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朽葉の風景

ジリリリリリ…と目覚まし時計が鐘を叩く音が響き渡る。薄汚れてぐしゃぐしゃになった掛け布団の中から、あたかもサナギを破って成虫が外へ出てくるかの如く、一人の少女が姿を現した。

彼女の名は輪醐(りんご)という。輪醐の頭には、左右に分かれた長い触覚が二つ、垂れ下がるように生えている。半人半蟲の少女である。

下着姿の侭立ち上がって大きく伸びをした。枕には涎の跡がくっきり付いている。再び眠ってしまいそうな顔をしつつも起きる気はあるようで、の其のそ歩いて手洗いに向かった。用を済ませて出てくると、布団のすぐ側に脱ぎ捨てられていた寝間着を身に纏う。着るものを着たところで部屋を出て、其の侭外へ出て行った。

「身体を洗わにゃあいかん」

今日もまた、一日が始まるのである。

輪醐は五階建ての団地に住んでいる。部屋は三階に在った。この辺りには同じ形と色をした団地が幾つも幾つも並んでいて、終わりというものが見えない。冷たい風に輪醐が身を震わせつつ、一階にある共同浴場へ足を運ぶ。この団地には風呂が付いておらず、住民は共同浴場で体を洗う事になっていた。

服を脱いで浴室へ踏み込む。二度、三度と掛け湯をして体を温めてから、輪醐が濛々と湯気を立てる湯へ体を沈めた。ふぃー、と輪醐がため息とも感嘆とも付かない声を上げる。暫くもしないうちに額にじんわり汗が浮かんできて、手で湯を浴びせて汗を拭う。

「はぁ、朝風呂は好えなあ。おらが子供ん頃は有り得んかった」

風呂といえば夜に入るもので、朝に入るものではない、子供の時分はそう信じていた。こうして独り立ちしてみると、そういうものとは限らない事がよく分かった。

輪醐が湯船でくつろいでいたさなか、胸の辺りに何かが当たった感触がした。のっそい目を開けてみると、灰色の体に黒い斑点の浮いた大きな魚――箒鯉(ほうきごい)が輪醐の身体を突いていた。この箒鯉は湯船で飼われていて、風呂に浮いた垢をひたすら食っている。住民はいつでも綺麗な湯に浸かれるし、箒鯉は食うものに困らない。一石二鳥である。辺りの垢を食い尽くして、輪醐の身体から直に垢を食いに来たようだ。

「こりゃ、止めい。女子の胸に気安う触るんは好くないと言われとろうが」

箒鯉には歯が無いので痛くはないが、くすぐったくて仕方ない。輪醐が緩く叩いてやると、箒鯉はすぐに離れていった。

体が充分温まったところで湯船から上がり、最後に冷たい水で顔を洗う。寝ぼけ眼がぱっちり開いて、ようやく目覚めと相成ったようだ。身体を拭いて寝間着を着直すと、湯冷めしないうちにそそくさと部屋へ戻る。

「いかんいかん、そろそろ飯を炊いておかにゃあ」

釜から麦飯を椀へよそい、手で千切ったクチナシの葉を混ぜ、少しばかり醤油を垂らす。最後に熱したマテ茶を掛けて茶漬けを作った。輪醐の朝は茶漬けと決まっていた。ずるずると音を立てて啜ってしまうと、食器を軽く洗って元の場所へ戻しておいた。洗い物も手間が掛からないのが好い、というのが輪醐の意見だ。

残った麦飯を掻き集めて大きな握り飯を二つ作ると、庭の植木鉢から笹の葉を一枚切ってきて、握り飯を包み込む。紐で結わえて結んだ後、風呂敷に包んで完成だ。此れが今日の昼飯になる。

「行くかぁ」

くたびれた作業着に着替え、風呂敷包みを手に提げて、輪醐が重たい扉を開けて外へ出た。

 

輪醐は団地を出て勤め先の工場に向かう。工場までは歩いて十分ほど。道中で必ず商店街を抜けていく。未だ早朝にも関わらず、商店街の店は半分ほど開いてもう商いを始めていた。輪醐が贔屓にしている惣菜屋も品物を揃え終わったところだ。帰りに顔を出そう、輪醐はそんな事を考えた。

「お早う御座いまぁす」

「はぁい、お早うさん」

門扉の前で警備をしている守衛さんに挨拶してから、輪醐は真っ直ぐ食堂に向かった。始業までには未だ小一時間ほど間がある。朝早く出てきてから、食堂で一休みするのが日課であった。

食堂へ入ると、輪醐のような女工たちがもう既に何人か来ていて、天井から吊り下げられているテレビを揃いも揃ってぼうっと観ていた。其の一段に輪醐も加わる。相も変わらず眠そうな顔をして、時折大きなあくびをして見せていた。周りの女工は顔立ちは違えど皆輪醐のように触覚を生やした半人半蟲ばかりである。触覚の揺れ具合を観ると、この娘は今日機嫌がいいなとか、この娘は虫の居所が悪いなとか、そういうのがなんとなく分かるのだ。

「朝礼、朝礼、朝礼の時間です。工員の皆さんは、作業場へ行きましょう。朝礼、朝礼、朝礼の時間です」

雑音混じりの放送が工場全体に流れたのを合図にして、輪醐をはじめとする女工たちが一斉にの其のそと立ち上がって、奥にある作業場へと吸い込まれていく。本日の作業はここから始まるのだ。

「さァさァ始めましょうか」

何時もと何も変わらぬ通り一遍の朝礼を済ませてから、輪醐は己れの持ち場に付いた。目の前には明るい緑に塗られた古い糸紡ぎの機械がデンと置かれている。此れを使って糸を紡ぐのが、輪醐のような女工たちの仕事であった。紡いだ糸は箱詰めされて売られていく。ここ朽葉区で売られている服の殆どが、輪醐が務める夕和紡績朽葉工場で紡がれた糸から織られている。

輪醐が軽く伸びをしてから、糸紡ぎの機械を始動させる。其れから口を閉じてモゴモゴしたかと思うと、右手を突っ込んで何やら中を弄り始めた。手を口から出すや否や、デロンと白い糸が伸びてきた。此の白い糸を機械へ引っ掛けて、売り物になるように糸を紡いでいくのだ。

機械に糸を絡めて束を作り、ある程度纏まったら切り離して一塊にする。出来上がったものを隣にある箱へ詰めて、次の工程へ回す。この作業を日がな一日、延々と繰り返すのだ。テキパキと手と口を動かす輪醐の様子は、さながら輪醐も機械の一部になったかのようである。輪醐だけではない、他の女工たちも皆そうだ。一様に同じ動きをしては、黙々と糸を紡いでいくのである。

粛々と糸紡ぎをしていた輪醐だったが、仕事を始めてから一時間ほどしてぱたりと手を止めた。視線は動かさずに前を向いたまま、左手で隣をまさぐっている。指先で触れたものを掴むと、其の侭顔の前まで持っていった。

クチナシの葉である。

糸を口から吐くというのは、体力を使う行いなのだ。ゆえに女工たちの側には、さながら揚げ芋のようにすぐ口にできるような形で、クチナシの葉が盛られるのが通例であった。輪醐はクチナシの葉を三枚纏めて食んで呑み込んでしまうと、またすぐ糸紡ぎの作業へ戻った。

後はただ只管、この繰り返しである。

 

輪醐が紡いだ糸を貯めた箱が三つほど重なったところで、例によって雑音だらけの放送が、工場全体に流される。

「昼休み、昼休み、昼休みの時間です。工員の皆さんは、お昼休みを取りましょう。昼休み、昼休み、昼休みの時間です」

口から伸びていた糸を鋏で切って落としてから、輪醐が大欠伸を一つして席を立った。さァ休憩だ休憩だ、誰に言うでもなく呟いて、輪醐は食堂に向かう。同じように昼飯を食うために食堂へと吸い込まれていく女工達の一団に混じって、の其のそと歩いてゆく。

適当な場所で席を取って、用具入れから持ってきた風呂敷包を開く。笹の葉に包まれた大きな握り飯が二つ、輪醐の前に姿を見せた。隣には百銭で小分けして売られている梅蕪漬の小鉢も置いてある。握り飯を作って持ってきて、小鉢を一つ取って買うというのが、輪醐の昼飯の食い方であった。

