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2006年クリスマスSS「Article Exchange」

「う~む……これは困った……」

俺こと、相沢祐一は悩んでいた。目の前に置かれた貯金箱を前にして、かれこれ二十分は唸っている。

「今日はクリスマス……せっかくだしあいつらに何か買ってやりたいものだが、あいにく、持ち合わせがない」

貯金箱を揺らしてみても、聞こえてくるのはちゃりんちゃりんというちょっと軽い音だけ。どう考えても、この家に住んでいる三人の少女たちのプレゼントを買うには足りない額だ。はっきり言って、一人分すら危うい。

「……これはどうしたものか……」

普段から何かと理由をつけていろいろなものをおごっていたから、そのツケが一気に回ってきたような感じだ。特に、名雪のイチゴサンデーと舞の牛丼は痛い。逆にたい焼きや肉まんはそんなに痛くない。が、今はそういったことを云々している場合ではないのだ。

「逆さにしてみても、出ないものは出ないんだよなぁ……」

何度振ったか分からない貯金箱をもう一度振ってみて、改めて、持ち合わせがないことを確認する俺。

「はぁ……こんなことなら、普段から貯金しておくべきだったな……」

今更嘆いてみても遅い。どうあがいてみても、十二月二十四日は今日だ。今日を逃せば、プレゼントは渡せない。

「こんな時、俺に奇跡が起きないかなあ……」

「了承」

「おわぁっ?!」

俺がぼそぼそとつぶやいていると、突然隣から「にゅっ」と秋子さんが現れた。あまりにも突然現れたので、俺は驚いて思わず三歩ほど後ずさる。

「あ、秋子さん?!」

「祐一さん、奇跡は起きるものではありません。起こすものですよ」

「は、はぁ……」

「祐一さんが言ってらしたじゃないですか。『奇跡は俺たちの中にある』って」

「秋子さん、それは黒歴史です。台詞は良かったかも知れませんが」

秋子さんは俺のツッコミにも朗らかな笑みを浮かべたまま、おもむろに懐へ手をやった。

「ふふふ……祐一さん、私からのプレゼントです」

「えっ? 俺に?」

懐からさっと手を出した秋子さんが持っていたのは……

「……って、秋子さんのジャムじゃないですかぁ!」

「はい。私のお手製のジャムです」

……瓶詰めのオレンジ色の物体……秋子さんお手製のジャムだった。

「私からのプレゼントですよ? 受け取ってくださいますよね?」

「……は、はいぃ……」

渋々手を伸ばし、秋子さんの手からビンを受け取る。手にずっしりと伝わる重さが恨めしいというか、恐ろしいというか、悲しいというか、全部というか。

「それで、祐一さん」

「はい……」

秋子さんはワンテンポ置いてから、おもむろにこう言った。

「それを元にして、プレゼントを掴んでください」

「こんなのでどうしろっていうんですかぁ!」

「ふふふ。大丈夫です。今の祐一さんは輝いてらっしゃいます。外へ繰り出して、そのジャムを求めている人へプレゼントしてあげてください」

「そんな人、いるんでしょうかねえ……」

「ええ。必ずいます。そうしてもらった幸せを、躊躇わずに他の人へ渡してあげてください。そうすれば、もっと大きな幸せを手にできますよ」

俺は不安な気持ちになりながら、ビンの中にずっしりぎっしりこってりぼってり詰まったジャムを見つめた。こんなものを欲しがる人がいるとしたら、確実に人生を間違えていると思う。というか、人間として間違ってる。

「さあ、祐一さん。ここで止まっていても始まりません。外へと繰り出しましょう」

「……はい」

秋子さんに促されるまま、俺はマフラーとコートを手に取り、とぼとぼと水瀬家を後にした……

 

「……はぁ。こんなの欲しがる人なんて、本当にいるのか……?」

俺はポケットの形が変わるほど重いジャムを持って、雪の降りしきる街を一人寂しく歩く。ポケットに入ったジャムの重みが、秋子さんに監視されているような気がして妙に気が重い。

「……どうしたもんか……」

真っ白なため息を吐き出しながら、俺がふと顔を上げてみると……

「……あれは?」

眼前に、一人の女性の姿。何か物思いに耽るように歩きながら、時折ため息を吐いている。

 

「困りましたね……まさか、新作の案が尽きてしまうなんて……」

 

そんなことを言いながら、前からゆっくり歩いてきたのは……

「……早苗さん?」

「あら? 確か、水瀬さんのところの……」

「相沢です。こんなところでどうしたんですか?」

……隣のクラスの同級生・古河の母親の早苗さんだった。早苗さんはやや物憂げな表情を浮かべながら、こんなことを言い出した。

「いえ……大したことじゃないんです。ただ……」

「ただ?」

「はい。実は、お店で出しているパンの新作の案が尽きてしまいまして、どうしようかと悩んでいたんです」

「……………………」

古河とは時々話をするが、古河の両親はパン屋を経営していて、売れ行きはそこそこ順調らしい。

……ただ、一つ問題があって、古河の父親の焼くパンは顔に似合わずとても美味しいらしいが、母親の焼くパンは何故かさっぱり売れないという。それはどうも、古河の母親が「新作」と称して奇抜な様々な味のパンをどんどん繰り出すものだから、皆がその恐ろしさにあえて避けているという話だとかどうとか……

「何かこう、ショッキングで奇抜な味を探しているのですが……」

「ショッキングで……奇抜ですか?」

「はい。できれば、食べた後一生心に残るような、そんな独創的なパンを焼いてみたいんです」

「……………………」

俺は早苗さんの話を聞きながら、ある一つの考えが頭をよぎった。

(……多分誰も食べないだろうし、いいかな)

そしてわずかな間で結論を出してしまうと、俺は早苗さんにこう切り出したのだ。

「早苗さん。俺、実は一つ、早苗さんの願いを叶えられそうなものを知ってるんです」

「えっ?! 本当ですかっ。是非、教えていただけるとありがたいのですが……」

「はい。これです」

そう言って俺は、ポケットの中に入っていた瓶詰めの例の物体を取り出した。

「これは……マーマレードですか?」

「いえ。実はこう見えても、ジャムだったりします。秋子さんのお手製です」

「秋子さん……ああ、水瀬さんのお母さんですねっ。お手製なんですか……」

「はい。材料から製法までこだわった、水瀬食品の主力商品です」

こんなものを主力にしてたら、確実に潰れるだろうなあ。水瀬食品。

「これは早苗さんが求めているような、ショッキングで奇抜で、食べたら一生心に残るような、独創的な味がします」

「本当ですかっ」

「はい。なので、早苗さんにこれをプレゼントしようと思います」

「ありがとうございますっ。家に帰って、早速これでパンを焼いてみますねっ」

早苗さんはジャムを受け取ると、うれしそうな表情でそれを懐へとしまった。

「結構重みがありますねっ。使うのが楽しみです」

「はい。俺も楽しみにしています」

早苗パン・ミーツ・謎ジャム。確かに楽しみだ。どんな化学反応が起きるだろうか。古河パンは原形を止めていられるだろうか。

「えっと……いいものを頂いたので、代わりといっては何ですが……」

「?」

そう言うと早苗さんは手に提げていた袋をごそごそやって、中から何かを取り出した。

「はいっ。うちで焼いた私のパンですっ」

「ずこー!」

おめでとう! なぞジャムは さなえパンに しんかした!

「受け取ってくれますよねっ」

「は、はい……」

交換した意味をまったく感じないまま、俺は早苗さんのパンを受け取った。ビニール袋越しから見えるパンは……

(……なんで虹色なんだ……)

虹色の渦を巻いた、とんでもないデザインのパンだった。というか、見ただけで食欲をなくすとんでもないパンだと思った。というか赤や茶色(多分いちごとチョコレートだろう)はいいとして、青色ってなんだ! 青色って! 青色一号か! 有毒物質だぞそれ!

「紫は紫芋かな……」

「はいっ。紫芋を練りこんでみたんですよ」

「はぁ……とりあえず、ありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそ、どうもありがとうございましたっ」

早苗さんは出会ったときとは打って変わって明るい表情を浮かべながら、謎ジャム片手にスキップしながら家路を急いでいった。

「……とりあえず、謎ジャムよりかはマシか……」

俺はそうつぶやいてレインボーパン(命名)をポケットへしまい、俺は再び歩き出した。

 

「……おっ。また前から人が歩いてくるな……」

そう時間が経たないうちに、俺は前から誰かが歩いてくる気配を感じ取った。俺は足を遅め、その人影が誰かを確認する。上手く行けば、また交換の話をつけられるかもしれない。

(あれは……)

俺は目を凝らして、前から歩いてくる人物が誰かを読み取ろうとした。

だがその前に、こんな声が耳へと飛び込んできた。

 

「う~ん……困ったんだよ。お昼に食べるものが何もないよ……」

 

独特のゆっくりとした口調。そして、頭に巻いた黄色いリボン。止めに、茜色の長くて美しい髪。俺は確信を持って、先に声を掛けることにした。

「おーい! 長森!」

「?」

前を歩いていたのは、クラスメートの長森だった。名雪や香里と一緒にいるのをよく見かけていて、俺ともたまに話をする。俺が声をかけるとすぐにそれに気付いて、こちらへとてとてと駆けて来た。

「祐一君! こんなところで何してるの?」

「俺か? 俺はただ散歩してるだけだぞ。お前こそ、そんなところでどうしたんだ?」

「えっと……実は、大変なことになっちゃったんだよもん」

「だよもんってお前……」

ちなみに、良く語尾に「だよ」とか「もん」とか、その二つが組み合わさった「だよもん」を付ける事から、長森の幼馴染である折原(俺の男友達だ)から「だよもん星人」などと呼ばれたことがあるらしい。

「お昼にね、せっかくだから古河さんのところへ行ってパンを買おうと思ったんだけど、今日はお休みだったんだよ」

「……まあ、クリスマスだからなあ……」

「わたし、早苗さんのパンの大ファンなのに……困ったんだよ」

「……マジで?!」

なんということか! 長森は古河パンの、それも早苗パンの大ファンと来た。折りしも今日は古河パンはお休み。長森が正規の方法でお気に入りの早苗パンを入手する方法はない。

……だが、今俺の手元には……

俺はポケットへすばやく手を突っ込むと、まだ暖かいそれを静かに取り出した。

「なあ長森。さっき早苗さんに会って、こんなのをもらったんだが……」

「……そ、それは伝説のレインボーパンだよっ! 今までに一度しか食べたことのない、伝説のパンだよっ!」

ということは、よほど悪い噂が広まるのが早かったのだろう。青色一号だもんなあ。

「う~ん。あの抹茶とレモンとイチゴとチョコレートとお砂糖と紫芋とブルーハワイの混じった味を思い出しただけで、またお腹が空いてきちゃったんだよもん」

「ああ、ブルーハワイだったのか。あれ」

青色一号ではなかったらしい。

「もしアレなら、お前にあげるぞ。俺は……その、あんまり腹減ってないし」

「本当!? それなら、遠慮なくもらっちゃうよ」

「ああ。どんどんもらってくれ」

産業廃棄物を切り離せるのだ。これほどありがたいことはあるまい。

「う~ん……でも、ただもらうだけだとちょっと気が引けるよ。代わりといっては何だけど……」

「……?」

長森は手に提げていた鞄をごそごそやると、中から何かそこそこ長いものを取り出した。

それは……

「はいっ。パンのお礼に、牛乳をプレゼントするよっ」

……ビン入りの、250mlの牛乳だった。牛乳キャップでしっかり閉じられていて、その上から紫色のビニールと白いビニール紐でしっかりと密封してある、学校給食で必ず出てくるあの牛乳だ。

「……それ、いつも持ち歩いてるのか?」

「うん。最低二本は持ち歩いてるんだよ」

「そうか……とりあえず、一本もらうな……」

俺は長森の手からビン入り牛乳を受け取ると、その重みと冷たさに思わず身震いした。というか、こんなのを二本も三本も持ち歩いているのか。長森は……

「それじゃあ祐一君、これはありがたく頂くんだよ。どうもありがとうだよ!」

「ああ。落さないようにな」

長森は笑顔を浮かべて、そのまま俺の進行方向とは逆方向へ歩いて行った。俺はさすがに冷たいビン入り牛乳をそのまま持つのは辛かったので、ポケットの中に忍ばせておいたビニール袋を開き、その中へ牛乳をしまった。

「……ま、今までの二つに比べれば、天と地ほどの差だな」

俺は牛乳の入ったビニール袋をぶら下げて、再び歩き出した。

 

「さてさて……何だかこの調子だと、結構いい線いけそうな気がしてきたぞ……」

ビン入り牛乳の重みを感じながら、俺は真昼の商店街を行く。さすがにこの時間からいちゃついているカップルの姿は少ない。まあ、聖なる「夜」だもんな。

(俺は誰と一緒に歩くんだろうな……)

……などと、俺が考えていると。

 

「んにゅ~……」

 

「……?」

俺の横から、唸るような声が聞こえてきた。聞き覚えのある、幼い声だ。

(よし。こうなったら、見かけた顔見知りには片っ端から声を掛けていくか)

そう考え、目線を横へやった。すると、そこには……

「こんなところでどうしたんだ? みちる」

「んに?」

クラスメートの遠野の妹・みちるの姿があった。みちるは長い長い紫色のツインテールの髪をびゅんびゅん振り回しながら、こちらへ顔を向けた。

「あーっ! 相沢祐一っ!」

「フルネームで呼ぶなって」

「んにー。あゆあゆやなゆやんは一緒じゃないのかー?」

「ああ。あいつらは家だ」

「にゅふふー。ケンカでもしたかー? どーせ相沢祐一が悪いんだろー」

「喧嘩なんかしてないって」

みちるは誰にでもこんな調子だ。まあ、怖いもの知らずというか、マイペースというか……

「そういうお前は何してんだ?」

「んに? みちる?」

「お前以外にいないだろ」

「んにゅ……ちょっと、考え事してた」

……「考え事」というみちるらしからぬ言葉を受けて、俺は面食らって問い返した。

「考え事? どんなことだ?」

「えっと……笑わないで聞いてくれる?」

「人の悩み事で笑うほど俺はひどいヤツじゃないぞ」

「うん……えっと」

みちるは手をもじもじさせながら、しばらく逡巡した様子を見せていたが、やがて意を決したのか、おもむろに口をぱっと開いた。

「みちるはね……届かなかったの」

「届かない……?」

みちるは思わせぶりな口調で、話を始めた。

「うん……えっとね、さっき美凪にね、みちるが買ったリボンをプレゼントしようと思ったの」

「……………………」

「お小遣いをためてね、美凪にプレゼントしようと思ったの」

みちるの表情が曇る。俺は黙ったまま、みちるの話に耳を傾けた。

「それでね、みちるがリボンを巻いてあげようと思ったらね……」

「……………………」

「……届かなかったの」

「……………………」

「えっとね、美凪の頭にね……みちるの手が届かなかったの」

「みちる……」

俺は……考えた。みちるが届かない手で必死に、遠野の頭にリボンを巻いてやろうとしている姿を……

(……せっかく買ったリボンなのに……そんなんじゃやり切れないよな……)

寂しげな笑顔を覗かせたみちるが、静かに言葉を続ける。

「にゃはは……みちる、背が低いから、美凪にプレゼントできなかった……」

「……………………」

「んにゅ……もうちょっと背が高かったら、上手く行ったのにな……にゃはは……」

「……………………」

……ふと俺の腕に重みがかかる。それは……さっき手に入れた、冷たくて白い、良い味のする飲み物。長森がいつも飲んでいるという、あの飲み物。

骨を強くし、体を強くする……あの飲み物だ。

(……気休め程度かも知れないが……今のこいつには、こういうのがちょうどいい)

俺はそう考え、みちるに声を掛けた。

「なあみちる。お前、背を伸ばしたいんだよな?」

「んに……伸ばせたらいいけど、そんな簡単にはいかないよ」

「ああ。簡単にはいかない。だが……」

そして、手に提げていた袋から、外の冷気に当たって一段とよく冷えたそれを、ゆっくり取り出す。

「みちる。これを飲めば、背が伸びるんだぞ」

「えっ?! 本当?!」

「ああ。本当だ」

俺はその言葉と共に、みちるへ牛乳を手渡した。みちるはきらきらと輝く瞳でそれを見つめながら、おずおずと白いビンを受け取った。

「とは言っても、すぐには伸びない。毎日欠かさず飲んで、初めて効果が出るんだ」

「んにゅ……」

「冷たいのを一気に飲むと腹を壊すから、ゆっくり飲むんだぞ」

「んにー……相沢祐一っ、今回は感謝してやるぞー」

「ああ。そりゃ光栄だ」

みちるは照れたように牛乳瓶を持ちながら、うれしそうな表情を浮かべていた。どうやら、俺の言いたいことが伝わったらしい。さっきまでの曇り空は消えて、晴々とした顔が浮かんでいた。

「にゅふふー。じゃあみちるも、相沢祐一にプレゼントだー」

「何かくれるのか?」

「えっと……」

左手で牛乳を持って、右のポケットを探るみちる。しばらくポケットの中をいじくり回してから、不意にみちるがひょいと何かを取り出した。

「これは……?」

それは瓶詰めになった、色とりどりの砂と……星の形に象られた、小さな石だった。

「にゃはは。美凪がみちるにくれたんだぞ。『星の砂』って言うんだ」

「『星の砂』……綺麗だな。もらっていいのか」

「んに。みちるにはもう一個あるから、それは相沢祐一にくれてやるぞー」

「おう、サンキュ」

俺はみちるの手から「星の砂」を受け取ると、それをじっくりと眺めてみた。「星の砂」には色とりどりの砂が入っていて、見ているだけでも飽きることがない。これなら、名雪やあゆも喜んでくれそうだ。

「にゃはは! じゃ、これからもせいぜい元気でなっ! にゃははははー!」

「ああ、お前もな」

みちるは牛乳を抱えて、元気良く走り出した。

(やっぱり、ああいうヤツは悩んでるよりも無邪気に笑ってる方が可愛いよな……)

俺は星の砂をポケットへと突っ込むと、再び歩き出した。

 

「最初謎ジャムだったものが、今や星の砂に……分からないもんだな」

俺は星の砂を空にかざしながら、相変わらず商店街を歩いていく。いつもよりもずいぶん歩くペースが遅いが、これはきっと一人だからだろう。

(あいつらが一緒だと、どうしても早くなるからな……)

今頃あいつらは何をしているんだろうか……俺がプレゼントを持って返ってくるのを待っているのだろうか……

(……これは綺麗だが、さすがに一個じゃな……)

星の砂を眺めてつぶやく。確かに、一つじゃプレゼントとしては役不足だ。

(状況は……あんまり変わってないか)

もうしばらく歩く必要がありそうだ……そんなことを考えながら、俺は商店街を一人歩き続けた。

……すると。

(またしても前方から人影……よし。状況次第では声を掛けてみよう)

前から一人歩いてくる影。見ると、秋子さんと同い年か少し若いぐらいの女の人だ。女の人は何か長いものを抱えて、こちらに向かって歩いてくる。

……はて、どこかで見覚えがあるような。

「あっ……」

……そう思っているうちに、目と目がぱっちり合った。そして、向こう側から聞こえてくる声。

 

「……三組の……相沢君でしたっけ?」

 

「あっ、はい。間違いないです」

「ああ、間違ってなかったみたいですね。良かったです。私のこと、覚えてませんか? 先生がお休みの間、少しの間だけ美術を担当していた……」

「……もしかして、伊吹先生ですか?」

「はい」

そこにいたのは……美術の先生が産休で学校を休んだ時、臨時で美術の担当になった伊吹先生だった。

「よく俺のことを覚えてましたね」

「はい。一度でも受け持った生徒の顔と名前は、きちんと覚えていますから」

……単純に、素晴らしい記憶力だと思った。

こんなことを話していても仕方がないので、とりあえず基本どおりに訊ねてみることにする。

「伊吹先生はこんなところで何をしてるんですか?」

「私ですか? えっと……」

伊吹先生は困ったように俯いて、辺りをきょろきょろと見回しながらつぶやいた。

「……実は、妹に買ってあげるプレゼントを探しているんですが、なかなか見つからなくて……」

「妹さんがいるんですね」

「はい。今ちょうど一年生で、相沢君と同じ高校に通っています」

「そうなんですか……」

どうやら伊吹先生には妹がいて、その妹のために何かプレゼントを買ってあげたいらしい。しかし、街中を探してみても、伊吹先生のメガネに敵うようなものはなかなか見当たらないらしい。確かに、困った顔もしたくなるだろう。

「その妹さん、どんなものが好きなんですか?」

「えっ?」

「ほら、例えば……なんていうか、ねこが好きとか、いちごが好きとか、そういうのです」

咄嗟に思いついたのがどちらも名雪の好きなものという辺り、なんとなく俺らしいと思った。

「そうですね……少し、変わったものですが……」

「変わったものですか?」

「はい。妹は、ヒトデが好きなんです」

「……………………ヒ、ヒトデですか?」

「はい。海の星と書いてヒトデと読む、あの星のような生き物です」

伊吹先生の返答は「妹はヒトデがお好き」。予想をはるかに超える「ヘンなもの」度合いに、俺は思わずずっこけそうになった。ヒトデが好きで好きで仕方がないなんて、一体どんな変人なのだろうか。一度顔を見てみたいと思った。

「生のヒトデを渡す……というわけには行かないので、何かヒトデを連想させるようなものがあれば……と思っているんですが……」

「ヒトデを連想させるようなもの……?」

「はい。言ってしまえば、星とか、海とか……そういったものです」

そう言われて、俺は手に持っているものの存在を思い出す。

(海……砂浜……星……意外といい線行くかもな)

ここまでもそうだったように、俺は深く考えず、伊吹先生に話を持ちかけた。

「そうですね……これなんかどうでしょう?」

「えっ?」

いきなり目の前に小さなビン――星の砂――を突き出されて、伊吹先生が面食らった面持ちでそれを見た。最初驚きばかりだったその表情が徐々に明るくなっていき、笑顔に変わるまでにはそう時間はかからなかった。

「素敵ですね。これ、どうしたんですか?」

「さっき知り合いからもらったんです。牛乳のお礼にって」

「そうなんですか……でも、お知り合いの方からのもらいものなら……」

「いえ。伊吹先生が困ってるみたいですし、やっぱり、もらって一番喜ぶ人にもらって欲しいですから」

「……それじゃあ、お言葉に甘えて……」

伊吹先生はおずおずと手を伸ばすと、その手に星の砂を取った。手にした星の砂を慈しむように眺めると、伊吹先生は納得したように頷いた。これなら、妹も喜んでくれると判断したのだろう。

「ありがとうございます。風子も、これならきっと喜んでくれると思います」

「妹さんの名前、風子っていうんですか?」

「はい。風のように元気で伸び伸びとした子に育って欲しいと、両親が付けた名前なんです」

「いい名前ですね」

「ありがとうございます」

先生はお辞儀をすると、おもむろにこちらへ一歩歩いてきた。

……そして。

「お礼といっては何ですが、このお花を受け取っていただけないでしょうか?」

抱えていたもの――よく見ると、桃色花びらをたくさんつけた、立派な花だった――を、こちらへ差し出してきた。

「いいんですか? 何か、高そうな花ですけど……」

「ええ、構いません。うちで育ったものですから。うちに帰れば、また持って来れますし」

「それじゃあ……いただきます」

先生から花を受け取って、自分の腕の中へ抱き込む。花は思っていたよりも軽くて、持っていくのにはそう負担にならなさそうだった。

「綺麗な花ですね」

「ええ。サザンカという花です。冬に咲く数少ない花で、冬を彩る美しい花なんですよ」

「勉強になりました」

星の砂が、今度はサザンカへと変わった。だんだんとプレゼント向きのものになってきたな。

「こんなものですみませんが……よろしければ、可愛がってあげてください」

「いや。十分ですよ。どうもありがとうございます」

「こちらこそ。それでは、またどこかで……」

伊吹先生は星の砂を大事そうに両手の中へ包み込むと、そのままどこかへと歩いていってしまった。

「……これなら、案外行けるかもな……」

俺は一人ごちて、また歩き出す。

 

「しかし、このまま物々交換を繰り返していったら、一体どこまで行けるんだろうな……」

手にしたサザンカを見ながら、尚も商店街を歩く俺。既に時間は昼下がり。少しずつ、道往く人の数も増えてゆく。

「案外、最後には謎ジャムに戻ったりして……」

何故かそんなイヤなオチを考えてしまう。巡り巡って最後に手にしたものが謎ジャムだったら、俺は多分絶望で世をはかなみかねない。その時はきっと、俺が謎ジャムで消されてしまうことだろう。

(頼むから、まともなものになってくれよ……)

そうして、俺が願うように歩いていると……

「……おっ」

またしても向こうから人影を確認する。あれは……今度も見覚えのある姿だ。

 

「あー……けったいなこっちゃ……うちは自分の大切な娘の好きなもんもよう見つけられんのか……」

 

その人影は桃色の長い髪を寒風に晒して、これまで出会ったすべての人と同じように、何か困ったような表情を浮かべている……

(……行ってみるか)

俺はもうほとんど悩むことなく、その悩める人に声を掛けてみることを決めた。

「そんなところで何してるんですか?」

「ん? あんたは……せやせや。斉藤やったか?」

「相沢ですっ」

「あいざわぁ……? ああ、確か、水瀬さんとこの居候やったか」

「そうですよ。こんなところでどうしたんですか?」

そこに立っていたのは、隣のクラスに在籍している名雪の友人である神尾観鈴の母親・神尾晴子だった。神尾とはいろいろあって本当の親子ではないらしいが、その仲のよさは学校中に知れ渡っていると言う(本人談)。

「いやぁ……あんたに話して解決するっちゅうわけでもないんやけどなぁ……声かけてくれたんは感謝しとるけど」

「ひょっとして、神尾へのプレゼントで悩んでるとか?」

「……あんた……いつの間に読心術を……っ!」

「さっきそっちが結構な声でしゃべってたでしょうがっ」

「なんや、盗み聞きかいな。けったいな話やなあ」

「聞こえるようにしゃべるのもどうかと思う……」

晴子は常時こんな調子だ。大人しくて物静か(だが若干電波を感じる瞬間がある)神尾とは百八十度かっちり違っている。こんなのでよく仲が良いなあと、逆に感心してしまうほどだ。

「で、何か探してるんですか?」

「せや……なんかあの子が喜びそうなもんないかと思って探しとるんやけど、全然見つからんのや……」

「あれは? 恐竜のぬいぐるみとかは? よく神尾が恐竜のグッズを持ってるのを見ますけど」

「それはあかん……この前の誕生日に街にあった恐竜という恐竜を徹底的に買い占めて買うたったら、もうあげるもんがなくなってしもうたんや……」

どういう金の使い方だっ。どういうっ。

「せやから、何か別のもんを……あれ?」

「どうしたんですか?」

晴子が急に視線をぴたりと止めて、ある一点を見つめて動かなくなった。その先にあったものはというと……

「その花……サザンカとちゃうか?」

さっき伊吹先生から星の砂と引き換えでもらった、あのサザンカだった。晴子はサザンカに目を奪われたまま、呆けたように口を開けている。いつものちょっときつそうな感じからは想像できない、素の晴子の表情がそこにあった。

「そうですよ。さっきもらったんです」

「……これ、観鈴の好きな花やわ……」

「そうなんですか?」

「せや。夏は向日葵、冬は山茶花。観鈴はうちと違って、風流な子に育ったんや……」

晴子はそう言っているが、案外こう見えて晴子も風流なところがあったりするのかもしれない。趣味や趣向は遺伝すると言うしな。

「……なあ居候。これからうち、ちょっと虫のええ話をさせてもらおうと思うんや……」

「じゃあ、何かと交換の方向で」

「……って、うちがせっかくタメたのを無駄にすなぁーっ!」

「別にいいじゃないですか!」

「ホンマに……空気の読まれへん東京人はこれやからあかんのや……」

俺の出身は東京ではないのだが、晴子によって強制的に東京生まれにされてしまった。

「……まぁええわ。それ、うちが持ってるものと交換してくれんねんな?」

「そうです」

「……せやなぁ。それと交換できそうなもん言うたら……あ、ちょっと待って」

晴子は肩に提げていたバッグを下ろすとファスナーを開け、中に入っていたやや大きなものをぐいっと取り出して見せた。晴子はそれを両手で大儀そうに持ち上げると、俺の前に掲げて見せた。

「……『美少年』? 酒ですか? それ……」

「せや! うちがいっちゃん好きな銘柄やで。味は保証つきや」

晴子が取り出したのは、「美少年」と書かれた日本酒のビンだった。結構な大きさで、一度にすべて飲みきれるような量ではない。恐らく、ちびちびやるタイプの酒なのだろう。

「いや、俺未成年……」

「アホなこと言いな! うちは観鈴と毎晩これで夜を明かしとるんや! 年齢云々は関係ないわ!」

ああ、だから神尾はよく遅刻してくるし、テストの点数は常に赤点スレスレかぶっちぎりの赤点だし、補習の顔なじみでもあるんだなあ。と、俺は納得がいった。世の中はちゃんと納得できるように作られているようだ。

ともあれ、交換条件としては悪くない。俺は条件を呑むことにした。

「じゃあ、それとサザンカを交換しましょう」

「いよっしゃ! これで観鈴へのプレゼントができたっちゅうもんやっ!」

晴子は意気揚々とサザンカを受け取ると、代わりに「美少年」を俺に手渡した。

「ほな居候っ! メリークリスマスやっ! ほなな!」

「ああ。よいクリスマスを」

……サザンカを手渡して残ったのは、一本の日本酒。だんだんと物の価値そのものは高くなってきているものの、プレゼントからは離れつつあるような気がしないでもない。

「……ま、気にせず行くか……秋子さんの言葉を信じて」

俺は「美少年」を片手に取ると、雪に染められた商店街を再び闊歩しだした。

 

「真昼間から日本酒なんてぶら下げて歩いてて大丈夫なのだろうか……」

よくよく考えてみると、俺は未成年なわけだし、真昼間からこんなものを持ち歩いていていい訳がない。もっとも、夜に持ち歩いていたらもっとダメだと思うが。

「誰かに見つからなきゃいいけどな……」

俺がそう思いながら歩いていると……

 

「こらぁーっ! そこの小僧っ! 真昼間から酒なんて持ち歩いてんじゃねぇっ!」

 

……思いっきり誰かに目をつけられてしまった。明らかに俺のことを言っているはずなので、恐る恐る振り向いてみる。

すると、そこに立っていたのは……

「……って、古河の親父じゃんっ!」

赤い髪にちょっと不良入った目つき。古河曰く「更生し損ねた不良」……その言葉がぴったり似合う、そんな男だった。その名は古河秋生。信じられないかも知れないが、早苗さんの夫だ。

「ああん? なんだ小僧。俺のことを知ってるってのか」

「知ってるも何も、この前パン買いに行ったとき店にいただろ、あんた」

「ちっ……バレちゃあしょうがねえ。まあ、俺のことは忘れてくれ」

「相変わらず無茶苦茶なこと言ってるな……」

古河の親父はタバコに火を点けると大きく吸い込んだ後、寒さとは違う白さをもった白い息を、大仰に吐き出した。こんな親父を相手にしなきゃいけないとは、岡崎のヤツも苦労してるんだな……

「……で、小僧はなんでこんな真昼間から酒なんざ持ち歩いてんだ?」

「いろいろと訳ありなんだよ。話せば長くなる」

「けっ……どうせ大したことじゃねえだろ。ほら、警察行くぞ警察」

「盗んでなんかねえよ!」

古河の親父は常時こんな調子である。早苗さんじゃなくて、さっき出会った晴子のほうが気が合いそうな気がしてくるのは気のせいだろうか。いや、こんなマイペースなのが二人も揃ったら、その子供の神尾があまりに可哀想過ぎる。取り消し取り消し。

「まあ、てめえがそれを持ってる理由なんざ俺には関係ねえ。その酒を俺に渡してくれりゃあなかったことにしてやるぞ」

「無茶苦茶だよあんた!」

「待て待て。俺は何もタダで渡してくれと言ってるんじゃねえ。物々交換と行こうじゃねえか」

「……結局、そうなるのか……」

今度はこちらから話しかけたわけではないのだが、やはり物々交換が始まってしまった。しかし、一体何を手渡してくるのやら……

(また早苗パンだったらマジで困るんだが……)

そう思いながら、古河の親父の出方を窺う。

「小僧。言っとくが、俺はその銘柄が渚と早苗の次ぐらいに好きなんだ」

「滅茶苦茶優先順位高いな……」

「悪いが今の俺は本気だぜ……だからな小僧っ! これくらいは出してやらあっ! 受け取りな!」

「おわっ?!」

古河の親父は掛け声一閃、何か薄い紙の様なものを投げつけてきた。俺はひるみながらもそれを取り落とさぬように受け取ると、ぺらりと表を返して向けてみた。

……すると……!

「こっ……これはっ……!」

「大事にしな。二度と見れたもんじゃあねえぜ」

「……古河と早苗さんの寝顔のツーショットとは……確かに半端無い……!」

そこには、名雪のように目を糸状にして安らかに眠る、古河と早苗さんの姿があった……!

「おお……見れば見るほど素晴らしい……」

ただでさえ学校でも圧倒的に可愛い部類に入る古河と、その母親の早苗さんのツーショット! しかも寝顔! 俺の中のテンションゲージがMAXになっていくのを、俺は今ひしひしと感じている……!

「……こんなもんもらったんじゃ仕方ない。持っていってくれ」

「おう。話の分かる小僧だ。受け取らせてもらうぜ。くれぐれも内密にな」

古河の親父は酒を手に取ると、そのままどこかへ歩いていった。

 

「物々交換ってのも悪くないな」

写真の中で眠る古河と早苗さんを眺めながら、俺がいい気分で街を歩く。うーむ。それにしても、罪なほどに可愛らしい寝顔だ……名雪と秋子さんの組み合わせもいい勝負だろうが、これはこれで……

「……岡崎め……まったく、幸せ者だな。あいつは」

俺は写真に見惚れながら、上の空(本当に視線が上向いているので間違いない)で道を往く……

 

(どんっ!)

「おわっ?!」

「いてっ?!」

 

……そんなことをしていたので、案の定、誰かにぶつかってしまった。ぶつかってしまった勢いで後ろへのけぞり、そのまま倒れてしまいそうになる。

「あいたた……悪い。怪我はないか?」

「あ、はい。何とか……」

ぶつかったのは……中学生か高校生か、その辺りの男だった。ぶつかった頭をさすりながら、きょろきょろと周囲を見回している。

(あれ……?)

……その時、俺はあることに気付く。

(……! しまったっ! こいつとぶつかったときに、あのお宝写真がぁっ!)

空になった掌を見つめて、俺の背筋に戦慄が走る。せっかく入手したあの古河と早苗さんの写真が、俺の手元にないっ! その事実は俺を凍りつかせるのに十分なものだった。

(やばい……! あいつに見つかる前に回収せねばっ!)

俺は血走った眼で周囲を見回し、写真が落ちていないか確認する。すると幸いにも……

(ああ! あったあったっ!)

写真は俺のすぐ近くに落ちていた。向こうはまだ写真の存在に気付いていない。こうなれば、今のうちに回収して何もなかったことにしてしまうのが筋だ。俺は素早く手を伸ばし、写真を回収する。

(はぁーやれやれ。一時はどうなることかと思ったぜ)

俺は一息ついて態勢を立て直し、裏返しになった写真を表に向ける……

……だが、その瞬間。

 

「……!」

 

俺は声にならない叫び声をあげた。

表になった写真が……写真が、とんでもないことになっていたからだ。その時……俺が目にしたものは。

(こ、これ……四組の坂上……?!)

四組にいる坂上――本名・坂上智代。生徒会副会長で、四組に所属。銀髪で気の強いメガネっ娘で、名雪や香里とも知り合い。ケンカでは負けたところを見た記憶がない、驚異的な腕っ節の強さを誇る――の……ええいこの際だから言ってやる! 言ってやるんだからな!

