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若帰り

「おかあさーん、お赤飯炊けたみたい」

「ありがと、美加。こっちも鯛の尾頭付きの下ごしらえができたわ」

八月三週目の日曜日。私とお母さんは台所に立って、朝からお出迎えの準備に精を出していた。

「エプロンに三角巾がよく似合うわ。誰に似たのかしら、料理の手際もいいし」

「お母さんったら。褒めたってなんにも出ないよ」

「うふふ。こうやって普段からもっと台所に立ってくれると、お母さんもハッピーなんだけれども」

「もう、すぐこれなんだから」

お母さんと二人、しきりに軽口を叩いて冗談を飛ばしながら、手の方は休まずてきぱきと料理を仕上げていく。栗きんとんに甘く煮た黒豆、牛蒡と蓮根のきんぴらも。フライパンが空いたら、厚焼き卵も作らなきゃ。少ない時間をやりくりするのは、忙しいけどなんだか楽しい。

炊き上がったお赤飯を少し蒸らしてから、しゃもじを使ってごっさごっさとかき混ぜる。こうやって混ぜておけばべちょっとしなくて、おいしく食べられる。ずいぶん前、お正月にお赤飯を炊いたときに教えてもらったことだ。他にもたくさんのことを教えてもらった。その一個一個が、すごく懐かしい。

「おばあちゃんが帰ってくるの、よっぽど楽しみなのね。お母さんも楽しみだわ」

「うん。だって、ずっとおばあちゃんに会いたかったから」

「美加がこんなに素直に育ってくれたのを見たら、おばあちゃんもきっと喜んでくれるわね」

着々と準備を進めて行って、やることがすっかり無くなってしまった。けど、何かしてないと落ち着かない。どうしよう、と手持ち無沙汰でそわそわしてたけど、あっ、とひとつ思い出したことがあった。奥の和室まで行って器を持ってくると、水で丁寧に洗う。水気をよく切ってから炊いたばかりのお赤飯を丸く盛って、再び和室へ取って返す。

器を元あった場所――菊子おばあちゃんの仏壇へお供えすると、鈴を鳴らしてから手を合わせた。

(今年で、もう十年になるんだ)

菊子おばあちゃんは私が六つの頃、今から十年前に、寿命で亡くなってしまった。八十三歳だって聞いたから、かなり長生きした方だと思う。大きな病気も怪我もしたことがなくて、いつでも元気な姿を見せていた。亡くなるときもほとんど苦しまずに、安らかに、眠るように天へ旅立ったって聞いた。

小さくてまだ分からないことばっかりだったけど、おばあちゃんが死んだって聞かされた時はすごく悲しくて、泣いても泣いても泣き足りなくて、一日中泣き止まなかったのをよく覚えてる。あんまり泣くから、お母さんももらい泣きしちゃって、二人でずっと泣いてた記憶がある。冗談見たいな話だけど、ホントにあったことだ。それくらい悲しい出来事だった。

いつも優しく一緒に遊んでくれた、大好きなおばあちゃんだった。私の名前が「美加」だから、いつも「みーちゃん、みーちゃん」って呼んでたっけ。その声を聞くと嬉しくなって、すぐにおばあちゃんのところまで飛んで行った。一人で眠るのが怖いときは、一緒のお布団に入って寝ることも多かった。そんなおばあちゃんが帰って来てくれるっていうんだから、落ち着いてなんかいられない。

ところで、私はさっきからずっと「おばあちゃんが帰ってくる」って言ってるけど、どういうことなのか分からない人も多いと思う。死んだ人は二度と戻ってこないのが当たり前でしょって言われたら、確かにそれはそうだ。だけど、この町――山辺市の甚三紅区だと、実は当たり前ってわけでもなかったりする。

(「娑都還り」って、そんなに珍しいことなのかな)

甚三紅には、その名も「娑都還り」という風習がある。甚三紅で生まれた人が亡くなると、何年か間を空けてから、生前の姿のまま一週間だけ帰ってくるのだ。月にだいたい二人か三人くらいは帰ってきて、かつての家族や友人と一緒の時間を過ごす。一週間が経つと、またあの世へ戻る。これが「娑都還り」。甚三紅だとこれがごく普通のことで、私も何人か帰ってきた人を見たこともある。中には、小学生の頃に事故で死んじゃった友達もいたっけ。久しぶりに遊べて嬉しかったな、あの時は。

ちょっと話が脱線しちゃった。よその地区だとこういう風習がないからずいぶん珍しがられるけど、甚三紅だと「死んだ人が帰ってくる」っていうのはごく当たり前のことで、おかしなことでも何でもない。日常風景の一つだ。向こうから会いにくるから厳密には違うけど、言ってしまうと病院の面会みたいなものだと思う。

前に聞いた話だと、戻ってきたい人は大勢いるから、向こう一年くらい予約でいっぱいになってるらしい。あの世でも順番待ちをしなきゃいけないのは同じみたいだ。おばあちゃんもずいぶん前から戻ってきたいって言ってたみたいで、最近やっとご指名があったらしい。一ヶ月くらい前に区役所から連絡があって(戻ってくるときのいろいろな手続きとかは、全部区役所でやっているらしい)、今日うちへ帰ってくることになった。

戻ってこられるのは一週間だけ。長いとは言えない期間だから、できる限りのおもてなしをしてあげたい。好きなものをたくさんこしらえてあげて、行きたいところに連れていってあげたい。物は持って帰れないけど、記憶は別だ。いい思い出をいっぱい作ってもらいたい。朝からお母さんと二人でいろいろな料理の支度をしていたのは、それが理由だ。

「……よし。最後の仕上げをしなきゃね」

手を合わせ終わったところで、すっくと立ち上がる。まだちょっとだけ仕上げが残ってる。それを済ませて、おばあちゃんを気持ちよく迎えられるようにしよう。

最後にもう一度だけ振り返って、仏壇の上で微笑むおばあちゃんの遺影を仰ぐ。

「もうすぐ会えるよ、おばあちゃん」

そう、もうすぐだ。

もうすぐ、おばあちゃんに会えるんだ。

 

区役所から電話があった。今から二十分ほどしたら、おばあちゃんを車で送ってきてくれるらしい。私はいても立ってもいられなくなって、電話があってからすぐに玄関へ向かった。サンダルを履いて区役所方面の道を眺めながら、それらしい車が走ってくるのを今か今かと待ちわびる。

「区役所の人が、家に着いたらチャイムを鳴らしてくれるって言ってるのに、せっかちなんだから」

「だって、おばあちゃんが帰ってくるんだよ。待ちきれないって」

そう言いながら、お母さんももう玄関でスタンバイしている。おばあちゃんに会いたいのは同じだった。そわそわしながら首をうんと長くして待っていると、遠くに白いライトバンが見えた。区役所の駐車場に止まってる車だ、視力がよかったおかげで、たちまちそうだって分かった。

ほどなくして車が家の前に止まって、運転席から区役所の人が出てきた。後部座席のドアをスライドさせて、誰かに車から降りるよう促す。おばあちゃんに違いない、期待に胸を膨らませて、降りてきた人がこちら側へ回ってくるのを待つ。

けれど、現れたのは思わぬ人で。

「……あれ? えっと……」

車から降りてきたのは、さらさらの黒い髪を肩の当たりまで伸ばした女の子だった。背が高くて、体つきはシュッとしてる。自分より一つ年上くらいに見えるから、なんとなく先輩っぽい。フレームのある眼鏡をかけていて、顔はちょっと丸っこくてふんわりしている。可愛い子と言えば可愛い子だけど、なんていうか……

とりあえず、おばあちゃんじゃない。おばあちゃんじゃない、見たこともない謎の女の子が、私とお母さんの前にしれっと立っている。一体誰なんだろう、おばあちゃんはどうしたんだろう。しきりに首を傾げてみるけど、答えは出てきそうもない。思い切って直接事情を聞いたほうがいい。そう思って、隣に立っている職員の人に声をかけた。

「あの、すいません。この人の家……ここで合ってますか?」

「前島さんのところですよね。はい、合ってますよ」

職員さんがそう言った直後、先輩っぽい女の子が、つぼみのような小さな唇を開いて声を発した。

「――みーちゃん、ひさしぶりだね」

みーちゃん、と呼ばれた瞬間、私はこの女の子が誰なのか、私にとって誰なのか、すぐに分かった。分かってしまった。

「もしかして……お母さんなの?」

「そうだよ。みーちゃんもゆーちゃんも、そんなにビックリしなくたっていいんじゃないかな」

そう。この女の子は、他ならぬおばあちゃん――菊子おばあちゃんだったのだ。若々しい、というよりすっかり若返ってるけど、女の子は菊子おばあちゃんだ。

「ふふふっ。約束通り帰ってきたよ、みーちゃん」

私は目をまん丸くして、ふんわり笑みを浮かべる女の子、もといおばあちゃんをまじまじと見つめたのだった。

 

ともかくおばあちゃんが帰ってきたってことで、さっそく歓迎会が始まった。お父さんにお母さん、ご近所の人たちが合わせて十人くらい集まって、和室に座布団を敷いて座っている。

「本当にびっくりしちゃったわ。お母さん、私の若い頃にそっくりねえ」

「でしょ? だって、親子だもん。わたしもね、ゆーちゃんのこと抱っこしながら、同じこと思ってたんだよ」

お母さんは最初こそ若々しい姿のおばあちゃんに驚いていたみたいだったけど、しばらくもしないうちに親しげに話すようになって、お酒が入る頃にはすっかりいつものペースを取り戻していた。お母さんが言っている通り、今のおばあちゃんは若い頃のお母さんにそっくりだ。二人横に並ぶと、お互いに面影があるのが分かる。

二人はよく似ていて、血のつながりがあるのは明らかだ。お母さんはおばあちゃんの娘で、おばあちゃんはお母さんのお母さん。疑う余地なんてない。だから私も、このおばあちゃんの孫――のはず。

「ゆーちゃん、いい子いい子」

「お母さんったら、調子いいんだから。もうおばさんなんだから、恥ずかしいわ」

「いやぁ、ホントに出会った頃の由美とそっくりだな。写真は見せてもらってたけど、ここまでとは」

「ふふん。ちょっと前までは、わたしもこーんなに可愛かったんだから」

胸を反らせて得意気なおばあちゃん……って言うのももどかしいけど、立場的には私のおばあちゃんだ。どう見ても同級生か一つ上の先輩にしか見えないけど、この人は私のおばあちゃん、あの菊子おばあちゃんなんだ。だってそうじゃなきゃ、お母さんの小さい頃の話とか、できっこない。

けど、けどだ。この女の子が菊子おばあちゃんだなんて言われても、全然ピンと来ない。戸惑ってばかりで全然話に混ざれなくて、瓶入りのオレンジジュースをコップに注いでちびちび飲んでばかりいる。

なんでだろう、こんなはずじゃなかったのにな。

(おばあちゃんが、おばあちゃんのまま帰って来ると思ってたのに)

