鈴が慌てて身を隠すが、対する猫は鈴の姿をしっかりと認識したようで、迷うことなく向かってくる。それもそのはず。鈴に向かって歩いている猫は、鈴に一番懐いている猫――「ノイマン」という名が与えられていた――だったのだ。
「にゃー」
「こ、こらっ。こっちに来ちゃダメだ。あっち行けっ」
「うにゃー」
鈴が呼びかけても、ノイマンはその足を止めない。あっという間に彼女に近づき、足に顔をこすりつけはじめた。鈴は進退窮まり、その場に立ち尽くしてしまう。
「にゃーん」
「だ、ダメだダメだっ。そんなことしたら、気づかれるだろっ」
そう、鈴が声を上げた瞬間。
「……?」
「……!」
裏庭の奥にいた上級生が、ちらり、と鈴のいる角へ目をやった。鈴は足元にいたノイマンを抱いて咄嗟に身を潜めるが、互いの目と目はばっちり合っていた。今更物陰に隠れたところで、どうにかなるものでもない。
「……誰か……いる……?」
「い、いないぞっ。誰もいないぞっ」
「……………………」
誰もいない場所から返事が返ってくるわけがない。鈴は自分がさらに墓穴を掘ってしまったことにも気づかず、ただその場に立ち続けていた。鈴はこれからどうしようか、必死に考えていた……
「……う~……」
……のだが。
「にゃっ」
「あっ……こらっ、待てっ、行くなっ!」
抱いていたノイマンが突然飛び出し、裏庭に向かって走り始めたのだ。鈴は一瞬遅れて手を伸ばすが、さすがは猫だけあって、逃げ足の速さは素晴らしいものがあった。飛び出したノイマンを追いかける形で、鈴が身を乗り出す。
「にゃっ、にゃっ」
「ま、待てって言ってるだろー!!」
そして、その瞬間――
「……………………」
「……!」
……たくさんの猫に囲まれた上級生の前に、鈴が躍り出る格好となった。
「……………………」
「……………………」
無言のまま向かい合う二人。上級生の方は不思議そうな顔をして、その場に現れた鈴をじっと見つめている。対する鈴は驚きにも似た表情を浮かべ、裏庭に立っている上級生の顔を見つめている。
「……………………」
「……………………」
まったく何も言い出さず、ただ互いに相手を見詰め合う。しかし、その表情は対照的だ。好奇心にも似た表情を浮かべている上級生、完全に固まっている鈴。鈴の足元では相も変わらず、ノイマンがじゃれついている。
「……………………」
「……………………」
そんな互いの沈黙が、それなりに長く続いた後。
「え、えっと……」
「……?」
先に口を開いたのは、意外にも鈴の方だった。上級生が首を傾げ――そのせいで、頭の上に乗っていた猫がするりと下へ落ちた――、鈴の言葉に耳を傾ける。鈴は最初に言葉を発したきりなかなか後を次げなかったが、その重い口をようやく開き、上級生にこう問うた。
「ね、猫が……す、好きなのか……?」
「……(こくこく)」
鈴の問いに、上級生は二度深く頷いて見せた。鈴もそれにつられるかのごとく、同じように二度頷く。その光景は、どこか可笑しなものだった。
「ね、猫と一緒にいて……た、楽しいか……?」
「……(こくこく)」
先ほどと似たような質問に、上級生は律儀に頭を二回垂れて答えた。そして先ほどと同じように、鈴もまた二回頭を垂れる。鈴が頷く必要性はどこにもないのだが、鈴は今かちかちに緊張しているために、そんなことにはまったく気が回らない。
「え、えっと……」
「……………………」
さらに続けて何か質問しようとする鈴だったが、肝心の質問が出てこなかった。苦し紛れに一言発したきり、再び黙り込んでしまう。
「……………………」
「……………………」
再び、少々の沈黙を挟んだ後。
「……いつも、ここにいる人?」
「?!」
今度は鈴が質問に答える番だった。上級生から突然発せられた言葉に、鈴が驚いて目を見開く。
「え、えっと……」
「……………………」
「そ、そうだ。いつも、ここにいる人だ」
「……やっぱり……」
少々ぎこちないながらも、鈴は質問に答えることが出来た。上級生はこくこくと頷き、腕の中の猫を撫でてやっている。撫でられている猫は気持ち良さそうに体を伸ばし、上級生のされるがままになっていた。
「……よしよし」
「うにゃー」
「……………………」
上級生と猫の様子を、鈴が食い入るように見つめる。猫が本当に気持ち良さそうにしているのを、鈴は見逃さなかった。いつも猫と接している鈴は、猫の鳴き方や仕草で、機嫌や考えていることが大体分かるのだ。
「……ねこさん、よしよし」
「にゃぁ~」
「……………………」
