トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

天狗攫い

眠りから目覚めたとき、佐奈は自分がベッドの上に寝かされている事に気が付いた。

まだぼやけた目で辺りを見回してみる。どこかの部屋にいる。部屋の風景に見覚えはなかった。あまりモノが置かれていない、整然としたというよりも殺風景な部屋。真っ暗な部屋というわけではない。蛍光灯が白壁煌々と照らしていて、中はそれなりに明るく感じる。

自分はここで何をしているのだろう、佐奈はまずそう考えた。少し思案してみるが、答えらしい答えは出て来なかった。ここに来る直前まで何をしていたのか、それもうまく思い出せない。どこかで記憶がぷつりと途切れてしまっていて、なぜここにいるのかが分からなかった。

佐奈がベッドから起き上がろうとした矢先、違和感を覚えて動きを止める。身体がうまく動かない。身をよじってみるが、手足が思うように動かせなかった。もどかしさを感じながら感触を確かめてみて、両手が後ろ手に縛られている事と、脚も同じく揃って縛られている事を確信した。口も開けないようにされている。ガムテープか何かが貼り付けられているようだ。

手足の自由を奪われて、喋れないように口も塞がれている。佐奈はまだ九歳の幼い少女だったが、この状況を理解できないほど子供ではなかった。

(誘拐、されたんだ)

誘拐という言葉を知らないほど、無知でもなかった。

視界を確保しようとぐっと顔を上げた直後、佐奈の目に人影が一つ飛び込んできた。

「起きた?」

見たことのない少女だった。佐奈より六つか七つほど上で、外見は高校生くらいに見える。黒のTシャツに着古した感じのジーパンと、こざっぱりした服装だ。黒い髪を首筋まで伸ばした、ぱっと見は清楚な印象を与える風貌をしている。

けれどその印象に反して、彼女の口元に見えるのは、火の付いた煙草だった。

口から煙を吐き出したかと思うと、目覚めたばかりの佐奈をジッと見下ろす。机の上へ置いていた灰皿へ手を伸ばして、煙草の吸殻を押し付けて火を消す。その様子は手慣れていて、ずいぶん以前から煙草を吸っていることが窺える。佐奈を見る目は無色透明、何の感情も読み取れないものだった。

「あたしだから、攫ってきたの」

佐奈を攫ってきた、そうこともなげに言ってのける。言葉からも、やはり少女が佐奈にどんな思いを抱いているかをすくい取ることはできなかった。

縛られたままの佐奈と、煙草を吸う少女。佐奈は身を強張らせたまま息を潜めて、ただ時間が流れるに任せている。佐奈が目覚めてからおよそ三十分ほど、お互いに何も言わない時間が続く。

しかし、ある時不意に、佐奈は身体の奥が疼くのを覚えて。

(……おしっこ、したい)

少しばかり強い尿意を覚えて、佐奈が顔を歪めた。最後に用を足してから結構な時間が経っている。じくじくとした熱が伝わってきて、排泄欲の高まりを感じずにはいられなくなる。身じろぎ一つさせていなかった身体を微かに揺らして、どうにか尿意をごまかそうとする。

もし、ここで粗相をして漏らしたりしてしまったら、どうなるだろうか。切迫しつつある頭の中で、佐奈はふとそんなことを考えた。あまりいい結果になるとは思えない。できることなら穏便に済ませたい。けれど口にはガムテープが貼られていて、トイレを使わせてほしいと言い出すこともできなかった。

「んっ、んう……」

じわじわと温められた水が下半身に溜まっていく感触がする。佐奈はトイレが近いわけではなかったが、あまり長く我慢をすることも難しかった。どこまで尿意を堪えられるかを考えて、さほど長くは保ちそうにないと考えざるを得なかった。排泄欲求を紛らわすことに夢中で、佐奈は少女が自分を見ていることに気付かなかった。

四本目の煙草を灰皿へ押し付けた後、抑揚のない声で、少女は言った。

「トイレ?」

声を掛けられた佐奈がぴたりと動きを止める。子供ながらに羞恥心を覚えて、顔を赤くしながら恐る恐る頷く。少女はすっとベッドから立ち上がると、佐奈の目の前に立った。

「堪えてて、もうちょっとだけ」

少女は佐奈をヒョイと、実に軽々抱きかかえると、さかさかと早足で部屋を出る。向かった先は廊下の右手にあるトイレで、あっという間に佐奈を連れて来てしまった。佐奈を便座へ座らせると、手際よく手足の縄を解いて自由にする。展開の早さに、佐奈はまるで付いていけていなかった。

言って、終わったら。手短にそう言い残してドアが閉められる。佐奈は少しの間呆気にとられていたが、とりあえず用を足すことはできそうだった。緊張と高まった尿意でややおぼつかない手つきでショーツを下ろすと、水風船のように膨らんでいた膀胱から小水を解き放つ。

解放感に包まれながら、佐奈はしずしずと排泄した。水たまりに尿が触れて、じゃばじゃばと水音を立てる。少女が外にいることを思い出して、少しだけ体勢を変えて音を立てないようにした。いつもよりずいぶん多く出したためか、佐奈がしばしぼんやりした表情を見せる。最後の一滴をトイレへ落としてから、きちんと後始末をしてショーツを上げた。

中からドアをノックしようと一歩踏み出した矢先、ドアが外から開かれて少女が中へ入ってきた。

「終わった?」

佐奈が頷く。少女は小さく息をつくと、再び佐奈の手足を縛ってから、ベッドまで抱えて運んで行った。

ベッドへ座らされた後、少女が「待ってて」と言い、机の抽出しから何かを取り出す。

「これ、忘れてた」

取り出したのは、こげ茶色のチョーカーだった。

少女が佐奈にグッと顔を寄せて、息が当たるほどの距離まで近づく。首筋へ手を回すと、例によって素早い手つきで佐奈にチョーカーを付けた。

佐奈から少女が離れる。首筋に佐奈がそっと手を当てると、僅かに湿った革の感触がした。

首を閉めるような強さではない。少し余裕が持たされるくらいの強さで、どちらかというとぶかぶかですらあった。物理的には確かにそう。けれどそれとは別に、気持ちの問題があって、佐奈は心なしか息苦しくなったような気がした。

この人に飼われているみたいだ、率直に言って、そんな感情を覚えた。

「勝手に外しちゃダメだから、それ。ずっと付けてて」

少女は佐奈にそう言付けて、また元の位置へ戻る。苦しかったら言って、そう一言付け加えてから、机の上に置いてあった煙草の箱とライターに手を伸ばす。

伸ばした手をピタリと止めて、少女がちっと小さく舌打ちをした。

「切れちゃったか」

空になった箱を持って、掌の中でクシャクシャに握りつぶす。先ほどからひっきりなしに吸いつづけていたためか、煙草を切らしてしまったらしい。面倒くさそうに立ち上がって、がさがさと髪を撫でた。

「ちょっと買ってくる」

そう言いながら、少女はどういうわけか窓を開けた。ドアではなく窓を開けた理由は分からない。佐奈がベッドから少女の振る舞いを見ていると、そのままベランダへ出ていくではないか。そして足を軽々と上げて、手すりにすっと乗ってしまう。

次の瞬間、少女は何の躊躇いも無しに、ベランダから飛び降りた。

(えっ)