「この間路地裏に表通りからの仔が迷い込んで、姫サンに捕まってたわ」

「災難ねェ。また娘サンが増えちゃうのかしら」

握り飯を箸で切ってちまちま食いつつ、時々梅蕪漬に手を伸ばす。輪醐はものを食べるのが遅かったが、其の分少ない量で腹が膨れる性質だった。有り金が多いとは云えない輪醐にとっては都合が好かったのである。

握り飯と梅蕪漬を平らげて、ついでに包紙にしていた笹の葉もムシャムシャ食べて、輪醐の昼飯は終わった。小鉢を流しに返して、又々大欠伸を一つ。

「今日もあと半日かァ」

手の甲を枕に、テーブルに突っ伏して昼寝を始めるのだった。

 

午後からも仕事である。とは云っても、朝の仕事と変わる事など無い。口から吐いた糸を紡ぎ、纏まったら箱詰めしていく。其れ以上の事は無く、唯々同じ作業の繰り返し繰り返しである。輪醐は相変わらず機械の一部にでもなったかのように、次々に糸束を量産していく。この仕事が愉しいだとか愉しくないだとか、そう云う事はまるで考えていない。輪醐の頭の中にあるのは、この後の事だけである。

詰まるところ、仕事が終わった後の事である。

輪醐の隣に糸束の詰まった箱が四つほど貯まったところで、またしても砂嵐まみれの放送が工場全体に響いた。

「終業、終業、終業の時間です。工員の皆さんは、後片付けをして帰りましょう。終業、終業、終業の時間です」

鋏で糸を切る。輪醐はこの瞬間が好きだった。序でに緊張の糸も切れて、身体をだるっとした疲労が包み込む。今日も一日能く働いた、首筋を捻って音を鳴らす。今日の仕事は終いである。

後片付けをした後、帳簿係から今日の給金を貰う。後ほど遣う分の金銭を差し引いて、残りは風呂敷に包んで衣嚢へ入れておく。此れは輪醐の知恵である。この後の事まで考えた、輪醐の知恵である。

「お疲れ様でしたァ」

「はい、お疲れ様でした」

守衛さんに帰りの挨拶をして、輪醐が工場を後にした。彼女の足取りは心なしか早い。理由は明白だ。此れから行きたい処があるためである。

早足で歩いて、早々に商店街まで辿り着く。輪醐は真っ直ぐに商店街の三つ目の辻を右へ曲がると、軒に穴の開いた古めかしい感じの惣菜屋が一つ。輪醐がいつも立ち寄っている惣菜屋「揚げ吉」である。

「おおい、那枝。おらだ、輪醐だァ」

「はいはい、いらっしゃいいらっしゃい。輪醐ちゃん、今日もお勤め終わり?」

「んだ。日がな一日糸紡ぎさァ」

この「揚げ吉」を切り盛りしているのは、輪醐と同じ半人半蟲の那枝である。輪醐に比べて触覚は短いが、髪が黒々していて美しいと評判だ。とは言っても、店番をしているときはいつも白い三角巾を付けているから、そうそう目にするものでもないのであるが。

輪醐が惣菜の品定めをする。店先には井森の黒焼きや蛇の丸揚げなど、手に取るには少々勇気が必要な珍品・変り種……有り体に言うなら下手物が目立つ位置に並べられている。ゆえにここは「そう云う店」だと思われ、ややもすると敬遠されがちなのであるが、輪醐はこの揚げ吉が好きであった。

「ええっと、この鶏天と鯖の唐揚げを包んでくれえ」

「はいはい、鶏天と鯖の唐揚げね。大きいやつ入れときますね」

と言うのもこの揚げ吉、普通の惣菜も沢山扱っていて、しかもどれも美味いと来ている。価格も良心的だ。以前、輪醐は那枝に下手物を目立つ位置に並べている理由を尋ねた事がある。那枝曰く「趣味」だそうだ。那枝は普通の惣菜も下手物も別け隔てなく美味いと思っていて、皆にもっと下手物を食って貰いたいと考えているようであった。

さて、食い物を調達した輪醐が足を向けたのは、寝床のある団地の方面――ではなく、さらに奥へ入った商店街の裏通りであった。日用品や食料を取り扱う店が軒を連ねる明るい表通りとは打って変わって、飲み屋や置屋が立ち並ぶ猥雑な雰囲気に満ちている。輪醐は惣菜を詰めた袋をぶら下げて、此れまた真っ直ぐ歩いて行く。

裏通りの中程まで差し掛かったところで、輪醐がぴたりと足を止めた。少しばかり煤けた紺色の暖簾には、白抜きで「とねりこ」と書かれている。見るからに酒場のようである。輪醐は目を輝かせて、店の暖簾を潜った。

「壱午さぁん、入らせてくれろ」

「まぁまぁ輪醐ちゃん。お勤め上がり? 今日もお疲れ様ねぇ」

輪醐を出迎えたのは、女将である半猫半人の少女・壱午である。立てた耳をぴくぴくさせて、輪醐の来訪を歓迎している様子だ。輪醐が店の隅っこにの其のそ移動して静かに腰掛けると、壱午がすかさず奥から瓶と硝子椀を持ってきた。瓶には「濾露」と書かれた張り紙がされている。ここから一時間ほど歩いた先にある醸造された、馬鈴薯を用いた焼酎である。輪醐は此れが大変好きだった。輪醐は来る度に此れを頼むので、壱午は最早何も言わずとも出すようになっていた。

背丈の低い娘のように見える輪醐であるが、こう見えて結構な酒飲みであった。勤めが終わるとこうやって酒場に繰り出して、夜が更けるまで一人酒を飲む。日課の一つであった。

「来た来たァ。はい此れ、お代」

「はぁい、毎度どうも。のんびりしてって頂戴ねぇ」

此処「とねりこ」は、酒を飲む前にお代を払う仕組みになっている。其れともう一つ、此処では食べ物を出していない。酒しか出さない代わりに、他より少しばかり酒代が安くなっているのだ。外から食べ物を持ち込む分には自由であったので、輪醐はここへ来る前に揚げ吉で惣菜を買った、という訳である。

一升瓶を両手で持って硝子椀に八分ほど焼酎を注いで、音一つ立てずに静かに呑む。焼酎がスルスルと喉を滑り落ちて行って、中から身体がポカポカしてくる。輪醐はこの熱が好きだった。この為に日々の勤めをこなしていると云っても過言ではなかった。無言の侭目を細めて、頬を緩める。ほう、と酒の匂いが混じった息をついた。

輪醐は大酒飲みだが、とにかく静かだった。酒に酔ってはいるが、騒ぐ事も声を上げる事も暴れる事も何一つせず、隅で一人酒を呑むのが輪醐の呑み方だった。とねりこを営む壱午にしてみれば、毎晩決まった時間に訪れて、決まったものだけを好んで呑み、気前よくさっと酒代を払って、何一つ面倒を起こさない輪醐という客は、まさしく理想のお得意様であった。

「ふぅ」

焼酎をちびちび呑みながら、天井から吊り下げられた写像箱をぼうっと眺める。写像箱の中では、半犬半人の娘と、半魚半人の娘が取っ組み合いの喧嘩をしている。この時間になると必ず流されている番組である。輪醐は別に何方を応援するでもなく、ただ写像箱の中の風景が変わるのを純粋に愉しんでいた。

他のお客が入ってきて、店が賑やかになっても、輪醐の呑み方は一貫して変わるところがない。焼酎を呑み、未だ熱の残る鶏天と鯖の唐揚げを時々齧って、又硝子椀に口を付ける。静かに酒を流し込んで人知れず酔う。輪醐が何を考えているのかは分からない。林檎のように赤くなった頬だけが、輪醐が酒に酔っている事を物語っている。

硝子椀を空けては酒を注ぎ、ゆっくり味わうように喉へ流し込んでは、また椀を空にする。此れを幾度と無く積み重ねて、輪醐はとうとう一升瓶の焼酎全部を飲み干してしまった。

「……ひっく」

硝子椀と一升瓶を残し、輪醐が小さなしゃっくりをして席を立つ。既にお代は払っている。後は家に帰るなり路地裏で酔い潰れるなり好きにすればよい。女将の壱午に見送られつつ、輪醐は少々おぼつかない足取りで「とねりこ」を出て行く。向かう先は、寝床のある我が家である。

時折間違った分かれ道へ入ったり、来た道を戻ったりしつつ、行きの何倍も時間を掛けて、輪醐は団地まで辿り着いた。何だかんだで身体が覚えているのか、部屋の号室を間違えたりする事はせず、真っ直ぐ自室へ向かう。鍵を閉めているのを忘れて扉を開けようとする事二回、ようやく鍵の存在を思い出して錠前を開ける。

