「もっかい言うね。わたしがフミで、こっちがふみちゃん!」
フミは丁寧に、そして言い聞かせるように、私が「フミ」で、隣にいるのが「ふみ」だと教えてくれた。恐らく私は難しい顔をしていたのだろう、しばらくは厄介だけど、その内覚えられるよと付け加える。
つい先日友人になったばかりの「千駄木フミ」が私に紹介してくれたのが、「千駄木ふみ」という、隣の組に在籍している純人間の女の子だ。
もう一度言う。「千駄木フミ」が「千駄木ふみ」を紹介した。
これは何かの偶然だろうか、ほとんど同姓同名だ。音を聞いただけだと、どう違うのか分からない。文字にしてみて初めて、ちょっとだけ違いがあることが分かる。
「えっと、フミが前に話してた子っていうのは……」
「そう。ふみちゃんのことだよ。きっと仲良くなれるって思ってね」
千駄木フミと、千駄木ふみ。同じ音の名前を持つ二人だけれど、その見てくれはちっとも似ても似つかない。
同じ組にいる「フミ」の方は、私よりも一回り背が高い。背中まで届く長い黒髪に、縁の付いた大きな眼鏡が特徴と言える。落ち着いた物腰も相まり、しばしば同級生ではなく上級生のように見える。図書室に篭もって静かに本を読むのが好きそうだ――と言えば、概ねその雰囲気は伝わると思う。
一方隣の組にいる「ふみ」の方はと言うと、フミとは対照的に小柄で背丈が短い。私はさほど身長が高い方ではないけれど、その私より明らかに小さい。下級生だと紹介されれば鵜呑みにしてしまいそうだ。まるで男子のように短くカットされたヘアスタイルとの相乗効果で、とても活発な印象を振りまいている。冬でも半袖で外を駆け回っていそうだ――そう述べれば、きっとどんな感じかは想像できるはず。
「フミと……こっちの千駄木さんは、小学校からの友達なの?」
「もっと前からかな。幼稚園にいっしょに通ってたし」
「それとね……実はあたし達、姉妹なんだ。こう見えても」
「……姉妹?」
ふみがさりげなく口にした「姉妹」という単語は、私を大いに驚かせるものだった。フミとふみが姉妹、いろんな面で対照的な二人が姉妹って、どういうことなのだろう。受けた驚きを消化しきらないうちに、ふみがさらに畳み掛けてくる。
「一応ね、あたしがお姉ちゃんで、フミちゃんが妹なんだよ。一応ね」
「えっ……? フミが姉で、千駄木さんが妹じゃなくて?」
「よく間違われちゃうけど、逆なんだ。あたしもフミちゃんの方がお姉ちゃんっぽいって思うけど」
「そんなこと言って、いつもちゃっかりお姉ちゃんしてるくせに」
おどけた調子でフミがふみの肩を軽く叩く。ふみは朗らかに笑って、お返しとばかりにフミの肩を撫でるように叩き返す。いつも繰り広げられているフミとふみのじゃれ合い、私の目にはそんな様子に映った。
しかし、先ほどからフミふみフミふみと、紛らわしいことこの上ない。姉のように見える妹がフミ、妹のように見える姉がふみ。きちんと結びつけられるようになるまでには、いささか時間が必要になりそうだ。
「ってことはフミちゃん、この子かな? 同じクラスになった、『猫又』の女の子って」
「……そう。私は、猫又の『朱尾』よ」
フミとふみに驚かされてばかりで、ふみに言われるまで自己紹介をすっかり忘れていたのは、ここだけの話にしてほしい。
*
改めて。
私の名前は「朱尾」。人間の父と猫又の母の間に生まれた、半分人間・半分猫又とでも言うべき存在だ。見た目は概ね人間そのもの。猫又もしくは猫らしいところは、人間のものとはちょっと雰囲気が違うヒゲと、背中を撫でられる程度には長いこげ茶色の尻尾くらい。尻尾のおかげで、一目見て猫又だって分かるのは幸いか、それとも災難なのか。
この辺り……なんて言っても、どの辺りだって言われそう。だから、先に住んでいる場所の話をしようと思う。
私やフミ・ふみが住んでいるのは、山辺市は「甕覗区」というところだ。市の隅にある海沿いの小さな街で、海に関わる仕事で生計を立てている人が多い。よその地域ではほとんどいなくなったらしい「海女」も、ここではあちこちで見かけることができる。同級生にも既に見習いを始めている子もいると聞いた。名前は忘れたけれど、前にお母さんと訪れた隣の区では一人として見当たらなかったから、これはきっと甕覗ならではなんだろう。
この甕覗区では、猫又や化狸のような人ならざる者を、全部まとめて「物の怪」と呼ぶ習慣がある。私も猫又が半分混ざっているっていうことで、物の怪という扱いを受けている。物の怪だから何か不自由するとか、何か人間と区別される事があるかと言うと、特にそういうことは聞いた記憶は無いし、区別された経験も無かったりする。とりあえず、人とはハッキリと違うから、物の怪。それくらいのものらしい。
私には轆轤首の男子や座敷童の女子といった物の怪、あるいは私と同じような半物の怪の友人もいるけれど、彼らもみんなこれといった不自由をせずに暮らしている。
もっとも、轆轤首の方は滅多にいない男子で、勝手が分からないから家族総出で女子として育てられた――なんて言っていたし、座敷童は座敷童で、居候している家にお金が無いものだから、座敷に佇んだりしていないで新聞配達をして家計を支えている――とも聞いた。そういう意味ではみんな何がしか苦労しているようではあるけれど、ともかく物の怪だからどうこう、というのはさっぱり聞いたことが無いのは確か。
で、私は何も問題なく順風満帆幸せいっぱいなのかというと、たぶん、そうではない。
「朱尾はもう中二なんだから、ちょっとでも雌らしくなさいな。さもないと、青春が逃げてしまいますよ」
ここ最近毎日のように、母からこう言われている。あまり聞きたくない部類のお小言なのは、分かってもらえると思う。
齢十三、中学二年生。いかにも「子供と大人の間」という感じがする。母の言う「青春」とやらの入り口に差し掛かっているのだろう。青春。ああもう、口に出して言ってみると、字面だけで小っ恥ずかしいことこの上ないじゃないか。青春とかいう単語はこれだから苦手だ。耳にするだけでぞわぞわする。口に出そうものならたちまち口が痒くなる。
そんなものとはきっぱり無縁で、私は私の思うように生きられれば理想だけれど、なかなかそう上手くは行かないもので。
「い……いたたたた……っ」
尻尾の先に鈍い痛みを感じるようになったのは、一年生の夏頃だった気がする。水泳の授業中に気分が悪くなってプールサイドで休んでたら、尻尾の先がずきんと痛んだ。
怖くなってふと見てみたら、そこには見たこともない光景が広がっていて。
「なんといっても、朱尾ももうじき尻尾が割れるのですから」
母の言葉が、脳裏によみがえってきた。
*
「朱尾ちゃんって、ひょっとして『ネコマタ』だったりする?」
フミは最初の席替えで隣同士になったのが、声を掛けられるきっかけだったように思う。
「うん、見ての通り。千駄木さんは、普通の人間?」
「たぶんね。中二になった今でも、尻尾生えたり首飛んだりしてないし。でも分かんないよ、前に隣に住んでたお姉さん、赤ちゃん生んだらその子にキツネの耳と尻尾がぴょこんと見えた、なんてこともあったみたいだし」
「キツネの耳と尻尾なら可愛いものだよ。私なんて、ヒゲが生えちゃったんだから。一応女の子なのに」
「ホントだ。でも、それはそれで可愛いよ。ネコっぽくて」
「やだ。可愛くないし」
こんな感じで、最初から会話が弾んで、あっという間に友達になれた。クラス替えのすぐ後でみんな誰かと友達になりたいという思いもあっただろうけど、フミが物の怪の子と友達になるのが得意だったというのもある。なんでも、家の近くには物の怪の子が大勢いたらしい。その子たちに混じって遊んでいる間に、頭の後ろに口があったり、背中に羽根が生えていたりするくらいではちっとも驚かなくなったそうだ。口や羽根に比べれば、尻尾なんてあってもなくても同じに違いない。
あってもなくても同じもの、ともすると無駄だって言えるようなもの――まさしく「猫のしっぽ」というものだ。
「ん? 朱尾ちゃん朱尾ちゃん」
「どうかした?」
「この体育袋、朱尾ちゃんのだよね?」
「もちろん。だって、私の机に掛かってるし」
「だよね。じゃ、これどういう意味なのかな?」
フミが指差した先には、油性マジックの薄れた字で「華主美」と書かれていた。
「うーん、『はなしゅび』? わたし漢字弱いし、全然分かんないや」
「違うよ。これでね、『かすみ』って読ませるんだ」
「か……す、み……わあ、そんな読み方するんだ。あれかな、漢字で装飾するとかそういうの? それとも誰かの名前?」
「名前だよ。私のお姉ちゃんの名前」
「へえ。朱尾ちゃん、お姉ちゃんいるんだ」