(……き……)

 

(着替え中の写真だ……)

 

……一体何が起きたというのだろうか。古河と早苗さんの写真が、何故か坂上の写真に変化してしまった。しかも、とんでもないとかそういう言葉でくくれる範囲ではない写真だ。一体なんだというのか。もう訳が分からない。古河の親父の仕掛けた罠だろうか? いや、どうもそれとは違う気がする……

(大体、古河の親父と坂上には接点がないじゃないか……)

それに、古河の親父は腐っても古河の親父だ。古河と早苗さん以外に燃える萌え対象を見つけることなどありえないだろう。ああ見えて(形はどうあれ)、あの親父はあの二人を大切にしているのだ。

「えっと……写真、写真……ああ、あったあった!」

「?!」

俺が考えを巡らせていると、ぶつかってきた中学生が足元に落ちていた写真を回収して、

「ごめんなさいっ! 今度はぶつからないように歩きますんでっ!」

「えっ?! あっ、ちょっ!」

俺が呼び止めるのも聞かず、そのまま走り出してしまった。その速さたるや、半端ではない。フルパワーの名雪が追いつけるかどうかという、すさまじい早さだった。

「陸上部にでも入ってるのか……?」

疑問を抱きながら、古河親子ではなく坂上の映った写真に目をやる。

(……ごくり)

……紛れもなく、着替えている途中の写真だった……湧き上がる生唾を飲み込み、改めてその危険さを実感する。

(と、とりあえず、先を急ごう……)

あまり見つめていると抑えられなくなりそうなので(?)、足早にその場を後にする。

(あいつ、なんでこんな物騒なものを持ち歩いてたんだ……)

考えたところで、仕方のないことだった。

 

「……どうしたもんか……大体、こんなもん欲しがるやつがいるのか……?」

俺はポケットに入った坂上の写真が妙に重いのを感じながら(多分、「罪の意識」のせいだ)、とぼとぼと街中を歩く。ずいぶんと物騒なものを手に入れてしまった。

「大体、さっきのは誰だったんだ……」

まったくもって進展しない事態に気が重くなりながらも、俺は歩き続ける……

……すると、そこへ。

 

「血を見ると気分が昂ぶらない?」

「ひゃあああああああああああ!」

 

まったくもっていきなり、耳元でとてつもなく物騒な言葉をささやかれた。今度こそもんどりうって吹き飛び、その場に倒れ付す俺。今ので確実に寿命が五年は縮まったはずだ。

「な、な、な、なんだいきなりっ?!」

「ああ、気にするな。私流の挨拶のつもりだからな」

「……天沢か……驚かせやがって」

俺は雪を払って立ち上がると、いきなり耳元でささやくという恐ろしい先制攻撃を仕掛けてきたその人物の姿を見た。

「へちょい神経してるわね……そんなんじゃ、生き残れないわよ」

「何に生き残るんだ、何に」

……こいつは天沢郁美。何でも俺たちの住んでいる街からは遠く離れた街に住んでいるらしいが、時折ふらりとこの街へ現れ、何をするともなく去っていく謎の存在だ。ちなみに、俺とも何度か接触している。

「……で、俺に何か用か?」

「そうね。有体に言うなら、襲いたくなった」

「いくらなんでも有体すぎるわっ!」

ちなみに、こいつは俺たちとは属性が若干異なるので、言葉がいろいろな意味で危険なのだ。求む全年齢対象! もしくは十五推! シナリオ的に秋子さんが男になるよりありえなさそうだが。

「はぁ……なんだかねぇ、気が昂ぶって仕方ないのよ……なんかこう、誰でもいいから滅茶苦茶にしてやりたいというか……」

「お前、自分の言っていることがこの空気にヤバいぐらい合ってないことに気付いてくれよな」

「……ちょっと待って。相沢、あんたなんか持ってるでしょ?」

……そしてこいつは、よくわからないが異常なほど勘が鋭い。俺が何か……具体的に言うなら写真を持っていることに、あっさりと気付いてしまった。

「……お前が見て面白いものでもないと思うが?」

「さっさと出しなさい。さもないと解体(バラ)すわよ?」

「……まあ、どうなっても知らないが……」

俺は半分諦めの境地で、ポケットに入っていた智代の写真を取り出し、無造作に天沢に突きつけた。

「ほれ。さっき拾ったんだ。お前がどう思おうと勝手だが、俺はあくまでこれを拾っただけだぞ」

「……こ、これはっ……!」

天沢は写真を持ってカタカタと震えだすと、俺とは比較にならないほどの血走った瞳で、それを穴が開くほどの勢いで見つめだした。

「これは素晴らしい……この血の昂ぶり、ただ事じゃないわ!」

「……………………」

……これは、燃え盛る火に油をドラム缶ごと投げ込んだようなものなのだろうか……うむ。多分、それで正解だ。

「助かったわ相沢……! 今宵は素晴らしい夜になりそうね……」

「ああ。好きなようにしてくれ。煮るなり焼くなり」

ちなみに天沢は……いや、言うのはよそう。何故坂上の写真を見てこんなに興奮しているのか疑問に思う人もいるだろうが、はっきり言ってこういうことを言ってしまうほど俺は野暮ではないのだ。

(ぶっちゃけ、岡崎だって似たようなオチになることもあったしな……)

気になる人は「春原バッド」辺りをキーワードにして調べてみるといいだろう。世にも恐ろしい光景が見れるはずだ。

「ふふふ。相沢、お礼といっては何だけど、これをくれてやるわ」

「……輸血パック? しかも三つ……」

「ええ。私の友人からもらったものよ。大きな鍵が印象的な、私好みの娘だったわ……」

「いいのか、それは。というか、アレは鍵じゃなくて斧だぞ。斧」

天沢が俺に手渡したのは、真っ赤な鮮血の入った輸血パック。それも三つ。パックの表面には、それぞれ「A」「O」「B」と大書きされている。恐らく、血液型だろう。

……というか、本当に大丈夫なのだろうか。この段落だけいろいろな意味でまずいと思うのだが、どうなのだろうか。読んでいる人が激怒しかねないと思うんだが、どうなんだろうか。

こんな俺の思いは捨て置かれ、天沢はどこかへと立ち去ってゆく。

「じゃあ、私はこれで帰るとするわ。またね♪」

「ああ。可能なら次はまともな登場をしてくれ」

俺は恐らく届かないであろう願いを天沢に伝え、妙に暖かい感触が嫌な輸血パックを三つ、ビニール袋に入れて持ち歩くことにした。

(個数的にはぴったり三つだが、こんなもん渡すわけにもいかないしな……)

クリスマスプレゼントに輸血パックなど渡してしまっては、恐らく俺は二度と水瀬家には入れないだろう。その前に、秋子さんによってオレンジ色の物体に姿を変えられてしまうかも知れない。

(まだ死にたくないよな……いくらなんでも)

 

「……なんでこうなっちまったんだろうな……」

俺は三つの輸血パックをビニール袋に入れ、寒風にその身を晒していた。時間はそろそろ昼の中頃で、人通りも増えてきた。

「……星の砂辺りで止めておくべきだったか……」

今更後悔してももう遅い。今度はこの輸血パックの始末方法を考えなければならない。……それでも、坂上の写真よりかは幾分安全にはなったと思うが。

「……はぁ」

俺がため息を吐きながら歩いていると、

 

「ふふっ。お困りのようだな。道行く青年」

 

不意に誰かから声を掛けられた。それはやはり聞き覚えのある声で、俺はわらにもすがる思いでそちらを振り向いた。

「聖先生……」

「どうした。肩を落としてげっそりと情けなく歩くなんて、相沢君らしくないな。もっとしゃきっとしたまえ」

「したくてもできないんですよ」

気がつくと、俺は商店街で唯一の医療機関である「霧島診療所」の前にやってきていた。そしてその入り口に立つ当診療所の院長・霧島聖女史の姿があった。

「ほう。悩み事か。聞いてやらないでもないぞ。専門の埒外だから答えは保証できんがな」

どうやら珍しく機嫌がいいようなので、どうせならと思って相談してみることにした。

「実は今俺、輸血パックを三つ持ってるんです。さっきいきなり渡されて」

「……輸血パックを? ほう。それで?」

「はい。それで……はっきり言って邪魔以外の何者でもないので、誰かに引き取ってもらおうと思って……」

俺は一縷の望みを託して、聖先生に包み隠さず事実を伝えた。聖先生は医者だし、ひょっとすると何かの間違いが起きればこれを引き取ってくれるかも……と、俺は考えたのだ。

「ふむ……」

聖先生は少しの間考えて、こう答えてくれた。

「いいだろう。引き取ってやる。ちょうど血が足りなくなっていたところだしな」

「……マジで?」

……なんということだろう。輸血パックの引き取りを、あろうことか了承されてしまったではないか。呆然とした面持ちで、俺が聖先生を見詰める。

「本当に都合がよかったんだ。この時期は怪我をする人間が増えるから、必然的に輸血が多くなる。血はたくさんあればあるほどいざという時に役立つ。引き取らせてもらおう」

「……いや、でも、出所の知れない血とか危なくないですか?」

「勘違いするな。そのまま使うわけじゃない。こちらで然るべき処理を施してから使う。気にするな」

「はぁ……」

気にするなと言われても、いくらなんでもヤバい気がしないでもないんだが、実際のところはどうなんだろうか……

「……ふむ。しかし、こちらとしてもタダでもらうのは気が引けるな……」

「何かくれるんですか?」

「そうだな。大した物ではないが……」

聖先生は……いや、ちょっと待て。なんでそっちに手をやるんだ。明らかに手の持って行き所を間違えてるだろ。いや、ちょっと待て。今一瞬「キラッ」って光ったように見えたんだが。いや、お願いだからちょっと待って。

「君にこれを一本やろう。切れ味は折り紙つきだ」

「素人に刃物(メス)を握らすなぁぁぁぁぁぁ!」

俺の抵抗もむなしく、三つの輸血パックは光り輝く鋭利なメスへと姿を変えた。危険度で言えばまったく大差ない。はっきり言って、こっちの方が危ないような気すらする。もうぐだぐだだ。

「心配するな。私がこれを君に渡したということは、君が間違いを犯すことなどないと信じているからだ」

「そう言ってもらえるのはうれしいんですが……」

「では、私はこの輸血パックの処理を行う。よいクリスマスを過ごすんだぞ」

「えっ? あっ、ちょっと!」

俺の呼びかけは無視され、先生は輸血パックを持って診療所へ入ってしまった。今更メスと輸血パックを交換するわけにも行かないし、今度はメスを誰かに交換してもらうしかない。

「とほほ……」

メスをコートのポケットへしまい込み、俺は再び歩き出した。

 

「いい加減、まともなものと交換したいな……」

調子が狂ったのは……恐らく、晴子と出会った辺りだろう。それまでは割といい感じの交換が続いていたのだが、晴子に「美少年」を交換してもらった辺りで何かが壊れ始めた。その後はもう、まともな人が見たら卒倒するようなものの連続だ。しかも今もっているのはメス。いろいろな意味でデンジャラスだ。

「……こんな刃物、だれが受け取るんだよ……」

俺が絶望の境地に立たされながらとぼとぼと歩いていると……

(……ん? 電線工事か……?)

側道を見てみると、そこに一台の軽トラックが停車していた。トラックには大きな電信柱……小さな電信柱なんて無いか。とにかく、電信柱が積まれていて、工事をしている真っ最中だった。

(あれが……工事を担当してる人か)

そしてその近くには、青い髪の精悍な顔つきをした若い男が一人立っていた。それは……偏見だが、この場には少々似つかわしくない、どちらかと言うと、もっと人前に立って活躍するようなタイプの人に見えた。

(確か……どこかで見たような……)

遠い昔に、あれとそっくりな顔を見たような気がする。けれども、その記憶を明確に引きずり出すことはできない。

そう……一年前、七年ぶりにこの街に訪れた時感じたような、あのもどかしさだ。

(誰だったかな……)

俺がそんなことを考えていると、不意に声が聞こえてきた。

 

「……困ったな。まさか、こうも固くなっているとは……」

 

その声にあわせて、俺がその男の方へと視線を向ける。

(何かを切ろうとしてるのか……?)

俺が見てみると、部品をまとめて固定していた荷造り用の紐を、男が何かで懸命に切ろうとしていた。しかし、どうにも上手く行かないのか、一向に切れる気配はない。

「……………………」

俺の胸には、きらりと光る銀の塊。

……何を迷うことがあるんだ。今日の俺は輝いてるって、秋子さんも言ってたじゃないか。絶対に上手く行く。普段は上手く行かないようなことだって、今日だけは上手く行くんだ。

(……行くか)

俺は意を決して、切れない紐に四苦八苦している男に声を掛けた。

「すみません」

「ん? どうした?」

男は額の汗をぬぐって、俺に返事をした。

「切れないんですか? 紐が」

「……ああ。見ての通りだ。いつもならすぐに切れるんだが……」

「ちょっといいですか?」

「ん? ああ」

俺は男の前に出ると、コートの内ポケットからきらりと輝くメスを取り出した。

(……人の体を切るために作られた刃物だ。そんじょそこらのナイフや包丁とは訳が違うぜ)

妙な、しかし確固とした自信を持って、俺は紐にメスをあてがった……

……すると。

(ぱちんっ)

軽い音を立てて、荷造り用の紐はあっさりと二つに裂けた。メスは軽く一度引いただけだ。それでも、無駄な労力を要することなく、紐はいとも簡単に切れてしまった。

「……これは……! 驚いたな。何を使ったんだ?」

「いや、これなんですが……」

驚いた表情の男に促されて、俺はメスを男の前に出した。

「……メス?! どうしてこんなものを?」

「いやあ、さっき診療所の前を通りがかったら、女医さんがいきなり渡してきたんですよ」

「……そうか。きっと、これも何かの縁だな」

男はふっと笑って……何というか、微妙に格好をつけたというか、ちょっと真似してみたくなるような、そんなポーズを取って見せた。やはり、どこかで見覚えがある気がする。

(どこだったか……)

俺が記憶を探りながら、何気なくトラックの上を眺めてみた。すると……

(まだ結構紐でくくったのあるな……)

メスでないと切れなさそうな紐で括られた荷物が多数、トラックの上に載せられていた。それを見て、俺は覚悟を決める。

「じゃあ、何かの縁ってことで、これ、使ってください」

「いいのか? まだ結構かかるぞ」

「いや、俺が持ってても仕方ないんで……もらってください」

「……そうか。じゃあ、使わせてもらうぞ」

男は存外素直にメスを受け取ると、それを胸ポケットへしまった。胸ポケットには、使い古されたであろう工具がいくつか顔を覗かせていた。その中に入ってみると、メスも案外サマになるものだった。

「それじゃあ、俺はこれで……」

「ああ、待て。一方的にものをもらうだけじゃ、俺の気がすまない。少し時間をくれ」

……俺はこの時、もうこの展開になることを驚かなくなっていた。俺が他の人からもらったものを他の人へ渡すたび、また、その人から別のものをもらう……この流れが、もはや自然に思えてきた。

(今度はなんだろうな……)

言葉どおりしばらく待つと、男が車のサイドボードから何かを取り出した。

「受け取ってくれ。最近、俺が出したCDだ」

「……CD?!」

「ああ。自主制作のちょっとしたものだがな。こんなものしかなくて済まないが……」

「いや、もらっておきます。これもきっと、何かの縁ですから」

「……そうだな。またどこかで会おう」

男は颯爽とそこから立ち去ると、再び仕事へと戻った。

(……俺も行くか)

メスを片手に仕事に没頭する男の姿を横目でちらりと見ながら、俺はまた歩き出す……

 

「……しかし、誰だったんだろうな、あの人は……」

俺はもらったCD――表面には「Love & Spanner」と大書きされている――を横にしたり縦にしたりして眺め回しながら、相も変わらず道を歩き続けていた。

「……ん? 待てよ? 『Yusuke Yoshino』……? やっぱりどこかで聞いたような……」

ゆうすけよしの・ゆうすけよしの……と、念仏のようにつぶやいてみる。しかし、あと一歩が出てこない。喉までその正体が出掛かっているはずなのだが、何故かもうあと一歩が踏み出せない。あまりにも微妙な感触だ。

「ゆうすけよしの、ゆうすけよしの……よしのゆうすけ、よしのゆうすけ……」

ムキになってつぶやき続けてみる。もうあと一歩、もうあと一歩……!

 

「すみませんっ。そのCD、どこで手に入れたんですかっ」

 

……念仏をつぶやき続けて出てきたのはCDのアーティストの正体ではなく、中学生くらいの女の子だった。俺は振り返って、女の子の顔を見る。

「えっと……とりあえず、お前は誰だ?」

「あっ、すみません。申し遅れました。私、『春原芽衣』と言いますっ」

いきなり俺に話しかけてきたこの女の子は、「春原芽衣」という名前らしい。はきはきとしたしっかり者といった感じで、少なくとも真琴やあゆよりも(どう見てもあの二人の方が年上なのだが)ずっと頼りがいがありそうに見え……

……「春原」?

「春原……えっ?! いや、もしかして……?!」

「ひょっとして、兄をご存知ですかっ?」

「ひょっとして、あの春原の妹なのか?」

疑問に疑問で返す形になったが、恐らく、相手の問いには答えた形だろう。女の子――芽衣ちゃん――はこくりと頷いて、口を大きく開けて答えた。

「はいっ。兄の名前は『春原陽平』といいます」

「……嘘だろ……あいつに妹がいたなんて……」

……春原陽平。隣のクラスに在籍している、学校でもトップクラスの有名人だ……残念ながら、あまり良くない意味で。

春原は学校でも札付きのワル……と言えば聞こえはいいが、単にどうでもいいことでいちいちヘマやくだらない悪戯を起こして、しょっちゅうしょっちゅうお灸を据えられているだけのことだ。おかげで成績は万年安定して低空飛行。一時は進級も危ぶまれるほどだったが……生徒指導の幸村先生の計らいで、なんとか留年は免れている。

「……本当にあの春原の妹なのか……?」

「えっと……はい。よく、『嘘でしょ』とか『幼児体型のお姉さんでしょ』とか言われます……」

「……後者はちょっと厳しいような気もするがな……」

春原は筋金入りのヘタレ……自分で言ってておかしな感じはぬぐえないが、とにかく、筋金入りのヘタレだ。それに比べて、目の前の女の子はどうだ? 見た感じからして、真面目で実直で一生懸命で、健気でしっかり者で快活そうで、ヘタレというイメージからは程遠い。本当にあいつの妹なら、春原は確実にこの妹に美味しいところをすべて持っていかれている。

「……で、芽衣ちゃんは春原の妹なわけだ」

「はい……兄も、もう少ししっかりしてくれるとありがたいのですが……」

「いろいろ苦労してそうだな……そう言えば、このCDだっけ」

「あっ、はいっ。それ、芳野祐介さんの十年越しの新シングルですよねっ」

「えっ?」

芽衣ちゃんに言われて、俺ははたと気付く。そして、つい先程まで引っかかっていた事柄が、まるで水によって押し上げられたマンホールのふたのように、喉からあふれてくるような感覚を覚えた。

「……芳野祐介……十年越し……シングル……もしかして、あのロック歌手の芳野祐介か?!」

「ご存知でしたかっ。はい。私、ずっとファンだったんです」

ようやく思い出した。あのどことなく影のある雰囲気、精悍な顔つき、そして……あの思わず真似てみたくなるようなポーズ……それは十年前に音楽界を席巻した、あの芳野祐介そのままだったのだ。

「つい最近シングルを出したと聞いて、ずっと探していたんですが……なかなか見つからなくて」

「それで、俺が持って歩いてるのを見て……なるほど。そういうことか」

芽衣ちゃんが話しかけてきたことへの納得がいった。どうやら芽衣ちゃんは、このCDを探してずっと歩いていたらしい。

……ならば、ここで俺が取るべき道は一つ。

「実はこのCD、もらい物なんだ。もしよかったら、もらってくれないか?」

「ええっ?! でも、そんな……」

「いいんだ。俺なんて、ついさっきまで芳野祐介の存在そのものも忘れてたくらいだからな。そんな俺よりも、ずっとこのCDを探し求めててくれた芽衣ちゃんにもらってもらったほうが、このCDも気分がいいだろ」

「本当に……本当に、よろしいんですかっ?」

「男に二言はないぞ」

芽衣ちゃんは俺の手から恐る恐るCDを受け取ると、まるで壊れやすいものを慈しむかのように、それを手の中へと静かに収めた。

「えっと……ありがとうございますっ」

「しっかり聴いてやってくれよ」

「はいっ。毎日でも聴きますっ」

うれしそうな笑顔を浮かべている芽衣ちゃんの姿を見ていると、こっちまで気分が穏やかになってくる……あいつには、こんな妹がいるのか……

「あっ、それならっ」

「どうかしたのか?」

芽衣ちゃんは肩から提げていた鞄に手を突っ込むと、何か包みのようなものを取り出した。

「これ、代わりに受け取ってくださいっ」

「……これは……チョコレートか何か?」

「はい。チョコレートです」

「見た感じ……手作りみたいだな」

「はい。兄にプレゼントようと思って持ってきたのですが……今寮の方へ行ってみたら、ちょうど出かけてたみたいで……」

「……あいつ……こんなに可愛い妹がいるというのに……」

つくづく、勿体無いやつだと思った。

「それで、兄にこれを渡せないのなら、CDをくれた……えっと、お名前……」

「相沢祐一」

「はい。相沢さんに渡そうと思って……」

「……ああ。ありがたく受け取らせてもらうぞ」

「はいっ。受け取ってくださいっ」

芽衣ちゃんから綺麗に包装されたチョコレートを受け取って、ポケットへとしまう。

「それじゃあ私、兄の寮まで戻って、兄が帰ってくるまでにお部屋のお掃除なんかを済ませておこうと思いますっ」

「ああ。頑張ってくれよ」

「はいっ」

満面の笑みを浮かべて、芽衣ちゃんは商店街を後にした。

(……さて。今度の交換物品はちょいと訳が違うな……)

俺はそんなことを考えながら、再び歩き出した。

 

……商店街の中頃。相変わらず大勢の人でごった返し、聖なる夜の準備に明け暮れている。

「いるかな、あいつ……」

今回俺は明確な目的を持って、ある人物を探していた。

「これは……俺がもらうわけにはいかないよな」

商店街を行き交う人を一人一人目視で確認し、その人物を探し出す。いると確定したわけではないが……いる可能性が最も高いのが、この商店街だからだ。

「……………………」

俺は人ごみの中、あいつの姿を追う……

「……いた」

……人だかりの中に、そいつはいた。何かを手にしっかりと持って、周囲をきょろきょろと見回している。

「行くか」

俺はそう一言だけ口にして、そいつのいる方向に向かって歩き出した。

 

「春原」

「ん?」

 

俺は商店街の真ん中に立っていた春原の肩を背中から叩いて、その場に呼び止めた。春原が振り向いて、こちらの目を見る。

「こんなところで何やってんだ?」

「何って? ああ、これのこと?」

春原はそう言うと、手にしていたものを上へ掲げた。それは……

「……ストール?」

「ああ。さっき街を歩いてたら、女の子が落っことしたんだ」

「……チェック柄のストールを……ねぇ」

それは、どこかで見覚えのあるストールだった。こげ茶と薄茶のチェック柄で、やや大きめのストールだ。四つに折りたたまれたそれは、春原の手の中に納まっていた。

(……ああ、そう言えば、あのストールの持ち主は……)

俺はすぐに持ち主を思い出したので、そのことも踏まえて声を掛ける。

「で、その落とし主の女の子を探してるって訳か?」

「そう。それを切欠に声を掛けて、寂しいクリスマスから脱出! ってわけさ」

「……………………」

失敗した時のことなどは考えていないのだろうか……それ以前に、なんと貧困な想像力だろうか……なんというか、友人として情けなくなる。ここは一つ、こいつを待っているあの子の事を思い出させてやるべきだろう。

「……お前、妹いるだろ」

「……い、いや。人違いじゃないかな?」

図星のようだった。こうなれば、ためらうことなどない。

「お前のこと探してたみたいだったぞ」

「……………………」

「寒い中、お前の寮にも行ったみたいだしな」

「……………………」

少し考え始めた。俺はこういう話術には長けたほうだと思っている。こいつが動揺するような言葉をあえて選んで、気持ちを変えてやらなきゃな。

「……ああそうだ。そいつが男からプレゼントをもらってるのも見たなあ」

「何っ?! どこのどいつだ?!」

「……さぁなあ? 直に聞いてみたらどうだ?」

「くっ……お前……俺の妹と知っていながらどうして……!」

「決まってるだろ? その男は俺だからだよ」

俺が突き放すように言うと、春原は顔を上げて、こっちを睨みつけるように見た。

「お前っ! よくもおめおめと……っ!」

「ああ。それから、お前の妹からこんなものももらったぞ」

「何?!」

俺は春原に向けて、芽衣ちゃんからもらった包みを放り投げる。春原は一瞬面食らった面持ちを向けて、それを受け取る。

「こ、これは……?」

「お前に渡すはずだったものだよ。受け取れ」

「こ、こんなもん……」

「……はぁ。お前は妹の思いがこもったものを受け取れないほど腐ったヤツだったのか?」

「……………………」

俺の言葉を受けて、春原が黙り込む。そろそろ頃合だろう。

「そのストールの持ち主は知ってる。俺がそいつに返しといてやるから、お前は待ち人のいる場所へ帰れ」

「……分かった。世話をかけたな……」

「いや。分かればいい。あんまり待たせるんじゃないぞ」

「ああ」

春原は納得したのか、俺にストールを預けてその場を後にした。

「……やれやれ。だんだん物々交換というよりも、配達人じみてきたな……」

チェック柄のストールの持ち主であるあの少女の顔を思い浮かべながら、俺は再び商店街の人ごみに身を投じた。

 

「さて、あいつはどこだ?」

俺は次のターゲットを探し求め、商店街をうろつく。恐らく、まだこの辺りを彷徨っているはず……

「……いたいた」

予想は的中。思ったとおり、そう遠くない場所に彼女の姿はあった。

 

「えぅ~……どこで落としたんでしょうか……」

 

その少女は商店街の片隅で震えながら、必死に落し物を探していた。いつものストールを羽織っていないおかげで、着ている服に直に風が当たっている。このままだと遅かれ早かれ、風邪を引いてしまうだろう。

……ただでさえ、風が吹けば折れてしまうような脆弱な体なのだから。

「どうしたんだ栞。スプーンでも落っことしたのか?」

「あっ、祐一さ~ん……」

栞は悲しげな声を上げて、華奢な体を両腕で抱きしめた。よほど寒いのだろう。

「見てください……お姉ちゃんにもらったあの大切なストール、どこかで落しちゃったみたいなんです……」

「そのストールは、こげ茶と薄茶のチェックのストールか?」

「はい……いつも私が羽織っていたものです……」

あれを羽織っていない栞の姿を見たのは初めてだということに、今更になって気付く。あれはもはやあいつのトレードマークだったのだ。

「商店街で落としたのか?」

「はい……身も心も寒くて震えちゃいます……」

「寒いのか……じゃあ、これで温まるといいぞ」

そう言って、折りたたんでいたストールを栞の上からかけてやる。栞が驚いたような表情で、不意に自分にかけられたストールを目をぱちぱちさせながら見つめた。

「えっ?! 祐一さん、これって……!」

「ああ。お前のストールだ。親切なやつが拾ってくれてたから、そいつの代わりに届けに来たんだ」

「……はぅ~。やっぱり、この感触がないと落ち着きませんー」

「だろうな。俺も、それを羽織ってないお前は妙な感じがした」

栞は冷え切った自分の体をストールとこすり合わせるようにして温め、ほっとしたような気持ち良さそうな、そんな表情を浮かべた。

「祐一さん、どうもありがとうございますー」

「礼なら拾ったやつに言ってやってくれ」

「はい。あっ、えっと……」

栞は気付いたようにポケットへ手をやると、中をごそごそまさぐりだした。この展開だと、恐らく……

「お礼といっては何ですが、これをどうぞー」

「……バニラアイス……」

「はい。おいしいんですよー」

……予想通り、お礼にバニラアイス(カップ)をもらってしまった。ひんやりとしたアイスの感覚が、手を通して全身に伝わってくる。冬に食べるものじゃないと思うんだけどな、これ。

「しかし、わざわざ寒い冬に冷たいものを食べなくてもいいんじゃないのか?」

「えー? 祐一さん、分かってませんね。冬に食べるからおいしいんですよ」

「ほほう。さてはお前、今度は味覚障害を起こしたんだな? そうだろう?」

「そんなこと言う人、嫌いですっ」

栞はぷいとそっぽを向いて、怒ったように頬を膨らませた。仕草の一つ一つが可愛らしい。あんまりふざけすぎると本当に機嫌を損ねかねないから、これくらいにしておくべきだな。

「まあ、これはありがたくもらっておくぞ。それより、今日は一人なのか?」

「あっ! そう言えば、お姉ちゃんを待たせたままでした。祐一さんごめんなさい。それじゃあ、私はこれで……」

「ああ。風邪を引かないようにな」

「はい」

ストールを羽織った栞が、商店街の奥へと駆けて行った。

「さて、次は甘いものか冷たいものが好きなヤツに会えればいいんだが……」

 

「どこも混んでるなぁ……やっぱり」

家を出てもうどれくらいになるのだろう。時間は午後の昼下がり。昼食は取ってきたものの、心なしか小腹の空きはじめる時間ではある。

「とは言え、この寒い中バニラアイスをかっ食らう勇気はないぞ……」

胃腸の頑丈さには自信があるほうの俺だが、さすがにこの寒空の下でバニラアイスをかき込む勇気はない……少し前までは、学校でそれをやっていたわけだが。

「……誰か引き取り手はいないだろうか……」

顔見知りを探して、視線をあちこちに投げかけてみると……

 

「あっ! 相沢だ相沢っ! こんなところで何してるのよ?」

「……………………」

 

……二人組に遭遇。どうやら俺は、今日一日顔見知りに出会い続ける運命らしい。

「やっほー。寂しいクリスマスを送ってるみたいねー」

「柚木に……そっちは里村か」

「……はい」

出会い頭に話しかけてきたのは柚木――本名・柚木詩子――、隣にいる里村――本名・里村茜――の親友らしい。のべつまくべつしゃべりまくる柚木と、無口でちょっと無愛想の入った茜。

「いや、これはクリスマスを楽しく過ごすための準備なんだ」

「へー。そこそこいい言い訳だと思うわ」

「何なら、俺と一緒に過ごすか?」

「……嫌です」

……それはそこはかとなく、俺の知っているとある先輩二人組を想起させた。今日出会うこともあるのだろうか。

「……何それ? バニラアイス?」

「これか? ああ。さっき知り合いからもらったんだ。いるか?」

「えっ?! くれんのそれ?! 茜っ、バニラアイスよ! バニラアイスっ!」

「……バニラ……ですか?」

「ああ。『特濃高級バニラアイス・バニラビーンズ入り』って書いてあるぞ」

カップがいつもより少し小さいと思ったら、どうやらいつもよりも数段高級なアイスをくれたらしい。栞なりの配慮ということだろうか。

「バニラビーンズ入り……」

「欲しいなら持っていってくれ。寒空の下これを食う勇気はない」

「茜っ! もらっちゃいなよっ! 茜さっきバニラアイスが食べたいってつぶやいてたじゃないっ!」

「……………………」

「あー、できれば、何かと交換してくれるとありがたいんだが」

俺が一言付け加えると、柚木は一も二もなく、ポケットから何かを取り出して突きつけてきた。

「じゃあこれ! さっきさ、道に落ちてたのを拾ったから」

「……メガネ?」

「そ。メガネとアイスなら等価交換でしょ?」

「確かに眼鏡は結構値が張るとは思うがな……」

拾い物をいきなり突きつけられる俺。こいつのペースに付いていける日は果たして来るのだろうか。

「メガネだけじゃ不満? じゃあさ、これもあげるよっ!」

「……それは……」

里村が手を伸ばして止めようとするのも間に合わず、柚木が提げていた袋を俺に突き出した。袋を受け取って、中身を見てみると……

「……この黄色い物体は……ぬーぼー?」

「それ、アイスでしょ。違うわよ。ワッフルよワッフル。蜂蜜と練乳がたっぷりかかった特別製よ」

「聞いただけで甘そうだな、それ」

袋の中に入っていたのは、柚木曰く「蜂蜜と練乳がたっぷりかかったワッフル」だそうだ。予想だが、多分一口食っただけでもう二度と食べたくなくなりそうな味のような気がする。

「……………………」

「それとメガネ、で、アイスを交換っ。これでいいでしょ?」

「……まあ、二つだからな。持っていってくれ」

俺はアイスを手渡すと、代わりにメガネとワッフルの入った袋をゲットした。まともなものの交換ではあるが、はっきり言ってプレゼントには程遠い。

「じゃ、茜。向こう行って二人で食べましょ」

「……ワッフル……」

「いいからいいから。じゃ、相沢。来年は楽しいクリスマスができるように祈ってるからー」

「……ああ」

どこか不満げな表情の里村をぐいぐいと押して、柚木は商店街の人ごみへ消えていった。多分あの後、噴水のある公園にでも行って二人でアイスを食べるのだろう。仲睦まじい事だ。

「しかし、里村はあれでよかったのか?」

袋に提げたワッフルとメガネを見ながら、どうも釈然としない気持ちを抱えつつ、俺は再び歩き出す……

 

「……しかし、これはどこまで続くんだろうか……」

ここまで交換交換の連続で様々なものを手にしてきた俺だが、一向に三人のプレゼントになりそうなものは見当たらない。楽天的な性格だと自認している俺も、さすがに不安になってきた。

「知り合いと言っても人数多いからな……さて。次は誰に会うんだろうな」

俺は不安な気持ちを押し殺して、商店街を歩き続けた。

(今までの感じだと、出会った知り合いにはこちらから積極的に声をかけたほうが良さそうだな)

向こうが気付いていないようなら、あまり急かず、されど確実にこちらから声を掛けるべし。知り合いではなかったとしても、困っている人がいて、俺が手にしているモノでそれが解決できそうなら声を掛けるべし。俺の中で、だんだんと方向性が定まってきた。

(……ん?)

俺が行動指針を決めて歩いていると、前方に……

(……一人で出歩けるようになったんだな……)

一つ年上の、「顔見知り」の姿があった。それは俺に気付くことなく、商店街を悠々と歩いている。その見た目は、まるで良家のお嬢様のようだった。

(行くか)

俺はそう腹を決めて、すたすたと歩き出した。

 

「みさき先輩」

「……祐一君?」

 

俺に声を掛けられて、みさき先輩はこちらへくるりと振り向いた。

「一人ですか?」

「うーん、さっきまでゆきちゃんと一緒だったんだけど、はぐれちゃったのかな」

「確かに、この人だかりじゃな……」

ふと気付いて周囲に目をやってみると、この辺りは既に人・人・人……人で溢れかえっていた。こんな状況じゃ、仲のよい二人がはぐれてしまうのも無理からぬ事だ。

「……………………」

みさき先輩はこちらをじーっと見つめて(正確にこちらを見つめている。外してはいない)、何か物欲しそうな表情を浮かべた。

「ところで祐一君、さっきからこの近くにはない甘いものの香りがしてるんだけど、ひょっとして何か持ってるのかな?」

「はい。さっき里村から、ワッフルをもらったんです」

「ワッフル……もしかして、あの甘々のワッフルかな?」

「そうです。いります?」

俺が問いかけると、先輩は驚いたような表情を浮かべて、ちょっとうれしそうな表情をそこへ混ぜ込んだ。

「いいのかな?」

「えーっと……できれば、先輩が持ってるものと何か交換してくれるとうれしいんですが……」

「なんでもいい?」

「はい。俺の手で持てるものなら」

先輩はその言葉を聞いて頷くと、服の横についていたポケットへおもむろに手を突っ込んだ。そして、中から何かを引きずり出そうとする……

(……いや、長すぎないか……?)

……するのはいいが、なんか出そうとしているものがやたらめったらと長い。ポケットに収まっているのが不思議なくらいだ。

「よいしょ、よいしょ」

先輩は大儀そうにそれをポケットから引きずり出すと、俺にそれをどんと手渡した。

(……何だこれは?)

