橙色の空の下。鳥居の向こうの石畳。佇む人影、ふたつあり。
「ぐ……ぐみちゃん。わたしの……話、聞いて、くれる……?」
「あずきったら、どうしちゃったのよ、そんなにかしこまっちゃって。何か悪いものでも食べたんじゃない?」
「大事な、大事な話なの! だから……だからぐみちゃんにちゃんと聞いてほしいって、そう思って、それで……」
何度も言葉をつまらせる、眼鏡におさげの女の子。そんな彼女に付き合っている、ショートカットの女の子。朱いひかりに照らされて、心なしか、頬も紅みを帯びていて。
大事な話をしたいという眼鏡さんに、ショートカットさんは小首を傾げるばかり。ああでもない、こうでもない。とっ散らかったたくさんの言葉の中からいちばん上手いものを選ぼうとして、眼鏡さんは頭の中をあちこちひっくり返す。自分の気持ちを、しっかり相手に伝えたいから。
「わ、わ、わたし……わたしっ、ぐみちゃんのことが……!」
「私のことが?」
「ぐぐ、ぐみちゃんのことが……す……す、す……!」
最後の一言。その一言が、どうしても出てこなくて。言いたくて言いたくて仕方がないのに、前に一歩踏み出す。そのための勇気が持てずにいる。歯がゆくて、もどかしくて、何より悔しい。気持ちは前に思い切りつんのめって、転んでしまいそうになるほどなのに。
つっかえて、ひっかかって、ためらいながら、言いかけてはまた戻す。
「…………」
おとなしく聞いていたショートカットさん。けれど、そんな彼女の眉が、ぴくりぴくりと不穏に動いて。
「あ、あの……! ぐみちゃ、そのっ……!」
「……ああもうっ! 全っ然ダメっ! こーんなに待たされちゃったら、日が暮れちゃうよっ!」
「あぅ……ご、ごめんなさい……ぐみちゃんを見てると、やっぱり緊張しちゃうよぅ……」
ついに堪忍袋の緒が切れて、ショートカットさんが眼鏡さんをぴしゃりと叱る。眼鏡さんはすっかりシュンとしてしまって、おさげといっしょに頭をへなり。まったくもう、と腰に手を当てて、ショートカットさんがふんぞり返る。
せっかくのいいシチュエーションが台無しとか、もっとどーんとぶつかってかなきゃとか、教育熱心なお母さんがテストで赤点を取っただめだめな一人娘にあれこれお小言を言うような調子でもって、ショートカットさんは眼鏡さんにひとしきりお説教をして。
「はぁーあ。梓ったら、あたし相手にこんなに緊張してちゃダメだよ。本物の鶫ちゃんを相手にしたら、こんなんじゃ済まないんだから」
「うー……やっぱり、そうだよね……」
おさげ髪の眼鏡さん――もとい、梓が、ため息混じりにつぶやいて。同じくため息をついたショートカットさん――もとい、鶫が、踊るようにひらりとその身を翻す。すると、瞬く間に鶫の姿かたちがあいまいになって、しばらくもしない内に、もとの姿、あるべき姿、本当の姿が明らかになって。
「ま、これも梓のキャラクターだからね。そんなすぐには変えられないって、あたしも分かってるよ」
「はぁ……肆玖羅面さん、ごめんなさい……」
「いいんだよ、お節介はあたしの十八番だからね」
肆玖羅面。そう呼ばれた少女は、降りたての新雪のようにかがやく真っ白い小袖に、夕日の中でも映える真っ赤な緋袴。きりりとした顔立ちに、梓を見守るやさしい瞳を添えていて。
そして――。
「何より、壬生に住んでる人が困ってるんだもの。放っておいたら、稲荷神様に叱られちゃうでしょ?」
「あたしにだって、それくらいの自覚はあるんだから」
頭に見えるは、ぴょこんとはねた三角形の耳。背中に見えるは、ゆらゆら揺れる大きなしっぽ。
「梓にはまだまだ練習が必要だね。大丈夫、あたしがいくらでも付き合ったげるよ」
「鶫ちゃんに変化するのは、お手の物だからね」
肆玖羅面は、狐の女の子だったのだ。
ここは、山辺市黄蘗区壬生町。開けた平地にある、それほど大きくはないけれど、活気に満ちた町だ。朝になると学校や職場へ向かう人が往来を行き交って、鳥のさえずりのような明るい声があちこちから聞こえてくる。町の中心には大きな商店街があって、長く続く不景気にも負けじと、力強く商いをしている店がたくさん立ち並ぶ。お昼から夕暮れ時に掛けては、放課後を迎えた子どもたちがあちこちを走り回って、町を思い思いに遊び場にする。
壬生町――もう少しきちんと言うと、黄蘗区には、たくさんの「神様」が住んでいる。神様と言ってもそんな大それたものではなく、ただ「人とちょっと違う存在」といった程度のイメージで捉えられている。しょっちゅう姿を表す神様もいるし、なかなかお目にかかれない神様もいる。よその地区では「物の怪」なんて呼ばれ方をすることもあるけれど、黄蘗区ではほとんどの人が「神様」と呼んでいる。
肆玖羅面は、そんな壬生町の稲荷狐だ。
よく、稲荷狐は稲荷神様そのものだと思われているけれど、実態はすこし異なっている。ちょっとだけ、大したことのない薀蓄を挟むと、稲荷狐というのは、稲荷神様の眷属――砕けた言い方をするなら、動物の使い魔といったところだ。なので、肆玖羅面のような稲荷狐は、厳密に言うと神様ではない。神様ではないけれど、まあ似たようなものだし、町の人々からは一緒くたにして神様として見られている。
肆玖羅面は生まれも育ちもここ壬生町で、まさに壬生町といっしょに大きくなってきた稲荷狐だ。のんびりした気風の壬生町で、のびのびと育ってきた。住処である嘉山神社のマスコットとして、特に何をしているわけでもないけれど、この町に欠かすことのできない存在として見られている。
狐というと、よく頭が回って人を誑かす、そんな性格を思い浮かべる人も多いだろう。確かに肆玖羅面も悪戯好きで、ときどき人や獣に他愛ないちょっかいを出したりすることもある。けれど、困った人を見ると捨て置けず、ついついお節介を焼いてしまう。本質的にはお人好しと言うべきだろう。肆玖羅面が誰かに手を差し伸べるときは、いつも「頼れるお姉さん」のように振る舞うのが常だった。歳はやっと二十路が見えてきたくらいだというのに、もうすっかり壬生町の守り神気分である。
そんな肆玖羅面の暮らしぶりを、少しばかり、皆さんにもお見せしよう。
秋口の昼下がり。壬生第三小学校の校庭で、二年生から四年生くらいまでの子供たちが集まって、東西に分かれてドッジボールをしている。
「よっしゃぁっ! 食らえっ」
「あいたっ」
対戦は大いに盛り上がったが、体の大きな男子が揃った東軍が次第に西軍を押し始めた。西軍には気の強そうな女子が一人いて、男子から飛んでくるボールもなんのそのと受け止めて投げ返す活躍を見せていたけれど、不意を突かれて背中に被弾し敢えなく場外へ。残っているのは、運動が得意そうには見えない、小さな女の子が二人だけ。ここまでくれば、後はゆっくり料理してやるだけだ――と、東軍の男子が余裕の面持ちを見せていると。
「すけだちっ」
突然、どこからともなく少し背の高い女の子が現れて、窮地に陥っていた西軍のコートへ飛び込んできた。えっ、と驚く東軍の男子が次に目にしたのは、自分が投げたボールを謎の女の子が華麗にキャッチして、隣に立っていた別の男子に向かってものすごいスピードで投げ返す姿だった。不意を突かれた仲間は簡単にやられてしまって、場外へ退場する羽目になった。
誰だ誰だとざわめく東軍を尻目に、西軍はコート内外から歓声が上がった。敗色濃厚だった戦況をひっくり返す、頼れる助っ人が現れたからだ。これは負け戦だと場外で燻っていた女子も、思わぬ救援に士気高揚。大はりきりでボールを投げつけて、油断していた東軍の女子に当ててコートへ復帰。流れは一気に西軍へ傾いた。しかし元々西軍を押していた東軍、戸惑っていたのもつかの間のことで、あののっぽの女子をやっつけろと気勢を上げる。
白熱する戦いを見て、別の場所で遊んでいた子どもたちも何だ何だと集まってくる。西軍の気の強い女子が、見てないで手伝ってよ、と叫ぶと、面白そうだとばかりに何人かが西軍へ加わった。おかえしとばかりに、東軍のリーダー格がこっちへ来いと檄を飛ばす。俺はこっち、僕はあっち、あたしは西、わたしは東。両軍瞬く間にその軍勢を増して、ドッジボールは大乱戦の様相を呈してきた。
そんな中でも、助っ人の女子は一際活躍して見せた。俊足でボールをかわして、甘い投球は逃さずキャッチ。油断している敵に容赦なくばんばかボールをぶち当てる。東軍は真正面から戦いつつも時にボールを放り投げて、外野で待機する面子に攻撃の機会を与え、欠けた人員の補充に努める。
「ひろ美ちゃん! そっちボール行ったよ!」
「任せなさいって! かよちゃーんっ! そこにいる二年生の子に当てちゃえーっ! パスっ!」
そんなこんなで東西の合戦は、日が暮れるまで延々と続けられて。
校舎に取り付けられたくたびれたスピーカーから、いささか音の割れた「遠き山に日は落ちて」が流れてきて、熱気に満ちた戦いがようやく閉幕を迎える。楽しかった、あと少しだった、面白かった――あれだけ激しく競り合った東西両軍も、互いに健闘を讃え合う。こんなに盛り上がったドッジボールは久しぶりだと、校庭にいた生徒たちは揃って同じ感想をこぼす。そこでふと、ひとりの女子がこんなことを言う。
「そういえば、途中から入ってきた子、誰だっけ?」
負ける寸前だった西軍に突然加勢して、あれよあれよと言う間に互格以上の戦いを繰り広げられるようになるまで盛り返させた、あの助っ人の女子。戦いが終わって辺りを見回してみると、どういうわけか、忽然と姿を消していた。違うクラスの子だと思ってた、上級生じゃなかったの、別の学校の子だったのかな、あれこれ感想は出てくるけれど、どうにも釈然としない。
あれは一体誰だったんだろう。みんながあれこれ話し合っていると、西軍で奮闘していたおてんばな女子・ひろ美が、いつの間にかポケットに何か入っていることに気がついた。何かしらとポケットを探って出してみると、丁寧に折りたたまれた薄い紙が出てきたではないか。ますます不思議がりつつも、物は試しと紙を開いてみる。
そこには、こんなメッセージが。
「みんな、今日は楽しかったよ。また、こんな風に助太刀させてもらうね」
かく言う「狐につままれたような顔」をしている子どもたちを、物陰から見守る一つの影。
「ふふふっ。久しぶりに大暴れしちゃった」
くすくす笑っていたのは――あの女の子に化けていた、肆玖羅面だった。
別の日には、こんなことも。