佐奈が驚いて目を見開く。身動きが取れなかったので、外の様子がどうなっているのかは分からない。ただ、少女がベランダから飛び降りたのは事実だった。あんな高さから落ちれば、普通なら命はない。佐奈は意味が分からず、ベッドにへたり込んでじっとしている他なかった。

十分ほど間を開けたのち、不意にドン、という音がベランダから聞こえた。佐奈がまた目を向けると、ベランダに屈み込む少女の姿があるではないか。その身体には傷一つなく、少し乱れた髪をさっと払って直す仕草が見える。信じがたいが、下から飛び上がって来たのだ。呆気に取られた様子の佐奈を尻目に、少女が窓から部屋へ戻ってきた。手には「わかば」と書かれたベージュの箱が二つ見える。煙草を買ってきたのだろう。

早速封を切って一本取り出すと、ライターで火を点けて一服する。目を見開いて固まっている佐奈にチラリと目を向けると、少女がこともなげに告げる。

「天狗なんだ、あたし。半分人間、半分天狗」

「鼻は短いけどね、見ての通り」

煙をプカプカさせる少女を、佐奈がまじまじと見つめた。

少女は天狗と人間のハーフだという。俄には信じがたいことだが、高所から飛び降りても無傷だったり、逆に高い場所まで跳躍できる様を見ていると、人間離れしていることは確かだ。目の前で見せ付けられては、佐奈も納得せざるを得なかった。

煙草を吸い終えた少女が、灰皿へ手を伸ばす。吸殻を始末してから、また佐奈にぐっと顔を寄せて、口の上から張り付けていたガムテープをそっと剥がした。少し蒸れていた口元に冷たい風が当たって、佐奈が思わず口を開いた。

「名前は?」

抑揚のない声と色のない目つきで、少女が佐奈に問いかける。

「……佐奈」

佐奈が少しだけ声を震わせながら答える。

「佐賀の『佐』に、奈良の『奈』?」

「うん」

「ふーん、佐奈か」

名前を復唱して、確かめる。佐奈、その名前を目の前にいる少女と関連付けるかのように。

「あたしは信子。本当はちょっと違うけど、信子でいい」

「信子、さん」

「そう。それでいい」

少女、もとい信子がそう言うと、佐奈を見つめて二度三度と頷いた。

信子がおもむろに佐奈に手を伸ばして、手足を縛っていた縄を解く。そのまま特に躊躇うこともなく、縄を抽出しに仕舞い込んでしまった。

「面倒くさいから、なんか。自由にしてていいよ。トイレだってさ、自分で行けた方がいいでしょ」

束縛が解かれて、佐奈が不思議そうに信子を見つめる。すると信子もまた、佐奈を見つめ返してくる。

「ま、しばらくはここにいてもらうから。分かった?」

そう言われてしまっては、受け入れる他ない。佐奈は恐る恐る、こくりと頷いたのだった。

 

二人して何をするわけでもなく、空っぽな時間を過ごす。佐奈は小さく縮こまってベッドの隅に座り、信子は時折煙草を吸ってぼんやりしている。信子が五本目の煙草を吸い終えてから、ふらりと目線を佐奈へ投げ掛けた。佐奈は信子の視線にすぐ気が付いて、緊張した面持ちで見つめ返す。

佐奈を上から下まで眺め回した信子が、佐奈にさらりと告げる。

「服脱いでよ、ちょっと」

「えっ」

服を脱いで、唐突にそう言われた佐奈はもちろん困惑して躊躇してしまう。佐奈が自分から服を脱ごうとしない様子を見た信子は小さく息をついて、佐奈に大きく身を寄せる。

「やましいことしようってわけじゃないから、別に」

吊りスカートのホックを解くと、ブラウスを留めているボタンも手際よく外していく。何をされるのかと佐奈は内心気が気ではなかったけれど、信子に逆らうこともできなくて、彼女にされるがままになっていた。ブラウスとスカートが脱がされて、続けてシャツも佐奈の肌から離れる。ショーツ一枚だけを身に着けた恰好で、佐奈は信子の前で座っていた。

佐奈の身体には、幾つか擦り傷や切り傷が見えた。真っ白な肌に、赤黒く付いた傷が痛ましい様を呈している。信子は佐奈の腕を取って丁寧に身体を検分すると、傷のある箇所をすべて洗い出していった。

「良くないね、このまま放っといたら」

そう口にした信子は一旦部屋を出ると、どこからか救急箱を持って戻ってきた。中から消毒液ひとつと大きな絆創膏を数枚取り出すと、佐奈の前に屈み込む。手にした消毒液の蓋を回して、佐奈の腕に見える傷へそっとあてがった。

「言って、痛かったら」

信子はそう言ったものの、佐奈はまるで痛みを感じないことにむしろ驚いていた。信子の手つきは優しく丁寧で、乱雑なところがひとつも無かった。消毒液を程よく塗り込み、大きな絆創膏を上から貼り付ける。すべての傷に手際よく同じ手当てをしてから、信子が頷いた。

佐奈に元通り服を着せてから、救急箱を元の場所へ返しに行く。信子が手ぶらで部屋戻ってくるまで、佐奈はただただ呆気に取られるばかりだった。不思議そうな顔をしている佐奈の思いを感じ取ったのか、信子が口を開く。

「だってつらいじゃん、痛いのってさ。痛かったでしょ、佐奈だって」

信子には言えなかったが、傷口が痛んでいたのは確かだった。けれど信子から処置を受けて、痛みは大分和らいでいる。何もかもが信子の言葉通りだった。自分をどこかから攫ってきたはずの信子に手当てをしてもらったことを、佐奈はどう受け止めればいいのか分からずにいた。

それからまた少し間を開けてから、再び信子が立ち上がった。目線を向ける佐奈の頭に、信子がポンと右手を載せる。

「待っててよ、ちょっと」

信子から待ってて欲しいと言われたので、佐奈は律儀にそこで待つことにした。信子は部屋を出て奥へ向かうと、どこかの部屋に明かりを灯したのが見えた。場所からしてキッチンだろうか、あまり様子が窺えない中で、佐奈が想像を巡らせる。

佐奈の読みは当たっていた。卵を割る音、野菜を包丁で刻む音、油で何かを炒める音……料理をするときに生じる音が幾つも聞こえてきた。時計を見ると、もう直に七時になろうとしている。時間からして夕飯の支度をしているのだろう。何を作っているのだろうか。佐奈の心には、そんなことを考える程度には余裕ができていた。

「佐奈ー、こっち来てー」

名前を呼ばれた佐奈が、ベッドから降りて部屋を出る。リビングには明かりが灯され、テーブルの上には信子が作った料理が並べられていた。

ケチャップの掛かったオムライスと、黄金色のコーンスープ。それが二そろい、向かい合う形で並べられている。オムライスは大きいサイズと小さいサイズにそれぞれ分かれている。信子と佐奈の分だろうか。信子が席に着いたのを見てから、佐奈が正面の椅子を引いて座る。

ゆるやかに湯気を立てる料理と自分の顔を交互に見ていた佐奈に、信子が声を掛ける。

「食べなよ、冷めちゃわないうちにさ」

信子に促された佐奈が頷いて、スプーンを手にしてオムライスの卵にそっと切れ目を入れる。佐奈が食事に手を付けたのを見てから、信子も同じようにオムライスのふちを掬って口へ運んだ。

恐る恐るだったのは本当に最初だけで、佐奈は間もなく食事に夢中になり始めた。おいしい、佐奈の偽らざる感情だった。下味がきちんと付けられたチキンライスの旨味と、ケチャップの掛かった卵の酸味が口に余すところ無く広がる。コーンスープも素晴らしい出来栄えだった。コーンの粒を噛み締めて、佐奈が甘味に酔いしれる。