俺が受け取ったのは……何というか、剣っぽいナイフというか、いや、剣と言い切ったほうがいいか? いや……剣と言い切るにはいささか形が……とにかく、柄のついた刃物だった。刃の辺りは上手く処理されているのか、切れることはなさそうだ。

「先輩、これ、なんですか?」

「えっと……この前カレー屋さんに行った時にね、相席になった人がいたんだ」

「ふむふむ」

「それで、その時にカレーのことでずいぶんお話が弾んで、一緒にカレーをたくさん食べたんだよ」

「ほうほう」

「最後にお別れするときに『貴方ほどカレーに理解のある方は初めてお見受けしました』って言われて、お近づきのしるしにってこれをプレゼントしてもらったんだ」

「これを……ですか?」

「うん。黒鍵って言うんだって。いざという時には投げて使ってください、とも聞いたよ」

「……………………」

先生、この街には吸血鬼や真祖が徘徊しているようです。

「これ、受け取ってもらえるかな?」

「とりあえずもらっておきますけど……」

「よかったよ。それじゃあ、ワッフルをもらってもいいかな?」

「はい。これです」

俺は袋の中からワッフルの入った紙袋を取り出して、みさき先輩へ手渡した。代わりに黒鍵を受け取る。思っていたよりかは軽いが、それでも結構ずっしり来る。

……と、その時。

「……あっ。先輩。向こうに深山先輩がいますよ」

「えっ? 本当?」

みさき先輩の親友・深山先輩が姿を見せた。こっちに向かって歩いてくる。

「それじゃ、俺はこれくらいで。先輩。ワッフル、ちゃんと食べてくださいね」

「うん。今から食べるのが楽しみで仕方ないよ」

先輩は朗らかな笑みを浮かべて、ワッフルの入った紙袋をゆさゆさと揺さぶった。

「みさきーっ! こんなところにいたんだー」

「ごめんごめん。ちょっとはぐれちゃったよ」

二人は無事に再会した。もう心配する必要もないだろう。

(お邪魔虫は消えるとするか)

俺は静かに、その場を後にした。

 

「……確かにクリスマスだし、キリスト教的な要素はあってもいいと思うが……」

黒鍵をぶら下げながら、ふらふらと街を歩く俺。さてさて、次に出会うのは誰でしょう? 俺はだんだん、次に誰に出会うか考えるのが楽しみになってきた。

「ま、こんなクリスマスも悪くない」

家で引きこもっているのも別にイヤじゃないが、こんな風に誰かに次々に出会うクリスマスってのも、カラフルでいい。

……そんなことを考えながら歩いていると。

(……今度は後輩か……)

前方に見覚えのある水色チェックのリボン。そのリボンが巻かれた髪の色は……綺麗なパープルだ。いつもの格好にマフラーと耳当てをつけて歩くその姿は、実年齢以上に幼く見えた。

俺はそれが顔見知りであることをしっかり確認し、後ろから声を掛けた。

 

「お出かけか? 上月」

「?」

 

上月は急に声を掛けられて、きょとんとした表情で振り向く。そして誰に声を掛けられたのかを確認すると、ポケットからマジックを取り出し、腕に抱えていたスケッチブックにきゅっきゅと何かを書き込んでいく。

『お出かけなの』

「そうか。一人で大丈夫か?」

『大丈夫なの。澪も大人なの』

「……うーむ……若干厳しいような」

『大人なの』

今俺が話しているのは上月澪。一年生の後輩だ。生まれつき言葉を話せなくて、こういう風にスケッチブックを通した筆談で会話している。栞や天野とも仲がよいらしい。何となく、栞に似ている部分もあるからなあ。風貌とか雰囲気とか。

「どこへ行く途中だったんだ?」

『お買い物なの』

「買い物?」

『演劇の小道具のための材料を探してる途中なの』

「そうか……邪魔しちゃ悪いな。それじゃ、俺はこれくらいで……」

上月とは物々交換はできなさそうだ。あまり邪魔するのも悪いし、これくらいで引き上げよう……俺がそう思って、横へ振り向いたときだった。

(ぐいぐい)

……誰かから袖を引っ張られた。しかも、結構な力で。

「……どうした? 何か思い出したとかか?」

『えっと』

引っ張ってきたのは、もちろん上月だった。慌ててスケッチブックを手にすると、きゅっきゅっと音を立てながらスケッチブックへ文字を書き込んでいく。

『それ、どこで見つけたのか教えて欲しいの』

「それって……この黒鍵か?」

『そうなの』

どうやら上月は、俺が手に提げていたみさき先輩(そしてそれ以前は別の「先輩」が所持していたことは間違いない)譲りの黒鍵に興味を示したようだ。やはり、上月とも交換をする運命なのか。

「さっきみさき先輩に会った時に譲ってもらったんだ。もしあれなら、お前にやるぞ」

『欲しいの』

「……あげるのは構わないんだが、何に使うか教えてくれないか?」

一応武器だし、上月が間違った使い方をすると危険だ。念のため、使い道を聞いておくべきだろう。

『えっと』

上月はそのページを開いて俺に待つよう促すと、再びマジックで何かを書き始めた。

『演劇の小道具の参考にしたいの』

「なるほど……どんな劇なんだ?」

この問いに上月は新しいページをめくると、一心不乱に文字を書き込み始めた。今までとは比較にならないスピードと文字数で、しかもそれが何ページにも渡って続いている。

………………

…………

……

『できたの』

……上月が書き終わる頃には、軽く二十分が経過していた。

「どれどれ」

俺がスケッチブックを手に取り、中を見てみた。

「……『ある所に一人の眼鏡をかけた学生さんがいたの。その学生さんには気の強い妹さんと二人のメイドさんがいたの。学生さんには特別な力があって、街にやってきた吸血鬼のお姫様を殺しちゃったの。学生さんは学校に行くんだけど、そこで一人の女の人(澪がやるの)に出会うの。その人は学生』……」

俺はこの辺りで、スケッチブックをパタンと閉じた。

(どうやらこの街には、本当に吸血鬼や魔術師が徘徊しているらしい)

いざという時のために備えて、あゆにいつでも奇跡を起こしてもらえるよう、今から特訓せねばと思った。

『澪の役のためにそれが必要なの』

「なるほど……分かった。これは自由に使ってくれ」

『ありがとうなの』

俺は黒鍵を上月に手渡し、上月がそれをうれしそうに受け取る。

『それじゃあ、代わりに』

「何かくれるのか?」

『これをあげるの』

黒鍵のお礼に上月から差し出されたのは、一枚の絵だった。学校の屋上から描いたものだろうか。見事な夕焼けがダイナミックに描写された、なかなか見栄えのする絵だった。

「お前が描いたのか?」

『そうなの』

「そうか……それじゃ、それと交換だ」

俺は代わりに絵を受け取って、それをしばし眺めた。

(……美術部でもやっていけそうだな)

率直な感想だった。

「じゃあ、気をつけてな。知らない人について行ったりしちゃダメだぞ」

『大丈夫なの』

最後に軽く挨拶を交わして、上月とはそこで別れた。

 

「絵か……悪くないんだが……」

上月からもらった夕焼けのをしげしげと眺めながら、俺はその出来栄えに少し驚いていた。これなら誰かにプレゼントするにしても、恥ずかしくない出来栄えだと思った。

「ただな……どちらかというとあいつらは色気より食い気のケがあるからなあ……」

……そう。俺がプレゼントを贈らなければならない相手は、たい焼きや肉まんやイチゴサンデーを連日のように食う乙女達。芸術や美術なんて二の次、三の次だ。真琴は漫画が好きだからある意味芸術に興味があるのかもしれないが、多分こんな絵じゃ腹も膨れないだろう。

(これも交換に出してみるか)

俺はそう決めて、商店街をうろつく。

……すると。

 

「困ったわね……やっぱり、止めといた方がよかったかしら……」

 

何度目だろう。顔見知りとの遭遇だ。

(しかも、困っているようだな)

そうと決まれば、いつも通りに話を展開していくだけ。俺はそれとなく近づき、声を掛ける。

「何か困ってるみたいだな」

「ええ。ちょっと絵のことで……って、相沢君?」

「よう。クリスマスの日に辛気臭いぞ、香里」

そこに佇んでいたのは、私服姿の香里だった。栞と揃いの柄のストールを巻いているその姿は、普段とは少しばかり違って見えた。

「まぁね……ちょっと、困ったことになって」

「その手に持っている絵のことか?」

「……なんだか、最初から分かられてたみたいね」

香里はそう言うと、手にしていた絵――ビニールに入れられている――をこちらへ手渡した。

「これは?」

「実はね、うちの母方の祖母がちょっと体を壊しちゃって入院してるのよ。ほら、今日はクリスマスでしょ? 祖母は絵を見るのが好きだったから、何か絵を持っていってあげようと思ったんだけど……」

「……絵……まさか……まさかこの絵の製作者は……!」

俺は手渡された絵をひっくり返し、そこに描かれている光景をその目に焼き付けた。

「……ア、アザトース!?」

「なんでクトゥルー神話なのよ」

……そこには、前衛という言葉で括ってしまうにはあまりにも勿体無い、人間の英知を超越した「何か」が刻み込まれていた。それは「描かれている」とかそういったレベルの話ではない。その紙に「刻み込まれている」と言った方がはるかにしっくり来る。

「……でも、相沢君の気持ちも分かるあたしがいるのよね……」

「これ、クトゥルー以外の何もでもないだろ……ということはこの絵は、お前の妹の作品か」

「……残念ながら、ね」

香里は苦笑いを浮かべて、禍々しい絵にちらりと目をやった。

(……しかし、ここまで恐ろしいものを書いてしまうとは……あいつは一体あの目を通して何を見ているんだ?)

ひょっとしてしおりんアイを通して見たら、俺や香里もこんな風な怪物やバケモノに映ってしまっているのだろうか。もしかして栞の世界はとんでもないことになっているのではないだろうか。いろいろな意味で大丈夫だろうか。

(……多分、今回のブツはこれになるんだろうな……)

俺は半分諦めながら、香里との話を再開する。

「その婆さんっていうのは病院で臥せってるんだろ? それなら、こんな絵を見せたらいろいろとヤバいんじゃないか?」

「そうなのよ。あたしもそう思ったんだけど……栞が描いてるのを見たら、止められなくて」

「……じゃあ、この絵を代わりに持っていくか?」

「えっ?」

俺は先程上月からもらったばかりの絵を、香里へと差し出す。香里はきょとんとした表情で、差し出された絵を見つめている。

「後輩からもらった絵なんだ。そこそこに見れたものだとは思うんだが」

「……すごいわね。この夕焼け……学校の屋上から見たものかしら?」

「ああ。構図とかから考えても、恐らくはな」

「そう……相沢君、やるじゃない」

「どういう意味だ?」

「言葉どおり、よ」

香里は満足げな表情で、絵をあちこちから眺めている。これならば、香里の婆さんが心臓発作を起こして向こう側へ旅立ってしまう心配もない。

……ただ、一つ気がかりな点が。

「代わりにその絵を持っていくのはいいんだが……栞は大丈夫なのか?」

「大丈夫って、何が?」

「絵が勝手に摩り替わったりしたら、あいつ怒るんじゃないかと思って」

「心配は無用よ」

香里はふっと笑みを浮かべて目を閉じると、ゆっくりとこう言った。

「あの子、病院は嫌いだから」

……ああ、そう言えばそうだったな。

「ということは、お見舞いに行くのはお前だけか」

「ええ。栞は病院の前で待ってるって約束したの……さっき、落し物をしたとか言って、向こうに走って行っちゃったけど」

「……いや、もうすぐ来る。さっき会ったんだ」

「栞に?」

「ああ……ほら、向こうにいるぞ」

俺が指さした先には、ストールをしっかりと羽織ってとてとてとこちらへ駆けてくる、栞の姿があった。実にタイミングがいい。

「それじゃ、ここにいるとややこしいことになりそうだから、俺はこの辺で」

「ええ。感謝するわ」

栞が俺のことに気付く前に、俺はそそくさと香里の前から立ち去った。

 

「……しっかし、こんな前衛芸術をもらっても、どうしたもんか……」

先程とは打って変わって、見ただけで人の心をぐちゃぐちゃのどろどろのめためたにしそうな絵(栞画伯作)を手に、俺はほとほと困り果てていた。

「……謎ジャムと同じぐらいじゃないか? こんなもんを欲しがる物好きなんて……」

俺はそう考え、思わず頭を抱えた。

「……いや。謎ジャムにも早苗さんという引き取り手があったんだ。きっと、この前衛芸術にも……」

謎ジャムですら引き取り手のあるこの街だ。栞の描いた前衛芸術(クトゥルー神話がモチーフ)にだって、価値を見出してくれるような変人……いや、一風変わった人は必ずいるはずだ。

「見つけ出して、何かと交換しなきゃな……」

さもなきゃ、これがプレゼントになってしまう。それだけは避けなければならない。

……と、俺が無理に気を奮い立たせて歩いていると。

 

「ほう……見事な前衛芸術じゃな」

「いきなりかよ!」

 

不意に老人に声を掛けられた。そしてそれはお約束の通り、聞き覚えのある声だった。

「……って、幸村先生じゃないですか……」

そこにひっそりと立っていきなり声を掛けてきたのは、生徒指導担当の幸村先生だった。あいにく俺は最初に学校へ転校してきたときと、舞の一件で付き添ったときくらいしか顔を見たことはなかったのだが、それでも、何故か印象に残る教員だった。

「ふむ……」

「……………………」

「確か……倉田さんの弟さんじゃったか?」

「それだったらうれしいかも知れませんが残念ながら違います。相沢です」

「おぉ……相沢君……だったか」

幸村先生は自分のペースをまったく崩さず、俺の手にしていた前衛芸術に見入っている。

(何かの間違いかも知れないが、ひょっとして……)

何が起きるか分からない。俺は幸村先生に問いかけてみた。

「先生。手にとって見てみますか?」

「……よいか?」

「はい」

「ふむ……では、見せてもらうとしよう……」

幸村先生は絵を手に取り、まるで舐めるかのようにじっくりと絵を観察し始めた。俺は幸村先生の行動の一つ一つに注意を払いながら、その様子を眺める。

「ふむ……」

「……………………」

「ほう……」

「……………………」

「うむ……」

絵を見るたび、幸村先生の表情に何か明るいものが増えていくように感じる。これは……ひょっとして……

「……気に入ったりしました?」

「……ふむ。相沢君がかような美的感覚の持ち主だったとはのう……」

「いや……これは俺が描いたんじゃありません。一年生の後輩が描いたものです」

「ほう……名を何という?」

「美坂栞、です」

「……なるほど。美坂さんの妹さんか……お姉さんとは、またずいぶん違った道に長けたようじゃな……」

何があったのかは知らないが、幸村先生は香里のことを知っているらしい。意外な人間関係だ。香里なんて、生徒指導室にもっとも似つかわしくない生徒だと思うが……恐らく、何か他の事で出会う機会があったのだろう。

「それで……もしよかったら、この絵を引き取ってもらいたいんですが」

「……ふむ。わしも、できれば手元においておきたいと思っておったところじゃ……」

「それでしたら、是非遠慮なく」

「ほう……分かった。では、これはわしが引き取らせてもらうことにしよう……」

幸村先生はスローな動作で絵を脇へと抱え込むと、大儀そうに鞄のチャックを開け、そこへ絵を静かに丸めて差し込んだ。

「……うむ。礼を言わせてもらおうかの……」

「はい。それで……できれば、代わりに何かくれるとありがたいんですが」

「何か……何か、というと?」

「何でも構いません、ただ、重要なものじゃなくて、他人にあげてもいいと思えるようなものなら」

「……ふむ。少し待たれい」

一度閉じた鞄のチャックを再び開くと、幸村先生が中を探り出す。少し覗いてみたがさすがに整理整頓されていて、几帳面な性格をうかがい知ることができた。

「……ふむ。こういったものでも、構わないかのう……?」

「……………………」

幸村先生が取り出したのは、まだ使われていない使い捨てのカイロだった。体の一部分に貼り付けるタイプではなく、手の中に入れて温めるタイプのカイロだ。

「ええ。こういうもので十分です」

「……うむ。寒い時期じゃからのう……風邪を引かんようにな」

「はい」

幸村先生のさりげない心遣いに柄にもなく感謝しながら、俺と幸村先生は別々の道を歩き始めた。

 

「なんかこう、もらうものが良くなったり悪くなったり、微妙だな……」

俺はカイロの封も切らずにそのまま歩き続け、気がつくと商店街の終わりにまで差し掛かっていた。

「……商店街を出るといきなり人が少なくなるな……」

ここで商店街を出てしまうと、知り合いに会えなくなってしまう……俺は何故かそんな気がして、再び商店街へ引き返した。

(今度は誰に会うだろうな……)

今までに出会った人はほとんどすべて顔見知りだった。違うのは、古河の写真を持っていたときにぶつかってきたあのヘンな男の子ぐらいだろう。それ以外は例外なく、直接の知り合いか知り合いの関係者か、もしくは遠い昔に知っていた人。その何れかだ。

そんなことを考えながら、再び商店街を歩いていると……

(……あれは?)

またしても俺は、どこかで見覚えのある顔に遭遇した。それは今までよりも少し前の、ややおぼろげな記憶の中にあった。

(……確か、前に一度家に上がりこんだ時に……)

それは、どこかおぼつかない足取りで歩きながら、何かを探し求めているような、あるいは誰かをずっと探しているような、そんな哀愁を漂わせていた。

(向こうが覚えてるとは思えないが……一度、行ってみるか)

俺はすぐにそう決断して、その人影に向かって歩き出した。俺は此方から声を掛ける腹づもりで、ずんずんずんずん近づいていく。

……ところが。

「……おや?」

その人に最接近したとき、その人がこちらをくるりと振り向いた。その表情は明らかに、見知らぬ人間ではなく、見知った顔の人間を見かけたときの表情だった。

 

「……確か、相沢君、だったかな……」

「覚えてたんですか?」

「ああ……朋也君が珍しく、友達を家に連れてきたからねえ……」

「……………………」

 

……商店街を彷徨うように歩いていたのは、岡崎の父親……確か記憶が間違っていなければ、直幸という名前の人だ。

「まさか、こんなところで君に会えるとはねえ……」

どこか魂の抜けたような声で、直幸さんはつぶやいた。

「どうしたんですか? こんな時間に……」

「いや……大したことじゃ、ないんだ……」

「……………………」

寂しげな表情に、これまでの人生の辛苦が刻み込まれているようだった。岡崎は父親のことに関して俺には何も言わなかったし、俺も問い詰めるようなことはしなかったが……少なくとも、仲がよいとは思えない。

「相沢君……朋也君は、学校で元気にしているかい?」

「……ええ。いつも誰かと一緒にバカやったり、笑ったりして……楽しんでます」

「そうか……私のいないところでは、ちゃんと笑ったりしているんだな……朋也君は……」

「……………………」

俺は直幸さんの言葉に、猛烈な違和感を覚えた。それは大きな釣り針が心の中に引っかかり、それを誰かに強く強く引っ張られているような……そんな、嫌悪感を伴った違和感だった。

「……朋也君……」

その時俺は、違和感の正体に気付いた。

(この人は……岡崎の誰だ? 岡崎から見て……どんな人なんだ?)

……違和感を抱えたままでいるのは正直辛かったが、直接言い出すのもどうかと思ったので、俺はここは黙っておくことにした。

「外は……冷えるねえ」

「ええ……」

直幸さんは誰かと話ができたのがうれしかったのか、訥々とした声で話しかけてくる。

……それはいいが、言葉だけではなく本当に寒そうにしていた。よく見ると手は真っ白になっていて、見ているだけで気が遠くなりそうな冷たさをしているのが分かる。

(……得た幸せは、困っている人に迷うことなくあげなさい、か)

俺は秋子さんの言葉を思い出し、すぐに声を掛けた。

「寒いですか?」

「うん……この冬は……いつもよりも冷えるね」

「もしよかったら、これを使ってください」

「……これは……?」

俺が差し出したのは言うまでもない。幸村先生からもらった、新品の使い捨てカイロだ。

「いいのかい?」

「はい。俺はこんな感じで、全身武装ですから」

「うん……ありがとう。使わせてもらうよ……」

静かに礼を言うと、直幸さんはカイロを受け取った。そして封を開けてカイロを取り出すと、冷え切った手にそれを押し当てた。白く生気の抜けていた手に、少しずつ赤みが増してくる。

「……悪いね。手だけでなく……少し、心も温まった気がするよ」

「それなら幸いです」

「……そうだ。お礼と言っては何だけど……これを、君にあげよう」

そう言うと直幸さんは提げていた袋へ手を突っ込み、そこから一つ、何かを取り出した。

「……これは?」

「朋也君が好きだった……今も好きかも知れないけれども、ちょっとしたお菓子だよ」

「なるほど……」

振ってみると、ざらざらと軽い音がした。恐らく、スナック菓子の類だろう。

「もし……家に帰っていれば、これをあげようと思っていたのだけれども……これも、何かの縁だ。相沢君、君にあげよう」

「……ありがとうございます」

俺は複雑な気持ちで、直幸さんからお菓子を受け取った。

……それは今までのどの物品よりも、ある意味では重たく感じた。積もり積もった何かが、それに半端のない重みをかけているようだった。

「それじゃあ、私はこれで帰るとするよ……久しぶりに人と話ができて、よかったよ」

「いえ……大したことじゃありませんから」

「うん……それじゃあ……これからも……」

「……………………」

 

「朋也のことを……よろしく頼むよ」

 

「……!」

俺が驚いて振り返ったときには、直幸さんの姿はもう、たくさんの人ごみの中へ紛れてしまっていた。

(直幸さん……本当は……)

お菓子の袋を持つ手に、強い力が加わるのを感じた。

 

「さて。どういう言い方をすべきかな……」

柄にもなく緊張した気持ちで、昼の商店街をひたひた歩く。人影は減る気配を一向に見せずに、逆に増えているようにも思えた。恐らくこの人だかりは、今日一日中ずっと続くだろう。

「……決めた。岡崎に任せよう。俺は……ありのままを伝えるだけだ」

春原と芽衣ちゃんのときとは訳が違う。あの二人の間に開いた溝は、そうやすやすとは埋まるまい。俺如きでは、溝の両端をつなぐことさえできないだろう。元々、俺は外部の人間に過ぎない。でしゃばりすぎは、溝を深くするだけだ。

「……それでも、〇と一じゃ大違いだ」

いつからだっただろう。俺が、他人のことでこんなに心を砕くようになったのは。自分で言うのもおこがましい話だが、今の自分は少々、お節介が過ぎるような気もする。俺を古くから知っている人が今の俺を突然見たら、絶対に驚くだろう。

……それに一番驚いているのは、他ならぬ俺自身なんだけどな。

(……さあ、見つけたぞ)

俺が考えを巡らせている間に、俺の探し人が姿を見せた。すぐに距離を詰めて、限りなく平静を装って声を掛ける。

 

「よう岡崎。一人か?」

「ああ、相沢か。お前も一人だろ?」

 

岡崎はこちらを振り向いて、いつものように軽い口調で挨拶を返してきた。

「ああ、一人だ。今ちょっと忙しくてな」

「なんだ? 探し物でもしてるのか?」

「探し物って言えば、探し物だな」

「探し物? まさか、またお前の友達が土の下に何かを埋めたのか?」

「……いや、その節では確かに世話になったが……」

何故こんな時にそんな話題を出すんだ、お前は……いや、出されても仕方のないことぐらいは分かっていたつもりだが。

「じゃあ、今度は池の中に沈めたとか」

「だからそうじゃないって」

「……悪い。ちょっとした冗談のつもりだ」

「半分くらい冗談になってねぇよ……」

本当にシャレになっていないから困る。もし真琴辺りが池のど真ん中に何かを沈めて「祐一っ、池のそこをすくってきてよぅ」とか言われたら池に真琴を投げ込みかねない。

「で、探し物ってのは何なんだ? 場合によっては協力するけど」

「うーむ……正確に言うと、探し人だ」

「人を探してるのか?」

「ああ。しかもその探し人は、今目の前で俺と話をしている」

「……俺に用があるなら最初からそう言えって」

呆れたような表情で岡崎が言う。俺はふざけるのをやめて、真面目に会話する体勢に入った。

「……岡崎。実は俺今、物々交換の真っ最中なんだ」

「はぁ? どういう意味だ?」

「いや、言ってる俺自身もよく分からないんだが、さっきから出会う人出会う人といろいろなものを交換して、ずいぶんいろんなものを手にしてきたんだ」

「よく分からんが……それで、俺とも何か交換ってことか? 俺は別に構わないが……」

「そういうことだ。という訳で、何かないか?」

俺にこういわれて、岡崎が懐から何かを取り出す。それは……

「……『おみくじらジュース』?!」

「ああ。さっき衝動買いして来たんだ」

……「それゆけおみくじらソーダ」とでっかく書かれた、缶入りの清涼飲料水だった。味は多分ソーダだろうが、「おみくじら」ってなんだ。「おみくじら」って……

(多分、おみくじがどこかについてるんだろう……)

俺はそう考えて、それ以上深くは追求しないことにした。

「お前も意味の分からないことをするんだな……」

「物々交換してるお前には言われたくないぞ」

互いに褒めているのか貶しているのかよく分からないやりとりをしながら、交換の話をまとめていく。

「こんなのでいいか?」

「ああ。そういうのが一番いい」

「よし。じゃあ、お前は俺に何をくれるんだ?」

「そうだな……さっき交換してきたばかりの、これだ」

俺はあまり調子を変えずに、淡々とさっき交換してもらったお菓子を取り出す。

「……これは……?」

「ああ。さっき知り合いにカイロを渡して、それで交換してもらったんだ」

岡崎の表情が明らかに変わった。俺が差し出したお菓子に、何がしかの意味を読み取ったようだ。

「……本当に交換して手に入れたのか?」

「俺は基本的にいらない嘘は付かないタイプだぞ」

「本当にそうだろうな? 誰かに言われたから、俺にこれを……」

「そんな野暮なことがあるか。俺は偶然お前を見かけた。それで、お前と交換がしたくなった。それだけだ」

そう。それだけだ。誰かと誰かの関係をどうしようとか、そういったつもりはまったくない。

……ただ、岡崎とはこれと何かを交換したかった。それだけの話に過ぎない。

「それだけなのか? その……お前が、何か要らないことを考えているんじゃ……」

「じゃあ、お前は俺がこれを誰から受け取ったと思っているんだ?」

「それは……」

「……………………」

淡々とした口調で語る俺に、岡崎が言葉を詰まらせる。俺の気持ちを理解してくれただろうか。

「……分かった。お前の言葉を信じよう」

「よし。これと……おみくじらソーダを交換だ」

「待ってくれ」

「どうした?」

交換を進めようとした俺を、岡崎の手が制止する。これは……俺に何か言いたげな表情だ。

「その……カイロとお菓子を交換した人は、お前に何か言っていたか?」

「そうだな……聞きたいか?」

「……ああ。聞かせてくれ」

「……………………」

岡崎が聞きたいといっているんだ。直前の交換者が言っていたことを……そのまま、何も手を加えずに言ってやるべきだろう。

「……『朋也のことを……よろしく頼むよ』」

この言葉を聞いた岡崎の表情が、明らかに変化した。どちらかというと、驚いたような感じの表情だ。

「……本当に……そう言ったのか?」

「ああ。少しも変えちゃいない」

「……………………」

そして、岡崎が次に放った一言は。

「……悪い、相沢。俺、ちょっと行くところができた」

「そうか。俺はこのジュースを誰かと交換するために、もう少しこの辺りをうろつくつもりだ」

「ああ……分かった」

……岡崎は静かに目を閉じると、気持ちを奮い立たせるかのように、こう言った。

「……すぐに埋まるとは思えないが……埋めるための努力を始めてみることにする」

「ああ。溝を埋めるための土は、案外あちこちにあるからな」

岡崎はふっと力を抜いたような表情を浮かべて、ゆっくりと歩き出した。

「相沢……お前、ちょっとお節介が過ぎるぞ」

「俺はお前と物々交換をしただけだ」

「……ああ、そうだったな」

そう。俺はいつだって……そんなヤツだ。

「じゃあな」

「気をつけてな」

静かに商店街から消えていく岡崎を見送ってから、俺もまた歩き出す……

 

「……で、カッコつけて交換してきたのはいいが、これは一体なんなんだ……」

岡崎とのやり取りが終わって手元に残ったのは、意味不明なジュースが一本。その名も「おみくじらソーダ」。

「岡崎も岡崎で、なんでこんなものを買ったんだか……」

クリスマスの日に物々交換をしている俺が言うのも何だが、何故こんなものを買ったのだろうか? 岡崎は「衝動的に買った」と言っていたが……

「これも何かの縁か……」

そう思うことにした。俺が今これを手にしているということは、まだ別の誰かがこれを欲しがっているということなのだろう。

(おみくじか……まあ、一種の占いみたいなもんか)

俺は「占い」というキーワードを思いついたとき、自分のクラスで学級委員をしている女の子の顔が頭に浮かぶのを感じていた。普段からトランプやタロットカードで占いをし、女子に限らず男子からも人気を集めている、あの女の子の顔が。

(委員長なら欲しがるかも知れないな。こういうの)

そして、そんなことを考えながら歩いていると……

(……マジかよ)

実際にその人物と遭遇してしまうから、今の俺は分からない。

(行ってみるか)

もはや反射的にそう考え、前から歩いてくるその人物との接触を試みる。

 

「委員長」

「ひゃっ?!」

 

素で驚かれてしまった。

「えっと……あ、相沢さん……ですか?」

「一応、同じクラスなんだけどな……」

「す、すいません……ちょっと、急だったもので……」

「悪い。驚かせたな」

委員長……もとい、藤林椋。大人しいというよりもちょっとおどおどとしたところのある性格で、隣のクラスで同じく委員長をしている杏とは百八十度ぐらい性格が異なる。杏とは双子の姉妹で、髪が長いのが杏、短いのが椋である。それ以外の特徴は細かいところまでよく似ていて、まるで鏡に映したかのようだと聞いた。

「どうしました?」

「いや、見かけたから、なんとなく声を掛けてみようと思って」

「あ、そうでしたか……すいません。やっぱり、急だったもので……」

「……そんなに驚いたのか……」

なんかこう驚かれてしまうと、もう少し考えて声を掛けるべきだったかなと反省してしまう。

「ところで、杏は一緒じゃないのか?」

「えっと……はい。お姉ちゃんは、ちょっと別の場所へ買い物に行くって……」

「そうか……」

「……あっ、それは……!」

藤林が不意に何かに気付いた調子で、ある一点を見つめたまま動かなくなった。

(……いや、まさか本当に……?)

俺が半信半疑でいると、藤林が決定的な一言を繰り出した。

「そのジュース、どこで手に入れたんですかっ?」

「さっき岡崎からもらったんだ。お菓子と交換で」

「岡崎さん……からですか?」

「ああ……ただ、一本しか買ってないみたいだったが」

「……………………」

藤林が考え込みだした。この流れから行けば、次に出る一言は大体想像がつく頃だ。

「相沢さん。そのジュース、もし良ければ、その……」

「いいぞ。なんとなくだけど、委員長が好きそうだし」

「えっと……分かりますか?」

「いつも占いとかしてるしな」

藤林は顔を赤らめて微かに笑みを浮かべ、照れたような表情で言った。

「はい……ずっと、占いやおみくじが好きで……」

「それで、このジュースにも興味を持ってたって訳か」

「はい……」

態度はもう確定的だ。藤林を置いて、他にこのジュースを渡すのにふさわしい人物は……いや、一人だけ思いついたが、そいつはまた別の機会に別のものを渡すこともできるだろう。今は藤林と交換してしまうのがいい。

「えっと……あれだ。譲るのはいいんだけど、できれば何かと交換してくれないか?」

「交換……ですか?」

「ああ。人にあげてもいいと思えるような、簡単なものでいい」

「それでしたら……」

提げていた鞄を探って、藤林が何か小さなものを取り出した。タバコの箱程度の大きさに見えるそれには、洒落たデザインがなされていた。

「このトランプでどうでしょう?」

「いいのか? そのトランプ、占いに使ってたものじゃ……」

「えっと……占いのものとは、また別のものです。予備のつもりで持ち歩いてたんですけど、結局、使う機会が無くて……」

「じゃあ、新品ってことか……本当にそれで良いのか?」

「はい。今のトランプが、手にも馴染んでますから……」

……手に馴染むという言葉で、藤林が占いにどれだけ熱意を傾けているかをうかがい知ることができた。占いやおまじないの類はあまり信じないタイプの俺だか、それは抜きにして、藤林の姿勢は尊敬に値すると思う。

「分かった。じゃあ、ジュースとトランプを交換だ」

「はい……ありがとうございます」

「こちらこそ。時間を取らせて悪かったな」

「いえ……おかげで、いいものをもらいましたから」

「そう言ってもらえると、こっちもうれしいぞ。じゃあな」

「はい。また……どこかで会いましょう」

藤林はにこやかに挨拶をして、その場を後にした。

(ジュースにトランプと来たか……ひょっとして、次の相手は……)

隣のクラスに在籍している金色の髪の少女の姿を思い浮かべながら、俺は次の相手を探して歩き始めた。

 

「そう言えば、晴子に会ったのはもう結構前なんだよな……」

物々交換の繰り返して、気がつくとトランプを手にしていた。藤林からもらったトランプはまだ一度も使われていないようで、誰かにプレゼントするのにも遜色のない品物だった。

「……これを持って帰って四人で遊ぶのも悪くないが、やっぱ決め手に欠けるよな……」

これまで様々なものを手にしては来たが、どれもこれもピンと来るモノがない。単体で見れば決してまずいものではないが、相手は三人だ。三人全員を満足させられるシロモノとなると、さすがになかなかぶつかれない。

(とりあえず、トランプが欲しそうな人を探してみるか……)

そう考え、俺は商店街を歩き続ける。

………………

…………

……

 

「……意外と見つからないもんだな……」

商店街を歩き続けてみるが、どうにも顔見知りに出会えない。出会ったと思ったら病院帰りの香里と栞だったり、金髪! と思ったら里村だったり、空振りの連続だ。

「何か喉が渇いたな……ちょっと自販機でも探してみるか」

いくら持ち合わせがないとは言え、飲み物を買う程度の金は十分ある。ここらで一息入れるのも悪くはないだろう。

(あったあった)

俺はすぐに自販機を見つけ、そちらに向かって歩いていく。

(コーヒーでも買うか……それも、あったかいのを)

この街に来て初めて口にしたのも、熱いコーヒーだった……幼馴染の少女が、再会のお祝いと称して俺にプレゼントしてくれた、熱々の缶コーヒーだ。

(もうそろそろ一年になるんだな……)

俺が物思いに耽りながら自販機へ歩いて行くと、そこには先客がいた。

……しかも。

 

「うーん……チョコ味はなくなっちゃったのかな……あっ! でも、ピーチ味が復活してる。にははっ。ピーチ味にしようっと」

 

……こういうことがあるものなのか……と、俺はしみじみと感じざるを得なかった。

「チョコ味なら最上段の右端にあったぞ」

「えっ?! わ、もう押しちゃったっ」

俺が言うのも間に合わず、先客は別のボタンを押していた。

ガコン。いい音を立てて、紙パック入りのジュースが出てくる。

「が、がお……もっとちゃんと見れば良かった……」

「まあ、最上段の右端なんて場所にあるほうもあるほうだと思うけどな……」

「にはは。祐一さんも、ジュース買いに来たのかな?」

「いや、俺はコーヒーだ」

小銭を口へ放り込んで、あの時もらったものと同じ銘柄のコーヒーを買う。

「神尾はこんなところで……って、ジュースを買いに来たんだったな」

「そうだよ。家にあるの、もう切らしちゃったから」

「……で、またその『どろり濃厚』なのか……」

「うん。すっごくおいしいんだけど、お母さんも往人さんも飲んでくれないの」

「それ、飲むというよりも吸うって言った方が正しいからな……」

……「どろり濃厚」。それはこの街を基点としていくつかの街で販売されている、一風変わったジュースの銘柄だ。

何が変わっているって、まず最初にジュースなのにジュースじゃない。何を言われているのか分からないと思うが、俺も何を言っているのか同じくらい分からないので問題はない。とにかく、ジュースではないのだ。どちらかというと……イメージしづらいとは思うが、冷たくないジェラートのような感じなのだ。冷たくないジェラート。

まず最初に、かなり力を入れて吸わないと中身が出てこない。猛烈に吸ってようやく出てきたと思ったら、それは「噛めるのではないか?」と思えるほどのぼってりとした感触。当然飲んだ後の爽快感などあるはずもなく、この街でこんな奇抜なジュースを好んで飲むのは目の前の少女・神尾観鈴その人ぐらいである。

「今年は三人でクリスマスか?」

「うん。お母さんも往人さんも、家にいてくれるって」

「……そうか。そら、よかったな」

「うん。一人のクリスマスは、ちょっと寂しいから」

「……………………」

晴子のときにも少し話したが、神尾は少し前までいろいろと事情があり、晴子との関係が上手く行っていなかったらしい。そこへふらりと現れたのが、現在神尾の家で居候をしている「国崎住人」という男だ。国崎が神尾と晴子の間に立ったのかどうかは知らないが、二人の関係に何がしかの影響を与えたのは間違いない。

(……確か、その後だったか。神尾が体を悪くしたのは……)

神尾が体調を崩したのは、国崎が居候するようになって半月ほど経った後だった。原因不明の熱と体の痺れ、そして痛み。医者にかかっても明確な手立ては打ち出せず、具合は悪くなる一方だった。

(補習仲間だった春原が、珍しく心配してたな……)

神尾を正式に引き取った晴子がすべての関係を清算して神尾家に戻った時には、神尾の体調は相当悪化していた。晴子はまるで別人にでもなったかのように――実際には、それが晴子の本当の姿だったが――献身的に看病し始めた。神尾から聞いた話に過ぎないが……この間に、二人は失われた時間を、少しずつではあるが取り戻して行ったそうだ。

(……俺や名雪も心配したな……あの時は)

神尾を見舞ったのは、八月の初め頃だった。水瀬家一同が揃ってお見舞いに行った時には、神尾はかなり危険な状態だった。「母親」の晴子のことも満足に分からない状態で、当然、俺たちのことも分かっていないようだった。神尾と仲の良かった名雪やあゆは相当ショックだったようで、夜遅くまで二人のすすり泣く声が聞こえていたのが今でも記憶に残っている。

(……それでも、名雪やあゆは……)

名雪やあゆは自分たちのことが分からない神尾のことを、懸命に励まし続けた。その二人だけじゃない。真琴や秋子さんもそうだ。他にも神尾の同級生や後輩・先輩が代わる代わる神尾の家に訪れ、必死に病魔と戦っている神尾にエールを送り続けた。同じく闘病生活を強いられた栞や古河、神尾と夏に入る前に知り合って仲良くなったばかりだという川口は、特に頻繁に神尾の元を訪れたと聞いた。

(……そして、奇跡は起きた)

八月の……そう、十五日だった。終戦記念日の番組を見ていた俺と名雪の元に、一本の電話がかかってきた。電話の相手は……晴子。神尾晴子。

(あの時は電話の向こうもこっちも、何が起きているのか分からなかったな……)

晴子は気が動転していたのか、言っていたことは何もかもが支離滅裂だったが、とりあえず、断片的にも分かったこと。

(突然観鈴が全快して、今までのことを全部思い出したとかどうとか……)

実際にはまだ完全には回復していなかったわけだが、記憶障害や体の痛みは完全に消え去り、八月の終わりにはもう学校へ行くことができるほど回復した。ほとんど全快と言っても差し支えなかっただろう。とにかく、観鈴は最後の最後で大逆転して見せたのだ。この知らせを聞いた時は、どれだけ安心したことだろうか。