壬生町の隅っこにある、小さな小さなたばこ屋さん。たばこ屋さんと言いつつも、冷たいジュースやアイスクリーム、それにお菓子やパンも売っていたりする。だから、ほとんど雑貨屋さんのようなものだ。お店番をしてるのは、シワの刻まれた顔をしたお婆ちゃんがひとり。いつもレジの向こうにある椅子に座って、店の中を眺めている。
そんなお婆ちゃんのたばこ屋さんに、お客さんが一人やってきた。
「お婆ちゃん、『わかば』ひとつ」
やってきたのは、背広にネクタイのサラリーマンといった具合の男の人だ。ハンカチで額をゴシゴシやって、浮かんだ汗を拭っている。この辺りは住宅地だから、飛び込み営業の途中でちょっと一息といったところだろか。見たところ、怪しいところはどこにも見当たらない。だから、普通にお金をもらって「わかば」を渡して、それでおしまいになるはずだった。
ところが、お婆ちゃんはまるで聞こえない風で、男の人からそっぽを向いたままだ。耳が遠いのだろうか、いやいやそんなことはない。こう見えても耳は良くて、普段なら買い物に来た人が声を掛ければ、しゅっとそちらを振り向いて見せる。
「おーい、聞こえてる? お婆ちゃん、『わかば』ひとつだって」
もう一度呼びかけてみると、今度はちらりと目をやって、けれどやっぱり振り向かない。もちろん、商品を渡す素振りも見せない。困ったなあ、と頭をかきむしりつつ、男の人が諦めたようにつぶやく。
「仕方ないなあ……じゃあ、代わりにこれで」
男の人がお婆ちゃんに渡したのは、近くの冷蔵ショーケースでキンキンに冷やされていた、ビン入りの三ツ矢サイダーで。
「はい、七十円ね。それと、子供が煙草なんか買っちゃダメだよ」
「んもう、いつまでも子供扱いするんだから。あたしはもう大人だよ?」
「なら、人に化けて悪戯するなんて、行儀の悪いことはするもんじゃないよ」
小銭を手渡したのは、先ほどまでいたちょっと冴えない風体の男の人――ではなく、小袖に緋袴、尖った耳に大きな尻尾の女の子。
何を隠そう、肆玖羅面だった。
「今日も買えなかったかあ。うまく化けたつもりだったんだけどなあ」
「見てくれは騙せても、気配はそうそう繕えないもんだよ。その点、肆玖羅面はまだまだ子供だね」
「何よう。こんな大きな子供がいてたまりますか」
受け取ったサイダーをごくごく飲みつつ、肆玖羅面は不満そうにぷうと頬を膨らませた。実は肆玖羅面、まだ一桁の子供の頃からこのお婆ちゃんから煙草を買おうとしていて、その都度見破られて別の品物を買うということを繰り返していた。今日もまた、いかにも煙草を買いそうな人間に化けてみたものの、あっさり看破されてしまった次第だ。
断っておくと、肆玖羅面は煙草が吸いたいわけではない。味も分からないし、味覚が子供その物の肆玖羅面にとっては、たぶん煙草は「おいしくないもの」に分類されるだろう。それでも、肆玖羅面はお婆ちゃんから煙草を買おうとするのをやめようとしない。肆玖羅面にとって、煙草は大人の象徴、そのものだからだ。
肆玖羅面から渡された小銭を手の中でちゃりちゃり鳴らしてから、お婆ちゃんがレジスターへと放り込む。お金でいんちきはしないよ、そう言う肆玖羅面に、狐からもらったお金はちゃんと検分しないと安心できないからね、と返す。これもまた、何度も繰り返されてきた光景。肆玖羅面もとっくに分かっていて、敢えてお婆ちゃんに突っ込みを入れている。
「まあ、大分ましにはなったねえ。お昼に背広着てくるなんて、なかなか上手いじゃない」
「そりゃそうよ。あたしはいつも人様の側にいて、人様の暮らしを見守ってるんだから」
「見守ってるのか見守られてるのか、分かったもんじゃないよ。昔から、化けるのだけは達者なんだから」
お婆ちゃんが珍しく褒めたとおり、肆玖羅面は他人に変化することにかけてはかなり上手だった。人間なら子供から大人まで老若男女を問わず、獣なら犬でも猫でも鳥でも、それこそ何でも来い。生物だけでなく、電柱や郵便ポストのような無生物にだって化けられるから、その能力はかなりのものだ。ただし狐だけあって、狸にだけは「プライドが許さない」とかで化けたがらないとか。
「ふう、ごちそうさま。今度こそ、煙草買って見せるからね。年貢の収め時だよっ」
「税金はちゃんと払ってるよ。青色申告も、面倒だけどしっかりやってるんだから。二重にむしり取られちゃ、商売上がったりだよ」
今度は買いもの帰りの主婦に化けると、肆玖羅面は颯爽と走って、たばこ屋を後にする。
肆玖羅面の日常は、概ねこんな塩梅だ。
話がだいぶ横道に逸れてしまったので、そろそろ本筋に戻ろう。
夕方。いつものように日がな一日気ままにご町内を遊び歩いて、肆玖羅面は住処である嘉山神社で一休みしていた。別の姿に変化した時は堂々と姿を現して、これといって憚ることをしない肆玖羅面だったけれど、必要の無いときは姿を消して、あまり人目に付かないようにしていた。人を恐れているとかでは全然なくて、彼女の親であり主でもある稲荷神様から、普段はこうして隠れていなさいと教えられていたからだ。あまりみだりに姿を現していると、神様の眷属としての威厳というか性質というか、そういうものが失われてしまうらしい。なので、休んでいるときや変化していない時は、人に姿を見せないようにしていたわけだ。
お夕飯はどうしよう。肆玖羅面がほほに手を当てながら考える。神様とその眷属と言えど、お腹は空くし喉は乾く。肆玖羅面と稲荷神様も同じで、炊事は肆玖羅面の仕事に割り当てられていた。人に変化して買い物をし、人と同じように調理していただくという寸法だ。神様らしさはほとんど感じられないけれど、それがここ、壬生町の神様の性質でもあった。
「稲荷様はお魚食べたいって言ってたけど、あたしはお肉が食べたいなー。今日もお肉にしちゃおっかな」
一応、主従の関係にある稲荷神様と肆玖羅面だったが、何分ここ嘉山神社の稲荷神様はとてもゆるい性格の持ち主だった。なので、肆玖羅面はきちんと尊敬こそしているものの、何が何でも言うことを聞くというわけではなかった。お夕飯の献立も、基本的には肆玖羅面の食べたいものが優先される。肆玖羅面は大の肉好きで、中でも塩で焼いた焼き鳥の「み」と、柚子胡椒をまぶしたサイコロステーキが特段の好物だった。
鳥肝の煮込みもいいなあ、牛タンのシチューもいいなあ、と、うっとりしながら献立を練っていた肆玖羅面が、ざり……という砂利を踏む音を耳にして、はっと我に返る。
お社のちょうど正面でくつろいでいた肆玖羅面は、前方からやってきた一人の女の子の姿を目にする。昨今はちょっと珍しくなった白と紺のセーラー服に、控えめだけれど確かな存在感を示すワインレッドのリボン。あれは間違いない、ここから十分ほど歩いたところにある、山辺市立羽山高校の制服だ。生まれた頃からずっとデザインが変わっていないから、肆玖羅面はすっかり覚えてしまっていた。
女の子を観察しつつ、肆玖羅面が頭を働かせる。ここに来たということは、きっとお参りをしにきたに違いない。ここは稲荷神様が奉られている地。産業振興や豊作祈願などを司る社だ。人々から寄せられた願いを聞いて、力を貸すべきかどうかを判断し、できることなら自ら行い、手に余るようならさらに上位の神様へ話を持っていく。そうやって、神様としての神通力を人様に分け与えるわけだ。
して、この子は誰ぞと、歩いてきた女の子に目を凝らす。
(あっ。この子、梓じゃない)
すると、すぐにこの辺りの住宅地に住んでいる「梓」という少女だということに思い至った。生まれも育ちもここ壬生町で、肆玖羅面とはほとんどいっしょに大きくなったような仲だ。もちろん、梓の方は肆玖羅面と面識があるわけではなかったけれど、肆玖羅面の方はというと、この間子供に変化してドッジボールを楽しんだときのように、同じく子供に変化して何度か梓と遊んだことがあった。
肆玖羅面から見た梓は、一言で言うと「おとなしい子」といった塩梅だった。地味で目立たず引っ込みがち、そんな意味ももちろんあったけれど、決してとげとげしい言葉を使わず、友達を思いやる心を持つ気立てのやさしい子、というニュアンスも込められていた。おっとりしているけれど、繊細で細やかな気配りのできる性格だったのだ。ゆえに、肆玖羅面も裏でいろいろと目を掛けてあげていた。
梓は社の前まで歩いてくると、通学カバンから小さな小銭入れを出して、さらにそこから……なんとまあ、五百円玉を一枚取り出したではないか。それも、今は鋳造されていない旧五百円玉、にぶい銀色を放つあの硬貨だ。やったー! 臨時のお小遣い! ……と喜ぶ肆玖羅面だったけれど、いけないいけないと慌てて気を取り直す。五百円玉をお賽銭箱に投げ込もうなんてことは、よっぽど真剣な願いに違いない。本気で叶えてほしい願いとしか思えない。
(あー……これもしかして、あのパターンかも……)
しかしながら、神様にだって得手不得手はある。言われてもできないことは少なくないのだ。肆玖羅面はこう見えても稲荷神様と長くいる――肆玖羅面が生み出されるまでは、ここは稲荷神様ひとりで守っていたそうな――から、何ができて何ができないかは手に取るように分かる。嘉山神社へ持ち込まれても困るような願い事、それは確かに存在するのだ。
で、だ。思春期まっさかりの女の子が夕暮れ時に一人で神社にやってきて、あまつさえ五百円という大金をお賽銭にしようとしていると来たら、もうあのパターンしか考えられないではないか。半ば予想がつきつつも、肆玖羅面が大きな耳をぴんと立たせる。こうやって神経を研ぎ澄ませることで、肆玖羅面は人の声なき声を聞くことができるのだ。と言っても、よっぽど集中していないと少しも聞こえてこないし、その人が強く考えていることがかろうじて聞き取れるくらいなので、肆玖羅面は滅多にこの力を使うことは無かった。人の心の声を聞くなんて野暮だよ、ともっともな言い訳をしていたが、実際のところは集中するとお腹が減るからという、まあ案の定な理由だった。
ちゃりりりーん、とお賽銭箱に五百円玉が投じられる。ぱん・ぱん、と二回柏を打って、梓が祈願をはじめた。そのすぐ隣で、肆玖羅面も息を潜めて耳を澄ませる。
肆玖羅面の大きな耳に入り込んできた声、それは……。
(『――ぐみちゃんともっと仲良くなれますように、もっと近付けますように……』)
(……って、やっぱりこの手のお願いだったよーっ! 恋愛成就祈願ーっ!)