小さな口を動かして一生懸命食べる佐奈を見た信子が、「おいしい?」と訊ねる。佐奈は迷わず頷いた。頷いた方がいいからとか、そういう判断によるものではない。おいしい、だから頷いた。たった一つのシンプルな理由だ。

「おいしいでしょ」

信子が口元を緩めて、ちょっと得意気に言って見せた。

佐奈がオムライスとコーンスープを綺麗に平らげると、続けて信子も食事を終える。佐奈は満足そうな表情をして、口元をティッシュで拭った。

「あの」

「ん?」

「……ごちそうさま」

「お粗末様。お腹いっぱいになった?」

「うん」

自分が作って出した料理を佐奈がしっかり食べてくれたことに、信子は嬉しさを隠し切れずにいる。片付けをするために食器を重ねながら、信子が佐奈の目を見つめる。

「佐奈。これから朝昼晩、あたしがご飯作って出すから」

「ごはん、食べさせてくれるの?」

佐奈の言葉に、信子がニッと歯を見せて笑い、そして頷く。

「あたしと一緒に食べてもらうからね、しばらくは」

信子は佐奈の目を見て、確かにそう応えた。

夕飯を済ませて小一時間ほど経過してから、佐奈は信子からシャワーを浴びてくるよう言われた。信子に浴室の場所を教えてもらい、服を脱いで中に入る。程よく熱いシャワーを全身に浴びて、佐奈は体が温まって行くのを感じた。汗でべたついていた髪を洗い流して、潤いを取り戻させる。

緊張が自然と解れていくのを感じつつ、佐奈はぼんやりと思考を巡らせる。自分はどうしてここに居るのだろう、信子はなぜ自分を家へ攫って来たのだろう。前触れ無く攫われて、まったく見知らぬ場所に閉じ込められているというのに、佐奈の心は不思議と落ち着いていた。

シャワーを済ませて浴室から出てきた佐奈を信子が出迎える。手にはふわふわのバスタオルがあった。「温まった?」と訊ねられて、佐奈がこくりと頷いた。信子は佐奈の体にバスタオルを持っていくと、柔らかな手つきで全身の水気を拭った。体を拭き終えたところで、下着とパジャマを手渡される。

「お古だけどさ、着れると思うから」

佐奈が着衣する。パジャマはちょっと大きめでぶかぶかではあったが、きちんと着ることはできた。信子が佐奈の手をそっと引いてリビングへ導くと、椅子へ座らせて髪をドライヤーで乾かしてやる。緩い熱風が髪を傷つけること無く湿り気だけを払い、本来のツヤを取り戻す。

続けて信子がシャワーを済ませて、二人してリビングのソファに座った。もはや信子に佐奈を束縛しようという気は無いようで、佐奈が時折座り直したりトイレに立ったりしても、まるで気にすることなく深々と腰掛けたままだった。テレビを点けるわけでもなく、ただただ静かな時間だけが過ぎていく。信子はくたびれた料理のレシピ本を見ながら、時折佐奈に目を向けるということを繰り返していた。

時計が夜十時を指そうかというところで、佐奈がうとうとしはじめた。信子は本を閉じて、隣の寝室へ足を向ける。一分そこそこでリビングへ戻ってくると、うつらうつらと船を漕いでいる佐奈にそっと顔を寄せた。

「敷いたよ、お布団」

佐奈が眠たい目をパチリと開く。信子が布団を敷いてくれたという。

「もう寝ちゃっていいよ、眠いでしょ。いろいろあってさ」

信子にそう言われた佐奈は、彼女の言葉に素直に従うことにした。あくびをしながら立ち上がると、ぽてぽてと寝室まで歩いていく。信子が掛け布団を半分上げて布団へ入りやすくしてやると、佐奈は吸い込まれるかのように布団へ横になった。佐奈が寝転んだところで、信子が布団を掛け直す。

おやすみ、信子は最後にそう言い残して、リビングを消灯して自室へ戻っていった。

 

佐奈が信子の家へ連れ去られてから、三日が経った。

信子は佐奈に危害を加えようというつもりはまるで無いらしい。佐奈がどこへ居ても気にすることなく、ごく自然なことのように振る舞っている。ベッドに寝転んで軽くゲームで遊んだり、どこかへ出かけたり、例によって煙草を吸ったりしている。気ままに、マイペースに日々を過ごしている。その表現がピッタリに思えた。

ただ、佐奈のことを気には掛けているようで、見かけると一言二言声を掛けてくる。体調を崩したりしていないか、何か欲しいものはないか、概ねそんなところだ。決して手を上げることはないし、また声を上げるようなこともしない。繰り返しになるが、佐奈に危害を加えるつもりは毛頭無さそうだった。

「できたよー、佐奈ー」

朝・昼・晩。時間になると自分と佐奈の分の食事を用意して、二人で共に食卓を囲んでいる。これは欠かしたことがない。動きやすいラフな服装を好む信子だが、料理には拘りがあるようだ。毎食違う献立を用意して、佐奈にいろいろなものを食べさせている。どれも純粋に美味しく作られていて、佐奈は残さず食べ切るのが常だった。

湯を沸かして入浴もさせてくれるし、眠くなれば布団で寝ていい。家の中なら不自由することもなく、好きなように歩き回ることもできる。本とかも読んでいいから、そう言われて、佐奈は信子が並べていた料理のレシピ本などをパラパラと読むようにもなった。信子がほどほどに構ってくれるので、退屈することもない。

二日もすると、信子が佐奈に「ベランダになら出てもいい」と言われた。ベランダで外の風に当たると、身体がすっきりする感覚がした。佐奈は特に外を出歩きたいとも思わなかったし、これだけでも十分だった。

佐奈はだんだん信子に慣れていって、声を掛けられても平静で居られるようになってきていた。信子もそれを理解していて、また佐奈が緊張しなくなったことを喜んでいるようだった。

そして四日目の夜。風呂上りの信子が、リビングでストレッチをしていたときのこと。

「信子さん、体操してるの?」

何気なく、佐奈の方から信子に声を掛けた。信子は目をぱちくりさせて、佐奈から話しかけられたことに少なからず驚いている様子を見せた。今までは信子から佐奈へ話しかけて、佐奈がそれに応じるという形ばかりだったからだ。

「うん、美容体操。ほら、こう見えても女の子だし、あたし」

「えーっ。信子さん、普通に女の人だよ」

「佐奈ったら、もう。恥ずいよ、面と向かって言われると」

嬉しさを隠し切れないのが伝わってくる。照れくさそうに口元に手を当てる仕草を見せて、信子が佐奈に言った。

「佐奈、何かヘンなこと言った?」

「ドキッとしちゃっただけ、ちょっとね。そうだ、一緒にやってみる? 佐奈も」

「うん」

信子が佐奈を招き寄せると、ひとつひとつストレッチのやり方を教えてあげた。腕を伸ばす運動、足を伸ばす運動、身体をひねる運動。あまり身体を動かしていなかった佐奈には、どれも心地よく感じられるものだった。

「身体をぐーって伸ばすと、気持ちいいね」

「家の中に閉じ込めちゃってるからね、あたしが解したげるよ。痛くない?」

「ううん、全然痛くないよ」

穏やかな顔つきで、佐奈が信子に身体を預ける。信子はそれに応えて、佐奈の身体を傷付けないよう丁寧に触れる。互いにそれが自然なことのように思えて、何の違和感も覚えていなかった。

