部活帰りと思しきジャージ姿の一団に、紺色のブレザーを着た女子たちが混じって、おしゃべりをしながら広い道を歩いている。
「あと二週間で中間テストだよね。みんな勉強してる?」
「えーっ、まだしてないよぉ」
「とか言ってさあ、ヒロっていっつも平均八十くらい余裕で取っちゃうし」
「そーそー。弘子ったらちゃっかりしてるんだから」
先頭に立っているのは、肩口まで髪を伸ばしたセミロングの女子。スポーツバッグにテニスのラケットをぶら下げて、皆を引っ張るように意気揚々と歩いている。あとからついてくる女子生徒たちもみな楽しそうにしていた。
「今日さー、最後の練習きつかったよね。優美もそう思わない?」
「ホントホント。センセったらムキになるんだからさぁ」
「でもいちごちゃん、楽そうに打ち返してたじゃない」
「そんなことないって、もうへとへとだもん」
彼女の名前は「いちご」というらしい。ハリのある朗らかな声で話す姿が印象的ではあるけれど、これといって目立つところのないごく普通の少女に見受けられた。周りの女子たちもだいたい同じような思いを抱いていて、いちごがこの場にいることをさも当然のことのように思っている。誰一人として、いちごが自分たちに混ざって話をしていることをおかしなことだとは思っていない。
他の誰かの友達だろう、あるいは部活仲間だろう――みんな、そんな風に考えていた。
「ねぇいちごちゃん。誰かさ、気になる人とかっている?」
「うーん、今はいないかな。今はね」
「またまたぁ、思わせぶりなこと言うんだから」
「彼氏が欲しいってわけじゃないけど、もし誰かと付き合ったらどんな気持ちになるのかなって、そういうこと考えることはあるよね」
「あーそれ分かる。自分だったらどうするかなとか考えちゃうよね」
勉強のこと、部活のこと、恋愛のこと。他愛のない話題ばかりだけど、こうして皆で集まっておしゃべりをしていると楽しかった。時間が瞬く間に過ぎていくかのよう。それはいちごもまた同じで、今の時間を心から楽しんでいた。
楽しい時間もいつかは終わりがやってくる。分かれ道に辿り着いて、いちごは右の道に、他の子たちは左の道に進むことになった。
「それじゃあねー!」
「うん、また明日ー」
足取りも軽く歩いていくいちごの背中を見送ってながら、弘子と呼ばれた女の子がぽつりと呟く。
「優美の部活友達だよね、いちごちゃんって。今まで知らなかったけど、いい感じの子じゃない」
「えーっ、違うよ、違う違う」
「うそぉ? そうじゃなかったの?」
「あたし今日初めて見たよ。ずっと綾乃の知り合いだって思ってた」
「えーっ、知らないよ私。気の合う子だとは思ってたけどさぁ。弘子のクラスメートなのかなって思ってた」
「いないいない、うちのクラスにいちごちゃんなんていないよ」
優美の部活友達だと思っていた、綾乃の知り合いだと思っていた、弘子のクラスメートだと思っていた。三人はいちごのことを、揃って別の誰かの友人だとばかり思っていたのだ。けれど、誰一人としていちごのことを知らない。今日初めて会ったと言うばかりだった。気になった三人がいちごの歩いていった道に目を向けてみるけれど、そこにはもう誰もいない。もちろんいちごの姿もなかった。
呆気に取られた様子で、女子たちがその場に立ち尽くす。いったいあの子は、いちごとは誰だったのだろう。まるで狐につままれたような表情を浮かべて、三人は互いに顔を合わせるばかりだった。
「今日も楽しかったなぁ、部活もおしゃべりも」
皆と別れたいちごが足取りも軽く、ふんふんふーん、と鼻歌交じりで歩いていく。肩に提げたテニスラケット入りのバッグを持ち直すと、その顔に思わず笑みがこぼれる。
「優美ちゃんに、弘子ちゃんに、綾乃ちゃんだっけ。みんないい子だったなぁ」
女の子と遊ぶのって楽しい、弾んだ声でそう言いながら、いちごは人気のない道を進んでいく。だんだんあたりの風景が寂しくなりはじめ、初めに商店が無くなり、次に住宅が無くなり、やがて道の舗装も途切れてしまった。一見すると行き止まりのように見えるけれど、いちごの足はなお止まらない。道を外れて森へ足を踏み入れると、立ち並ぶ木々をひらりひらりとかわしながら、奥へ奥へ分け入っていく。
すると、ここでいちごの体に変化が起きた。それはまず頭から始まって、ピンと立った三角の耳が姿を現している。お次はお尻で、紺色のジャージからふわっとした大きな尻尾がいつの間にか生えているではないか。耳と尻尾を揺らしながら歩くいちごの姿は、誰がどう見ても普通の、変わったところのないただの人間ではない。いちごはなおも進み続け、やがて走るような速さで森を駆け抜けていく。
いつまでも続くと思われた森が、ある時不意に途切れるのが見えた。
「――よいしょっと! ただいまーっ!」
一息でここまで走ってきたいちごが木々の合間を縫って飛び出すと、そこは小高い丘の上だった。先程まで友達と歩いていた街を見下ろす、見晴らしのいい丘だ。
「あっ、一醐じゃん。おかえり」
「ただいまっ」
いちご――もとい、一醐を出迎えたのは、体の小さな一匹の雄狐だ。一醐は人間の姿のまま彼にただいまの挨拶をしてから、よっ、と声を上げて、その場でクルリと綺麗な宙返りを披露する。
宙返りが済んでからその場に立っていたのは、一醐を出迎えたのと同じくらいの大きさをした狐だった。着ていた服は頭に載せていた木の葉へするすると吸い込まれるように消えていって、提げていたバッグはいつの間にか長い木の枝に変わっていた。口にくわえていた枝を落として、ついでに頭に載ったままの葉っぱをふるふると首を振って払い落としてから、一醐が自分の前に立つ雌狐に声をかけた。
「……よっと! ねえ弥吾。僕の変身、どうだったかな?」
女子に化けていた一醐もまた、実は同じ雄狐だったのだ。
「いつものことだけど、完璧だったな。けどよう、お前はなんだって雄なのに女子に化けるのさ」
「これが楽しいんだって。弥吾だって、女の子と一緒にいると楽しいでしょ?」
「それはそうだけどよ、お前のそれとは多分違うと思うぞ。だって俺は男に化けてて、お前は女子だろ?」
「うーん。似たようなものだと思うけどなあ、僕は。ま、いっか。お腹空いたし、ご飯食べに行こうよ」
「ああ、行こうぜ」
一醐は弥吾を連れて、丘の東にある果樹園へと歩いていった。
さて、そろそろ彼女の……いや、彼についての話をしよう。
つい今しがたまで中学生の女の子に化けていたのは、一醐という雄狐だ。人に化けるのだから、ただの狐ではない。化け狐である。なりたい者を頭に思い浮かべて、えいやっ、と身を翻すと、あっという間に人の姿へ変化してしまう。いわゆる童話や昔話に出てくるものと何ら変わるところはない。一醐も人に化けるのが大変上手で、今ここに至るまで誰一人として彼を狐だと見破った人間はいない。
一醐は紛れもない雄狐で、同じ男子の友達も多い。雄のふりをしている雌だとか、或いは体は雄だけれど心は雌というわけではない。そういった事情抜きに、一醐は人間の女子に化けることが好きだった。ああしてしばしば少女の姿を取っては、他の女の子たちに混ざって遊んでいた。間近でたくさん見てきたおかげか、はたまた元来穏やかで優しい気立ての持ち主だからか、女子らしい振る舞いをするのも得意だ。ただの人間が気付くことはできない、そう言い切ってもよかった。