(確かに、おばあちゃんが帰ってきた。けど、おばあちゃんじゃなかった)

ご近所の人たちもみんなすっかり出来上がって、親しげにおばあちゃんと名乗る女の子に声をかけている。

「まあまあこんなに若くなって、びっくりしちゃったよ、あたしゃあ」

「うふふ。キヨちゃんは変わってなくてよかったよ」

清美さん。おばあちゃんの親友だった人だ。おばあちゃんより年下だったけど、それでももうすぐ九十になるかならないかのかなりのおばあちゃんだ。清美さんと親しげに話してるってことは、間違いなくおばあちゃんのはずなんだけど、だけど、やっぱりなんだかしっくり来ない。

「この歳になって変わることなんてありゃせんよ。あとはシワの数が増えて、背骨が曲がっていくだけだね」

「まだまだこれからだよ。あ、そうだ。こないだお見舞い来てくれてありがとね、眠たくって、うまく返事できなくって」

「あら、来てたの知ってたのかい? いいのよ、そんなことぐらい。寝たきりになったら、お互いさまだって」

「とか言っちゃって、毎朝ラジオ体操出てるの、わたし知ってるよ」

「それはそれ、これはこれよぉ。アタシも帰ってくるときはピチピチの時に戻ろうかねぇ」

おばあちゃんと清美さんの話が一段落したところで、今度ははす向かいに住んでいる英男さんがやってきた。英男さんもかなりのおじいちゃんだけど、今でも畑に出て蜜柑をもいだりしている。おばあちゃんとは昔からの付き合いだけど、珍しい「男と女の友情」って間柄だって聞いた。

「いやあ、こりゃ別嬪さんだ。たまげたもんだ。本当に女学校の頃に戻ったみてえだな」

「もう、ヒデちゃん。わたしに惚れ直しちゃダメだよ。寄り合いの時珠代さんと一生添い遂げるって、大見栄切って言ってたじゃない」

「そんなこと言ったっけかなあ。菊ちゃんともう一回打ち合おうってのは言った記憶あんだけども」

「ふふふっ。わたしはちゃあんと覚えてるからね。仏さんになるまでちっともボケなかったのが自慢だもん」

誰と話してても会話に淀みがない。記憶もはっきりしてるし、中には私が見ていたときの出来事も混ざっている。だから、この女の子はやっぱり帰ってきたおばあちゃんで間違いないんだって思う。雰囲気とか話し方とか、菊子おばあちゃんっぽいところもちらほらある気がする。

けど……やっぱり何か違う。思ってたのと違う。私はおばあちゃんに会いたかった。おばあちゃんのおばあちゃんに会いたかった。今ここにいる女の子はおばあちゃんだけど、おばあちゃんじゃない。自分でも何言ってるんだろうって感じだけど、とにかく私はおばあちゃんに会いたかった。こんな形じゃなくて、おばあちゃんに会いたかった。

浮かない顔をしていると、ゆらり、と隣で影が動くのが見えて。

「みーちゃん。隣、座るね」

おばあちゃんがオレンジジュースの瓶を持って近付いてきた。近くで見ると余計に若々しさが際立って、この人はおばあちゃんじゃない、って気持ちが先に立ってしまう。だけど中身は本物のおばあちゃんだって分かってるから、こっちに来ないで、とも言えない。もやもやした気持ちがいっそう強くなるのを感じる。

「ふふっ。みーちゃんったら、どうしたの? 難しい顔しちゃって」

「それは……」

ここで言葉を詰まらせる。私だって言いたいことはいっぱいあった、だけど今この場で言うのははばかられる。せっかくのおめでたい席を台無しにしてしまうのは、私だって嫌だった。喉まで出かかった「なんでおばあちゃんじゃないの?」という言葉を無理やり飲み込んで、押し黙ってしまう。

おばあちゃんはふんわり笑って、半分ほど空いていた私のグラスにオレンジジュースを注ぐ。

「さ、飲んで飲んで」

「……うん」

「もっと楽しもう? せっかくこうやって、もう一度みーちゃんに会えたんだから」

勧められたオレンジジュースにそっと口をつけて、ちびちびと飲む。口の中に甘酸っぱいオレンジの味が広がっていく。

今の重たい気分には、ちょっと似つかわしくない味わいだった。

(やっぱり……思ってたのと違う)

失望感に通じるその思いを、いつまで経ってもかき消すことができなくて。

これから一週間をどう過ごしていけばいいのかを考えると、今からお腹の調子が悪くなりそうだった。

 

目を覚ましたのは、普段より少し遅めの朝七時頃。朝練がある時は六時前には家を出てるけど、今週はおばあちゃんが帰ってくるってことで、部長と顧問の先生に言って休ませてもらった。だからいつもより長く寝ていられる。それはよかったけど、一つ思い出したことがあった。

(お母さんとお父さん、今日も仕事だっけ)

高校一年生で夏休み中の私と違って、お母さんとお父さんにはしっかり仕事がある。他に兄弟はいないから、家にいるのは私と、昨日帰ってきたばかりの――おばあちゃん、だけだった。

あの、一つ上の先輩みたいなおばあちゃんのことを思うと、梅雨時の空模様のような気持ちになっちゃう。どう接すればいいのかなんてちっとも分かんないし、おばあちゃんじゃない、って気持ちがどうしても強くなってしまう。会えるのをあんなに楽しみにしてたはずなのに、本当にどうしてだろう。

扉の向こうから物音がする。台所の方だ。たぶん、おばあちゃんが朝ご飯を作ってるんだろう。気は進まないけど、ずっと寝てる訳にもいかない。のそのそと体を起こして、軽くストレッチをしてから、寝ぼけ眼のまま台所へ向かう。

「あ。おはよ、みーちゃん。よく眠れたかな?」

「おばあちゃん、それ……」

「見ての通り、朝ごはんだよ。真っ白ご飯にキャベツの千切り、それからふわっと仕上げた玉子焼き。みーちゃんと一緒によく食べてた献立だよね」

台所にいたのは、やっぱりおばあちゃんだった。他に家にいる人がいないから、当たり前といえば当たり前だけど。おばあちゃんが作っていたのは、おばあちゃんが元気だった頃よく作っていた朝ご飯の献立そのものだった。懐かしい気持ちがぽつぽつ沸いてきたけれども、目の前にいる先輩みたいな女の子を見ると、やっぱり違和感を覚えてしまう。

若返ったおかげで体も軽くなったよ、そう言いながら、できたばかりの玉子焼きをキャベツの千切りを寝かせたお皿の上へ盛り付けていく。炊きたての白ご飯をお茶椀へよそうことも忘れない。十年前から家の中は全然変わっていないからどこに何があるのかもしっかり覚えていて、とても慣れた手つきだ。この人が帰ってきたおばあちゃんなんだってことを、こういう形でも思い知らされてしまう。

「じゃ、いただきますしよっか」

「えっと……いただきます」

向かい合って座る。普段はお母さんが座っている位置におばあちゃんがいる。ぎこちない手つきで箸を取って、とりあえずキャベツの千切りに箸を伸ばす。キャベツは焼きたての卵に温められて少ししんなりしている。変わってるって言われるかもしれないけど、私はこうなったキャベツが好きだった。卵と一緒に食べると、キャベツの甘味と玉子焼きの塩味が一つになって、口の中いっぱいに広がっていく。

おいしい、と思った。思ってしまった。目と鼻の先にいる女の子はとてもおばあちゃんとは思えないけれど、でも、出てきた朝ご飯は間違いなくおばあちゃんが作ったそれだった。スライサーより細く切られたキャベツに、ちょうど半熟で仕上がった玉子焼き、少しだけ固めに炊き上げられた白ご飯。おばあちゃんに作ってもらってたご飯と、まったく同じだった。

(おばあちゃんの味……なのに、おばあちゃんじゃない)

明るい日差しの差し込む台所で、真っ正面から向かい合って朝ご飯を食べる。時折おばあちゃんが目を向けて来て、にっこり微笑む姿が見えたりするけど、私はなんだか気まずくなって、すぐに目を伏せてしまう。そうすると余計に気まずさが増して、どうすればいいのか分かんなくなっちゃう。

何回も言ってるけど、今のおばあちゃんは私の先輩みたいだ。具体的にこんな先輩がいたわけじゃないけど、でも、なんか先輩っぽい感じがする。図書室で優雅に本とか読んでそうで、何を言ってもふんわりした感じで受け答えするような。イメージだけど、そんな感じがする。

これがおばあちゃんじゃなかったら、私だってもっと積極的に仲良くしようって思ったに違いない。けど……何回も言うけど、これがあの菊子おばあちゃんだって言われても、やっぱり信じられない。

おばあちゃんの作ったご飯を、別の人と一緒に食べてる――そんな拭いきれない違和感に包まれながら、朝食の時間は静かなまま終わったのだった。

 

「みーちゃん。仏壇、こっちだっけ?」

「……えっ」

朝ご飯を食べ終わって、片付けも済ませたあとのこと。そのままテーブルでボーッとしていた私に、おばあちゃんが思いもよらぬ事を尋ねてきた。仏壇が置いてある場所を知りたい、ってことだろうか。

「向こうの……昨日宴会があった和室にあるけど」

「あっ、そうだったんだ。ずっとどんちゃん騒ぎしてたから、全然気づかなかったよ」

面食らった様子の私をじいっと見つめて、おばあちゃんがにっこり微笑む。

「ほら、自分の仏壇を見るって、滅多にない機会だからね」

おばあちゃんに連れられて、私も一緒に和室へ向かう。和室の奥まったところに鎮座している仏壇を前にして、おばあちゃんは目をまん丸くした。

「へぇー、これがわたしの仏壇なんだ。ずいぶん立派だね。わたしのお骨も、居心地が良さそうだよ」

「おばあちゃん……」

「耕三さん、遺影にいい写真選んでくれたよね。にっこり笑って綺麗に写ってるよ」

仏壇の上へ飾られた遺影を指差して、おばあちゃんが笑った。

耕三さんっていうのは、おばあちゃんの夫……つまり私のおじいちゃんだ。おばあちゃんが死んでから二年くらいして、後を追うようにして亡くなった。生前は控えめなおじいちゃんと元気のいいおばあちゃんって感じで、なんだかんだで仲良くやっていた。この様子だと、あの世でも付き合いは続いてるみたいだ。

できれば耕三さんも一緒に来たかったけど、一回につき一人だけだからね。そんなことを呟きながら、おばあちゃんが仏壇の前へ正座する。お線香にライターで火を付けて、静かな手つきでそっと立てる。おばあちゃんが今、どんな心境で自分の仏壇を見ているのか、私にはちょっと想像できない。

「うーん、そっか。わたし死んじゃってるんだよね。こうやって地べたにしっかり座ってるし、ご飯だって普通に食べられるけど、今週はちょっと特別なだけなんだね。いまいち実感沸かなかったけど、これでハッキリしたよ」