ど直球という言葉がふさわしい、恋愛成就のお願いだった。まあ、予想通りといえば予想通りだけれども、肆玖羅面としては大いに困ってしまった。このお願いは、ここ嘉山神社へ持ち込まれても対応できない。だけど、梓はカケラも気づかずに、目を閉じて一心に手を合わせるばかり。
ええい、こうなりゃ直接言うっきゃない。肆玖羅面は素早く腹を括ると、梓の前に姿を表して、おもむろに肩をとんとんと叩いた。
「ちょっとちょっと梓ったら、ここでそんなお願いされても、稲荷神様が困っちゃうよ!」
「えっ……えぇっ!?」
いきなり肩を叩かれて振り向いてみると、何の前触れもなく狐の耳と尻尾のついた巫女さんがいて、しかも自分のお願いごとをしっかり把握しているかのような口ぶりで話しかけられた。いきなりわけの分からないことが三点セットで起きて、目の色をくるくる変えるばかりだった。
「縁結びのお願いは、結君辻町の明袋神社へ行かなきゃ。ここは商売繁盛と豊作祈願が本職だよっ」
「あ、あ、あの……あなたは……?」
「あたし? ここ嘉山神社の稲荷狐・肆玖羅面よ。梓がとんちんかんなお願いしてるもんだから、違うよって突っ込みにきたんだから」
「わ……わたしの名前、知ってるんですか!?」
梓からすれば肆玖羅面とは当然初対面なわけで、驚くのも無理はない。
「もちろん知ってるわよ。幼稚園に通ってた頃に、ここの階段で昼寝してたことあるでしょ? 悪い人に連れ去られたりしないように、あたしが隣で見張っててあげたんだから」
「うそ!? あの時、誰かに見られてる気がしたのって、もしかして……」
「間違いなくあたしね。そうそう、中学生の頃に夕立に降られて、ここで雨宿りしたこともあったわよね。雨に濡れたブラウスをぱたぱたやってる姿、なかなか色っぽかったよ。あ、結構胸おっきいんだ、って思ったし」
「ち、ちょっと、何見てるんですかっ! はわわわ……あの時のこと、はっきり思い出しちゃったよ……」
「いいじゃない。別に減るもんじゃないし」
「確実に減りますっ」
顔を真っ赤にして突っ込む梓に、肆玖羅面は破顔一笑して応じる。肆玖羅面はこんな具合で、細かいことを気にしないおおらかな性格である。大らかなのはよいが、料理の味付けもちょっと大味だぞ、と稲荷神様に突っ込まれたのは、まあここだけのお話。
「まあそれはいいわ。梓、あなたここに縁結びのお願いに来たんでしょ?」
「えっ!? そ、それは……」
「隠さなくたっていいわよ。あたしにはなんでもお見通し、千里眼なんだから」
「……うぅ……はい、そうです。その通りです……」
「やっぱりね。お相手は?」
肆玖羅面は会話のペースをしっかり握ったまま、梓の願い事を明らかにしてゆく。成就させたい恋愛のお相手は誰か、梓にそう尋ねると、梓はまたもや耳の先まで顔を真っ赤にしてしまって、なかなか口に出そうとしない。悪戯っぽい表情を見せて肆玖羅面が梓の顔を覗き込むと、梓はきゅっと目を閉じて顔をそらしてしまう。梓の仕草に初々しさを感じて、肆玖羅面は「かわいい」と笑う。
しばしそうしたやりとりを続けたのち、意を決したように、あるいは諦めたように、梓が目を開いて大きなため息を付き、おずおずと想い人の名前を口にした。
「わたしが、好きなのは……ぐみちゃん、です」
「ぐみちゃんって……梓の幼なじみの、鶫ちゃんのこと?」
ぐみちゃん。この名前には聞き覚えがあった。肆玖羅面は素早く記憶を掘り起こして、それが梓と小さい頃からいつもいっしょにいる快活な少女・鶫だということに思い至った。
「はい、そうです。肆玖羅面さんは、ぐみちゃんのこと、知ってますか?」
「もちろんよ。稲荷狐の姿は見せてないけど、子供の頃からちょくちょくいっしょに遊んでたからね。梓とも仲良かったの、あたしちゃあんと知ってるよ」
「そうです、そうなんです。ぐみちゃんにはいつもやさしくしてもらってて、子供の頃からずっと遊んでくれてて、わたし、それで……」
なるほど、なるほどと、肆玖羅面がしきりに頷いて見せる。幼少の頃から一緒にいる幼なじみのことを好きになる、よくある王道話ではないか。ちょっと地味で控えめな感じのする梓にはぴったりだろう――ただ。
「ふうん、そういうことね。あたしは別にいいと思うけど……ひとつ訊いてもいい?」
「あの……わたしもぐみちゃんも、女の子じゃないか、ってことですか?」
「……あー、やっぱり気にしてるんだ。あたしが訊くより先に言ってくるなんて、よっぽどみたいね」
「はい。やっぱり、おかしいかなって思って……」
鶫は名前からなんとなく想像できる通り、れっきとした女の子だ。梓とは対照的な男勝りで頼り甲斐のある性格はしていたけれど、実は正体が男の子だとか、女の子だけど男の子として育てられたとか、あるいは男の子の心を持っているとか、そんなことはこれっぽっちもない。正真正銘、普通の女の子である。
女の子が女の子に恋愛をする。男の子ではなく、女の子。もちろん恋愛感情は誰に対しても抱きうるものだけれど、普通は異性に対して持つんじゃないかというイメージはある。梓にしてみれば、自分はおかしいんじゃないか、肆玖羅面に不審に思われたんじゃないか、そんな不安を持っていたのだ。
で、肝心の肆玖羅面はというと。
「いいじゃない、女の子が女の子を好きになったって! あたし、そういうの素敵だって思うよ」
驚くほどあっさり、ビックリするくらいすんなり、梓が鶫に恋愛感情を抱いていることを受け入れてしまった。
「あ……ありがとうございますっ。もしダメだって言われたら、どうしよう、って……」
「あたしは縁結びの神様じゃないから、いけないよなんて言ったってどうもしないよ。それに、あたしは梓と鶫ちゃん、いいと思うな。梓は鶫ちゃんと今よりもっと仲良くなって、いっしょにいろんなことしたい、そうだよね?」
「はい。わたしの『好き』って気持ち、ぐみちゃんに伝えたいんです」
鶫と結ばれたいという、梓の切なる願い。肆玖羅面は間近にそれを見て、心の底からむくむくと、熱い感情が沸き起こってくるのを感じていて。
「いいわ、あたしが一肌脱いだげる! 梓と鶫ちゃんがお近づきになれるように、いろいろがんばっちゃうよ」
「本当ですか!? 肆玖羅面さん、わたしのために……!」
「小さい頃から遊んだ仲じゃない、お安い御用よ。じゃあ早速、ここに鶫ちゃんを……」
呼んでこよう、肆玖羅面が腕まくりしてそう口にした途端、梓がぶんぶんと首を振る。
「ままま、待ってくださいっ! まだ、その、心の準備が……」
「えぇー? ひょっとして……というかひょっとしなくてもだけど、梓ったら、うまく告白できる自信無かったりする?」
「……はい。ぐみちゃんに『好きです』って言おうと思って、何度か挑戦してみたんですけど、やっぱりダメで……」
梓は極度のあがり症にして、かなりの恥ずかしがり屋だった。今ここで肆玖羅面が鶫をうまく連れてきてくれたとしても、その機会を生かす自信が持てなかったわけだ。梓の話を聞きながら、肆玖羅面はどうしてくれようかと思案する。押してダメなら引いてみろの精神で、鶫より梓を何とかせねばと考えた。
「しょうがない子ねえ。なら、あたしが付き合ったげるよ」
「肆玖羅面さんが……ですか?」
「そう。こうやって……どろん!」
くるりと身を翻すと、肆玖羅面の姿があっという間に変化して。
「わ、わ……ぐ、ぐみちゃん……!」
「あははっ。中身はあたしだよ。けど、姿形も声色も、鶫ちゃんそっくりでしょ?」
「本当だ……肆玖羅面さんが、ぐみちゃんに変身しちゃったんですね」
「そう、変化はあたしの十八番だからね」
驚いた様子の梓に、肆玖羅面がウインクして見せる。
「さて。これから梓がやらなきゃいけないことは、ひとつ」
鶫の姿のまま、肆玖羅面は梓にぐいっと顔を寄せる。梓は目の前にいるのが変化した肆玖羅面だと分かっていても、どこからどう見ても鶫そのものなせいで、思わずたじたじになってしまう。
口元ににいっと笑みを浮かべて、肆玖羅面が梓に告げる。
「こうやって変化したあたしをホンモノの鶫ちゃんだと思って、告白の練習をするんだよ」
どんぐり眼をさらに大きく見開いた梓を見て、肆玖羅面は朗らかな声をあげて笑うのだった。
鶫に変化した肆玖羅面と梓の告白練習は、翌日から早速始まった。
「どう? 梓。鶫ちゃんそのものでしょ?」
「うん……昨日も思いましたけど、ホントにそっくりです。本物のぐみちゃんにしか見えないです」
「ふっふーん。今日は気合入れて朝から鶫ちゃんをしっかり観察してたんだから。細かいところまで似せたよ」
「えっと、ぐみちゃんが『朝から誰かに見られてる気がする』って言ってたのって、もしかして……」
わざわざ言うまでもなく、肆玖羅面の仕業である。
「さあさあ、前置きはここまでっ! 梓っ、練習始めるよ!」
「あ……は、はいっ! わたし、やりますっ!」
肆玖羅面が手で柏を打って合図すると、梓は背筋をシャキッと伸ばして、鶇に扮した肆玖羅面を直立不動で見つめる。すーっ、はーっ、と深呼吸を二回。目の前にいるのは本物じゃない、肆玖羅面さんが化けた姿なんだ。胸に手を当てて何回も言い聞かせて、ついでに手のひらに「人」と書いたのを三回飲んで、やっとこさ準備が整う。
「ぐ……ぐみちゃん! きょ、今日はいい天気っ、だね!」
「ちょっとちょっとあずき、空見てみなさいよ。今日は曇り、おまけに明日は雨だって言ってるよ」
いきなり出端を挫かれて。
「そそ、そうだった……あ、ああそうそう! ぐみちゃんって……い、いっしょに……いっしょにいるとハラハラしちゃう!」
「ハラハラするって、それどういう意味よう。さっきからなんか変だわあずき。熱でもあるんじゃないの?」
全然会話が成り立たず。
「だ、大丈夫だって! わたしって健康が取り柄だし! それよりぐみちゃん、あのね、その……」
「もう、今度はどうしたの?」
「えっとえっと……ぐ、ぐみちゃん……! す……すき……」
「……すき?」
「すきっ、スキー行きたいねっ! 雪山でぱーっと滑るの! ぱーっと!」
「スキーのシーズンまではまだまだ掛かるよ。だいたい、あずきってスキー苦手だったじゃない」
「う……うん……去年は木にぶつかって気絶しちゃったし……」
想いを伝えるなんて、夢のまた夢。