身も心も男子ではあるけれど、女の子と一緒にいるのが好き。男として女に接するのではなくて、あくまで女子として接することが好き。雄に生まれたことは少しも悔やんでいないし嫌だとはちっとも思っていないけれど、それはそれとして少女らしくすることが好きだった。他の狐たち、特に雄狐たちからは「変わったことをしている」といつも不思議がられているけれど、一醐がそれを気に掛けることはない。自分にはこれが一番合っていて、化けていて何よりも気持ちがいい。好きなものは好きなのだ、一醐はいつも胸を張って、誰に対してもそう言い切っていた。
そんな化け狐たちが暮らしているのは、「狐が丘」という大きな丘だ。狐が丘、昔からずっとそう呼ばれているけれど、その名前がどこから来たのかは分からない。人が付けたものか、或いは狐が付けたものか、今となってはそれさえも明らかではない。由緒は分からなかったものの、化け狐たちの姿をあちこちで見ることができるこの場所には、まさしくお似合いの名前だった。
一醐はこの狐が丘で生まれ、今も変わることなく暮らしている。親の顔は覚えていないけれど、それはここ狐が丘ではごく当たり前のこと。親が居なくとも、兄貴分や姉貴分の狐たちが子狐に世話を焼いてくれる。一醐もそんな仲間たちに囲まれて育ってきたのだ。
「近頃は栗を食べるやつが多いんだよな」
「栗かぁ。嫌いじゃないけど、あんまり食べないかな」
一醐と弥吾が歩いていった先には、種々の果実が生っている木が所狭しと並んでいた。狐が丘の奥地にある果樹園だ。この果樹園ではたくさんの実をつける木がいくつも植えられていて、狐たちは年中食べる物には事欠かなかった。不思議なことに、木の実はいくら採っても無くなる兆しを見せず、そして季節外れの果実を付ける木もたくさんあったのだ。特に手を入れてもいないのに、冬であろうと夏であろうと平然と葡萄を実らせる木が立ち並んでいるのは、考えてみれば条理に外れたものであるが、この恩恵に与る狐たちが気に掛けることはなかった。
「うーん、今日はこの柿を食べるかな」
「決まりだな。一醐、俺のも一緒にもいでくれ」
「よし、僕に任せてよ」
弥吾の頼みを請け負うと、一醐が近くに落ちていた葉っぱを前脚で舞い上げてから、慣れた様子で頭に載せで、目を閉じて意識を集中させる。
「よっと!」
一声鳴いて軽やかに一回転してみせると、そこにはジャージ姿の女子――少し前までいっしょにいた、優美の姿があった。顔の形も体のつくりもまるっきり優美のそれで、先ほどまで化けていた「いちご」とは大きく違っている。個人の細かな違いまでしっかり真似て化けるのは、一醐の十八番だった。
「へへっ。どうかな? 弥吾」
「化けるのは上手いけどさ、お前やっぱり女子なんだな」
「そりゃそうだよ。なんたって、僕はこうしてるのが一番楽しいんだもの」
優美の顔でにっこり笑うと、一醐は自分と弥吾が食べる分の柿をまとめて木からもいでいくのだった。
「じゃあな、一醐。朝には帰ってくるぜ」
「いってらっしゃい。あんまり遊びすぎちゃダメだよ」
辺りがすっかり暗くなった頃。二人して果樹園で好きな果物をあれこれ食べて満足したところで、一醐はこれから夜の街へ遊びに行くという弥吾を見送った。それから自分のねぐらまでトコトコ歩いていくと、見慣れた小さな洞穴が目に飛び込んできた。一醐が寝るのに使っている場所だ。ただ眠るためだけの、飾り気のない質素な場所だったけれど、一醐にしてみれば立派な我が家、自分の城だった。中に散らばっていた木の葉をさっと払いのけると、一醐がふぅ、と息をつく。
軽く辺りを見回してから、一醐が家から退けたばかりの木の葉をさっと頭に載せて、先ほどと同じようにひらりと身を翻した。あれよあれよと言う間に姿かたちが変わって、一醐は再び「いちご」の姿に変化した。「いちご」は他の人間を真似たものではない、一醐の考える「自分が一番なりたい女の子」を元にした変化だった。一醐がもっとも自信のある変化で、かつ何よりも好きな変化だった。
「――うん。やっぱり、かわいい子に化けるのって楽しいや」
一醐は「いちご」の姿で微笑んで、その場でくるりと回って見せた。濃い紺のデニムのジーンズに、コントラストを効かせつつも派手さを抑えたベージュのブラウス。肩まで届く長い髪は少し青みを帯びていて、蒼を際立たせるかのように赤いブローチも着けている。活動的な装いでいて、同じく落ち着いた雰囲気も纏わせている。シックな色遣いは大人っぽさを強調しつつ、顔立ちには幼さを色濃く残す。相反する要素をひとつにまとめた、一醐お気に入りの変化だった。
なりたい自分の姿に化けて、一醐は足取りも軽くスキップをして見せる。できることならずっとこの姿でいたいくらいだった。もちろん、普段の狐姿や他の変化が嫌いというわけではない。どれも他でもない、大事な自分自身だ。ただ、一醐はこの「いちご」が好きだった。好きすぎるという言葉を使うくらいがちょうどいい。あれこれ考えて、考え抜いて描き出した自分の理想。誰かの真似ではない、ありのままの自分。
己がそんな夢のような姿にいつでも変化できる化け狐であったことを、一醐は心から感謝していた。
「一醐くん」
「あっ、沙倉姉さんっ」
広場を足取りも軽く自由に歩き回っていた一醐が出くわしたのは、凝った紋様の織り込まれた着物をまとう美しい女性・沙倉だった。一醐が側に駆け寄ると、沙倉が一醐を抱きしめて出迎える。沙倉は一醐より頭一つ背丈が上で、一醐が姉さん、と呼ぶのも納得の容姿をしていた。
「うん。相変わらず、一醐くんはかわいいね。すっごくかわいいよ」
「えへへ……姉さんにそう言ってもらえると、僕、嬉しいよ」
一醐と沙倉はしばし抱き合ってから体を離して、同時にさっと宙返りをして、どちらも元の化け狐の姿へ戻って見せた。
「姉さんは綺麗だなあ。狐に戻ると、なおさら綺麗だって思うんだ」
「もう、一醐くんったら、あんまり年上をからかっちゃダメだよ。お姉ちゃん純真だから、本気にしちゃうよ?」
「だって、本当のことなんだもの。本気の本気だよ」
沙倉が一醐に体を寄せて優しく擦り付けると、一醐はくすぐったそうに、或いは心地よさそうに目を細めて、感じ入ったように小さく体を震わせた。
「一醐くんが立派に育ってくれて、本当に良かったよ」
「沙倉姉さんのおかげだよ。独りぼっちだった僕を、姉さんが助けてくれたんだから」
「私はただ、私がしてもらった同じことをしただけだよ。私だって、お父さんもお母さんもいなかったからね」
先にも述べた通り、一醐には生みの親というものが居ない。居たのかもしれないが、狐が丘にその姿が無かったことは確かだった。沙倉によると、一醐を生むと間もなくどこかへ旅立ってしまったという。ゆえに物心ついた頃には、一醐はすでに沙倉たちのような年上の化け狐たちに囲まれて暮らしていた。時に優しく、時に厳しく、けれどいつもあたたかく自分を見守ってくれた彼らに一醐はいつも恩義を感じていたけれど、その中でも一際、沙倉には強い思いを抱いていた。
沙倉は一醐を弟のように可愛がって、片時も目を離すことなく養育してくれた。夏の暑い盛りには冷たい川で共に水浴びをして、冬の厳しい寒さにはその身を以って体を温めてくれた。一醐に食べ物の在り処を教えてくれたのも、怪我をした時手当てをしてくれたのも、そして何より変化を教えてくれたのも、他の誰でもない、沙倉だったのだ。
「僕、姉さんみたいに綺麗な変化ができますようにって、ずっと思ってたんだ」
「……嬉しいな、私。そういうまっすぐなところ、一醐くんの綺麗な心が見えるみたい。眩しいけれど、ずっと見てたくなっちゃう」