ずいぶん爽やかな口調で言ってのけてから、おばあちゃんは仏壇に手を合わせた。開け放たれた窓から聞こえる蝉の合唱、じっとりとした和室の空気、ほのかに漂うお線香の匂い、額縁の中で微笑む白黒写真のおばあちゃん、そのすぐ側で拝みつづける若々しいおばあちゃん。

すべてがごちゃごちゃに入り混じって、私は何も考えられずに、何も言えずに、ただその場に立ち尽くすばかりで。

「……よし。こんなところかな。自分にお願いするっていうのも、ヘンな話だけどね」

おばあちゃんが正座を止めて、すっと素早く立ち上がる。

「ちょっと、挨拶回りに行ってくるよ。昔よく行ってた場所がどんな風に変わったか、ちょっと気になるしね」

さらさらの黒髪を後ろへ流しながら、例によってふんわりした笑顔を見せて、こう口にしたのだった。

「じゃ、行ってくるね。みーちゃん」

今日一日は挨拶回りに行ってくる、そう言って出掛けて行ったおばあちゃんの背中を見送ってから、私はのそのそと自分の部屋へ戻る。何かするって気が起きなくて、学習机の椅子に座ってただぼんやりする。

やっぱり、菊子おばあちゃんとどう接したらいいのか分かんない。大体あの見た目で「おばあちゃん」って呼ぶのもなんだかヘンな感じがしてしょうがない。ため息をついたり、頬杖をする手を入れ替えたりしながら、どうしようもない思案だけがどんどん積み重なっていく。

(せっかくおばあちゃんに会えると思って、部活休んでまで予定空けたのにな)

こんなことなら、普通に部活へ行って稽古してた方がよかったかも、なんてことを考えてしまう。いくら頭であれがおばあちゃんだって理解してても、気持ちの方が付いていけない。だってどう見たって、あの女の子がおばあちゃんには見えないんだもん。

それからは、ちょっと買い物へ行ったり、宿題をちびちび進めてみたり、時々スマホのMiitomoでしょうもない質問に答えたりして、長いのか短いのかよく分かんない時間が過ぎて行く。とても有意義とは思えないけど、あのおばあちゃんじゃないおばあちゃんと一緒にいなきゃいけないって思うと、なんだか気が乗らない。

空っぽの時間を空費している間に、意外なほど早く夜が来てしまった。おばあちゃんを入れた家族四人で夕飯を囲む。お母さんとお父さんは若返ったおばあちゃんをすんなり受け入れていて、私みたいに戸惑ったりしていない。お母さんなんて「娘がもう一人できたみたい」なんて言って、まんざらでもない顔をしている。なんだかなあ、こういうときに感じるもやもやを、温度差って言うのかな。多分そうなんだろうけど。

お風呂にも入って、後はもう寝るだけだ。髪を乾かしてから自分の部屋へ言って、寝る前にちょっとスマホをいじる。しばらくすると熱気が冷めて、お布団へ入るのにちょうどいい具合になった。寝ようかな、そう思ってスマホを置いたすぐ後、誰かがドアをノックした。

「誰?」

「みーちゃん、わたしだよ。開けてくれる?」

「おばあちゃん……?」

ドアを開けると、パジャマを着たおばあちゃんが立っていた。どうしたんだろう、そう思って立っていると、おばあちゃんはおもむろにこんなことを切り出してきた。

「ね。今晩、一緒に寝ない?」

「えっ……?」

「ほら、みーちゃんとよく一緒のお布団で寝てたから。前みたいに枕を並べて、一緒に寝ようよ」

うれしそうな顔をしつつ、さっと枕を前へ差し出す。私の方は、ただただ戸惑うばかりで。

そんな、こんな年頃の女の子と一緒に寝るって、ちょっと無理だよ。相手がおばあちゃんだって分かってても、これはやっぱりちょっと無理だ。

「い、いいよ……私、もうそんな歳じゃないし。一人で寝させて」

「うーん、そっか。ちょっと残念。それじゃ、下で寝るね。おやすみ、みーちゃん」

私が一緒に寝るのを断ると、おばあちゃんは少し残念そうな顔をしながら、そっと部屋から引き上げていった。額にうっすら浮かんだ汗をパジャマの袖で拭って、ふう、と息をつく。いきなりあんなことお願いされたって、こっちも困っちゃうよ。

ドアを閉めて電気を消してから、もぞもぞとベッドへ潜り込む。考え事をしたくなっちゃう時間だけど、おばあちゃんのことを考えてたらいつまでたっても眠れそうにない。薄手の布団を頭まで被ると、キュッと目を閉じて無理やり眠ろうとした。

寝つきは……多分、あんまり良くなかったと思う。

 

「ねぇねぇみーちゃん。お出かけしない?」

「お出かけ?」

次の日。お茶の間で「少女は卒業しない」を読んでいたら、後ろから声をかけられた。振り返ると、よそ行きの服に着替えたおばあちゃんの姿が。私は本に栞を挟んで、おばあちゃんと目線を合わせるために立ち上がる。

「ちょっとね、服とか見に行きたいんだ。わたしに似合う服、みーちゃんに選んでもらったりしてみたいし」

「服、かぁ……」

どうしよう、って思った。いいことじゃないのかも知れないけど、率直に言って、私は服の着こなしとかファッションとかにあまり興味がない。家にいるときは楽な部屋着でいることが多いし、みんなが外へ出掛ける休みの日はほとんど部活に行ってて、ジャージぐらいしか着る機会がない。だから、服もそんなに持ってない。お母さんはよく「美加はちゃんと清潔にはしてるけど、着こなしがとにかく地味」って言っている。それは私も自覚してることだった。だから、おばあちゃんに似合う服を選んでって言われても、似合っているかどうか分からないから困ってしまう。

それに、だけど……おばあちゃんだって言う、この先輩みたいな女の人と一緒に買い物に行くこと、それ自体に気が進まなかった。外見はおばあちゃんとも似ても似つかないし、おばあちゃんだよって言われてもピンと来ない。なのに、日曜日に家へ来た時からずっと馴れ馴れしくしてきて、正直いい気持ちがしなかった。

(こんなことなら、普段通り部活行ってたらよかったな)

そんな風に思ったのは、今日が初めてじゃなかった。

とは言え、断るのにちょうどいい理由もなかったし、なんだか一緒に行かなきゃいけない流れになってる気がした。小さく息をついて、読みかけの「少女は卒業しない」をちゃぶ台の上へ乗せてから、私は答えた。

「分かった。一緒に行くよ」

この人を放っておいたら、何か騒動を起こしそうな気がする。気は進まなかったけど、私は一緒に買い物へ行くことにした。

菊子おばあちゃんが服を見ると言うときは、車を二十分ほど走らせた先にあるしまむらへ行くのが常だったけど、そのしまむらは一昨年に閉店して建物も取り壊されて、今はコジマが同じ場所で営業している。だからしまむらには行けない。今はもうあのしまむらが無いんだって思うと、寂しい気持ちがふつふつと沸いてくる。

それから、あともう一つ。おばあちゃんは亡くなったときに免許も取り消された――おばあちゃんは車に乗るのが好きだったから、おじいちゃんが「あの世でも運転できるように」って気を利かせて、免許証も一緒に火葬してあげた――から、車も運転できない。どうするんだろう、って思ってたら、おばあちゃんは「国道沿いにさ、ユニクロあるよね。そこ行きたいな」なんて言ってきた。あそこなら近くにバス停もあるから、都合は良かった。

「いっぺんでいいから、こういうところでお買い物してみたかったんだよ」

バスに乗って辿り着いたユニクロの店内は、家族連れやカップルでごった返していた。

人だかりの合間を縫ってあれこれ服をとっかえひっかえしながら、おばあちゃんがずいぶん楽しそうな表情をしていた。夏だから薄手の方がいいよね、そう言ってキャミソールを持ってきたり、ちょっと派手なのもいいよね、なんて言ってデニムのスカートを着る仕草をしてみたり。

そうして一つ一つ服を持ってきては見せてくる姿に、付き添いで来た私はというと。

(昔のおばあちゃんなら、こんな服絶対着なかっただろうな)

私の知っている昔のおばあちゃんと、目の前にいる今のおばあちゃんのギャップが果てしなく大きくて、ただただ戸惑うしかなかった。今までにも覚えていた違和感、それが目一杯増幅されて、やるせない気持ちが溢れてくる。どうしてこうなっちゃったんだろう、なんで昔のままのおばあちゃんじゃないんだろう。こんなこと言ってもどうしようもないって、分かってるのに言いそうになってしまう。

ただ、つらいばっかりだった。

「人が多いところにくると、元気がもらえていいね。喉も渇いちゃうけど」

欲しい服を一通り買って精算を済ませる。お金はお母さんが渡したみたいだった。あと五日ほどしか滞在できないのに、その間に全部着るのは無理なくらいたくさん買っていた。以前のおばあちゃんなら、こんなことにたくさんお金をつぎ込むようなことはしなかった。おばあちゃんの質素なところが好きで、私もそれを真似して無駄遣いはしないタイプになった。おばあちゃんはこんなことしない、その思いがどんどん膨らんでいく。

「ふふっ。たくさん買っちゃった。せっかくだから、どこかで休憩してこっか」

菊子おばあちゃんだって言うこの女の子が来てから、そうじゃない、こうじゃない、ああじゃない、って気持ちがどんどん膨れ上がってきていて、自分でもおかしくなってしまいそうだった。ずっと我慢してきたけど、でも、もう限界だった。おばあちゃんはこんなことしない、おばあちゃんはそんなこと言わない、おばあちゃんはあんなことしたがらない――記憶と現実のギャップが酷くて、ごりごりと音を立てて摩擦を起こしている。

「そうだね。向こうのスターバックスに寄って――」

私の中で、何かが弾ける音がした、何かが切れる感触がした。足が歩くのを止めて、拳がわなわなと震え出す。こんなこと言っても仕方ない、やめなきゃ。頭がそう命じても、心は抑え切れなかった。

カッと目を見開いて、急に立ち止まった私を不思議そうに見つめるおばあちゃんを射抜くように見つめて。

「……おばあちゃんじゃない」

「みーちゃん?」

「やっぱり……やっぱりおばあちゃんじゃない!」

立ち止まっていきなり大声をあげたせいで、おばあちゃんはひどく驚いた様子を見せていた。私は構わず続ける。続けるというより、口を突いて言葉が飛び出してくると言った方が正しかった。

「おばあちゃんしか知らないこと知ってるし、おばあちゃんがしてたことしてる……」

「でも、でも……でも、おばあちゃんじゃない!」

「おばあちゃんはこんなこと言わない! おばあちゃんはあんなことしない!」

「おばあちゃんは……私の知ってるおばあちゃんと違う!」

だんだん声が大きくなっていって、最後の方は叫びにも似た声になっていた。周りの風景がだんだんぼやけて、目頭が熱くなる。頬を涙が伝う感触がした。泣いてるんだ、千々に乱れる心とは裏腹に、頭の方は不思議なほど冷静に自分の状態をよく分かっていた。