ストレッチが済んだあと、信子は煙草に手を伸ばした。そのまま吸うのだろうと思っていた佐奈だったが、信子はライターと煙草の箱、それから携帯灰皿を一掴みにして、窓を開けてベランダへ出たではないか。そして窓を閉めると、外で煙草をふかし始めた。不思議そうに首を傾げる佐奈を背に、信子が吸殻を始末して風を浴び始める。五分ほどそうして、信子が家の中へ戻ってきた。

開口一番、佐奈が信子に訊ねる。

「どうして外でタバコを吸ったの?」

訊ねられた信子は少し気恥ずかしそうにしながら、佐奈にこう答えた。

「良くないって思ってさ、佐奈に煙草の煙吸わせるの。身体に良くないし」

それは、まだ未成熟な佐奈の身体を気遣っての振る舞い。煙草の煙は健康に良いとは言えないから、佐奈からは遠ざけたかったから。信子の言葉に、佐奈は心が暖かくなったのを感じるのだった。

 

ある日の朝。普段のように朝食の支度に取り掛かった信子の元へ、佐奈がぺたぺたと歩いていく。

「お姉ちゃん」

「ん、佐奈。どしたの?」

佐奈が信子を見上げながらエプロンの裾を掴んで、こう切り出した。

「佐奈に、お手伝いさせて」

朝食作りを手伝いたい。佐奈は信子にそう伝える。言われた信子の表情は見る見るうちに緩んで、嬉しさでいっぱいになったのが見えた。

「ありがと、佐奈。それじゃ、並べて、食器」

「うん」

「終わったらこっち来て。卵焼き、一緒に作ろっか」

佐奈が棚からお皿とガラスのコップを出して、テーブルの上へ並べる。食器の準備が終わったころ、信子は卵を溶き終えて、油を敷いたフライパンを温めていた。佐奈を手招きして近くに来させると、自分が後ろに立つ形になって、佐奈にフライパンを持たせてあげた。

「焼いたことある? 卵」

「ううん。今日がはじめて」

「分かった。じゃ、あたしが手伝うから」

信子は佐奈の手を支える形をとって、卵焼きの作り方を教えた。フライパンにはそっと溶き卵を注ぐこと、隅へ固まらないように上手く箸で混ぜること、半熟になったら火を止めて余熱で仕上げをすること――佐奈は信子からのアドバイスにひとつひとつ頷いて、卵焼きを作り上げた。

野菜サラダとバターを塗ったトースト、そして焼いたばかりの卵焼きを盛り付けて、朝食の準備が整った。いただきます、二人が手を合わせ、そして声を合わせて言う。信子は真っ先に卵焼きに箸を伸ばすと、さっと口へ運んで食べ始めた。

「……うん。おいしい」

「おいしい?」

「上出来。自分で作ったのと同じくらいおいしい」

信子から「おいしい」という評価をもらった佐奈は、陽の光をいっぱいに浴びた向日葵のようにぱあっと晴れやかな表情を見せた。佐奈もまた、信子から褒められて嬉しくなったのだ。

談笑しながらゆっくり朝食を済ませて、信子が食後のコーヒーを淹れる。佐奈にはオレンジジュースを注いで、それぞれテーブルへ置いた。オレンジジュースをコップ四分の一くらい飲んで喉を潤すと、佐奈が一息入れる。心はこの上なく落ち着いていて、とても穏やかな気持ちだった。あたかもここが自分の家であるかのように、緊張することもなくリラックスしている。

対する信子がコーヒーを一口すすって、佐奈をしばし見つめる。少しだけ目を伏せたかと思うと、普段よりも幾分躊躇いがちに、佐奈に話しかけた。

「佐奈、ちょっといいかな」

「お姉ちゃん?」

「そろそろ……家に帰りたいとか、思ったりしてる?」

いささか苦しそうに、或いは気まずそうに、信子は佐奈に訊ねた。

「あのさ、佐奈」

「もし佐奈が帰りたかったら、いつでも帰っていいよ。家の近くまであたしが近くまで送ったっていい」

「あたしは邪魔したりしないし……なんだったら、警察に突き出したっていいから」

だから、と言い掛けた信子の前で、佐奈が首をぶんぶんと横に振った。

「やだ」

「佐奈」

「帰りたくない」

ぐずるように言う佐奈に、信子が身を乗り出した。佐奈が信子の瞳を覗き込むと共に、口から言葉があふれ出した。

「佐奈、帰りたくない」

「引っ越してきたばっかりで、友達もいなくて」

「家にいても、叩かれたりするもん」

「新しいお母さん、佐奈のこと嫌いだから」

佐奈の短い言葉だけで、信子は佐奈の身に何が起きているのかをすべて理解した。理解してしまった、と言うべきかも知れない。痛ましげな表情がすべてを物語っていた。

一年ほど前、佐奈を産んだ母親が亡くなってしまった。その後、父親が今の母親と再婚したそうだ。継母は佐奈をあまり好ましく思っていなかったようで、軽率に暴力を振るったり、特段の理由もなく食事を抜かれたりしていた。父親も佐奈を守ってはくれなかったようだ。両親から顧みられず、佐奈は孤独を募らせていた。

「あの日公園にいたのも、じゃあ」

「うん」

家に居づらかった佐奈は、日が暮れるまで当て所なく外を彷徨うようになっていった。信子が佐奈を見つけた日もそうだ。身も心も疲れ切って、公園のベンチで眠っていたところを信子が見つけた。そこで信子が佐奈を攫ったことで、今こうして佐奈は信子の家にいるという形になる。

信子が席を立って、佐奈の隣へ移った。佐奈の手をそっと取って、柔らかく、そして強く包み込む。

「そうだったんだ、やっぱり。ひどい目に遭ってんじゃないかって思って、あたし、それで」

やっぱり、という言葉が重く響く。信子は佐奈を連れてきたときから、佐奈が決して幸せな場所にいたわけではないことを見抜いていた。身体が傷だらけだったこともそうだし、少しやつれた顔をしていたのもそうだった。信子は佐奈の境遇を思い、ただ目を伏せるばかりだった。

信子が佐奈を攫ったのはそれが理由だった。公園で一人眠る佐奈を放っておけず、家へ連れ帰って来たのだ。

「けど……あたしも、誰かにいてほしかった。だから、佐奈を」

「お姉ちゃん」

佐奈が信子の手の上に掌を重ねる。信子の気持ちを絆すには、これで十分に過ぎた。

「人間と天狗のハーフだって、あたし前に言ったけど」

「お母さんがさ、たまたま寝た相手が人のカッコした天狗で、それでデキたのがあたしで」

「気味が悪いみたいでさ、やっぱり。近付きたがらなくって」

以前信子は佐奈に、「自分は天狗と人間のハーフだ」と告げたことがある。普通なら突拍子もない作り話だと一笑に付すところだが、マンションの十階から飛び降りて平然としていられる驚異的な身体能力がすべてを物語っていた。信子は普通の人間ではない。普通の人間ではないとするなら、自己申告通り天狗と人間のハーフと考えるのが妥当と言えた。