一醐にとって、沙倉は憧れの存在、ずっと彼女のようになりたいと思っていた。それが強く影響を与えたのだろう、ご存じの通り、一醐は女子への変化を得意とするようになった。今ではああして沙倉に負けずとも劣らないほどに、綺麗な女の子に化けられるようになった。これは皆すべて、沙倉のように美しくあることを目標としていたから。一醐が敬愛の念を込めて沙倉に鼻をこすり付けると、沙倉はふんわりとした笑みで応える。
甘えた声で身を寄せる一醐を受け入れて、沙倉が耳元でそっと囁く。
「今日も寒いから、私と一緒に寝よっか」
「うん。姉さんがいてくれれば、僕も凍えずに済むよ」
一醐と沙倉が連れ立って歩いて行って、一醐が普段使っているねぐらまで向かう。
その日は二人身を寄せ合って、体温を分かち合い、冬の寒さをものともしない温かな夜を過ごしたのだった。
「さて、と。今日はどこへ遊びに行こうかな」
今日も一醐は狐が丘を出て、麓の街へ繰り出している。変身しているのはお気に入りにして一醐が理想とする少女「いちご」だ。他の誰でもない、一醐が思い描く誰よりも可愛い女の子。背丈は高校生くらいで、今の一醐の年齢を人間に直すとちょうどこれくらいの歳になる。なりたい自分になりきって、肩で風を切って悠々と歩く一醐、もといいちごは、とても幸せそうだった。
最近できたばかりの大きなショッピングモールにやってきた一醐は、今日はここで遊ぼうと決めて中に入る。中にはいろいろなものを売っているたくさんのお店があって、見ていると思わず目移りしてしまう。あっちこっちに目を向けていた一醐だったけれど、ふとショーウィンドウに映った自分の姿が目に留まる。どこからどう見ても人間の女の子、それも自分が思い描く一番素敵な女の子が目の前にいる。
やっぱり僕は、こうやって女の子でいるのが一番だ。一醐は「いちご」としての自分を見て、ますますその思いを強くした。
「――ふふっ」
小さく笑った一醐が再び歩き出す。隣を通り過ぎていった同い年くらいの男子が、すれちがいざまにこちらを振り返るのが見えた。一醐は軽くウィンクをして、颯爽と奥へと歩いていく。きっとあの男の子は、僕のことを女の子だと思ったに違いない。そう思うと一醐は嬉しくなって、ますます足取りが軽くなった。さあ、何をして遊ぼうか。煌びやかなショッピングモールで、一醐が胸を弾ませる。
たまたま上映直前だった恋愛映画を観て(可愛い女の子になるためには可愛い女の子を見るのが一番!)、ちょっと並んでカラーシュガーのまぶされたバニラのアイスクリームを買って、雑貨を見て回って。ここにいると一日時間をつぶせちゃうよ、一醐はそう思わずにはいられなかった。今日はバイト――一醐は街にある小さなハンバーガーショップで働いているのだ。もちろん、人間に変化して――も休みで、自分の好きなように時間を使うことができる。時計を見ると、まだお昼を回ったばかり。まだまだ楽しい時間が続くことを予感して、一醐がにっこり笑う。
ショッピングモールで十分楽しんだ後、一醐が外に出て通りを歩き始めた。公園へ散歩に行くのもよし、カラオケで唄うもよし、バスに乗って海を見に行くのもよし。何をしようかな、心を弾ませながら道を進んでいく一醐だったが、ここでふと目を惹くものを見つけて。
「ん? あの子……見たことない子だ」
見知らぬ少女が一人、自分の前を歩いているのを見つけた。一醐は昔からしょっちゅう他の女子に交じって遊んだりおしゃべりをしているから、ほとんどの子の顔と名前を覚えている。だから、初対面の子を見つけるとすぐに気が付くのだ。あっという間に意識が彼女に向けられて、怪しまれないようにしながら後ろへぴったり着いていく。興味を持ったものはとことん追いかけるのが一醐の性格だった。
背丈は自分とほぼ変わらない。たぶん、同い年くらいに違いなかった。ますます興味を持って観察していると、立ち止まって辺りをキョロキョロ見回し始めた。この付近は道に迷うような場所ではない。だとすると、どこか遠くから引っ越してきたのだろうか。一醐が彼女の顔も名前も知らないことを踏まえると、そう考えるのが正解のように思えてならなかった。
せっかくだから、ちょっと遊んであげようかな。一醐は持ち前の明るさでもって、道端に佇む少女に声をかけた。
「どうしたの?」
「……ふぇっ!?」
驚いて顔を上げるのが見えた。目元が可愛い、一醐が真っ先に抱いた感想がそれだった。一醐はにっこり微笑んで、彼女に向けてさらに言葉を投げかけた。
「もしかして、ここに来たばかりだったりする?」
「えっ? あっ、はい……ついこの間、引っ越して来たばっかりで……」
指先でそっと前髪を直す。この仕草、とっても素敵だ。そう思わずにはいられなかった。少女は決して目立つ風貌ではなかったけれど、どこを切り取っても絵になる綺麗な顔立ちをしていて、それでいてあどけなさを色濃く残している。一醐が変化している「いちご」もそんな女の子をイメージしていたから、自然と親近感を抱く。もっと彼女に顔を寄せて、近くで様子をうかがう。
仲良くできたら、きっと楽しいに違いない。一醐はそう考えた。なら、こちらから積極的に話しかけていった方がいい。相手の喜ぶこと、相手が助かることをしてあげるのが心を通わせるための第一歩だ。口元に優しい笑みを浮かべて、穏やかな声で語り掛ける。
「もしよかったら、この辺り、ボクが案内するよ」
「えっ?」
「ほら、キミ、道に迷ってたみたいだし」
「は、はい……でも、その……」
「あっ、ボクは押し売りとかヘンな勧誘とか、そんなんじゃないよ。どこか怪しい所へ連れてこうってわけでもないからね」
ちょっとおどけた調子で一醐が言うと、女の子はそれが可笑しかったみたいで、思わず吹き出して笑い始めた。彼女が笑ってくれたことが嬉しくて、一醐も一緒につられて笑い始める。どうやら一醐のことを受け入れてくれたようだ。安心した一醐が、女の子に先んじて前へ出る。
「じゃあ、まずは向こうにある公園に行ってみよう!」
「はいっ」
指差した先にある公園を目指して、二人がてくてく歩いてゆくのだった。
「へぇー、真弓ちゃんっていうんだ。いい名前だね」
「そう言ってくれると、わたし嬉しいです。ちょっと、古くさい名前かもって思ってたから」
「ううん、全然そんなことないよ。真弓ちゃん、名前通りのまっすぐな性格みたいだしね」
彼女の名前は真弓、というらしい。今は亡くなったおばあちゃんが付けてくれた名前だそうだ。浮ついたところのない落ち着いた印象を与えるのも、納得と言えるかも知れない。名前を教えてくれたお礼、というわけではないけれど、一醐もまた自らの名前を名乗ることにする。
「ボクはいちご。ひらがなみっつでいちごちゃん、ってとこだね」
「いちごさん、ですか。おいしそうな名前です」
「こらこら、食べちゃダメだよっ。みんなから同じこと言われるけどね」
「お友達、たくさんいらっしゃるんですね。わたしも、皆さんと仲良くできればいいと思ってるんですけど、上手くいくかな……」
小さく舌を出して悪戯っぽい顔をするいちごを、真弓は楽しそうに見つめている。元から可愛い顔をしていた真弓だったけれど、笑うとその可愛さが一層引き立つように思えてならなかった。こんな子と出会えて、しかも自分が一番最初の友達になろうとしている。こんなに素晴らしい状況は滅多になかった。真弓と仲良くなりたい、一醐の中でその思いがますます強くなっていく。