ひとしきり叫んだあと、鼻をすすり上げて涙を拭う。力を入れすぎて、目元が擦れて痛くなった。それでも、ぐちゃぐちゃになってきりきりと痛む胸に比べたら、ぜんぜん、大したことなんてなかった。歪んだ視界の向こうにいるおばあちゃんを見ると、頭を垂れて俯いていた。どことなく、申し訳なさそうな顔をしている――そんな風にも、見えた気がした。

「みーちゃん、ごめんね。そうだよね、みーちゃんの気持ち、よく分かるよ」

「そうじゃないかな、って思ってたんだ。だって、みーちゃんが知ってるのは、おばあちゃんのわたしだったから」

「せっかく一緒にいてくれたのに、つらい思いをさせちゃって、ごめんね、みーちゃん」

私に謝るおばあちゃんを見ていると、なんだかこっちも気まずくなって、そのまま何も言えなくなってしまう。

今日はもう帰ろっか、そう言うおばあちゃんの言葉にただ頷いて、買い物はここで切り上げることにした。

「ありがとうね。楽しかったよ、みーちゃん」

帰りのバスで、おばあちゃんは私にただ一言だけ、小さな声でつぶやいた。

家へ帰って、部屋へ戻ってから、服も着替えずにベッドへ倒れ込む。枕に顔を埋めて、大きなため息を一つついてから、さっき起きた出来事を振り返った。

少し前まであんなに気が高ぶっていたのが嘘みたいに、怒りの感情はすっかり消え失せていた。熱が急にすーっと引いていく感触がして、後ろめたさが全身をじっとり包み込んでいく。今となってはもう、ただ後悔の気持ちと、大きな罪悪感しか残っていなかった。

(なんで、私あんなこと言っちゃったんだろう)

見た目は、確かにおばあちゃんじゃないかも知れない。髪は黒くて長いし、背筋もピンと伸びてる。シワだって一つもない。とっても若々しい姿をしていて、何回も言うけど、なんだか先輩みたいな雰囲気だ。おばあちゃんと言うより、お姉ちゃんって言った方が合ってる気がする。お姉ちゃんがいるわけじゃないけど、でもそう思う。

だけど、中身はおばあちゃんなんだ。あの、私に優しくしてくれて、いつも一緒に遊んでくれて、お茶目なところもある、おばあちゃんそのままなんだ。外見の印象に引きずられて、中身まで変わっちゃったって思い込んでたけど、よく考えてみたら全然変わってなくて、昔のままじゃないか。

おばあちゃんだって、せっかくこっちへ帰ってくるんだから、やりたいことがたくさんあったはずなんだ。若い頃に戻ったのも、きっとおばあちゃんがそう望んだからだ。こっちへ帰ってきて、体も若返って、いろんなこと、いっぱい楽しみにしてたはずなのに。私は自分の気持ちばっかり押し付けて、おばあちゃんに酷いことを言ってしまった。

(おばあちゃんがおばあちゃんのまま帰ってこなかったからって、わがまま言って、意固地になってたんだ、私)

謝りたい、おばあちゃんに謝りたい。そう思ったけど、すぐに顔を合わせるのも気が引けてしまって、部屋を出て行く勇気を持てなかった。結局そのまま夜になってしまって、悶々としているうちに眠くなってきて、自然とまぶたが下りてきて。

けど、謝らなきゃって気持ちだけは、意識が途切れるまでずっと、私の中に残りつづけていた。

 

朝日が差し込んできて、自然と目が覚める。いつもより大分長く寝たおかげで、すっかり頭が冷めた。気持ちも落ち着いて、自分が何をしなきゃいけないかが自ずと理解できた。

(おばあちゃんに謝りにいこう)

気持ちは固まっていた。ベッドから身体を起こしてさっと立ち上がると、ドアを開けて一階へ下りる。おばあちゃんは和室にいるはず、ちゃんと顔を突き合わせて謝って、残りの時間を気持ちよく過ごしてもらわなきゃ。

和室の襖をそっと開けて、中を覗き込んでみる。布団はもう片付けられていて、畳だけのがらんとした部屋が広がっている。おばあちゃんの姿はそこにあった。パジャマ姿のまま奥の押入れをごそごそやって、何か探しているみたいだった。あそこには前におばあちゃんが着ていた服がそのまま収納されていたことを思い出す。お母さんから教えてもらったのかな、そう思いながらおばあちゃんへ近付いていく。

おばあちゃんが押入れから何かを取り出す。後ろから目を凝らしてみると、それが昔よく着ていた赤い半纏だっていうことに気づく。懐かしいな、そう思っていると、おばあちゃんはおもむろに半纏へ袖を通した。ちょっとぶかぶかなそれを身に着けて、おばあちゃんがしきりに自分の姿を確かめている。その様子がなんだか可愛く見えて、顔がほころんでしまう。

「うーん、前に着てた半纏だけど、どうかなぁ……これで、ちょっとはおばあちゃんらしく見えるかなぁ」

心配そうにつぶやくおばあちゃんの後ろに立って、半纏の着こなしを気にする仕草を見ていると、おばあちゃんが不意にこちらへ振り向いた。私がにこにこしながら様子を眺めていたことに気付いて、顔をほんのり赤く染めながら、おずおずと訊ねてきた。

「みーちゃん……ど、どうかな? 気持ちだけど、おばあちゃんっぽくなってないかな……?」

おばあちゃんの言い方がおかしくて、私はついぷっと吹き出してしまった。おばあちゃんって言うより、家でくつろいでるおっとりしたお姉ちゃんって感じの風貌だった。顔つきは若々しくて綺麗なのに、服装だけがおばあちゃんじみてて、そのギャップがますます笑いを誘う。

「おばあちゃん、無理しなくていいよ。半纏、かわいいけどね」

それから私は、思い切って大きく頭を下げた。

「あのね、おばあちゃん。ごめんね、昨日はひどいこと言っちゃって」

「私の覚えてるおばあちゃんとは違うけど、でも、おばあちゃんはおばあちゃんだから」

「お茶目な所とか、全然変わってなかったって、やっと気が付いたよ」

「帰ってきてくれて、ありがとう。おばあちゃん」

ひどいことを言ってしまってごめんなさい。それから、帰ってきてくれてありがとう。昨日からずっと言おうと思っていた言葉を、言いたかった言葉を、逃げも隠れもせずに、正面から言うことができた。

おばあちゃんはどう思っただろう。不安な気持ちを押さえて顔を上げると、そこには穏やかな表情をしているおばあちゃんの姿があった。瞳を潤ませながら、私の目をじっと見つめて。

「ありがとう、みーちゃん。みーちゃんが笑ってくれて、おばあちゃん、うれしいよ」

ああ、この人は――やっぱりおばあちゃんだ。私が笑顔を見せたことを、誰よりも喜んでくれる人。それはおばあちゃん、菊子おばあちゃんしかいない。死んだおばあちゃんが帰ってきてくれて、私ともう一度一緒にいてくれるんだ。急に気持ちがわーっとしてきて、目から涙が溢れ出した。

私とおばあちゃんが手を取り合って、お互い涙を流して目を赤くしながら、分かり合えたことを喜ぶ。どちらともなく背中に手を回して、やがて強く抱き合う形になった。

「……おかえり、おばあちゃん」

「ただいま、みーちゃん」

おかえり、ただいま。

おばあちゃんが帰ってきた。そのことが、やっと現実のこととして、受け入れられるようになった。

泣き合って抱き合って、それから笑い合って。お互い気持ちの整理ができたところで、私は前から言おうかなと思っていたことを、おばあちゃんに伝えてみることにした。

「おばあちゃん、一つ言ってもいい?」

「うん。いいよ、言ってみて」

「おばあちゃんはおばあちゃんだけど……でも、おばあちゃんじゃないのにおばあちゃんって呼ぶの、ちょっとこそばゆい気がしてて」

「おばあちゃんはみーちゃんのおばあちゃんだけど、見た目はそうは見えないからね。分かるよ、みーちゃんの気持ち」

「うん。それで、なんて呼んだらいいのかな、何か言ってほしい呼び方あるのかな、って」

そう言うと、おばあちゃんは口元に笑みを浮かべながら。

「みーちゃんがね、いいって思ってくれたらでいいんだけどね」

ひそやかな声で、そっと私にささやく。

「――菊ちゃん。菊ちゃんって呼んでくれると、うれしいな」

菊ちゃん、って呼んでほしい。私にだけ聞こえるほどの声でつぶやくおばあちゃん――菊ちゃんに、思わずドキリとした。寄せられた顔からほのかに色気が感じられる。それはとても魅力的で、とろけてしまいそうな感覚に見舞われた。

「いいよ、菊ちゃん」

「これからは、菊ちゃんって呼ぶからね」

私は迷わず頷いて、しっかりとこう返した。

 

「ねえ、お母さん。美加と仲直り、ちゃんとできた?」

お母さんが茶目っ気を込めた悪戯っぽい調子で訊ねてきたのは、朝食の席でのことだった。今日は遅番でお昼から会社に出かけるってことで、一緒に朝ご飯を囲むことになった。親子三代、女三人。だけどぱっと見、お母さんと姉妹にしか見えない。そんなちょっと珍しい風景。

菊ちゃんは口元をティッシュで軽く拭ってから、少し胸を張って答える。

「もちろん。ちゃんと仲直りしたよ。今はすっかり仲良しになって、菊ちゃん、って呼んでくれるくらいになったんだから」

「若くなっても、お茶目なところは変わってないわね」

「お母さんったら、私と同じこと言ってる」

「こういうところは親子だね。二人とも大きくなったら、きっともっとお茶目さんになるよ」

お母さんほどじゃないわよ、とお母さんが笑う。なんだか胸がぽっとあたたかくなって、自然と笑みがこぼれてくる。菊ちゃんも、お母さんも、それから私も。似た者同士で、血は争えない。菊ちゃんとお母さん、お母さんと私。菊ちゃんの言った通り、親子なんだな、って感じる。