とまあ、全体的にこんな有様で。
「……あーっ! もう! こんなんじゃぜんっぜんダメ! ダメダメだよっ!」
ついに業を煮やした肆玖羅面がくるりと身を翻して、小袖に緋袴、尖った耳に大きな尻尾の、いつもの姿へ戻ってしまった。梓はがくんと肩を落として、肆玖羅面から聞かされた「こんなんじゃダメ」という言葉にすっかりしょげてしまう。
「こんなんじゃ鶇ちゃんに怒られちゃうよ! もっとしゃんとしなきゃ!」
「うぅ……ご、ごめんなさい……どうしても緊張しちゃって……」
ふんぞり返って呆れ顔で自分を見つめる肆玖羅面の姿を目にして、梓がますます縮こまってしまった。自分が不甲斐なくて、情けない気持ちでいっぱいになる。はぁ……とため息をついてから、おずおずと顔を上げる。
「肆玖羅面さんが、せっかく応援してくれてるのに……わたし、ずっとこんな調子で……」
がっくりと落胆する梓を見た肆玖羅面が、表情をふっと緩めて見せて。
「ま、仕方ないよ。まだまだ始めたばっかりだしね」
「肆玖羅面さん……」
「そんなに落ち込まないで、今は練習あるのみだよ。誰だって、最初からうまく行くなんてことはないんだからさ」
やわらかな笑顔を浮かべると、梓を力強く励ましてやる。
「梓は愛嬌あるんだから、後は度胸、度胸だよ。えいやーっ! って、思いっきりぶつかってく感じだね。それがあれば、もう怖いものなしだって! ぜったい!」
「……はい! 肆玖羅面さん、ありがとうございます!」
「よーしその意気その意気! 縁結びは本職じゃないけど、あたしも頑張るからね!」
再び元気を取り戻した梓を見た肆玖羅面が、口元に手を当てて同じく笑うのだった。
それから梓と二人で告白の練習をしたり、ちょっとした雑談をしたりしているうちに、陽が沈もうとしているのが見えた。神社の裏で座っていた梓がすっくと立ち上がり、そろそろ帰らなきゃと口にする。
「肆玖羅面さん、今日はありがとうございました! また明日も来ます!」
丁寧にお辞儀をして去っていく梓を見送ってから、肆玖羅面がひとり、物思いにふける。
(梓、かぁ……昔っから引っ込み思案で、泣き虫だったっけ)
(男の子にいたずらされて泣き出しちゃったから、あたしがその子に仕返しした……なんてこともあったなあ)
(あんまり気弱なもんだから、もどかしく思うことも少なくなかった)
(だけど――お世辞なんかでもなんでもなくて、可愛いのは変わってない)
(ずっと昔から、可愛いなって思ってたんだよね、梓のこと)
梓と楽しい時間を過ごせたことに満足しつつ、肆玖羅面がぱっと立ち上がる。
さあ、お夕飯の支度しなきゃ。
小袖と緋袴をぱっと払って土埃を落とすと、社の中へと消えていった。
それでもって、翌日のこと。
「ぐ、ぐぐっ……ぐみ……グミキャンディー!」
「だめだこりゃ」
神社の裏手に梓と肆玖羅面。肆玖羅面は例によって鶫に変化して、梓が告白するための練習台になってあげているけれど、相も変わらず緊張しきりの噛みまくりで、告白なんて夢のまた夢。肆玖羅面は鶇の姿のまま、がっくり肩を落とすばかり。
結局しどろもどろになってしまった梓を見て、肆玖羅面がはーっとため息を一つ。くるんと身を翻して、いつもの姿へ早変わり。変化をやめた肆玖羅面を目にして、梓はますます気落ちしてしまうのだった。
「梓ったら、いくらなんでも緊張しすぎだよ。なんかもう、ずーっとガチガチだし」
「でも……やっぱりきちんとしなきゃって思いますし……」
「気持ちは分かるけど、これじゃいつまで経っても同じだよ。もう少し自分に自信を持ってよね」
「うう……はい……」
「そのあがり症で絶対損してるよ。梓は愛嬌あるし、みんなに好かれてるんだから、もっとどーんと胸を張っていいんだよ」
最初にちょっとばかりお説教をかまして、最後はちゃんと励ます。意識していたかはともかくとして、肆玖羅面の言葉は梓を勇気づけるものになっていた。しゅんとしていた梓も元気を盛り返し、次こそはしっかりやって見せると気持ちを新たにするのだった。
さてさて、ひとしきり練習をして、肆玖羅面は少しばかり休憩を入れたくなった。
「梓、一息入れよっか。いっしょにお社に入ってくれる?」
「えっ? 入ってもいいんですか?」
「もちろんだよ。稲荷狐のあたしが入っていいって言うんだから、お墨付きだよ」
肆玖羅面に手を引かれてお社の中へ足を踏み入れた梓は、途端に驚きの声を上げた。
「あれ……!? お社の中って、こんなに広くて明るかったんですか!?」
「その通り。普通の人には狭くて薄暗い部屋にしか見えないけど、神様とその眷属にはこんな風に見えてて、これがお社の本当の姿、ってわけ」
暗くてじめじめしている、そんなイメージを抱いていたお社の中は、明るく清潔で広々としていて、障子や襖を隔てていくつも部屋がある大きなお屋敷の様相を呈していた。肆玖羅面曰く、普段見せている姿が「人様向け」のもので、実際はこんな塩梅だという。神様は人様の空間認識には全然とらわれないんだよと、ちょっと得意気に言ってみる。
「さあさあ上がって上がって。向こうのお部屋がお座敷になってるから、先にくつろいでてちょうだい。あたしはお茶を淹れてくるからね」
「あ……はい。ありがとうございます」
肆玖羅面に言われるまま靴を脱いで玄関を上がると、梓は恐る恐る襖を開いてお座敷へ進んだ。
だだっ広いお座敷で座布団を二つ――ひとつは自分のもの、もうひとつは肆玖羅面のもの――を敷いて、女の子座りでちょこんと腰を落ち着ける。そわそわしながら待っていると、やがて肆玖羅面が顔を出した。
「お待たせー! お茶とお饅頭だよ! あっ、梓ったら、座布団敷いててくれたんだ。ごめんね、気付かなかったよ」
「そんな、お気になさらないでください! お社へ上げて休ませてもらっただけでも、すごくうれしくて……」
「梓は愛嬌があるだけじゃなくて、気配りもできるんだね。鶇ちゃんがうらやましいよ」
梓の心配りに感激した肆玖羅面がしきりに誉めそやすと、梓は顔を赤くして俯いてしまう。その仕草が可愛らしくて、肆玖羅面はますます頬を緩ませるのであった。
肆玖羅面が持ってきたお茶とお饅頭を梓にすすめてあげる。すすめられた梓はまずお饅頭をそっと手に取って、ぱくり、と少し小さめにかぶりつく。
「これ……おいしいです! 皮がもちもちしてて、中の粒あんも甘くて……」
「おいしい? よかったよ。これね、あたしが作ったんだよ」
得意満面な肆玖羅面。饅頭がお手製と聞いた梓は、思わず目をまん丸くした。
「肆玖羅面さんって、お料理されるんですね……!」
「もちろんさ。あたしがいつも稲荷神様のご飯を作ったげてるんだから」
「えっ? やっぱり、神様でもご飯を食べないといけないんですか?」
「その通り。神様も仏様も、ご飯を食べなきゃ力も出ないのよ」
お手製のお饅頭をひょいと手に取ると、お口を開けてぱくんと食べる。我ながらおいしいのか、肆玖羅面の大きくてふさふさした尻尾がしきりにゆらゆら揺れている。嬉しそうにお饅頭を頬張る姿を、梓が微笑ましそうに見つめている。
「うふふっ」
「ん? 梓ったら、急に笑ってどうしたのよぅ」
「そんな、たいしたことじゃないです。ただ、お饅頭を食べるときの肆玖羅面さん、可愛いなって思って」
梓からこともなげに「肆玖羅面さんが可愛い」なんて言われたものだから、言われた肆玖羅面は思わず目をまん丸くしてしまって、ぱちぱちとしきりに瞬きをして見せる。
「あっ、あたしが……可愛い、なんて……!」
頬はほんのり朱に染まって、鼓動はいつもより少し早くなって。あまりにあっさり言われてしまったものだから、肆玖羅面はかえって強く意識してしまうのだった。
「んもぅ、梓ったら……鶫ちゃんにはてんでダメなのに、あたしにはずいぶん大胆なのね」
「わ、えっと、そういうわけじゃ……!」
肆玖羅面に茶化されると再び顔を真っ赤にして、わたわたと手をせわしなく振るジェスチャーを見せる梓。彼女の姿を、肆玖羅面は笑いながら見つめていた。
さて、日は変わりまして、日曜日のこと。
壬生町の駅前にある商店街は、このご時世にしては珍しく、いつも人通りが多く活気に満ちている。近くに競合するようなショッピングセンターが無いということもあったけれど、それよりももっと単純に、壬生町に住む人々がこの商店街を愛しているというのが大きかった。
商店街は駅に近付くほど小奇麗な今風の作りになっていって、逆に離れるほど昔ながらの雰囲気が強くなっていくという並びになっている。その中でも終わりの方、風雨に晒されて年季の入った青緑色の雨避けに「青崎青果店」と書かれた店先で、店主のおばさんとお若い主婦が買い物をしている風景があった。主婦の方は今時珍しい竹で編んだ買い物かごを提げて、どの野菜を買おうかあれこれ思案している。
「えーっと……この玉葱と人参、それからお茄子!」
「はいはい、いつもありがとうね。今日はカレーでも作るのかい? 肆玖羅面ちゃん」
「もう、おばさんったら。どうして分かっちゃうわけ? いつも全然違う姿で買い物しに来てるのに」
「だって肆玖羅面ちゃん、いつもこの時間に来るんだもの。それに姿形を変えたって、同じ買い物かご使ってたらすぐ分かるわよ」
お察しのとおり、主婦の正体は変化していた肆玖羅面だった。
肆玖羅面はこんな風に変化して買い物をすることがほとんどで、気分によっていろいろと姿を変えていた。駅に近い、比較的新しいお店だと気付かれないことも多かったけれど、青崎青果店のように昔からあるお店の人には、どんなに工夫しても見破られてしまうことがほとんどだった。もちろん、見破られたからどうなるということも無かったし、ましてや買い物を断られるようなことは決して無かった。肆玖羅面はお茶目で悪戯好きな稲荷狐だけど、義理堅い性格で人を困らせるようなことは絶対にしないと信頼されていたからだ。
「今度こそバレないように変化してみせるんだから! 覚えててよねっ」
「はいはい。また来てちょうだいね」
捨て台詞を吐いて立ち去る肆玖羅面に、ニコニコ笑顔で応じるおばさん。ここ壬生駅前商店街ではよく見られる、お馴染みの風景のひとつだった。