公園をぐるりと一周して、ここが街の真ん中だよ、といちごが真弓に教える。某県の中央部に位置する大きな都市「山辺市」、その南西部にある山と海に囲まれた地区「臙脂区」、臙脂区で一番人の多いこの「園部町」が、一醐と真弓が歩いている街だった。一醐の言葉通り、この公園は園部町のまさに中心に位置していて、そこから東西南北に道が広がっている。東西はそれぞれ繁華街と住宅街へ、南北は海へつながる道と山へつながる道へ分かれている。狐が丘は園部町から外れた他の地区との境目に位置していて、園部町の最北端ともお隣の街の最南端とも言える場所に存在している。
「さっき通りがかったお店、たまに閉めちゃってることあるけど、とってもおいしいクレープを焼いてくれるんだよ」
「クレープですかっ。わたしも大好きです」
「今度一緒に食べよっか。ボクも誰かと食べたいなって思ってたんだ」
公園に来るまでの間にも、一醐は自分の知っている地理情報を惜しみなく真弓に教えてあげた。可愛い洋服を扱っている小さなブティック、自分がアルバイトをしているハンバーガーショップ、そしてクレープ屋さん。真弓はその一つ一つに、みずみずしい感想を返してくれた。一醐はそれが嬉しくて、とても嬉しくて、真弓と共に遊びに行ければきっと楽しいに違いないと思った。
北側の道を進んでいった二人が、途中で道が途切れて森にぶつかる。ここは普段、一醐が狐が丘から街へ出て来る場所だった。
「ここから先は、しばらく森になってるよ」
「自然の多い場所なんですね。空気がおいしいと思ってたんです」
「胸がすっとするよね。それでね、森を抜けると、狐が丘って場所に繋がってるんだ」
「狐が丘?」
「そ、狐が丘。狐がたくさん住んでる丘だから、そのものズバリ、狐が丘って言われてるんだよ」
ちゃっかり自分の住処である狐が丘も紹介する一醐。もちろん自分が化け狐であることは隠していたけれど、真弓には狐が丘のことも紹介しておきたかったのだ。狐がたくさんいる、という言葉に、真弓が瞳をキラキラ輝かせるのが見えた。
「狐さん、いっぱいいるんですね。いつか見に行ってみたいなぁ……」
「えへへっ。ボクがいつか連れて行ってあげるよ」
「はい。もし行くことができたら……狐さんのこと、そっと、遠くから見てあげていたいです」
「えっ? どうして? 近くに寄って見に行ってもいいのに」
「だって……狐さんたちだけで暮らしているのに、いきなり近づいたら、きっとびっくりしてしまいます。狐さんのこと、怖がらせたくないんです」
狐たちを怖がらせたくないから、遠巻きにそっと見ていたい。真弓の言葉に、一醐は心の中で思わず笑ってしまった。ほんのすぐ近く、すぐ隣に狐がいるのに。可愛いと思うと共に、真弓が自分のことを化け狐だと疑っていないことが分かって嬉しくなった。
けれどそれ以上に、一醐の心にはあたたかなものがいっぱいに溢れていた。むろん、それは真弓の言葉がもたらしたものだ。
(みんなを怖がらせたくないから、遠くで見ていたい……なんて優しいんだろう、真弓ちゃんは)
狐と人間は違う生き物で、無遠慮に近づけば警戒されてしまうし、怖がらせてしまう。真弓はその事をよく分かっていて、狐たちの暮らしを脅かしてしまわないよう、少し離れた場所から見ていたいと思っている。思いやりの心が感じられて、一醐は感心するばかりだった。真弓のように考えてくれる人間が増えれば、狐が丘の狐たちももっと安心して暮らせるのだけど。そう思わずにはいられない。
「真弓ちゃんは優しいね。ボク嬉しくなっちゃった」
「そんな、わたしはただ……」
一醐から誉めそやされて、真弓はちょっぴりはにかんで見せる。
けれど、真弓の浮かべた表情からは、抑えきれない喜びがあふれていたのを、一醐は決して見逃さなかったのだった。
「真弓ちゃんっ! お待たせっ!」
「いちごさん、こんにちはっ」
一醐は真弓と知り合ってからというもの、しばしば彼女と共に過ごすようになった。公園の真ん中にある噴水で待ち合わせては、二人して街へ繰り出していく。どこかへ遊びに行くこともあったし、どこへ行くでもなく辺りを散歩して回ることもあった。どのようにしていても、一醐はとても楽しかった。大変楽しかった。真弓と同じ時間を過ごすというのは、同じ時間を一人で過ごすよりも何倍も何十倍も楽しいものだったのだ。元々一醐が誰かと共にいることを好んでいるということもあったけれど、一醐にとって真弓は特別に「一緒にいて楽しい」存在だった。
買い物に出かけては、真弓にはこれが似合う、いちごにはあれが似合う、と互いに声を上げて、自分で物品を購入したり、或いは相手のためにお金を出して買ってあげるようなこともあった。どちらかが一方的にお金を支払うのではなくて、一醐と真弓が自分のため、相手のため、好きなようにお金を使っている。それが友達の理想的な形だと、一醐も真弓も考えていたからだ。
「今日はいい天気だね。今日もいい天気、なのかも知れないけどね」
「いちごさんと遊ぶ時は、いつもお日様がぽかぽかしていていい気持ちです。いちごさんのおかげですね」
「あははっ、ボクにはお天気を操る力なんてないよっ」
待ち合わせ場所の噴水から離れて、二人が歩調を合わせて歩く。真弓の歩みは少しのんびりしていて、一醐は自然とそれに合わせる癖がついた。すると面白いことに、以前なら気にも留めなかったようなものが次々と目に飛び込んでくるようになった。近くを歩く住民、今まで知らなかったお店、意外な場所に繋がる抜け道。真弓と歩くようになったおかげで、一醐は新しい発見をたくさんすることができたのだ。
何も変わったところはないように見えるのに、一醐は真弓と一緒にいると何もかもが楽しくて仕方がない。不思議だけれど、心地よい気分だ。
(すごいなあ、真弓ちゃんは。ボク、こんな気持ちになったの初めて)
真弓と一緒にいると楽しくなって、楽しくなると真弓といたくなる。素敵なサイクルができあがって、二人手を取り合って輪を描いていく。真弓と出会ってから、一醐の毎日がキラキラと輝き始めた。
さて、外の空気はすっかりあたたかくなって、少しずつ朝も早くなってきた。長い冬が終わり、やさしい陽気が園部町を包み込んでいく。そんなうららかな春を感じる日の光の下、一醐と真弓が歩いていく……と、思いきや。
「夜桜っていいですね、風流で」
「うんうんっ。夜の闇を背にすると、桜色がキュッと引き締まる感じがするよね」
二人が外へ出たのは、日没からずいぶん過ぎてからのこと。いつものように噴水前で合流してから、公園を悠々と散歩していく。人が多くてにぎやかなお昼を避けて、静かな時間に夜桜見物へと洒落こんだ、というわけだ。
取り付けられたライトに照らし出された桜の木を見上げて、ひらひらと舞い降りて来る花びらをそっと手のひらで受け止める。大変美しかった、この上なく風雅であった。一醐は身も心も男子だけれど、花の美しさを解する心をきちんと持っていた。嬉しかったのは、隣にいる真弓もまた同じように、美しいものを静かに愛でる綺麗な心を持っていたことだ。桜を見る二人の口数は少ない。だが、それでよかったのだ。言葉を交わさずとも、自分たちが何を見ていて、何に感銘を覚えているか、手に取るように理解できるのだ。
さながら、手のひらに落ちてきた桜花のように。
「綺麗だね」
「はい……とても綺麗です」
ゆるやかな風が吹いて、一醐の手のひらに留まっていた花弁がどこかへ飛ばされていく。隣にいた真弓があっ、と声を上げて、思わず一醐の手を取った。
ハッとする一醐。彼の目の前には、真弓の手と固く結ばれた自分の手があって。
「真弓、ちゃん」
「いちご……さん」
真弓は頬を熟れたりんごのように真っ赤に染めて、目をあっちこっちに泳がせながら、けれどその手は決して離そうとせず。
「……手、つないじゃいました」