瓶入りの「ごはんですよ」を炊きたての白ご飯へ載せてから、お母さんが感慨深げにつぶやく。

「お母さんの若い頃の姿が見られて、なんだか不思議な気持ちだわ。しかも私にそっくりなんて」

「前も言ったけど、わたしもゆーちゃんのこと見ながら、よく似てるって思ってたんだよ。好きな人によく手紙を書くところとかね」

「やだもうお母さんったら。これ以上ヘンなこと喋られたら、困っちゃうわ」

「へぇー。手紙書いてたんだ、お母さん。お父さんに?」

「そうそう。直接目を合わせると緊張して話せないからって、いーっぱい手紙書いてたんだよ。家、歩いて五分もかからないのにね」

私の知らないお母さんの姿が、菊ちゃんの口からどんどん明らかにされていく。お母さんは「困ったわ」なんて言いながら、口元はほころびっぱなしだ。

お母さんも、お母さんのことを話す菊ちゃんも、どちらもとても嬉しそうだ。こんな風に思い出話に浸れるのも、ひとえに菊ちゃんが、おばあちゃんが帰ってきてくれたから。

「みーちゃん。ご飯食べて一息ついたら、公園まで散歩に行きたいな。いっしょに行かない?」

「いいよ。今日はいい天気だし、風があって涼しいから」

「あらあら、二人しておでかけ? 若いって羨ましいわぁ」

私と菊ちゃんが思わず顔を見合わせる。お互い目をまん丸くして、パチパチと瞬きしてから、声を上げて笑った。

準備を済ませて外へ出る。公園までは歩いて十分ほどで、目と鼻の先にあるって言っていい距離だ。

昨日買ったばかりの紺のロングスカートを風になびかせながら、菊ちゃんが颯爽と歩いていく。風に揺れる髪をそっと押さえながら歩く姿は、何度も言うけど先輩っぽい。菊ちゃんと分かり合った今なら、その仕草一つ一つを自然に受け止められる。落ち着きの中に健康的な色っぽさが感じられて、女の子だな、って感じがする。

「本当、菊ちゃんって可愛いね」

「ふふっ。みーちゃん、わたしに惚れちゃったかな?」

「菊ちゃんったら。こんな感じで、他にもいろんな子をその気にさせちゃったんでしょ?」

「そこまでじゃないよ。学生の頃は、お母さんから『お嫁に行けるか心配』ってしょっちゅう言われてたからね」

結局は耕三さんといっしょになれたけどね、そう笑う菊ちゃんからは、明るさと朗らかさと、少しばかり奥ゆかしさが見え隠れして、なんだかとっても可愛らしいって思った。私もこんな女の子になりたい、そんな風に思ってしまうくらい。

夏の風を浴びながらアスファルトの道を進んでいくと、大きな公園が見えてきた。子供が遊ぶための遊具に、あちこちに設置されたベンチ。子供の頃はよく遊びにきた記憶がある。この歳になると、さすがにブランコに乗って遊んだりはしなくなるけど、代わりにベンチで友達と一緒におしゃべりしたり、スマホをいじったりしてる。目的は変わっても、今でもよく訪れる場所だ。

「この公園は変わってないね。時計はさすがに直ったみたいだけど」

「そっか。前に菊ちゃんがいた間は、ずっと壊れてたから。向こうへ行って一年してから、新しいのに替えられたんだ」

「止まっていた時間が動き出す。わたしが今、ひとつひとつ見たり聞いたりしているものごと、そのものだね」

辺りをぐるりと見回しながら、菊ちゃんが透き通った声でつぶやく。

「時間が経つと、いろんなものが変わっていく」

「ときに悲しいことでもあるけれど、新しいものと出会う機会でもある」

「十年ぶりにこっちへ来て、そう思ったよ」

遠くを見つめる菊ちゃんの隣で、私はその横顔をじっと見つめる。

菊ちゃんにとっては、この公園は十年ぶりに訪れる場所になるんだ。そう思うと、菊ちゃんには目の前の風景すべてが懐かしくて、また同時に新しいものに見えているに違いなかった。私にとっての十年はとても長かったけれど、菊ちゃんの十年もまた、同じだけ長いものだったんだ。

声を上げて遊ぶ子供の姿を見ながら、木陰の下のベンチに腰かける。強い日差しを木の葉がうまく遮ってくれて、とても心地がよかった。夏の暑さでほてった頬を、穏やかな風がそっと撫でていく。ひんやりした感触が気持ちよくて、ついうとうとしてしまう。程よい眠気を覚えたところで、横からつんつんと頬をつつかれた。

「みーちゃん、ちょっとおねむみたいだね」

菊ちゃんはそんなことを言いながら、ぽんぽんと膝をたたいて。

「ちょうど、ここに高級枕があるよ」

とびっきりの茶目っ気を込めてささやく菊ちゃんに、頬がゆるむのを感じた。

お言葉に甘えて、膝枕をしてもらう。頭を載せて天を仰ぐと、菊ちゃんの顔がはっきりと見えた。しゅっとした若々しい顔つきに、かすかだけれど、私の知っているおばあちゃんの面影が感じられる。やっぱり、おばあちゃんなんだ。改めてそう感じると同時に、綺麗で素敵な人だ、とも思った。

女の子が同性――女の子を好きになるのって、こういう時なんじゃないかな。微笑む菊ちゃんの顔を間近で眺めながら、ふつふつと沸いてくる「好き」という気持ちを自覚する。私が好きだって思える人が、私のことを好きでいてくれる。幸せそのものだと思わずにはいられない。夏の暑さとは違う、体が芯から温まる感覚を味わいながら、ゆっくりと目を閉じる。菊ちゃんにだったら安心して身体を預けられる、寝顔を見られたっていいって思える。

意識が風に溶けたのは、それからすぐのことだった。

小一時間ほど眠りについて、起きてから今度は商店街を練り歩いて、前に行ったことのある小さなカレー屋さんでお昼ご飯を食べた。店長さんは代替わりしていたけれど、味は変わっていなくて、菊ちゃんも満足したみたいだった。変わっていくものを見るのもいいけど、変わらないものに触れるのもいいね――そんなことを口にしていた。

これといった目的もなく、お互いに行きたい場所、見たい場所を自由に散策しているうちに、いつの間にか陽が傾いていた。そろそろ帰ろうか、どちらからともなくそう言い出して、行き先を自宅へ向ける。

「菊ちゃん、ありがとう。膝枕、気持ちよかったよ」

「こっちこそ、ありがとうって言わなきゃ。可愛らしいみーちゃんの寝顔、独り占めさせてもらったからね」

かけている眼鏡を軽く直す仕草をして、菊ちゃんがふふんと嬉しそうに笑う。可愛い中に知的な感じがあって、そして落ち着いた中に色気を感じる。膝枕をしてもらって眠りに付く間際に感じた「好き」の気持ちは、今や揺るがないものになっていた。いっしょにいられることを嬉しく思わずにはいられない。

ふたり手をつないで歩いていく。菊ちゃんがおばあちゃんだった頃、こうやって手をつないでもらって歩いていたことを思い出した。姿かたちは違っているけれど、手のひらのあたたかさは今も昔も変わらない。そっと手のひらに力を込めると、菊ちゃんもまた私の手をぎゅっと握りしめる。

私と菊ちゃんが揃って顔を朱に染める。顔が赤くなってるよ、先に私がそう言うと、菊ちゃんが「夕陽のせいだよ」と軽口をたたく。私がくすっと笑うと、菊ちゃんも笑う。可笑しくなって、いつの間にか声を上げて笑っていた。

私たちの笑う声は、家に帰り着くまで一時も止むことなく、赤い空へ響き渡りつづけた。

 

木曜日の朝。外は相変わらずよく晴れていて、抜けるような青空に真っ白な雲がもくもくと広がっている。今日も夏らしい一日になりそうだ。

起きてから顔を洗ってお茶の間へ向かってみると、いつもいるはずの菊ちゃんの姿が見えない。どこへ行ったんだろう、そう思って辺りを歩いていると、庭から何やら物音が聞こえる。音の出所を追って、サンダルを履いて庭へ出た。

そこには、思っていた通り、菊ちゃんの姿があった。お母さんから借りたらしい上下ジャージ姿で、額にうっすら汗をかいている。ひゅん、ひゅん、と風を切る音が、私のいるところにまで聞こえてくる。

「……ふっ、ふっ、ふっ……!」

菊ちゃんは、竹刀の素振りをしていた。前後に足捌きをしながら、一定のテンポでリズムよく竹刀を振り下ろす。結構な数を重ねているはずだけど、呼吸に乱れはない。肩の力も程よく抜けている。一目見て慣れてる人の素振りだと分かる、綺麗なフォームだった。

私が隣で見ていることに気が付いたみたいだ。菊ちゃんが素振りを止めてこっちを見る。

「おはよ、みーちゃん。今日もいい天気だね」

「うん。おはよう、菊ちゃん。素振りしてたんだ」

菊ちゃんは首に巻いたタオルで軽く汗を拭いながら、こくんと頷く。

「昔使ってたのを、物置に置いてたのを思い出してね。ダメ元で探してみたら、ちゃんと置いてくれてあったんだ」

「毎朝やってたもんね。健康のために、って言って」

「そうそう。懐かしくなって素振りし始めたら、なんだか楽しくなっちゃって」

私に投げかけられた菊ちゃんの笑顔が朝日を浴びて輝いて、とびきり眩しく見えた。

お母さんが生まれるずっと前、それこそ子供の頃から、菊ちゃんはずっと剣道を続けている。今は女子も多いけど、菊ちゃんが小さい頃はそれこそ女子禁制みたいな雰囲気だったみたい。菊ちゃんはその中に飛び込んでいって、男子にも負けない力強い立ち回りを繰り広げたって聞いた。おじいちゃんも菊ちゃんと勝負して一本を取られて、それがきっかけで付き合うようになった――という話を、おばあちゃんはことあるごとに聞かせてくれた。

大人しくておっとりした感じの菊ちゃんだけど、私くらいの歳の頃は相当なじゃじゃ馬娘だったらしい。近所でおじいちゃんくらいしか相手にならないほど強くなると、今度は外に対戦相手を求めるようになった。腕の立つ剣士がいるって聞いては、わざわざ出かけて行って、試合を申し込みに行ってたとか。菊ちゃんのお母さんが「お嫁に行けるか心配だ」って言っていたのも分かる。昔の古い常識で考えれば、菊ちゃんは文字通り型破りな存在だったに違いない。

「菊ちゃん、相変わらず構え綺麗だね。まっすぐ竹刀が降りてる」

「ふふっ、ありがとね。なんだかんだで、最後に寝たきりになるまで続けてたから、まだ体が覚えてるんだ」

「そうだったよね。元気が一番の取り柄だって、いつも言ってたから」

そこまで言って、私はハタと思い至る。せっかくの機会を逃しちゃいけない、直感がそう告げていた。

「ねえ菊ちゃん、素振り、まだ続ける?」

「うん。まだやり足りないから、もう少し続けたいな、って思ってるよ」

「分かった。ちょっと待ってて」

私は部屋へ駆けていくと、あっという間にパジャマからジャージへ着替えて、部屋の隅に立てかけている小豆色の袋を掴んで庭まで取って返した。

「みーちゃん、それ……」

「竹刀袋。せっかくだから、いっしょに稽古しようよ」

持ってきたのは、古びた竹刀袋だった。

「剣道、私もちゃんと続けてるよ。一回も休んだことないのが自慢だから」

「みーちゃん……」

「だって、約束したもん。稽古の時は真剣にやるって」

「うん……うん。そうだよね、そうだよね。みーちゃん、いつも真面目にお稽古してたもんね」

おばあちゃんが朝稽古をしているのを見て、私もやりたいと言ったのがきっかけだった。怠けたりふざけたりしないって約束をして、剣道具一式を揃えてもらった。二人でいっしょに稽古できた期間は長くなかったけど、おばあちゃんはいつもやさしく丁寧に教えてくれたのをよく覚えてる。おばあちゃん直々の手ほどきを受けたおかげでどんどん上達して、始めて一年経たずに面も着けられるようになった。