「お母さんにとって、ホテルみたいな場所だから。ここは」

母親はほとんど家に寄り付かず、お金だけを口座へ入れているという。最低限の義理というわけだろう。信子はずっと一人で暮らしていた、それは紛れもない事実だった。

信子も、佐奈も、母親から顧みられなかったというところでは、似た者同士と言えた。

「佐奈」

手にいっそう力を込めて、信子が目を潤ませながら、佐奈の目をまっすぐに見つめて。

「なんかもう、今更だけど」

「急に攫ったりなんかして、ごめん。本当に、ごめん」

佐奈を攫ってここへ連れてきたことを、謝罪した。

「攫って来ただけでもどうかしてるのに、手足まで縛ったりして」

そして、ごく最初のうちは、佐奈の自由を奪っていたことについても。

「朝ご飯食べてる間もずっと考えてた。なんであんなことしたんだろって」

「なんて言ったらいいのかな、忘れちゃいけないって思ってた。自分は悪いことしてんだって」

「佐奈を助けた正義の味方なんかじゃない、佐奈を攫った悪い奴なんだ、そう自分に言い聞かせたかったんだと思う」

「だけど、佐奈を見ていると痛々しくて、とてもじゃないけど続けられなかった」

「自分が楽になりたくて、佐奈を苦しめてるんだ、そう思ったら、もう耐えられなかった」

信子の絞り出すような声を聞いた佐奈が、椅子から降りて信子に寄り添う。佐奈の肌を感じた信子が痛切な表情を見せて、佐奈の頬をそっと撫でた。

「あたしはいろいろ間違ってた、やっちゃいけないこともたくさんした」

「でも、これだけは約束する」

「少なくとも、私は佐奈を叩いたりしないから」

決然とした信子の言葉に、佐奈は幾度も幾度も頷いた。

佐奈と信子の関係が、新しい局面を迎えつつあった。

 

信子が佐奈の髪を繕っている。ハサミで枝毛を一本一本切り落としてから、櫛で丁寧に梳いていく。ここへ来たばかりの頃とはうって変わって、髪は鮮やかさとツヤを取り戻している。佐奈が信子から大切にされている証左と言えた。

下準備をすっかり整えてから、信子は佐奈の髪を結び始めた。壊れ物を扱うかのような優しい手つきでもって、佐奈の髪を結っていく。お下げにしてほしいと頼んだのは、佐奈からだった。亡くなった母親がよく繕ってくれたらしい。信子は佐奈の頼みを快く聞き入れた。

「こんな感じでいい? 佐奈」

「うん。思ったとおり」

佐奈はすっかりリラックスしている。髪を信子に預けて、不安そうな様子はまるで見せない。髪を預けるということは、信子を深く信頼していることのあらわれ。もちろん信子もそれを理解していて、佐奈の期待に全力で応えようとしている。佐奈の髪を結ぶ信子の表情は、幸せそのものだ。

やがて信子が髪を結い終えて、佐奈に「できたよ」と声を掛ける。改めて鏡で自分の姿を目にした佐奈が、ぱあっと瞳を輝かせた。きっちり結ばれた綺麗な三つ編みが、佐奈の横でゆらゆらと揺れている。後ろにいる信子の方へ向き直った佐奈が、満面の笑みを湛えて「ありがとう」とお礼を言った。

「嬉しいよ、気に入ってくれたんなら」

佐奈を喜ばせることができて、信子もまた嬉しそうな顔を見せた。

こうして準備が済んだところで、佐奈と信子が連れ立って玄関のドアを開く。信子が佐奈におめかしをしてあげたのは、二人して出かける場所があったからだ。

「お姉ちゃん、お店どこにあるの?」

「んーっと、ここから三駅くらい行ったところ。電車でさ」

手をつないで、歩調を合わせて歩くさまは、さながら二人が姉妹であるかのよう。佐奈が信子のことを「お姉ちゃん」と呼んでいることも拍車をかけている。傍から見れば、二人が誘拐の加害者と被害者という関係から始まったようには到底見えまい。佐奈が信子を引っ張るように歩いて、元気溌剌とした天真爛漫な仕草を見せているのだから、なおさらだ。

「佐奈とお姉ちゃん、ほかの人からどう見えてるかな?」

「従姉妹同士とかに見えてたりしてね、案外」

くすくすと笑う佐奈と信子に、憂いの色は微塵も見られない。

電車での移動を終えて二人がやってきたのは、郊外にある大きなショッピングモールだった。三階建てで吹き抜けがあり、中には服飾店や飲食店がぎっしりと詰まっている。様々な場所で目にすることができる、典型的なショッピングモールだ。

「わぁ、広いねー」

「どうよ? ホントに何でもあるからね、ここは。佐奈も気に入るよ、きっと」

食べ物以外に欲しいものがある時、信子は決まってこのショッピングモールを訪れていた。お気に入りの場所と言ってよい。そして、自分の好きな場所へ佐奈を連れ出したというわけだ。

「よし。そいじゃ佐奈、あたしの着る服、佐奈のセンスに任せたよ」

「わかった! お姉ちゃんも、きれいなお洋服選んでね」

二人がここを訪れたのは、単に遊びに来たという理由だけではない。新しい服を買いに来たのだ。佐奈は信子の、信子は佐奈の、お互いに似合いそうな服を選んでみようと、信子から切り出したのだ。こんな話に、信子を慕う佐奈が乗らないはずがなかった。

立ち並ぶ店をあちこち見て回りながら、佐奈と信子がワイワイと声を上げる。

「このさ、フリル付きのシャツとチュールスカート、佐奈っぽさとあたしっぽさが混じってて良くない?」

「かわいいし動きやすそう!」

信子は佐奈の服を選び、

「お姉ちゃん、こんなのどう?」

「ほぉー、スカンツにボーダーチュニックなんて、大人っぽくてイケてるかも。やるじゃない、佐奈ったら」

佐奈は信子の服を選ぶ。

共にいる時間が長くて、相手のことを細かなところまでよく知っているから、よく似合う服を選ぶことができた。佐奈は信子のチョイスを、信子は佐奈のチョイスをそれぞれ心から気に入ったようで、選んでもらった服でスパッと決めてしまった。信子がお金を出して、選びあった服を手に入れる。

「着るの楽しみだね、お姉ちゃん」

「久しぶりかも、こんなにワクワクしたの。ありがとね、佐奈」

ショッピングモールを出た二人は駅へ戻らず、近くにある公園へ移動した。ちょっと一息入れるためだ。空いていたベンチに二人並んで腰掛けて、大きく息をつく。佐奈にとっては久々の外出。綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込んで、燦々と照る太陽の光を全身に浴びて、佐奈がのびのびと羽を伸ばす。

そうしていると、だんだん眠気を覚えてきたようだ。佐奈が目を細めてうとうとし始める。すると信子は佐奈の肩を抱きながら、耳元でそっと囁いた。

「お昼寝する? 佐奈。枕もあるしさ」

佐奈の目に飛び込んできたのは、肉付きがよくふっくらとした、信子のひざだった。膝枕をしてあげる、信子は佐奈にそう言いたかったというわけだ。信子の言葉に甘えるように、佐奈が頭を信子の膝へ預ける。佐奈は安心したのか、すぐに眠りについた。すやすや眠る佐奈の様子を、信子が感慨深げに見つめている。

小一時間ほど経ってから、佐奈がぱちりと目を開いた。視線の先には信子の顔がある。佐奈を見守っていた信子が穏やかに微笑むと、佐奈が無邪気にはにかむ。頬をそっと撫でられて、佐奈がうっとりした表情を見せた。