うまく変化できてるはずなのになあ、とため息混じりにつぶやきながら、肆玖羅面が買い物を提げてぷらぷらと歩いてゆく。彼女が人前に変化して現れるのは、前にも言ったとおりある種の「不思議さ」を守るためということもあったけれど、何より変化そのものが楽しいということが一番大きかった。どうすれば本物の人のように見えるか、自然な仕草ができるか。それを考えて実際の変化へ活かすのは、肆玖羅面の趣味のひとつだったのだ。
後は鶏肉と付け合わせの福神漬けを買えばいいかな、なんて考えながら歩いていると、目の前で小学生の女の子二人が立ち止まっているのが見えて。
「ここだよね? ほら、『裏商店街』につながってるって……」
「うん……こないだキクちゃんが言ってたの、私聞いたし」
二人は商店と商店の隙間にできた小さな道を指差して、今にも奥へ進まんとしていた。路地裏は昼間だというのにやけに薄暗い――もっと正確に言うと、不自然なほどに光が届いていなくて、文字通り一寸先は闇と言うべき様相を呈していた。けれど少女たちは興味津々で、行ってみようよ、なんて言い合っている。
肆玖羅面の表情が見る見るうちに曇った。これはいけない、小さな声で口にして、すぐさま二人の側まで駆け寄った。
「ちょっと待って! そっちに行っちゃだめだよ!」
「えっ?」
声を掛けられた小学生二人はきょとんとして、素早く走ってきた肆玖羅面をまじまじと見つめている。
「大人の人から言われなかったの? 路地裏は危ないから、入っちゃいけないって」
「うーん……雪枝ちゃん、言われたことある?」
「なんか、おばあちゃんが言ってた気がするけど、よく覚えてないよ。サヤちゃんは?」
「あたしも聞いたような、聞いたこと無いような……」
歯切れの悪い回答をする二人を見かねて、肆玖羅面が腰に手を当てて姿勢を正す。
「じゃあ、お姉さんがここでハッキリ言うよ。路地裏には絶対に行っちゃダメ。足を踏み入れたら最後、もう二度と戻って来られないんだから」
「戻って来られないって、どうして?」
「簡単な話だよ。悪い神様がいてね、入ってきた人間を酷い目に遭わせるから。無理やり働かせたり、虫みたいな体に変化させたり、手足を切り落とされたりするの。帰ろうにも、帰れなくなっちゃうんだから」
肆玖羅面がさらりと「無理やり働かせる」「虫みたいな体に変化させる」「手足を切り落とす」などと口にしたのが抜群に効いたのか、女の子二人は「ええっ」と顔を見合わせて、いっしょに仲良く震え上がった。
「分かった? 軽い気持ちで入り込んだら、一生後悔することになるんだよ」
「ゆ、雪枝ちゃん……やっぱりやめとこっか……なんか、ホントにそういう神様いそうだし……」
「うん、虫になっちゃうのは……さすがに気持ち悪いよ」
「そうそう。さっ、こんな辛気くさい場所からはおさらばおさらば! 子供はお天道様の目の届く、明るい場所で遊ぶのが一番だからね!」
明るくハリのある声で促されて、二人も納得したようで。人通りの多い駅方面へと元気よく駆けていった。肆玖羅面はほっと一安心といったところで、ほう、と小さく息をつく。少しばかり間を開けて、少女たちが見ていた路地裏への道に目を向ける。
「朽葉の神様ったら、今度はここを入り口にしたみたいだね。まったく、お行儀が悪いんだから」
「それにしても、あんな小さな子供まで誘って引き込もうとするなんて……稲荷神様にお伝えして、壬生に朽葉の瘴気を持ち込まれないようにしなきゃね。神通網にも流しとこっと」
肆玖羅面の口にした「神通網」というのは、主に黄蘗区内の神様やその眷属の間で使われている連絡網というか、掲示板のようなものだ。どこからでも見られる・書けるというわけではなく、区内で活動する神様だけが使える仕組みになっている。他の区にもよく似たものはあると聞いてはいるが、相互利用されているわけでもなく、あくまで閉じた世界なのが特徴だ。
呆れ顔をしながら路地裏への道を見ていた肆玖羅面が、ふと梓の顔を思い浮かべる。
「そうだ、梓にも言っとかなきゃ。あの子は純粋だけどちょっとそれが過ぎちゃうから、油断してたら連れ込まれちゃうわ」
「でも……ああ見えて、梓も結構女の子してるのよね……」
先日梓が見せた、さりげない大胆さ。鶫にはまるっきり何も言い出せそうに無いのに、自分にはあっけらかんと「かわいい」などと言えてしまうアンバランスなところが、肆玖羅面にはかえって「女の子らしい」と思えてならなかった。
ちゃんと面倒見てあげなきゃ――なんて、肆玖羅面がお姉さん気分で考えていると。
「ほら、こっちこっち! 向こうの駄菓子屋さんだよ、前言ってたの」
「あっ……うん、すぐ行くよ。待って待って」
その梓と鶫とちょうど同い年くらいに見える別の女の子が二人、商店街の終わりにひっそり軒を構えている小さな駄菓子屋さんへ向かってぱたぱたと走っていく姿が目に映った。
先んじて駄菓子屋さんへ向かっているのは、眼鏡を掛けたおさげの子。その後から付いてきているのは、ショートカットの女の子。声色からして――おさげの子は活発な元気娘さんで、ショートカットの方は幾分おっとりしたタイプみたいだ。走ってきたおっとりショートカットさんの手を取って、仲良く揃って駄菓子屋さんへ入店する。
梓と鶫の姿形をそのままに、性格だけ入れ替えるとあんな塩梅になりそうだ――なんて考える肆玖羅面をよそに、駄菓子屋さんでも二人の仲睦まじさは変わらない。宝探しでもするみたいに、他ではみられないちょっと変わった駄菓子を取り上げては朗らかな声を上げて笑いあう。体をくっつけあったり、手をつなぎ直したり、本当に仲良しさんだ。
(いつか……梓も、鶫ちゃんといっしょにあんな風になるのかな)
二人に梓と鶫の姿を重ね合わせていたせいか、肆玖羅面はふとそんなことを考えるに至った。手をつないで歩く梓と鶫、ちょっとしたことで笑いあう梓と鶫、いっしょにおいしいものを食べる梓と鶫、肩を寄せ合って眠る梓と鶫。想像すればキリが無い。梓と鶫がちゃんと相思相愛になって結ばれれば、きっとすごく幸せに違いない。
梓も鶫も幸せになれる、それは、疑う余地の無いことだけれど。
(梓には幸せになってもらいたいし、もちろん鶫ちゃんだって同じ)
(でも……どうしてかな。ほんの少しだけ、もやもやしたものが残るのは)
胸に手を当てて、肆玖羅面が思いを巡らせる。梓の恋路を純粋に応援しているはずなのに、彼女の告白が上手く行くように手助けしているはずなのに。梓のことを考えれば考えるほど、どこか割り切れない気持ちが残ってしまうのは、どうしてだろうか。梓のことを思う、ただそれだけで、気持ちがそわそわしてしまう。
道端に突っ立ったままぼんやり考えていた肆玖羅面だけれど、なんだかそんなことをしている自分がもどかしくなってきて、ここで頬をぺちぺちと叩いて気分を切り替えた。
「あーもう、あたしらしくないなあ! なーにしょうもないこと考えてんだろ」
「梓と鶫ちゃんが幸せになる、それなら万々歳じゃない。迷うことなんてないない!」
あたしは壬生の稲荷狐、ここに住まう人々の幸せを守る、神様の仲間なんだから。あたかも自分に言い聞かせるように、肆玖羅面が心中でそう呟く。
「さあ、神社へ帰って、稲荷神様のためにカレーを作らなきゃ。稲荷神様を満足させるには、今から仕込んどかないと間に合わないよ」
肆玖羅面が買い物かごを持ち直して、神社の方角へ向き直ると、そのまますたすたと早足で歩いていく。
駄菓子屋さんから響く少女二人の声がだんだんと小さくなっていって、やがて少しも聞こえなくなるまでは、さして時間は掛からなかった。
大皿にちょっと多めに六分ほどご飯をよそって、具沢山のカレーをお皿の空いたスペースへ丁寧に流し込む。ついでに景気づけとばかりに、福神漬けをちょっと多めに添える。盛り付けの済んだお皿を丁寧にちゃぶ台へ置いてから、奥に向かってそうっとスライドさせる。
「はい、稲荷神様の分ですよ。おかわりもたくさんありますから、いっぱい食べてくださいね」
「うむ。大義であったぞ、肆玖羅面。小生の好物である茄子もきちんと入っているようだな。気が利くではないか」
「もちろんですよー。あたしもお茄子好きですし」
自分の分もしっかり用意してから、肆玖羅面が手を合わせて「いただきます」をする。早速銀のスプーンを手にして、できたてのカレーライスを食べ始めた。
肆玖羅面と稲荷神様のお皿がどちらも半分ほど空いた頃、稲荷神様がおもむろに声を上げた。
「其れはさておき肆玖羅面よ。そちは近頃、人様に何やら節介を焼いているようだな」
「あ、知ってました?」
「境内で女子二人が声を上げて騒いでおれば、社の中にも聞こえてこようものよ」
「あはは、それもそうですよね。あの子、梓っていうんです。昔から時々いっしょに遊んでて、よく知ってるんですよ」
「ああ、あの女子か。して、そちはどのような節介を焼いておるのだ」
「好きな女の子がいるんです。幼馴染で、鶫ちゃんっていって。もしかして、鶫ちゃんのことも知ってます?」
「然り。そちが知っていて小生が知らぬ者はおるまい」
そりゃそうですよね、なんて言ってあっけらかんと笑う肆玖羅面に、そちのそういうところは昔から変わらぬと、稲荷神様が苦笑する。
「それで、あたしがあれこれ手を尽くして、梓の恋路を応援してるんです」
「そちが変化して芝居のようなことをしているのも、その一環か」
「はい。告白の練習してるんですけど、梓ったら上がっちゃって、なかなか上手く行かなくて」
「成程、境内ではそのようなことをしておったか。処で肆玖羅面よ、梓は今幾つだ」
「ええっと、確か十六か十七だった気がします。それがどうかしましたか?」
「大したことではない。中学生にも見えるが、今は高校生か」
「そうですね。今はまだ受験もなくて、のんびり学生生活を満喫してるみたいです」
稲荷神様が再びカレーライスを食べ始める。三口ほど食べてから一呼吸置いて、再び肆玖羅面に問いかけた。
「肆玖羅面よ。梓の恋路を手助けするのは結構だが、相手の鶫とやらが梓をどう思っているかは把握しておるのか」
「あ。そういえば、そこはあんまりよく分かってないかも。仲がいいのは間違いないんですけど」
「ならば、其処は確り押さえておくべきだろう。顔の広いそちならそれも容易かろう」
「ですよねー……というか稲荷神様、結構食いついてきますね。あ、カレーの話じゃなくて、梓のことですよ」