「そう。今は瑠璃区にある山辺学院大学ってとこに通ってる。卒業したらもらうお婿さんも決まってて、家を継ぐんだって」
ふう、とため息を一つ付いてから、朱尾が窓の外を見つめて。
「華主美。いい名前でしょ? なんかこうさ、いかにも『期待してます』って感じがしてさ。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんのこと大切にしてるみたいだし」
「そうかな。なんかさ、派手過ぎると思う。華に主に美しいって、フルコース料理みたい」
フミがいきなり「フルコース料理みたい」なんて言うものだから、私は思わず吹き出してしまって、それにつられてフミもいっしょに笑い始めた。振り返って見ると、確かにフミの言葉通りかも知れないと思った。期待してるって気持ちが強く出過ぎてる、そんな風にも言えそうだ。
「朱尾ちゃんのお姉ちゃん、結婚するんだ。おめでとう」
「そんな、お祝いするようなことじゃないよ。いろいろ変わっちゃうし」
「ま、そうだよね。分かる分かる」
こんな風にしてたちまち気が合ったから、私はフミといっしょに遊んだりするようになった。それから、だいたい二週間くらいが経った頃のこと。
「ねね、朱尾ちゃん。お昼休み、ちょっと時間もらっていい?」
「朱尾ちゃんに紹介したい子がいるんだ。もちろん、女の子だよ」
私に紹介したい子がいる――フミがそう言って、私の前に連れてきたのが。
「この子だよ。名前はふみちゃん、『千駄木ふみ』っていうんだ」
「……えっ? 今、なんて……」
「もっかい言うね。わたしがフミで、こっちがふみちゃん!」
何を隠そう、ふみだった。
*
同じ組の方、髪が長い方、もしくはメガネを掛けている方――ともかく、そっちのフミのことがちょっとずつ分かってきたのは、四月ももうすぐ終わりという頃になってからだった。
「えーっとぉ……『ぬのだん』?」
「違うよ、フミ。『ふとん』だよ、ふ・と・ん。『ん』しか合ってないよ」
「うー、漢字難しいよぉ。わたしからっきしだもん、漢字読むの」
メガネをきらりと光らせて、長髪をさらりと流す姿からはちょっと想像できなかったけれど、フミは国語が壊滅的だった。教科書に書かれた文章を読むにも四苦八苦で、最後まで一つも間違えずに読み終えられたためしがない。教科書でこんな有様だから、もちろん普通の本を読むのはもっともっとダメだ。読破なんて、とてもとてもできるとは思えない。
人を見た目で判断してはいけない。良くも悪くも、その通りだと思う。
そう、人は見た目によらない。どんなものが苦手で、どんなことが得意か。それは結局、本人にしかわからない。
「フミちゃんったら、また速くなったね。計るたんびにタイム縮まってるし。ホント速いよ」
「えへへ。わたし、走るの大好きだからね」
フミの本領が発揮されるのは、勉強じゃなくて運動だったのだ。何をやっても上手でのびのびと動けていたけど、その中でも特に徒競走が大得意だった。他の同級生が思わずこぼしたように、フミはものすごい俊足の持ち主だった。
実は私も、走ることにはちょっと自信があった。フミと同じで体を動かすことが好きだったというのもあるし、半分と言えど猫又、瞬発力は普通の人より高いはずだった。グラウンドでフミがぴゅんぴゅんかっ飛ばすのを見ていて、普段あまり出てこない闘争心がむくむくと頭をもたげてきたのだ。
「フミ。もしよかったら、私といっしょに走ってほしい」
「おー! 朱尾ちゃんが相手だね、これは腕が鳴るよぉ! 動かすのはだいたい足だけど!」
思い切って勝負を申し込んで、私はフミとともに50メートルを駆け抜けた。
その結果は――と言うと。
「さっきも言ったけど、今までこんなに速い人と走ったことなかったよ。フミには敵わないや」
「朱尾ちゃんだって、もうすんごく速かったじゃない。わたし負けちゃうかと思ったもん。本気の本気で走っちゃった」
教室で体操着から制服へ着替えている最中の、この会話から分かる通りだ。私はフミに後一歩及ばなかった。ずいぶん惜しいところまで行ったし、フミに全力を出してもらうことができたから、十分満足していたけれど。
汗を吸って冷たくなったシャツを脱いで、口を開いた体操袋へぐいぐい押し込む。隣ではフミも同じように後片付けをしていて、ぷふう、と頬を膨らませながらぱたぱたと手で風を送っている。ほてった頬の赤みが可愛らしくて、なんとなく、彼女の顔を見つめてしまう。
「今度また競争しよっか。朱尾ちゃん、次はもっと速くなってそうだし!」
「それじゃあ、フミの期待に応えられるように、私もどこかで練習しようかな――」
私もフミも朗らかに笑っていたけれど、その時不意に、重く鈍い痛みを感じた。
「……いたたた。またこれかぁ……」
「あっ、朱尾ちゃんっ。どうしたの? 大丈夫? 保健室連れてくよ?」
「うん……ごめん、ちょっと待ってて」
制服のポケットからハンカチを引っ張り出して、教室の前に据え付けてあるうがい用の洗面台に向かう。蛇口をひねって水を流すと、ハンカチを濡らしてからよく絞る。こうやって水気を含ませておかないと、跡が残って面倒なことになるからだ。
駆け付けたフミが、私の何が痛むのかを理解するには、そんなに時間は掛からなくて。
「朱尾ちゃんの尻尾……! 血が出てる……!」
「そうなんだ。最近、時々こんな風になっちゃって」
既に赤く染まった尻尾の先に濡らしたハンカチを当てる。冷たさと痛みが合わせて一気にやってきて、思わずぶるっと身震いしてしまう。
よっぽどきつそうな顔をしていたんだろう、心配そうな表情をしたフミが、そっと私の肩を抱いてくれた。
「……ありがとう、フミ」
その優しさが、私には心強かった。
幸い、それからは何事もなく時間が過ぎていって、私はフミと二人で途中までいっしょに帰ることになった。
「朱尾ちゃん、尻尾のことだけど……」
道すがらフミの口から出てきたのは、もちろん体育の授業後のあの出来事だった。
「うん。ごめんね、フミ。心配かけちゃって」
「ううんううん、そんなの全然いいよ。でも朱尾ちゃん、大丈夫……?」
「大丈夫、平気だよ。それにね、これケガとかじゃないんだ」
突然の事で心配させてしまったし、ちゃんと話をしなきゃいけないと思った。ちょうど痛みも引いていたし、私はフミに尻尾の先を見せて、何が起きているか説明してあげることにした。
「見て、フミ」
「朱尾ちゃんの尻尾……」
「そう。ほら、よく見ると、割れ目が入ってるでしょ?」
尻尾をフミのそばへ寄せてしっかり見せてあげてから、私は事情を説明する。
「私って、猫又だから。知ってると思うけど、猫又って、尻尾が二つに分かれてるから『又』って付くんだよ」
「大人の猫又は尻尾が二つに割れてるんだけど、見ての通り、私はまだ一本しか無くてね。子供だから」
「こうやって中二ぐらいになるとね、大人になるために、尻尾が二つに割れようとするんだ」
「一つのものが二つに割れるわけだから、結構痛いんだよ。血も出るくらいだし」
「ある意味、人間と同じかな。大人になる前に、血がたくさん出ちゃうって意味では」
フミは割れようとしている私の尻尾を目の当たりにして、どんぐりまなこを大きく見開きながら、しきりにふんふんと頷いている。さっき私が痛がっていたことについて、納得してくれているみたいだった。
しばらく眺め回してから、なるほど、そりゃ痛いよね、二つに裂けちゃうんだもん――そう言ってくれた。
「ちゃんと二つになるまでずっと続くんだよね? 朱尾ちゃん大変だね」
「猫又だから、しょうがないよ。お姉ちゃんやお母さんも同じだったみたいだし」
「ふぅん。でも、尻尾が二つになっちゃったら、朱尾ちゃんもう大人ってことだよね」
頭の後ろへ手をぐるりと回して、フミがぽつりとつぶやく。
「大人かぁ」
「わたし、大人になりたくないなぁ」
「ホント、大人なんてなるもんじゃないよ。自分勝手で、何も分かってないもん」
大人になんて、なりたくない。
そう口にしたフミの表情は――皮肉なことに、朱い夕焼けに照らされて、普段よりずっと大人っぽく見えたのだった。
*
「ごめんね朱尾ちゃん。今日は部活の練習あるんだ」
「ううん。気にしないで、フミ。しっかり練習してきてね」
今日は部活の練習があると言って、フミは体操袋を持ってグラウンドへ走っていった。入っているのは、もちろん陸上部だ。二年生の中でも抜群に速くて、三年生にも負けないくらいパワーがある、そんな風に顧問に褒められたって、この間言っていた気がする。
フミが忙しいなら、他の友達を当たろう。三つ隣の組には、小学生だった頃から仲良くしてもらっている、半座敷童の「簿担」がいたはずだ。