中に入るなりスニーカーをほっぽり出して、作業着をそこらへ脱ぎ散らかして下着姿になり、半年近く日干しもせず敷きっぱなしで黴臭くなった布団へバタンと倒れこむ。細かい事は明日の自分に任せて、今はただ眠りたかったのだ。

触覚を時折揺らしつつ、輪醐は程なくして深い深い眠りに附く。

 

「輪醐ちゃん、もう宿題終わった?」

「未だ終わってないー」

隣に私服の燐五が寝転んでいる。燐五は輪醐の親友だった。輪醐は寝返りを一つ打って、燐五の顔を見る。其の顔はどことなくぼやけている。けれど輪醐は特に疑問を持たなかった。そういうものだと思っていた。燐五と最後に会ってからずいぶん時間が経っている。時間が経っているから、顔がぼやけているのは普通の事ではないか。

扇風機が回っている割には風が来ない。暑い夏の日だが、日差しを浴びても肌は熱くならない。ただ、何かに包まれているかのような感触ばかりがする。目の前には燐五がいて、いつの間にか制服になっていた。あの制服は確か中等学校に通っていたときのものだ。そう思って辺りを見回すと、教室にいた。そう、確か中等学校で授業を受けていたのだ。手には食べかけの西瓜がある。前を見ると、国語の教師が何か話している。食べかけのスイカを齧る。胡瓜の味がした。

懐かしい。其の感情が脳裏を過る。学校に通っていた。毎日同じ服を着て、同じ面々と机を並べて授業を受けていた。懐かしい、とても懐かしい。今目の前に教師がいるのに、ずいぶんと遠くに立っているように感じる。隣の席の同級生は帳面を取っている。声をかけようとして、授業中だからやめておいた。

好きな人もいた気がする。いたはずだ。目の前の席に座っている、黒淵眼鏡の似合う文系の女子だった。清潔な見た目が好きだった。清水のような声が好きだった。

自分の思いを打ち明けようか、其の様な事を考えていた矢先、友人の一人からこう聞かされた。

「あの子、蟲嫌いなんだって」

そうか、そうか。納得したのだと時分に言い聞かせて、其の侭胸の中に思いをしまって隠し通した。最後の最後まで、会話の一つもなかったように思う。

「巳看(みかん)ちゃん」

名前を呼ぶ。返事はない。本人がいるときに名前を口にした記憶はなかった。前を向いて授業を受けている。振り向く事はなかった。巳看がこちらを振り向く事はなかった。二度三度と繰り返して、一度も振り向く事はなかった。

席を立って教室を出る。自宅の居間に繋がっていた。扇風機は未だ回っている。制服はどこかへ行って下着姿になっている。今は夏休みだ。扇風機の前で寝転がる。夏休みはこうして暇に飽かして扇風機を浴びながら昼寝をしたものだった。時間はいくらでもあって、無限に遣う事ができる。或いはそう考えていたのかもしれない。

昼飯は素麺だった。母の茹でる素麺はコシがあって好きだった。毎日のように素麺を啜っていたが、決して飽きる事などなかった。今でも時々食べたいと思う事がある。母はもういない。いるかも知れないが、いる処が判らない。だから母の素麺は食えぬ。そう思うと無性に悲しくなった。今こうして家にいるというのに、母の素麺が食えない。悲しい気持ちが際限なく膨らむ。

 

ジリリリリリ…と目覚まし時計が鐘を叩く音が響き渡る。薄汚れてぐしゃぐしゃになった掛け布団の中から、あたかもサナギを破って成虫が外へ出てくるかの如く、一人の少女が姿を現した。

彼女の名は輪醐(りんご)という。輪醐の頭には、左右に分かれた長い触覚が二つ、垂れ下がるように生えている。半人半蟲の少女なのである。

下着姿の侭立ち上がって大きく伸びをした。枕には涎の跡がくっきり付いている。再び眠ってしまいそうな顔をしつつも起きる気はあるようで、の其のそ歩いて手洗いに向かった。用を済ませて出てくると、布団のすぐ側に脱ぎ捨てられていた寝間着を身に着ける。着るものを着たところで部屋を出て、其の侭外へ出て行った。

「身体を洗わにゃあいかん」

今日もまた、一日が始まるのである。

 

 

ガラガラガラと鎧戸が開く。エプロン姿の店主が姿を現す。今日も仕事だと腕まくりをする。袖がめくられて露になった腕にはヒレが付いている。

彼女は半人半魚の娘・撫頭である。ここ朽葉の商店街で、ひとり店を営んでいる。

白色の日差しを浴びて伸びをしていた処で、隣の店の鎧戸も開いた。中から大欠伸をしながら出て来たのは、半人半兎の娘・斗的だ。撫頭が「おはようさん」と声を掛けると、斗的が間延びした声で「おはようぅ」と返す。雨でもなければ毎朝のように繰り広げられている光景である。

「撫頭ちゃん、今日もいぃトマトが採れたよぅ。ちょっといかが?」

「あらぁ、いつもおおきになぁ。もらうでもらうで」

斗的が籠に入れたトマトを持って店先までやってくる。お裾分けだ。斗的は気前の好い性格をしていて、こうしてちょくちょく隣の撫頭に採れたばかりの野菜を分けてくれるのだ。撫頭はありがたくトマトを頂戴すると、朝飯の代わりとばかりに早速其のうちの一つにかぶりついた。瑞々しさと甘酸っぱさが口一杯に拡がる。率直に言って実に旨かった。其の侭平らげて、手ぬぐいで口をさっと拭く。

満足げな撫頭が見上げた先には、「泡屋」の看板が掲げられている。

「ふぅーむ。今日も色々溜まったお客さぁん、来ぅるんじゃない?」

「ま、うちはそういう人のお相手するんが仕事やからな」

撫頭はここ「泡屋」を経営している。他に店子や売り子はいない。客寄せから算盤弾きまで、何もかも全て一人でこなしている。見た目は幼い小娘だが、中身はしっかりした商売人。其れが撫頭である。

さて、客待ちを兼ねて斗的と雑談に興じていた撫頭だったが、そこへふらりと見覚えのない娘が訪ねてきて。見たところ、半人半猫の女子のようである。ふらふらと覚束ない足取りで歩いて来て、ぬっと撫頭に顔を寄せる。

「どないしたん、そない顔近付けて」

「えっとねぇ、ここってぇ、泡屋さん?」

「せやけど」

泡屋、という言葉を口にした途端、娘がやけに声を上ずらせるようになった。撫頭は無表情の侭、娘が此れから何を言い出すのか待っている。娘は撫頭にしなだれ掛かると、というかもたれ掛かると、耳元に生温かい吐息を浴びせてくる。対する撫頭の方はと言うと、少々不愉快そうである。

娘が一際撫頭に顔を寄せて、こう呟く。

「石鹸、泡立ててくれたりするの?」

撫頭は大きく肩を落として、ハァ、と大きなため息を吐くと、絡みついてくる娘の手をパッと取り上げた。

「まーたこういう奴かいな。ちょっとこっち来て」

娘の手をぐいぐい引っ張り、撫頭が店から離れていく。急に手を引かれてよろめく娘を無視して、撫頭は路地裏に入った。

「ええか、うちは泡風呂屋とちゃう。泡屋、や」

「うちの店来るんやったら、酒抜いてから来いや」

泡屋とは泡屋であって、泡風呂屋ではない。撫頭は口で娘にキッパリ言いつつ、足の方は路地裏を進んでどんどん怪しげな界隈へ入り込んでいく。三分ほど歩いた先で撫頭が立ち止まると、娘の背中をバシッと叩いて其の場に立たせた。