梓と鶫の話に、稲荷神様は興味を持ったようだ。肆玖羅面はそれをつぶさに感じ取って、カレーライスを食べる手を休めてグリーンサラダへ手を伸ばしている稲荷神様へ言葉をかける。
「惚れた腫れたの話は、此処に居てはそうそう聞けぬからな」
「ここ嘉山神社は、豊穣と商売繁盛が本業ですからね」
「左様。然し壬生の人様であれば、小生に拠らずとも充分に商いができよう。敬われるのは有難いことだが、些か暇を持て余しておる」
「切羽詰まったお願い、少ないですしね。でも、縁結びの神様がいる明袋神社、毎日大変みたいですよ」
「そちの云う通り、人様の縁結びは生業とするには少々荷が重い。神通網にも悩みの投書が絶えぬしな」
「神様だって胃も痛くなるし、板挟みにだって遭うんですよね」
稲荷神様がカレーライスを平らげたのを見て、肆玖羅面がすばやくおかわりを用意する。大儀である、と一言礼を言い、稲荷神様は意気揚々と二杯目を食べ始めた。本当に好物なのだろう。稲荷神様の旺盛な食欲を見て、肆玖羅面も満足げな表情を浮かべている。
「ところで、肆玖羅面よ」
「どうしました? 福神漬けもっと入れます?」
「そうではない。別の話だ」
不意に呼び掛けられた肆玖羅面が、稲荷神様にきょとんとした目を向ける。
「先週手に入れておくよう頼んだ『青色円盤』はどうしたのだ。小生は早う続きが観たい、いなりに会いとうて堪らんぞ」
稲荷神様、いなりに会いたいの巻。
「あ」
「おい、肆玖羅面よ。まさか忘れておったというのか。この神社は不幸にしてMXが入らぬゆえ、円盤を待つしか手が無いのだぞ。承知しておるのか」
「まあ、ここ東京近郊じゃないですし……」
「其れは百も承知じゃ。そんなことより肆玖羅面よ、円盤はどうしたのだ。即刻耳を揃えて差し出せい」
「えーっと……あの、あたしが変化しますから、勘弁してくれませんか? ほら! こうやって……」
肆玖羅面が立ち上がってくるりと身を翻すと、そこには制服を着た女子中学生さんの姿が……!
「たわけ」
「はいぃ」
稲荷神様に一喝された肆玖羅面、元に戻るや否やあっという間に十分の一くらいのサイズまで縮小。回避率もアップしそう。
「そちの変化なぞもう飽きるほど見せられておるわ。今更小生に見せてどうなるというのだ。大体稲荷狐が変化しても当たり前過ぎて何も面白くないではないか」
「ごもっとも……」
「嗚呼、斯様な有様では、小生がいなりに会えぬではないか。如何にしてくれようか」
というか、稲荷神様自体が「お稲荷様」なんだから、もうそれでいいじゃん……と肆玖羅面が心の片隅でちょっとだけぼやいてみるも、稲荷神様が楽しみにしていたのは間違いないので、とりあえず静かに反省しておくことにした。
このようなやりとりを経て、口調を元に戻した稲荷神様が何気なくつぶやく。
「ふむ。しかし肆玖羅面よ、そちも変化が十八番であったな」
「そりゃあもう! 十八番も十八番、大得意ですよ。なんたってあたしの『肆玖羅面』っていう名前は、『四十九の顔』に由来するくらいなんですから!」
「知っておるわ、小生がそのように名付けたゆえな。であれば肆玖羅面よ、その得意の変化を活かして、鶫に直接心境を問い質してはどうか」
「あ! そっか! 全然関係ない子に変身して、鶫ちゃんから直接聞き出しちゃえばいいんだ!」
「左様。そちならその程度の芸当は朝飯前であろう」
変化を使って他人に成りすまし、鶫が梓にどんな感情を抱いているかを聞き出す。考えてみればなんてことはない作戦だったが、梓にばかり目が向いていた肆玖羅面にとっては新鮮な提案に感じられた。
「鶫と話をするついでに、そちが先程神通網に流しておった亜空路に、この封穴符を貼付しておくのも忘れるでないぞ。また別の場所に穴を開けに来るだろうが、空いた穴は塞がねばなるまい」
「はい! お任せください!」
「此れで亜空路は今月に入ってもう四ツ目になる。朽葉の不埒な物の怪供め、分を弁えておればよいものを」
稲荷神様は最後に少々口調を改め、肆玖羅面が見つけた「裏道」――神様の間では「亜空路」と呼ばれている――を閉めておくよう彼女に命じたのだった。
商店街を颯爽と歩く、ショートカットの女の子。
「今日はどこ行こっかなー。特に用事もないし、ぶらつくのもアリかな。あずき、今日は出かけるって言ってたし」
歩いているのは、渦中の人・鶫だった。彼女が今しがた口にした通り、梓は出かけていてここにはいない。他に都合のつく友達も見当たらなかったので、今はこれといって目的もなく商店街を歩いている最中だった。
そんな鶫に密かに視線を投げかける、ほぼ同じ背格好の影があった。鶫が歩いて来るだろうルートへ先回りし、彼女から見えない位置からちらちらと様子を伺っている。ここへ鶫が来たらああして、それから……と何やらプランを立てているようだ。鶫はまるで気付くことなく歩き続けて、文具屋の前に差し掛かった。
今だ、とばかりに、隠れていた影が動いた。
「あっ、つぐみー! 久しぶり!」
「あれ? 仁美じゃない。ひさしぶりー」
仁美、と呼ばれたのは、肩まで掛かるくらいのゆるいウェーブの掛かった髪の女の子だった。姿形を見る限り、特に怪しいところやおかしな部分は見当たらないように見える。
――が、実は。
(しめしめ。うまくいったみたいだね。仁美ちゃんはいいチョイスだったみたいだよ)
その正体は、仁美に変化した肆玖羅面だった。
先日稲荷神様からもらったアドバイスを受けて、早速鶫から本心を聞き出そうという作戦に打って出たのだ。仁美は梓や鶫とは顔見知りで、話しかけても不審に思われることはない。それでいて、二人とは通っている高校が違うためにしばらく会っていないこともつかんでいた。話題を昔話へ持っていかなければ、話している中で尻尾を出してしまう可能性も低くできる。もちろん、肆玖羅面が話し方や仕草を把握していることは言うまでもない。まさに理想の人材だったのだ。
「最近元気してた? こっちは勉強忙しくて大変だよ」
「うーん、こっちはそこそこってとこかな。遊びに部活に勉強に、あとは……まあ、そんなところかな」
そしてご覧の通り出だしは順調、すんなり仁美だと信じてもらうことに成功した。後は当たり障りのない世間話をしつつ、梓についての話題を切り出すだけだった。
最近天神様が経営していた本屋が閉店しちゃったとか、隣のクラスに産土神様の子供がいたとか、この間ドトールで三丁目の道祖神様が居眠りしてたとか、黄蘗区や壬生町にはよくある――そう、壬生町ではこんなことがいつでもどこでも起きているのだ――他愛ない話をしながら歩いていた鶫と仁美(肆玖羅面)だったが、ここで仁美、もとい肆玖羅面が動いた。
「そういえば鶫、梓とは最近会ってる?」
「会ってるよ。というか同じ学校に通ってるから、毎日顔合わせてるよ。クラスも隣同士だし」
「あっ、そう言えばそっか。卒業してから結構経つけど、変わってない?」
「相変わらず、ってところかな。そこがあずきらしいっていうか、いいところだと思うけどね」
そう言えば、鶫は梓のことをずっと「あずき」と呼んでいる。昔読んだマンガで、ちょうどこの通りのあだ名をつけられているキャラがいた――という話を、梓と鶫がしていた記憶がある。可愛らしくていいあだ名じゃない、ちょっと甘ったるい気もするけど、なんて思ったものだ。
昔話はともかく、鶫は梓にいい感情を抱いているのは間違いない。元々友達同士なのだから当然といえば当然かも知れないけれど、肆玖羅面にはまず最初のところでつまづかないかという懸念があったのだ。
「けどさ……」
「どうしたの? なんか沈んだ顔しちゃって」
安心したのもつかの間、鶫の表情に暗い影ができる。仁美、もとい肆玖羅面が素早く食いついて、原因を聞き出そうとする。
「うーん、大したことじゃないんだけどさ。あずき、最近なんだか様子が変で」
「様子が変って、どんな風に?」
「なんかこう、あたしを避けてるみたいな感じでさ。無視されたりとか、そういうのじゃないよ。話しかければちゃんと返してくれるし、あずきの方から話してくれることもあるし。けど、やっぱりなんか変な感じなんだ」
「あれかな……こう、鶫が話しかけると、舞い上がっちゃうみたいな?」
「うん、そんな感じ。うまく返事ができないっていうか、キョドっちゃうことが多くて……あたし、あずきに何かしちゃったのかな、って。そんな記憶、全然無いんだけど」
「なるほどねー。梓ったら、一体どうしちゃったのかしらね」
「ホントだよ。前はあんな風じゃなかったのにさ」
学校にいるときの梓の様子がありありと浮かんでくるようだと、肆玖羅面は心の中でにやりと笑った。鶫に変化した自分の前でさえあの調子なのだから、本物を目の前にしたときの反応は容易に想像がつく。
肆玖羅面が算段を立てる。ここからさらに踏み込めば、鶫から本音を聞き出せるに違いないと踏む。こういうときは思い切りアクセルを踏み込むのが、肆玖羅面のやり方だった。
「じゃあさ。鶫の方は、梓のこと、どう思う?」
「うーん、それは……」
鶫が言い淀んだのが分かる。梓に対して単純に「仲のいい友達」という感情を抱いているのなら、ここでわざわざ逡巡する必要は無いはずだ。とどのつまり、鶫は鶫で梓に対していろいろ思うところがあるということに他ならない。その感情の性質をきちんと理解しているのか、はたまたまだ言葉に言い表せるほどはっきりしたものではないのか。
鶫からの答えを期待を膨らませて待ちながら、けれど肆玖羅面は心の片隅で、どこか割り切れない感情を抱いていることに気付いてしまって。
(もし……これで鶫ちゃんが『梓のことが好き』って言ったら)
(それはもう、梓と鶫ちゃんは両思いで、間に割って入るなんてことはできなくて)
(でも、鶫ちゃんから好きって言ってもらうのが、梓の願いだから)
(願いが叶うんだったら、何も悪いことなんてないはずなのに)
梓は鶫が好き、鶫は梓が好き。もしそうだとしたら、これ以上幸せなことはないはずだ。梓が鶫と結ばれること、自分はずっとそう望んでいたはず。梓の願いを成就させるのが、壬生の稲荷狐である自分が成すべきことのはず。
なのに、この空虚な感情は、どこから湧いてくるのだろう?