(……そんなこともあったなあ)

えらく長い回想になってしまったが、とにかく今神尾は完全な健康体で、母親と居候、それに夏の初めに飼いはじめたというカラス(「そら」という名前らしい)に囲まれ、幸せな毎日を過ごしている。

「にはは……祐一さん、詳しいところまで知ってるね」

「……って、もしかして全部しゃべってたりとか?!」

「うん。そのまま本が書けそうなくらい、たくさんしゃべってた」

……また悪い癖が出たようだ。というか、最後までしゃべらせずに途中で止めてくれ……

「そんなこともあったんだよね……観鈴ちん、びっくり」

「おいおい。そんなこともって、これ全部お前の身に起きた事だぞ」

「うん……そうだよね。大変だったけど……今までで一番、楽しい夏だったよ」

「……………………」

「ヘンな言い方だけどね、あの夏に……一生分の楽しさが詰まってた。それくらい、楽しかったんだよ」

「……………………」

神尾の「楽しい」という言葉には、一体どれくらいの意味が込められているのだろうか? それを推し量る術を、俺は持っていない。

……ただ。

「じゃあ、今は楽しくないのか?」

「えっ?」

「あの夏に一生分の楽しさが詰まってたんだとしたら、今はもう楽しくないってことになるぞ」

俺はその言葉の意味を知りたくて、つい、そんなことを問うてしまった。俺のこの問いに、神尾が返してきた答えは……

「……うん。今はね、ただ楽しいんじゃなくて、幸せだから」

「……………………」

……そんな、答えだった。

「ただ楽しいんじゃなくて、今こうして此処にいることが……すごく、幸せだから」

「……そうか。そういうことなんだな……」

「うん。お母さんも往人さんも、みんな幸せ。にははっ」

神尾の笑顔がとてつもなく深遠なものに思われて、俺は思わず、その顔に見入ってしまった。

(「楽しい」と「幸せ」か……あんまり考えたことのないことだったな)

俺は苦笑して、頓珍漢な質問をしてしまったことを恥じた。

そう。神尾は幸せなのだ。一時の「楽しさ」に身をやつしているのではない。ずっとずっと間探していた「幸せ」という最終目的地に、神尾は到達したのだ。

長く険しい過酷な日々を抜けて、神尾はゴールへとたどり着いた。

……そういうことだ。

「あれ? 祐一さん、その手に持っているのは何かな?」

「……ああ、これか? これはトランプだ。それも、新品のな」

いろいろなことに思いを巡らせすぎたせいですっかり忘れていたのだが、俺は神尾と物々交換をするために接触したのだ。本題を忘れて感慨に耽っていたのでは、まるで意味が無い。幸い神尾から話しかけてきてくれたから、話を付けるのは容易いだろう。

「欲しかったらお前にやるぞ。せっかくのクリスマスだしな」

「えっ? いいのかな? 本当にいいのかな?」

「ああ。お前がトランプ狂なのは俺も知ってるし」

「が、がお……わたし、狂ってない……」

「いや、だってお前、口を開けばトランプで遊ぼうって言ってるし」

「楽しいんだよ、トランプ遊び。祐一さんもやろうよ」

「ほら、また言ってる」

「うー。それとこれとは、また別のお話」

よしよし。トランプを欲しがってくれている。後は……

「あれだ。これを譲るのは構わないんだが、代わりにお前からも何かくれないか?」

「えっと……それって、交換ってことかな?」

「ああ。何でもいいぞ、お前が『人にあげてもいいや』と思えるものなら、何でも」

「うーん……あっ、それなら。はいっ」

「……って、それかよっ! ジュースかよっ!」

「おいしいんだよ、これ」

……交換してもらったのは、神尾がさっき買ったばかりのジュースだった。確かに交換は成立するが……どうにも釈然としない。

「とりあえず、トランプとジュースを交換だ……」

「にははっ。これでお母さんと往人さんといっぱい遊べるよ」

「そうだな。今日は三人で思う存分楽しんで来い」

「うんっ。思う存分楽しむ。にははっ」

その言葉と共に去っていこうとする神尾に、俺はふと、先程出会った人物のことを思い出す。

「ああ、そうだ神尾。さっき、晴子とも出会ったんだ」

「えっ?」

「お前に何かプレゼントがあるみたいだったぞ。寄り道せずに帰ってやれよ」

「うん。祐一さん、ありがとうっ」

「気をつけて帰るんだぞ」

今度こそその場を去っていく神尾を、俺はしばしの間見送った。

 

「……怪しいジュースに戻っただけか……」

一旦はトランプへと昇華した怪しいジュース(おみくじらソーダ)だったが、気がついてみるとそれ以上に怪しいジュースへマイナス方向のパワーアップを遂げていた。

「しかもこれ、紙パックなんだよな……」

紙パック入りの怪しいジュース。果たしてこんなものを欲しがる人間が……

「……いや。秋子さんの謎ジャムや栞の前衛芸術にも引き取り手はあった。これにも必ずあるはず……!」

俺はこれまでのことを振り返り、明確な根拠のない、しかし確固たる自信を持って歩き続ける。

……すると。

 

「しかし折原、変わったものっていっても、こんな狭い街にそうそうお前を唸らせるようなゲテモノはないだろ」

「いや、こんな狭い街だからこそだ。きっと隠れた逸品があるに違いない」

 

またしても……またしても顔見知りとの遭遇。今度は二人組だ。

「よう折原。それと住井」

「おお相沢。お前も一人か?」

「俺の存在は無視かよ!」

この二人も岡崎や春原と同様に、俺の悪友と呼べる存在である。こんな風に二人で固まって行動していることは珍しくないのだ。

「今は一人だが、夜はにぎやかになる予定だ」

「ああ、そう言えばお前の家は、水瀬を初めとして多種多様な女の子が集まったハーレムだったな……」

「何ぃっ?! 相沢っ、てめぇっ! 一人くらいこっちによこせっ!」

「アホか貴様は!」

折原の言うことも分からないではない……冷静になって考えてみれば同年代の少女三人と同居してるなんて、普通じゃあり得ないことだ。住井が羨ましがるのも無理はない。

(……けどな住井、そうそう楽しいことばかりでもないんだぞ、これが……)

あいつらと一緒に過ごすのは確かに楽しい。楽しいことは間違っていないが、あれだ。金の消費速度が半端ではない。名雪には週に三回は百花屋へ連行されるし、真琴やあゆに至っては冬場になるとほぼ毎日例のものをせがまれる。秋子さんからの小遣いがあるとはいえ、これが結構厳しい。

(あと、たまに舞や栞にも……)

あの二人にも出会うたびにおごっているような気がする……問題は、彼女らにおごることに対して俺は、金銭的な面で辛いのは置いておいて、それ自体は別にイヤじゃない、むしろやってて楽しいことなのだ。彼女らが好物を頬張る姿を見ていると、どーしてもまたおごりたくなってしまうのだ。

(……とは言え、金がないのは事実なんだよな……)

そう。楽しいからといって金が増えるわけではない。事実俺はこうして金がないために、物々交換を繰り返すハメになった。しかも、未だにプレゼントになりそうなものは見つかっていない始末だ。とほほ。

「そうか……相沢、悪かった。お前にはお前なりの苦労があったんだな……」

「ひょっとして……また口に出してしゃべってたり?」

「ああ。ほとんど全部」

「ぐあぁ……」

この癖、いい加減に直さないとな……サンタから俺へのプレゼントは、この悪癖の改善というわけにはいかないだろうか……

「……ところで相沢。お前、いいところに通りがかったなっ」

「何がだ?」

「実はな、折原が今までにないようなゲテモノを探してるんだっ」

「珍味といえ、珍味と」

「ゲテモノ……つまり、他では食えないようなとんでもない食い物ってことだよな?」

「ああっ。何か知らないか?」

「何か知ってたら教えてくれよ」

「……………………」

ゲテモノ……謎ジャムや早苗パンは間違いなくその範疇に入ると思うが、この二つ(特に前者)は死の危険性が伴うのでさすがに教えるのは躊躇われる。何かいいものはないだろうか……

(……おっ。そうだ……これを渡してやろう)

俺は実にいい事を思いついた。これなら、どちらも納得の行く結末を得られそうだ。

「ああ。知ってるぞ。しかも、今持ってる」

「マジか?! なあなあ、何だよそれはっ」

「これだ」

俺が二人の前に差し出したのは、神尾から交換してもらったあの伝説のジュース・どろり濃厚のピーチ味だ。

「……どろり濃厚ピーチ味?」

「ああ。知ってたか?」

「いや、聞いたこともないぞ。これがそんなにすごいのか?」

「ああ。飲んだら一瞬青空が見れるほどの美味さだ」

一度興味本位で飲んで実際に青空が見えたので、これは嘘ではない。

「相沢っ、それ、折原に譲ってやれよっ」

「構わないが……あれだ。代わりに何かくれないか?」

「何か? どんなのだ?」

「何でもいいぞ。お前が他の人にあげてもいいと思えるようなものなら、なんでもだ」

「そうだな……よし。じゃあ、これをお前に渡すぞ」

「……………………」

そう言って折原が取り出したのは……

「……風邪薬?」

箱入りの粒状風邪薬だった。まだ開封されていない新品だ。見た感じ、買ってきたばかりの品物に見える。

「ああ。念のために買っておいたんだが、よく考えたら家にまだ一箱あるのを思い出して」

「よく確認してから買えよっ!」

「さっき薬局に行ったら、これが最後の一箱だったんだ。最後の一箱だぞ? お前だって欲しくなるだろ?」

「いや、それでもだな……」

俺はぶつぶつ言いながらも、なんだかんだで風邪薬を受け取る。そしてその代金代わりに、あの絶望ジュースを手渡す。

「サンキュ、相沢! これでまた新境地が開拓できそうだ」

「ああ。開拓のし過ぎで帰って来れないようにだけはならないでくれよ」

「不吉なこというなよ。大丈夫だって! こう見えても折原は頑丈にできてんだからさ!」

「……とりあえず、健闘を祈ってるぞ」

……「高校生、清涼飲料水を喉に詰まらせ窒息、病院へ運ばれる」などといった不吉極まりない新聞の見出しが紙面に踊る光景を頭に思い浮かべながら、俺はそそくさとその場を後にした。

 

「風邪薬か……まだ、プレゼントには程遠いな……」

折原から受け取った風邪薬を眺めながら、次の交換相手を探す。風邪薬なら少なくとも需要はあるだろう。

「とりあえずこれは、風邪を引いてる人に渡すべきだな」

俺はそう考え、知り合い、かつ見た感じ風邪を引いていそうな人間を探す。

(しかし、そうそう簡単に都合よく見つかるとは……)

そう思い始めた矢先のことだった。

 

「くそっ……なんでよりにもよってこんな日に売り切れなんか起こしてんだあの薬局……くしゅっ! あー……くしゃみも咳も止まりゃしねぇ……」

 

……マジか。今度はお前か、お前なのか……

(もう完璧に法則になっちまってるな)

俺はそう実感しながら、風邪をこじらせて苦しんでいるであろうその知り合いに近づいていった。

「北川」

「……おお、相沢か……ぐずっ……ごんなところでどうした?」

いつもとは明らかに違う鼻声で返事をする北川。これは結構重症ではないだろうか。

「何となく歩いてただけが……お前、風邪引いたのか?」

「ああ……くしゅんっ! まったく、クリスマスだって言うのに……」

「災難だな、こりゃ」

「まったくだ……」

北川はティッシュで鼻をかみながら、しきりに咳やくしゃみをしていた。見るからに辛そうだ。

「風邪引いてるんだったら、家で休んでたほうがいいぞ」

「そうだけどな……ぐずっ……風邪薬を切らしちまって、薬局に買いに行ったんだよ……」

「そうしたら、売り切れだったのか?」

「ああ……赤と金のパッケージが目印の、よく効く風邪……ごほっ! ……薬なんだが……」

「……………………」

俺はポケットへ突っ込んだままの交換物品を頭に思い浮かべ、そのデザインと北川の言っていたデザインをすり合わせる。

(……折原が意味なく買わなきゃ、この交換は成り立たなかったな)

頭の中での交渉は成立した。ならば、後はもう実際に交換するだけだ。

「北川。今日はクリスマスだ」

「ああ……人生最悪のな……」

「という訳で、俺からお前にささやかなプレゼントだ」

「……え?」

前置きを軽く済ませて、ポケットから風邪薬を取り出す。

「……おおっ! これはっ!」

「さっき折原に交換してもらったんだ」

「交換? どういう意味だ?」

「いや……ヘンな話なんだが、実は俺は今、物々交換をひたすら繰り返し続けているんだ」

「……よくは分からないが、何か訳ありだな。それじゃあ……俺も何か……」

北川は飲み込みが早くて助かる。前にあゆの人形を探した時も、理由は深く聞かずに手伝ってくれた。友のあるべき姿の一つなのだろう。いい友達に出会ったと思う。

「……悪い。今俺、財布しか持ってねぇ……」

「……マジか」

……と思ったのも束の間、致命的なことを言い出す北川。物々交換はここで終わってしまうのだろうか?

「物々交換のルールからは外れると思うが……現金でもいいか?」

「ああ……俺は別に構わないぞ」

「じゃあ、これをお前に渡すぞ」

「……二千円札?!」

「ああ。二千円札だ」

北川が取り出したのは、あろうことか二千円札。現金は現金だが、その存在の稀少さ故にあまり現金感は感じない。むしろ、何かの物品に近い感覚だ。物々交換はまだ続くらしい。

「これなら十分だが、いいのか?」

「ああ……持ち合わせがそれ一枚しかねぇんだ……釣りはいらんぞ」

「よし。じゃあ、風邪薬と二千円札を交換だ」

「恩に着る……へくしゅっ!」

北川は風邪薬を受け取って礼を言うと、そのまま歩いてどこかへと去っていった。

(次行くか……)

 

「さて、いよいよ現金を手に入れたわけだが……」

物珍しい二千円札とは言え、現金であることに何の変わりもない。これを使えば、また別のものを買うこともできる。

「かと言って、軍資金二千円じゃ三人は厳しいぞ……」

財布の中の小銭を合わせてみても、三千円と少ししか手元に無い。これで三人分のプレゼントは酷だ。

「はてさて、どうしたものか……」

未だ見つからぬクリスマスプレゼントを探し求め、俺は商店街を一人歩く……

……すると、そこに。

(あれ……)

銀色の髪をなびかせながら歩く、すらりとした体型の一人の女性。

(あ、あれはっ……!)

その瞬間、俺の脳裏によぎられては困るものがよぎり返す。束の間の間手の中にあり、今は恐らく、朱い月の似合う物騒な言葉を吐くあいつが持っているであろう、あの写し絵――

(……い、いかんいかん。こんなところで収まりがつかなくなっては困るぞ……)

理性を総動員して脳内革命を弾圧・鎮圧し、あくまでも冷静に眼前の人物を観察する。ここまでの経験から、俺とであった顔見知りは十中八九、何がしかの悩みや不安を抱えている。

(あいつだってそうかも知れないな)

そして俺のその考えは、幸か不幸か、的中していた。

 

「……困ったものだ。一体、どこで落としたのやら……」

 

その人物はしきりに目を瞬かせながら、雑踏の中に落としたであろう何かを探し求めている。そしてそれはどうやら結構重要なシロモノらしく、表情はかなり真剣だ。

(……二千円で解決できるものならいいけどな……)

財布の中で佇んでいる守礼門と源氏物語絵巻が刻み込まれたお札を思い浮かべながら、俺はその人物に迷うことなく接触した。

「探し物か? 智代……」

「ああ、相沢か……見ての通りだ」

坂上は困ったように顔を上げ、視線をこちらに向けた。

「……あれ?」

……そして気付く。その坂上の顔に、どこか違和感があることに。

「もしかして、眼鏡を落としたのか」

「よく分かったな……その通りだぞ」

「いつも縁無しの眼鏡をかけてたからな」

「困ったものだ。無くても見えることは見えるが、どうにも落ち着かなくてな」

ため息を一つ吐いて、坂上が首を横に振る。眼鏡をなくしたとあっては、さすがに楽な気分ではいられないだろう。

(しかし、二千円じゃ眼鏡は買えないぞ……)

……またしてもピンチ。二千円で買える眼鏡など本気でタカが知れている。坂上だって、二千円札なんてもらっても使いどころに困るだけだろう。交換してもらうこっちも気が進まない。

(はてさて、どうしたものか……)

何か策はないかと、何気なくコートに手を触れる。そんなことをしても意味は無いことぐらい分かっていたが、そうでもしていないと落ち着か……

(……?)

その刹那、コートの内ポケット付近へ当てた手に違和感が走る。コートをただ着ていただけなら、まずあり得ない感覚。

ポケットの中に……何かが入っている。

(……そう言えば、柚木のヤツが……)

……すっかり忘れていたが、柚木と里村からはあのおぞましい甘々の蜂蜜練乳ワッフルだけではなく、もう一つ、落し物を貰い受けていたんだった。

(……一か八かだ)

別に間違っていたところで、こちらが損をするわけじゃない。これで坂上の問題が解決するなら、それでいい。俺はあっさりそう決めて、すかさず坂上に切り出した。

「智代。お前の落とした眼鏡って、これじゃないか?」

「……! ああ、それだ! その眼鏡に間違いないぞ」

「それなら良かった。ほら」

正解(ビンゴ)だったようだ。坂上は眼鏡を受け取るとそれをさっとかけ、晴々とした表情を浮かべた。

「助かったぞ。このまま眼鏡をなくしたままだったら、年を越すに越せなかったからな」

「そうだな。やっぱりそれをかけてないと、何かが足りない気がする」

「そんなに似合ってるのか?」

「ああ。なんというか、頭良さそうな感じがする」

「そんなことを言ってくれるな……私は、そんな人間じゃない」

「……………………」

ちなみに坂上は、学校でもトップの秀才である香里と遠野に次ぐ位の成績を誇っている。「伊達眼鏡」ではないのだ。

「ありがとう相沢。礼を言わせてもらうぞ」

「いや、拾ったのは里村とその友達だ。あいつらに会ったら、また礼を言ってやってくれ」

「里村さんか……分かった。覚えておこう……ああ、そうだそうだ」

晴々とした表情を浮かべていた坂上だったが、不意にまた表情を変え、鞄の中を探り始めた。もはや物々交換は半強制的に行われてしまうらしい。

(秋子さんのパワーじゃないのか、これ……)

何となく背後にでかいビン(オレンジの物体入り)を持って朗らかな笑みを浮かべながら立っている秋子さんのヴィジョンが見えたので、恐る恐る振り向いてみる……

(……んなわけないか)

……が、これはそういうタイプの話ではないことを思い出し、ほっと息を吐く俺であった。

「礼と言っては何だが……」

「インスタントカメラ? どうしてこんなものを?」

「さっき買い物をして福引をしたら、三等がそれだったんだ」

またヘンなものを三頭に据えたな……

「特に使うつもりもないし、何より眼鏡のことがある。受け取ってくれないか?」

「ああ。使わせてもらうぞ」

坂上からインスタントカメラを受け取り、ポケットへとしまう。

「それでは、よいお年を」

「ああ。またお前に会える日を楽しみにしているぞ」

最後にふっと笑顔を浮かべて、坂上は雑踏の中へ溶けていった。

「……悪いが、新年を迎える前にクリスマスをどうにかせねば……」

インスタントカメラが内ポケットへ入っていることをしっかりと確認し、俺はその場を後にした。

 

(手元にあるのは二千円とインスタントカメラ……)

坂上とはメガネと引き換えにインスタントカメラをもらったわけだが、果たして使い道はあるだろうか?

(……写真……)

脳裏に浮かぶは古河と早苗さんの寝顔(糸目)の写真、そして坂上の……

(……って、俺は何を考えているんだぁ!)

いかんいかん。ふとしたことであのことを考えてしまう。それだけ、あの写真はこの健全な男子高校生の代表たる相沢祐一にダメージを与えたということだ。ダメージというよりもむしろパワーアップアイテム(?)と言うべきだとかそういった声も聞こえてくるが、今回はそういう話ではないのでその辺りは了承していただきたい。

(坂上からカメラを渡されたということは……これで写真を……写真……写真……)

ああ、写真を撮りたくなってきた……そう、それこそ名雪や秋子さんの艶かし

(がっ)

「おわぁっ!」

……などと俺が不埒な考えを抱いていると、何かにつまづいて思いっきり転びそうになった。

「とっとっと……」

倒れそうになったところをどうにか力づくで体勢を立て直し、転ばずには済んだ。俺の足に触れた感触はそう固いものではなく、また、かなり大きなもののような感じがした。

「……何だったんだ……」

落ち着いたところで、俺は一体何につまづいてしまったのかを確かめてみる。盛り上がった舗装道路にでもつまづいたか、せり出した木の根にでもつまづいたか……俺はその程度のことと考え、後ろを振り返った。

 

「……………………」

「……やあキミ……ここは天国かい……?」

 

……思いっきり人が行き倒れていた。いや、本当に人が倒れていたんだって。

「だ、大丈夫か……?」

「えっと……割と大丈夫じゃないかも……ははは……」

そこに倒れていたのは、金髪が目を引く一人の少女……いや、少年? というか同い年? それとも年上? とにかく、「同い年の少年」「同い年の少女」「年上の少年」「年上の少女」のいずれかであることは間違いない。そういった風貌の人間が倒れこんでいた。

「何があったんだ?」

「話せば長いんだけどね……」

「長い話なのか?」

「それに、複雑な話でもあるんだ……」

「……長くて複雑な話なのか?」

「そう……例えるなら……」

「例え話がいるのか……」

「ボクがたい焼き屋でたい焼きを食い逃げしようとして……」

「……………………」

「でも結局そんな悪いこと到底できなくて、今ここで空腹で行き倒れてる、ってとこかな……」

「中途半端に話を混ぜるなっ! というか結局それが全容じゃねぇか!」

どこかで聞いたようなエピソードの珍妙な改変を聞かされ、俺の肩から一気に力が抜ける。一体こいつは誰だ。誰なんだ。

……そんなことより、どうやら空腹で行き倒れてしまったようだ。確かに顔から生気が抜けているし、心なしかやつれているようにも見えなくも無い。気分的なものも多々あるとは思うが。

「何も食べるものがないのか?」

「うん……最後に食べたのは、真っ白で気が遠くなるほど冷たい、冬の空からの贈り物かな」

「雪を食うな! 雪を!」

「あははは、ちょっとくらい甘くてもよかったのに、雪はただ冷たいだけだったんだよ……ボクは……冬に裏切られたんだ」

裏切ってもいないし、多分、冬的にはこんなの押し付けられても困るだけに違いない。

「家はどこだ? もしアレなら、送って行ってやるぞ」

「ありがとう……キミの熱意には感謝の気持ちでいっぱいだよ」

「熱意て」

「でもね、ボク今家が無いんだよ」

「……マジか」

「うん……飛び出してきたばっかりでね。家はここから軽く百キロぐらい離れてるよ……」

「もうちょっと計画を立ててから飛び出して来いよ!」

俺はこんなのに構っていていいのだろうかという疑問が、むくむくと頭をもたげてくる。

「ああ……ここがボクの死地になるんだね……」

「心からのお願いだから、こんなところで骨をうずめないでくれ」

「最後にもう一度……ラーメンセットが……」

「だからキャラが違うだろうが! キャラが!」

そう言えば、ラーメンセットが好物の人形遣いにはまだ会っていない。この調子だと、間違いなく出会うだろう。だがとりあえず、こいつがその人形遣いではないことは確かだ。

(……とは言え、こんなところで行き倒れられても困るからな……仕方ない)

どうせ中途半端に持っていても仕方の無い事だし、ここで渡してしまってもまだインスタントカメラがある。

(物々交換だし、いいか)

俺はすんなりそう決めて、おもむろに話を切り出す。

「金はないのか?」

「見ての通り……金も熱意も擦り切れちゃったよ……ははは……」

「……ほら」

「えっ?」

地面で寝そべっているそいつの手に、折りたたんだ紙幣を握らせる。

「それで暖かいものでも買って、寒さを凌げる場所を探せ」

「に、二千円札……」

「別の意味で貴重だぞ」

ちなみに、俺は今まで持ったことが無かった。そういう意味ではちょっと勿体無い気もするが、ここで死なれるよりかはマシだ。

「本当に……いいのかい?」

「ああ。さすがにここで死なれちゃ困る」

「いぃぃやっほぉぉぉう! キミって最高ぉぉぉぉう!」

「だからキャラが違うと言ってるだろぉおぉっ!」

二千円札を手にした行き倒れの人物は突然ジャンピングアッパーカットと共に立ち上がり、勝利のガッツポーズを決めた。嫌なくらい清清しい微笑みである。

「ていうか、そんなことする元気があるんだったらいらないだろ、それ」

「やだなぁ。それとこれとは別問題だよ。ほら、キミだってそうだよ。きっと」

「どういう意味だよ……」

「気にしちゃ負けだよっ。ところで親切な二千円札の人、キミの名前はなんていうんだい?」

「相沢祐一」

「相沢祐一、か。いい名前だね。六十五点ぐらいかな」

「お前……」

百点中の三十五点が一体何で差っぴかれてしまったのか気になる……

「祐一クンでいいかな?」

「別に構わないが……」

「祐一クン祐一クン祐一クン祐一クン……うん、もう憶えたよ」

「それで、お前は?」

「柊」

「柊……か」

名前で性別がはっきりすると思ったが、まだまだその真相は闇の中だ。気になったので、下の名前も聞いてみることにしよう。

「下は?」

「勝平。二つ合わせて、柊勝平」

「……ああ、やっぱり」

「やっぱりって、何が?」

「いや、お前が男なのか女なのか掴みかねてた」

「あははは。やだなぁ祐一クン。ボクが女の子に見えたの? 一人称で分かるじゃない」

……ひょっとして、近くにボクっ娘がいるという俺の環境の方がおかしいのだろうか……

「とりあえずっ、これはありがたくいただくよっ」

「ああ。落さないようにな」

「じゃあっ、ボクはこれでっ!」

そう言って駆け出した、その時だった。

(ひらり)

柊のポケットから、何かが落っこちた。見た限りでは……ハンカチのようだ。

「柊っ! 今何か落とした……」

俺が声をかけようとしたとき、そこにもう柊の姿があった。駆け出していくのは目撃したから、どこか遠くへ走り去ってしまったに違いない。

(それにしては、ものすごい速さだったな……)

それは先に出会った謎の中学生にも勝るとも劣らない……イチゴエネルギー全開の名雪でようやくタメを張れるくらいの、かなりのスピードだった。両目の視力は一.〇以上の俺ですら、その姿を再び視界に捉えることはできなかった。

「……………………」

そして残されたのは、一枚の黄色いハンカチーフ。

(……幸せの象徴とも言うしな……)

芳野祐介からかけられた言葉ではないが、きっとこれも何かの縁だ。拾っておくことにしよう。幸い乾いた道に落ちたためか、濡れてもいないし汚れてもいない。

(……多分、返す機会はなさそうだな)

俺はそう思いながら、ハンカチを拾い上げた。

 

(ハンカチとインスタントカメラ……か)

物々交換(金銭のやり取りもあるにはあったが)を繰り返して手元に残ったのは、柊が二千円札の代わりに落としていった黄色いハンカチと、智代からもらったインスタントカメラ。

(昔話だったらそろそろ宇宙征服を終わらせてそうなくらい交換してるんだけどな……)

この人数だと恐らく、銀河系の征服は終わっているだろう。宇宙の覇権を目指すサイバーでタクティカルなお話へと変貌しているに違いない。

(……でも、現実はというと……)

手元にあるのはハンカチとインスタントカメラである。これでは宇宙の覇権どころか、水瀬家の少女たちすら満足させられまい。

(厳しいもんだな……)

ハンカチをポケットへしまい込み、商店街を静かに歩

 

「どーーーーーーーんっ!」

「おぷばっ!」

 

……いていたとき、後ろから何かが激突してきた。思わずどこかで聞いたことのあるような断末魔を上げ、その場に倒れ伏す俺。

「やったよポテトぉ。かのりん大金星っ!」

「ぴこぴこっ」

「うぐぅ……」

そして後ろから聞こえてきた声も、どこかで聞いたことのある声だった。

「か、佳乃か……?」

「かのりんはかのりんっていうんだよぉ。憶えておかないと大変な目に遭っちゃうよぉ」

その名前は憶えていたが、俺は今大変な目に遭っているような気がする。

「うぐぐ……なんでいきなり突撃してきたんだ……」

「えっと……それはっ、スポーツバンザイの時間だったからっ」

「なんだそれは」

俺は雪や土にまみれたコートを手で払いながら立ち上がり、後ろに立っていた佳乃を見据えた。その近くには、毛糸玉のような犬・ポテトがしっかりとついている。

「じゃあ、これは何のスポーツなんだ? ラグビーか?」

「お相撲だよぉ」

「こんな寒いのに相撲なんかできるかっ」

「できるよぉ。はっけよ~い……」

「いや、ちょっと待て……ちょ! おま!」

「のこった~っ!」

「あべし!」

なすすべなく懐へ突撃され、今度は後ろへ吹き飛ばされて倒れる俺。人通りが少ないところで助かったが、その少ない人からの注目度合いは半端ではない。元々寒いというのに、冷ややかな視線のおかげで心まで寒い。

「かのりん二勝目~!」

「ぴこぴこー!」

「あがががががが……やめんかっ! 相撲は土俵でやれ! 土俵で!」

「違うよぉ。強く信じればそこが土俵に変わるんだよぉ」

「紙一重で名セリフになりそうなことを言うな」

俺は再度雪と土を払いのけながら立ち上がり、吹き飛んだマフラーを巻きなおした。マフラーにしみこんだ雪の水が、寒風に晒された首筋にぞっとするような冷たさを与える。

「大体、相撲はまわしを締めてやるスポーツだろ」

「まわしぃ?」

「ああそうだ。上には何もつけずに、まわしだけ締めてだな……」

……俺が言いかけたとき、何故か流れる沈黙。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

お互いに黙ったまま、相手のことを見つめている。

(佳乃……相撲……まわし……)

その沈黙の中で、俺は佳乃が上に何もつけずにまわしだけを

「スケベーーーっ!」

「にょめれっちょ!」

妄想がはっきりとしたヴィジョンになろうとした瞬間、佳乃に渾身の張り手を見舞われた。みちるちっくな断末魔をあげながら、三度吹き飛ぶ俺。そろそろコートの汚れが心配になってきた。

「もぉ……祐一君、えっちなこと考えてるよぉ」

「ぴこぴこっ」

「うぐぐぐぐ……顔に当たる雪が冷てぇ……」

顔にまで付いた雪を払いのけて、よろよろと立ち上がる俺。何故クリスマスの日にこんなひどい目に合わされなければならないのだろうか。

「元々言い出したのはそっちだろ……」

「何がぁ?」

「スポーツバンザイとか云々とか」

「そんなの信じてたのぉ? こっどもぉ~」

「お前……」

これが真琴やあゆならこの場でぐりぐり+ぐるぐる(回転椅子に載せて高速回転)の刑に処してやるのだが、あいにく佳乃には聖という強力なお姉さまがついておられる。少しでも触れようものなら、たちまち俺は斬刑に処された挙句、体を十七分割されてしまうだろう。伊達に七夜を名乗っているわけではない。

「……弔毘八仙、無情に服す……」

「えぇ? 何何? 今何て言ったのぉ?」

「ああ、これは魔法の呪文なんだ」

「魔法? それだったらねぇ、かのりんも使えるんだよぉ」

「……………………」

そう言って佳乃が振り上げた右手には、黄色いバンダナが結び付けられていた。

「そのバンダナ、まだ付けてたのか?」

「そうだよぉ。ずーっと付けてたらねぇ、無いと逆に落ち着かなくなっちゃったんだぁ」

「お前に落ち着くという概念が存在することの方が驚きだ」

「祐一君、ひどいこと言ってないかなぁ?」

「言ってない言ってない」

こんな他愛も無い会話を交わしていると。不意に佳乃が

「あーっ!」

……というような表情を浮かべて(というか、口に出して言っていた)、こんなことを言い出した。

「祐一君っ、祐一君っ。黄色いバンダナ、知らないっ?」

「……………………」

無言で佳乃のバンダナを指差す俺。佳乃は自分がバンダナを巻いていることすら分からなくなるほど、天然ボケが進行してしまったのだろうか。

「違うよぉ。かのりんが巻いてるのじゃなくて、もっと別のバンダナっ」

そうではなかったらしい。

「つまり、黄色いバンダナを売ってる所……ってことか?」

「そうそうっ! さすがはかのりん特別探検部隊第六百六十六番隊隊員四十九号さんっ!」

なんというか、素で不吉な番号を割り当てられてしまった。それにしても「かのりんとくべつたんけんぶたいだいろっぴゃくろくじゅうろくばんたいたいいんよんじゅうきゅうごう」とは偉く仰々しい名前である。

……と、ここではたと気付く。

(……黄色いバンダナ……まあ、黄色い布であることには変わりない)

二千円と引き換えにアレをもらった、ということにしておこう。

「それはいいが、何に使うんだ?」

「えっとねぇ、お姉ちゃんにプレゼントするんだよぉ」

「聖先生に?」

「うん。お姉ちゃんも一緒に巻いて、二人は永遠の契りを交わすんだよぉ」

「……………………」

佳乃からこんなことを言ってきてくれるのだ。聖先生はさぞかしうれしいだろう。あまりにもうれしすぎて、感激のあまり鼻血を出しまくるかも知れないぐらいだ。

(ま、輸血パックをプレゼントしたわけだし、大丈夫だろ)

と、短絡的な判断を下し、俺は交渉に入ることにした。

「佳乃、バンダナじゃなきゃダメか?」

「どういうことぉ?」

「他の布……例えば、ハンカチとかじゃダメか?」

「ハンカチさんも大歓迎だよぉ。腕に巻けるならそれでいいよぉ」

「じゃあ、これはお前にやるよ」

俺はそう言って、ポケットからハンカチを取り出す。それは手に取ってみると案外大きく、腕に巻くのにも十分使えるような大きさだった。

「えぇっ?! いいのかなぁ?」

「ああ。聖先生にプレゼントしてやれ」

「うれしいよぉ。祐一君っ、ありがとぉっ!」

佳乃はハンカチを受け取って、笑みを浮かべながらそれをポケットへとしまった。明日からはハンカチを巻いた聖先生の姿を拝めることだろう。

「その代わりといってはなんだが……佳乃。お前が今持っているものを何か一つ、代わりに俺にくれないか?」

「ほへっ? どういうことぉ?」

「なんでもいいんだ。佳乃が『人にあげてもいい』と思えるようなものだったら、何でも」

俺がこういうと、佳乃は少し難しい表情になって考え始めた。

「ぐぬぬ~」

……しかし、それも束の間のこと。佳乃はコートのポケットを手を突っ込むと、何か小さなものを取り出した。

「じゃあっ、祐一君にはこれを進呈っ!」

「おっ、飴玉か」

佳乃が俺に手渡したのは、カラフルな飴玉三つ。見た感じ、イチゴとメロンとリンゴの飴のようだ。イチゴとメロンはともかく、リンゴの飴というのはなかなか珍しい。

「お姉ちゃんがくれたんだよぉ。ちょっと甘酸っぱい恋の味ぃ~」

「……恋の味って……」

佳乃らしからぬ言葉に軽く違和感を覚えつつ、飴玉をポケットへ入れる。

「ま、これはありがたく受け取っておくぞ」

「うんうん。大事に大事して、神棚に供えておいてねぇ」

「いや、それじゃ食べられなくなるだろ」

苦笑しつつ、ツッコミを入れる俺。なんだかんだで、こうして佳乃とふざけあっている時間は楽しいのだ。

「それじゃ、俺はこれくらいで。お前も早く帰れよ。先生が心配するぞ」

「大丈夫だよぉ! じゃ、よいお年を~っ!」

「ぴこぴこーっ!」

佳乃はポテトを引きつれ、たったかたったかと走っていった。

「……飴玉、か。悪くはないが……もう少し必要だな」

恋の味がするという飴玉を懐にしのばせ、俺はまた歩き出す……

 

そろそろ昼下がりというには遅い時間になり、空が微かに暗くなり始める。

(本当に今日一日で何とかなるのか……)

若干の不安は残しながらも、俺はあえて前進を止めることはしない。歩き続けることで、きっと何かの答えにたどり着けると信じていたからだ。

(……とは言え、奇跡の一つでも起きてもらえればなぁ……)

そんな都合のいい事を考えながら歩いていると、例のごとく、前方から悩み顔を携えた顔見知りが歩いてきた。

 

「……困りましたね。今から真琴に会いに行く時間はありませんし、かと言って捨てるには忍びないですし……」

 

彼女は紙袋を手に提げ、進退窮まった表情をしていた。どうやら、その手に提げた紙袋が彼女を悩ませているらしい。

(……行くか)

俺は反射的にそう考え、商店街の片隅で佇むその少女に声をかけた。

「こんなところで夕飯の品定めか? 天野」

「……ああ、相沢さん。そのような感じに見えましたか?」

「いや。どちらかと言うと、その紙袋の始末に困って路傍で立ち尽くしている、といった方が近いな」

「分かっているのなら、最初からそう仰ってください」

呆れたような、けれどもどこか笑みを含んだ大人しい表情を向けて、天野はこちらを見据えた。

「で、どうしてこんなところに?」

「ええ……今宵は聖夜ですし、真琴のところへ手土産を携えて会いに行こうと思ったのですが……」

「何かあったのか?」

「はい。両親から連絡がありまして、少々野暮用で家を空けるので、その間留守を守って欲しいと……」

「……………………」

「なかなか、上手くは行かないものですね……少しばかり、真琴とお話したいこともあったのですが……」

そう言う天野の表情には、珍しく寂しさがくっきりと滲み出ていた。あまり感情を表に出さない天野にあって、ここまではっきりと感情を読み取ることのできる表情は稀有だ。

「お前にも、そんな表情があったんだな……」

無意識のうちに、俺はそうつぶやいていた。それを聞いた天野が、すっくと顔を上げる。

「それは……その、どういう意味で仰っているんですか?」

「いい意味で、お前らしくない表情だと思った」

「……あまり、他の人には晒したくない表情ですが……」

僅かに顔を俯かせて、天野がいつもにも増して小さな声で言う。彼女の心にいかなる感情が去来しているのか、俺に推し量る術はない。ただ、こう言われて不快ではないということぐらいは、そこから読み取ることができる。

「おばさんくさいとばかり思っていたが、そういう表情もできるとはな」

「それは余計です。物腰が上品だと言ってください」

「満面の笑みで笑ってくれれば、考えてやってもいいぞ」

「……そんな酷なことはないでしょう」

ふっと力を抜いた、どこか安らぎを覚える笑みを浮かべて、天野がつぶやいた。

「ところで、その紙袋は真琴への土産なんだよな?」

「はい。あの子の好きなものを、少々多めに買って詰めてきたのですが……」

「……それを、俺が渡す、という選択肢は無いか?」

この問いかけに、天野は意外そうな表情を浮かべて返す。

「よろしいんですか?」

「ああ。一つ屋根の下に暮らしてるわけだしな」

「……そうでしたね。私としたことが、どうしてそんな簡単なことを……」

天野が微かに笑みを浮かべて、紙袋をこちらへ手渡した。

「それでは相沢さん。真琴に、よろしく伝えておいてください」

「ああ、分かった」

「では、私はこれで……」

別れの挨拶を告げて立ち去ろうとする天野の表情に、再び影が差した。どこか寂しげな面持ちで、静かにその場を去ろうとする。真琴と会えなかったということは、やはり天野にとって悲しむべきことなのだろう。

……天野と真琴の関係を思えば、それは想像に難くない。

(……これで解決、ってわけじゃなさそうだな……)

そう考えた俺が、咄嗟に取った行動は。

「天野!」

「……どうしました?」

天野の下へと駆け寄る俺。天野が立ち止まって、こちらを振り返る。

「大したものじゃないが……聖なる夜には、甘いものが欠かせないぞ」

「これは……」

俺が手渡したのは、佳乃からもらった三つの飴玉。それは天野の手の中で仄かに輝いて、あたかもちょっとした宝石のように見えた。

「お前、言ってたよな。空から飴玉が降って来たら、素敵だろうなって」

「そんなことも、ありましたね……」

「数はちょっと心もとないが……この冬の空からの贈り物だと思って、受け取ってくれないか」

「……はい。有難うございます」

天野は飴玉を受け取って両手の中へ包み込むと、それを静かに、コートのポケットの中へ移動させた。

……その表情は、いつになく輝いて見えた。それはこれまで、一度も見たことも無いような……

……否。真琴の前で本当に一度だけ見せたことのある、素晴らしい表情だった。

「相沢さんのお心遣い、感謝します。それでは……良いお年を」

「ああ。来年も、物腰が上品な天野でいてくれよな」

「はい……えっ?!」

驚いた天野の間の抜けた声を背に、俺は歩き出した。

「相沢さんっ! それ、どういう……」

「俺はただ、お前との約束を守っただけのことだぞ」

「……………………」

そう……それだけのことだ。

 

「うーむ……いくら真琴のためとは言え、七つは買いすぎじゃないか……?」

さて、天野と自分らしからぬ気障なやり取りを交わした挙句手に入れたのは、七つの肉まん。ぶっちゃけ、天野と真琴の二人だけで食べるには少々多すぎる数だと思った。

(名雪やあゆも食べるなら分かるが、あの二人、前に天野が持って行った時も『真琴が好きだから』とか言ってほいほいあげてたような……)

二人で七つ……天野は見た感じからして小食だし、実際天野が水瀬家で夕飯を食べたときもえらい小食だった。どう考えても、二つ以上は食べられまい。つまり真琴は、最低でも五つ以上の肉まんを食べるということになる。

(絶対に食べすぎだ……)

が、真琴なら食べかねないのであなどれない。それでいて体型がまったく崩れないから謎だ。

(これも妖狐の力なのか?)