座敷童というのは家に居着いて、何をするでもなくぶらぶらして、ときどき家内安全や商売繁盛を祈願する意味でお赤飯を食べさせてもらう――というのが、所謂常識らしい。簿担はまるで違う。家でじっとしているより、外で走り回っている方が好きな子だ。その点フミとそっくりだろう。お赤飯は、ついこの間お祝いに炊いてもらって、その時になって初めて食べたとも言っていた。なお本人いわく「小豆のザラザラ感がビミョー。白ご飯の方がシンプルで好き」とのこと。
かろうじて座敷童らしいところと言えば、大人になるまで三年に一度くらい居候する家を変えることくらい。盆休みやお正月になると、実家に帰って産みの親と過ごしているらしい。休みが終われば、また居候先へ帰る。これは座敷童なりの習慣らしい。ただ、そうは言っても居候先も実家も甕覗の区内にあるから、時々ふらっと遊びに帰ったりしてるみたいだけど。
その簿担の姿はすぐ見つかった。いつも臙脂色のくたびれたジャージを着ているから、それを目印にすれば探すのは簡単だった。他の子と話したりもしていなかったので、難なく声を声をかけることもできた。
「わー! ごめーん朱尾ちゃん! 今日これから夕刊の配達行かなきゃいけないんだよぅ……」
だけど、一緒に帰ることはできそうになかった。
簿担は今、甕覗にある公営団地の一室に居候している。だけど、その家はあまりお金が無くて――もっとハッキリ言うなら、貧乏だった。父親はもちろんちゃんと働いていて、母親も内職をして家計の足しにしている。それでも火の車だから、居候の簿担も新聞配達をして家を支えているそうだ。とは言え、配達してるのはあくまで朝刊だけで、夕刊はやってないと言っていたはず。
「簿担って、夕刊も配達してるの? 前はそうじゃないって言ってた気がするけど」
「こないだから始めたんだよぅ。夕刊も配達したら、お給金弾むよって言われたんだよぅ」
「そうなんだ。よくやるよ、まだ中学生なのに」
「ぬふふー。褒めても何も出ないよ?」
「いや、褒めたつもりじゃなかったんだけど」
だけど、この歳でもう働いてるっていうのは、純粋にすごいことだとは思う。
大変だけど、みんな仲良くしてて毎日楽しいよ――溌剌とした笑顔でそう口にする簿担が、私にはちょっと眩しかった。
「じゃ、行ってくる!」
「うん。気をつけてね」
カバンを肩に引っ掛けてパタパタ走っていく簿担の後ろ姿を見送って、残されたのは私一人。
「家に帰るのも気が進まないし、図書室にでも行くかな」
口に出して言うことで、気持ちが揺るがないようにする。家に帰っても楽しいことなんてさっぱりない、そう考えれば、図書室で時間をつぶしていた方が気楽。私の足は、自然と三階にある図書室へ向いた。
右手の机に見慣れた顔を見つけたのは、扉をくぐった直後のことで。
「……千駄木さん?」
ショートカットの丸顔。見てすぐに分かる、千駄木さん――千駄木「ふみ」の方だ――、その人だった。
「あ。朱尾ちゃんだ。本読みに来たのかな? そうだよね、ここ、図書室だもんね」
「それはそうだけど……千駄木さん、本読むんだ」
意外な姿にビックリしたというのが、私の偽らざる本音だ。なんといっても、千駄木さんの見た目からして、本を読むイメージが少しも湧いてこない。いかにも外を元気よく駆け回っていそうな感じなのに、今していることはまるで正反対だ。
「えーっ、読むよー。もしかして、あたし本とか読んでなさそうに見えた?」
「そういうわけじゃないけど、体動かしてる方が好きそうには見えてた」
「あー、うん。それはあるかー。よく言われるよ、髪型こんなだしね。よく『バスケやってる?』とか訊かれるもん」
読んでいた文庫本に古びた栞をはさんで、パタンとやさしく閉じる。あっ、この栞ねー、小学生の頃に自分で作ったんだー。ずっと使ってるよ――四葉のクローバーが押し花の要領で封入された栞をひらひらと見せて、千駄木さんが無邪気に笑う。栞を自分で作るなんて珍しいな、なんて思ってしまった。
千駄木さんが栞を本へ戻したのにつられて視線を机の上に向けてみると、栞を挟んだものとは別の文庫本が、三冊も積まれていた。私がまた目をまん丸くしていると、千駄木さんがくすくすと笑っているのが見えた。
「朱尾ちゃんったら、『こんなに読むんだー』って顔してるー。もちろん読むよ。読みきれなかったら借りて帰るし」
「どんな本読んでるの? 千駄木さんに言うのも何だけど、こう見えて私も本読むの好きだから」
「ほんとー!? 最近本読みさん減ってるからねー。朱尾ちゃんが本読みさんでうれしいよー」
あっ、これは三国志の人物名鑑。それも普通の人物名鑑じゃないよー、有名人の子供ばっかりを集めた本なんだ。こっちはラノベ。ちょっと昔の、ファンタジー色が濃いやつだねー。この仰々しくてちょっとこそばゆい感じが好きなんだよー。それから最後がホラー短篇集。怖い話っていいよねー、後味が悪いと最高だよ――目を輝かせて本の説明をする千駄木さんは、心の底から楽しそうだ。
千駄木さんを見ていたら、自分も本を読みたくなってきた。お気に入りは海外文学の邦訳本だから、それを当たろう。
「最近、この『河合書房』の本が増えてるなあ……見たことない本を訳してくれてるのはありがたいけど、インターネットで探しても少しも出てこないのは不思議かも」
今日は「バルム渓谷の風使いたち」というタイトルの本を手に取った。著者はアリシア・D・マレー、訳者は西条弘道、初版は昭和62年と書いてある。他にも気になるタイトルがあったから、スマホを使ってメモを取っておく。後で調べてみようと思うけど、これもまた情報が手に入らなさそうな気がする。
本棚を出て読書スペースに戻ると、千駄木さんがちょいちょいと手招きしているのが見えた。せっかくだから、千駄木さんといっしょに読むことにした。フミから紹介されて以来、まともに話をしたのは今日が初めてだからだ。
「お待たせ。私はこれにしたよ」
「おおー、海外文学ー! あたしもねー、向こうの本棚には目を付けてる本がたっくさんあるんだー。早く手を付けたいよ」
私と千駄木さん、それから下級生の男子が一人いるだけの閑散とした図書室で、私は千駄木さんのことをたくさん知ることができた。
「体育がねー、もうほんっとに苦手でさー。マラソンとか、絶対途中で歩いちゃうし」
「代わりと言ったらちょっとヘンだけど、本を読むのは大好きだよー。教科書とかも隅から隅まで読んじゃうタイプだし」
「フミちゃんによく勉強教えたげてるんだー。知ってると思うけど、フミちゃん漢字苦手でしょ? だから、あたしがお手製の漢字テストを用意して、フミちゃんに解いてもらったりしてるんだー」
「大変じゃないかって? そんなことないよー。フミちゃんには、これくらいでしかお返しできないし」
手にした本を読みながら、時折こうやって千駄木さんと話をしているうちに、放課後のベルが鳴った。学校から出て家へ帰りましょう、という合図だ。
「フミちゃんから聞いたよー。朱尾ちゃん家、海沿いにあるんだよね。なら、途中までいっしょに帰れるねー」
「もちろん、最初からそのつもりだよ。それじゃあ、帰ろっか」
並んで歩く。前にも言った通り、千駄木さんは背が高くなくて、私より一回り低いくらいだ。この辺りも、フミとは対照的だと思う。フミと千駄木さん、名前はほとんどいっしょなのに、見た目も中身もまるで違う。そう考えると、なんだか不思議な気持ちになってしまう。
一見読書好きっぽい「千駄木フミ」がスポーツ万能で、方や見た目は元気っ子風の「千駄木ふみ」が根っからの本好き。こんな二人が姉妹だというのだから、世の中分からない。
「今更だけどさ。千駄木さんがお姉ちゃんで、フミが妹なんだよね」
「一応ねー。そんな風には見えないよって思うかもしれないけど、一応そうなんだ」
「そっか。私にもお姉ちゃんがいるけど……千駄木さんとフミみたいな感じがよかった」
誤解しないでほしいけど、私は別にお姉ちゃんに邪険に扱われたり、苛められたりしているわけではない。そんなことは断じてない。お姉ちゃんはいつも優しくしてくれて、暖かい目で見守ってくれる。私だってお姉ちゃんのためにできることがあるなら何でもしたい。お姉ちゃんは、私にとって本当に大事な人だ。
だからこそ、余計なまでに痛感してしまう――お姉ちゃんは、あくまで「お姉ちゃん」なんだ……と。
「えー、やだよ。フミちゃんが妹だなんて」
私の思考を遮るような意外な言葉が、千駄木さんの口から飛び出した。
「……えっ? それ、どういうこと?」