「ほら、ここやここ。おおい、逸舳ぅ!」

「はいはいー、いらっしゃいいらっしゃ……あらぁ、撫頭チャンじゃない。どうしたのん?」

店先から姿を現したは、半人半鼠の娘・逸舳だ。朝から、否、昨日の夜から出来上がっているようで、蛇のようにうねる声で撫頭を出迎える。

「まーた勘違いした客が来よったわ。引っ張って連れてきたで」

「あらぁん、カワイイ子猫チャンねぇ。沢山可愛がってあげるわん」

「えっ、此処って」

「此処も何処もあるかい、石鹸泡立てて欲しいんやろ? せやから泡風呂屋まで引っ張って来たっただけや」

娘を逸舳へ引き渡すと、ひらひらと手を振って一応の見送りをする。逸舳は娘の腕をがっちり掴んで、目をギラギラと光らせている。

「撫頭チャン、いつもどうもねん。また遊びに来てねん」

「次の休みにいかしてもらうわ。ちょっと疲れ溜まってきとるし」

「ふふん。溜まったものはぁ、ちゃぁんと出さなきゃダメよん」

今度は逸舳に引っ張られて、娘が泡風呂屋の中へ消えて行った。撫頭は首筋をポキポキ鳴らして、やれやれ、と言わんばかりにため息をついた。暫くもしない内に、店の奥から悩ましいよがり声が響いてくる。あの娘が早速逸舳に可愛がられているのだろう。

「逸舳、ああ見えてだいぶえげつないからなぁ……ま、此れで好えやろ」

此れであの娘も浮かばれるだろう、骨抜きにされるかも知れないが。

店先へ戻ってくると、ちょうど客を見送った斗的が立っていて、撫頭を苦笑いで出迎えた。

「撫頭ちゃん、大変ねぇ。ああやってぇ、勘違いしたお客さんが来ちゃうから」

「ほんま其れやわ。泡屋言うたら、どうしても泡風呂想像しよるけったいな奴多いからなぁ」

撫頭が営むのは泡屋。泡風呂屋ではない。酷いときなどは、ここを床屋の類と間違えた客が有無を云わさず撫頭と床を共にしようとする始末である。撫頭は慌てず騒がず、祖母仕込みの柔道で音を上げるまで締め上げるのが常である。さっきの猫娘は穏便にカタを付けられた方なのだ。

「此処はうち独りやし、素っ裸になったりもせんよ。まあ、逸舳んとこはたまに世話になっとるけど。気持ちええし」

「ふふん。撫頭ちゃんも撫頭ちゃんで、いぃ気持ちになれるもの、売ってくれてるけどねぇ」

「ええ気持ち云うか、そういうもんではあるな。うちの『泡沫』は」

そう云いつつ撫頭が手に取ったのは、小さな器と細い竹筒だった。撫頭が彫刻刀を手に取って作り上げたものだ。器の中には、光を微かに歪めて虹色に輝く、透明な石鹸水が入っている。そう。撫頭が売っているのは、シャボン玉である。撫頭はシャボン玉を売って銭を稼いでいた。

もっとも、只のシャボン玉がそうそう売れるはずもない。撫頭の其れは尋常なシャボン玉とは趣を異にしていた。

「そうそう、撫頭ちゃん、まぁたちょっとお邪魔しちゃうんだけどもぉ」

「どないしたん、此れ。井森の黒焼きやん」

「さっきお客さんがお土産にってくれたんだけどもぉ、あたしコレちょっと苦手でねぇ。もらってくれる?」

「お客さんってあれやろ、向こうの筋で惣菜屋やっとるやつやろ」

斗的が撫頭に手渡したのは、串刺しにされて真っ黒になるまで焼き上げられた井森であった。此れを持ってくる客と云ったら大体相場は決まっている。斗的は貰ったものの扱いに困って、撫頭に手渡した。そんなところである。

「貰う貰う。うちはコレ好きやし」

「助かるわぁ。捨てるのも好くないし、困ってたのよねぇ」

「代わり云うたらアレやけど、シャボン玉吹く?」

「いいの? なんだか悪いけどぉ、撫頭ちゃんが好ぃなら吹かせて欲しぃわ」

「好えんよ好えんよ。店先で誰か吹いとった方が、お客さんも寄り付いて来るし」

シャボン玉の用具一式、と云っても竹筒と石鹸水の入った椀だけだが、其れを斗的へ手渡す。斗的が竹筒をシャカシャカ揺らして石鹸水を軽く泡立ててから、先っぽへ口を付けて吐息を吹き込む。すると見る見るうちに反対側から無数のシャボン玉が姿を現して、斗的と撫頭を取り囲んだ。

ただのシャボン玉なら此れでお終いだ。だが撫頭のシャボン玉は一味違う。斗的がシャボン玉の一つに目を凝らすと、そこには辺りの風景ではない、まったく別のものが映し出されていた。

「はぁ……好ぃなぁ、海。また行きたいねぇ」

海、砂浜、青空。シャボン玉には夏の海沿いの風景が映し出されている。泡沫ごとに少しずつ違う時間・場所が浮かび上がって、すべてが斗的を魅了する。どれも此れも彼女にとっては懐かしく楽しい記憶、見ているだけで時間を忘れてしまうほどに甘美な光景であった。

波打ち際の昆布を拾ったり、買ったばかりの西瓜を友人と取り囲んで西瓜割に興じたり。もちろん海で泳いだりもした。普通の水と違ってとても塩辛かったのも忘れた事はない。懐かしい記憶に浸った斗的が、思わず頬を緩めた。

椀の石鹸水が尽きるまでシャボン玉を吹いて、斗的はすっかり満足したようだ。撫頭に竹筒と椀を返却すると、スッキリした顔つきで撫頭を見つめた。撫頭は客が泡沫の夢を楽しんだ後に見せるこの顔が好きだった。

「ありがとねぇ、撫頭ちゃん。今度はお銭を持ってくるよぉ」

「気にせんでええよ。またよろしく頼むわ」

店番へ戻っていく斗的を見送り、撫頭もまた店先へ戻る。切り株を模した椅子に腰掛けて一息つくと、遠くの空を眺めた。

此処「泡屋」とは、シャボン玉を売る店である。其れも只のシャボン玉ではない。昔の愉しい記憶を蘇らせてくれる、実に風変わりなシャボン玉を売っている店だ。泡沫の夢を見せてくれる泡沫、撫頭は其のように呼んでいた。

撫頭に代金として五百銭――子供が両手一杯に駄菓子を買える程度の端金だ――を払うと、先程斗的に渡したようなシャボン玉の道具一式を貸し出してくれる。後はシャボン玉を吹いて心ゆくまで過去を懐かしめば好い。石鹸水のお代りは二百銭だ。何れにしろ大した金額ではないが、手軽に好い気分になれると評判が広まり、毎日のように客が店を訪れるようになった。外でシャボン玉を吹いていると近くを歩く者にも様々な風景が見えるわけで、客が来れば来るほど宣伝になると云う上手い仕組みでもあった。

今しがた泡を吹いていた斗的は、海の記憶を見て愉しんでいた。撫頭は其の理由に思い当たる節があった。

(山育ち云うとったからなあ、斗的は)

斗的は山で育ったと聞いた記憶がある。どこの山かは定かではないが、此処から遠く離れている事だけは間違いなかった。山ではひもじい思いをしながら毎日薪割りだの鹿追いだのに明け暮れていたとの事で、随分と苦労が多かったらしい。山の食い物である井森の黒焼きを敬遠して撫頭に譲ったのも、其れが理由だろう。

そうして、或る時山を降りて友人と海へ遊びに行ったのだが、其れが余程楽しかったようだ。斗的が吹く泡沫は何度も見ているが、いつ見ても海の風景であった。泡沫は愉しいと感じる記憶を選り抜いて、序でに少し磨きを掛けて映し出す。大まかには楽しかったが細かな不満があったなどと云う場合、好い気分になれる箇所だけを映し出すのだ。都合が好いと云えば都合が好い。然し人の記憶は不完全な物だ。元々嫌な事は積極的に忘れたりするように作られているのだから。

「……さて、と。今日も一日、ぼちぼちやろか」

さっと立ち上がった撫頭の前には、既に数人の客らしき人集りが出来ている。

今日もまた、泡沫の夢を売る仕事の始まりである。

 

両手の指で数え切れるかどうかというか客にシャボン玉を売って、各々が満足して店を去った後の事。もう暫くしたら昼飯にしよう、撫頭が其の様な事を考えて帳面を付けていると、又一人客が店を訪れた。撫頭は直ぐさま帳面を閉じて、客の待っている店先へと向かう。

「いらっしゃい。あら、環錆ちゃんやん。元気にしとった?」

「うん。元気にしてた」

其処に居たのは撫頭の顔馴染みの一人・環錆であった。半人半蝸牛の娘で、頭にデロンと伸びた触覚が付いている。背中には自分の身がスッポリ収まりそうな馬鹿でかい殻を背負っていて、中に商売道具やら弁当やらが詰め込まれている。朴訥な目を撫頭に向けて、拳はギュッと強く握り締められている。小銭を持っているに違いなかった。