鈴から見て、上級生に抱かれている猫は本当に幸せそうな顔をしていた。そんな表情をさせることができるのは、本当に猫の扱いに慣れている人間であることの紛れも無い証拠になる。鈴は猫の様子から、目の前にいる上級生が、本当に猫が好きなことは理解することができた。
「……………………」
そうして、鈴が猫の様子を見つめていると。
「……抱く?」
「……?! あ、あたしが抱くのか?!」
「……(こくこく)」
突然、上級生が抱いていた猫を差し出した。鈴は一際目を大きく開き、猫と上級生の姿を代わる代わる見つめる。上級生は澄み切った瞳で、ただ鈴の目をじっと見つめている。
「……………………」
「……………………」
戸惑う鈴。恐る恐る手を伸ばそうとするが、それも半分ほどで引っ込めてしまう。猫を抱きたいのはやまやまなのだが、どうしても手が前に出て行かない。上級生に対する警戒心が、鈴を躊躇させていた。
「……………………」
「……………………」
そうして、鈴は逡巡を重ねていたのだが。
「……大丈夫」
「……?!」
「……私は、何もしないから……」
上級生が優しい表情を浮かべ、もう一歩前に歩み寄った。鈴と猫との距離が近づく。
「……本当に、抱いていいのか?」
「……(こくこく)」
「……本当に、本当なのか?」
「……本当に、本当……」
その言葉を聞いた鈴は、ゆっくりとその手を伸ばし……
「……よし、いい子だゲイツ。おとなしくしてるんだぞ」
「にゃーん」
「……………………」
……上級生の手から、猫――ゲイツ、という名前らしい――を受け取った。
「……その子の名前……」
「そうだ。ゲイツっていうんだ。その割には、お金持ちじゃない」
「……でも、かっこいい……」
「そうか? あたしは『ジョブズ』にした方がいいと思うぞ」
猫を抱きしめた途端、鈴は饒舌になって話し始めた。鈴の言葉に、上級生は丁寧に頷いて答える。
「……ここのねこさんには、みんな名前が?」
「そうだ。あたしもよく憶えてないが、みんなに名前が付いてるんだぞ」
「……………………」
鈴の表情からは、もう緊張は感じられなかった。猫を抱いたことで気持ちがほぐれたのか、その顔つきは優しい。それを見て、上級生の方も安心したようだった。
「……ねこさん、かわいい……」
「うん。猫は可愛いぞ。それはもう、想像できないくらいだ」
「……一緒にいると、優しい気持ちになれる……」
「その通りだ。猫を好きなやつに、悪いやつはいないぞ」
「……(こくこく)」
段々と互いに会話が成立し始める。猫たちは相変わらず、鈴と上級生それぞれに懐いている。
「……えっと……」
「どうした?」
「……せっかくだから、座って話がしたい……」
「分かった。それじゃ、座ろう」
二人はそれぞれ猫を抱いたまま、茂みの側へ座り込んだ。
「……………………」
「……………………」
膝の上、足の側、腕の先……お互いにたくさんの猫に囲まれながら、穏やかな時間を過ごす。会話はなかったが、先ほどまでの固い緊張は、今はもうどこにもなかった。
「……………………」
「……………………」
今学校にいる猫は十二匹。鈴と上級生にはそれぞれ六匹ずつの猫が懐き、代わる代わる抱いてもらったり撫でてもらったりしている。周りの猫は早く代われとしきりにせがみ、足や腕にその体を擦り付けている。
「……………………」
「……………………」
猫たちと戯れながら、幾許かの時間を過ごした後。
「……今日は、お礼を言いに来た……」
「お礼……? あたしにか?」
「……(こくこく)」
不意に、上級生の方が口を開いた。鈴は猫を撫でる手は止めず、視線だけを上級生の方へと向ける。上級生は静かに頷き、抱いている猫を見つめた。
「こうやって……私も、たまに一緒に遊んでもらってる……」
「……うん。なんだか、仲良さそうだ」
「ねこさんと一緒に遊べるのは、ねこさんのお世話をしてくれている人がいるから……」
「えっ……?」
鈴は無言のまま、上級生の言葉を聞き続けていた。鈴の膝の上にいる猫が、鈴の手が止まったことに気づき、その顔を見つめる。
「こんなにたくさんのねこさんを、一人で面倒を見てくれてる……」
「……………………」
「……だから、お礼を言いに来た……」
「……………………」
「……ありがとう。ねこさんの面倒を見てくれて、ありがとう……」
静かに、けれども紛れも無い感謝の気持ちを込めて、上級生が鈴に呟いた。その澄んだ瞳を鈴に向け、優しい笑顔を浮かべて見せた。鈴は目をぱちぱちさせながら、相手の顔を見つめるばかりだった。
「……………………」
……そして。鈴が、静かに呟く。
「……初めてだ……」
「……?」