「どういうことも何も、まるっきりそのまんまだよー。言った通り、フミちゃんが妹なのが嫌で嫌で仕方ないってこと」
「千駄木さんは、フミが妹なのが嫌……」
「そりゃもう心の底からね。フミちゃんだって、あたしがお姉ちゃんなのはすっごく嫌だって思ってるだろうし」
ホント、姉妹ってロクなもんじゃないよ。肩をがくんと落としながら、千駄木さんが投げ遣りに吐き捨てる。
ここまで言わせるんだから、千駄木さんはフミのことが嫌で嫌で仕方がないのは確かなことみたいだ。いくらそうは見えなくても、本人が言うのだから否定のしようがない。あんなに仲良くしているように見えるのに、どうしてここまで――湧き起こった疑問を抑えるには、いささか弱い根拠だった。
「あっ、そうだ朱尾ちゃん。一個お願いがあるんだけど、いい?」
「お願い?」
「あたしのことさ、フミちゃんみたいに『ふみ』って呼んでよー。『千駄木さん』じゃなくてさー」
「名前で呼んでほしい……ってこと?」
「うん! だってフミちゃんだけ『フミ』なのはずるいよー。あたしも朱尾ちゃんから『ふみ』って呼ばれたーい!」
千駄木さんはどんな意図で、名前の呼び方を変えてほしいと言ったのか。流れを掴めないまま、私は――。
「……分かったよ、ふみ。これからは、ふみ、って呼ぶね」
「うんうん! 絶対そっちの方がいいよー!」
頼まれるがまま、ふみ、と呼んでいた。
*
なんだかんだで、猫又はそれなりに珍しい物の怪らしく。
「ねーねー朱尾ちゃん。朱尾ちゃんってネコマタでしょ? だから、服もそれ用の着てるんだよね?」
「あれでしょあれでしょ!? デパートで『ネコマタ用』ってコーナーで売ってるの! 前から気になってたんだよ」
フミとふみが揃って私のところまでやってきて、「猫又って変わった服着てるんだよね」と訊ねてきたのだ。確かに、人間とはちょっと違う服を着ているのは合ってるけれど、さすがに「変わった服」とまでは言えないと思う。少し工夫がしてあると言った方が正しい気がする。
「そうだよ。ほら、これ見て」
私は二人の疑問に応えるべく、お馴染み体操袋からハーフパンツを取り出して見せる。
「ここ。こうやって、お尻の近くに穴が開いてるんだ」
「そうそう! 猫又の服って、パンツもスカートもみーんなこうなってるんだよね」
「うん。パンツ穿く時は、ここから尻尾を外に出したげるんだ。そうしないと痛くて仕方ないし。柔らかそうに見えて、しっかり骨入ってるからね。猫又の尻尾は」
「うわあ、ホントだー。パンツに穴開いてるー」
「ちょっとさ。ふみったら、その言い方やめてよ。なんか恥ずかしくなっちゃうじゃない」
普段からお母さんに「下穿きがはみ出て、はしたないですよ」……なんて顔から火が出るようなお小言を言われているのに、それを思い出さされちゃたまらない。よく確かめない私も悪いのは分かってるけど、でも、確かめ辛くて仕方ない場所なのは分かってほしい。
尻尾は自由に動かせるの、とか、やっぱり耳とか目とかよかったりするんだ、とか、猫又の子なら間違いなくされそうな質問を一通りさばいて、フミもふみも満足したみたいだった。
「けどさー、朱尾ちゃんってすごいよねー。走るのも早いし、本読むのも早いし」
「わたしは走るの得意だけど、本読むの苦手だし」
「あたしは本読むの好きだけど、走るのダメだし」
「ねー」
「ねー」
息の合った調子で「ねー」「ねー」と言い合うフミとふみ。どこから見たって、仲が良いようにしか見えない。
「そんないいものでもないよ。どっちも中途半端で、帯に短しタスキに長しってやつだよ」
「半分人間半分猫又。そんな私にはぴったりだよ」
ため息混じりにつぶやく私に、フミとふみが同時にじゃれてきて。
「そんなことないってー。それに朱尾ちゃん、尻尾もヒゲもかわいいよ」
「尻尾はいいけど、ヒゲはあんまりうれしくない」
「えー? だって可愛らしいじゃない。いたずらっ子みたいな感じするし」
こんな感じで、どちらもとても楽しそうだ。笑いあって茶化し合って、和気藹々と話してる。
それだけに――。
(「ふみがお姉ちゃんなんて嫌」)
(「フミが妹なんて嫌」)
(……これって、どういうことなんだろう)
前にふみから聞かされた言葉が、やけに重くのしかかってくる。あの時のふみは心底嫌そうにしていて、ストレートにフミを拒絶しているようにしか見えなかった。だから、今こうやって仲睦まじげに話していても、どちらかがいきなり爆発したりしそうで、どことなく落ち着かない。
あの時のふみが言ったことは、どういう意味なのだろう。直接聞きたいという思いもあるし、けれど触れてはいけないことのような気もする。
そもそも――二人の親は、どうして「ふみ」と「フミ」なんて、区別の付かない名前をつけたんだろう。それが、どうしても分からない。分からないけれど、直接訊ねるのも気が引ける。
ふとしたタイミングで理由を訊いてしまいそうで、結構ドキドキする。
(いつか、二人の方から話してくれればいいけど)
そんな期待をしてしまうのは、好奇心旺盛な猫のサガだろうか。
*
部屋のドアがノックされる音を聞いて、心臓が微かに跳ねたのを感じた。
「朱尾、入っていい?」
「……う、うん。いいよ、お姉ちゃん」
私の部屋にドアをノックしてから入ってくるのは、お姉ちゃんしかいない。お姉ちゃんが必ずドアをノックするのは、私のことをちゃんと一人の女の子として見てくれているから――そう考えるのは、都合が良すぎるだろうか。この年頃特有の、はかない夢を見ているに過ぎないのかも知れないと思うと、胸が締め付けられそうになる。
入るよ。その言葉と共に、お姉ちゃんが部屋へ入ってくる。だからどうということもないはずなのに、ただそれだけでどきどきしてしまう。高鳴る鼓動がはしたなく思えて、胸を抑えてごまかそうとしてしまう。身を縮めれば縮めるほどに、心臓の音がハッキリ聞こえるようになるだけなのに。
「ごめんね、急に来ちゃって。忙しくなかった?」
「ううん、平気だよ。私、いっつも暇してるから」
お姉ちゃんの声は優しい。耳からすっと入ってきて、ともすると心を溶かしてしまいそうなくらい。私の隣について、いっしょにベッドに座る。
ふわっ、と髪が揺れて、お姉ちゃんの匂いがした。
私の肩にお姉ちゃんが手を載せて、それから、こう話を切り出してきた。
「お母さんから聞いたわ。朱尾も尻尾が二つに分かれ始めたって。本当なの?」
「……うん。ときどき、ズキズキする。血も出るし」
「そうなの。もしよかったら、私に見せてくれる?」
お姉ちゃんに言われるまま、私は尻尾を前へ持ってくる。さっき傷口を拭ったばかりなのに、まだ血がじわりと滲んでいる。割れ目が外気に晒されて、痒みにも似た痛みが尻尾をなぞる。なんだか見せてはいけないものを見せている気がして、無性に気恥ずかしくなる。
けれど、相手がお姉ちゃんなら――いくらでも見せたって構わないとも、思った。
「まあ、本当だったのね。中心から少しずつ裂けてきてるわ。いよいよ朱尾も、こうなる時が来たのね」
「血も出てるし、当たり前だろうけど……やっぱり痛いよ、尻尾が割れるの」
「朱尾も私と同じね。大変だと思うわ。私もずいぶん痛かった記憶があるもの」
「お姉ちゃん、ときどき学校休まなきゃいけなかったもんね。ホントに大変だったと思う」
「私は大丈夫って言ったけど、お母さんが休みなさいって言うから。昔から、過保護なところは変わらないわ」
前にも言った通り、お母さんと、それからお父さんも、お姉ちゃんにはたくさんの期待をかけている。だから、何かにつけてお姉ちゃんを守るようにしていた。それは別に悪いことじゃない。お姉ちゃんが大事にされるのは、最初に産まれた子供だってこともあるし、猫又の娘には、次の猫又を産むって使命がある。猫又の血筋を守ることは、すっかり数の減ってしまった猫又にとって欠かすことのできない、とても大事なことだ。
大事なこと。それは分かってる。少なくとも、頭では。
「毎日休み時間になったら、尻尾を濡らしたハンカチで拭くようにしてるよ。血の匂いがしたら嫌だろうし」
「いい心がけね、朱尾。身奇麗な女の子は素敵よ」
お姉ちゃんが頭を撫でてくれる。ずっと昔から変わらない、優しい手つき。ぬくもりがじんわり伝わってくる、暖かな手つき。
頭を撫でる手つきは変わらないのに、他のものがみんな変わっていくことが、まだ信じられずにいて。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「なあに、朱尾」
「あと……一年くらいしたら、お婿さんをもらって結婚するんだよね」
「そうね、その通りよ。本当は、一年と、もう少し先だけれど」