環錆は舌っ足らずな言葉遣いをする垢抜けない娘といった感じの風貌であるが、撫頭は彼女が「情熱売り」をしている事を知っている。ここで云う情熱とは情の熱、即ち体温であり、有り体に云えば自分の躰である。床の上で体液を混ぜ合う真性のまぐわいから、小指をそっと絡める程度の触れ合いまで、環錆は情熱であれば何でも売っていた。情熱を日銭に替えて日々生きているわけである。

「丁度な、又環錆ちゃんに相手して貰おう思っててん。せやけどこんな時間に来た云う事は、シャボン玉吹きに来たん?」

「うん。シャボン玉吹きに来た。これ、お金」

「おおきにおおきに。ほな、ゆっくり吹いてってな」

渡された五百銭と交換で、撫頭が環錆に竹筒と椀の用具一式を手渡す。石鹸水が椀の八分まで注がれると、環錆が早速軽く竹筒で椀を掻き回して、軽く泡を立てさせた。竹筒を咥えて吐息を吹き込むと、辺りに無数のシャボン玉が舞った。

環錆の吹き出したシャボン玉には、年季の入った建物が立ち並ぶ団地が映し出されていた。環錆本人の姿も見える。公園のベンチで寝ている処だったり、他の友人に混じって鬼ごっこをしている処だったりしている。

別のシャボン玉に目を向けると、団地を巡回してきた紙芝居屋の娘の元まで駆けて行って、娘から買った水飴を食べながら紙芝居を観ている風景もあった。どれもかつて環錆が住んでいた団地での記憶であり、今からずっと昔、環錆が未だ子供だった頃の出来事だ。

室内を映し出しているシャボン玉もあった。環錆の母親と思しき娘が鶏の唐揚げを作って、環錆と二人で食べている様が見える。撫頭は以前、環錆が惣菜屋で鶏の唐揚げを山程買っていた事を思い出した。好物なのだろう。そして其の源流は母親が作った其れに或る。揚げたての唐揚げを夢中で頬張る姿は、まさに幸せ其のものだった。

辺りに浮かぶシャボン玉に目を細めて見入る環錆を横目に、撫頭が人知れず思いを巡らせる。

(もう三年くらい前やったかなあ。この団地、更地にされてもうたんやっけ)

この団地其のものは、撫頭も知っていた。実物も見た事が有る。但しもう三年も前の事で、そして今シャボン玉に映し出されているものとは些か様相を異にしていた。建物全体に青い幕が掛けられ、遠くの物から一つずつ壊されていく様を見たのである。一ヶ月もしないうちに辺りは更地にされ、団地は跡形もなく消えてしまった。

代わりに建てられたのが、敷地の三分ほどを使っただだっ広い遊戯場である。中には弾打ち遊びをするための機械がずらりと並べられて、シャンシャンバラバラと賑やかというには度の過ぎた音が休む事なくかき鳴らされている。日曜にもなると朝からずらりと客だか何だかが並んで開店を待つ、そんな光景も見る事ができる。

人が多く来るようになって曲がりなりにも活気のある場所にはなったが、嘗ての面影はすっかり失われてしまった。今や環錆の記憶の中にしか、あの団地は存在していないのだ。

(確かに有ったはずやねん、あの団地)

(せやけど今はもう、何処にも有らへん)

(彼方此方を何れだけ探しても、もう有らへんのや)

頻りにシャボン玉を吹いては、戻る事のできないかつての我が家を追想する環錆。撫頭は何も云わずに、環錆が作り出すシャボン玉を静かに眺める事に終始する。

「おわった」

環錆が椀を空にして、撫頭に向ける。石鹸水を使い果たしたようだ。竹筒を入れて椀を返却しようとする環錆に、撫頭が声を掛けた。

「なあ、もう一杯吹いて行けへん? うちの奢りや」

「え、いいの」

「ええよええよ。自分も仕事夜からやろ? ゆっくりして行き」

柄杓を使って椀に石鹸水のお替りを注いで、撫頭が環錆に薦める。環錆はにっこり笑って、またシャボン玉を辺りに吹き散らしていく。環錆が団地で過ごした風景を見ながら、撫頭は一人目を細めるのだった。

お替りも空にして、環錆はすっかり満足したようだ。椀と竹筒を撫頭へ手渡すと、深々とお辞儀をして見せた。

「お駄賃貰ったら、また来るね」

「待ってるでぇ。何時でも来たってや」

殻を背負ってゆるゆると歩いてゆく環錆を見送る。此れから客を取って情熱を売りに行くのだろう。シャボン玉が見せた泡沫の夢が、せめて環錆の慰めになっていればいいが。

「ホンマ、又来てほしいなぁ」

人知れずそう呟いて、撫頭は店番に戻るのだった。

 

夕暮れ時。客をさらに二十人ほど取って、壷に作って貯めておいた石鹸水も半分程まで減った。一日の収支を付けた帳面も底の行まで埋まっている。何時も通りの客の入り具合だった。

そろそろ店を閉めようという気になって、撫頭が帳面を閉じて椅子から立ち上がった。鎧戸に手を掛けて下ろそうとして、ふと次の客を取るためにと洗っておいた竹筒と椀が目に留まる。暫しジッと見つめてから、撫頭が竹筒と椀の組を手に取る。柄杓で壷から石鹸水を掬って椀へ注ぐと、揺らめく水面を澄んだ瞳で眺める。

撫頭が客に出している石鹸水はごくごく普通のものに過ぎないが、一つだけ隠し味として、裏の庭で育てている薬草を乾燥させてから煎じて混ぜている。育てている、と言っても気が向いたときに水をやる程度で、放置していても勝手に生えてくるものを収穫するだけでいい。だから手間もかからない。後は市場で石鹸を買ってくるだけで石鹸水は作れる故、撫頭の商いは兎に角金が掛からなかった。

竹筒で椀の中身を軽く掻き混ぜてから、撫頭がシャボン玉を吹いた。大きなシャボン玉が一つ作られて、撫頭の正面でフワリと漂う。シャボン玉に浮かび上がる光景を覗き込んだ撫頭が、そこに懐かしい顔を見出した。

(お婆ちゃん)

シャボン玉の中には、もう十年ほど前にこの世を去った祖母の姿が有った。

祖母は「惹江(じゃこう)」という名前で、茶目っ気の有る優しい性格だった。物心付く前に親に先立たれた撫頭にとっては、惹江が親其のものであった。読み書き算盤を教わったのも、他者と接するときの心構えを伝えてくれたのも、護身術の柔道を手解きしたのも、何れも惹江であった。今の撫頭があるのは、惹江の教えがあってのものだ。

シャボン玉を吹いて昔の風景を懐かしむというのも、惹江から教わったものだ。他ならぬ惹江自身がしばしば石鹸水を作って、庭でシャボン玉を作って愉しんでいたのである。

(其れで、うちがシャボン玉を商売にしよう思て)

撫頭の商才は子供の時分から有ったらしい。此れは皆も歓ぶに違いないと考えて、惹江に作り方を知りたいとせがんだ。惹江は撫頭の頼みをすんなり聞き入れて、薬草の調合法を撫頭に伝授した。今商売に使っている石鹸水は、惹江から教わった通りの方法で作られているのである。

(こうやって好え処に店も持てたんやから、感謝してもしきれへんわ)

泡沫の夢を見せるシャボン玉のおかげで、他人のお下がりではあるが店を持てる程にまで銭を稼げるようになった撫頭だが、どうしても拭えない心残りが一つだけあった。

(せやけど、肝心のお婆ちゃんに、商いやってるところ見せられんかった)

今まさに此れから商いをしていくという処で、惹江が三途の川を渡ってしまった。大分歳を食っていたから、早死にという訳でもない。云い方は酷だが、死ぬべくして死んだと云うべきだろう。其れでも撫頭にとっては残念でならなかった。自分が店を持ったのを一番見せたかった相手こそ、他ならぬ惹江であったからである。

シャボン玉に浮かぶ惹江の姿を見る。今は亡き祖母を偲ぶ。泡沫に垣間見える惹江は何も云わずに微笑んでいて、向こうから撫頭の姿が見えているかのよう。やがてシャボン玉はフワリと浮かび上がって、風に乗って空を舞い始める。