「菊ちゃんのおかげだよ。菊ちゃんは『みーちゃんならできる』って言って、いつも励ましてくれたから」

「失敗しても怒られないんだって分かったから、思い切って全力でぶつかっていけたんだ」

他の先生たちとは違って、おばあちゃんは決して怒ったり怒鳴ったりすることはなかった。私が何回失敗しても、おばあちゃんは「失敗は成功のもと」「失敗した分だけ上手になれる」って言って、何度でも挑戦させてくれた。おばあちゃんは「みーちゃんはいい子だから、怒ったりしなくてもちゃんと一人前にできる」――そんな風にも言っていた。おばあちゃんが私を信じてくれたから、私もおばあちゃんを信じられたんだって思う。

それから今まで、ざっと十年。私は今でも剣道を続けている。この小豆色の竹刀袋は、おばあちゃんが私のために手作りしてくれたものだ。大きな竹刀も入るようにしてくれたから、割れたり小さくなったりして竹刀を何度か替えた今も、ずっと変わらず使い続けている。この竹刀袋を持っていると、おばあちゃんが側で見てくれている気がして、気持ちが奮い立った。

「この間もね、実はこっそり見てたんだ。県大会、よく頑張ったね」

「あっ――菊ちゃん、見てくれてたんだ」

「もちろん。みーちゃんが出る試合は、必ず近くで見てるよ。すごかったよね、大金星だもん」

七月末の県大会の時のことだ。同じ地区――山辺市の強い高校と当たって、正面からぶつかる形になった。試合は大将同士の戦いにまでもつれこんで、私が場に出て剣を振るった。一進一退の攻防が続いて、最後は私が隙を突いて一本を取った。勝ちたいとは思ってたけど、勝てるとは思ってなかったから、自分でビックリしたのを今でも鮮明に覚えている。

あの時の試合を、菊ちゃんは見ていてくれたんだ。

「みーちゃんが真面目にお稽古するって約束したみたいに、わたしもみーちゃんと約束したからね」

「みーちゃんが出る試合は、ちゃんと側で見守るって」

私が約束を守っていたように、菊ちゃんも――おばあちゃんもまた、私との約束を守ってくれていた。

嬉しい気持ちでいっぱいになると同時に、不思議と納得できる気もした。大事な試合の時は、いつも誰かが見守っていてくれる感覚があった。もしかして、おばあちゃんがすぐ近くにいるんじゃないか、漠然とそう思っていたけど、本当だったんだ。

「よぅし。それじゃ、素振りしよっか」

菊ちゃんがサッと竹刀を構えたのを見て、私も隣に立つ。肩の力を抜いて、柄がすっかり濃い藍色に染まった竹刀をぐっと構える。

いち、に、さん、し――揃って数を数えながら、上下素振りを繰り返す。温まっていく身体に朝の冷たい空気が触れて、全身に活力が漲ってくる。菊ちゃんがかつて毎朝庭に立って竹刀を振っていた理由が分かる気がした。身も心も引き締まって、一日頑張ろうって気持ちになれる。

菊ちゃんと息をぴったり合わせて、時間を忘れて熱中していると、菊ちゃんがこちらにちらりと目を向けた。気付くともう百八十回にもなっている。次の一セットで一区切りにしよう、そう言いたかったに違いなかった。

「――二百! よし、いったんここまでにしよっか」

ゆっくり竹刀を下ろして、菊ちゃんと顔を見合わせる。うっすら浮かんだ汗が、菊ちゃんのしなやかな体に健康的な艶やかさをもたらしている。何度見ても清楚で綺麗な女の子だと思う。古風な美しさが感じられるって言えばいいのかな、もちろんポジティブな意味で。

「いい汗かいたね、みーちゃん。すがすがしい気持ちだよ」

「私も。久しぶりに菊ちゃんと一緒に竹刀を振れて、嬉しかったよ」

「うん――こうやって、みーちゃんと同じ目線に立って、いっしょにお稽古ができる……わたしは幸せ者だね」

瞳を輝かせて微笑む菊ちゃんに、胸の高鳴りを覚える。私と一緒にいて幸せだって思ってくれる、それが、私にとってすごく幸せなことだった。

「お母さんに美加ったら、朝から精が出るわね」

「お、ゆーちゃん。おはよう」

「おはよう、お母さん」

縁側にエプロンを着けたお母さんが立っていた。朝ご飯を作ったのはいいけど、私も菊ちゃんも来ないのを見て、庭へ呼びに来たって感じだ。

「ちょうどご飯が炊けたわ。冷めないうちに食べましょ」

こうして、今日もまた一日が始まる。

 

お昼を過ぎた頃、菊ちゃんは私の部屋へ来ていた。

「今の制服って可愛らしいね。みーちゃんが着るとよく似合いそうだよ」

「制服のデザイン、私も気に入ってるよ」

目的はいろいろあったけど、その中の一つがこれだった。私が通っている学校の制服を見たい、菊ちゃんから言われて、部屋で見せてあげることにしたのだ。少し前まで着ていた夏服を手渡して、好きなように触って見てもらう。目をまん丸くして、しきりに「可愛らしい」と口にする菊ちゃんを見ていると、普段何気なく着ている制服がなんだかすごく素敵なものに思えてくる。

制服をすっかり気に入った様子の菊ちゃんを目にして、私は一ついいことを思いついた。

「ねえ菊ちゃん。その制服、ちょっと着てみない?」

「えぇっ!? でも……わたしにはきっと似合わないよ」

私の制服を着てみたらどう、そう提案してみた。菊ちゃんは「自分には似合わないよ」と言いつつ、視線はちらちらと制服の方へ向けられている。興味はあるみたいだ。清楚な感じのする菊ちゃんなら、ぴしっとした私の制服はきっとよく似合うと思う。だから、一度着てみてもらいたかった。

「着てみなよ。きっとよく似合うよ」

「うーん……みーちゃんがそこまで言うなら、一肌脱いじゃおうかな」

微笑みながら、菊ちゃんが制服を受け取る。着ていたブラウスとスカートをさっと脱いで下着姿になると、まだ真新しさの残る制服にさっと袖を通した。

胸元にリボンも結んですっかり装いが整ったところで、菊ちゃんが目の前の鏡を見る。私はすぐ隣に立って、制服姿の菊ちゃんの姿を見てみる。

「どう? 菊ちゃん。制服着てみた感想は」

「最近の制服って、本当に可愛らしいね……なんだか、かえって自分がおばあちゃんなことを思い出しちゃうよ」

さくらんぼのように頬を赤くする菊ちゃんが、とても初々しくて素敵だった。謙遜しているけど、菊ちゃんによく似合っている。制服姿になると、ホントに私の先輩みたいだ。菊ちゃんみたいな先輩がいたら、学校生活がもっと楽しくなるに違いなかった。

すましてみたり、振り返ってみたりして、菊ちゃんが自分の制服姿を観察する。菊ちゃんも満更でもないみたいだ。

「制服なんて、女学校に通ってた時以来だよ。懐かしくなっちゃった」

「すごく似合ってるよ。全然違和感ないもん。このまま学校行っても大丈夫なくらい」

「もう、年上をからかっちゃだめだよ、みーちゃん」

口ではそう言っていたけど、制服を着たままどこかへ出かけてみたい、という気持ちはあったみたいで。

「みーちゃん。もしよかったら、このまま外に行ってみたいけど、いいかな?」

「もちろん。じゃあ、私も着替えるね」

着替え用のもう一着の制服をかけたハンガーを取って、私が菊ちゃんに応えた。

 

制服姿のままあちこちを散歩して、夕暮れ時を迎える。のんびり歩いている菊ちゃんの隣に付いて、私もゆっくり歩く。

さりげなく、自転車を押しながら。

「菊ちゃんさ、昔私が小さかった頃、よく自転車に乗せてくれたよね。後ろの席にさ」

「お買い物、いっしょに行ったりしたっけ。懐かしいなぁ」

「うん。それでさ、後ろに乗って菊ちゃんの――おばあちゃんの背中を見ながら、ずっと思ってたんだ」

私は押していた自転車を止めて、菊ちゃんの目を見る。

「いつか、私が後ろに乗せてあげたい、って」

背中から夕陽の眩しい橙色の光が当たる。瞳は微かに潤んで、キラキラと宝石のように輝いていた。

菊ちゃんが目に涙を浮かべている。私にもその気持ちは伝わってきた。本当なら見られなかった、私が大きくなった姿。それをこうして自分の目で見ることができた。菊ちゃんが今どんな心持ちでいるのか、私にも分かる気がした。

「二人乗りはちょっとお行儀悪いけど、ここなら人もいないよ」

「……うん。乗せてもらおうかな」

自転車の後ろに菊ちゃんが乗った。横向きに腰掛ける形で、体だけ前に向けている状態だ。背中に菊ちゃんの視線を感じて、思わず胸が熱くなる。右足にぐっと力を込めて、思い切り、自転車のペダルをこいだ。

前へ大きく進む。あっという間にスピードが増していく。びゅう、という音がとても大きく聞こえた。ほてった頬を冷たい風が撫でる。気持ちいいことこの上なかった。この心地よさを、菊ちゃんも感じてくれているだろうか。

菊ちゃんが後ろから腕を回して、私にしっかり抱きついた。背中に顔を埋めているのが分かる。まるで菊ちゃんと私が一つになったみたいだ。伝わってくる菊ちゃんのぬくもりで、胸がぽっと熱くなる。ペダルに乗せた足にいっそう力を込めて、ぐんぐん前へ進んでいく。

「みーちゃん、気持ちいいね!」

「しっかり掴まっててー!」

誰もいない河原を、自転車で走っていく。目に見える風景すべてがまぶしくて、あらゆるものがキラキラとまばゆく輝いて見えていた。雲一つ無い快晴のもと、光をたたえた夕陽に正面から照らされていたからだろうか。それも理由だと思う。けれど――それだけではない気もした。

今この瞬間にしか見られない、私とみーちゃんが自転車に乗って走っている、この時にしか見られない、一生ものの光景だって……そんな風に思わずにはいられなかった。

河原の端まで一度も止まらずに走りきって、そこで自転車を止めた。菊ちゃんが降りたのを見てから、私も続けて自転車から降りる。

「あー……気持ちよかった。一気に走っちゃった」

「すごく楽しかったよ、みーちゃん。乗せてくれてありがと」

「思ってたのとは、ちょっと違っちゃったけどね」

「ふふっ。青春っぽくていいよ、青春っぽくて」

重ねて強調する菊ちゃんの様子がおかしくて、私と菊ちゃんが顔を見合わせて笑う。今はただこうして、些細なことでも笑い合えた。

(そっか)