こんなことを言われてしまっては、一醐の胸がときめかないわけがない。
「ご、ごめんなさい! その、綺麗だったから……」
「……もう。大胆すぎだよ、真弓ちゃん。ボク、ドキドキしちゃった」
「いちごさん……」
「真弓ちゃんの手、あったかいね。春を感じるよ。とっても素敵」
もう片方の手で真弓の手を包み込むと、ふんわりした笑顔を浮かべて、一醐が真弓の目をじいっと見つめる。
「今日はこのまま、ずっと手をつないでおこうかな。イヤって言っても離さないもん」
「――はいっ」
その手を決して離さない。一醐の言葉に、真弓が笑顔の花を咲かせる。
こちらの花も見逃すまいと、握った手に強く力を込める一醐だった。
「なあ一醐、あいつ、お前のカノジョなのか?」
「あっ、この間バイトしてる時に見ましたよ。ずいぶん可愛いコじゃないですか」
狐が丘の果樹園、そこで木の実を食べる一醐たち化け狐。一醐の仲間たちが彼を取り囲んで、しきりに一醐の「カノジョ」のことを囃し立てている。雄狐も雌狐も、兄貴分姉貴分も弟分妹分もいる。真ん中にいる一醐は葡萄を皮ごと食べながら、得意そうに顔を上げて見せた。
「真弓ちゃんって言うんだ。素敵な女の子だよ」
「お嬢さん、って感じの女の子なんスね。俺、そういう子と喫茶店でお茶してみたいッス」
「きっと、一緒にいると楽しい気持ちになるんだよね。話聞いてると、一醐君とも相性良さそうだし」
「んー。けど、一醐兄ちゃんは例によって女子に化けてるんだよなー」
「もちろんさ。僕がちょっとお姉さんみたいな立場だね」
一醐は紛れもない雄狐なのに、真弓が相手であっても変わらずいつものように女子に化けていると知って、周りの狐たちが何やらがやがやと騒ぎ始めた。
「えっ、また女子に成りすましてるのか?」
「まぁた女の子のふりしてるのぉ? 一醐も飽きないというか懲りないというかねぇ……」
「へへっ。女の子同士の友情ってやつだよ」
「オレ、一醐お兄ちゃんのこういうところがよく分かんないんだよなぁ」
「私だったら、男の子に化けて恋人同士になりたいなーって思うけどねー」
変わっている、ヘンなことをしている、仲間たちは口々に言うものの、一醐は気に掛けることもなく平然と葡萄を食べている。そして他の化け狐たちも、一醐のことを風変わりだとは言うものの、取り立てて責めたりだとか罵ったりだとかすることはなくて、一醐が女の子として真弓に接していることそのものは認めていた。他の狐が何に化けて、どんな風に生活していようと、それを否定したりしないのが狐が丘の狐たちだった。
朝ごはんの時間が終わって、他の狐たちも思い思いの場所へ散っていった。独りになった一醐は手近な木の切り株を椅子代わりにのんびりくつろいでいたけれど、そこに見慣れた顔の狐が姿を現す。
「沙倉姉さん!」
「おはよ、一醐くん。朝ごはん、もう済ませちゃったかな」
「姉さんとなら付き合いますよ。今日は葡萄がおいしいんです」
「ありがと。じゃ、一醐くんのおすすめをもらおうかな」
やってきた沙倉も葡萄を食べると言う。一醐は大きくうなずいてから、ひらりと身軽に宙返りを決めて、いつも変身している「いちご」の姿に成り代わった。ピンと背筋を伸ばすと、木に生っている葡萄にも簡単に手が届く。沙倉のために多めに実が付いている房を、自分には少なめの房を木からもいで持っていく。「いちご」の姿をまじまじと見つめて、沙倉が微笑みを浮かべる。
「聞いたよ、一醐くん。真弓ちゃん、って女の子と仲良くしてるんだって」
「はい。優しくて穏やかで……春風みたいな人なんです」
「――うん。素敵な女の子に出会って、一醐くんが楽しそうにしてる。それを間近で見られて、わたし、嬉しいな」
「姉さんのおかげです。僕、姉さんみたいに上手に化けられるようになりたくて、姉さんみたいな素敵な女の子になりたいって思ってたからです」
一醐が少女の姿に化けることを得意とするようになったのは、ひとえに沙倉のようになりたいと願っていたから。沙倉はしばしば人間の女子、それも少し年かさの「お姉さん」に化けることが多くて、一醐は普段の狐姿の沙倉と共に、化けた姿の沙倉にも純粋な憧れを抱いていたのだ。
「真弓ちゃんは素敵な子だね。一醐くんと気が合うのも、納得だよ」
「はい。一緒にいると、すごく楽しいんです。あっ、でも、姉さんと一緒にいるのも楽しいです」
「ふふふっ。いいの、いいの。わたしはね、一醐くんが幸せそうにしてるのを見てるのが、一番幸せだから」
ずっと仲良くしてあげてね、そう綿雲のような笑顔で言う沙倉に、一醐は大きく胸を張って「はい!」と答えるのだった。
陽射しが日増しに強くなって、いつしか季節は夏へと移り変わっていく。降り注ぐ陽光を浴びながら、一醐が噴水の前で真弓を待っていた。
「いちごさん、お待たせしましたっ」
「ううん! ボクも今来たばっかりだからね」
白のワンピースにつば付の帽子をかぶる。夏の装いをした真弓は、春よりも少しだけ大人びて見えたし、それと同じくらい無邪気な子供のようにも見えた。ボクのことはどう見えているのかな、一醐がふと考える。けれど、向日葵も顔負けの笑顔で自分を見る真弓からは、好感を持ってくれていることがありありと伝わってくる。それならそれでいい、真弓の心は真弓のものだから。一醐は納得した。
二人は公園を離れると、すぐ近くのバス停で再び立ち止まった。今日は街を出て少し遠出をする計画を立てていたのだ。
「この路線に乗るの、わたし初めてです。いちごさん、頼りにしてます」
「任せてよ! バスに乗って、三十分くらいかな。海辺の停留所まで、一直線だよ」
園部町から南へ出てさらに進んでいくと、海沿いの街である「本居町」に出ることができる。綺麗な海をたっぷり見られる素敵な場所だったけれど、別に観光地というわけでもないから、夏の盛りを迎えても多くの人でごった返すということもない。地元や近隣の人だけが知っている秘密の海がある場所、それが本居町だった。
やってきたバスへ二人が乗り込む。乗客はごくまばらだ。空いていた二人掛けの席に隣り合って座ると、いつもよりぐっと互いの距離が近くなった。どちらともなく、一醐と真弓が自然と手を取り合う。二人にとって手を繋ぐことはもう特別なことではなくなっていて、日常茶飯事のひとつになっていた。手を繋ぐことは特別なことではなくなったけれど、手を取り合う相手が特別なことに変わりはない。
特別なことが特別でなくなっていくたびに、相手の存在が特別なものになっていく。
「いちごさん、水着は持って来なかったんですか?」
「うん。ボクちっとも泳げなくってさ。でもほら、海って見てるだけでも楽しいから」
「よかったです。実はわたしも、泳ぐのは全然ダメなんです。水泳の授業も苦手で……海を見てる方が、ずっと楽しくて」
一醐も真弓も、海で泳ぐのは苦手だった。けれど泳ぐ必要はなくて、ただ海を見るだけで、どちらにとっても十分に過ぎた。綺麗な砂浜を歩いて、打ち寄せる波の音を聞いて、果てのない水平線を眺める。それだけでいつまでも時間を費やせると、一醐も真弓も感じていたのだ。
バスは順調に走行を続けて、本居町まで無事に辿り着いた。少し錆びた時刻表付きの標識と、日に当てられて色あせたベンチだけがある簡素な停留所だ。降りたのは一醐と真弓の二人だけだった。外に出た途端、磯の香りと潮風が一醐たちを出迎える。
「海だね」
「海、ですね」
眼前に広がる海原。どこまでも、どこまでも広がる青・蒼・碧。バス停の側に立ったまま、一醐と真弓がしばしその光景に目を奪われる。