「ありがとう、のぶちゃん」

自然に出た言葉だった。佐奈は信子のことをお姉ちゃん、ではなく、のぶちゃん、と呼んだ。

「のぶちゃん――か。くすぐったいな、なんか」

愛称で呼ばれたことに気恥ずかしさを覚えながらも、信子は嬉しさを隠そうとしなかった。佐奈が自分との距離をまた一歩縮めてくれた、そう感じられたからだ。大切にしている佐奈に、気安く愛称で呼んでもらえる。誰かに愛されるという経験がなかった信子にしてみれば、これまでの生涯で感じたことのない、幸せな出来事だった。

「佐奈、もう一回言ってみて」

「えへへっ。のぶちゃん」

「うん……うん。幸せ、あたし」

両腕を回して、佐奈が信子をしっかりと抱きしめたのだった。

 

明くる日。信子は普段のようにエプロンを身に着けて、キッチンで何かを作っている。慣れた手つきで材料を混ぜていき、温めておいたオーブンで焼く。調理を始めて一時間ほどで、作業はすべて終わったようだ。エプロンを外して、リビングにいた佐奈に声を掛ける。

「佐奈、できたよ。ほら」

「わぁ……! のぶちゃん、これって……!」

「チョコチップクッキー。好きなんだ、これ」

本人の言葉通り、テーブルの上にはふっくらと焼き上げられたチョコチップクッキーがずらりと並んでいた。辺りには甘い香りが漂っている。熱い紅茶もポットに淹れて、いつでもお茶会が始められる、そんな様相を呈していた。

ティーカップに紅茶を注いで、ソーサーへ載せて佐奈の前へスライドさせる。自分が飲む分も準備すると、二人がいつものように向かい合って席に着いた。

「食べてみて、佐奈」

「うん。いただきます」

クッキーを進められた佐奈はすぐさま一枚手に取って、そのまま口へと運んだ。クッキーを食べた佐奈が目をまん丸くして、信子の瞳をまっすぐ見つめる。

「あまーい……! おいしいよ、のぶちゃん!」

「気に入ってくれた? だったら嬉しいよ」

信子の焼いたチョコチップクッキーは、佐奈の食べたことのあるそれ、つまるところ店頭で売られている市販のものよりもずっと香ばしくて、それが甘さを引き立てていた。外はさっくり、中はしっとりというクッキーのあるべき姿を忠実になぞった信子のチョコチップクッキーは、佐奈の舌を喜ばせるには十分なものだった。

「もっと食べていい?」

「もちろん! そのために焼いたしね。さ、好きなだけ、遠慮せずに食べちゃって」

一枚目をあっという間に食べきった佐奈が二枚目のクッキーを手にする。佐奈がクッキーを気に入ってくれたことに安堵しながら、信子も一枚手に取って食べ始めた。時折紅茶をすすったり、とりとめもないおしゃべりをしたり。信子と佐奈のティータイムは、終始和やかに進んでいく。

たくさんあったクッキーをすべて平らげて、紅茶の入ったポットも空にしたところで、少しの間が挟まれた。佐奈は信子を、信子は佐奈を見据えて。お互いがお互いの瞳に映し出されている。佐奈が目をぱちぱちさせると、信子が心なしか顔を赤くしながら、伏し目がちに口を開く。

「えっとさ、佐奈。みんな食べちゃった後に言うのもヘンな話だけどさ」

照れくさそうに前置きしてから、信子が佐奈に切り出した。

「あたし、お菓子を作るのは、好きな子にだけって決めてたんだ」

今度は佐奈が顔を赤くした。信子から言われた言葉の意味を、佐奈はちゃんと理解することができた。

「好きだよ、佐奈。大好き」

信子が佐奈にお菓子を振舞ったのは、つまるところ――信子が佐奈を好きでいる、ということで。

「のぶちゃん……」

そして、佐奈は。

「佐奈も、のぶちゃんに負けないくらい、のぶちゃんのこと、好きだよ。大好き」

好き。大好き。

その言葉で、信子の想いに応えたのだった。

 

信子と佐奈が二人、並んでソファに腰掛けている。佐奈は信子の腕にしがみついて、片時も離れようとしない。信子の傍にいるのが一番落ち着ける、佐奈からはそんな思いが伝わってくる。佐奈の想いに応えながら、信子が時折佐奈の頬を優しく撫ぜた。

ふと、ちらりと信子が佐奈の首元を見る。そこには、信子が佐奈を攫ってきた日に着けたチョーカーが、今も変わらず首に巻きついている。信子は一瞬目を伏せてから、意を決して佐奈に呼びかけた。

「佐奈」

「のぶちゃん」

「言いそびれてたけど……外したほうがいいかな、それ」

「チョーカーのこと?」

「うん。ほら、締まっちゃいそうだし、首」

チョーカーを着けさせたことに深い意味はなかった。強いて言うなら、信子を精神的に束縛したかった、最初のうちだけはそんなことを考えていたかもしれない。犬や猫に着ける首輪の代用という意味があった。

佐奈を束縛する理由がなくなった――佐奈は自発的に自分の傍にいてくれるようになった今となっては、まさしく無用の長物だ。そればかりか、佐奈を煩わせているような気がして心配でならなかった。自分は佐奈を傷付けないと言ったのに、別の形で傷つけているのではないか。信子は不安でいっぱいの目を佐奈に向けて、佐奈の反応を待った。

佐奈が口を開いたのは、その直後だった。

「ううん。このままがいい」

「佐奈」

「これは、佐奈の宝物だから」

宝物。佐奈の口から飛び出した言葉に、信子が耳を疑う。宝物、宝物と佐奈は言ったのか。驚きに目を染める信子に、佐奈が自らの思いを口にする。

「これが、のぶちゃんと佐奈をつないでくれてるって、そう思ってるから」

「だからね、これからも着けてたい。のぶちゃんとつながってたい」

佐奈の中で、チョーカーの持つ意味合いが変わっていた。新しい意味を与えられたチョーカーは、佐奈の精神を束縛するものではなく、佐奈と信子を繋ぐ絆の証へと生まれ変わったのだ。

信子が瞳を潤ませる。涙を零さないように袖で拭うと、ありがとう、と一言だけ言葉を発して、後はただ、佐奈の髪を優しく撫でるばかりだった。

しばらくすると、浴室の方からアラームの音が聞こえてくる。お風呂が沸いたようだ。信子と佐奈の視線が自然と合う。

「ね、佐奈。せっかくだからさ、お風呂一緒に入らない?」

「うんっ。入る入るっ」

ごく自然に、信子が佐奈を入浴に誘った。佐奈は飛び上がらんばかりに喜んで、信子と共に躰を洗えることをとても嬉しそうにしている。うんうん、と信子が頷いて立ち上がると、佐奈もすぐさまそれに続いた。干しておいたバスタオルを手に引っ掛けて、浴室へと向かう。

脱衣所で服を脱いで、一糸纏わぬ裸体になった佐奈と信子。けれどその場で、信子は思わず表情を硬くする。

「佐奈、体の傷……」

「……うん」

佐奈の体には、生々しい傷痕がまだ幾つも残っていた。かつて継母から受けていた虐待を、何よりもはっきりと物語る痕跡。痛ましい顔をした信子に、佐奈もまた辛そうな表情を見せた。裸の付き合いをするということで、こうなることは覚悟してはいたけれど、実際にその時を迎えてみると、苦しさを感じずにはいられなかった。