「……おめでとう、お姉ちゃん。結婚できて、よかったね」
お祝いしなきゃいけない。結婚は、めでたいことだから。そんな気持ちを持って、どうにか絞り出した声は、思い切り沈んでいて、驚くほど掠れていて、ひとにぎりも明るさの感じられない情けないものだった。
「無理をしなくてもいいわ、朱尾。あなたが戸惑うのも分かるもの」
「でも、お姉ちゃんが……せっかく、せっかく……」
「自分の気持ちに素直になって。お姉ちゃん、朱尾の素直な気持ちが聞いてみたいから」
私の素直な気持ちが聞きたい。お姉ちゃんに言われて、私は思わず顔を上げる。
顔を上げた先には、見たくて見たくてたまらなかった、優しい笑みを浮かべたお姉ちゃんの顔があって。
「……お姉ちゃん。私、尻尾が割れなかったら、出て行かなくても良かったのかな」
「尻尾が割れたから、私はもう大人で、早く家を出てかなきゃいけないのかな」
「お姉ちゃんのそばにいることは、もう……できないのかな」
結婚するお姉ちゃん。尻尾が割れていく私。お姉ちゃんは一人の女性になって、私はこれから大人になろうとしてる。
今までずっと側にあると思っていたもの。それが音を立てて崩れていくような気がして、不安で胸がいっぱいになる。不安がどんどん積み重なって、内側から体が押しつぶされてしまいそう。
「そうじゃないわ、朱尾。そうじゃないの。尻尾が二つになったから、すぐ出ていかなきゃいけないってことじゃないの」
「でも、お母さんが言ってる。早く相手を見つけなさいって、男の子を好きになりなさいって」
「お母さんの言う通り、朱尾にも素敵な人が見つかればいいわ。けれど、朱尾を追い出したいとか、そういうのじゃないわ」
「だって、私……好きな人って言ったって……」
どうにか続きを言おうとして、けれど言えなくて、そのまま言葉が詰まってしまう。目の前にいるお姉ちゃんはあまりにも大きくて暖かくて優しくて、これが失われてしまうということがただただ怖くて恐ろしい。
私、好きな人を前にしたら、こんなにも弱気になってしまうんだ。
「私は尻尾が割れて、大人になろうとしてる。大人に変わってこうとしてる」
「お姉ちゃんもお婿さんをもらって、それで、変わってこうとしてる」
「変わっていくのは分かる。分かるけど……でも、怖いよ」
怖い。
私が喉の奥からその言葉を絞り出した直後、ふわっとした暖かな感触が、全身を包み込むのが分かって。
「私はどこへも行かないわ。あなたの側に居る」
「だから――もう怖がらないで、朱尾」
お姉ちゃんに抱きしめられたまま、私は言葉にできない思いを噛み締める。
確かに、お姉ちゃんがここからいなくなるわけじゃない。お婿さんをもらって、ここで一緒に暮らすことになるだけ。ただ、一人家族と呼ぶべき人が増えるだけ。そんな風に考えることだってできるかも知れない。
でも私が言いたいのは、そんなことじゃない。
(お姉ちゃんは、お婿さんと一緒になるんだ)
私は、私の場所が無くなるのが、ただ、怖かった。
*
お姉ちゃんは最後に私をギュッと抱きしめてから、外に用事があると言って出て行ってしまった。後に残ったのは、もやもやした気持ちを抱えた、面倒な年頃の女子が一人。他でもない私のこと。
ベッドにうつ伏せになって寝そべりながら、ぼうっとする頭でとりとめもないことをぐだぐだと考える。時間があると油断するとついやってしまう悪い癖。悪い癖だと分かっていても、癖になっているからやめられない。私はまだ試してないけど、女の子の場所をいじるのと似てるのかもしれない。気持ちいいと思ったことはないけれど。
頭に浮かんだのは、やっぱりお姉ちゃんのことだった。そのまま考えをこねくり回すことにして、小さく寝返りを打つ。
一体いつからだろう、お姉ちゃんのことを「好き」だって思うようになったのは。
少なくとも小学校に上がる前から、大きくなったらお姉ちゃんと結婚したいって思ってた。幼稚園にいた頃の七夕祭りで短冊にも書いて、その短冊は今もお姉ちゃんの部屋に飾ってある。だから間違いない。ただお願いするだけじゃなくて、思い切って「お嫁さんにして」って告白して、抱っこしてもらった記憶だってある。
小学生になっても気持ちはちっとも変わらなくて、ものがよく見えるようになった分、むしろ気持ちは強くなった。周りが物の怪の女の子ばかりで、それにみんな普通に女の子と好き同士になってたから、おかしいとも思わなかった。女の子が女の子を好きになるのが当たり前だったって言えばいいのかも知れない。
大人になったらお姉ちゃんと結婚する。お姉ちゃんと結婚していっしょに家を出て、別の場所にふたりで暮らす。そんな夢を抱いていた私に立ちはだかったのは、お母さんだった。
「いいですか、朱尾。よくお聞きなさい」
「華主美は長女なのですから、家を継いでもらわないといけません」
「男の人を迎えて、その人と一緒に暮らすのですよ」
「家を出て朱尾と二人で暮らすなんて、もってのほかです」
「華主美も、朱尾も。ゆくゆくは子供をもうけて、また次の世代へつなぐのです」
私の夢はあっけなく散って、そして今、お姉ちゃんはお婿さんをもらって結婚しようとしている。
お姉ちゃんが好き、お姉ちゃんだからじゃなくて、女の人として。私だって女の子だから、どういう意味で「好き」なのかくらいは分かってる。頼りになるお姉ちゃんとか、いつも遊んでくれるお姉ちゃんとか、そういうカタチじゃなくて、女の人として、お姉ちゃんのことが大好き。だから、ずっといっしょにいたいと思う。自然な感情、自然な気持ち。
でも。でも、お姉ちゃんは「お姉ちゃん」だから、それはかなわない。家族だっていうつながりがあるから、いつかは別々の道を歩まなきゃいけないようになる。二つに別れる尻尾のように、引き裂かれてしまう運命にある。
いっそのこと、縁を切れたら。そうしたら、一人の女の子として、もう一度お姉ちゃんの前に現れることだってできるかも知れない。そんな危うい考えがいつも頭をよぎって、思い切って踏み出してしまいそうになる。その先に道は無くて、ただ真っ黒い闇の中へ落ちていくだけなのに。
頭の中で何度も「お姉ちゃん」「お姉ちゃん」とリフレインしていたら、ふと、お姉ちゃんと私じゃない「姉妹」の姿が頭に浮かんできて。
フミとふみも姉妹だったっけ。どちらからも、相方とは姉妹だって言われたはず。あんなに仲が良さそうで、実際いつもいっしょにいて、息だってピッタリなのに。なのに、ふみは確かにこう言った。
「フミちゃんが妹なのが嫌で嫌で仕方ないってこと」
「フミちゃんだって、あたしがお姉ちゃんなのはすっごく嫌だって思ってるだろうし」
ふみはフミが妹なのが嫌。フミはふみが姉なのが嫌。
これって、どんな関係なんだろう。姉妹なのにずっと嫌いなままでいるのって……こう、辛くないのかな。
「あっ、電話だ」
フミとふみのことをぼんやり考えていると、部屋の隅っこに取り付けてある色褪せた電話の子機が鳴った。電話が掛かってきた時にすぐに取れるよう、お母さんが私の部屋に子機を増設したのだ。お姉ちゃんには手間を掛けさせたくないから、朱尾が電話を取りなさい。そんな風に言われたのを、とてもよく覚えている。
慌てて身を起こして受話器を取ると、ちょっと聞き覚えのない声が聞こえてきて。
「夜分すみません。朱尾ちゃんの家ですか?」
「はい……私が、朱尾ですけど。どなたですか?」
「あっ、申し遅れました。千駄木と言います」
「千駄木さん? あの、フミちゃんとふみちゃんの……お母さんですか?」
「そうです。一つ、お伺いしたいことがありまして……」
電話を掛けてきたのは、フミとふみのお母さんだった。私に一つ訊ねたいことがある、そう前置きしてから、フミとふみのお母さんは。
「実は……この時間になっても、フミとふみが戻らなくって」
「あちこちに電話をさせていただいているんですけど、一向に見つからないんです」
「最近、朱尾ちゃんっていう子と仲良くなったって聞きましたから、もしかしたら朱尾ちゃんの家へ遊びに行ったりしてるんじゃないか、そう思ってお電話させていただいたのですが……そちらにも、いないようですね」
お騒がせしてすみませんでした。もし見かけたら、教えてください――と言って、フミとふみのお母さんは電話を切った。
ふと時計を見ると、時刻はもう間もなく十九時を指そうとしていた。こんな時間になっても帰らないなんて、お母さんが心配するのも道理だ。なんだか私も胸騒ぎがする。二人がどこか遠くへ行ってしまう、そんな気がしてならなかった。
今日はお父さんもお母さんも帰りが遅いし、お姉ちゃんはさっきも言ったように出かけている。私が家を空けていても、誰にも迷惑は掛からないはずだ。必要なものを持つと、家に鍵を掛けて駆け出した。