割れる事なく飛んで行くシャボン玉は、お天道様の向こうまで届きそうだった。向こうにいる惹江まで、風を掴んで飛んで行ってくれれば。人知れず、撫頭が心の内で願う。

「――さぁ。明日も気張って行こか」

撫頭は誰に向けて云うでもなく呟いて、シャボン玉を吹くのを止めた。

 

 

「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、其の気になったら買ってらっしゃい」

「煮て好し焼いて好し炊いて好し、深貫の新鮮な茸でぇこざい」

気持ちばかり上に反り返った橋の上、一人の娘が風呂敷を広げて茸を売っている。名を深貫(みかん)という。ずらりと並んだ茸はどれも肉付きの好い旨そうなものばかりで、呼び込みの言葉が嘘偽りでない事を顕している。

露天を出しているのは深貫だけではない。野菜を売る者、果物を売る者、惣菜を売る者、薬を売る者、木彫り細工を売る者、書籍を売る者、茹でたてのかけ蕎麦を売る者、卜占をする者。多種多様な露天がずらりと並んでいる様は、さながら市場の其れであった。故にこの橋は「市場橋」と呼ばれている。本来別の然るべき橋としての名前があるのだが、誰も其の名で呼ぶ事はなかった。

「見てって頂戴見てって頂戴、今朝狩ったばかりの茸でござい」

「苗から手塩に掛けて育てた茸、皆様の舌と胃袋を満足させる事請け合い!」

深貫は自宅に苗床を、其れもかなり大きな苗床を持っていて、そこで茸を育てている。狩ったばかりと云うのは文字通りで、今しがた小一時間ほど前まで苗床に生えていたものだ。毎朝売る分だけ茸を狩っては、こうして人の往来の絶えない市場橋で売り捌いている次第である。

売り物は椎茸に榎茸にシメジに舞茸と、食用茸は大方取り揃えている。隅には見慣れない青だの赤だの緑だのの派手な色をした茸も並べているが、見た目に反して普通に食べる事が出来、かつ中々美味である。この様に表に並べている茸は真っ当なものばかりで、誰でも気軽に買えるよう取り計らっている。

無論、売り物は此れだけではない。深貫と顔馴染みになれば、只旨いだけではない変わった茸、端的に言えば薬効成分のある茸も売ってくれるようになる。中には腹を緩くさせたり発情させたりするような少々如何わしい物もあり、決まった客がそうした茸を纏めて買っていく。深貫にとっては纏まった金を得られる有難い客なのだ。但し深貫には、毒茸だけは売らないという信念がある。毒茸も平然と売っている茸屋も多い中、此れだけは譲れぬと決して商う事はしないのである。

「明日は市場に持ってくかなぁ。丁度、姫茸がいい塩梅に育ってたし」

茸はこうしてお天道様の元露天でちまちま売るのが基本だったが、時折収穫した茸を市場へ持ち込んで、ご贔屓にしてもらっている店の主に纏めて売る事もしばしばあった。料理屋や惣菜屋に卸しているわけである。深貫の茸は旨いと評判で売れ行きがよく、欲しがる者は少なくなかった。

さてさて、順調に茸を売っていった深貫。昼下がりにもなると風呂敷の上から売り物が無くなり、代わりに銭の詰まった小袋が出来上がった。今日の商いは終いである。周りの娘に「お先に」と声を掛けて露天を引き払うと、橋を渡って人の多い側へと向かう。目指すのは商店街だ。

「ふぅむ。今日はよく売れて稼げたし、何を買うかなぁ。鍋は入れるものを考えてる時が一番楽しいんだよねぇ」

茸売りが済んだ後は、商店街へ繰り出して茸鍋の具材を買うのが日課だった。自宅で栽培した茸と食材を纏めて煮込んで鍋を作り、一人鍋をつつくのが毎日の楽しみというわけである。日がな一日茸と共に過ごす、其れが深貫の生活であった。

先ず向かったのは八百屋で、綺麗でシュッとした白ネギを一本もらう。次は豆腐屋に顔を出して、作りたてだと云う厚揚げを丸々一つ買った。白ネギと厚揚げは欠かせないのが深貫なりの拘りだ。肉屋に顔を出すと、いい色をした鳥の胸肉が叩き売られている。今日は此れも入れよう、即決した深貫は銭を差し出して肉を包んでもらう。焼いてから煮込むと旨いんだよね、深貫の顔に笑みが浮かぶ。

後はどうしようかと商店街をぶらついていると、商売仲間である山菜売りの芽論の姿が見えた。

「ゼンマイ、ゼンマイ! 遠く離れた甲谷の山で採れたゼンマイだよ! 買ってってちょうだい!」

深貫が芽論に近づくと、全力で声を張り上げていた芽論がぴたりと客引きを止めて、深貫の顔をまじまじと見つめる。

「わわっ、深貫ちゃん。ね、ね、ちょっと聞いてよーぅ」

「芽論ちゃん、どうしたの。こんなにゼンマイばっかり並べて」

「其れがねーぇ、此れ、ウチの旦那が仕入れたんだけどーぉ、間違って思ってたのの十掛けで仕入れちゃってねーぇ」

「うわぁ、十掛け。溌索ちゃんも派手にやっちゃったねぇ。其れで芽論ちゃんが頑張ってさばいてるんだ」

「そうだよそうだよーぅ。此の侭だと腐っちゃうしねーぇ。旦那は悪い娘じゃないんだけど数字に弱いからさーぁ、仕入れる前に一声掛けてって言ったんだけどねーぇ」

山菜売りの芽論は半人半狸の娘で、仕入れを担当している半人半兎の娘・溌索と共に暮らしている。芽論と溌索はどちらも娘なのだが、同じ屋根の下で暮らすという事もあって、芽論が嫁で溌索が旦那という立て付けで縁結びをしている。深貫は二人の結納にも付き添った仲で、こうして気安く話の出来る間柄であった。

「だからね、ちょっと買ってってくれない? 安くしとくからさーぁ」

「ふぅむ。ゼンマイも煮ると旨いし、貰ってこうかなぁ。一山頂戴」

「有難や有難や! 恩に着ちゃうよーぅ」

同業者の誼という事もあったし、好物のゼンマイが安く買えるというなら悪くない話だ。芽論からゼンマイを一山貰うと、代わりに銭を渡す。芽論は何度も頭を下げて礼を言いながら、去っていく深貫を見送った。

白ネギ・厚揚げ・鶏肉・ゼンマイ。後は家で生えている舞茸やら榎茸やらを煮込めば、立派な茸鍋の完成だ。よく煮えた茸鍋の味を想像して、深貫が思わず頬を緩める。家路を急ぎたくなるというものだ。調味料が残っていたかを思い出して、問題なさそうだと思い至る。さあ帰ろう、そう思って一歩足を踏み出した直後の事であった。

(おや)

大きな風呂敷包を背負った娘が見える。見慣れぬ顔で名は知らない。時刻はもうすぐ夕刻、此れから商いをするには向かない時間だ。其れに着ている服も余所行きの確りしたものだ。そして手にはこの辺の名物焼き菓子である「楓焼き」の入った包を提げている。言うまでもなく、土産物だろう。

となると、地元へ里帰りするところだろうか。深貫は不思議と娘の事が気になって目が離せなくなった。娘が視界に入る限り追い続けて、其の姿が完全に見えなくなるまで、深貫の瞳は娘を捉えつづけていた。

 

家に帰ってきて、とりあえず食材を台所に並べて適当な大きさに切り、鍋に水を張ってから火に掛けて沸かして、醤油と砂糖を適当に入れ、鍋から食欲をそそる甘辛い匂いが漂って来たのを合図に切った具材を放り込む、というところまで流れ作業で進めた深貫だったが、どうにも気が散ってしまう。

幾度となく彼女の脳裏を掠めるのは、家路を辿る途中に見かけたあの娘である。

(地元かぁ、里帰りかぁ)

娘其のものというよりも、娘がしようとしていた事、と云うべきか。娘が何処へ帰ろうとしていたのかは定かではないが、何処かへ帰ろうとしていたのは間違いない。帰省する事、里帰りする事。深貫の頭は其の事ですっかり一杯になっていた。

そう言えば、もうずいぶん長い事故郷へ帰っていない。今住んでいる朽葉の中心地からは、電車を幾つか乗り継いでおよそ四時間ほどで帰る事ができる。家族は皆既に別の場所に移り住み、家も空き家になっていると聞く。家に帰る、という事は出来なさそうだが、久しぶりに訪れたい場所は幾つも在った。