(おばあちゃん、こんな風なことがしたかったんだ)

(こんな風に、私と一緒に……)

おばあちゃんが――菊ちゃんがどうしてこの年代の姿になって戻ってきたのか、やっと分かった気がした。何がしたかったのか、どんな時間を過ごしたかったのか、ずいぶん時間がかかったけど、ようやく理解できた。

こうやって、今の私と肩を並べて、瑞々しくて甘酸っぱい、ただ「青春」ってしか表現できない時間を、一緒に過ごしたかったんだって。

「みーちゃん。自転車こいでる姿、素敵だったよ。惚れちゃいそうだったもん」

「もう、菊ちゃんったら。からかうのはよしてよ」

菊ちゃんの肩を軽くはたくと、菊ちゃんは目を細めてくすくす笑って見せた。

長い長い河原を抜けて、見慣れた田園沿いの道に入ってからのこと。遠くの空を見上げて、菊ちゃんがぽつりとつぶやいた。

「今日はもう木曜日かぁ。あっという間だね」

「土曜日……だよね。向こうに帰るのって」

一週間。菊ちゃんがこっちに、この世にいられる期間だ。短いかなとは思っていたけれど、実際に過ごしてみると本当に短い期間だと感じる。土曜日になれば、菊ちゃんはまたあの世へ帰ることになる。次に戻ってこられるのは、いったいいつになるか分からない。二回以上こっちへ戻ってくるような人は、滅多にいなかった。

分かってはいたけれど、辛いことだった。せっかく菊ちゃんと気持ちも新たに心を通わせて、楽しい時間を過ごせるようになったのに、明後日にはお別れしなきゃいけないなんて。胸が締め付けられる思いがした。名残惜しい気がして、仕方がなかった。

(だけど……そうと分かっているなら、覚悟することだってできる)

以前に菊ちゃんを、おばあちゃんを亡くしたときは、どうすることもできずに、ただわあわあと泣きわめくことしかできなかった。でも今回は違う。菊ちゃんと別れる日は分かっている。なら、それまでに楽しい思い出を全力で作ればいいんだ。菊ちゃんが向こうでいっぱい自慢できるような、キラキラした思い出をいっぱい作ってあげたい。

それは、菊ちゃんもまた同じ考えだったみたいで。

「みーちゃん」

「菊ちゃん……」

「悔いが残らないように、明日はうんと遊ぼうね」

私は少しも迷うことなく、大きく大きく頷いた。

 

金曜日の朝。

昨日と同じように、涼しいうちに朝稽古と朝ご飯を済ませて、よそ行きの服に身を包んだ。菊ちゃんも同じだ。二人並んで歩くと、背丈の近い先輩と後輩みたいにしか見えない。もしくはこう、カップルっていうか、アベックっていうか。

「みーちゃん、さすがにアベックは死語じゃないかな?」

「えー、菊ちゃんがそれ言っちゃうー?」

「だって、わたしがおばあちゃんだった頃にはもう死語だったもん」

「菊ちゃんの方が新しいセンス持ってるなんて、なんかちょっと悔しい」

「ふふふっ。でも、みーちゃんらしくていいと思うな、わたしは」

例によって菊ちゃんと軽口のキャッチボールをしながらやってきたのは、人気の無い墓地で。

「自分のお墓に墓参りって、いっぺんやってみたかったんだ」

そこにあったのは、菊ちゃんの戒名が刻まれた、少し背の高い墓石だった。隣にはおじいちゃんの戒名も一緒に並んでいる。

「どんな感じなのかなあ、自分で自分のお墓に参るって。私もこっちに帰ってきたら、やってみたいな」

「うん、イチオシだよ。すごく不思議な気持ちになれるもん。ああ、わたし一回お天道様のところへ行ったんだなぁ、って」

菊ちゃんは十年前にこの世を去っている。今ここにいるのは、娑都還りで少しの間だけ戻ってきたから。目の前に悠然と立つ菊ちゃんの墓標を見て、私は今更ながらにそれを実感する。どことなく現実味が無くて、けれど確かにカタチとして存在している。菊ちゃんの言う通り、不思議な気持ちだった。

お墓参りをしていてしんみりしているのに、私も菊ちゃんもどこかお気楽な感じで、観光でもしにきたみたいな気分で。

「ふふっ。耕造さんに、いいお土産話ができたよ。自分のお墓を見てきたよ、って」

「菊ちゃんって、向こうでもおじいちゃんと一緒にいるの?」

「うん。相変わらずね、ぶきっちょでカタい人だけど、でもね、それがいいんだ。耕造さんらしいから」

「ずっといっしょにいたもんね。五十年……ううん、六十年くらい」

「そうそう。試合もずいぶんやったよ、三百七十七戦、百九十勝百八十七敗。最後はなんとか勝ち越したっけ」

「よく、体育館の武道場で試合してたよね。かっこよかったよ」

「ありがとね、みーちゃん。勝ち越したことは勝ち越したけど、でも、耕造さんの小手、誰よりも鋭くて早いんだ。ひゅっ、って飛んできて、ちょっとでも気を抜いてると、バシッ、って打たれちゃうの。油断も隙もなかったよ。おかげでわたしも、小手の返し技が強くなったけどね」

「いいなあ、菊ちゃん。いいライバルに恵まれて」

「ライバルにして、同志にして、夫婦だからね。この絆だけは、わたしにも耕造さんにも斬れないよ」

「もう、のろけちゃって。聞いてるこっちが恥ずかしいよ」

おじいちゃんのことを話す菊ちゃんは、いつもよりイキイキしている。そのことが、今となりにいる私にはちょっとだけ悔しくて、けど菊ちゃんの嬉しそうな顔を見られて、その何倍も嬉しかった。

「あっ、そうだ菊ちゃん。向こうだと、どんな姿でいることが多いの? ほら、好きな年代の姿でいられるって、前に帰ってきた友達から聞いたから」

「よく聞いてくれたね。最初はね、どっちもおじいちゃんおばあちゃんの姿だったけど、近頃はこれくらいの、学生の時分まで戻った姿でいるよ。ほら、初々しい感じがして、なんだか気持ちも若返るしね」

こうやってみーちゃんと話してると、ますます若返っちゃうよ。そう口にする菊ちゃんに、思わず目を細めてしまう。

「菊ちゃん。おじいちゃんにね、孫娘は元気にしてるよって伝えておいてね」

「もちろんだよ。耕造さん、きっと喜ぶよ」

私と菊ちゃんが手をつないで、まっすぐに伸びる道を歩いていく。

菊ちゃんの手はほのかにあたたかくて、昔おばあちゃんが手をつないでくれたときと同じ、安らかな感覚に包まれる思いがした。ぐっと手に力を込めると、菊ちゃんはにっこり笑って、自分の手で私の手を包み込んでくれた。

ここにいる。おばあちゃんは、菊ちゃんは、確かにここにいる。その思いが、私を強く支えてくれた。

「さあ、みーちゃん。喉も渇いたし、若者らしく、喫茶店に行っちゃおう」

道の先に商店街が見えてきたところで、菊ちゃんがそう切り出す。私は大きく頷いて、菊ちゃんを歩調を合わせた。

商店街の中程にある喫茶店「リュミエール」は、昔ながらの純喫茶という風情で、まるで中だけ昔で時間が止まってしまったかのような、古風な雰囲気をいっぱいに漂わせていた。中は冷房がよく効いている。陽光に照らされて熱を帯びた身体に、涼しい風が気持ちいい。

「わあ……中、全然変わってないね。びっくりしちゃったよ、嬉しいな」

「私もよく連れてきてくれたよね。ホントに変わってないや」

内装は、菊ちゃんがおばあちゃんだった頃に、私と一緒に訪れたときとほとんど変わっていなかった。大きな水槽には熱帯魚が何匹も泳いでいて、真ん中には大きな電話ボックスが設置されている。隅には古い漫画雑誌がずらりと並んでいて、色あせた表紙が時間の流れを静かに物語っている。奥を見てみると、真ん中にテレビを埋め込んだような、ヘンテコなテーブルも見えた。

特に目を引くのは、やっぱり電話ボックスだ。中にはピンク色の公衆電話が一台、よれよれになったタウンページ数冊と一緒にぽつんと置いてある。お店の中に電話ボックスがあるなんて、普通じゃ見られない。

「昔はあれにお金を入れて、電話を掛けてたんだ。わたしも使ったことあるよ」

「スマホとか、そんなのまだ全然無い時代だよね」

「うん。わたしね、あの電話で遠くの人と話してる人を見るのが好きだったんだ。誰と話してるのかな、今度はいつ二人が会えるのかなって」

「会えない時間、話せない時間が長いから、かえって相手のことを想うようになるのかな」

「そんな気がするよ。わたしは耕造さんといつでも会えて、家もすぐ近くだったからよかったけど、でも時々、電話で話すのもいいなあとか、思ったりもしたかな」

「菊ちゃんの気持ち、私、なんだか分かる気がする」

「みーちゃん、ロマンチストだね。強くて雅な女の子に育ってくれたのは、何よりのプレゼントだよ」

朗らかに言葉を交わし合いながら、開いていた席に座る。店員さんがメニューを持ってきて、私はオレンジジュースを、菊ちゃんはメロンフロートを注文した。

「今日はコーヒーにしないの?」

「うん。わたしね、メロンフロートが好きだったんだ、実は」

「そうだったんだね。連れてきてくれた時は、いつもコーヒーだったから。でも、どうして頼まなかったの?」

「ゆーちゃんにね、みーちゃんが見たら絶対食べたがるから、一緒にいるときは控えてって、お願いされちゃったんだ」

「お母さんったら……そんなこと頼まなくてもいいのに」

「ふふっ。ゆーちゃんもゆーちゃんなりに、みーちゃんのこと気遣ってるんだよ。いいお母さんになってくれたと思うな、わたしは」

頼んだものはすぐに届いた。鮮やかな緑色のジュースが注がれたグラスのてっぺんに、大きなアイスクリームが堂々と鎮座している。正統派のメロンフロートだ。

「いいね、これも全然変わってないよ。すごく嬉しい」

「菊ちゃんはどういう食べ方するのが好き?」

「こうやってアイスを沈めて、メロンジュースと混ぜながら食べるのが好きだよ。半溶けになって、メロンの緑とアイスの白がほどよく混ざったくらいが、いちばんおいしいんだ」

スプーンとストローをうまく使いながら、菊ちゃんがメロンフロートを食べる。とてもおいしそうだ。おいしいものを食べると、自然と顔がほころぶ。私は菊ちゃんが喜んでいる、その様子を見ているだけで十分だった。十分に、気持ちが満たされる思いがした。