目指すは、サンフラワー商店街だ。
サンフラワーは向日葵の意味。お姉ちゃんにそう教えてもらったとき、向日葵は太陽みたいな見た目をしてるからねって言って、お姉ちゃんが笑ってくれたのを覚えている。
そんなサンフラワーの名前が付いたこの商店街は、甕覗で買い物をしたり遊ぼうと思うなら必ず来ることになる場所だった。今は甕覗から人が減って、少しずつシャッターを下ろしたままのお店も増えてきているけれど、それでもまだまだ活気が感じられる。私もお姉ちゃんも、時間がある時はここへよく遊びに来ている。甕覗で人が集まる場所と言ったらまずはここってくらい、お決まりの場所だった。
商店街はアーケードが延々と、大体700メートル近く続いていて、雨の日も買い物には困らない。途中でいくつかに分岐するから、入り口と呼べる場所は全部で五つある。お店の並びはバラバラになっていて、同じようなお店が固まっているということはない。多分、お客さんの取り合いをしないようにするためだと思う。かなり昔からやっているお店も多くて、私から見ると何を売ってるのかさっぱり分からないところも少なくない。路地裏に入ると、ちょっと怪しい匂いのするいかがわしいお店もちらほら見かける。
それにしても、「名は体を表す」なんてよく言ったものだと思う。夜になって辺りが暗くなっても、ここだけはまるで太陽が出ているかのような明るさなのだから。他には買い物ができるところもロクに無かったから、甕覗で夜更かしをしようと思うならサンフラワー商店街しか考えられない。だからきっと、二人はここにいるはずだ。
すると、だ。
「……いた。フミとふみだ」
勘が当たった。フミとふみの後ろ姿を見つけたのだ。
二人して財布を持って、お菓子を売っているお店で買い物をしている。あれもこれもとどんどん手提げカゴへ放り込んで、あっという間にいっぱいにしてしまった。レジへ持っていって清算を済ませると、フミが袋を両手に提げて歩き始める。見失っちゃいけない、私はすぐさま後を追いかけた。
ある程度進んだところで急に立ち止まるのが見えて、つられて私も立ち止まる。立ち止まったのは写真店の前。家族写真や七五三の時の写真を丁寧に撮ってくれる小さなお店だ。今はシャッターを下ろして閉店しているから、写真を撮りにきたわけじゃなさそうだ。そもそも二人とも特徴の無い私服だし、写真撮影って感じの雰囲気じゃない。何かを見てるんだろうか。あそこには、記念写真のサンプルがいくつか並べられてるのを知ってる。家族写真や子供の写真、それと――花嫁と花婿が並んだ写真。
しばらく写真が飾られたガラスケースの前に立ち止まっていたフミとふみだったけど、不意にまた歩き始めた。二人の背中を見失わないように追いかける。二人はしっかりした足取りをしていて、商店街をぶらぶら見て回ろうという感じではなかった。どこか目的地があって、そこを目指して歩いているように見える。二人が歩いて行く先にあって、しかも目的地になりそうなものを、私は一つ知っていた。
お菓子の入った袋を提げたフミと、リュックを背負ったふみがやってきたのは、区内で商店街の次に明るい場所。
「フミとふみ、やっぱり駅に来るつもりだったんだ」
甕覗区唯一の駅、「甕覗駅」だった。区内には正真正銘、ここにしか駅が無い。お父さんが仕事へ出かけるときも、この駅から電車に乗って外の区まで移動してるって聞いた。他にもそんな境遇の人が大勢いる。だから、田舎の小さな区の駅なのに、特急を含めた全部の電車が停まるようになっている。
フミとふみは駅舎の中へ進もうとしている。駅に来たってことは、目的は一つしかない。電車に乗ってどこか遠くへ行こうとしてるんだ。二人のお父さんは区内にある会社で働いてるって言ってたし、お母さんは家から私の家に電話を掛けてきた。だから家族の誰かを出迎えにきたはずはない。だとすると、自分たち二人が電車に乗ろうとしているとしか思えなかった。
だっ、と駆け出した私はあっという間に距離を詰めて、それから。
「待ってフミっ、それにふみもっ」
「えっ? 朱尾……ちゃん?」
「朱尾ちゃん……ど、どうしてこんなトコに?」
急に私が後ろから突っ込んできたものだから、フミもふみも元々丸いどんぐりまなこをさらにまん丸くして、ぱちぱちと何度も瞬きをしている。呼吸を整えて少し気持ちを落ち着けてから、私は正直に経緯を話した。
「あのね、電話があったんだ。二人のお母さんから」
「あー……もしかして、わたしとふみちゃんを探して?」
「そうだよ。こんな時間になっても帰ってこない、朱尾ちゃんの家にいないかしらって聞かれて、心配になって探しにきたんだ。きっと商店街か駅にいるって思って」
ありのまま伝えると、フミもふみも「困った」という顔つきをしていた。私とか、他の知り合いでもいいけど、とにかく誰かに見つけられるとは思ってなかったに違いない。
「ふみちゃん、どうする? これじゃ、うまく行かないよ」
「そうだねー。今日はやめにして、ちょっとおしゃべりでもしよっかー」
そう言うと、ふみが私の手をさっと取って、そのまま近くにあったハンバーガーショップへ連れ込んでしまった。
*
あたしのおごりだよ、そう言って、ふみからファンタグレープの入った紙ボトルをもらう。フミとふみはどっちもシェイクを持って、私の手を引いて隅っこの座席へ向かう。
二人掛けの席に並んで仲睦まじく座る二人を見ながら、まずは私が口を開く。
「フミに、ふみ。二人とも、こんな時間にどこ行こうとしてたの?」
「お菓子とか、食べるものたくさん買って、それでこんな時間に駅に行くって……」
「なんだかそれ……その、家出でもするみたいじゃない」
家出みたいに見えるなんて、いきなり言うのはどうかとも思った。だけど本当にそんな風に見えたし、フミとふみになら言っても大丈夫だろう、最後はそう考えて、思い切って言ってみた。
「おおおー、さっすが朱尾ちゃん。よく分かったね。そのつもりだったよ」
「フミちゃん、やっぱりふみちゃんと家出するつもりで……」
「その通りだよ。わたしとふみちゃんの二人で、どっか遠くへ行っちゃおうって思ったんだ」
フミは私よりもずっとあっけらかんと「遠くへ行くつもりだった」と答えた。驚いている私の方が滑稽に見えるくらい、本当にあっさり言ってのけた。
「これでもう五回目くらいかなあ。前は電車に乗って隣の区までは行けたけど、降りたところが駅員さんに切符見せなきゃいけないところで、こんな時間に何やってるのって突っ込まれたっけ」
「そうそう。それで、早く家に帰りなさいってクギ刺されちゃってー、諦めちゃったんだよねー」
「ねえ。もうちょっとだったのにね」
二人して家出をするつもりで、しかももう五回も同じことを繰り返してる。もう少しでうまく行ったのに、そう話す二人は本当に仲が良さそうで、だからいっそう私の中で整理が付かなくなっていく。二人の関係を自分なりに捉えようとしても、少しもうまく行かなかった。
朗らかな声をあげておしゃべりを続ける二人を見ながら、私は何度も何度も口を開き掛けて、その都度言葉を飲み込んで――けれどついに堪えきれなくなって、思わずこんな問いを投げ掛けた。
「あのさ、二人に聞きたいことがあるんだけど」
「フミとふみって、仲がいいの? それとも、仲が悪いの?」
「いろいろ話を聞いてたら、本当はどっちなのか、分からなくなっちゃった」
「こんなこと訊いていいのか分からないけど、でも、すごく気になって」
私が「仲が悪い」という言葉を口にした時くらいから、ふみの表情が明らかに変わった。口に手を当てて、目をパチパチさせているのが見える。私が言い終わったのを見て、ふみがすぐさま身を乗り出してきた。
「ねーねー朱尾ちゃん。もしかして、こないだ一緒に帰ったときのこと、気にしてた?」
「あたしがフミちゃんのお姉ちゃんなのは嫌だー、って言ったこと」
「それとそれと、確かフミちゃんがあたしの妹なのも絶対嫌だって思ってる、そうも言ったよね」
頷いて応じると、フミとふみが互いに顔を見合わせた。
「うーん。朱尾ちゃんになら、話してもいいよね」
「そうだねー。あたしとフミちゃんの両方と仲いいしね」
フミとふみの両方が納得して、私に事情を話しはじめる。
「あのね、朱尾ちゃん。わたしね、ふみちゃんのこと好きなんだ。すっごく、すっごく」
「あたしもね、フミちゃんのこと大好き。それこそ、フミちゃんに負けないくらい」
「じゃあ……どうして?」
首を傾げる私を目にして、二人が口元に笑みを浮かべるのが見えた。