少し間を置いてから、一醐が真弓の手を取った。行こう、その合図だった。真弓が微笑むと、隣にいる一醐と共に歩き出す。
「夏になると、ここのソフトクリームを食べたくなるんだ」
「すごい……ミルクの味がします。とってもおいしいです」
「でしょ? ボクのお気に入りだよ」
海沿いに店を出していた小さな屋台でソフトクリームを買った。陽射しに当てられて少しずつ融けていくアイスを口にすると、ひんやりした冷たさと濃厚な甘みが広がっていく。一醐は夏を迎えると海へ遊びにくるけれど、その時はいつもこの屋台でソフトクリームを買っていた。店主曰く、この屋台は夏にだけ出していて、普段は別の商売をしているとか。いわば片手間でやっているお店というわけだけど、ソフトクリームのおいしさは本物で、そして格別だった。
おいしいソフトクリームを食べながら、ずーっと続いている街道をのんびり歩いて、気が向いたときに好きなだけ美しい海を見て、そして隣にはとても大切な人がいる。こんなにも贅沢な夏休みは無い、一醐は胸を張ってそう言うことができた。ずっと話をしていたいし、ソフトクリームも食べたい。綺麗な海をたくさん見ていたいし、笑顔を弾けさせている真弓の顔だって見ていたい。一醐の口も目も忙しくて、そして幸せいっぱいだった。
「真弓ちゃん、あそこでちょっと休んでかない?」
「はいっ。ちょうど、いい風も吹いてきましたし」
ふさがっていた手元が空いてしばらくしたところで、一醐は休憩するのにぴったりの木陰を見つけた。真弓に先んじて座り込むと、彼女の手をそっと引いて隣に座らせる。陰に入るとそれだけでずいぶん涼しくなって、体にたまった熱気が抜けていくかのよう。ほてった頬を潮風が撫でて、その風は青々と茂った木の葉を揺らしながら、どこか遠くへと去っていく。
思えば、一醐が誰かと一緒に海へ来るのは初めてだ。大抵一人でここを訪れて、気が済むまで辺りを散歩して回るのが常だった。一醐が暮らす狐が丘からはこの海を見ることはできない。だから、海を見るためにはここまで来なければならない。けれど、それがよかった。辿り着くまでの道のりまで含めて、普段の日常から少し離れたところにあるもの。一醐にとって、海は特別なものだった。
そんな特別なものを共有する真弓もまた、一醐にとって特別な存在だった。
「風が気持ちいいね」
「はい。とても涼しいです。けれど……」
「でも?」
「わたし、いちごさんの隣にいると、胸がぽかぽかしてきて、熱くなっちゃうんです」
服の上からでも微かにふくらみが見て取れる胸に、真弓がそっと手を当てる。丸みのある頬を朱に染めながら、一醐に向けてそう言った。
「真弓ちゃん」
どきりとした。真弓の見せた仕草に、表情に。確かな胸の高鳴りが、強い実感になって一醐を包み込む。知らず知らずのうちに、一醐もまた真弓と同じように、その胸にそっと手を当てていた。この鼓動は紛れもない本物、気のせいなんかじゃない。真弓から好意を向けられていることを自覚した一醐が、頬に熱を帯びていくのを感じる。夏の暑さがもたらしたもの――では、どうやらなさそうだった。
目を潤ませながら心をときめかせる一醐を見た真弓が、目を細めて笑う。どうしてこんな素敵な表情ができるのだろうと、笑顔を向けられた一醐は不思議でならなかった。真弓のことはずっと可愛いと思っていたし、今も変わらず思い続けているけれど、こんなにも目を奪われたのは初めてだった。
「いちごさん。わたし、さっきポスターを見かけたんです」
「ポスター?」
「はい。今日、この近くで花火大会があるって。わたし、見ていきたいです」
「花火かぁ……うん、いいね! 見ていこうよ!」
今日行われるという花火大会を見ていこうという真弓の提案を、一醐は喜んで受け入れた。一醐は花火が好きだったし、そんな花火を好きな真弓と共に見られるのならもっと楽しくなるに違いない。
夜になるまで辺りを散歩して回ってから、少し早めに高台にある公園へ向かう。この場所からなら花火をよく見られるはず、一醐はそう考えた。
「あっ、上がったよっ」
「すごい……こんなに近くで見られるなんて」
一醐の目論見通り、公園からは花火を間近で見ることができた。とても大きな花火が、暗くなった夜空にこの上なく映える。地上が花火に照らし出されて、あたかも昼間に時間が逆戻りしたかのよう。
絶え間なく音を立てて次々に空に昇っていく花火を見つめながら、真弓がぽつりと呟く。
「花火って、派手で明るいですけど、でも――儚いですね」
「うん……本当に。綺麗なのは、ほんの一瞬だから」
「最初に『花火』って名づけた人、すごいと思います。だって、本当に花みたいですから」
「花みたい、そうだよね。ボクもそう思うよ」
「はい。小さな種から始まって、空へとぐんぐん延びていって、花を咲かせて、やがて土に還っていく……見た目も在り方も、花そのものじゃないですか」
種のような玉が火を点けられ、空高く目指して飛んでいき、一番高い所でぱっと大輪の花を咲かせて、そして瞬く間に夜空に溶けていく。野に咲く花の一生を目まぐるしい速さで体現したかのようなその姿は、「花火」の名にふさわしい。
「わたしたちは、花がいつか散ることを知っています。だからこそ、花を綺麗だと感じるのかもしれませんね」
真弓の言葉に同意してうなずいていた一醐だったけれど、ここでふと、その動きがぴたりと止まった。間を置かずして真弓の手を取って、穏やかに、けれど確かに力を込める。花火に向けられていた真弓の目が、隣に立つ一醐へ向けられた。
「ボクは――ずっと変わらない綺麗なものだってある。そう思ってるよ」
自分に向けられた視線を掴まえるかのように、一醐がはっきりと口にした。繋いだ手に強い力が加わる。その手を握り返す度に、真弓との絆が固いものになっていくのを感じる。
「いちごさん、ずるいです。わたし、こんなにドキドキしちゃってます」
「それは、真弓ちゃんが可愛いせいだよっ」
お昼に覚えたあたたかな感情が、一段と大きくなって一醐を包み込む。この感情を言葉に表すなら――真弓のことが好き、それ以外に考えられない。
すべての花火が打ち上げられるまで、二人は互いに身を寄せ合って、空を見つめ続けたのだった。
翌日。真弓との小旅行から狐が丘に帰ってきた一醐は、変化を解いてねぐらでくつろいでいた。遊び疲れて帰ってくるなりぐっすり眠っていたけれど、お昼過ぎになって大あくびと共に目を覚ました。よく寝たおかげで疲れも取れたし、ちょっと小腹も空いた。寝ぼけまなこのままもぞもぞと出てくると、いつものように果樹園へ足を運ぶ。
林檎をもいできてシャリシャリと食べていると、他の狐たちの噂話が聞こえてくる。彼らもこの夏を謳歌しているらしい。街に繰り出して遊ぶ者、一醐のように海を見に行く者、もっと遠くの土地まで旅行に出かける者。思い思いに過ごしている様子が瞼の裏に浮かんでくるかのよう。仲間たちが楽しそうにしていると、一醐もまた嬉しくなるのだった。やっぱり狐が丘は落ち着く、口いっぱいに広がるリンゴの甘味と酸味を楽しみながら、一醐が目を細める。
ところが、一醐が林檎を食べ終わる頃になってから、少し毛色の違う話が耳に飛び込んできて。
「ねえ、翠佳がいなくなったって知ってる?」
「昨日聞いたぞ。ねぐらにあった物も全部無くなってるって」
翠佳は一醐と同い年の雌狐で、一醐ともよく遊ぶ仲のいい友達だった。それがいなくなったと聞いて、一醐は思わず目を見開いた。一体どういうことだ、すぐに噂をしていた狐たちの元へと向かっていく。
「待って! それどういうこと!?」