華奢な体を抱く佐奈の肩に、信子がそっと手を置いて。

「あたしは絶対、佐奈を傷付けたりなんかしない。約束する、絶対だから」

自分を守る、その強い意志を伝えられた佐奈が、強張らせていた表情を緩めて、信子にそっと寄り掛かった。

浴室に入った二人がまずシャワーを浴びる。熱いシャワーに佐奈がきゃっきゃとはしゃぐと、信子も声をあげて笑う。シャワーを浴びて体を温めたところで、信子が濡らしたタオルに石鹸をこすりつけて泡立てていく。佐奈の躰、綺麗にしたげるからね、信子はそう言うと、たっぷり泡の付いたタオルを佐奈の腕に当てがった。

腕から始まって、お腹、首筋、腋の下、足の裏に至るまで、信子が佐奈の躰を丁寧に磨いていく。佐奈はくすぐったそうにしながら、信子の手で躰を洗ってもらえることに喜んでいた。佐奈の躰を余すところなく泡に包み込んだところで、信子が顔を上げる。

そこで、今度は佐奈が口を開いた。

「のぶちゃんの背中、佐奈が流したげるね」

信子の持っていたタオルを受け取って、佐奈が信子の背中へ回る。屈んだ信子の背中にタオルを当てると、佐奈は一生懸命上へ下へと泡を擦り付けていく。覚束ない手つきだったが、信子は気持ちよさそうないい表情をしていた。信子が佐奈に「ありがとう」とお礼を言うと、佐奈がにっこりほほ笑む。その様子を、信子は鏡越しにしっかりと目にしていた。

シャワーで纏わり付いた泡を綺麗に落としたところで、二人がお湯の張られた浴槽へ躰を浸けた。向かい合う形で座って、胸の辺りまで湯船に浸かる。

「ちょっと狭いね、二人一緒に入るとさ」

「のぶちゃん、胸おっきいから」

「もう、佐奈ったら。年上をからかうんじゃないの」

ふざけあって、笑いながら、浴槽が狭いことを口実にして、佐奈と信子が身を寄せ合う。佐奈が信子にしがみつくように腕を回すと、信子は佐奈を包み込むかのように抱きしめる。二人の躰が熱くなったのは、湯に浸かって体温が上がったからだけではあるまい。

目を閉じて、体温を交換しあって、二人は体を芯まで温めあった。

お風呂から出て体を拭うと、少し熱を冷ましてからパジャマに袖を通す。佐奈に椅子へ座るように促すと、信子がいつものようにドライヤーを持ってきて、佐奈の髪を乾かし始めた。熱風を浴びてふわふわ揺れる佐奈の髪を、信子が慈しむように撫ぜる。

「綺麗だよね、佐奈の髪。きっと美人になるよ」

「のぶちゃんと同じくらい、きれいになれる?」

「あたしよりもっと綺麗になれるかも。負けてらんないね、あたしも」

佐奈にとって、信子は理想の女性だった。だから、信子と同じくらい綺麗になりたい、そう願っている。信子は佐奈から自分が「綺麗な人」だと思われていることが、ただただ嬉しくてならなかった。誘拐から始まったとは思えないほど、佐奈と信子は互いを理解し、信頼しあっていた。

髪が乾いたところで、佐奈と信子が隣り合って座る。ふとお信子が佐奈を見ると、佐奈が何やらもじもじして、言いたいことがありそうな顔をしている。身を寄せ合って共同生活をしている間柄、信子が見逃すはずがなかった。

「どうかした? 佐奈」

「あのね、のぶちゃん。お願いがあるの」

「お願い? いいよ、言ってみて」

「えっと……ちょっとだけ、目、閉じててほしい」

目を閉じてほしいと言われた信子は、何ら疑うことなく瞼を下す。佐奈が視界から消えて、暗闇だけが広がる。佐奈は信子が目を閉じたのをしっかり確かめてから、おもむろに椅子から立ち上がって、信子へ体を近付ける。ぐっと顔を寄せて、目いっぱい体を伸ばして、佐奈が――。

信子の頬に、そっとキスをした。

「……!」

思わず目を開けた信子の前には、顔を真っ赤にした佐奈がいた。もちろん信子の顔も真っ赤だ。まさか、佐奈にいきなりキスをされるとは思ってもみなかったから。

恥ずかしそうに顔を俯かせた佐奈が、上目遣いで信子を見て、一生懸命絞り出すような声で信子に思いを告げる。

「佐奈、のぶちゃんのこと……好きだよ、好きだもん」

これまで二人が幾度も交わした「好き」という言葉。けれど佐奈が今口にした「好き」という言葉は、単に好意を持っているという段階を超えて、佐奈が信子を特別な存在と認識していることを如実に表していた。それが分からないほど信子だって鈍感ではない。分かるからこそ、こうやって頬を紅潮させているのだから。

口を手で包んでいた信子がゆっくりと手を口から離して、上ずった声で、今にも感情があふれ出しそうな声で、佐奈の告白に応えた。

「……幸せ。幸せだよ、佐奈」

「あたしだって好きだもん。佐奈のこと、誰よりも」

「佐奈もあたしのことが好きだったら嬉しいって、ずっと夢見てた」

「これってさ、あたしは佐奈が好きで、佐奈はあたしが好き、そういうことなんだよね」

「誰かと好き同士でいるのって……こんなに幸せなんだ」

感極まった声を上げて、信子が佐奈を抱きしめた。佐奈も負けないくらい強く、信子の躰を強く抱きしめる。二人を隔てる壁はもはや何もない。佐奈は信子が好き、信子は佐奈が好き。あるのはただそれだけだ。それ以上は何もなく、そして何もいらなかった。

共に在ることができるなら、二人はただ、それだけで十分だった。

互いの気持ちを確かめ合って、幸せなぬくもりに包まれながら平穏な時間を過ごしていた信子と佐奈だったが、夜も更けてきたことで、佐奈が大きなあくびを一つした。眠くなってきたようだ。信子も同じく眠気を感じていたようで、瞼が少しばかり閉じかかっている。

「眠くなってきたね、佐奈」

「うん……」

「お布団敷こっか。来てくれる?」

二人手を取り合って和室へ向かうと、マットレスと布団を敷いて寝床の準備を整えた。普段ならここで佐奈一人が眠って、信子は自室で寝るところだったが、今日は少し違った様相を見せていた。

「ね、佐奈。あたしからも一つ、お願いしていい?」

「おねがい?」

「うん。今日はさ、佐奈と一緒のお布団で寝たいなって思って」

一緒に寝たい、と言われた佐奈が、閉じかかった目をぱっと開いて、瞳をキラキラ輝かせた。こんなことを断るはずもない。のぶちゃんと一緒に寝られるんだ、と佐奈が声を上げて大はしゃぎした。信子が佐奈の頭をなでてあげると、押し入れから枕をもう一つ出してきて、佐奈が使う枕の隣へ置いた。リビングの明かりを消して部屋を暗くすると、二人が揃って布団へもぐりこむ。

佐奈は信子と寝床を共にできることがよほど嬉しかったと見えて、信子のパジャマの裾を掴んで離さない。信子をすぐ近くに感じられて、佐奈は感情を抑えられなくなったようだ。信子にぐっと体を寄せて、小さな声で囁く。