その言葉に、上級生は戸惑っているようだった。鈴の目を見つめ、その言葉の真意を探ろうとする。だが、鈴はそれに臆することなく、さらに言葉を続ける。
「初めてだぞ……」
「……?」
「……猫のことでお礼を言われたのは、初めてだ……」
「……本当に……?」
「うん……今日が、初めてだ」
鈴は驚きと喜びがない交ぜになった表情で、上級生の目を見つめ返した。その声色は、いつも以上に落ち着いたものだった。
「そして……お前が初めてでもあるぞ。本当に、初めてだ」
堰を切ったように、鈴から言葉があふれ出す。
「クラスのみんなからは、『人と遊ばずに猫とばっかり遊んでる』って言われてた」
「先生からは、『教室に猫を入れちゃだめだ』って言われた」
「寮長からは、『寮で猫は飼っちゃいけない』って言われた……」
独り言にも似た鈴の呟きを、上級生はただ黙って聞き続けている。上級生の手もまた、鈴と同じようにその動きを止めた。
「だからみんな、猫のことを良くないと思ってると思ってた……」
「みんな、猫のことが嫌いなんだと思ってた……」
「こいつら、みんなから嫌われてる……そう思ってた」
猫を再び撫で始めながら、鈴は呟き続ける。
「……でも」
「違った。違ったんだ」
「こいつらのことが、好きな人もいたんだ」
「こいつら、みんなから嫌われてるわけじゃなかった」
「こいつらのことを可愛がってくれる人が、あたし以外にもいたんだ」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ鈴を、上級生は優しい目で見つめていた。
「こいつらのことを気にしてるの、あたしだけだと思ってた」
「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったんだ」
「こいつらのこと可愛がってくれるのは、あたしだけじゃなかったんだ」
興奮したようにまくし立てる鈴に同調し、上級生は深く頷いて返す。
「……ねこさんは、嫌いじゃない。かなり、嫌いじゃない……」
「ああ。あたしも猫は大好きだ」
「……いつまでも、この学校にいて欲しい……」
膝の上にいた猫を抱き寄せ、胸の中へと抱きこむ。猫は気持ち良さそうに目を細め、その体を両腕に預けた。
「……誰かに嫌われるのは、辛いことだから……」
「……みんなから嫌われるのは、とても辛いことだから……」
「……誰とも一緒にいられないのは、すごく辛いことだから……」
「だから……」
「……この子達と、一緒にいてあげてほしい……」
「……私も、この子達と一緒にいたい……」
「……そうすれば、この子達は寂しい思いをしなくて済むから……」
腕の中の猫をぎゅっと抱きしめ、上級生の少女が呟いた。
「……誰かと一緒なら、戦えるから……」
「……怖いことにも、立ち向かえるから……」
「……だから……一緒にいてほしいし、一緒にいてあげたい……」
……最後にそう言い、少女は言葉を紡ぐのをやめた。
「……………………」
鈴は少女から聞いた言葉を、何度も反芻していた。少女の言葉を受けた鈴の表情は、先ほどまでに見せたどの表情とも違う、不思議さをいっぱいに湛えた表情だった。鈴は少女の言葉を何度も何度も噛み砕きながら、それを少しずつ咀嚼していく。
「……………………」
「……………………」
互いに相手の目を見詰め合う。そこに言葉はない。しかし、確かに通じるものがあった。
「……………………」
「……………………」
鈴の言葉、少女の言葉。
「……………………」
「……………………」
それは共に、相手の心を打つ何かがあったのだろう。見つめあうその目と目に、迷いは一切感じられなかった。互いの言いたいことを考え、受け止め、理解する。その一連の作業を、二人は無意識のうちにこなしていた。
……そして。
「もちろんだ。あたしはずっとこいつらと一緒にいる」
「他のやつから嫌われても、あたしはずっと一緒だ」
「何があっても、あたしはこいつらを見捨てたりはしない」
膝の上にいた猫を抱きしめ、鈴が力強く言った。
「……ありがとう。ねこさんも、きっと喜んでくれてる……」
「そうか。それなら、あたしも本望だ」
「……今日から、私も一緒にいる……」
「よし。一緒にこいつらを可愛がってやろう。きっと楽しいぞ」
たくさんの猫に囲まれながら、二人はそう、固く誓い合った。
「そういえば……」
「……どうしたの?」
「名前、まだ言ってなかったな。あたしは鈴、棗鈴だ」
「……私は……」
「……舞。川澄……舞」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。