そんな要らないことを考えながら、昼間と変わらず人通りの多い街並みを行く……

……すると。

 

「おかあさん、あんなところにいのししさんがねてるー」

「あ、まいかしってるよー。らいねんはね、いのししさんのとしなんだってー」

「そうよ。来年は猪さんの年よ。それにしても、こんな所で珍しいわねえ……」

 

……いや待て。猪ってどういうことだ? 確かに来年(二〇〇七年)は猪年だが、何故こんな商店街に?

「さ、まいか、さいか。クリスマスケーキを買いに行きましょうね」

「わーい」

「けーきけーきー」

猪を目撃した三人の親子連れは、そのままクリスマスケーキを買うべく、商店街の中へと溶け込んでいった。

(……猪か。ちょっと見に行ってみるか)

興味を持った俺は、先程まで親子連れのいた場所へ足を向ける。

………………

…………

……

 

「ぷひー……」

「……本当に猪だ……」

商店街の片隅・街路樹の側で気持ち良さそうに眠っていたのは、小さな小さな猪の子供だった。

「山から降りてきたのか?」

そう考えたものの、そもそもこの街には降りてくる様な山などないことに気付く。あったとしても、今の今まで「猪が住んでいる」などという話は聞いたことが無い。

「誰かが飼ってたのか……?」

整った毛づやといい、小さいながら妙に立派な体格といい、野生の猪とは少々思えない特徴を持っている。首輪などはしていないので確証は持てなかったが、誰かが飼っていた可能性は高い。

(……これも、何かの縁か……)

そこはかとなく、このミニ猪からぴろやポテトやけろぴー……いや、けろぴーは違うか。とにかくそういう動物のオーラを感じ取ってしまったのか、俺の手は自然と伸びていた。

(案外、顔見知りの誰かが飼ってたりしてな)

紙袋を手に提げ、俺は気持ち良さそうに眠る猪を拾い上げた。

「さて……飼い主を探すとするか」

まだ飼い主がいると決まったわけではないが、なんとなく……次は、これが交換対象になりそうな気がする。

(さすがに、肉まんは交換できないからな)

あれは特別だ。天野との約束を、反故にするわけにはいかない。

 

「こいつ、置いてくればよかったかもな……」

相変わらず眠る猪を抱いて歩き始めて割と早々に、俺はそう思い始めていた。

(突き刺さる視線が妙に痛いぞ……)

周囲の人々の好奇の視線が痛いことこの上ない。そりゃあ、俺だって俺以外の人間がこんな風に小さな猪を抱いて街を闊歩してたら、まず間違いなく好奇の視線を送るに違いないが……

(それでも、これは辛いものがあるな……)

早く飼い主を見つけなければならないが、そもそも飼い主は本当にいるのだろうか? やはりこれは、山から逃げ出してきた野生の猪ではないだろうか?

(それならそれで、然るべきところへ返すべきだが……)

この小さな猪の処遇を考えながら、静かに街を歩いていると……

 

「……はぁ。クリスマスだっていうのに、よりにもよってボタンとはぐれちゃうとはねぇ……」

 

前方から肩を落としながらとぼとぼと歩いてくる人影。それは「肩を落としながら歩く」という行動が、普段の姿からは最も似つかわしくないと思える人物だった。

(困ってる顔見知りか……可能性はあるな)

俺はその人物の発した「ボタン」という名前が人の名前でないことを祈りながら、前方から近づいてくるその人へ声をかけるタイミングを計った。

「どこ行ったんだか……」

「杏」

「ん? あっ、祐一じゃない。こんなところで……」

杏が言葉を返そうとした途端、動きが止まる。予想通り、俺の腕の中に抱かれている小動物に目が行っている。

「それ……」

「探し物か? それともボタンってのは、委員長のあだ名か?」

「あのねぇ……どこに妹にそんなヘンなあだ名付けて呼ぶヤツがいるってのよ」

「……………………」

「無言で指を指すなっ」

この「どこにそんなのがいるんだ」という言葉に「無言で指を指して返す」というのは一度やってみたかったので、俺としては満足である。

「……で、もしかしてボタンってのはこいつのことか?」

「そーそー。よく見つけてくれたわね」

予想的中。このミニ猪は、杏の飼い猪らしい。やはり飼われていたようだ。

「商店街の街路樹の側で寝てたから、何となく拾ったんだ」

「何となくって……もしあたしに会えなかったら、それ、どうしてたわけ?」

「鍋」

「一言で即答するなっ!」

一喝された。俺としては気の利いたジョークだと思ったんだが。

「……はぁ。ま、見つけてくれたのは感謝するわ」

「ああ。引き取ってくれ」

杏の腕の中へボタンを引き渡し、俺の両腕が自由になる。短い間だったが、なかなかの抱き心地だった。

「ところで、椋は一緒じゃないのか?」

「ん? そうよ。別々に買い物して、後で家に帰って合流するの」

「そういうもんか……」

杏と椋は姉妹だが、俺の知っている他の姉妹(ストール姉妹やバンダナ姉妹など)とは異なり、それぞれが別行動でもあまり気にしないようだ。精神的に自立しているのだろう。

「あっ。そうだそうだ。せっかくボタンを届けてくれたんだし、ちょっと渡したいものがあるんだけど」

「何かくれるのか」

「そうね。あたしからのクリスマスプレゼント、ってとこ」

そう言うと杏はボタンを地面に静かに下ろし、買い物袋……ではなく、鞄へと手を突っ込んだ。そして、そこから取り出したのは……

「はいこれ。これでしっかり勉強しなさいよ」

「……伊和辞典?!」

「イタリア語の辞書よ。レア物なんだから」

表紙に「標準伊和辞典」と書かれた、辞書としては薄めの一冊の本だった。

「どれどれ……」

パラパラとページをめくり、辞書の中身を見てみる。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

そして、俺が抱いた感想。

「杏」

「ん? どしたの?」

「お前、これ実はいらないから俺に押し付けただけだろ」

「あ、分かった?」

「少しは否定してくれよっ!」

中身を開いてもちっとも意味が分からない。意味が分からないというか、使いどころも分からない。

「杏……お前、どうしてこんなもの持ってんだ?」

「んー。サイズ的に手頃だから、サブウェポンとして役立つかなーって」

「……伊和辞典本来の機能は期待してなかったり?」

「もちろん」

「で、投げたことは?」

「軽すぎてしっくりこなかったから、一度も無いわ」

杏は怒ったり自分や妹に身の危険が迫ると、辞書や電話帳といった威力の高いものを全力で放り投げて攻撃する必殺技の使い手だ。その威力たるや尋常なものではない。よくターゲットになるのはバカをやらかす春原や折原で、俺や北川、岡崎はその威力の恐ろしさゆえに、杏にはあまりちょっかいを出さないよう内密に取り決めている。

「……でもま、くれるって言うならもらっておくぞ」

「それならいいわ。何かの役に立つことを祈ってるわね」

「ああ。それじゃ、もうはぐれないようにしろよ」

「分かってる分かってる。じゃあねー♪」

杏はボタンを抱いて上機嫌でステップしながら、その場を離れていった。

 

(……伊和辞典……これは今だかつてないマニアックさだ……)

マニアック度数で言えば岡崎からもらったおみくじらソーダもかなりのものだったが、これも決して負けてはいない。

(こんなのにニーズはあるのか……)

秋子さんの謎ジャムや栞の前衛芸術にニーズがあったのだから、これにあっても別段おかしなことではない。しかしそれとは別の次元で、伊和辞典を欲しがるような人物像というのが分からない。

(……どうでもいいが、音楽の用語にはイタリア語が多かったかな)

ふと、テレビか雑誌で見聞きしたことを思い出す。音楽の演奏記号や標語の読みにはイタリア語が多く使われているとされており、俺はその独特の響きが妙に記憶に残っていたのだ。

(ひょっとすると、音楽好きなヤツなら引き取ってくれるか……?)

顔見知りで、なおかつ音楽に興味のある者……そうそういるとも思えない。長森や折原は吹奏楽部や軽音楽部といった音楽系の部活動に所属していると聞いたが……長森はともかく、折原がこんな辞書を欲しがるとは思えない。

(第一、二人とももうあの調子だと家に帰ってるだろうしな……)

これは困った。やはり、音楽から当たるのは間違っていただろうか。もっとこう、イタリアが好きそうな顔見知りを探して交換を申し出るべきだろうか。

(……イタリアが好きそうなヤツなんて、音楽好きよりも絶望的だぞ……)

俺が絶望を抱え込みながら、とぼとぼとぼとぼと歩いていると……

 

「あっ、相沢先輩!」

「えっ? どこどこ? どこにいるの?」

 

今度は俺が声を掛けられた。声は前方から聞こえてきたので、その方向へと視線を向ける。

「あの二人は確か……」

そこに立っていたのは、例によってというか、やはり顔見知りの人間だった。

「こんにちは、相沢先輩。吹奏楽部の仁科です」

「やっぱり……で、その隣は……」

「川口よ。ひょっとして、名前忘れてたりとか?」

「いや、先輩に良く似た名前の人がいるんで、一瞬混乱しただけだ」

雰囲気とかは全然違うんだけどな。

「杉坂は一緒じゃないのか?」

「はい。今日は家族と一緒にクリスマスを過ごすみたいで、一日家で準備に追われてるとか……」

「なるほどな……」

「私たちは二人でちょっとした買い物でもして、静かに聖夜を迎えましょう、って感じかな」

「なんとなく、お前ららしいな」

仁科は今年入学した一年生で、長森の紹介で吹奏楽部へ入ったらしい。長森曰く「この学校にいるのはもったいないよ」との事だというから、腕前は相当なものなのだろう。何でも一時は音楽学校への入学も考えていたらしいが、諸事情でそれは無くなったらしい。

一方の川口は同級生で、いつもは観鈴や佳乃とよくつるんでいる。特に夏に入る前に知り合った観鈴とは仲が良く、互いに家を行き来するほどの仲らしい。観鈴が倒れた時、一番頻繁に観鈴を見舞ったのも、この川口だ。

「で、何かいいものは見つかったか?」

「それが……一つ、探してたものがあったんですが……」

「今日なら見つかると思ったんだけど、やっぱりなかったよね……伊和辞典」

「……マジか」

だんだんと展開に神がかってきているが、目の前に需要がある以上、適切な供給をせねばならない。俺はそう思う。

「なあ仁科に川口。伊和辞典ってのは、イタリア語と日本語の辞書だよな?」

「はい。音楽用語にはイタリア語を語源とするものが多いので、持っておくと面白いかな、と思って」

「ま、音楽をやる分にはいらないかも知れないけど、知的好奇心のために、ね」

「じゃあ悪いが、二人でこれを引き取ってくれないか」

『……?!』

懐からすっと伊和辞典を取り出す俺の姿は、二人から見て一体どんな風に見えただろう。想像しただけでも、信じがたい光景であることは容易に想像できる。

「あ、相沢先輩……それ、どこで?!」

「さっき知り合いに落し物を届けたら、そのお礼に渡されたんだ」

「……偶然にしては、ちょっと出来すぎだと思う……」

「気にするな。俺は今日一日、偶然と偶然の連続なんだ」

二人は唖然とした表情を浮かべながらも、俺が差し出した伊和辞典を受け取った。

「本当に……頂いてよろしいんですか?」

「ああ。俺が持ってても、本棚の肥やしになるだけだからな」

「肥やしでも置いといたほうがいいんじゃないの?」

「悪いな。俺の本棚はもう肥やしだらけなんだ。新しい作物が植えられる日を今か今かと待ち受けているぞ」

「相沢先輩って、言葉の使い方が面白いですね」

仁科はくすくすと笑って、伊和辞典をしっかりと手に取った。心なしか、隣の川口もうれしそうだ。

「それじゃこれ、大切に使わせてもらうわね」

「ああ。くれぐれも人に投げたりしないようにな」

「本当にありがとうございます……あっ、もし良ければ、代わりにこちらを受け取っていただけませんか?」

「……?」

そう言って、仁科が鞄から取り出したのは……

「……楽譜?」

「はい。『マ・メール・ロワ』という、モーリス・ラヴェル作曲の楽曲です」

「『マ・メール・ロワ』?」

「はい。イギリスの童謡集である『マザー・グース』を題材にした五曲ないし六曲からなる小品集で、『眠りの森の美女のパヴァーヌ』『おやゆび小僧』『パゴダの女王レドロネット』『美女と野獣の対話』『妖精の園』といった曲で成り立ちます」

「それはいいんだが……これ、高いものじゃないのか?」

楽譜と言えば結構値が張るものだ。こんなものをもらってしまって、本当にいいのだろうか? その辺りのことも聞いておく必要がある。

「えっと……実は……」

「どうしたんだ?」

「あっ、相沢君。笑っちゃダメよ。本人にとっては重要なことなんだから」

「……?」

仁科が少し恥ずかしそうにしている。その口から語られたのは……

「……はい。実は、値段が安くなっていて衝動買いしてしまったら、後になってもう持っていたことに気付いたんです」

「……なるほど」

「びっくりするくらい安かったのよね。あれじゃ手が出ちゃってもしょうがないわ」

どうやらそういうことらしい。確かに、同じものを二つ持っていてもあまり意味は無い。心置きなくもらうことにしよう。

「それじゃ、辞書と楽譜を交換だ」

「はい。本当にありがとうございます」

「いや、こちらこそ。それじゃ、また今度」

「うん。気をつけてね」

仁科と川口の二人と別れ、俺は再び歩き出した。

 

「しかし、五線譜に御玉杓子のようなものが描かれてるだけなのに、これで音楽を演奏できるヤツがいるんだよな……」

もらった楽譜を意味なく眺めつつ、人の行き交う商店街を行く。歩き始めてもうどれくらいになるだろうか。気が付くと空が少しずつ赤らみ始め、昼の終わりを告げていた。

(長森に岡崎に佳乃に……ずいぶん多くの知り合いを見かけたな)

これまで物々交換をしてきた面々の顔を思い浮かべながら、未だに見えないゴールを目指して歩く。

(さて。今度は楽譜を欲しがりそうな知り合い、か……)

もうすでに目的が「今もっているモノを欲しがるだろう知り合いを探す」ということに切り替わったことに気付き、思わず苦笑する。

(最初は、単にモノを交換していただけだったんだけどな)

白い街並みを歩きながら、顔見知りを探していく……

……すると。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

前からずらっと並んだ本が歩いてきた。本は紐でしっかりと括られているが、左右に微かに揺れていて危なっかしく、見ている方にとっては大変心臓によろしくない。

その光景は、以前にも何度か目にしていた。そしてそんなことをする人物は、俺の知り合いには一人しかいなかった。

(ま、あんなに大量の本を一度にまとめて買うようなヤツが何人もいたら、それはそれで怖いけどな)

俺は本の山を抱えた知り合いに近づき、それとなく声をかけた。

「手伝ってやろうか?」

それに対する反応はというと。

「……???」

……クエスチョンマークを浮かべられた。こちらの顔を覚えていないのだろうか? きょとんとした表情でクエスチョンマークを浮かべたその顔は、確かに見覚えのある顔だったのだけれど。

「ひょっとして、俺のこと忘れたのか?」

「……えっと」

本を抱えたまま首だけをこちらへ向けて、しばらくそのまま黙り込む。

「……いじめっ子?」

「いや……一ノ瀬、俺はお前をいじめた記憶はないぞ」

「ちょっとした冗談」

「お前が言うと冗談にならないって」

大図書館の主……もとい、一ノ瀬ことみはこちらをしっかりと見据えて、ほのかに頬を染めて笑みを浮かべた。

「手伝わなくて大丈夫か?」

「うん。これくらいなら平気」

「……意外と力あるんだな……」

一ノ瀬の抱えている本は……ゆうに十冊は超えている。結構な負担に見えるのだが、一ノ瀬は平気そうな表情を浮かべている。心配する必要はないだろう。

「今日は何の本を買ったんだ?」

「えっと」

「……………………」

「音楽。音楽の本を買ったの」

「ほう……」

一ノ瀬の左へ回りこんで、本の背表紙を眺めていく。

「『スコアリーディング』『楽典――理論と学習』『音楽と文学の対位法』……」

音楽の本であることは分かったが、どれもこれも小難しそうというか、どちらかというととても難しそうだった。

「音楽に興味が出たのか」

「えっと」

「……………………」

「一年生の子から、バイオリンをもらったから」

「……ああ。そう言えば……」

少し前……とは言っても、もうそろそろ半年前になるが、一ノ瀬を巡って少々ややこしいやり取りがあった。ここに書くにはあまりにも複雑で長い話であり、また、中途半端に書ける話ではないので省略するが、俺や名雪もずいぶんと関わりを持った。

その出来事は一ノ瀬にとって過去と直接向き合うことであり、それの意味するところを正確に掴むことができたのは、一ノ瀬と……その幼馴染の、岡崎の二人だけだった。

二人の間に一体何があったのかは、寡聞にして知るところではない。けれども、岡崎が深い闇に陥りかけた一ノ瀬を瀬戸際で救い上げたのは事実だし、一ノ瀬はそれで本当に救われた。それだけは間違いのない事だ。

(その時だったか)

……で、その一連の出来事の中の一つに、一ノ瀬が下級生から古いバイオリンを譲り受けるというものがあった。一ノ瀬は貰い受けたそれに強く惹かれたらしい。最初は怪電波かと聞き間違うほどにえげつない音を立てていたのだが、元々の「できるまでやる」という性格が幸いしたのか、今ではそこそこ聞けるぐらいまで上達したそうだ。

「それで音楽の本を買ったわけだな」

「うん。うちに帰って、また練習」

「そうか……」

……俺は音楽にさっぱり造詣が無いので分からないんだが、あれは弦楽器でも演奏できるのだろうか?

(もしできるんなら、渡してやらない手は無いんだが)

仁科はピアノ曲だと言っていたが……まあいい。聞くだけ聞いてみよう。

「一ノ瀬。『マ・メール・ロワ』って知ってるか?」

「……………………」

「知らないか。よーし。俺が教えてやろう」

「えっと」

「それはな、えーと……モーリス・グリーンだったか……」

「モーリス・ラヴェル作曲の、五曲から六曲からなる小品集。ピアノ版と管弦楽版、それからバレエ版があって、多くは『マザー・グース』などの童話から着想を得ているの」

「……………………」

「ちなみに、モーリス・ラヴェルは子供好きの性格で、友人であるゴデブスキ夫妻の二人の子、ジャンとマリーのためにこの曲を作曲……」

「……すみません。私が未熟でした」

一ノ瀬を前に知識を披露しようとし、一撃で轟沈させられる俺。一ノ瀬の知識は本気で半端ではない。まさに動く辞典といったところなのだ。生半可な知識では歯が立たない。歯が立たないどころか、全部折られるくらいの知識なのだ。

……とりあえず、気を取り直して。

「知ってるみたいだな。それでだ」

「……???」

「実は俺は今諸事情でその楽譜を持っているんだが、いらないか?」

「……!」

クエスチョンマークが一瞬にしてエクスクラメーションマークへと変化した。非常に分かりやすい表情の変化。明らかな好感触だ。

「俺が持ってても何の役にも立たないし、もらってくれるか?」

「うん。欲しいの」

「分かった。それでだ」

「……???」

「あげるのは構わないんだが、その代わり、お前が持ってるもの何か一つと交換してくれないか?」

「交換?」

「ああ。物々交換だ」

俺の言葉に、一ノ瀬はしばし黙ったまま考え込んでいた。

「……………………」

きっかり一分考えた後、一ノ瀬は結論を出した。

「えっと」

「……………………」

「ちょっと、持ってて欲しい」

「ああ。いいぞ」

本の山を俺に手渡すと、ポケットの中へ右手を入れた。そして中を探るでもなく、すぐに何かを取り出した。

「それじゃあ、これと交換」

「……はさみ?」

「うん。ステンレス製の、よく切れるはさみ」

一ノ瀬が取り出したのは、ケースにしっかりと収められた、ステンレス製のはさみだった。錆び付いた所も無く、大切に使われているのが少し見ただけで分かるような、そんなはさみだった。

「……………………」

俺は一ノ瀬が取り出したはさみを見て、思わず言葉を失った。

(このはさみって……)

……一ノ瀬がはさみを持ち歩いていて、それで図書館や書店の本の一部を切り取っていた時期がある……という話を、誰とも無く聞かされたことがあった。もちろんそれには理由があったのだが、その理由から考えると、このはさみは俺が受け取るべきではない。

そのはさみは……一ノ瀬の過去と記憶を切り取る、ある意味では一ノ瀬だけが持つことを許された、特別なはさみなのだ。それは俺が受け取るには、あまりにも重いはさみだった。

(……これは、さすがに……)

そう考え、断ることを決意する。戒めの意味、そして過去と向き合う意味でも、そのはさみは一ノ瀬が持っておくべきだと、俺は考えたのだ。

「一ノ瀬。気持ちはありがたいんだが、そのはさみは……」

「昨日、文房具屋さんで買ったばかりなの」

「ずこー!」

俺のシリアスな想像は瞬く間に消し飛び、無かったことにされた。こういうの、やめてほしいなぁ。ホント。

「思いっきり新品じゃないか……本当にいいのか?」

「うん。楽譜をもらったから、お返し」

「……じゃあ、楽譜とはさみを交換だ。これでいいな?」

「うん」

一ノ瀬に楽譜を手渡し、代わりにはさみを受け取る。はさみはしっかりとした重さがあり、なんでも簡単に切れてしまいそうだった。どことなく、頼りがいのあるはさみだ。

「それじゃあ一ノ瀬。気をつけて帰るんだぞ」

「うん。ありがとう」

軽い別れの挨拶と共に、俺と一ノ瀬は別々の道を歩き始めた。

 

「……いい加減、物々交換でプレゼントを見つけるのはやめたほうがいいんだろうか……」

今俺の手の中にあるのは、(すっかり忘れていたが)坂上からもらったインスタントカメラ、天野から譲り受けた肉まん、そして一ノ瀬と楽譜を交換して手に入れた新品のはさみ。

(プレゼントになるようなものが一つも無い……)

肉まんはともかく(少なくとも真琴は喜ぶ)として、インスタントカメラとはさみではプレゼントにはなるまい。かと言って、プレゼントを自費で買う金があれば最初からこんなことはしない。

「やっぱり、交換しかないか……」

結局、行き着くところはそこである。俺は考え直して、再び歩き始めた。

「……………………」

ふと空を眺めてみると、赤みが差していたはずの空はすっかり暗くなり、夕闇ではなく本格的な闇に包まれていた。うっすらと見える雲が、ちらちらと雪を降らせている。

「天野に言った言葉じゃないか、空から何か降って来る呪文かまじないの言葉でもあればな……」

「残念ながらそれはありませんが、元気が出るおまじないならありますよ」

「それはちょうどいい。それなら教えてくれないか? 宮沢」

「はい。いくらでも教えてあげますよ。相沢さん」

このごく自然に会話に参加なされたのは、同級生の「宮沢有紀寧」という子だ。普段はこういった形で会話に混ざるわけではないのだが、恐らくクリスマスだけに見せる彼女流のジョークなのだろう。多分。

「さすがに今日は資料室にはいないんだな」

「はい。学校が開いてませんからね」

「なるほどな……で、今は買い物の途中か?」

「いえ。これから少々家を空けますので、兄のところに……」

「……そうか。それで、今は帰りってわけだな」

「はい」

……宮沢には兄が「いた」。それが何を意味しているか? これ以上話すのは野暮というものだろう。後は推して知るべし、である。

俺は空気を読んで、話題を変えてしまう事にした。

「ところで宮沢。さっきの元気が出るおまじないというのを教えてくれないか?」

「あ、はい。ではまず、両手をしっかりと合わせてください」

「こうか?」

「はい。そのまま頭の中で、『ねこねここねこねねこねここねこね』と、三回ほど唱えてみてください」

「……………………」

頭の中で猫が気持ち良さそうにこねくり回される様子(名雪が見たら別の意味で発狂しそうな構図だ)を頭に思い浮かべながら、俺は頭の中で『ねこねここねこねねこねここねこね』と何度も何度も詠唱してみた。

「……よし。できたぞ」

「はい。これで相沢さんは、心なしか元気が出てきたはずです」

「……そういうもんなのか?」

「はい。本当はこの後、白猫を見かけることができれば最高なんですが……」

「白猫か……」

あいにくぴろは(白の面積も多いが)白猫ではないし、他に知っている猫はいない。まあそれでも、「おまじないをかけた」ということを心の中においておけば、プラス思考の役には立つだろう。こういうのは本来、そういうために存在しているのだから。

「とりあえず、前向きに生きてみようと思うぞ」

「はいっ。それが一番です」

宮沢の笑顔を見ていると、心なしか元気が出てくるような気がする俺がいる。

(そう言えばこの笑顔、あの人に……)

俺がそんなことを考えていると、ふと宮沢がこちらへ視線を向けた。

「えっと……相沢さん。そのはさみ、どこで手に入れたんですか?」

「……はさみ? ああ、これか……」

さっきはさみを手にとって、そのままポケットへ直さず手に持ったままだったことを思い出す。

「さっき一ノ瀬と楽譜を交換してもらったんだ。新品らしいぞ」

「物々交換ですか? なんだか、楽しそうですね」

「そうか?」

確かにいろいろな人物に出会えて楽しかったといえば楽しかったが、何が手に入るか分からないのである意味心臓に悪い。あまり何度も何度もやりたいことではないと思った。

「はい。とても楽しそうです。もしよければ、私も物々交換の輪に参加させていただけませんか?」

「お前がそういうなら、別に構わないぞ。はさみと何を交換してくれる?」

「そうですね……」

俺の問いに、宮沢は目を閉じ手を組み、しばし考える。

数刻の後、宮沢は交換対象を決めたようだ。

「はい。それなら、こちらはどうでしょう?」

「……『猫のおまじない』?」

宮沢が懐から取り出したのは、「猫のおまじない」と書かれた一冊の本だった。それほど厚みは無く、タイトルなどから見る限り、猫にまつわるちょっとしたおまじない集、といった風情の本だ。

「少し前、資料室で見つけた本です。恐らく、もう卒業された方が忘れていったものだと思います」

「そう言えば……なんとなく、古い感じがするな」

「はい。こんなものでもよろしいでしょうか?」

「ああ。こういうものの方がいいんだ。あまり高いものだと、もらったこっちが困るからな」

「そうですねっ」

笑顔を浮かべる宮沢と共に、はさみと本を交換する。手に取ったそれは思っていたよりもさらに軽く、ポケットにも楽にしまえそうなほどの薄さだった。

「それでは相沢さん。よいお年を」

「ああ。こちらこそ」

はさみをポケットへとしまいながら歩いていく宮沢の姿を見送ってから、俺もまた歩き出す。

 

「名雪にプレゼントしたら泣いて喜びそうだな、この本」

宮沢からもらった「猫のおまじない」という本をぱらぱらとめくってみると、そこかしこにちょっとシックなデザインの猫が転がっていた。名雪が見たら大喜びするに違いない。

「本の猫でも泣いたら逆にすごいんだが……」

もし本に描かれた猫でも涙を流したら、それはある意味大変なアレルギーだ。アレルギーなのかどうかすら怪しい。

「よし。これは名雪へのプレゼントにするか」

俺がそう心に決めて歩き出した、ちょうどその時……

 

「みゅーっ! みちるーっ!」

「わぁっ?!」

 

聞こえてきたのは二つの声。知り合いが知り合いの髪を引っ張っている光景が、ありありと目に浮かぶ。こんなことをしたりされたりするのは……いや、されている方はいつもとは違うっぽいが、している方は間違いなく一人しか思い浮かばない。

(ツインテールだし、仕方ないかなぁ)

何がどう仕方ないのかはさておき、俺は声のしたほうを振り向いた。

「こらこら繭。いくらみちるがお前のソウルブラザーでなおかつツインテールだからって……あれ?」

「みゅー……みちるじゃない……」

「いたたたた……えっと、人違いですか……?」

……そこに立っていたのは、みちるではなかった。みちるとは、似ても似付かぬ少女が立っていた。

(だ、誰なんだ……?)