「あたしは、あずきのことを……」
「鶫……」
肆玖羅面が自問自答する。本当にそれが自分の願い? 心からの願い? 本音の願い? 問えども問えども、答えは出てこない。浮かんで来るのは梓の顔。内気で弱気で引っ込み思案、けれど愛嬌があって女の子らしい、あの愛しい少女の顔。
愛しい。意識せぬままその言葉を使って、肆玖羅面がはっとする。
(あたし、もしかして――)
心の内の動揺が最高潮に達した、まさしくその時。
(……って、ちょっと待って? 向こうから歩いてきてるの……仁美じゃない!?)
それを軽々と吹き飛ばすくらいの光景が、肆玖羅面の目に飛び込んできた。肆玖羅面と鶫の前方から、本物の仁美が歩いてきていたのだ。何度瞬きしても変わらない、正真正銘本物の仁美が、今まさにこちらへ向かいつつある。肆玖羅面は顔面蒼白になった。このまま仁美と鉢合わせしてしまえば、まず間違いなく大変なことになる。
どうにかこの場を乗りきらなければならない。切羽詰まった肆玖羅面、こうなりゃヤケとばかりに、鶫をどうにか煙に巻くことを選んだ。
「……あーっ! ち、ちょっと鶫、上見て上!」
「えっ? 上って……空?」
「ほら! 空飛ぶスパゲッティ・モンスターが!」
いくら何でもつく嘘を考えろと言いたいところだが、鶫の目を空に釘付けにするという目的は達成できた。あとはずらかるだけとばかりに、肆玖羅面がそそくさとその場から立ち去った。
「ちょっと仁美、空飛ぶなんとかモンスターってどこに……」
「あっ、鶫ー! ひさしぶりー!」
「……えっ?」
仁美に変化していた肆玖羅面が姿を消した直後、本物の仁美が鶫に話しかけてきた。鶫はわけが分からず、きょとんとした表情をしている。
「えっ? 仁美、今なんて……」
「何って、だから、ひさしぶりー! って。どしたの鶫、狐につままれたみたいな表情してさ」
「でもだって、さっき仁美、空飛ぶなんとかモンスターって……」
「はあ? もう鶫ったら、お昼なのに夢でも見てたんじゃないの? そんなことよりさ、駅前に新しいケーキ屋ができたんだって! せっかくだからいっしょに行こうよ、ね?」
クエスチョンマークを大量に浮かべる鶫を引っ張って、仁美は強引にケーキ屋まで連れていってしまうのだった。
そんな様子を見ながら、物陰に隠れた肆玖羅面が冷や汗を拭う。
「はー……危ないところだったよ。あのまま気付かなかったら、全部ご破算になってたかもね……」
「まあ、どうにかごまかし通せたから、大丈夫かな……仁美ちゃんが思ってたよりもイケイケで助かったよ」
仁美が肆玖羅面の思っていた以上に押せ押せで――もしかすると、高校生になってキャラが変わったのかも知れないけれど――、鶫が疑問を差し挟む余地をちっとも与えなかったことが幸いだった。細かいことをあれこれ訊ねられたら、確実に大変なことになっていただろう。
物陰に隠れていた肆玖羅面が、無難なお姉さんの姿に変化してから表通りへ戻る。一悶着はあれど、鶫から梓への気持ちを聞き出すことには成功したことに違いはない。肆玖羅面の想像通り、鶫もまた梓に特別な想いを抱いていたようだった。
(そうなると……鶫も、梓のこと好きなのかな)
鶫も梓のことが好き。これならきっと、梓の告白は成功するだろう。もう少し練習してきちんと言えるようになれば――いや、むしろ今の不器用なままでも、鶫は首を縦に振ってくれるに違いない。
それですべてうまくいく、思ったとおりになるはず――なのに。
(……どうしてだろうなあ、ホント、どうしてだろ……)
肆玖羅面の心には、今にも秋雨が降り出しそうな、分厚い雲が迫り出してきていて。
「――だから、ぐみちゃん。わ……わたしと、つ、つき……つきあってくださいっ!」
「うん。まあまあ、ってところかな。もうちょっとすんなり言えたら、鶫ちゃんも『おおっ』ってなってくれると思うよ」
「わあ……! ありがとうございます!」
嘉山神社の境内にて、鶫に扮した肆玖羅面と、彼女を本物の鶫に見立てた梓が、例によって告白の練習をしていた。梓は初期のカミカミっぷりがだいぶ改善されて、それなりに形ができてきている。まさしく練習の成果と言っていい。
「梓ったら、やればできるじゃない。もう後ちょっとだね」
「はい。これも、肆玖羅面さんが手伝ってくれたおかげです!」
「そっか――あはは、それもそうだね」
屈託のない笑顔で、梓が「肆玖羅面さんが手伝ってくれたから」と言う。
本当に、梓の言う通りだ。自分が練習を手伝ったから、梓は後一歩で鶫に告白できそうなところまで来られた。
自分が梓を手伝った、から。
「明るく言えるようになってきたからかな。梓、ずいぶん可愛く見えるよ」
「そんな……褒めたって、何も出ませんよ」
「もう、何か欲しいから言ってるわけじゃないんだから」
梓を可愛いと思う。それ自体は、前々から思っていたこと。けれど最近「可愛い」の意味が、少し変わってきたように思う。言葉では表現しづらいけれど、もっと私的な感情だってことは分かる。
それは、すなわち。
「これならきっと、鶫ちゃんも梓にオッケー出してくれるよ。あたしが太鼓判押しちゃうんだから!」
「肆玖羅面さんにそう言ってもらえたら、なんだか本当にいけそうな気がします!」
梓は本当によく笑う。混じり気のない綺麗な笑顔、見れば見るほどまぶしくて、まっすぐ見ていられなくなる。
もどかしくて、じれったくて、何より――切ない。
(あたしも、梓のことを可愛いって思ってる。素敵だって思ってる……)
(……この気持ちって、もしかして)
好き。
その言葉が、ただ一つの正解。
(……どうしよう)
梓と話を合わせながら、心中で深く深く思い悩む。
(あたし、梓のこと、好きになっちゃった)
胸に去来する感情の行き所を探して、迷霧の中を彷徨い歩く。
心と体が一致しないまま、ただ、時間だけが過ぎてゆく。
ちゃぶ台に並ぶのは、旬の栗をたっぷり使った栗御飯に、形のしっかりしたほくほくのじゃがいもの入ったお味噌汁、そしてきのこをどっさり入れた鮭のホイル焼き。いかにも秋らしい献立で、旬のものに目がない稲荷神様はご満悦といった面持ちだった。
「うむ、この舞茸が善い出汁になっておるのだな。栗も甘味があって実によいぞ」
「はぁ……」
「おや? どうした肆玖羅面よ。小生はそちを褒めておるのに、何か不満でも在るのか」
稲荷神様に声を掛けられた肆玖羅面が、のっそりと顔をあげる。彼女の表情は明らかに浮かない。
「ふむ。そちが懊悩するなど随分と珍しいのう」
「恐らくは、この間話しておった女子たちのことであろう」
稲荷神様はまがりなりにも――というか、こう見えても由緒正しいれっきとした神様だ。肆玖羅面が思い悩んでいることを即座に見抜き、さらに彼女が何に思い煩っているかさえもすぐさま把握してしまった。稲荷神様に嘘はつけない、肆玖羅面が素直に頭を垂れると、三角形の狐耳もいっしょにへなりと倒れた。
茶碗と箸を置いて、稲荷神様が肆玖羅面を見やる。稲荷神様にとって肆玖羅面は便利な下僕であると同時に、手のかかる娘のようなものでもあった。困っているようならば、手を差し伸べてやらねばなるまい。
「其の様子では、そちの応援しておった女子ともう一人の女子がどうこう、というわけではないように見えるな」
「それは……」
「まあ待て、話さずともよい。小生は神様ゆえ、そちの考えなぞ言わずとも分かる。如何なることでそちが思い悩んでおるか、大筋で想像はついておるからな」
稲荷神様はお茶をひとくち啜ってから、肆玖羅面へこんな言葉を掛けた。
「肆玖羅面よ。そちの気持ちは理解できる。思い悩むのも自然なことであろう」
「だが――敢えて言おう」
「迷いは、身の破滅を招くぞ」
「初心に帰るがよい。なぜあの女子に節介を焼いたのかを、もう一度考えてみるとよい」
「後悔しない結論を出せ。真に望んでいることは何か、己れに問い続けるのだ」
短い言葉で、けれど強く諭すと、肆玖羅面がはっとしたように顔を上げる。稲荷神様はもうそれ以上何も言わずに、ただ肆玖羅面の顔を、目を、その奥にある心をまっすぐに見据えている。
どうして梓に声を掛けたのだろう、どうして梓の恋路を応援するつもりになったのだろう、どうして梓の練習に付き合うと言い出したのだろう――もう一度考えてみるといい。稲荷神様の言葉を反芻して、肆玖羅面が自分に問いかけつづける。なぜ、なぜ。どうして、どうして。
思索の果てにたどり着いた答えは、思っていたよりもずっと単純で。
(――そっか)
(あたし、梓に幸せになってほしかったんだ)
そして、純粋で。
ただ梓に幸せになってほしかった。梓に願いを叶えて欲しかった。その気持ちだけで、彼女に声を掛けたのだった。
「……ふむ。そちの顔つきからすると、少しは考えが整理できたように見えるな」
「どのような形であれ、そちにとって悔いが残らぬようにな。肆玖羅面よ」
稲荷神様はお茶椀を取り上げると、食べかけだった栗御飯を再び食べ始める。
今年の栗は甘いだけでなく大ぶりで実に良い、なんて言いつつおいしそうにご飯をいただく稲荷神様の姿を、肆玖羅面は微笑ましげに見つめていた。
(……よし)
(そろそろ、仕上げに入らなきゃ、ね)
心の中で、ひとつの決意を固めながら。
梓の恋路をお手伝いする、肆玖羅面がそう請け合ってから、もう間もなく一月が経とうとしていた。
「……わたし、ぐみちゃんのことが……好きなの。前からずっと、好き、だったの」
「小さい頃からいっしょに遊んでくれて、わたしのこと、いつも、守ってくれて」