「朱尾ちゃん。おかしいと思わない? あたしたち二人のこと」
「うんうん。お姉ちゃんの方が背丈が低くて子供っぽくて、顔つきだってちっとも似てない」
「それだけだったらありそうだけど、そうじゃないよね」
「うん。フミと、ふみ。こんな紛らわしい名前、普通付けないよね」
「でしょでしょ? ほーら、だんだんおかしく見えてきたでしょー?」
「ふみちゃんとわたしは普通の姉妹じゃない、そう思わないかな?」
二人から口々に言われて、私は戸惑うしかなくて。
言われてみると、確かにおかしい。フミとふみなんて、紛らわしいどころかまったく同じ読みだ。片方だけなら普通でも、どっちも同じにするなんて。親がどれだけ物好きでも、そうそう付ける名前じゃない。
答え、教えてあげよっか。ちょっとだけ密やかな声でフミが言った後に、
「あたしとフミちゃん、血が繋がってないんだ」
「親が再婚とかいうのして、それで姉妹になっちゃったんだー」
――ふみが、私に「答え」を教えてくれた。
*
普段に比べて寝つきが悪いのは、少しずつ聞こえてくる夏の足音がもたらす蒸し暑さのせいか、それともベッドに入る少し前までスマートフォンをいじっていたせいか。
それとも――数時間前にフミとふみから聞かされた、二人の身の上話のせいか。
フミとふみには血のつながりが無い。それはつまるところ、二人が別々の家に暮らしていたっていうことだ。それぞれ事情があって親が片方いなくなり、残った人同士でくっついて今の家族になったそうだ。フミには母親が、ふみには父親がいて、今は二人の両親になっているらしい。
(再婚しようって言い出したのは、ふみのお父さんからだったっけ)
ふみは六年生の時にお母さんを病気で亡くしてから、残ったお父さんと二人で暮らしていたわけだけど、お父さんがフミのお母さんのことを知って再婚しようと考えた。フミのお母さんも同じようなことを考えてて、出会って半年位で再婚することを決めた。フミは「残った者同士がくっついた」と言っていたけれど、とりあえず二人の相性はそんなに悪くなかったらしい。こういう背景があって、フミとふみは一つ屋根の下で暮らすことになった。
亡くなったふみのお母さんは、とても優しい人だったみたいだ。ふみのように本を読むのが好きで、ふみにもよく本を読み聞かせてあげていたらしい。だからふみはお母さんのことをすごく慕ってたし、大切にしていた。そんなお母さんを亡くして落ち込んでいたところへ、降って沸いた再婚話。当然ふみは物凄く反発して、毎日のように大暴れしたって聞いた。図書室で静かに本を読んでる普段のふみのイメージとは、明らかに似ても似つかない。
じゃあフミのお父さんはどうなったのかというと、こっちは仕事で外を出歩いている途中で行方が分からなくなってしまったそうだ。山辺市だと、こういう「原因不明の失踪事件」がちょくちょく起きている。そういう意味ではフミのお父さんがいなくなったのは「よくあること」と言えたけれど、もちろんそんなのフミには知ったことじゃない。こっちも落ち込んでたところに、ふみの父親と再婚するって話が飛び込んできた。話を聞いただけだけど、ふみとは比較にならないくらい荒れた……らしい。
ふみ曰くフミのお母さんは、「フミのお母さんだから悪い人じゃないけど、でも、それ以上の人じゃない」。フミ曰くふみのお父さんは「ふみのお父さんだから悪い人じゃないけど、でも、それ以上の人じゃない」。どっちも相手の親に同じ感想を抱いているみたいだった。
「フミのお母さんがどうこうじゃなくて、あたしのお父さんがどうしても許せないんだ」
いつになく真剣にふみが憤っていたものだから、余計に強く印象に残った。
さっきも言った通り、ふみはお母さんのことが大好きだった。お母さんのことが大好きだったのに、お父さんがそれを無視してさっさと再婚を決めてしまったものだから、それはもうカンカンになって怒ったらしい。無理もない。亡くなってから一年かそれくらいしか経っていないのに、新しいお母さんになるという人を決めてしまったのだから。
「わたしはお母さんも許せないよ。わけの分からないこと言って、わたしを引っ越させたんだから」
フミのお母さんにも考えがあったらしい。ふみのお父さんと一緒になったのは、生活環境を変えたいという気持ちもあったみたいだった。
最初にフミと知り合ったときに教えてもらったけど、フミが前に住んでいた場所は、物の怪の子供がたくさん暮らしている地域だった。フミの友達もほとんどが物の怪で、私みたいにほとんど人間みたいな子もいれば、物の怪と変わらないような子もたくさんいた。フミは普通の人間としてその中に平気で混じって遊んでいたし、足の早い物の怪に負けじと足を鍛えて今の俊足を手に入れたのだけど、お母さんはそれを快く思っていなかった。
フミのお母さんは元々別の町に住んでて、後から山辺市へ入ってきた人だった。そういう人からすると、首が飛んだり尻尾があったりする物の怪はかなり奇異に見えるみたいだ。フミの周りがそんな子ばかりなのを見て、人間としての常識が身につかなかったらどうしよう、そんな不安を持ったらしい。まあ、無理もないことだと思う。今でも時々、山辺市へ遊びに来たよその人から「あの子尻尾生えてる」なんて指を指されたりするくらいだから。ふみとも仲がいいことを知っていたから、再婚相手にはちょうどいいと思ったみたいだった。
「そうじゃない」
「全然違うんだよ。あたしのお父さんも、フミのお母さんも、何も分かってない」
だけど、それは間違っていた。
フミとふみはお互いのことが大好きだった。好きで好きで、どうしようもないってくらいの好き同士だった。住んでいる所はかなり離れていたけれど、その分お互いのことをじっくり考えるための時間があった。あれこれ想いをふくらませてから、実際に会ってそれを分かち合う。二人にとってそれは何よりの楽しみだった。
集団行動になると、よく二人だけで抜け出していたらしい。抜け出した後は何をするでもなくて、ただお互いをぎゅっと抱きしめあって、時間の流れるままに過ごしていたとも聞いた。何も話さなくても、十分気持ちがやり取りできている――話を聞いただけでも、二人の関係がよく分かった。
ある時ふみがフミに花のリングを贈って、結婚しようって約束した。ここなら、甕覗なら女の子同士で結婚もできるって知ってたから、安心してたらしい。あのアパートに部屋を借りていっしょに住もう、ご飯も二人で作ろう。そんなことまで考えていた。
だけど――二人の親が、結婚してしまった。
「女の子同士の結婚はできる。それが甕覗区のルール」
「だけど姉妹同士はできない。それも甕覗区のルール」
そうして二人は、姉妹になった。
「姉妹になったんだから、いつでもいっしょにいられるじゃん。それでいいじゃん。そう言う人もいる」
「全然分かってない。分かってないにもほどがある」
「わたしとふみちゃんは結婚したかった。結婚して二人だけで暮らしたかった」
「誰にも邪魔されない、ふたりだけの場所がほしかった」
ハンバーガーショップで交互に語ったフミとふみの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
ころんと小さく寝返りを打って、二人のことを、フミとふみのことを思う。
(フミはふみのことを、ふみはフミのことを好き。二人は姉妹で、結婚することはできない)
私には分かる。二人がどんな想いを抱いているか。
(お姉ちゃんと結ばれることが無いのは、私も同じだから)
手を伸ばせば触れられる、呼吸だって感じられる。本当にすぐ側にいるのに、決して添い遂げることはできない。それは、私とお姉ちゃんも変わらない。
二人の気持ちを思うと辛い。他の人には伝え辛い苦しみだから、理解できる私にはことさら辛く感じる。フミとふみは「結婚できる」って希望を持たされてたんだから、私よりもっと辛いに違いない。
フミとふみにとって両親の再婚は、まさしくあってもなくてもいいもの、無駄なもの。
……「猫のしっぽ」、そのものだ。
(どうか、少しでも幸せになってほしい)
思い余って、二人のために何か私にできることは無いか、そんなお節介なことを考え始めた、すぐ後のことのことだった。
「……いっ……つ……!」
二つに分かれつつある尻尾が、再びずきずきと痛んだ。もう幾度も繰り返されたこと、けれど一向に慣れられそうに無い。また血が滲んでいるに違いない。ベッドの側に置いてある箱ティッシュへ手を伸ばして、血が布団やパジャマへ付かないように拭き取ろうとする。
けれど――その時だった。
(二つに、分かれる……)
(……これ、これだ。これだよ……!)