まったく見覚えの無い姿だった。背格好から推測するに、恐らくは下級生だろう。髪の色はみちるによく似ていて、紫とピンクを足しこんだような色だ。ただし、髪型はまるで違う。ツインテールにしてまとめているみちるとは異なり、それはまとめられることもなく、下へと流れている。

少女はどこかおぼつかない足取りでこちらまで歩いてくると、何とはなしに訊ねてきた。

「あの……お兄ちゃんですか?」

「えっ?」

「あ……えっと、今後ろで私の髪を引っ張った……」

どうやらこの子は、繭が俺の妹だと勘違いしているらしい。確かに状況から考えて、そう勘違いしてしまうのも仕方の無いところだろう。ここは謝っておくべきだ。

「こいつとはただの知り合いだが……どちらにしろ、迷惑をかけたな。すまなかった」

「いえ……大丈夫です」

少女は顔を伏せて小さく頷き、また静かに顔を上げた。

「あの……」

「どうした?」

「以前どこかでお会いしたことはありませんか?」

「いや……俺は誰かと一度どこかで会っていたら、必ず顔と名前を覚えるタイプなんだが……お前の顔は記憶に無いぞ」

「そうですか……もしかすると、あの時私を助けてくれた人かと思ったのですが……」

「……………………」

何やら訳ありのようである。それでいて、それなりに波乱含みの人生を送っているようである。

(俺と面影が似ているのか? こいつを助けたというやつは……)

俺がそんなことを考えている間に、少女は

「すみません。それでは、私はこれで……」

「ああ。気をつけて……」

どことなくぎこちない言葉のやり取りの後、少女は何処かへと去っていった。その後姿を見るに付け、俺は遺憾ともしがたい感情に苛まれた。

(一体誰だったんだ? あいつは……)

俺がシリアス顔でシリアスな独白に入る準備を固めた頃、その隣では。

「みゅーっ! ねこさんいっぱーいっ! みゅーみゅー!」

「……って、知らない間に本がっ!」

シリアスとは無縁のみゅーみゅー少女(仮名)が知らぬ間に俺の本を抜き取り、わーわー言いながら恐ろしく楽しそうに読みふけっていた。

完全に忘れていたが、こいつは椎名繭(本名)。ちょっと想像できないかも知れないが、これでも俺の同級生だ。だが、言動や行動を見る限りでは俺よりもみちるや真琴あたりに近いものを感じずにはいられない。実際、みちるとは遺伝子レベルで気が会うのか、時折一緒に行動しているのを見かける。

だがそれ以上に繭と関係が深いのが……まだ一度も登場していないが、七瀬だ。学校にいるときは七十パーセント以上の確率で繭は七瀬にくっついている。それも、後ろからツインテールを引っ張るという非常にハタ迷惑な方法でだ。七瀬の毛根へのダメージが真剣に気がかりである。

「こら繭っ。これは俺の本だっ」

「みゅぅぅぅぅっ! とっちゃだめーっ!」

「盗ったのはお前だぁぁぁぁぁっ!」

理不尽な形で本の所有権を主張する繭。これに付きまとわれている七瀬はきっと気苦労が耐えないのだろう。多分。

「かーえーせーっ!」

「みゅーっ!」

………………

…………

……

 

……かれこれ、十分はこうしていただろうか。

「ぜぇ、ぜぇ……」

本は繭に強奪され、俺はついに取り返すことができなかった。ここまで気に入られてしまっていては、今更返してもらうのも気が悪い。

「分かった。仕方ないから、それはお前にやろう……」

「わーいっ! ねこさんねこさんーっ!」

「……その代わり、お前の持ってるものを一つくれ」

とはいえ、ただあげるだけではもったいない。代わりに何かもらわなければ、こちらとしても割に合わない。

「みゅー……じゃぁ、これとこうかんっ!」

「……何だこれ? 『サービス券』としか書かれてないぞ?」

繭から手渡されたのは、本当に「サービス券」としか書かれていない、二枚つづりのチケットだった。一色刷りのあまり見栄えのしないチケットで、恐らくは本当に何かのサービス券なのだろう。

「これはなんなんだ?」

「知らなぁい。おちてたのをひろったんだもぅん」

「拾うなあああああああああ! そしてこんなものと本を交換するなあああああああああああ!」

「みゅーみゅー♪」

俺の絶叫は捨て置かれ、繭は本を掲げてぱたぱたとどこかへと走り去ってしまった。本当に恐ろしい交換をしてくれたものだ。

(マジでやばいぞ、これは……)

こんな用途不明のサービス券を交換してくれる心の広い人物が、果たしてこの街にいるのだろうか……

(……とりあえず、行くか……)

……海のように心の広い人に出会えることを信じて、俺はまた歩き出した。

 

「……雪か……」

微かに降り出していた雪が、少しずつ本降りになってきた。それは白く染まっていた街を白でさらに塗りつぶすかのように、しんしんしんと降り積もっていく。

「この辺りの雪は、よく積もるんだよな」

一年前ここへ帰ってきたときも、よく積もる雪ばかりが降っていた。地面に着けばたちまち消えてしまうようなヤワな雪は、こんなところでは降らないらしい。

(こんな寒い街じゃ、下手な火は簡単に消されちまうな)

ふと心の中に感じたことだった。どういう意味かも分からない。ただ、心の中に浮かんだ言葉。

(俺にも炎のように熱い心があれば、もっと前向きに頑張れるんだが……)

身を刺す寒さからか、ネガティブ思考に傾きかけた俺の耳に……

 

「アンタ……クリスマスの夜にも付きまとおうってわけ?!」

「当然。七つ夜を名乗るからには、聖夜とて例外ではない!」

 

……こんなやり取りが飛び込んできた。

(あいつら、こんな日でもまったく変わらないな……)

この街にはあまり似つかわしくない、熱いやり取りを繰り広げているであろう二人に、俺は向き直った。

「七瀬に七夜。今日も仲むつまじい事だな」

「だぁーれが仲むつまじい……って、祐一じゃない」

「ほう。相沢か。こんな夜に出会うとは、奇遇なものだ」

「確かに、奇遇だな」

まずは、二人の紹介をしよう。

「あのねぇ……アタシは迷惑なのよ。こんなそっくりさんに付きまとわれて」

こちらは七瀬。本名・七瀬留美。口調や言動からも推察できる通り、杏や智代とは別の意味で男勝りな性格だ。

中学時代には剣道部でその名を轟かせまくっていたらしいが、体に故障を起こしたために、そこからは手を引いた。今は真の乙女を目指していろいろなことに挑戦中らしい。青いツインテールにコントラストの効いた赤いリボンが印象的だ。

「まだ分からぬか? 『七瀬留美』の反転存在、『七瀬留美』の使われていない部分、『七瀬留美』のドッペルゲンガー……それが『七夜留美』。私の事だ」

そしてこちらは七夜。本名・七夜留美。口調や言動からも推察できる通り、俺が補足説明を入れないと男なのか女なのか分からないくらいに硬派な口調で話す。男よりも漢らしい乙女だ。

こう見えても根は生真面目で頼りがいのあるやつ(実際、意外に人気があるらしい)なのだが、そっくりさん……というレベルでは済まされないほどに似ている(少なくとも身長体重座高胸囲スリーサイズ髪型表情指の長さ髪の長さ足の長さ腕力握力は同一の値が出せるらしい)七瀬が絡むと、こんな風にちょっと滅茶苦茶なことになってしまうのだ。

「今宵は聖夜。決着をつけるのに、これほど相応しい夜もあるまい」

「お生憎様。アタシはね、別にアンタと何かするつもりはないのよ」

「フッ。逃げの手を打つか。オリジナルがこの体たらくでは、先が思いやられるな」

「だぁーれがアンタのオリジナルよ! ……はぁ。まったくどーして、アタシの周りにはヘンなのが多いのかしらね……」

確かに、それは言えている気がする。

「武器を取るがいい。私はお前の本気が見たい」

「だから、やらないって言ってるでしょーがっ!」

「まぁまぁ二人とも、ここは落ち着け」

このままだと俺が話に入れなさそうなので、この辺りで無理矢理話を切ってやることにした。

「武器を取れって言ったって、ここに武器なんかないだろ」

「……いや、実はね。あったりするのよ、これが」

「……お前、まだ竹刀を持ち歩いてたのか……?」

「それもあるけど、今日はこっちよ」

「……………………?!」

「武器を持っている」という七瀬が持ち上げたのは、どこかで見たことのある、しっかりと鞘に収められた……

「そ、それは……剣か?!」

「そうよ。しかも真剣。さっき商店街で落ちてたのを拾ったのよ」

「マジか……」

……真剣、だった。この辺りで真剣を持っていて、しかもそれを商店街にまで持ち込むようなやつは……俺の知っている中では、たった一人しか見当たらない。

「そうそう。これを拾った時に、そっちのそっくりさんとも出会ったのよ。向こうもなんか見つけたみたいだけどね」

「……どういうことだ?」

「ああ。これのことか。気になるなら、手にとって見てみるがいい」

「……………………」

そして、七瀬の反対側に立っていた七夜が取り出したものは……

「……こ、これは……!」

「何か子供用の玩具かとも思ったが、それにしては少々大きすぎるのでな。かような感覚は理解しがたいものだが」

「……ま、まじかる☆ロッド……」

「知っているのか? この奇天烈な杖を」

「……ああ。俺の知り合いの持ち物だ……」

……説明するのも面倒だが、七瀬が拾い上げた真剣の持ち主の大親友が密かに使っている、魔法少女魔法少女した謎のデザインの杖だ。杖というよりも、ロッドといったほうがより正しい。

「七瀬、七夜。実は、俺はその両方の持ち主を知っているんだ」

「えっ?! それ本当なの?」

「ああ。俺が探して返しといてやるから、預けてくれないか」

「もちろんよ。あー、助かったわ。真剣なんて持ち歩いてて補導されちゃ、乙女への道は限りなく遠くなっちゃうものね」

「ふむ。では、お前に任せよう。頼んだぞ」

二人から剣とロッドを受け取り、息をつく俺。今日は物々交換も激しいが、落し物を届ける役も半端なく多い。

(ストールに猪に……もう忘れかけてるが、他にもなんかあっただろうな)

ここまで一体どれだけのものを手にしてきただろう? もはや想像も付かない。

「よし。代わりといっては何だが、お前ら二人に謎のサービス券をやろう」

気を取り直して、俺は二人に不用品を引き取ってもらうことにした。

「サービス券? 何よそれ。何のサービス券?」

「俺にも分からん。気が付いたら、繭に握らされていたんだ」

「……一体どのようなやり取りがあったというのだ?」

「俺にも分からんといったら俺にも分からんのだ」

俺は表情こそ平静を装ってはいるが、本音は泣きそうな思いでいっぱいだ。夜になって暗くなり始めるし、プレゼントは未だに見つからないし、剣とロッドは届けなきゃならないし、意味不明なサービス券を渡されるしで……とにかく、いろいろな方向から俺は追い詰められている。まさに四面楚歌だ。

……しかし、こういうときに限って。

「……あっ。このサービス券、商店街の端っこにあるカラオケ屋のサービス券じゃない?!」

「マジか?!」

上手く問題は片付くものだ。サービス券の正体がはっきりした上に、それは十分、交換対象として成立するものだった。四面楚歌が、三面楚歌にパワーダウンした。

「よし七瀬、それに七夜。ちょうどここにサービス券が二枚ある。二人で行ってオールナイトで歌って来い。どちらが真の乙女かをはっきりさせるいいチャンスだぞ」

「真の乙女をはっきりさせるいいチャンス?! 聞き捨てならないわ! そっくりさん、決着はカラオケで付けようじゃないの」

「面白い! 望むところだ。我が喉を甘く見ると、末代に至るまで後悔する羽目になるぞ」

「その台詞、そっくりそのまま返してあげるわっ! ほらっ、行くわよっ!」

「承知!」

二人は妙に息の合ったやり取りを交わすと、サービス券をしっかり持って商店街の終わりへと走っていった。というかあの二人、仲いいんじゃないか? 性格似てそうだし。

……一人になってみて、両手にもったものの重みを感じる。

「……まだあの二人が商店街をうろついてくれてるといいんだが……」

右手に真剣、左手にロッドを携え……俺はまた、商店街を歩き出す。

 

「どこにいるかな……」

今回の物品の持ち主ははっきり分かっている。剣とロッド。それが固まって落ちていた。そんな状況を作り出すことができるのは、あのお二人さんを置いて他にいるまい。

「どっちも大切なものだから、置きっぱなしで家に帰るなんてことはしないはずなんだが……」

周囲を注意深く見回しながら、持ち主の行方を捜す。

空からは真っ白な雪が静かに降り積もり、行き交う人の数も少しずつ穏やかになっていく。それでも、商店街がにぎやかなことに変わりはない。

(……あれは?)

幾分落ち着いた人ごみの中に、探し求めていた人の姿があった。それも、ちゃんと二人揃っている。

(さっさと渡すに限るな)

今回は相手が持ち主だと分かっているのだから、特に話の切り出しに悩む必要はない。さっと渡してさっと終わらせてしまえば、それで済む事だ。

俺は気持ちを切り替え、二人のいる元へと歩いていく。

 

「……見つからない……」

「はぇー……誰かが持って行っちゃったのかなー」

「その誰かがここにいたら、どうします?」

 

不意に声をかけたためか、二人が驚いたように顔を上げる。

「あっ! 祐一さんだー! こんにちはーっ」

「こんにちは、佐祐理さん」

「……おはこんばんちは……」

「舞、微妙にキャラが違う」

商店街を歩いていた舞と佐祐理さんと軽く挨拶を交わし、またしても訪れた顔見知りとの出会いに不思議な感覚を抱く。

「祐一さんはこんなところで何してるんですか?」

「いや、今日はいろいろあって、一日中物々交換を繰り返しているんだ」

「はぇー……物々交換ですかー」

「ああ。これも交換で手に入れたんだ」

そう言って、二人の前に剣とロッドを差し出す。

「あーっ! これは佐祐理のまじかる☆ロッドですねーっ」

「……私の剣……」

「俺の同級生が拾っててくれたんです。二人に返します」

ロッドを佐祐理さんに、剣を舞に差し出し、それぞれの武器があるべきところへ帰り着いた。

「ありがとうございますーっ。舞、戻ってきてよかったねー」

「……はちみつくまさん」

「見つかってよかったですね。でも、どうして落したりなんかしたんですか?」

俺の問いかけに、佐祐理さんが笑って答えた。

「えっとですねーっ、実はお昼に、二人で買い物に行ったんですよー」

「買い物に。それで?」

「それでですねー、たくさんお買い物をしたら、福引券をもらったんですー」

「福引券」

「はい。それで、舞と一緒に一回ずつガラガラを回したんです」

「……がらがらがらがら……」

隣で奇妙な音を発する舞。多分、ガラガラの効果音だろう。

「……もしかして、その時に置き忘れたとかですか?」

「あははーっ。祐一さん、さすがですねーっ」

割とありがちな落し物のエピソードを聞かされた。が、落としたものが落としたものだけに、イマイチその光景がしっくり来ない。

「祐一さんは物々交換をしてるって聞きましたけど、どうしてそんなことをしてるんですかー?」

「いやぁ、実はいろいろあって……」

一通り訳を話す。プレゼントを買いたいがお金がなかったこと、それで仕方なく物々交換を始めたこと、しかしその物々交換の連鎖が果てしなく続き、巡り巡って二人の持ち物にまで及んでしまったこと……そんなところだ。

「……というわけです」

「はぇー……祐一さん、なんだかすごいですねーっ」

「……物々交換……」

「なかなか終わらなくて大変ですけどね……」

思わず本音がこぼれる。時間はもう五時を過ぎているというのに、未だにプレゼントになりそうなものが見当たらないのだから。

「えっと、もし良かったら、佐祐理も何か交換してくれませんかー? ねー舞、舞も一緒にやろうよー」

「……祐一と物々交換」

もはやこの話を出すだけで、特に切欠を掴まなくとも自動的に物々交換が始まるようになってしまった。確かにこれだけ続いたなら、自分もその中に混ざりたくなる気持ちはよく分かる。

「ありがとうございます。何か交換できそうなもの、ありますか?」

「えっとですねーっ、これなんかどうですかー?」

まず、佐祐理さんが取り出したのは……透明なプラスチックケースに入った、中を水で満たした小さな街並みとラメで表現された星が舞う、「星の降る街」という置物だった。ラメの星が水の中できらきらと舞い、見ているだけで飽きない。クリスマスプレゼントにはもってこいの、洒落た置物だった。

「……私は、これ」

続いて、舞が取り出したのは……小さな小さな、オルゴールだった。箱の中には一羽の金色の鳥が腰掛けていて、螺子を巻いてみると心地よい音色を奏でて見せた。曲調はゆっくりと落ち着いた品のいいもので、聞いていると身も心も穏やかになれそうな、なかなかに素晴らしいものだった。これもプレゼントには丁度いい品だ。

「……………………」

どちらもこれまでになくプレゼント向きの、かつてない洒落た品物だ。俺は逸る心を抑えつつ、二人に確認を取る。

「『星の降る街』にオルゴール……二人とも、本当にもらっていいんですか?」

「構いませんよー。これ、福引で当てたものですからー」

「……どっちも、四等……」

「……なるほど」

商店街で催された福引にしては妙に品物が洒落ているが、二人とも特に未練はないらしい。

「それじゃあ、ロッドと『星の降る街』、それに剣とオルゴールを交換。これでいいですか?」

「あははーっ。佐祐理はそれで構いませんよーっ」

「……了承」

「舞、無理にキャラ変えする必要はないぞ」

何故か無理なキャラ変えを断行しようとする舞。そんなことをしなくても十二分にキャラが立っているのだから、気にする必要はあるまいて。

「それじゃ、佐祐理と舞は家に帰りますねー」

「これから二人でクリスマス、ですか?」

「あははーっ。もちろんですよー。今日は寝かせないんだからね、舞っ」

「……はちみつくまさん」

二人は寝ないで何をするつもりなのだろうか。そこはかとなく興味が湧く俺は青春真っ只中だ。

「いい感じだな……」

……さて。そろそろ行くとするか。もう残された時間もあまりない。

 

(いよいよプレゼントらしくなってきたな)

俺は手の中の「星の降る街」とオルゴールを代わる代わる見つめて、一挙にプレゼントらしくなったことに心なしか驚いていた。

「剣とロッドは意外な『拾い物』だったってわけだな」

こうなると、七瀬と七夜の二人には感謝してもしきれない。二人は今頃カラオケで熱唱中だと思うが、今度会ったら飯の一つでもおごってやろうと思う。

「あの二人なら、好きなものは分かりきってるし……」

そう。あの二人はあろうことか、好きな食べものまで一緒なのだ。確か、何とか軒の激辛

 

(ずぼっ)

「おおっ?!」

 

……背中にいきなり何かを差し込まれた。あまりにも突然のことだったので、無意識のうちに声が上がってしまう。

「なんだなんだ?!」

慌てて背中に手を差し込み、震える手で差し込まれたものを取り出そうとする。指先に触れた感触は……何か、固いものだ。

(……木か?)

固いが極端に冷たいものではない。ただ、寒風に晒されてそれなりに冷たくなっている。指先に先端が引っかかったので、それを逃すまいと上手く上へ上へと手繰り寄せる。

「……………………」

しばらくすると、背中から何かが出てきた。それをしっかりと手に持って、顔の前まで持ってくる。俺の背中へ差し込まれたその遺物の正体は……

 

「……星?」

「いえ、ヒトデです」

 

木彫りのヒトデだった。まったく意味が分からない。

「……あのなぁ。頼むから、渡すなら渡すで普通に渡してくれないか?」

「普通に渡したつもりです。風子からのクリスマスプレゼントです」

後ろに立っていたのは……サンタのような赤い帽子(白いぽんぽん付き)を被り、服もそれとなくサンタ風に仕上げたまだあどけない風貌の少女だった。その手の中には、俺の背中に差し込まれたものと同じ木彫りのヒトデが顔を覗かせている。

「寂しい夜を過ごしているであろうヘンな人への、風子からの心のこもったクリスマスプレゼントです」

「誰が寂しい夜を過ごしているであろうヘンな人だ! というかお前誰だよ!」

ぴっ、とこちらへ元気よく指を指す風子と名乗る少女。見た感じは思いっきり年下だ。そしてこの堂々たる態度である。なかなかやりおるな、こいつは。

……って、風子? 今こいつ、風子といったか?

「お前、風子っていうのか?」

「はい。風の子と書いて風子と読みます。その辺りはしっかり覚えておいてください」

「……ひょっとして、お姉さんがいたりしないか?」

「はい。おねぇちゃんがいます」

「そのお姉さんは、美術の先生じゃないか?」

「はい。美術の先生をしています」

「お前、アホな子だろ」

「はい。風子はアホな子……って、違いますっ。危うく騙されてしまうところでしたっ」

やはりそうだ。こいつはずいぶん前に出会った、伊吹先生の妹だ。

「こんなところで何してるんだ? もう夜も遅いぞ」

「はい。実は風子、世の恵まれない人のために、こうしてプレゼントを配り歩いているのです」

「……プレゼントってのは、このヒトデのことか?」

そしてそのプレゼントの渡し方は、背中へ無造作に差し込むあの心臓に悪い方法なのだろうか。そうだとしたら、ずいぶんと迷惑なサンタさんである。

「はい。このとってもかわいい……」

「……あれ? どうした?」

「……………………」

「おーい。風子ー」

風子はヒトデを抱きしめたまま、どこか遠くへとトリップしてしまった。名前を呼んでみても、前で手をぶんぶん振ってみても、まったく反応を示さない。これはかなりの重症だ。

「戻ってこーい」

呼びかけてみたところで、まったくの無駄だ。

(……これはひょっとすると、まったくの無防備なんじゃないか?)

何をしてもまったくの無反応。もしかすると、悪戯でも何でもし放題なのではないだろうか。

(どれ、試しに……)

俺はポケットから「星の降る街」を取り出すと、風子が手に持っていたヒトデをさっと抜き取り、そこへ「星の降る街」をぐいぐいと差し込んでみた。これで風子はお気に入りのヒトデの代わりに、「星の降る街」を抱く格好になったわけだ。

「……………………」

「……………………」

そのまま俺は、風子が気付くまで待つことにした。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……というわけで、貴方は見事風子によって幸せな人に変身したのです」

「それより、手に持ってるものをよく確認してみろ」

「……!」

俺がこう言って初めて、風子は手の中の物が摩り替わっていることに……

「大変ですっ。ヒトデが素敵な置物に変化してしまいましたっ」

「するかっ!」

……気付いたといえるのだろうか? これは……

「気付かなかったのか? こっそり摩り替えただけだぞ」

「あっ! それは風子の大切なヒトデっ。返してくださいっ」

「言われなくともこれはお前の分だ。返すぞ」

摩り替えたヒトデを風子に返し、代わりに「星の降る夜」を受け取ろうと反対側の手を伸ばす……

「……………………」

「……………………」

「……いや、返せよ」

「……………………」

「……いや、あれは冗談なんだ」

「……………………」

「……いや、そんな目で見ないでくれ……」

風子は「星の降る夜」をしっかと握り締めたまま、こちらのことを純粋そうな目でじーっと見つめてくる。そしてその目には、どこか物欲しそうな色。

「それ、欲しいのか?」

「いえ。風子は大人の女性ですから、人の持ち物を欲しがるようなことはしません」

「じゃあ、返してくれないか」

「……………………」

「……いや、またそんな目で見つめるのはやめてくれないか……」

……どうやら風子は、俺が冗談で持たせた「星の降る夜」がいたく気に入ってしまったようだ。ああ、悪戯のつもりが、とんでもないことになってしまった。

「分かった……それはお前にやろう。ヒトデをもらったことだしな……」

「分かりました。では、ヒトデとこの置物を交換です。等価交換です」

「お前、等価交換の意味、絶対分かってないだろ……」

今だかつてない脱力モノのやり取りの末、せっかく手に入れた「星の降る夜」は、意味不明な木彫りのヒトデへと進化を遂げてしまった。ああ、もったいないことをした。

「……じゃあ、もう夜も遅いし、伊吹先生も心配してるだろ。そろそろ家に帰ったほうがいいぞ」

「はい。もとよりそのつもりです。時間を取ってしまいました」

「お前が俺に接触してきたんだろっ!」

最後の最後まで突っ込みっぱなしのまま、風子はヒトデと「星の降る夜」を抱いて、たったかたったかと走っていった。

(……はぁ)

もはや、うぐぅ……ではなく、ぐぅの音も出なかった。

 

「とほほ……」

もらったヒトデを片手に、俺は情けない足取りで歩き続ける。

「こんな調子じゃ、一生商店街を徘徊し続けることになるぞ……」

今俺の手元にあるのは……坂上からもらったインスタントカメラ、天野から預かった肉まん七つ、舞からもらったオルゴール。そして……風子からもらった(というよりも強引に交換された)木彫りのヒトデ。

「残り三つはともかく、さすがにヒトデは無いぞ……」

率直な感想を漏らしながら、雪の降る商店街を行く。

(誰か知り合いはいませんか、と……)

心の中で、誰にともなくぼそっとつぶやいてみる……すると。

 

「相沢君っ! 七瀬さん見かけなかった?!」

 

本当に知り合いが出てきてしまうから困る。

「ああ、えっと……広瀬だっけ?」

「そうよ! 相沢君、同じクラスでしょ?」

「そう言えばそうだったな……」

俺に話しかけてきたのは広瀬……本名「広瀬真希」。やや高飛車な性格で、常に取り巻きを二~三人従えている。が、今日は単独行動のようだ。周囲に他の人影はない。

「で、七瀬を探してるのか?」

「ええ! 最近、七瀬さんに付きまとうパチモノが現れたと聞いたから、ちょっと分からせてあげようと思って!」

「……………………」

……ちなみに、広瀬は一時期(といってもごく最近まで)七瀬に嫉妬心(なのか?)を抱いていたのか、いろいろとちょっかいを出していたそうだ。が、そのちょっかいというのが度を越している。明らかにイジメの領域に入っていた。

(椅子の下に画鋲とか、下剤を仕掛けるとか……こいつは少女漫画から飛び出してきたいじめっ子か?)

広瀬はそうやって七瀬をちくちくといびり倒していて、七瀬もほとほと手を焼いていたそうだが……あるとき、七瀬のそっくりさん(というレベルでは片付けられないほど似ている)七夜が突然七瀬の前に現れ、ああして何かと勝負を挑みたがるようになってからは状況が一変。広瀬に向けられていたはずの七瀬の気が、七夜に集中するようになってしまった。それ以降、広瀬がちょっかいを出してもまったく相手にされなくなってしまい、七瀬は七夜にばかり絡むようになってしまった。

(で、その辺りからおかしくなったんだよなあ……)

元々動機が怪しげだったのが、七夜の出現で一気に真の動機が明らかになった。ぶっちゃけた話、広瀬のやっていたことは「男の子が好きな女の子にちょっかいを出してしまう」ということと同じだったのだ。これが何を意味するかは、推して知るべし、である。

(歪んだ愛情の発露だったわけか、あれは)

歪んだ愛情は七夜という第三者の登場により、ある意味では正常に、ある意味ではより歪んだものへと変貌を遂げた。このまま行けば本当に危ない関係になるのではと一瞬危惧したが、何分相手は七夜である。そうやすやすとやられはしないだろう。

(面倒なことになりそうだし、適当にごまかすか)

七瀬と七夜の熱唱を邪魔するのも忍びない。あの二人は見なかったことにしておこう。

「七瀬か……俺は知らないぞ」

俺がそう言うと、広瀬は目をカッと剥いて、かなりの剣幕で迫ってきた。

「嘘をつかないでちょうだいっ! さっきあんたが七瀬さんと七瀬さんのパチモノと話してるの、見たんだから!」

「……あー、見てたのか。あれ」

「さあ、観念して七瀬さんの居場所を吐きなさいっ! じゃないと大変な目に……」

 

「ほう。誰を大変な目に遭わすつもりかね? 広瀬真希さん」

「?!」

 

俺が困りかけていたその時、広瀬のさらに後ろから声が聞こえてきた。男の声だ。

「ま、まさか……!」

広瀬が凍り付いた表情で後ろを振り向く。すると、そこには……

 

「……く、久瀬会長……!」

「……久瀬?!」

「ご名答。もっとも今は、久瀬委員と言うのが正確だがね」

 

……元生徒会長の久瀬、その人が立っていた。なんとなく禍々しいオーラが溢れていて、そこはかとなく恐ろしげだ。

「そこにいるのは……相沢君か?」

「……えっと、はい。こんなところで奇遇です」

「そうか……確かに奇遇だ。あの時から、もうかなりの時間が経つのだな……」

「……………………」

「久しぶりだな、相沢君」

久瀬が生徒会長をしていたとき、舞や佐祐理さんとひと悶着起こしたのは有名な話だ。久瀬があの手この手で二人を引き裂こうとしていたのを、舞が自分で止めて見せたのだ。その一件があって以来、久瀬は佐祐理さんに関わろうとしなかった。二人から手を引いたのだ……

(あの時の久瀬は、本当にただ嫌味なヤツだった……)

……と、ここまでならただのショボい悪役である。久瀬がただの悪役とは違ったのは、そこから奇跡の逆転劇を果たしたからだ。

久瀬は生徒会長の地位を返上し、長らく担当のいなかった「風紀委員」に自ら立候補。心機一転心を完全に入れ替え、地味に地道に学校の風紀を正していった。何があったのかはまったくもって知らないが、何故か久瀬による綱紀粛正は皆に歓迎され、気が付くと久瀬は押しも押されぬ名物風紀委員にまでなってしまっていた。

(で、久しぶりに会ってみたら完璧に別人になってて……)

学校の風紀と共に自分の性格も正したのか、久瀬はそこはかとなく高慢なところは残しつつも、嫌味な部分はすっかりそぎ落とされてしまっていた。今では佐祐理さんや舞とも普通に会話しているほどらしい。本気で何があったのか分からない。分からないというか、滅茶苦茶な話である。

「く、久瀬会長が何の用よ!」

「言わねば分からぬかね? 君は今、何をしようとしていた?」

「な、何って……」

「七瀬さんの居場所を聞き出そうとしていた、だろう? 生徒会が君に言い渡したことを忘れたとは言わせないぞ」

「……な、何を言い渡したんだ?」

俺の呟きには、久瀬が答えた。

「ああ、実は七瀬さんの知り合いから匿名の申し入れがあってね。広瀬さんの行いが少々目に余るものだったから、生徒会は広瀬さんに『七瀬さんの半径十メートル以内に近寄ってはいけない』という通達を行ったんだ」

「……せ、生徒会って一体、どれだけの権力があるんだ……?!」

明らかに対ストーカー用の処罰である。これを独力で言い渡せる生徒会の力は計り知れたものではない。

「せ、生徒会なんて関係ないわ! どうしようとこっちの勝手でしょう!?」

「困るな。それでは学校の風紀が乱れてしまう。最後にもう一度だけ言う。君が七瀬さんに近づくことは禁止されているんだ」

「言ったところで、それに何の意味もないわ!」

「……そうか。では、仕方あるまい」

久瀬が眼鏡をかけなおして、パチンと指を鳴らした。

「斉藤君!」

「はいっ!」

「……斉藤?!」

久瀬の背後から出てきたのは、同じクラスの斉藤だった。ここまで顔見知りの嵐だと、もはや驚くことすら億劫だ。

「広瀬さんは警告を無視し、七瀬さんに接触しようとした。よって、これより校則第八十六条七項に基づき、強制執行を行う。斉藤君、手伝ってくれたまえ」

「了解」

「え? あ、ちょっとっ! 離しなさいって!」

久瀬と斉藤が広瀬の左右に回りこみ、その腕をがっちりと押さえ込む。広瀬はろくに抵抗もできず、ずるずると引きずられていく。

「何すんのよっ! 離せって言ってるじゃないっ! どこへ連れて行く気よ!」

「安心したまえ。自宅までしっかり送り届けよう。君の両親にはもう連絡してある。もうすぐ、君を迎えに来るだろう」

そのまま二人がかりで広瀬を押さえ込み、ずるずると引きずっていく。

「こーらーっ! はーなーしーてーっ!」

「相沢君! 迷惑をかけたな。では、今宵は良いクリスマスを過ごしてくれたまえ。達者でな」

「それじゃ相沢、また来年にな!」

「は、はぁ……」

俺は何が起きたのかもよく飲み込めないまま、去って行く三人を見送るしかなかった。

(なんだったんだ、一体……)

広瀬・久瀬・斉藤による三人劇場を見終わった俺は、なんとなくぽっかりと心に穴が開いたような気持ちで、再び歩き出した。

 

「結局、状況に変化なしか……」

脈絡の無い四つの物品を手に、俺はすっかり日が落ちた商店街を行く。空から降る雪が上半身を、酷く冷えた地面が足を冷やし、凍えるような風が全身を突き刺す。寒さはかなりのものだ。

「……せめて、ヒトデの引き取り手が見つかれば……」

風子には悪いが、いくらなんでも木彫りのヒトデを家に持って帰るわけにはいくまい。置き場所がないし、使い道もない。かと言って、中途半端に捨ててしまうのも忍びない。

「願わくば、ヒトデと何かを交換してくれる救世主が現れないか……」

そんなことを願ってみても、ヒトデを欲しがっていそうな人などどこにも……

「……………………」

どこにも……

「……………………」

どこにも……いないわけではなかった。

 

「……はちみつくまさん?」

「いや、お前もキャラが違うぞ。遠野」

 

のっけから間違ったテンションで話しかけてきたのは、長い長い銀髪を風に流した、同級生の女の子……遠野美凪、その人だった。

「こんなところでどうかしたのか?」

「……はい。実は、電波を受信していました」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……なんちって」

「一瞬、本当かと思ったぞ……」

遠野は万事がこの調子である。まともに会話できるのは、同じく心なしか電波の素質を持つ佳乃や神尾、それに古河や一ノ瀬といったところである。この辺りとは電波のチャンネルが合うのだろう。ごく普通に会話している光景をよく見る。

……さて、気を取り直して。

「遠野。本当は何をしているんだ?」

「……はい。実は、みちるへのプレゼントを探していたのですが……」

「……みちるへのプレゼントか……」

俺の脳裏に、この長旅の最初の方で出会った少女の姿がプレイバックする。いつも笑っていて、元気に走り回っていて、年上の俺にも臆せず話しかけてくる、そんな少女の姿……

……けれども、あの時俺が見たのは、姉にプレゼントを渡すことができず、一人悲しみに暮れていた姿だった。大切な姉にプレゼントを渡すことができなかったみちるの気持ちは、察するに余りある。

「……もしかして、みちるに出会いましたか?」

「……ああ。少し元気が無かったから、牛乳をプレゼントしてやったぞ」

「牛乳……ですか?」

「そうだ。長森からの直々の進呈だ。味は……長森が保証するぞ」

実はあの銘柄は飲んだことが無かったので、保証は長森に任せることにした。という訳で長森、みちるに何かあったら責任取ってくれ。

「……みちるは……どうでしたか?」

「ああ。結構、喜んでくれたぞ」

「……そうですか……それは、良かったです」

遠野がほんの少しだけ――注意深く見ていないと、気付くことができないほど――笑みを浮かべて、こちらへちらりと視線を向けた。その表情は、まるで星が一瞬瞬くような、儚く、けれど確かな輝きのある、印象的なものだった。

(……星が一瞬瞬く、か……)

そう言えばみちるが俺にくれたものも、「星」に関わるものだった。そして、それを俺に渡す瞬間のみちるの表情は、とても晴れやかなものだった。

それが、意味するところは。

「ところで、みちるは星が好きなのか?」

「……はい。よく……二人で、星を眺めたりしています」

みちるは、星が好き。

「そうか……ところで、みちるへのプレゼントのあては何かあるのか?」

「いえ……あの子が気に入りそうなものは、なかなか……」

「まだ見つかってないのか……それなら」

そう言って、俺が懐から取り出し、差し出したのは。

「これはどうだ?」

海のお星さま。空ではなく海で瞬く、小さなお星さまだ。

「……これは……彫り物?」

「ああ。正確に言うとちょっと違うんだが……星の彫り物だ」

「……………………」

風子お手製の木彫りの星を見つめ、遠野がうっとりとした表情を浮かべる。一緒に星を眺めているといっていたから、みちるだけではなく遠野も星が好きなのだろう。その眼鏡に、風子の彫り物はかなうだろうか。

……結果が出るときが来た。

「……これを……いただいて宜しいのですか?」

風子の彫り物は、遠野の眼鏡にかなったようだ。心なしか笑みを浮かべて、遠野が彫り物を欲しいといっている。

「ああ。俺の後輩の手作りだ。同じものは二つとしてないぞ」

「……素敵な……ヒトデですね」

「……なんでバレたんだ?」

「……それは、企業秘密です」

風子の彫り物を星だと偽って手渡そうとしたところ、遠野によってヒトデであるとあっさり看破されてしまった。遠野はひょっとして読心術か何かでも使えるのではないだろうか。本当にそんな気がする。

「まあどちらにしろ、気に入ってくれたなら持っていってくれ。お前が気に入ったなら、みちるもきっと喜ぶ」

「……はい。ありがとうございます。お礼といっては何ですが、私からもささやかなプレゼントをご用意いたしております……」

「おお、何かくれるのか?」

「……………………」

遠野はコートのポケット(不気味なほどに盛り上がっている)へ無造作に手を突っ込むと、そこから「ごそっ」と何かを取り出した。そして、その「ごそっ」と出てきた何か――紙の束に見える――から一枚薄い紙を抜き取ると、それをぴしっと伸ばして、両手で持って構えた。

「では、相沢さんに……」

「……………………」

「……進呈。今日は一日歩きっぱなしだったで賞……」

「お前、やっぱり読心術の使い手だろ」

俺は風や雪による体感的な寒さとは若干異なる寒気を感じながら、遠野から差し出された紙を受け取る。それは……

「……お米券?」

「……はい。全国共通ですので、どこでも使えます……ぽ」

俺が遠野から手渡されたのは、全国共通お米券(一キログラム)だった。表面に書かれた「おこめ券」の文字が果てしなくシュールである。何となく、見てはいけないものを見てしまったような感覚だ。

「……とりあえず、ありがたく頂いておくぞ……」

クリスマスプレゼントにお米券とは普通考え付かないが、価値のあるものに変わりは無い。もし今後――まだ出会っていない顔見知りなど、自分から思い出すほうが難しいが――誰かと何かを交換するときでも、十分使い物になるだろう。

「……はい。では、私はこれで……」

そう最後に言葉を遺して、遠野が後ろを振り返った。

(……あれは……)

その時だった。

(……クリムゾンレッドとでも言えばいいのか……)

俺は遠野の髪の中に、見慣れない色があることに気付いた。それは燃えるような赤。穏やかで落ち着き払った遠野の銀髪の中において、独りその存在を高らかに誇示するような、情熱的で美しい赤。

「……………………」

落ち着いた遠野と、激しい存在感を主張する赤いリボン。一見相反するそれが朱に交わったとき、それは互いを貶めあうのではなく、高めあう存在へと昇華した。落ち着いた銀に静かな青を合わせていたこれまでよりも、それはより強く、強く印象に残るものだった。

(こんな組み合わせ、遠野によっぽど近しくなきゃできないよな)

遠野の言う「あの子」――遠野の妹のみちる――が悩みに悩んで選んだであろうそのリボンを見た俺は、この場から去り行く遠野へ、こんなことを言っていた。

「遠野! 一つ言い忘れたことがあった!」

「……?」

「そのリボン、よく似合ってるぞ」

俺の言葉を聞いた遠野は微笑みながら静かに礼をして、そのまま、どこかへと消えていった。

「あのチョイスは、みちるにしかできないだろうな……」

二人が楽しいクリスマスを過ごしてくれることを願いつつ、俺はその場を後にした。

 

「インスタントカメラ、肉まん、オルゴール……そして、お米券……」

木彫りのヒトデがお米券に変わったことで、ますます混迷の度合いを深める物品たち。これらの物品たちの行きつく先は、果たしてどこなのだろうか?

(そして俺だ。一体、どこまで行くんだろうな……)

そして、俺が最後に辿り着くのはどこだろうか? すべてを解決し、水瀬家へと帰ることはできるのだろうか?