「これからも、ぐみちゃんの側にいたい。これからは、もっと、ぐみちゃんの近くにいたい」
「だから――わたしと、付き合って、ください……!」
まだ完璧ではなかったけれど、最初の詰まりっぷりからするとまるで別人のような進化を遂げた梓の告白。鶫に扮した肆玖羅面は満ち足りた面持ちで、梓の懸命の告白を聞いてあげている。
彼女の表情は穏やかで、けれどどこか、うっすらとした哀愁をまとっているかのようで。
「……うん、大丈夫。きちんと言えてたよ」
「ほ、本当ですか!?」
「こんなとこでウソついたってしょうがないよ。お世辞抜きで、きちんと言えてたからね」
きちんと告白できていた、そう太鼓判を押された梓は今にも飛び上がりそうなくらい喜んで、肆玖羅面に向かって何度も頭を下げる。ありがとうございます、ありがとうございます、これでぐみちゃんに自分の思いを伝えられます――梓がそんなお礼の言葉を口にする。
肆玖羅面には分かっていた。梓がああしてちゃんと告白できるようになった、一番大きな理由が。
(梓の、鶫ちゃんに対する想いがあればこそ……ここまで来られたんだよね)
何をするにも、一番大事なのは気持ちの持ちよう。鶫に自分のほとばしる想いを、好きだという気持ちを伝えたい。梓の切なる願いがあればこそ、彼女は願いを叶える一歩手前までたどり着くことができた。
梓は、それほどまでに鶫のことが好きなんだ。肆玖羅面の心の中に、穏やかな、とても穏やかで、やわらかな、あきらめの気持ちが満ちていく。
(後悔しない選択をしなさい)
稲荷神様が口にした言葉が、肆玖羅面の心の中で幾度も繰り返し再生される。
「さあ、ここまでうまくなったんだから、そろそろ仕上げに入らなきゃね」
「仕上げ……ですか?」
「そう。こういう『いかにも練習』って形式はやめて、本番っぽくリハーサルしてみたらいいと思うんだよ」
肆玖羅面が梓に、告白のリハーサルをしてみようと提案する。面と向かって告白するところからではなく、待っている鶫に声をかけるところから始めてみる、というものだった。
わかりました、やってみます。梓が力強く頷く。肆玖羅面はにっこり微笑んで、さらなる提案をして見せる。
「せっかくここ嘉山神社で練習したんだから、げんかつぎも兼ねて、ホントの告白もここですればいいんじゃないかな」
「あっ、わたしもそうしたいと思ってました! 昔からよくぐみちゃんと遊んでた場所ですし」
鶫に想いを告げる場所は、今までずっと練習に使ってきたこの嘉山神社にすればいい、というものだった。ここならロケーションとしても悪くないと思うし、練習で慣れているから緊張せずに済むよ――肆玖羅面は利点を挙げて、梓に嘉山神社で告白するようしきりにプッシュする。
けれど。
「……うん。それならここで、嘉山神社で決まり、だね」
肆玖羅面には、この場所で梓が鶫に告白をしてほしい、もっともっと大きな理由があった。
梓は、とても緊張していた。
「これは本番じゃなくて、リハーサルだって分かってる……けど、やっぱり緊張しちゃうよ……!」
肆玖羅面が梓に提案したリハーサルの内容。それは、嘉山神社で梓に扮した肆玖羅面が待っていて、梓が自分から声を掛けて告白する――というものだ。肆玖羅面は梓が言い終わるまで絶対に元の姿に戻らずに、最後に「結果」を聞かせてくれる、という。
自分が本当に告白する時も、嘉山神社で待ち合わせて自分から声を掛けよう、梓はそう心に決めてはいた。けれど実際にやるとなると、緊張の度合いが段違いだ。相手が本物の鶫じゃなくて、肆玖羅面が変化したものだと頭では分かっていても、見た目は間違いなく鶫なのだから。
「ぐみちゃん……」
鳥居をくぐる。お社のすぐ前に、こちらに背を向けた鶫が立っているのが見える。背を向けていても、遠くにいても、すぐに鶫だと分かるその姿。あれはホントのぐみちゃんじゃない、肆玖羅面さんが化けてるんだ――何度もそう言い聞かせて、これはリハーサル、リハーサルなんだと小声でつぶやく。
リハーサルなんだから、失敗したって構わない。どーんと思いっきりぶつかっていって、本番にうまく活かせればいい。肆玖羅面さんだって、きっと同じように思ってる。梓はついに覚悟を決めて、それから頬をぺちぺちと二回ほど軽く叩いてから、鶫のすぐ側まで歩み寄った。
「――ぐみちゃんっ!」
「あずき……?」
鶫に扮した肆玖羅面が、ゆっくりと梓に顔を向けた。高鳴る鼓動を、脈打つ心臓を一生懸命おさえて、梓が肆玖羅面の目をまっすぐに見つめる。
いつ見ても、本当に鶫本人にしか見えない。練習の時からずっとそう思っていたけれど、このリハーサルを迎えて、ますます強く感じるようになった。本物そっくり、だからこそ緊張する、だからこそ真剣になる。今までの肆玖羅面との練習を思い出しながら、梓は次に口にする言葉を覚束ない手で整理していく。
「どうしたのよあずき、急に神社になんか呼び出したりしちゃって」
「えっと……ぐみちゃん。わたし……ぐみちゃんに、大事な話があるの。それを、伝えたくて」
「大事な話?」
頬がかあっと熱くなる。肆玖羅面から見ても、自分の頬はきっとりんごのように赤く染まって見えているに違いないと梓は思った。こんなに紅くしてたら、やっぱりおかしく見えちゃうかな――梓は少しだけたじろぐけれど、前に進むことをやめようとはしない。
自分の気持ちを伝えたい、その想いは揺るがなかったから。
「あのね、ぐみちゃん」
「わたしの話……聞いてくれるかな」
前を見る。鶫の顔が見える。目の前に鶫がいる。
「ぐみちゃん」
「ぐみちゃんは、小さい頃からずっと、わたしといっしょに遊んでくれてたよね」
「わたしが男の子にちょっかい出されたりしたら、代わりに懲らしめてくれたりもして」
「いつも、わたしのこと守ってくれた」
いろんな記憶がいっぺんに蘇ってきて、かつて見た光景が、その時胸に抱いた気持ちが、色鮮やかに浮かび上がってくる。
「急にこんなこと言い出してどうしたのって、そんな風に思ってるかも知れない」
「だけどね、どうしても言いたかったんだ。どうしても、どうしても」
「わたしの気持ちを、ぐみちゃんに伝えたくて」
肆玖羅面さんに練習の成果を見せる時が来た。毎日練習して、たくさん失敗して、その分経験を積み重ねてきた。数え切れないくらいの失敗を積み上げてできた舞台の上に、今まさに立つ。
さあ、今だ――。
「――わたし、ぐみちゃんのことが好きなの。前からずっと、好きだったの」
「小さい頃からいっしょに遊んでくれて、わたしのこと、いつも守ってくれて」
「これからも、ぐみちゃんの側にいたい。これからはもっと、ぐみちゃんの近くにいたい」
「だから――わたしと、付き合ってください……!」
言えた。きちんと言えた。
今までで一番、綺麗に、きちんと言えた。
頭を下げるのを止めて、ゆっくり顔を上げる。肆玖羅面の表情を自分の目でしっかり見たかった、自分のした告白の結果をきちんと知りたかった。どんな結末が待っていてもいい、これが今の自分が出せる正真正銘の本気だと分かっていたから。
「ぐみちゃ……ん――!」
梓は見た。この瞬間起きていることを、確かに目の当たりにした。
(――肆玖羅面、さん……!?)
目の前にいるのは、鶫に扮した肆玖羅面。そう考えていた梓が目にしたものは。
鶫のすぐ後ろに立って、自分たちの姿を穏やかな表情で見守っている、変化していない本来の姿の肆玖羅面だった。
(じゃあ、今わたしの目の前にいるのは……!)
この鶫は、肆玖羅面が変化した姿だと思い込んでいた。けれど肆玖羅面はその後ろにいる。肆玖羅面が二人いるわけがない。だから、どちらかは肆玖羅面じゃない。後ろにいるのは紛れもなく肆玖羅面で、他の誰でもない。
目の前に立っているのは、肆玖羅面では無くて――本物の、鶫だったのだ。
「うまくできたね、梓」
「とっても上手だったよ。今まであたしが見てきた中で、一番しっかりできてたね」
「合格。文句なしの合格だよ、梓」
自分にしか聞こえない、心の中へ直接語りかける声。
これは、リハーサルなんかじゃなかった。肆玖羅面は鶫を嘉山神社まで呼び出して、梓が告白できるように手はずを整えたのだ。近くで見守っていたのは、梓がしっかり想いを伝えて、鶫と結ばれたことを確かめるため。
それから、もうひとつ。
「これで……卒業、だね」
梓への想いを、未練を――ここで、間違いなく断ち切るため。
「あずき……」
鶫が声を上げて、梓が意識を引き戻される。鶫は微かに頬を紅く染めて、瞳を軽く潤ませながら、じいっと自分のことを見つめている。梓もまた、鶫から目が離せなくなって。
「あずきは……ホントに、あたしでいいの……?」
梓の胸が、火が灯ったようにぼうっと熱くなった。
「そうじゃない、そうじゃないよ、ぐみちゃん」
「わたしは、ぐみちゃんがいいの。ずっとずっと、ぐみちゃんといっしょにいたいの……!」
溢れ出る感情のおもむくままに、梓が鶫に抱きつく。
「……うれしい。うれしいよ、あずき……」
「あたしも、あずきのこと……好きだったから……!」
鶫は両方の瞳からはらはらと涙をこぼしながら、抱きついてきた梓を強く強く抱き返した。もう離すまい、ずっと側にいる。その想いを伝え合うように、二人はいつまでも抱擁をやめようとしない。
そして、梓がふっと顔を上げて、鶫の後ろへ目を向けたとき。
――そこにはもう、肆玖羅面の姿は無かった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。