「あ、一醐くん。もしかして知らなかったの? 言葉通りだよ、翠佳が狐が丘から外に出てったんだって」
「直接聞いたわけじゃないが、どうやら『よめいり』をしたらしいぞ」
「『よめいり』……?」
嫁入り。一醐にとってその言葉自体は聞き覚えがあったし、どんな意味かも大まかにではあるけれど知っていた。
「好きな人間ができて、そいつと添い遂げる決意をしたとか、そういう感じだな」
「知ってるよ。もう二度と狐には戻らなくて、一生人間のままでいるんだよね」
「言われてみると、最近しょっちゅうねぐらを留守にしてたし、狐が丘を出ていく準備をしてたのかもな」
狐が丘に住む化け狐の中には人間と結ばれ、彼らと同じ人間として生きていくことを決める者も少なくない。そうと決めると二度と他の存在に化けることをしなくなり、ずっと同じ姿で生き続けるという。やがて内面まで完全に人間になり、自分が化け狐であったことも忘れてしまうという。そうなった化け狐は決して変化が解けることはなく、死してなお人の姿を残すそうだ。
そっかぁ、と一醐が少しばかり寂しそうにつぶやく。翠佳は勝ち気で男勝りな雌狐で、一緒に野山を駆け回って遊ぶ仲だった。あたいの理想は高いんだからね、としばしば胸を張って言っていたのを思い出す。そんな翠佳が嫁入りを決めたということは、きっと理想の人に巡り合えたのだろう。もう遊べないのは寂しかったけれど、翠佳を幸せにしてくれる人が見つかったのなら喜びたい。
「寂しいけど、翠佳が決めたことだもんね。僕たちがどうこう言えることじゃないよ」
「ま、そうだよなあ。俺は絶対ここで子供を産んで育てるんだって決めてるけどなっ」
「うーん、私はどうしよっかなぁ。悩んじゃうよ」
一醐はふと、昔沙倉が自分に話してくれたことを思い出した。一醐が物心つく前、ずっと歳の離れた姉がいたという。姉もまた人間に嫁入りをして、狐が丘から出ていったらしい。時々様子を見に行ってるけど、幸せそうにしてるよ。沙倉が自分を気遣うように言ってくれたことが、今も強く印象に残っている。
しばし「よめいり」について物思いにふけっていたけれど、一醐が不意に顔を上げる。
(――ま、僕は雄狐だし、関係ないよね。気にしない気にしない)
ぱぱっと素早く思考を切り替えて、果樹園を後にするのだった。
夏が緩やかに終わりを告げて、少しずつ風が冷たくなりはじめる。一醐が変化したときに着る服も、少しずつ厚手のものに変わっていく。肌寒い日が続く季節、けれど一醐と真弓の心は、いつもぽかぽかとあたたかなもので満たされていて。
「いちごさん。ちょっといいですか」
「どうしたの真弓、急にかしこまっちゃったりなんかして」
もうお決まりになった公園での散歩。その最中、真弓が不意に足を止めて一醐に呼び掛けた。すぐさま立ち止まる一醐。真弓は手に提げていた紙袋の紐をそっと右手で取り上げて、一醐に向けて差し出した。
「これ、受け取ってくださいっ」
「わ、プレゼントってやつ? ありがとっ。中身は何かな……?」
紙袋の口を広げて、そっと手を差し入れる。中から出てきたものを目にして、一醐は瞳を輝かせた。
「マフラー……だよね!?」
「はいっ。マフラーです」
白と青の毛糸を使ったマフラー、だった。見るからにあたたかそうで、実に丁寧に編み上げられている。隅から隅まで眺めて、一醐がますます大きく目を見開いた。
「これ、夏からずっと編んでたんです」
「ってことは、真弓の手編み……!」
「ちょっとうまく行かなかった部分もありますけど、受け取ってほしいです」
「もちもち! もちろんだよ! 早速巻いてみてもいいかな?」
「お願いしますっ!」
謙遜しながら言う真弓とは対照的に大はしゃぎの一醐。紙袋から取り出したマフラーをさっと広げて、手際よく首へ巻いていく。あっという間に身に着けてしまうと、どうかな、と真弓に向き直る。
「あの、わたしが言うのもヘンですけど……よく似合ってます」
「ボクにぴったりな色を選んでくれたからだね。とってもあったかいよ」
「いちごさん……! ありがとうございます! 気に入ってもらえて、すごく嬉しいです」
「だって、真弓がボクのために編んでくれたんだもん。気に入らないはずがないよ」
そうはっきり口にした一醐を前にして、真弓が目を潤ませる。彼女の瞳に吸い込まれるかのように、一醐もまた真弓から目が離せない。どれくらいの間、相手のことを見つめ合っただろう。不意に真弓が遠くの空を仰いで、それからふっと瞼を下ろして。
「あの、いちごさん。これからも、わたしと一緒にいてくれますか」
自分と一緒にいてくれるか、真弓はそう一醐に問う。
「もちろんだよ。ずっと側に居る、離れたりなんかしないよ」
一醐の答えは明快だった。真弓の側に居る、離れたりするようなことはない。迷いのない口調で応えた一醐に、真弓がほっと胸をなでおろすのが見えた。
「……よかったです。わたし、ちょっと怖くなっちゃって」
「怖くなった……?」
「はい。いちごさんと一緒にいると、いつも幸せだって思うんです。でも……いちごさんが急にどこかへ行ったりしないか、時々不安になってしまって」
「大丈夫だよ。ボクはここにいるからね。真弓を独りぼっちになんてさせやしないさ」
真弓を安心させるように肩を抱く。すると真弓が俯かせていた顔を上げて、上目遣いで一醐を見やる。
その仕草がとても艶やかで、一醐は思わず息を呑んだ。
「ありがとうございます、いちごさん」
「おかげで、気持ちが楽になりました」
一醐を見る真弓の瞳はとても美しくて、それはとても美しいものを見ている瞳であるように思えて。
(真弓……)
彼女の瞳に映る自分の姿を――理想の女の子「いちご」――瞳に映し出して、一醐はこれまで感じたことのない気持ちを、言葉にしがたい感情を胸に抱く。真弓が見ているものを、自分が真弓を通して見ている。そこに映っているのは女の子で、他でもない自分自身で。
湧き上がる感情に任せて、一醐は自分の胸の中に真弓を寄せて、彼女の体をぎゅっと抱きしめたのだった。
狐が丘に戻った一醐は変化を解いて狐の姿に戻り、まっすぐに自分のねぐらを目指す。貰ったマフラーが紙袋に入っていることをしっかり確かめてから、ねぐらの奥の雨露に濡れない場所へ大切にしまい込む。一息ついた後、一醐が無意識のうちに紙袋へ目を向ける。そっと地面に倒して口を広げると、中にもぞもぞと顔を突っ込んで、マフラーにぐっと顔をうずめた。
(……真弓のにおいがする)
毛糸で丁寧に編まれたマフラーはとてもあたたかくて、真弓の優しい匂いがした。真弓が僕にこれをプレゼントしてくれたんだ、真弓が僕のために編んでくれたんだ――そう思うと、ドキドキが止まらない。果てのない胸の高鳴りを感じて、一醐がそっと目をつむる。
紙袋に顔を全部入れていたせいで、誰かがねぐらを訪れていることに気付くまで、一醐は少しばかり時間を要した。
「いーちーごーくんっ」
「……わっ!? 沙倉姉さんっ!?」
沙倉だ。慌てて顔を出したせいで、マフラーが引っかかって外に飛び出て来た。土で汚れないように紙袋をスライドさせて受け止めると、一醐がふう、と小さく息をつく。彼の様子を見た沙倉は可笑しかったのか、くすくすと朗らかに笑って見せた。
「素敵なマフラーだね。これ、どうしたの?」
「はい。真弓から貰ったんです。僕のために編んだって言ってくれました」
「わ、そうなんだ。すごいじゃない、一醐くん」
うんうんとうなずいて見せてから、沙倉はいつも以上に落ち着いた物腰で、一醐に向けて語り掛けた。
「もしかすると……真弓ちゃんは、一醐くんのことが『好き』、なのかもしれないね」