「ふぅむ。里帰りねぇ」

出来上がった茸鍋をつつきながらも、考える事は郷里の風景ばかり。初めの内は只昔の事をぽつぽつ思い出す程度だったのだが、何時の間にかどんどん深入りしていって、やがて鍋を食べる手が止まってしまった。

よく冷やかしに訪れた書店、珈琲の味を覚えた喫茶店、友達と中身のない話を延々した公園。目を閉じると、瞼の裏に光景が甦って来るかのよう。

「……よし」

最早居ても立っても居られなくなった。深貫は鍋を半分程残したまま蓋をして毛布に包んで台所の隅へ置いておき、机の上に放り出していた電言板を手に取った。

電言板とは下敷きのような薄っぺらい透明な板であり、帳面の代わりに使ったり、電卓として使ったり、あるいは写し絵を撮ったり見たりできる便利な道具である。深貫は電言板を使って家計簿を付けていた。家計簿を呼び出して、今手持ちの銭がどの位あるかを確かめ始める。

普段から食べる物以外に殆ど銭を使っていないためか、蓄えは十分過ぎるほどあった。一日二日商いを休んだところで何の問題も無さそうだ。台所の下に隠している小銭を貯めた壷ももう三つか四つにはなる。使わずに腐らせておくのも勿体無かろう。

「よし、里帰りだ。里帰りをしよう」

深貫の心は決まった。今こそ里帰り、帰郷である。

二日ほど茸売りの仕事を休んで故郷を見に行く、大方そういう段取りで進めよう。いざやると決めると後は早かった。押入れの奥に仕舞い込んでいたくたびれた旅行カバンを引っ張り出して来ると、着替えやら洗面用具やらを素早く詰め込んでいく。今から準備を始めるのは、其れだけ気が逸っているという事であった。朝一番の電車に乗って、出来るだけ早く向こうへ行きたかった次第である。

何せ凡そ十年ぶりの帰郷である。見たい物は沢山在った、行きたい場所は一杯在った。懐かしい記憶に思いを馳せつつ、あっという間に持ち物の準備を済ませた。

「電車の時間は何時だっけ」

放り出していた電言板で時刻表を調べる。始発は五時四分とある。此れに乗ろう、深貫の決断は早かった。

「里帰りかぁ、楽しみだなぁ」

早々に何もかも準備を済ませた深貫が、明日の里帰りに向けて思いを膨らませるのであった。

 

目が覚めた。時計を見ると、もうすぐ四時になろうかという処だった。深貫は平時から早起きであるが、今日ばかりは特別早かった。理由は勿論、里帰りをすると決めているからだ。

「里帰りが楽しみすぎて、里帰りする夢を見ちゃったよ」

夢の中でも里帰りをして、いい気分で眠る事ができた。此れからする事になる本当の里帰りも楽しみだと、朝からご機嫌の様子である。

朝飯は電車の中で食べようと決めていたので、深貫は起きるなり弁当を作り始めた。昨日の茸汁の残りに少し出汁を注ぎ足してから温めて、保温のできる水筒へ流し込む。氷室に置いていた茸飯を温め直して、大きめの握り飯も二つ作った。此れで準備は万端だ。

「さあ、帰郷だ、里帰りだ」

弁当をカバンへ詰めると、深貫は意気揚々と家を出た。

徒歩十分の駅で改札を潜る。人気のない昇降口で電車が来るのを待つ。先ずは此処から二時間ほど乗った先に在る駅で乗り換えをする事になる。待つ事凡そ五分、此れまた人影の見当たらない電車が滑り込んで来る。扉が開けられるなり乗り込むと、窓際の席に陣取って発車を待った。

電車が動き出す。流れていく風景を楽しみながら、家から持ってきた茸汁と握り飯で朝食にする。何方も母親が作っているのを横目で見て覚えたものだ。母親は深貫が独り立ちしてから「根無し草になりたい」と言って何処かへ消えてしまった。今は何処にいるのかも分からない。或いはひょっとすると、地元へ帰ってきているかも知れない。そういうのも引っくるめて、帰るのが楽しみでならなかった。

ずずず、と茸汁を啜る。今から昔住んでいた場所へ帰るのだと思うと、飛び上がって声を出したくなる。何処へ行こうか、何をしようか、とても楽しみでならない。車窓から外の風景を眺めながら、深貫が故郷へ思いを馳せた。

「しかし、もう十年も経ったんだねぇ」

電車に揺られながら、深貫がぽつりと呟く。十年、口に出してみると、其の長さを実感せずには居られない。

元々深貫は山間の静かな田舎で暮らしていた。はっきりと厭な事が在った訳ではないが、何か物足りない気持ちを抱えていて、人の多い処へ出たいという思いが在った。学校を出て働ける年頃になると、身一つで今の住処が在る街まで出てきた。あの頃は故郷の何処か田舎臭い空気を倦んでいた様に思うが、今になって考えてみるとそんなに厭だったのだろうかと首を傾げざるを得なかった。

人前で何か目立つ事をして、夜空の星の如く輝きたい。多分、其の様な事を考えていた。具体的に何をする積もりが在った訳でもなく、芸事に長けていた訳でもない。若気の至りとはこの事に違いない、深貫は我が事ながらそう思った。

(何だかんだで、仕事は色々したもんだ)

食べ物屋で皿洗いをしたり、怪しい薬の様な物を売り歩いたり、本屋で叩きを持って立ち読みを追い出したりと、脈絡の無い仕事を一通りして、暫くして今の茸売りの仕事に落ち着いた。此れはもう始めて七年ほどになる。言うまでもなく、どの仕事よりも長く続いている。

輝く事を夢見て街へ出てきた割に、結局地味で湿っぽい仕事に落ち着いてしまう辺り、自分は本質的に派手な物事に向いていないのだろう。只、暮らし向きは悪くないし、昨日見た通り蓄えも在る。収まるべき処には収まった気がして、割と満足している自分が居る。

母が行方知れずなのは先の通りだが、妹も今となっては連絡が付かない。深貫のような半人半蛙はしばしば住処を変えて、二度と故郷へは戻らぬ者も多いと聞く。望郷の念に駆られる事は無いのだろうか、深貫はそう考えて、いや、今の自分はまさに故郷を目指している、と反撥する。

十年ぶりに見る故郷が楽しみでならない。懐かしい思い出に浸れると思うと、今から胸が高鳴って仕方なかった。徐々に緑の割合を増していく車窓の風景を横目に、帰ったら何をしようか、どこへ行こうかと頭の中で計画を立てていく。計画が現実の物になるまで、もう後少しだ。

「此の駅で乗り換えないと」

電車が止まる。乗り換えの駅だ。次に此処へ来る電車に乗れば、故郷の最寄り駅の在る路線へ繋がる駅へ行ける。

荷物を持った深貫が、足取りも軽く扉を潜った。

 

「来たぞぉ、此処だ此処だ」

二本の電車を乗り継いでから、深貫は小さな駅に降り立った。とうとう故郷まで帰ってきたのである。颯爽と電車を降りて、辺りをぐるりと見回してみる。

飛び出した深貫を出迎えたのは、以前とは少し印象の違う駅だった。

「はぁ、随分小奇麗になったもんだ」

深貫が覚えている十年前の駅は殺風景で小汚い感じだったのだが、最近になって作り替えられたのか、小ざっぱりした気持ちの好い感じの駅舎が出来ている。其れは好い事のはずで、実際目新しさは感じるのだが、何と云うか、何処となく落ち着かない。記憶の中の駅と今の駅が上手く噛み合わず、自分が間違った場所に降りたような感覚を覚えてしまうのである。然しながら駅の名前は間違いなく自分の知っているものだったし、周りの風景も其れらしい感じがする。なので、此処は嘗ての最寄り駅で合っている。合っているのだが、合っていない気がする。歯痒い感触だった。

言葉にしようの無い居心地の悪さを感じて、深貫がそそくさと改札を抜ける。紙の切符しか受け付けなかったはずの改札が、いつの間にか電子切符も使えるようになっている。此れも新しくなったのだろう。変わったのは外面だけでは無いようだ。

駅の中にある店も様変わりしている。以前改札の向かい側に在った立ち食い蕎麦屋は、万屋に変わっている。眼鏡屋は保険屋になり、写絵屋は鎧戸を閉めて閉店している。駅の構造其のものは昔から変わっていないが、中に入っている店は殆ど全てが入れ替わっていた。見た事もない店が立ち並ぶ様は、やはり別の駅に間違って降りてしまったのではないかと思わせるものがあった。