(……そろそろ、終わりが近いのかもな……)

今日一日だけで出会った顔見知りの数は、両手両足に余るほど。俺はそのほとんどの人間と、互いの持ち物の交換をしてきた。その結果が、今手にしている四つの物品だ。

(後は、誰が残っていたか……)

思い浮かぶ顔は、皆どこかで出会ってきた顔ばかり。もう、知り合いという知り合いは出尽くしたのでは――

――俺がそう考え、空虚な気持ちが去来した時のことだった。

 

「……………………」

俺の足元には、膝にも遠く届かないほどの小さな人形が佇んでいた。

(……ああ、そう言えば……)

「……………………」

「なあ、ちびすけ。お前の主はクリスマスも絶賛営業中なのか?」

「そういうことだ」

 

その男は、商店街の路傍に座り込んでいた。白い髪に白い雪を積もらせ、少々生気の抜けた顔でこちらを見つめている。

「その分だと、さっぱりみたいだな」

「いや、こう見えても客は結構来たんだぞ」

「どんな客だ?」

「聞きたいか?」

「ああ」

「そうだな。カラスにスズメに、あと犬も来た」

「ほう。わくわく動物ランドって感じだな」

「これだけじゃないぞ。狐にミニ猪に、あとダメ押しに、白猫も見に来た」

「……そろそろ止めにしないか?」

「ああ。ただでさえ体が凍るように寒いのに、心まで寒くなったらリアルに死ぬ」

その男の名は国崎。国崎住人。椋からもらった新品のトランプと、殺人的絶望ジュース「どろり濃厚」とを交換した神尾の家で居候している、放浪の人形遣いだ。目つきが少々怖いのが困り物である。

国崎は「手を触れずにモノを動かす」という不思議な力を持っていて、その力を用いた人形劇で全国行脚の旅をしているらしい。もっとも、今日のようにまともに客が入らず、生と死の狭間をさまようこともしょっちゅうだとかどうとか。何れにせよ、浮世離れしていることだけは疑う余地は無い。

「クリスマスだってのに、よくやるな。あんたも」

「バカ言え。クリスマスだからだ。大事な人に洒落たものの一つも買ってやれないようじゃ、男の面子が丸つぶれだろ」

「……すまん。それは思いっきり痛い……」

今の俺の状況を鑑みると、国崎の一言は極めて痛い。何せ俺は物々交換で何とかしようとしているのである。面子もへったくれもあったものではない。

「なんだ? お前も俺と同じ状況なのか」

「それに近いものはある……」

「どういうことだ?」

「実はな……」

ここまで俺が辿ってきた軌跡を、あちこち端折りながら国崎に話してみる。そもそもは謎ジャムから始まったということ、途中で神尾や佳乃にも会ったこと、知っている限りのほとんどの知り合いに出会ったこと……そんなところだ。

「……というわけだ。なかなかスリリングだろ?」

「スリリングかどうかは分からないが、恐ろしくご都合主義的な話ではあるな」

「ああ。俺自身、こんな日はもう二度とないと思ってる」

もしこんな日が二度も三度も続けば、俺は確実に早死にしてしまうだろう。そんなことがあっては困る。

「という訳で、国崎。何か交換しよう」

「……って、唐突だなおい!」

「このオルゴールとかどうだ? プレゼントにはもってこいだと思うが」

「……オルゴール?」

俺の出した「オルゴール」という言葉に、国崎が反応を見せる。上手く行くといいのだが。

「ああ。これも物々交換でもらったんだ。見てみるか?」

「頼む」

ポケットからオルゴールを取り出し、国崎へと手渡す。国崎は大きな手でそれを受け取ると、おもむろにフタを開けて中を覗き込んだ。

「……鳥か?」

「ああ。洒落てるだろ」

「確かにな。これなら、それなりのプレゼントにはなる」

どうやらお気に召したようだ。特に、中に入っていた小さな鳥が興味を引いたらしい。ここまで来れば、後はもう一押しで済む。

「見かけだけじゃないぞ。割といい音を出すんだ。聴いてみたらどうだ?」

「そうしてみるか」

国崎がオルゴールのねじを巻き、静かに足の上へと置く。ねじが巻かれたことによって命が宿ったオルゴールが、あたかも雪の降り始めのように穏やかに、その身で音を紡いでいく。

「……………………」

「……………………」

人通りの無くなった静かな商店街に、オルゴールのかすかな音が響く。

(……いい音だ)

その旋律はとても儚いものであったが、しかし同時に、聴く者に何かとても強い力を呼び起こさせるような、飾り気の無い勇ましさがあった。

広い広い青空の中ををただ独り飛ぶ鳥のような、儚く切なく、そして密かな勇壮さを秘めたものであった。

「……………………」

「……………………」

俺と国崎はしばしその旋律に耳を奪われていたのだが、

「よし……」

不意に国崎が手をかざし、人形を立ち上がらせた。

「……相沢。悪いが、もう一度螺子を巻いてくれないか?」

「ああ。分かった」

国崎に言われるままに、オルゴールを手に取り、螺子をしっかりと回しこむ。消えかけた旋律が再び蘇り、雪の降る街に不思議な空間を作り出す。

「……今日はいつもより少し落ち着いた、大人の人形劇と行こう」

「見せてもらうぞ」

国崎はオルゴールが奏でる緩やかな旋律に歩調をあわせ、路上の人形を静かに踊らせる。

普段派手な動きが中心になる国崎の人形劇だが、今日は少々趣向が異なるようだ。

穏やかに、しなやかに。あたかも人形が旋律を紡ぐかのように、その動きはぴたりと一致していた。

「見物料はいくらだ?」

「そのオルゴールで勘弁してやる」

「そりゃ、ありがたいこった」

「ああ。お釣りがくるぐらいだからな」

言葉を交わしている合間も、人形と音楽とが調和した冬の舞踏は続く。

暗い空から静かに舞い降りる白い雪の間に間に、人形が軽やかに舞い、オルゴールの音色が響く。

見ていると思わず時間を忘れたくなってしまうような、とことん非現実的で、そして美しい世界だった。

……音色が少しずつ不安定になっていき、最後には完全に止まってしまう。冬の舞踏の終わりを告げる、どこか名残惜しさの残る最後だった。

「……良かった。まさか、こんなこともできるとは思ってなかったぞ」

「俺も気が付いたら人形を動かしていただけだ。こんなに劇に入り込めたのは、久しぶりだったぞ」

俺も国崎もどこか驚いた面持ちで、少し前まで眼前で展開されていた光景を振り返る。その光景は、俺と国崎の両方に少なからず――

 

(ぱちぱちぱち)

「素晴らしいものを見せてもらったよ。また、ずいぶんと上達したようだね」

 

……いや。俺と国崎のみならず、他の第三者にも強烈に印象付けられたらしい。

「あんたは……確か、観鈴の……」

「覚えててくれたのかい? それは嬉しい」

穏やかな拍手と共にそこへ姿を見せたのは、コートを羽織った若い男だった。コートの下にはスーツが見え隠れしている。恐らくは仕事帰りなのだろう。クリスマスの日まで仕事とは、社会人とは大変なものらしい。

「知り合いか?」

「ああ。以前にも人形劇を見せて、代わりにケーキをもらったことがある」

「……マジか」

どうやら俺の知らないところで、国崎と若い男の間で何らかの接触があったらしい。今こうしてここで二人が出会っているのも……きっと、何かの縁なのだろう。

「あのケーキは食べてくれたかい?」

「ああ……観鈴も、嬉しそうに食ってたぞ」

「……それなら良かった。君に渡した甲斐があったよ」

「……………………」

国崎が何故か、関係ないはずの神尾のことを口にする。そのことが、俺には妙な違和感として残った。

「観鈴は元気にしているかい? 僕が最後に見たときには、友達と楽しそうに歩いていたけれども」

「心配しなくても、元気すぎて困るくらいだ。晴子と一緒に、達者で暮らしてる」

「そうか……いいことを聞かせてもらったよ。僕にとって、これ以上無いクリスマスプレゼントだ」

男はふっと笑みを浮かべて、視線を足元へとやった。

「これもせっかく持ってきたけれども、どうやら今回も渡せずじまいのようだね」

ケーキが入っているであろう小さな箱を上げて、男が国崎を見つめた。

「前と同じように、受け取ってくれるかい?」

「……いや。悪いが、今回は受け取れない」

差し出された箱を受け取ることを、国崎は拒んだ。男は不思議そうな表情で、国崎へ問い返す。

「どうしてだい?」

「晴子が……」

「……………………」

「晴子が、自分で焼くと言っていたんだ。観鈴も手伝うって、朝から張り切っていた」

「……………………」

「だから……悪いが、今回は受け取れないんだ」

「……なるほど。それなら、仕方ないね」

国崎の言葉を聞いた男が、また笑みを浮かべた。

……それは少なからず、自嘲的な色を帯びた笑みだった。

「どうやら、僕がお邪魔する隙間は無さそうだね。でも、きっとこれがあるべき姿だったんだろう」

「……………………」

「そこにいる君は、国崎君の知り合いかい?」

不意に男がこちらを向いて、俺に話しかけてきた。俺は戸惑いながらも、なんとか返事を返す。

「えっ? あ、はい。まあ、そんなところです」

「こんなものをいきなり渡されても困るだろうけれども……」

今度は俺に向けて、男が静かに箱を差し出した。

「あいにく、僕はあまり甘いものを食べないたちなんだ。もし良かったら、家の人や友達と一緒に食べてくれないか?」

「いいんですか? 俺なんかがもらっても……」

「いいとも。食べ切れなくて捨ててしまうよりは、誰かのお腹の中に綺麗に収まった方が、気分もいい」

「……国崎。構わないか?」

「ああ。もらってやってくれ」

俺は静かに手を伸ばし、男の手からケーキを受け取った。それは思っていたよりも重みがあって、結構な量が入っていることを感じさせた。

「……さて。それじゃあ、僕はこれくらいで行くとするよ。国崎君、楽しいひとときをありがとう」

「いや。またどこかで会ったら、その時もよろしく頼む」

「ああ。その時はもう少し、ましなものを用意してくるよ」

最後まで笑みを浮かべたまま、男が立ち去ろうとする。

「待ってくれ」

それを見た国崎が声をあげ、男に呼びかける。

「どうしたんだい?」

「もう……家に帰るのか?」

「どういうことだい?」

問われた国崎が顔を曇らせ、言葉を詰まらせる。

「いや……なんとなく、聞いてみただけだ」

出た言葉は、苦しさが一杯に滲み出た物だった。それでも、男は表情一つ変える事無く、穏やかな口調で返す。

「そうだね……家にはまだ帰らないよ。少し、行きたい場所があるんだ」

「行きたい場所?」

「ああ」

男は頷いて、こう続けた。

「観鈴と晴子が元気でいることを、つれあいに伝えてくるよ。今夜は少しばかり冷えるけどね」

男は軽く会釈をして、今度こそその場を立ち去った。

「……………………」

「……………………」

……それから、しばらく経ってから。

「……国崎。あの人は、神尾の……」

「……お前の思っている通りの人だ」

「……そうか……」

俺は去り行く男の背中に物悲しい風景を見出しながら、寂寞とした思いに駆られた。

(……あの人に、何があったのかは分からないことだ……けれど……)

俺は、人知れず……

(せめて……せめて、これからの日々は、穏やかな日々であるように……)

……そんなことを願っていた。

 

「……………………」

手にしてきたすべての物品を紙袋へ丁寧に詰め込み、雪のちらつく街をただ独り往く。

「……どうなっちまうんだろうな」

先はまだ見えない。この長い長い旅路の最後に行き着くところが何処なのか、俺にはまったく分からない。

(……でも、どうにかなるだろ)

それは、なんとも不思議な気持ちだった。

終わりがはっきりと見えているわけではないのに、焦りも不安もない。さっきまではあったはずなのに、今は心の何処を見回してみても、そういった感情を掬い取ることはできない。

(……ここまで、どうにかなったんだからな……)

手に提げた紙袋の重みを感じながら、これまでに出会った人々の姿をちらほらと思い浮かべる。

(まだ会っていない人に……この先、俺は出会えるんだろうか……)

まだ先があるのだとすれば、それはまだ、会っていない人がいるということ。

会うべき人が……まだいるということ。

(……誰がいたかな……)

思い浮かぶ顔は、誰も彼も出会ってきた人ばかり。会っていない人がいるとするならば……

……俺がその人の顔を、一瞬だけ思い浮かべた時。

 

(さっ)

 

白い何かが、俺の前を横切った。

(あれは……猫か?)

それは、白い猫だったように見えた。自らの色によく似た雪の中を駆け抜けたそれは、一瞬だけ俺にその姿を晒し、瞬く間に路地裏へと消えた。

「待て!」

俺は無意識のうちに、その白猫が消えた路地裏へと入った。見えない何かが、俺を衝き動かしたように感じた。

「……………………!」

白猫の姿を求めて、路地裏へと入りこんだときだった。

 

「……美佐枝さん?」

「あら? あんたは……」

 

先程、一瞬だけ思い浮かんだその顔が、俺の間近にあった。

「相沢です」

「ああ、そうそう。確か、岡崎や春原といつも一緒にいる子だったわね」

美佐枝さんはコートを羽織って、少々疲れ気味の顔に笑みを浮かべた。その顔は僅かに青白い。どうやら、結構な時間この寒さの中にいるようだ。

「こんなところで何してるんですか?」

「何してるっていうかねぇ……探し物、って言うべきかしら」

「探し物ですか」

「んー……そう。猫なんだけど……」

その言葉に、先程俺の前を横切った白い猫の姿が蘇る。

「その猫って、白猫ですか?」

ある程度の自信を持って、俺が口にした言葉。今日こういう状況で口にする言葉は、たいていの場合、その人が求めているものを言い当てていた。

……ところが。

「残念だけど、白猫じゃないわねぇ……虎猫なのよ。虎猫」

「虎猫ですか……」

今回は当てが外れた。美佐枝さんが探しているのは、白猫ではなく虎猫だったらしい。

「その分だと、白猫は見かけたけど、虎猫は見かけなかったみたいねぇ……」

「はい。虎猫は見かけませんでした」

「……はぁ。もうずいぶん探したんだけどねぇ……」

困った顔をして、美佐枝さんがため息を吐く。吐き出された息の白さが、外の寒さを雄弁に物語っている。

「どこか遠くへ行っちゃったのかしらね……」

「……………………」

「猫って気ままな動物だからさ、飼い主の知らない間にどっか行っちゃう……なんてこともあるかも知れないわよね……」

美佐枝さんが静かに言う。その言葉は、どこか悲しい諦めの色を帯びていた。

「案外、もう家に帰ってたりするかもしれませんよ?」

「それだといいんだけどねぇ……はぁ。こんな夜に猫探しをするハメになるなんて、なんだかねぇ……」

ため息を一つ吐き出すたび、その顔が曇っていくように思われた。

「ところで、相沢はこんなところで何してんのさ?」

「話すとかなり長くなりそうなんで、一言で片付けていいですか?」

「いいわよ。聞く方もそれくらいの方がありがたいし」

「じゃ、簡単に言います。一日中物々交換をしてたんです」

「……はぁ? 物々交換?」

「はい。物々交換です」

簡単に言うと物々交換なのだから、これで何も間違ってはいない。いくらなんでも端折りすぎたか、とは思ったが。

「……とりあえず、一日中いろんな人と物々交換してて、それでそれを今も続けてるって訳?」

「そういうことです」

「なるほどねぇ……ところで」

「なんです?」

「あたしに出会ったってことは、あたしとも物々交換をするつもり?」

「できれば、そのつもりです」

俺の言葉に、美佐枝さんは苦笑いを浮かべて、何か交換できるものはあったかしら、とつぶやいて、コートの中へ手を差し入れた。

「えーっと……ああ。あったあった。それじゃ、あたしはこれを交換してもらおうかしらねぇ」

「……鈴?」

美佐枝さんがポケットの中から取り出したのは、小さな小さな金の鈴だった。それは美佐枝さんの手の中に収まり、彼女が軽く手を降ると、それに合わせて、ちりん、ちりん、と心地よい音を立てた。

(……ひょっとして……)

俺はその鈴を見て、鈴と美佐枝さんの関係を考えてみた。

「それ、美佐枝さんの猫の鈴ですか?」

はじき出された結果は、それしかなかった。

「そうねぇ……付けてあげようと思って持ってたんだけど……なんか、持ってても仕方ないかなーとか思ってさ」

「いや……でも、見つかった時に……」

俺が躊躇って、その鈴を受け取るのを断ろうとすると、美佐枝さんが首を横に振って、こう言った。

「なんかねぇ……今回はもう見つからない気がするのよ」

「そんな……」

「だからどう、って訳じゃないんだけど……持ってたら見るたびに悲しくなっちゃいそうだから、いっそのこと誰かにあげちゃおうと思ってさ」

「……………………」

俺はその言葉を聞きながら、いつものように振舞う美佐枝さんの姿を、ただ黙ったまま見つめることしかできなかった。

「……分かりました。それじゃ、俺からは代わりに……」

紙袋の中へ手を入れ、渡せそうなものを探す。

(これでいいか……)

それなりに増えた物品の中から、俺が選んだのは……

「……相沢。それ、遠野さんからもらったもんじゃない?」

「あ、分かります?」

「……はぁ。あの子、しょっちゅうそれを他の人にあげてるのよねぇ……お米券」

遠野から進呈された、あのお米券だった。他にも紙袋の中にはインスタントカメラ、肉まん、そしてケーキが入っていたが、美佐枝さんへのプレゼントにはなんとなくこれが一番いい気がした。

「はい。前にももらったことがあります」

「この前も『知らない女の子からいきなりお米券をもらってしまいました。これはどういう意味なんでしょう』って、何故か興奮しながら相談持ちかけてきた子がいたのよねぇ……」

「それ、絶対に勘違いしてるぞ……」

美佐枝さんはふっと肩の力を抜いた笑みを浮かべて、お米券を受け取った。

「それじゃ、これは受け取っておこうかしらね。何かの役にも立つでしょ」

「はい。全国共通ですから」

お米券を手渡す代わりに、猫の鈴を受け取る。

「じゃ、代わりにこれ。確か、あんたの居候が猫飼ってるんだったわよね?」

「はい。いつかはお世話になりました」

「それなら、その子の首につけたげるといいわ。どこにいるか、すぐに分かるから」

鈴は夜闇の中でもかすかな光を確かに跳ね返して、きらきらと輝いて見えた。よく磨きこまれた、立派な鈴だ。

「さて……あたしはそろそろ帰るとするわ。やらなきゃいけないこと、結構あるしね」

「寒いですから、気をつけて帰ってくださいね」

「大丈夫大丈夫。あんたに心配されるほど、ヤワな体じゃないからさ」

美佐枝さんはひらひらと手を振って、雪の降る夜の街から、その姿を徐々に消していった。

「……………………」

掌で輝く鈴を見つめながら、俺は美佐枝さんの下から離れた猫へと思いを馳せた。

 

「虎猫か……ぴろは虎縞じゃないからな……」

歩くたびに微かに聞こえるちりん、ちりんという音を聞きながら、俺は街を歩き続けていた。

「……美佐枝さんの言うとおり、やっぱりいなくなったのかな……」

路地や路傍を見回してみても、寒さに凍える虎縞の猫の姿は見当たらない。そして心なしか、道を行き交う人の姿も減っている。街は少しずつ、静寂に包まれようとしていた。

「……猫か……」

そう言えば、さっき見かけた白猫のことも気になる。雪の中を歩く白猫というのは、頭の中で考えていたものよりもずっと見栄えのするものだった。一瞬だけ晒したその姿が目に焼きつき、頭に焼きつき、そこから離れようとしない。

「……どっちでもいいから、出てきてくれないかな……」

 

「二兎を追うものは一兎をも得ず……そんなことわざを知っているかい?」

 

……俺のつぶやきに合わせるかのように、後ろから声が聞こえた。

俺はもう特に驚くこともせず、静かに後ろを振り向いた。

「誰だ? ……なんて普通に聞いて、素直に答えてくれそうなツラはしてないな。どっちでもいいぞ」

「それはありがたい計らいだね。受けさせてもらうことにするよ」

「……………………」

後ろに立っていたのは、恐らく同年代と思しき、学生服を着た金髪の優男と、小学生くらいの男の子だった。優男と男の子は手をつないで、共にこちらを見つめている。

「二兎を追うものは一兎をも得ず……か。あいにく、別に追ってるわけじゃないんだがな」

「それでも、キミがそれを探していることに変わりはないんだろう?」

「……………………」

「何かを探すということは、それを追いかけることと同義だ……少なくとも、僕はそう思うね」

学生服の優男は穏やかな口調で、静かにそう言った。

「何故人は何かを追うと思う? 何故人は何かを探すと思う?」

「……………………」

「キミはこの問いを聞いて、何を思ったかな?」

続けざまに、俺に問いかけをしてきた。俺はため息を一つ吐いて、こう返事をした。

「それに執着しているからか?」

「執着?」

「それを欲しいと思うから、それを手に入れたいと思うから……だから人は追い、人は探す」

「……………………」

「俺はそう思った」

不思議な世界にいる気がした。

相手に哲学のような不思議な謎かけをされても、謎掛けそのものに疑問を抱こうとはまったく思わない。

ただ、呈された疑問に、自分なりの答えを返す。

それだけに、意識が向けられていた。

「……近いね。本当に近いよ。僕が考えていた答えに、びっくりするぐらい近いよ」

「そりゃ、光栄な事だ」

「あはは……嬉しいね。ちゃんとした答えをもらえるっていうのは」

優男は曖昧な笑みを浮かべて、またこちらへ視線を向けた。

「……………………」

隣の男の子はただ黙ったまま、混じりけの無い目線を向けて、その場に佇むように立っている。

「それじゃ、僕の答えを言うよ」

「ああ。聞かせてくれ」

少しだけ顔を伏せて、優男が言葉を紡ぐ。

「何かを追って、何かを探す」

「……………………」

「人はそこに、何を見出していると思う?」

「……近いって言ったからには、執着じゃないんだよな」

「……そう。もう少し、分かりやすいものだよ」

伏せていた顔を上げ、夜空を仰ぐ。

「絆」

「えっ?」

「人は追っているもの、探しているものに絆を感じているから、それを追い、それを探すんじゃないかな」

「……………………」

「そこに絆があるから、人は何かを追い、そして何かを探す」

「……………………」

「絆という言葉が気恥ずかしいなら、縁という言葉でもいい」

「……………………」

「そこにつながりがあるから、人はそれを探し、追いかけるんだと、僕は思うよ」

仰いでいた夜空から視線を外し、再び顔をこちらへ向けた。

「ところで、キミは何を探していたんだい?」

「猫だ。白猫か虎猫……そのどちらでもいいから、見つかればいいと思ってな」

「猫か……好きな動物だよ。自由で、気ままで、独りを好む、かわいい動物だ」

「……………………」

澄んだ瞳を向けながら、また、言葉を紡ぎ始める。

「独りになれば、誰にも影響を与えることが無い。誰からも影響を与えられない」

「……………………」

「僕は今、キミの進む道に影響を与えようとしている」

「……………………」

「それが許されることなのか、許されざるべきことなのか、僕には判断しかねる」

「……………………」

「キミが進む道を決めるのは、キミ自身だからね」

優男は静かに腕を上げ、裏通りへとつながる道を指差した。

「今日はとても特別な夜だからね。二兎……いや、二猫を追う事も、決して愚かなことじゃないと思うよ」

「向こうに行ったのか」

「そうだね……実際に向こうへ行って、キミ自身の目で確かめてみることを薦めるよ」

「ああ。そうさせてもらおう」

俺は会釈をして、ゆっくりと歩き出す。

「ありがとう。少しばかり、楽しい時間を過ごさせてもらったよ」

「こんなことでもか?」

「こんなこと、だからだよ」

優男はまたふっと笑って、視線を遠くの夜空へと向けた。

「……………………」

その隣で、手をつないだ男の子が俺を見つめている。

「……………………」

「……………………」

その視線がずっと気になっていた俺が、思わず声を掛けた。

「……どうかしたのか?」

「……………………」

「俺のことをずっと見ていたから、何かあるんだと思っていたが……」

男の子は、何かを言おうとしていた。

「……ぁ……ぇっと……」

けれども、言葉が上手く出てこないのか、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいた。

「……その……」

「落ち着いて。完璧な言葉なんか、誰も求めてなんかいないさ」

優男がつないでいた手を握りなおし、男の子を励ます。

「……………………」

「キミは彼に何を伝えたい? 何を伝えるためにここにいるんだい?」

「……それは……」

「それをそのまま伝えればいい。彼は優しい人だからね。キミの言いたいことは、必ず伝わるさ」

優男に言われたことで決心がついたのか、男の子がその手を静かに離し、一歩前に出る。

「……えっと」

「……………………」

「おねえちゃんのこと、ありがとう」

「……………………」

「おとしもの、とどけてくれて、ありがとう」

「……………………」

「おねえちゃんと、おねえちゃんのおともだちと、いつまでもなかよくしてあげてください」

男の子が言っている「おねえちゃん」の朗らかな顔が、頭の中に浮かび上がる。

……そして、無口でちょっと変わっていて、そして誰よりも仲の良い、彼女の親友の姿も。

「……ああ。約束する」

俺は頷いて、男の子の顔をしっかりと見据えた。

「……それじゃあな」

「うん。また、どこかで会える日を楽しみにしているよ」

最後に会釈を交わして、俺は路地へ入った。

「……さあ、行こう。僕たちの、あるべき場所へ」

「……うん」

 

「……………………」

裏路地には、人っ子一人いなかった。道を埋めるかのような雪を踏みしめ、独り道を往く。

「……………………」

雪を踏みしめるざっざっと言う音だけが、俺の耳へと届く。他に聞こえる音は、何も……

 

(ちりん……)

 

……いや、それは間違っていた。

(鈴の音か?)

涼やかな鈴の音。聞いていると不思議な気持ちになる、美しい鈴の音。

(……こっちか?)

その音を頼りに、俺は駆け出す。鈴の音は……左か? いや、右か? とにかく、それほど遠くない場所で鳴っていることだけは間違いない。

「……………………」

その鈴の音には聞き覚えがあった。

「……………………」

それは、俺が今持っている鈴と、まったく同じ音。

(……そして、虎猫は鈴をつけていない)

ならば、この鈴の音を響かせているのは……

「……………………」

……俺は雪道を駆け抜け、鈴の音の出所を追う。

ちりん。鈴の音が、一際大きく聞こえた。

「……こっちだ!」

俺は確信を持って、木々が立ち並ぶ雑木林を右へ曲がる。

すると、そこには……

 

「あっ……」

「……………………」

「……相楽さんに、会った人ですね」

 

見知らぬ少年が独り、木の側に佇んでいた。

雪景色の中にあって、その少年はこれまで見た誰よりもずっと、儚い姿を見せていた。

「相楽……美佐枝さんのことか」

「はい。会いましたよね?」

「ああ。お米券を進呈して、代わりに……」

俺はポケットから鈴を取り出し、少年の前に差し出した。

「これをもらった」

「それは……猫の鈴ですね」

「ああ。さっき、これと同じ音が聞こえたんだがな……」

雑木林へ入ったとき、俺はそこに白猫がいるものだとばかり思っていた。

(……いたのは猫じゃなくて、男の子だったわけだ)

そこにいたのは、見知らぬ一人の少年。それも、出会うなりいきなり、美佐枝さんのことを口にした。

「お前、美佐枝さんと何か関係あるのか?」

「えっと……あるといえばあります」

こういう言い方をしたとき、大抵、そう言った人間は……

「……つまり、言いたくないかあるいは、言うだけの時間がないってことか?」

「そう思ってもらえると、分かりやすくていいです」

「……分かった。俺はお前に干渉しない」

少年は静かに言って、小さく頭を下げた。

「その代わり、ここで出会ったのも何かの縁だ」

「縁……ですか?」

「ああ。俺とお前がここで出会った。そのことを、俺は覚えておきたい」

俺は手に持っていた鈴を差し出し、少年に見せた。

「鈴が……どうかしたんですか?」

「出会い頭に美佐枝さんのことを言われたからな。何故だか、これはお前にあげなきゃ、って気がしたんだ」

「……もらっていいんですか?」

「ああ。その代わり、お前が持っているものを一つ、俺にくれないか」

「僕の持っているものですか?」

「そうだ」

物々交換。

俺は、今日それを何度も繰り返してきた。

何かを渡して、何かをもらってきた。

(……………………)

目の前にいる少年が誰なのか?

目の前にいる少年が何者なのか?

 

目の前にいる少年が、本当に人間なのか?

 

そんなことはもう、どうでもよくなっていた。

出会った人間と、持っているものを交換する。

そうすることで、互いの存在を記憶の中に止めることができる。

そうすることで、互いの「縁」を確かなものにできる。

俺は今、そんな境地に達していた。

「それじゃ……代わりに、これを受け取ってください」

「……これは……」

「これを……必要としている人がいるはずですから」

そう言って、少年が差し出したのは……

「……『光』?」

ぼんやりと光る、小さな球体。俺はそれを手に取り、自分の手の中に置く。

(……これは……一体……)

それには不思議な温かみがあり、電飾のぎらぎらした光や太陽のまぶしい光とも異なる、儚い光を放っていた。

「なあ、これは一体……」

俺がこの「光」の正体を聞こうと、少年に問いかけようとした時だった。

「……………………」

そこにはもう、少年の姿は無かった。

(……もう少し、話がしたかったんだがな……)

俺は「光」を持ったまま、しばらくその場に佇んでいた。

 

「『これを必要としている人がいる』……か」

手にした「光」の不思議な暖かさを感じながら、俺は独り、雪原を歩いていた。

雑木林を抜けた先にある雪原――周囲に多くの木々が立ち並び、その木々のどれもが雪化粧を済ませている。

「ここは……確か……」

俺はこの雪原に見覚えがあった。

そこは、一度訪れたことのある雪原だった。

「……あゆと……別れた場所だったか」

あゆと別れの挨拶を交わした場所。

すべてを知って、最後の別れをした場所。

……三つ目の願いを、あゆから聞かされた場所。

「また……ここに来るとはな」

だだっ広い雪原を歩きながら、物思いに耽る……

……すると、そこに。

 

「……………………」

「……………………」

 

……雪原の中にたった一人佇む、幼い少女の姿があった。

(こんなところで何してんだ……って、俺が言えたことじゃないか)

少女はこの寒い中、ワンピースを一枚着ただけの薄着ともいえないような薄着で、茜色の髪には黄色く長いリボンが二つ、丁寧に蝶結びで巻かれている。

(……これも、何かの縁か)

俺はもう深く考えることをせず、その少女の下へと近づいていた。

「そんなところにいて、寒くないのか」

「……………………?」

少女が俺の存在に気付いて、ゆっくりと顔を上げる。

その瞳は赤く、どこまでもどこまでも澄み切っていた。

まるでそれは……俺の心を、何もかもすべて見透かしているかのよう。

「寒くないのか?」

俺はあえて、もう一度同じ問いかけをしてみた。

「……ちょっと、さむいかな」

「そうか……そりゃ、そんな薄着じゃな……」

改めて少女の姿を見てみて、それがもはや薄着とかそう言ったレベルでは済まされないようなものだということに気付く。それが意味していることが何か、俺にはおぼろげながら分かりつつあった。

「お前は……どこから来た?」

「……わたし?」

「お前以外にいないだろ」

「……ねえ、きいてもいいかな?」

「ああ」

少女は後ろで腕を組んで、こちらを静かに見据えた。

 

「えいえんをみたいって……おもったことはある?」

 

少女の問いかけは、雪原の中で静かに響いた。

「……………………」

「ずっとかわらない……なにもかわらない……」

「……………………」

「おわることのない……えいえんのせかい……」

「……………………」

「かなしみもない……くるしみもない……」

「……………………」

「そんなところへ……いきたいとおもったことはある?」

少女の抑揚の無い、しかし……抑えようの無い悲しみを帯びた声。

(永遠、か……)

俺は、少女の問いに答えることにした。

「ずっと変わらない、何も変わらない」

「……………………」

「終わりのない、永遠の世界」

「……………………」

「悲しみも苦しみも、何もない世界」

「……………………」

「そんなところへ、行きたいと思ったことはあるか……か」

俺はあの優男がそうしたように、高い空を見上げた。

「無いといえば、嘘になる」

「……………………」

そしてそのまま……静かに目を閉じる。そうすることで、昔の光景を思い出すことができた。

「俺は昔、大切な人を目の前で失いかけた」

「……………………」

「俺は俺の無力さを呪った。何もできない自分を見ているのが、耐えられなかった」

「……………………」

「俺はその時起きた事を忘れようとした。誰にも触れられないよう、いくつもいくつも鍵を掛けた」

「……………………」

「そうしているときにふと……何もかも忘れて、誰も彼もから忘れられて、何も変わらない、ずっと変わらない、悲しみも苦しみも無い世界へ行きたいと思ったことはある」

俺はここまで言うと、また目を開けた。

「けれども、俺は気付いた」

「……………………」

「その世界に無いのは、悲しみや苦しみだけじゃないんじゃないのか?」

「……………………」

「驚きや喜び、望みも無い世界なんじゃないのか?」

「……………………」

「そう思ったとき、俺は気付いた」

そしてその目を、少女の前へ持っていく。

「この世界にあるのは、悲しみや苦しみだけじゃない」

「……………………」

「喜びや望み……そういったものが、ここにはある」

「……………………」

「そういったものが欲しいなら、悲しみや苦しみも受け止めなきゃいけない」

「……………………」

「ごく最近になって、そう気付いた」

少女はこちらを見据えて黙ったまま、こちらの話に耳を傾けている。

「……俺の答えはこんな感じだ。分かったか?」

「……うん。あなたはもう、わかったみたい」

「ああ。分かったんだ。俺は、こっちの世界のほうが性にあってるってな」

俺のこの言葉に、少女が寂しそうな笑みを浮かべた。

「……ちょっとだけ、さみしいかな」

「……………………」

「だれかといっしょにいたかったから……」

雪原に一人立つ少女の姿は、とても寒々しく、そして寂しげだった。

「……なあ。一緒にいてやることはできないが、代わりに何か交換しないか?」

「こうかん?」

「ああ。そうすれば、少しは気が紛れるだろ」

俺はもう、何を渡すか決めていた。

……俺が持っているものを、直接渡すわけではなかったが。

「えっと……」

少女はワンピースのポケットを手を入れて、そこから何かを取り出した。

「……あのね」

「ああ」

「これは、かりたものなの」

「借り物なのか」

「うん。だから、かえしてあげてほしいの」

「……………………」

そう言って、少女が差し出したのは……

「……お手玉か?」

「おてだま」

……三つの、布でできたお手玉だった。手に取ってみるとざらざらという音がして、ごく普通のお手玉であることが分かった。

「誰に借りたんだ?」

「……はねのはえた、おんなのこ」

「……羽根の生えた女の子?」

「うん。ひとりだったわたしに、おてだまをかしてくれたの」

「……羽根の生えた女の子、か……」

普段なら一笑に付すだろうこんな言葉も、今の俺には別段どうってことの無い言葉に聞こえた。

「分かった。必ず返してやるからな。代わりに、俺からお前に渡したいものがある」

「……?」

「ちょっと、こっちへ来てくれないか?」

「……………………」

少女をこちらへと招き寄せ、隣へ並ばせる。少女と肌が触れるほどまでに近づいたことを確認し、俺は紙袋の中から少々大きなものを取り出した。

「目をつぶっちゃダメだからな」

「……………………」

「行くぞ……一足す一は?」

『にっ!』

(ぱしゃっ!)