「のぶちゃん、ずっとそばにいて」

「もう、佐奈を一人にしないで」

信子は思う。佐奈はこれまでどれだけの寂しさに耐えてきたのだろう、どれほど辛い思いをしてきたのだろう。もう一人になりたくない、佐奈の想いはあまりに切実で、実に痛々しいものだった。けれど同時に、信子はそんな佐奈を支えることができる。共にいて身を寄せ合うことで、佐奈の辛さ苦しさを拭うことができる。その思いが、信子を強くした。

いつしか佐奈は眠りについて、安らかな寝息を立て始めた。いい夢を見ていてほしい、信子はそう願う。佐奈が安心して眠れるように、そして佐奈といつまでも一緒にいられるように、今はただ、力を尽くしていきたい。信子は、そんなことを考えていて。

ただ、信子の側に居られればいい。ただ、佐奈の側に居られればいい。

佐奈も信子も、それだけを願っていたのだけれど。

 

ある朝のことだった。

佐奈が目を覚まして、寝床からもぞもぞと出てくる。信子は先に起床していたようで、枕元に姿はない。佐奈は眠い目をしきりにこすりながら、信子がいるであろうリビングへ向かった。

「佐奈」

「おはよ、のぶちゃん」

思った通り、信子はリビングにいた。何も変わった様子はない。ただ、少しばかり表情が浮かなかった。それを見逃す佐奈ではなく、信子のすぐ近くまで早足で歩み寄ると、おもむろに信子に訊ねた。

「のぶちゃん、どうしたの? なんだか元気ないよ」

「……見て、佐奈。テレビ」

「テレビ?」

佐奈は気づいていなかったが、信子はテレビを見ていたようだ。信子に促されるまま、佐奈が右手にあるテレビへ目を向ける。

そこには、佐奈の顔があった。

「これ……」

「テレビでやってるんだ、佐奈が行方不明になってるって」

映し出されているのは、数年前に撮られた佐奈の写真。テレビのアナウンサー曰く、佐奈は少し前から行方不明になっていて、警察が行方を捜しているという。行方はようとして知れず、何らかの事故に巻き込まれた可能性もある――そんなことを言っていた。

呆然とする佐奈に、信子が静かに近寄る。顔を向けてきた佐奈に、信子は痛ましげな表情を見せた。

「いつかはこうなるって、心のどこかで思ってた」

「ずっと静かでいられるはずなんかないって、覚悟はしてた。でも、やっぱり……」

「佐奈を、ずっとここに閉じ込めてちゃいけないんじゃないか、って……」

信子は拳を握り締めて、ギュッと瞼を閉じる。そんな信子に、佐奈が首をぶんぶんと横に振る。

「違う……違うよ、のぶちゃん」

「新しいおかあさんは、佐奈のことなんて心配してないもん」

「こうやって、佐奈がいなくなったって言えば、みんな新しいおかあさんのことちやほやするから」

「佐奈、のぶちゃんといっしょがいい」

「もう、寂しいのはいやだから」

泣きじゃくりながら、佐奈が信子の腕にしがみついた。もう暴力に怯える日々には戻りたくない、その思いが痛切に伝わってくる。そして佐奈の想いは、信子だって痛いほど理解していた。佐奈が家へ戻ったところで居場所などないのは、あまりにも明らかだった。

幾許かの葛藤を挟んで、逡巡に逡巡を重ねて、佐奈に問い掛けた。

「佐奈」

「あたし、どうしたらいい?」

「こんなこといつまでも続けられない、それは分かってる」

「でも……でも! 佐奈と一緒に居たい、同じ時間を生きたい!」

「あたし、どうしたら…っ!」

放っておけば、佐奈が見つかって連れ戻されるのは時間の問題だろう。それだけは避けたかった。だから信子は佐奈を守りたい、けれどどうすればいいのか分からない。ここへ佐奈を連れてきてから、ずっと彼女を守ってきた信子が初めて見せた弱音だった。

涙を流しながら苦悩する信子を、佐奈が赤くなった目でじっと見つめる。ただ悲嘆に暮れているばかりの佐奈だったが、もがき苦しむ信子を前にして、少しずつ、その瞳から悲しみの色が消えていく。佐奈の目に宿り始めたのは、それとはまったく違う感情で。

「のぶちゃん――」

いつしか佐奈の瞳には、強い意志が宿っていた。

すぅ……と大きく息を吸い込むと、佐奈は自分の首に手を掛けた。

「のぶちゃん、顔を上げて」

首に巻かれていたチョーカーを外すと、信子に顔を上げるよう促す。信子は佐奈に言われるがまま顔を上げて、佐奈と視線を交錯させた。みなぎるばかりの勇気を宿した佐奈の瞳に信子が面喰っていると、佐奈は迷わず、向かい合った信子の首筋へ手を回した。

佐奈は、信子の首にチョーカーを巻き付けた。そして。

「のぶちゃん」

「今度は、佐奈がのぶちゃんを攫うから」

「だから、だから……佐奈といっしょに来て!」

自分が信子を攫う。声も体も震わせながら、けれどありったけの勇気を振り絞って、絶対に折れないという強い意思をもって、佐奈が信子に言い放った。信子を力いっぱい抱きしめて、佐奈が信子を包み込む。

佐奈の決意と覚悟に、信子もまた吹っ切れたようだ。涙をパジャマの袖で拭って、佐奈の目をまっすぐ見据える。

「ありがとう、佐奈」

「あたし、決めた。ずっと佐奈の側に居る、もう佐奈から離れたりなんかしない!」

信子は佐奈と共に、佐奈は信子と共に。

二人が出した、シンプルな答えだった。

 

ショルダーバッグを肩に提げた信子が、佐奈の手を引いて部屋の外へ飛び出す。

服と下着を幾らかと、あるだけのお金を全部。それだけをバッグに詰めて、二人は家を出ることに決めた。ここに留まって見つかるのを待つよりも、どこか遠くへ行った方がいいのは明らかだった。

廊下へ出た佐奈と信子が、手すりの外を見つめる。

「佐奈、ちょっと荷物持ってて」

「うん」

信子がバッグを佐奈に預けると、佐奈を抱えてすっくと立ち上がる。

「派手な方がいいでしょ、どうせ行くならさ」

しっかり掴まってて、信子が佐奈にそう言付けると、佐奈は力強く頷いて、バッグを抱えたまま信子の腕にしがみついた。佐奈が自分に身を預けたことを確かめて、信子がぐっと前へ踏み込む。

「それっ!」

腰を沈めて力を溜めると、信子は手すりを越えて外へと勢いよく飛び出した。高く高く飛び上がって、それから一直線に地面へ落ちていく。

しゅたっ、と地面へ降り立った信子が、ゆっくりと立ち上がる。綺麗に着地を決めてから、佐奈を地上へ下ろしてやった。佐奈は信子の手をしっかり握ると、前へ一歩を踏み出した。

「のぶちゃん、行こう!」

佐奈に手を引かれて、信子も遅れまいと駆け出した。

 

二人にどこか行く当てがあるわけでもない、ハッキリしたプランがあるわけでもない。これからの道のりは苦難に満ちているだろう。辛い思いをすることもあるだろう。

「佐奈っ、これからどうする!」

「まだ決めてない!」

「あたしも! けどとにかく走る、そうだよね!」

「うん!」

けれど、二人には確かな未来がある。共に歩み、共に過ごし、共に生きるという、疑う余地のない未来がある。

マンションを出てからの佐奈と信子の行方は知れない。どこへ行ったのか、何をしているのか。時が経つにつれて、人々の記憶からも二人の姿は薄れてゆく。

それはさながら、天狗攫いにあったかのごとく。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。