オレンジジュースを半分ほど飲んで、メロンフロートに乗っていたアイスクリームの形がすっかりなくなってしまった頃、お店の奥から店長さんらしき人がやってきた。

「やあ、前島さん。お久しぶりです」

「笹原さん、ご無沙汰してます。メロンフロート、おいしくいただいちゃってます」

「ありがとうございます。それにしても、ずいぶん若返ったもんですねえ」

「そりゃあもう。みーちゃんと釣り合いが取れるように、うんと若作りしてきたんだから」

胸を張って、店長の笹原さんに応える菊ちゃんの姿に、私は思わずぷっと吹き出してしまった。笹原さんも目を細めている。

「というわけで、店長さん。菊ちゃんは私とデート中なんです。デート中」

「わっ、みーちゃんっ、で、デートって……!」

「はっはっはっ! これは失礼いたしました。では、お二人でごゆっくり、お楽しみください」

笹原さんは大笑いして、颯爽とその場を立ち去る。菊ちゃんは顔を耳まで真っ赤にして、俯き加減でちらちらこちらを伺っている。

「も、もう……みーちゃんったら……どきどきしちゃったよ……」

「だって、好きな人同士、二人きりでいるんだもん。デートだよ、これは」

顔は赤くなったままだけど、菊ちゃんは嬉しさを隠しきれない顔つきで、グラスに残ったメロンアイスをスプーンで掬うのだった。

 

リュミエールを出て、日が傾くまであちこち歩き続けた。私がよく行く場所、菊ちゃんがかつて行ったことのある場所、新しくできた場所――方々を回って、これが最後と決めてやってきたのが、小高い山の上にある神社だった。

家から歩いて二十分ほどのところにある、小さくて古めかしい神社。懐かしい匂いのする、思い出の場所だった。

「みーちゃん、覚えてる? ここでよく遊んでたこと」

「よく覚えてるよ。菊ちゃんに連れてきてもらって、追いかけっこしたりして……」

「うん、うん。みーちゃんあの頃から足が速かったからね。鬼ごっこ、楽しかったなぁ」

誰もいない境内。苔むした石畳は、かつてここを訪れた時から何も変わっていない。変わるものもあれば、変わらないものもある――それを、無言のまま教えてくれるかのよう。

賽銭箱へ百円玉を投げ込む。菊ちゃんが私に続いた。木箱に金属が当たる乾いた音がして、中に硬貨が吸い込まれていく。二人静かに手を合わせて、ただ一心に拝む。

ここへ来る少し前に、菊ちゃんから聞かされた言葉を思い出す。

(ね、みーちゃん。いいこと教えてあげる)

(あの神社にどんな神様がいるか、知ってる?)

蝉が鳴いている境内で、額にじわりと汗が浮かぶのを感じながら、私は次に聞かされた言葉を、心の中でもう一度繰り返す。

(――縁結びの神様、だよ)

隣の菊ちゃんは、誰との縁結びを願っているのだろう。

私は、というと。

(叶わないってことは、嫌というほどよく分かってる)

(けど……それでも、お願いすることくらい、好きにさせてほしい)

(菊ちゃんと――ずっと、一緒にいられたらいいのに、って)

ただそれだけを、それだけを願っていた。

菊ちゃんと一緒にいたいという、決して叶うことのない、儚い願い。それでも願いを神様に託してしまうのは、娑都還りという風習のある、この甚三紅で暮らしているからだろうか。

けれど、今私が菊ちゃんと共にある。それだけは、疑う余地の無い事実だった。

「みーちゃん。帰ろっか」

そう言って背中を向けた菊ちゃんに、私がそっと囁く。

「菊ちゃん」

「なあに、みーちゃん」

私が差し出したのは、右手の小指。それを目にした菊ちゃんの表情が、みるみるうちに変わるのが分かって。

「指、絡ませてほしいな」

「……みーちゃんったら、女の子なんだから」

いつ見ても愛らしい、ふんわりした笑顔。安らぎを覚えるその表情を浮かべた菊ちゃんが、私の小指に、左手の小指をそっと絡めた。細くて短くて脆弱、けれど、決して綻ぶことのない、確かな絆。

私と菊ちゃんの間に結ばれた、赤い糸だ。

「耕造さんに、わたし、浮気しちゃったって言わなきゃね。きっとビックリするよ」

「おじいちゃん、私に妬いちゃったりするのかな」

「ふふっ、大丈夫だよ。だって、お相手はみーちゃんだもの。みーちゃんにはかなわんな、で済ませてくれるよ、きっとね」

小指と小指を絡ませたまま、私たちは石段を降りていく。

別れの時は、もう目前に迫っていた。

 

その夜。

「ふふっ。わたし、ついにみーちゃんのお布団に入れてもらえたね。勇気を出してお願いしてみた甲斐があったよ」

「だってさ、日曜は何がなんだか分からなくて、混乱してたんだもん」

菊ちゃんはパジャマに着替えて、私のベッドで横になっている。もちろん私も一緒だ。私と菊ちゃんは今、同じ布団の上で寝転がっている。

相手の息遣いが聞こえるほどの、ものすごく近い距離。菊ちゃんの顔がすぐ側にあるのを目にして、私は胸が高鳴るのを抑え切れなかった。私がじっと菊ちゃんの顔を見ていると、思うところがあったのか不意に笑顔を浮かべて、私のほっぺを指先でつんつんとつっついてきた。お茶目なところは、最後まで変わらない。

最後。今日が、菊ちゃんと過ごす最後の夜になる。

「明日でお別れなんだね。一週間、経つの早かったよ」

「寂しいけど、でも、一緒にいられて楽しかった。本当に、楽しかった」

「わたしも同じ。楽しみにしてたけど、こんなに楽しくなるなんて、思ってなかったよ」

前のお別れの時と違って、今度はたっぷり心の準備をする時間があるからいいよね、菊ちゃんはそう語った。家に帰って来てから、お母さんやお父さんと食卓を囲んでたっぷり話をして、ついさっきまでは友達に電話を掛けて回っていた。最後は病院のベッドで眠ったまま、ちゃんとした挨拶もできずにこの世を去ったことを思うと、菊ちゃんの気持ちがよく分かった。

別れが寂しいのは同じ。けれど、寂しいという気持ちを伝えて、心残りだって思いを抱かずに済むようにすることはできる。とても大きな違いだった。

「みーちゃん、ありがとう」

「わたしね、綺麗な女の子になったみーちゃんと二人で、いろんなことしてみたかったんだ」

「やりたいと思ってたこと、全部できたよ。膝枕したげるのも、朝稽古も、お墓参りも、全部だよ」

「本当に、帰って来てよかったって、心から思ってるよ」

菊ちゃんと共に過ごした記憶が次々によみがえる。決して長いとは言えない時間だったのに、できたことがたくさんあった。短い間に濃密な思い出を紡いで、すごく充実した時間を過ごすことができた。

明日からは、また菊ちゃんのいない日々が戻ってくる。そんな考えが浮かんでしまったからだろうか、表情に寂しさが滲んだみたいだ。菊ちゃんが私の髪をそっと撫でて、優しく声を掛けてきて。

「みーちゃん、ごめんね。寂しいよね、悲しいよね」

「やっぱり、わたしも寂しいんだ。また、みーちゃんを見てるだけの毎日に戻るのが」

「でもね、みーちゃん。ひとつだけ、言っておきたいことがあるんだ」

目頭が熱くなって、瞳が潤んでいるのが分かる。今にもこぼれそうな涙を瞼にたたえながら、菊ちゃんから片時も目を離さない。

「わたしがいなくて寂しいって思ってくれる、それは嬉しいよ。でも、それでみーちゃんが悲しむのは、それ以上に辛いよ」

「一緒に過ごしてよく分かったよ。みーちゃんはすごく可愛い子だから、きっと幸せになれるよ」

「みーちゃんにはね、いっぱい、いっぱい幸せになってほしいんだ。わたしからの、一番のお願い」

「心配しないで。わたしはいつまでも、お天道様からみーちゃんを見守ってるから」

「だからね……だからね、みーちゃん。みーちゃんは、めいっぱい、幸せになってね」

みーちゃんに幸せになってほしい。菊ちゃんは――おばあちゃんは、私にそう言った。

おばあちゃんの言葉が意味するところを、私はよく分かっていた。言葉通りの意味、秘められた意味。そのどちらにも、おばあちゃんの愛情が、私への想いが、溢れそうになるくらい詰まっていて。別れの言葉なのに、たくさんの愛に満ちていて、私の心をいっぱいにしていく。

「おばあちゃんっ、おばあちゃんっ、ありがとう……っ」

「うん、うん。みーちゃん、泣いていいんだよ。思いっきり、泣いていいからね」

「おばあちゃんと話ができてよかった、いろんなことできてよかった、いっしょにいられてよかった……本当に、本当にっ……!」

「みーちゃんっ……ありがとうね、ありがとう……みーちゃん……!」

おばあちゃんが、私をふんわり抱きしめる。眠れない夜、幼い私を大きな手で包み込んでくれた、あの時の手触りとまったく同じ。おばあちゃんはおばあちゃんで、おばあちゃん以外の何者でもなかった。おばあちゃんはここにいる。ここに、おばあちゃんがいるんだ。

抱き合って、泣き合って。夜が更けるまで思いのたけをぶつけ合った。これが最後だと分かっていて、少しばかりの悔いも残したくなかったから。

向かい合ってさよならを言える幸せを、大切にしたかったから。

 

そして、土曜日。

「さよなら、おばあちゃん」

「うん。さよなら、みーちゃん」

私は胸を張って堂々と、おばあちゃんは晴れやかな顔つきで、互いに「さよなら」と言った。

昨日二人してたくさん泣いて、気持ちにすっかり整理をつけられたおかげで、迎えた別れの時はとても穏やかだった。日曜日にここへ戻ってきたときと同じ区役所の車に乗り込んで、おばあちゃんがみんなに手を振る。

笑顔で最後の「さよなら」を言いたい。その願いを成就させることができた。悔いなんて一つもない。おばあちゃんは向こうへ帰ってしまうけど、でも、私のことをずっと見ていてくれる。これから先どんなことがあっても、おばあちゃんが側にいるって思えば、へこたれないぞって気持ちになれる。私に力を与えてくれる。

(約束、守るからね)

おばあちゃんとの約束。それは、私が幸せになること。

側で見てくれているおばあちゃんのために、たくさん楽しい記憶を紡いで、いっぱい幸せになりたい。それで、おばあちゃんを喜ばせてあげたい。心からそう思った。精いっぱい人生を楽しんで、胸を張って向こうへ行けるようになるんだ。

約束通りおばあちゃんが戻ってきてくれたみたいに、私も――約束を、守るんだ。

「おばあちゃーん! 私っ、絶対幸せになるからねーっ! 約束だからーっ!」

走り去る車に、私が声の限り叫ぶ。私の声は、きっとおばあちゃんにも届いただろう。

さよなら、おばあちゃん。

 

さよなら――菊ちゃん。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。