閃きとは、こういうことを言うのだと思わざるを得なかった。
*
「それでさー、図書室に駆け込んできたわけだよー。うまいこと考えるよねー」
「分かる分かる! つるぎちゃんって、図書室には絶対行かなさそうな感じだもんね。図書室行くヒマがあるなら屋上で口笛吹いてそう的な!」
今日もフミとふみの二人と一緒に家路に付く。二人が明るい声を上げて話す姿を見ながら、私はそっと胸に手を当てた。
これから言うことを、フミとふみに伝えたいことを、ひとつひとつ整理していく。ちょっと突拍子もないことかもしれないけど、どうしてだろう、フミとふみの二人なら、すんなり受け入れてくれそうな気がしている。胸の高鳴りを感じながら、私は二人の会話に隙間ができるのをじっと待った。
「あれ? 朱尾ちゃん、どーしたのー? 胸に手なんか当てて」
「痛がってる……とかじゃないか。どうかしたのかな?」
ああ、今だ――。私が一歩前に踏み出す。
「あのね、二人とも。ちょっと話したいことがあって」
「わたしとふみちゃんに話したいこと?」
「なになにー? どんなことー?」
四つの瞳が私を見つめていて、それは興味津々の色を見せている。
「この間は、話を聞かせてくれてありがとう。私、びっくりしちゃったよ」
「フミとふみにあんな事情があるなんて、知らなかったから」
「二人の親が再婚したから、フミとふみで姉妹なんだって、やっとわかった」
「それで、姉妹になったから、結婚したくてもできない。そうだよね」
私が確かめるように言うと、フミとふみが揃って頷く。息の合い方はホントの姉妹みたいだ、なんて、二人に言ったら怒られそうなことをつい考えてしまう。
姉妹。その関係に悩んでるのは二人だけじゃない。脳裏に浮かぶお姉ちゃんの姿が、私の胸を高鳴らせる。
「実はね、私にもお姉ちゃんがいて……すごく、好きなんだ。すごく」
「分かってもらえると思うけど、お姉ちゃんとしてじゃなくて、一人の、女の人として」
「だから小さい頃から、私、お姉ちゃんと結婚したいって思ってた」
「……でも、それはできないって言われて。それで、お姉ちゃんはお婿さんをもらうことになった」
「来年式を上げて、二人で一緒に暮らすつもりだって」
「お父さんとお母さんが、どうしてもお婿さんをもらってほしかったからね」
フミとふみが顔を見合わせる。普通の反応だと思う。いきなりこんな話をされたら、どんな顔をしたらいいのか分からないに違いない。でも、きっと気持ちは伝わってるに違いないとも思った。
「お姉ちゃんだけじゃなくて、私も変わっていく」
「この尻尾……もうすぐ二つに分かれて、ちゃんとした猫又……別の言い方すると、大人の猫又になる」
「そうなったら、今度は一緒にいる相手を探さなきゃいけなくなる」
「私、お姉ちゃん以外の人と一緒にいるなんて嫌なのに、そうしなきゃいけなくなる」
「尻尾が痛んで、血が流れるたびに、なりたくもない大人に勝手に近付いていく。怖かった」
「だから、尻尾が二つに分かれなきゃいいって、ずっと思ってた」
だけど。その言葉と同時に顔を上げて、二人の目をしっかり見据える。
「気付いたんだ、私」
「一つのものが二つに分かれて、それで幸せになれる人がいたって」
「それが……今の、フミとふみ」
「変な話だけど、二人が別々の家族に分かれれば、二人はまた一緒にいられるようになる」
「――二つに分かれれば、一緒にいられるんだ」
フミとふみが目を見開いて、まじまじと私を見つめている。私が言おうとしたこと、言いたかったことが、ちゃんと伝わったみたいだった。
「話を聞いてから、二人のこと、ずっと思ってたんだ」
「私、何もできないけど……でも、せめて応援だけでもしたかった」
「それで、思いついたんだ。二人のこと応援してるんだってことを伝える、私にしかできないことを」
「『この尻尾が二つに分かれたら、フミとふみは別々になって、ずっと一緒にいられる』」
「そんなおまじないというか、願掛けというか、そういうのを考えてみたの」
「もし、二人がこのおまじないを信じてくれたら、嬉しいなって」
「――怖いだけだった『大人になる』ことが、少しだけ、楽しみになると思うから」
一息で、最後まで全部話してしまう。思ったことは全部言えた、あとはフミとふみがどう思うかだけ。
祈るような気持ちで、私は二人の反応を待つことにした――けれど。
「……かわいい」
「えっ?」
「朱尾ちゃん、超かわいいー!」
「きゃっ!?」
祈るヒマなんて無いまま、フミとふみが二人そろって抱きついてきたのだ。ぎゅっとされて、ほおずりされて、ほっぺたがかあっと熱くなった。
「朱尾ちゃん、そんなにあたしたちのことを思っててくれたなんてー!」
「ありがとう朱尾ちゃん! それすっごくいいよ、すごくおまじないっぽい!」
「うんうん。あたしたちも朱尾ちゃんもみーんなハッピーになれる、サイコーのおまじないだよー!」
喜ぶ二人を見ていると、なんだか照れくさくなってきてしまって、ちょっと意地悪な願掛けだけどね、なんて言ってしまう。
「意地悪? いいんだよいいんだよー!」
「そうそう。こういうおまじないとか秘密って、ちょっと『いけず』なくらいがちょうどいいんだって!」
一つの尻尾が二つに分かれれば、二人はまた一緒にいられる。私の考えたおまじないで、ふたりが笑ってくれた。
フミとふみが、笑ってくれた。
「これは私たちだけの秘密だよ。フミとふみと私の、三人だけの秘密だからね」
「もっちろん! 誰にも言わないよ!」
「こういうのいいよねー、わくわくしちゃう!」
私も二人も、問題が解決したわけじゃない。これからどうなるか、まだ少しも分からない。
でも、ちょっとでも希望を見出せたら、明日を迎えるのが少しだけ楽しくなる。私はそう思う。
私の尻尾が――猫のしっぽが、風を浴びて小さく揺れた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。