「けど、ここで間違いないんだよねぇ」

駅舎を出て外観を見る。当然ながら、駅の名前は自分の能く知っている嘗ての最寄り駅の其れであった。紛れもなく、深貫は里帰りを果たしたのである。

記憶に残っている過去の風景と、今此の瞬間目にしている光景が入り混じって、深貫は頭に鈍い痛みを覚えた。どうも、しっくり来ない処が在る。こんな気持ちになる事は考えていなかったと云うべきか。

「別の処へ行こう。行きたい処は沢山在るからね」

自分の知っている場所へ行きたい。深貫は其の様に考えて、先ずは以前しばしば顔を出していた書店へ向かう事にした。あの書店は腰の曲がった婆さんが一人で切り盛りしていて、新しい本を入れるのが遅かった代わりに、やけに古い本も其れなりに置いていた記憶が在る。其の品揃えが好みで、深貫は空いた時間が出来るとよく冷やかしに訪れていた。今はどうしているか、電車に乗っていた時からずっと気にしていた次第である。

記憶を辿って嘗て歩いた道をなぞり、駅から歩いて十分ほどの場所に在った書店を目指す。あの角を曲がれば直ぐだ、深貫は胸を躍らせながら歩を進める。そして件の角を曲がる。

「――無い」

無かった。何も無かった。在る筈の書店が、其処には見当たらなかった。

周囲の風景に見覚えは在る。此処で間違いないだろう。だと云うのに、書店だけがどうしても見付からない。辺りを見回してみても、少し歩いて探してみても、書店の姿は影も形も見当たらなかった。其処には何も無く、敢えて在る物を述べるとするなら、ただ真っ新な空間が在るのみであった。

「更地になってたとは、ねぇ」

綺麗さっぱり無くなってしまって、此処に存在したという痕跡すら見付けられない有様だった。何れ程探してみても書店はなく、移転した様子さえ無かった。どうやら店を畳んで、建物も取り壊しが済んだ様である。

此処でよく古い漫画本を買ったものだったが、今の有様を見ていると其の記憶すらあやふやになってしまいそうだった。あの店主の婆さんは何処へ行ってしまったのだろうか、最早知る事は出来ないだろう。

此れ以上書店を探しても仕方ない、深貫は踏ん切りと云うか諦めを付けて、また別の場所へ向かう事にする。

「喉が渇いた、喫茶店へ行こう。珈琲が飲みたい。今日は氷菓も付けたい」

故郷を出る電車に乗るほんの少し前まで過ごしていた喫茶店。其処へ向かう事にした。

珈琲という飲み物の存在を教えてくれたのは嘗ての想い人だったが、珈琲の旨さを教えてくれたのはあの店だった。何が、と云われると言葉にはし辛いのだが、あの店の珈琲は他では飲めないものだった。自分で豆を煎って淹れてみたり、或いは他所の店で飲んだりもしたが、あの店の珈琲に敵うものは一つとして無かった。もう一杯あの珈琲を飲みたい、深貫は其の思いで喫茶店を目指した。

歩く事三十分ほど。喫茶店の在る場所まで無事に辿り着いた。道は間違えていないし、例によって辺りの風景には見覚えもある。今度は建物も見付ける事ができた。

「……張り紙がしてある」

しかしながら、扉には風雨に晒されて色褪せた紙が一枚、乱雑に貼り付けられていて。

五年前の三月末に店を閉めた。端的に云うと、其のような事が書かれていた。

喫茶店の建物は其の侭残されていたが、既に店仕舞いがされていて、人気というものがまるで感じられなかった。外観は廃墟と云うのが相応しい有様で、中には椅子や机が埃塗れで取り残されている。外から人が入り込まないようにするためか、窓には板も打ち付けてある。人の手が入らなくなって相当な時間が経っている事が窺えた。

当時の面影こそ留めて居るが、此の分ではもう二度と店が開く事は無さそうであった。無論、珈琲を飲む事も叶うまい。此処の店主とも顔馴染みにしていて、積もる話もあったのだが、其れとて最早口にする事は出来ないだろう。店が閉められてから五年も放置されている事を考えると、土地の買い手も付かないと見るのが自然だ。此の場所に新しい喫茶店ができるという期待も持てまい。

「建物だけ其の侭でも、ねぇ」

記憶の中の風景と中途半端に一致している。かろうじて自分の知っている姿を留めているという今の状況が、深貫にとっては却って侘しく寂しいものであった。

見覚えのある風景、けれど自分の求めていたものは、もうとっくに失くなっていて。十年という長い年月が経った事を、今更ながら思い知らされてしまう。

「……変わっちゃったんだなぁ」

失意に沈んだままとぼとぼ歩いて、深貫は近くの公園までやってきた。学生の時分に友達としょっちゅう寄り道して、中身の無い他愛無いお喋りをした場所。此処はさほど変わっていなかったが、隣に誰も居らず一人で過ごす公園は、只自分が孤独であるという事を強く強く実感させて、居た堪れない気持ちになる。

隣に居た友人達は皆行方知れずで、誰一人として連絡も取れない。今此処に居るのは自分だけ。書店は無くなってしまった、喫茶店は店を閉めてしまった、公園で話す相手は居なくなってしまった。

「過ぎ去っていくから、過去って云うのかぁ」

過去。過去は過ぎ去って行くもの。自分から遠ざかって行くもの。一度見送ってしまえば、もう二度と取り戻せないのだ。今更ながら、深貫は過去の不可逆性を痛感する。

全ての物は変わる。変わらぬ物など存在しない。自分だって変わったではないか。此処を出てから人の波に揉まれて、随分様変わりしたではないか。変わる事は避けられぬ事、万物は変化せずには居れぬのだ。故郷にしても然り。己れの知っているままの故郷など在る筈が無かった。凡る物は休む事無く変わり続けているのだから。

故郷は、もう変わってしまった後なのだ。

 

「よしよし、此方だ此方」

深貫は荷物を提げたまま、歳が一桁だった頃によく遊び場に使っていた裏山へ足を運んだ。最後に此処を見て、今の家へ帰ろうと考えていた。裏山を見に来たのは、馴染みの場所がどの様に変わっているかを自分の目で見て、僅かに残る未練をきっちり断ち切っておきたかったためである。

昔より随分と縮尺が小さく感じる。長い道は短く、険しく感じた坂はなだらかに感じる。元から道の形は同じで、自分が大きくなったのだろう。やはり変わらずには居れぬのだ。自分が成長した事をひしひしと感じる。

成長したというより、子供ではなくなった。そう云うべきかも知れなかった。

感傷に耽りながら、ざくざくと枯葉を踏みしだきつつ山を歩いていた最中の事であった。

「はて」

深貫はふと、東の方から嗅ぎ慣れた匂いが漂ってくるのを感じた。興味を持った深貫は微かな香りを頼りに、山の奥へ奥へと分け入っていく。

暫し歩いて辿り着いた先で、深貫は思わず目を瞠った。

「ややっ、此れは此れは。素晴らしい苗床じゃないの」

山の奥にて、新鮮な茸がたっぷり生えているのが見えた。其の何れもが安心して食べられる物で、其の侭市場に出しても恥ずかしくない代物ばかりだった。中には深貫が育てていないような珍味の茸もある。持ち帰れば相応の値段で売れそうであった。

喜び勇んで茸を収穫して、併せて土壌も少し持ち帰らせて貰う。家の苗床を増やして、此処の茸を育てられる様にするためである。

「昔はこんなの無かった筈なんだけど、ねぇ」

よく肥った松茸を掘り当てて、慈しむように撫ぜながら、深貫が小さく息を吐いて感慨深げに呟く。

「此の山も、変わったのかな」

変わらない物などない、全ての物は移ろいゆく。育ての親が姿を消し、馴染みの店が無くなり、親しい友人との縁が切れる。凡る物は休む事無く変わり続けている。

けれど、変わる事は即ち喪失ではない。事実こうして、かつての遊び場に新しい苗床が出来たではないか。

「過去はもう戻ってこないけど、ま、此れからがあるもんね」

今はもう戻らない過去を懐かしみながら、何れやって来る未来を迎えよう。

人気の無い山奥で、深貫は幾度か小さく頷いて。

「今度は、あんまり間を置かずに見に来ようかね」

最後にもう一度、茸を湛えた苗床を見回してから、山を降りたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。