夜の雪原に一瞬、雷が落ちたかと思うほどの強い光。

……ほど無くして、そこから一枚の写し絵が吐き出されてくる。

「ほら、できたぞ」

「……しゃしん?」

「ああ。これはインスタントカメラといって、いつでもどこでも写真が撮れる優れものだぞ」

「……くれるの?」

「ああ。たいしたものじゃないけどな」

坂上からもらったカメラが、巡り巡ってこんなところで役に立つとは。

(写真は何も語りはしないが……少なくとも、その瞬間「一人じゃなかった」ことは分かる)

一人でいることの辛さを誰よりも知っているであろうその少女には、ささやかだが、いいプレゼントになったと思う。

「……ありがとう」

「ああ。また、どこかで会えるといいな」

「うん」

「……じゃあ、お前のお手玉はちゃんと返しておく。安心していいぞ」

「……うん。やくそく、だよ」

「……ああ。約束だ。元気でな」

俺が別れの挨拶をすると、少女は小さく頭を下げて、最後に――

「……さようなら……」

――そう言い残して、ゆっくりと消えていった。

「……行っちまったか……」

……できたばかりの写真を、その手に持ったまま……

 

「俺は……どこまで行けるんだろうな」

もう何時かもわからない。何のためにここにいるのかも、少しずつおぼろげになってくる。

「……羽根の生えた女の子か……あゆだったら、わかりやすいんだけどな」

けれども、やるべきことは分かっている。それを成すまでは、俺は帰ることなどできない。

(約束は……守らなきゃな)

そう……昔、あゆと約束を交わしたのと同じように。

俺はあの少女と、約束を交わしたのだ。

「……………………」

俺はただ、道なき道を歩き続けた。

………………

…………

……

 

……気がつくと、そこはもう雪原ではなかった。

「……雑木林に戻ってきたのか?」

鬱蒼と茂る木々。光さえ届かぬのではと錯覚してしまうほどの、他とは異質な暗さ。

「……それにしちゃ、ちょっとばかり暗すぎるな……」

深い森の夜の暗さにしても、いささかここは暗さが過ぎる。あらゆる光が入り込むことを許さないような、執念すら感じさせる深い暗さ。

そしてその暗さは、ただ単に暗いだけとは些か印象が違った。

(……誰か……悲しみに暮れた人の心の中を覗いているような気分だな……)

……心に直接訴えかけてくるような、重苦しい暗さ。

誰かが抱えている「闇」を、直に見せ付けられるような感触。

「……………………」

……そして、俺は。

 

「うっ……ううっ……誰か……誰かおらぬのか……っ……余を……余を独りにするでないっ……」

 

……「闇」の中心にいた少女の姿を、その目に捉えた。

「……………………」

俺は夢でも見ているのかと思った。

今日一日の出来事が、すべて夢なのではないかと思った。

もしそうなのだとしたら、目の前にある光景も、今よりもずっと素直に受け入れることができただろう。目の前の光景を素直に受け入れることができないということは即ち、これは夢ではないということを示している。

俺は、今……

 

「……本物はやっぱり違うな。羽リュックなんかとじゃ、比較するのもおこがましいよな……」

 

……背中に純白の翼を背負い、地面に顔を伏せて泣いている少女の姿を、この目で見ている。

(……こいつだな。あいつが言っていた『羽根のある女の子』のことっていうのは……)

俺は確信し、覚悟を決めて、その少女の側へと近づいていく。

「おい」

「……?」

声を掛けると、割と素直に顔を上げた。その顔は涙でぐじゃぐじゃになっていたものの、よく整っていて、美しい顔立ちであることが容易に想像できた。

「こんなところでどうした」

「……お、お主は一体……?」

「悪い。通りがかりのただの高校生だ」

「……高校生……?」

「……まあ、身分の一つだと思っておいてくれ」

泣いている時に聞こえてきた声で何となく予想はできていたが、どうやら俺の住む世界で使われている言葉の一部は正常に通じそうに無い。ここはなるべく話を簡単にして、伝えるべきことだけを正確に伝えるべきだろう。

「お主は誰なのだ? どうして……かような処におるのじゃ」

「俺は相沢祐一。この辺りただ歩いていただけだ。そうしたら、お前が此処にいた」

「……………………」

「正直言って、俺も今、俺の周りで何が起きているのかわからない」

「……………………」

「さっきから、得体の知れない出来事の連続だ。普通の俺なら、とっくの昔に尻尾巻いて逃げてるぐらいのな」

……ということで、今の俺はどうやら普通ではないようだ。こんな光景を前にしても、それほど慌てず落ち着いていることができる。これくらいのことは、もう俺を驚かせるには及ばないのだ。

今日一日起きた出来事を振り返ってみれば……そんな気もしてくる。

「俺とお前が出会ったのも、ひょっとしたら最初から仕組まれていたのかも知れない」

「……………………」

「……ま、これも何かの縁だ。とりあえず、隣に立たせてもらうぞ」

俺はそう言って、ぽかんと口を開けている羽を生やした少女の隣へ寄り添った。

「で、お前は泣いていたのか?」

「余……余は泣いてなど……泣いてなどおらぬぞっ」

「じゃあ、その真っ赤な目はなんだ?」

「こ、これはだな……」

「その目から流れ落ちているものはなんだ?」

「ぐっ……」

「その、微妙にまな板の入った体はなんだ?」

「こ、これは……って、それは関係ないであろうがっ! この無礼者っ!」

少女は顔を真っ赤にして、服――それも平安時代の身分の高い人が着るような、かなり厚手で豪勢な服だ――をじたばたさせて反論してきた。

「泣いてたんなら泣いてたとはっきり言え。服が台無しになるぞ」

「やかましい! お主に気遣われるような事は何一つ無いわ!」

「……お前、寂しいんじゃなかったのか?」

「……! 聞こえておったのか……」

「ああ。だから、お前のところまで来た」

少女は少し静かになると……顔を服の袖で拭い、視線をこちらへと向けた。

「……気苦労を掛けたな」

「気にするな。誰だって、独りになりゃ寂しい」

「お主も独りだというのか?」

「いや、俺はそういうわけじゃないが……とりあえず、今は独りだ」

「そうか……」

目を伏せ、少女が暗い表情を浮かべた。

「……………………」

「……………………」

沈黙が続く。どちらかが何かを切り出さなければ、それは延々と続くように思われた。

「……この辺りに、お前の知ってるやつはいないのか?」

先に沈黙を破ってしまったのは、俺のほうだった。

「うむ……気が付いたらこんなところに独りおったのだ」

「……………………」

「確か……余の魂は解き放たれ、繰り返される輪廻からも抜け出たと思っておったのだが……」

「……………………」

魂、輪廻。

(予想はしていたが、やっぱりこれは何かが違う)

それは今まで出会ってきた人間とは少々異なる事情を抱えている――そんな気がした。

どちらかというと、さっき出会った少女やその直前に出会った少年に近い。恐らく、普通の人間がまともに遭遇できる相手ではないのだろう。

(……やっぱり、今日は何かが特別なんだな)

俺はそう考え、ふっと息を吐いた。

(それなら……きっとこれも、何かの縁だ)

縁。何かの縁。

こいつと出会ったのも、きっと何かの縁だろう。

そう考えると、細かいことはどうでもよくなった。

(俺は俺のするべきことをしよう)

そう考え、紙袋へ手を突っ込む。

「ところでお前、誰かに貸したものはなかったか?」

「……まさか、お主……」

「ああ。そいつから返してもらうように頼まれたんだ」

俺はそう言いながら紙袋から手を引き抜き、目の前の少女へそれを放り投げる。

「受け取れよ」

「わっ?!」

少女は慌てふためきながらも、どうにか俺の放り投げたお手玉をキャッチした。

「お、お主……どうしてこれを?! あの領域には、一度入れば……」

「いや、あいつがここまで出向いていたんだ。今日は特別な夜だからな。あいつも、『呼ばれた』んだろう」

「『呼ばれた』?」

「ああ。この特別な夜を彩る、楽しい客人の一人としてな」

「……………………」

「だからきっと、お前もその一人だと思うぞ」

「……今宵は特別な夜なのか?」

「そうだ。一年に一度だけの、ちょっとした特別な夜なんだ」

今宵は特別な夜。

そう。一日だけの特別な夜。

そんな夜になら、何が起きたって不思議じゃない。

俺が物々交換を繰り返していろいろなものを手にしたり、不思議な人たちと出会ったり。

そんなことがあっても、おかしなことでもなんでもないのだ。

「そうか……余も、それに招かれたのかも知れぬ」

「ああ。きっとそうだ。そう考えれば、少しは気が楽になるだろ」

「……うむ。気の持ちようとは言ったものだな……」

少女の顔が微かに綻ぶ。少しばかり、気を持ち直したようだ。

「ところでお手玉を持ってたって事は、お前、お手玉ができるのか? なんかこう二つでも失敗しそうな感じがしてるが」

「無礼なことを言うでない。何なら、今此処でお主に見せてやってもよいぞ」

「ほほう。じゃあ、見せてもらおうか」

「ふっ……余の腕前を見て、腰を抜かすでないぞ」

少女はさっと立ち上がり、お手玉を両手に構える。

「はっ!」

少女の掛け声と共に、お手玉の一つが華麗に宙を舞った。

……そして。

(ぼんっ)

「いたっ?!」

お手玉は見事、少女の頭へと落下した。盛大な失敗である。

「すごいな。一つで失敗するなんて、なかなかできたものじゃないぞ」

「やかましい! 黙って見ておれ」

怒ったような表情で俺に言うと、少女は再び構えた。

「それっ!」

再び、お手玉が宙を舞う。

(どんっ)

「あたっ?!」

再びお手玉は少女の頭へと落下し、少女が奇声を上げた。二回連続の失敗である。

「その調子で全部頭に載せるとかはどうだ?」

「やかましいっ! い、今のは感覚を思い出しておっただけじゃ! 本番はこれからだぞ」

少女が三度構え、今度は少々緩めにお手玉を放る。

「やっ!」

お手玉は綺麗な円を描き、再び少女の手の中へと戻ろうとする。

「はっ!」

続けざまに反対側の手のお手玉を放り投げ、落ちてくるお手玉をキャッチする。

「それっ!」

そうしてまたお手玉を放り投げ、落ちてくるお手玉を拾う……

「……………………」

「……!」

「……………………」

「……!」

そのうち少女は無言になり、お手玉を操る手とそれを追いかける目だけにすべてが集中し始めた。

「……………………」

「……!」

「……………………」

「……!」

宙を舞うお手玉と、それを真剣に見つめている少女の姿……

「……………………」

「……!」

「……………………」

「……!」

……それはどこか楽しげで、それまでの悲しみを洗い流しているかのような、ひたむきで真剣な表情だった。

それから、しばらくして。

「……はっ!」

「……お見事」

お手玉をすべて手元へ収めて、少女は得意気な表情を浮かべた。

「上手だったぞ。茶化すところがまったくなかった」

「どうじゃ。余の手さばきを見て、言葉も出んだろう」

 

「まったく、言葉もありませぬ。神奈様が、ここまで上達されていたとは」

「ああ。驚いた。それなら、誰に見せても恥ずかしくは無いだろう」

 

「……!!」

「……?」

俺たち以外に誰もいないと思っていたこの森に、二つの声が響いた。

「お、お主らは……!」

その姿を見た少女が、驚き言葉を失っている。

「お久しぶりでございます。神奈様」

「確かに久しぶりだ。一千年と少しといったところか」

そこに立っていたのは……平安風(と表現するのが一番手っ取り早いだろう)の服を着た女性と、その付き人のような男。どちらも俺が知っている「服」からはかなりかけ離れた服装をしている。

「な、何故こんな処に……?!」

「分からん。俺も裏葉も、気が付いたら此処にいたからな」

「そうして柳也様とこの辺りを歩いておりましたら、お手玉に興じる神奈様の姿が見えたというわけでございます」

「……………………」

会話から名前を察するに、俺がさっきまで話していた少女は「神奈」、男女のうち女の方は「裏葉」、そして男の方は「柳也」ということらしい。

「……ところで神奈様。その隣におられます男は何者ですか?」

「相沢祐一。この辺りを通りがかっただけの、ただの平凡な高校生だ」

「高校生? なんだそれは……?」

「身分の一つだと思っておいてくれ」

説明している時間はなさそうなので、簡単に切り上げる。

「この者が余のお手玉を返しに来てくれたのだ」

「まぁまぁ……ありがたきことでございます」

「いや。俺はそいつに頼まれただけの事だ。こうして持ち主が見つかったんなら、俺はそれでいい」

「いろいろと、訳ありのようだな」

「まあ、そんなところだ」

ここまでの訳をすべて話していたら、恐らく夜があけてしまうだろう。

「では、神奈様も見つかったことですし、参りましょう」

「そうだな。お前に会いたがっている人、そしてお前の会いたがっている人が、向こうでお待ちかねだ」

「……?! ま、まさか……!」

「今宵は特別な夜でございます。ひと時の逢瀬……というわけではありませぬが、楽しい時間を過ごされましょう」

「行くぞ。あまり待たせると、都合が悪いからな」

そう言い残し、再び森の中へと消えていこうとする裏葉と柳也。

「ま、待てい! 余を置いていくでない!」

慌ててその後へとすがり、二人についていく神奈。

「……………………」

そして……それを見つめている俺。

(くるり)

その時、前へ走っていたはずの神奈がこちらを振り向いた。

「そこの者、名を祐一と言ったな!」

「そうだ」

「……お手玉の礼を言わせてもらうぞ。これも、何かの縁というものだからな」

「ああ……間違いなくな」

一言礼を言って、そのまま神奈は……

……森の中へと、姿を消した。

「……これで、あいつも行っちまったか……」

俺が一言つぶやいて、一歩を踏み出した時だった。

 

(ごりっ)

 

何か固いものを強く踏みつけたような違和感が、右足に鈍く走った。

(何だ? 石でも踏んづけたのか?)

気になった俺が足をどけて、踏んづけたものを見てみると……

「……………………!」

俺の視線と意識がすべてそこへ集まるのに、そう時間はかからなかった。

 

「……………………」

俺は驚くような速さで雑木林を抜け、裏路地を通り……

「……結局、ここか……」

……もとの商店街へと、戻ってきていた。

先程までの幻想的な出来事がすべて嘘だったかのように、商店街は何一つ変わらず、いつも通りの姿を晒していた。

人々が行き交い、楽しそうな声で話している。

「……懐かしいな」

それは、自然に出ていた言葉だった。

最初にここへ戻ってきた時は、どうしても抱くことができなかった感情。

「……………………」

空から舞い降りる白い雪。

長く伸びた商店街の道。

行き交う人々の姿。

そのすべてが……懐かしさに満ちていた。

「……………………」

ようやくその風景を懐かしいと思えるようになったこと。

その風景を思い出すことに、ためらいを感じなくなったこと。

俺はそれを実感し、まったく新しい気持ちで、今ここに立っている。

「……ひょっとしたら、今度は……」

手にしたものを眺めながら、次に出会うのは誰かを考えた。

(今なら……ありえる事だな)

そう。商店街は普通の姿であっても……それは、「普通の商店街」を必要とする人間がいて、それが次に俺が出会うべき人間だということを指しているに過ぎない。

今宵は……特別な夜。

(……また、後ろからかな)

何が起きても、おかしくはないのだ。

「……………………」

……そして。

 

(どんっ)

 

それは以前よりも、ずっと軽い衝撃に思えた。

 

「……………………」

「うっ……うぐっ……ううっ……」

 

そしてそこに立っている少女の背丈も、幾分低いものに思われた。

「こんなところでどうしたんだ?」

「うっ……うぐぅ……うっ……」

「泣いてるだけじゃ分からないぞ」

「うぐっ……うっうっ……うぐぅっ……!」

これは、夢なのだろうか。

長い夢の、一幕に過ぎないのだろうか。

俺は、夢を見ているのだろうか。

「そんなに泣くなって」

「うぐぅ……うぐっ……ううっ……」

「今日はクリスマスだぞ。泣いてる子に、プレゼントはないんだぞ?」

「うっ……うっ……うぐぅ……」

これは、何度目の光景なのだろうか。

夢で見た光景のような気がする。

過去にあった光景のような気もする。

俺は今、過去の夢を見ているのだろうか。

「うっ……うぐ……うぐぅ……」

「……………………」

冬の商店街。

泣いている少女。

それを慰める俺。

「う、ぐ……うぐ……ぅ……」

「……………………」

ピンクのセーターを着た、背の低い少女。

冬なのに短いスカートを履いた、オレンジを混ぜ込んだ茶髪の少女。

……頭に、リボンの付いたカチューシャをつけていた……見覚えのある少女。

「ほら。名前、なんていうんだ」

「うぐっ……あ……ゆ……」

後ろからぶつかってきた少女。

涙で顔をぼろぼろにした少女。

あゆと名乗る少女。

「よし、あゆだな。じゃあ、上の名前はなんていうんだ?」

「うぐぅ……あ……ゆ……」

自分の名前もまともに言えない少女。

上の名も下の名も「あゆ」だと言った少女。

……それが、出会いだった気がする。

「あゆあゆ。どうしたんだ?」

「うぐっ……あゆあゆじゃないもんっ……」

「だってお前、上も下もあゆだって言ったじゃないか」

「……………………」

俺がこう言う頃には、あゆはどうにか泣き止んでいた。

「じゃあ、本当の名前を教えてくれ」

「……あゆ。月宮あゆ」

「分かった。あゆ、って呼んでいいか?」

「……うん」

前はここまでスムーズには行かなかった気がする。もう少し、手間取った記憶がある。

「お前、どうして泣いてたんだ?」

「……ボク?」

「ああ。お前しかいない」

「……………………」

この俺の問いかけに、あゆは素直に答えてくれるだろうか。

「えっと……」

「……………………」

「大切なものを……無くしちゃったの……」

「大切なもの?」

「うん……とっても大切な……大切なもの……」

大切なもの。

とても大切なもの。

それは……俺の知っている中では、一つしか思い浮かばなかった。

「それは誰かからもらったものか?」

「うん……」

「そいつの名前を言うことはできるか?」

「……祐一君」

「……そうか。やっぱり、そうなのか……」

……あれは、プレゼントになるのだろうか。

……いや、その時の俺は、あれをプレゼントだと思っていた。

……ならば……

「それは……可愛いものか?」

「……うん」

「それは……白いものか?」

「……うん」

「それは……暖かいものか?」

「……うん」

「それは……これか?」

「……?!」

……今渡すことも、あゆへのプレゼントになるのだろうか。

……今の俺が渡したものは、あゆへのプレゼントなのだろうか。

……それとも……

「こっ、これ……」

「さっき森の中に落ちてたんだ。ビンの中に入ってたから、汚れとかは無いぞ」

「……………………」

……これは、何かのやり直しなのだろうか。

……封印された過去に決着をつけるための、やり直しなのだろうか。

……こうすることで……やり直しは成立するのだろうか。

「……………………」

「ほら。受け取れ。これは間違いなく、お前のものだ」

「……うん」

「よし。それでいい。これでもう、お前が泣くこともない」

……あゆは泣きやんでくれるだろうか?

……こうすることで、泣くのをやめてくれるだろうか?

……これが、正解であってほしい。

「……ありがとう。これが……ボクの探していたものだよ」

「そうか。それはよかったな」

「うん。大切な……人形さん」

……先程出会った翼人を模したかのような、天使の人形。

……白い羽を持った、天使の人形。

……いくつもの願いが込められた……天使の人形。

「ずっと探していたのか」

「うん……見つかるまで、帰らないって決めたから……」

「でも、見つかったな」

「うん。見つかったよ」

……探し物を見つけ出した、あゆ。

……あゆの探し物を拾った、俺。

……これで、何もかもやり直せるのだろうか……

「……………………」

ふと、空を見上げた時だった。

 

「あっ! 祐一っ、あゆちゃんいたよっ!」

「あゆーっ! そんなとこで何やってんだー?」

 

……どうやら、俺の考えは少々間違っていたらしい。

(ここからやり直せるのかと思ったが……そんな筈は無いよな)

そう。そんな筈は無い。

それで、よかったのだ。

「あゆちゃん、心配したんだよ。こんなところにいたんだね」

「なゆちゃん……」

「ったく……クリスマスの夜なのに、秋子さんを心配させるんじゃないぞ」

「祐一君……」

ああ、そうか。

これは……俺の知っている光景とは、少し違う。

俺が知っている光景よりも……きっと、もっと幸せな光景だ。

……ずっと、幸せな光景……

「あれ? あゆちゃん、この人誰?」

「えっと……知らない人」

「お前、たい焼きか何かで釣られたんじゃないのか?」

「ボクはそんな簡単に釣られたりしないよっ」

「……………………」

願わくば、それが長く続くことを。

願わくば、それがずっと続くことを。

願わくば……彼らに、幸せのあらんことを。

「えっとね、この人がボクに探し物を届けてくれたんだ」

「探し物……?」

「これだよ」

「……天使の人形……お前、それを落っことして……」

「うん……ボクと祐一君となゆちゃんの三人で、一つずつお願い事をした、大切な人形だから……」

彼らの行く道は、俺の歩んだ道とは違った道であるように……

彼らの行く道は、俺とは違う道でありますように……

彼らの行く道は……光に満ちた、幸福な道でありますように……

「そうか……よし。あゆ。そろそろ帰るぞ。秋子さんも真琴も、お前のために待ってくれてるんだ」

「祐一、けろぴーを忘れちゃダメだよ~」

「アレは人形じゃないか」

「それでも大切な家族の一員だよ」

俺はただ、願うことしかできないが。

彼らなら、きっとやってくれるだろう。

俺とは違う……まったく別の道を切り拓いて、進んでくれることを。

「ほら。行くぞあゆ」

「お母さんの料理が待ってるよっ」

「えっと……」

「行ってこい。探し物も見つかったし、お前を待ってる人もいる」

「……うん」

「いつまでも、幸せに暮らしてくれ。約束してくれるか?」

「……うん。約束、だよ……」

約束をした。

これでもう、安心だ。

あゆが約束を破るとは……考えもしないから。

「よし……じゃあな」

「……うん。ありがとう……」

商店街の出口へと消えていくあゆの姿を、静かに見送る。

(……これで、良かったんだな)

俺がそんなことを考えて、しばらく、感慨に耽っていた時だった。

 

「今の女の子、あゆちゃんにそっくりでしたね」

 

後ろから、声を掛けられた。

(……そう言えば、まだ、こいつには……)

後ろに佇むその姿は、どこか儚げだった。

「ああ。そっくりだろ? 俺もびっくりしたぐらいだ」

「はい。私も、びっくりしました」

「……こんなところで会うとは思ってなかったぞ。古河」

「私もです」

古河はストールを羽織って、寒い中、一人商店街に佇んでいた。

「なんか、お前に会うと安心するぞ」

「えと……それ、どういう意味でしょうか……」

「いや、今までちょっとばかり、普通じゃない面々にばかり会ってきたからな」

「そうですか……大変でしたね」

古河は静かに微笑んで、こちらを見つめている。

「お前、こんなところで何してたんだ?」

「えと……公園から、家に帰る途中でした」

「今日も練習だったのか?」

「はい。こんな日だと……いつもよりも、もっと集中できると思ったんです」

「……そうか」

俺は今こうして、ここで古河と会っている。

何故か? どうしてか?

そんなこと、言うまでも無い。

「これも、何かの縁か」

「えっ?」

「俺とお前が今こうして、ここで会っている事だ」

「……はい。私も、きっとそうだと思います」

最初から、こうなるべくしてなった。

最初に水瀬家のドアを開けたときから、こうなることになっていたのだ。

……ならば、それに逆らわず、抗わず……

ただ、身をゆだねればいい。

「相沢さんは、こんなところで何をしていたんですか?」

「そうだな……ずいぶんといろいろあって、物々交換をしているんだ」

「物々交換……ですか?」

「そうだ」

何かを渡すたびに、何かを受け取る。

例えば、それはちょっとしたものだったり。

例えば、それは誰かの落し物だったり。

例えば……それは、昔の記憶であったり。

「お前とも何かを交換したいんだが、いいか?」

「はい。ちょうどいいものを、今ここに持っています」

「よし。それなら都合がいい」

そう言って、俺がポケットから取り出したのは……

「……『光』?」

「ああ。何故だか、これは古河に渡したかった」

「これも、誰かにもらったんですか?」

「そうだ……ちょっと変わったヤツだったがな」

……あの少年から受け取った、「光」だった。

「きれいですねっ」

「だろ? 受け取ってくれるか?」

「はいっ」

俺はどうしてだか、これは古河に渡さなければならないと思っていた。

少年の言っていた「光を必要とする人間」が彼女だと言うのだろうか?

そういった理屈を抜きにして……俺は「光」を古河に渡したかった。

 

……渡すことで、何かが分かる気がしたから……

 

「それでは、代わりに……」

俺が古河に手渡した「光」の代わりに、古河が俺に手渡したのは。

「……だんご大家族?」

「はいっ。だんご大家族の人形ですっ」

「……………………」

黄色くて丸い体に、何となく気の抜ける感じの黒い小さな目のついた、一風変わった人形だった。

「でもこれ、大分前のじゃないのか?」

「えと……確かに時間は経ってしまいましたが、だんご大家族は永遠に仲良しなんですっ」

「……………………」

「いっぱいいて、みんな性格が違うんですが……それでも、みんな仲良しなんですっ」

「そ、そうか……」

だんご大家族への思いを熱っぽく語る古河に少々気おされつつも、俺は人形を受け取る。結構な大きさだった。

「本当にだんごだな……」

「はいっ。身も心もだんごなんですっ」

「……そうか。それじゃ、これ、もらっていくな」

「はい」

ここに、「光」と「だんご大家族人形」の交換が成立した。

「それじゃ、もう帰ったほうがいい。早苗さんもお前の親父も、きっと心配してるからな」

「はい。相沢さんも、お気をつけて」

「ああ。ありがとう」

古河が静かに、その場を立ち去った。

「……………………」

俺はその背中を、静かに見送る。

「……………………」

古河の姿が、完全に消えた頃だった。

 

「……………………」

「……………………」

 

商店街の片隅に独りぽつんと立っている、小さな女の子の姿が見えた。

(こっちを見てるな)

その姿を見かけたときから、何となく予想はしていた。

(……行こう)

俺はすぐに決意して、その女の子のいる方向へ向かって歩き始めた。

 

「こんなところでどうしたんだ?」

「……?」

声を掛けられたのが不思議とでも言いたいのか、小首をかしげてこちらを見つめた。

「独りなのか?」

「うん」

「親とか友達とか、そんなのは誰もいないのか」

「うん」

「……ここにいないだけか?」

「うん」

少女は頷いて答える。その仕草の一つ一つに……どこか、既視感を覚えずにはいられない。

「……………………」

「……………………」

少女が何かに視線を送る。

その視線の行く先には……まるでクッションのような、大きな人形。

「これを知ってるのか?」

「だんごっ、だんごっ」

「……そうか。テーマ曲を知ってるんだったら、な……」

俺が手にしているだんごの人形を、少女は知っている。

……それは即ち、誰かがこのだんごのことを教えたということに他ならない。

「だんごっ、だんごっ」

それも……とても熱心に。覚えるまで、何度でも。

「お前の親か友達が、それの熱心なファンなのか」

「うん」

俺はもう何が起きているのか、大体理解しかけていた。

こんな日だからこそ……すぐに、理解できたのかも知れない。

「そうか……」

そしてその上で、少女にこう言う。

 

「……それは、お前の母親か?」

 

「うん」

少女は事も無げに頷いた。

「そうか……ま、情操教育とかそういうのにはいいだろうしな」

「じょうそう?」

「気にするな。大人の言葉だからな」

「……おとなのことば」

少女は納得したように頷き、また優しい視線を向けてきた。

(……最後の最後まで、やるべきことをやろうか)

俺はそう考え、両腕を前へと突き出す。

「それじゃあ、これはお前にプレゼントだ」

「だんご?」

「ああ。これは……お前へのプレゼントだ」

両腕を使わないと持てないような巨大なだんごを、少女に手渡す。

「……よいしょ」

少女はそれを両腕でしっかり抱えて、嬉しそうな表情を浮かべて見せた。

「もらってくれるか?」

「うん」

「嬉しいか?」

「うん」

「……そうか。そら、よかったな」

渡されるべくして渡されたもの。

少女の笑顔を見ていると、そんな気がしてくる。

……確かに、嬉しいのも分かる。

 

大切な親からの、大切なプレゼントなのだから。

 

「それでだ」

一区切り付いてから、俺が問う。

「……お前はどうしてここにいるんだ?」

「……?」

「何か理由があって、お前はここにいるんだろう」

「……………………」

「今まで出会ってきた人はみんな、そこにいる理由があった」

「……………………」

「お前にも……理由があるんだろう?」

この俺の問いかけに……

「……えっと」

「……………………」

「きいてくれる?」

「ああ」

少女が返した答えは……

「……………………」

 

 

「お連れしましょう」

「この街の」

「願いが叶う場所に……」

 

 

「祐一っ、ちゃんと説明してよっ」

「あぅーっ……どういうことなのかさっぱり分かんないわよぅ」

「祐一君っ、ボク全然わかんないよっ」

「説明してるヒマは無いんだっ。とにかく急げっ」

「ほらほら。祐一さんは急いでいるみたいですから、後で話を聞きましょうね」

俺は水瀬家一同を引き連れ、とにかくひた走っていた。

家を飛び出し、通学路を抜け、商店街へ突っ込む。

「祐一っ、その紙袋の中身が気になるよっ」

「これも後で説明してやる。だから今は俺について来いっ」

「うぐぅっ、祐一君、すごい早さだよっ」

「ま、待ってよぅ……」

「ふふふふふ」

もうほとんど人のいなくなった商店街を駆け抜け……そのまま、だんだん、人の手の入っていない場所へ行く。

(確か……そう。こっちだ!)

俺は何かに導かれるようにして、ただ、道を走っていく。

 

噴水のある公園を抜け……

河をつなぐ橋を渡り……

建設中の建物がある道を駆け抜け……

……そして、たどり着いたのは。

 

「ここは……?」

「ものみの丘だ。ただし、今まで来ていた場所からはちょっと離れるがな」

ものみの丘。町を一望できる、その名の通りの小高い丘だ。

「ここがボクたちの目的地なのかな?」

「ああ。ここに間違いない」

「ゆーいちっ! どういうことか、今度こそ説明してもらうんだからねっ」

「ちなみに、ここはだな……」

「あうーっ! 無視しないでよぅ!」

俺は真琴を人差し指で抑えながら、割と冷静に話を聞いてくれそうな残りの三人に話をすることにした。

「真琴。祐一さんがお話してくれるみたいだから、ちゃんと聞きましょうね」

「あぅー……分かった……」

真琴も話を聞くつもりになったようなので、俺は大きく息を吸い込んで、話をはじめることにした。

「……さて」

 

「ここに着くまでに、俺はたくさんの人と出会った」

「あんまりにも多いから、ちゃんと思い出すのは難しいくらいだ」

「多くの人の手を借りて、俺はこの場所へとたどり着いた」

「この場所がどこか、知りたいか?」

一同、頷く。

「よし……それなら、俺が最後に出会った人から教えてもらった、この場所を一言で言い表す言葉を教えよう」

 

「願いが叶う場所、だ」

 

俺がそう言ったとき、

「あっ……!」

「えっ……?!」

「うわっ……!」

「あら……」

四人から一斉に、感嘆の声が上がった。

「ゆ、祐一っ、こ、これって……!」

「……いや、俺もここまですごいとは思ってなかった」

「あ、あぅ……夢でも見てるみたい……」

「すごい……すごいよっ。なんだか、奇跡が起きたみたいだよっ」

「……素敵な星空ですね。祐一さん……」

俺たちが見上げた空には……

 

「……これなら、どんな願いも叶いそうだな」

 

たくさんの星が、次々と流れていった。

数えているヒマなどまったくない、ものすごい流星の数。

それは空を埋め尽くして、さながら星の川のようだった。

「わ、わ、どんどん流れて行っちゃうよっ」

「気にするな。後から後からどんどん来る」

「あ、あうーっ! 何からお願いすればいいのかわかんないわよぅ!」

「バカ。一つだけにしとけ。あんまりたくさんお願いすると、神様だって困るだろ」

「じゃあ、みんなで一緒にお願いしようよっ」

「そうですね。みんなで一緒に、流れ星にお願いしましょう」

秋子さんの合図と共に、全員が口を閉じる。

そして、手を固く組み合わせ……

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

静かに、目を閉じる。

(……………………)

俺は数多の流星に願いをかけながら、今日一日のことを振り返っていた。

 

 

早苗さんは、新作のパンを焼き上げることができただろうか。

長森は、家族か友人と、楽しいクリスマスを過ごしているだろうか。

遠野とみちるも、二人でこの星を眺めているだろうか。

伊吹先生と風子は、プレゼントを交換し合って、仲良く笑っているだろうか。

晴子は、愛する娘に無事、プレゼントを渡すことができたのだろうか。

古河の親父は、ワインの代わりにあのお酒を飲んでいたりするのだろうか。

見知らぬ少年は古河親子の写真を見て、今どんな思いに駆られているのだろうか。

天沢の血の昂ぶりは、そろそろ落ち着いただろうか。

聖は今頃、佳乃からプレゼントされた黄色いハンカチを巻いて、二人でクリスマスを祝っているだろうか。

芳野祐介は、もう自分の家へと帰っただろうか。

春原と芽衣ちゃんは、兄妹で静かなクリスマスを過ごしているだろうか。

香里と栞は、元気にアイスクリームのケーキを食べているのだろうか。

里村と柚木は、あのワッフルに負けないくらい甘いケーキに、二人で取り掛かっている真っ最中だろうか。

みさき先輩は、誰と一緒にこの夜を過ごしているだろうか。

上月はまだ、演劇のための小道具をこしらえている最中だろうか。

幸村先生はあの絵を額に入れて、飾って眺めていたりするのだろうか。

岡崎と直幸さんは、わずかでもその溝を埋めることができただろうか。

杏と椋はもう落ち合って、ボタンと一緒に家に帰っただろうか。

神尾は母親と居候と一緒に、幸せな記憶を作っているところだろうか。

折原と住井は、結局二人でクリスマスを迎えたのだろうか。

北川の風邪は、少しでもよくなっただろうか。

坂上は家族と一緒に、楽しいクリスマスを過ごしているだろうか。

柊は暖かい場所を見つけ、この夜を穏やかに迎えただろうか。

天野は一人の家で、せめてあの甘い飴を口にしてくれているだろうか。

仁科と川口は、この瞬間も音楽に耳を傾けているだろうか。

一ノ瀬は、もう一人ですべての料理を食べきることができただろうか。

宮沢はまだ、この街に居るのだろうか。

繭はおまじないをあれこれ試して、その効果が出るのを楽しみにしているのだろうか。

七瀬と七夜の二人による熱い戦いの決着は、まだ着いていないだろうか。

舞と佐祐理さんは、二人でこれ以上なく楽しいクリスマスを過ごしてくれているだろうか。

広瀬は今頃、親にこってりしぼられているところだろうか。

久瀬と斉藤ももう、自分の家に帰っただろうか。

国崎は、神尾にオルゴールを渡すことができただろうか。

美佐枝さんは、家に帰ってきた猫が鈴をつけているのを見て、驚いた顔を浮かべているだろうか。

あの優男と男の子は、もう、あるべき処へ帰ってしまったのだろうか。

少女は永遠の世界の中で、俺と撮った写真を眺めてくれているだろうか。

神奈は三人、いや四人で、この幸せな瞬間を迎えてくれただろうか。

あのあゆは今頃、みんなで暖かな食卓を囲んでくれているだろうか。

古河は家族と一緒に、かけがえのない時間を過ごしてくれているだろうか。

 

そして……

 

あの子は今ごろだんごを抱えて、親たちと共にあるだろうか。

 

 

(……………………)

皆、幸せな時間を過ごしていることを、俺は願った。

今日出会った、すべての人に。

そして……

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

今ここにいる、俺を含めたすべての人に……

 

それから、少しした後。

「……よし。願い事は終わったか?」

「うん。ばっちりだよ」

「ふっふーん。真琴もよぅ!」

「ボクもだよっ」

「みんなきちんとお願い事をしたみたいね。それなら、きっと願いは叶うはずですよ」

全員がお願いをやめて、また視線を元へ戻した。

「それにしても、すごい空だよ~」

「きれい……」

「祐一君っ。もしかして、この空をボク達に見せたくて、ずっと家を空けてたの?」

「ん? ああ。結果的にはそうなるな。気に入ってくれたか?」

「うんっ。すっごくきれいだよっ」

夢中で星を眺めている三人を背に、俺は秋子さんに目を向けた。

「秋子さん」

「はい? どうしました?」

「ひょっとして……こうなること、分かってたんじゃないですか?」

俺のこの問いに、秋子さんは静かに目を閉じて、首を横へ振った。

「これは、祐一さんが見つけ出したものじゃないですか」

「……………………」

「あちこちを走って、いろいろな人に出会って……」

「……………………」

「そうして出会った人に幸せを分けてあげて、そうしたことで祐一さんが見つけ出した、私たちへの最高の贈り物ですよ」

「……そう言ってもらえると、俺も嬉しいです」

俺は秋子さんから目を離して、また星空を眺めた。

「この街でこの場所が一番、星が良く見える場所なんだよね」

「ああ。俺の知ってる中じゃ、ここが一番だ」

「あははっ♪ じゃあこの街の一番いいところは、真琴達だけのものなのよねっ」

「……あっ。みんなっ。向こうにも人がいるよっ」

「……えっ?」

俺はあゆの言葉に、思わずその方向に顔を向けた。

すると、そこには……

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 

……小さな子供たちが三人、並んで星を見つめていた。

(男の子に……女の子が二人か?)

その傍らには……

 

(……人形……なのか?)

 

ガラクタを寄せ集めて作ったような、不恰好な人形が座り込んでいた。

「誰だろうね?」

「あぅー……子供だけで来ちゃ危ないわよぅ」

「そうだよね。最近、怪しい人が増えてるみたいだからね」

「……………………」

心配する三人をよそに、俺は向こうの三人の子供たちの会話に聞き耳を立てていた。

 

「……寒くない?」

「ちょっとだけ……」

「君は?」

「私も、ちょっとだけ……」

……………………

「……きれいな流れ星だね」

「うん。空からの贈り物だよ」

「……うん。空からの、素敵な贈り物」

……………………

「あなたのいた場所に、こんな流れ星はあった?」

「……ううん。ただ、何もない、広いところだったよ」

「……………………」

「ただ、たくさんのガラクタだけが、そこにあったの」

……………………

「……その子は、そこで見つけたの?」

「うん……独りだった私を、独りじゃなくしてくれたの」

「あなたが、作ったの?」

「うん……入れ物が、必要だったから」

……………………

「きみたちは、どこから来たの?」

「……少し、遠いところからだよ」

「どこかを目指しているの?」

「……うん」

……………………

「それは、私も探しているところ?」

「もしかしたら、そうかも知れない」

「それは……何かが始まるところ?」

「うん。ずっと繰り返していたものが終わって……まったく新しいものが、始まるところ」

……………………

「ねえ……」

「……?」

「そこに行けば……こんなきれいな星を、また見ることができる?」

「うん……きっと、できると思う」

……………………

「……そろそろ、時間かな」

「うん。あなたも、一緒に来る?」

「うん。この子も、連れて行っていい?」

「うん……」

……………………

「じゃ、行こうか」

「うん」

「うん」

「この先に待つもの……」

 

「無限の終わりを目指して」

 

……その言葉を最後に、三人の子供達は、ゆっくりとその場を後にした。

「……………………」

俺はまた、空を見上げた。

空からは休むことなく、無数の流星が降り注ぐ。

俺はその中から、一番輝いている星を一つ選び、願をかけた。

 

(彼らの到着点が、彼らの目指すところでありますように)

 

「祐一君っ。もうちょっと右だよっ」

「ほら、こっちこっち」

「そんな事言ったって、これでいっぱいだぞっ」

「ちょっとっ、真琴に触んないでよっ」

「はいはい。皆さん、笑顔笑顔」

俺と名雪とあゆと真琴が押し合いへし合い、なんとか一所に収まろうとしている。

「秋子さんっ。これでどうですかっ」

「祐一君……腕が乗っかってるよ~」

「あぅー……狭くて仕方ないわよぅ」

「真琴、ちょっとの間だから、頑張って」

どうにか全員が一箇所に納まると、秋子さんが俺たちに声を掛ける。

「はい。それじゃ、いきますからね」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 

「一足す一は?」

『二っ!』

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。