好き。沙倉の言葉を受けた一醐の顔つきが、みるみるうちに変わった。
「僕のことが……好き?」
「うん。それも、お友達としてじゃなくて、もっと特別な存在として、ね」
意味するところが理解できないわけではない。理解できないわけがない。ただ、今までその発想に至ることが無かっただけだ。真弓は一醐のことが「好き」なのではないか、そう考えた途端、一醐の胸が少しずつざわつき始める。
ハッとして顔を上げる。僕はどんな形で真弓に接しているだろう、どんな姿を彼女に見せているだろう。自分に対する問いかけはすぐに答えが出て、一醐は自分のしていることを今更ながらに自覚する。
(僕はずっと女の子のふりをしていたけれど……真弓にとって、僕は本当の女の子なんだ)
(真弓は僕のことを女の子だと思ってるけど、本当の僕は雄狐で)
(……これって、真弓を騙してることになるんじゃないか)
一醐の心を不安が包み込む。真弓を欺いている、騙している、止め処なくそんな気持ちが満ちてきて、一醐が瞬く間に顔を蒼くした。その様子を見逃す沙倉ではなく、すぐに彼の元へ顔を近付ける。
「一醐くん、大丈夫? 顔色、良くないよ?」
「あの、沙倉姉さん。僕……今まで気付かなかったけど、真弓にすごく悪いことしてるんじゃないか、って……そう思って」
「真弓ちゃんのことを騙してる、そんな風に考えちゃったんだね」
「はい。僕は……本当は雄狐なのに、女の子のふりをして、真弓にウソをついてる……急に、そんな風に考えちゃって」
沈んだ顔をする一醐に沙倉が寄り添って、絹のような柔らかな声で語り掛ける。
「一醐くん。一醐くんは、真弓ちゃんのことを悲しませたいとか、そんな風には思ってない。そうだよね?」
「思ってません! 僕はただ、真弓が喜ぶ顔を見たくて、彼女の側に居たくて、それで……!」
「うん、そうだよね。私はそうだと思ってたよ。一醐くんは真弓ちゃんを騙したいわけじゃないって」
沙倉が一醐の毛皮にそっと顔をうずめる。一醐は思わず息を呑んだ。
「私はね、思うよ。一醐くんのホントの気持ち、大事にしてほしいな、って」
自分の気持ちを大事にしてほしい、沙倉は一醐に告げて、ゆっくりと彼のねぐらを後にした。残された一醐はぼんやりして回らない頭を懸命に働かせて、沙倉から言われた「本当の気持ち」
(僕の、本当の気持ち……)
僕は真弓のことをどう思っているか。もちろん、大好きだ。一醐は真弓のことが大好きだった。優しくて、愛らしくて、ぬくもりに満ちている。あんなに素敵な人は、他にどれだけ探したって見つかりっこない。この気持ちは「好き」に違いない。
(僕は女の子の「いちご」として、真弓といつも一緒にいる)
それも――仲のいい友達同士と言うよりも、愛し合う恋人同士のような気持ちで。
(……どうなんだろう。女の子が女の子を好きになるって)
雄狐でありながら女子を演じていること、そして女子を演じていながら真弓を「好き」になったこと。揺れ動く二つの気持ちに挟まれて、一醐は逡巡を続ける。
(でも、僕が真弓と一緒に居たいって気持ちは、本物だから)
(だから僕は、これからも真弓の側に居続けるんだ)
風は少しずつ、冷たくなり始めていた。
年の瀬も押し迫ったある日。一醐と真弓がいつものように街へ繰り出す。
「買うものはこれで全部かな?」
「はい。後は帰ってお料理するだけです」
たくさんの荷物を抱えた一醐と真弓が通りを歩いていく。向かう先は真弓の家だ。今夜は二人で一緒に過ごすことにしていた。真弓の家へ呼ばれた一醐は大喜びで、いつもよりうんと時間をかけておめかし――とは言っても、変化するイメージをしっかり固めただけだけれど――をしてきた。気合いが入っていたのは真弓も同じだったようで、普段に比べて少し大人びて見える気がする。一醐はそんな真弓の姿を横目に見つつ、彼女の横についててくてく歩く。
「楽しみだよ、真弓の手料理っ!」
「任せてください。おいしいもの、いっぱい作っちゃいますからね」
足取りも軽く歩いて行って、真弓の家まで辿り着く。二階建ての少し大きな日本家屋で、広い庭も付いている。真弓ひとりが暮らすにはいささか広すぎるように見えるのは、元々は祖父母が暮らしていた家を引き取って使っているかららしい。家が大きくていいなぁ、と思う反面、こんなに広い場所で独りぼっちというのは確かに寂しいに違いない、とも感じたのだった。
二人が家へ上がって台所で荷物を下ろすと、真弓は早速準備を始めた。一醐は茶の間へ向かって座布団を二枚敷いておく。家の中は綺麗に掃除されていてチリひとつなく、物もきちんと整理整頓されている。中の様子を軽く眺めただけで、真弓らしい家だ、と強く感じる。真面目で丁寧なしっかり者、一醐が日頃真弓から感じているものと同じ印象を、家の中の様子から見て取ることができた。
「ローストチキンにマリネサラダ、クリームシチューにフルーツゼリー……ふふふっ。腕が鳴っちゃいます」
「せっかくだから、ボクにもお手伝いさせてよ。一緒に作って一緒に食べれば、きっともっとおいしくなるよ」
「ありがとうございますっ。いちごさんが手伝ってくれれば、百人力です」
両手を合わせた真弓が、はちきれんばかりの満面の笑みを見せた。
人参にジャガイモ、ブロッコリーに玉ねぎ。クリームシチューへ入れる野菜を切っていく真弓の様子を、一醐が隣で見ている。独り暮らしをしているだけあってか、真弓は慣れたものだった。迷わず包丁を入れて、ひとつひとつ綺麗な形に切っていく。見ていて思わず安心してしまう手つきだ。野菜を切って下ごしらえを済ませると、いよいよ鍋でシチューを煮込み始める。
「あとは、焦げないように気を付ければ大丈夫です」
「すごいや真弓。あっという間に野菜がシチューになっちゃったよ」
「いちごさんが見ていてくれるって思うと、張り切っちゃって」
コトコトと穏やかな音を立てる鍋を、真弓と一醐がまじまじと見つめる。
「いちごさん」
「真弓?」
「こうやって二人でお料理してると……なんだかわたしたち、一緒に暮らしてるみたいですね」
思わずどきりとする一醐。無論、それは嫌な意味ではない。ちょうど同じようなことを一醐自身も考えていたからだ。真弓と一つ屋根の下で一緒に暮らしていたら、きっとこんな風に楽しい毎日が続くに違いない、と。隣にいる真弓もまた相通じるものを感じていたというなら、とても喜ばしく思えた。
そして一醐は、喜ばしい以上に――彼女に友情とは違う、もっと違うところにある、特別な感情を抱いていることを自覚せずにはいられなくて。
「よーしっ! 真弓っ、チキンも焼きあがったよっ」
「シチューもバッチリです。ゼリーもいい感じに固まってきました」
たっぷり時間をかけて、一醐と真弓が料理を作り終える。真弓が手際よく盛り付けると、一醐がテキパキとお茶の間へ運んでいく。しっかり冷やしてから食べるつもりのフルーツゼリーを冷蔵庫に残して、料理の配膳を済ませた。
「今日は、一醐さんが家に遊びに来てくれましたから」
真弓がワイングラスを二つ持ってくる。一醐はにっこりほほ笑むと、隅に置いてあった箱を開けて小さなビンを取り出す。ラベルを見ると、どうやら葡萄酒のようだ。
「わぁ……! 素敵です。いちごさん、よく買えましたね」
「えへへっ。今日は特別っ。ボクたち二人だけの秘密だよ」
せっかく二人きりで過ごすのだから、今日は楽しい夜にしたい。そう考えた一醐は、真弓に会う前に先に街へ出てワインを買い求めていたのだ。もちろん、まだ高校生くらいの背丈しかない「いちご」の姿では買えないから、もう少し歳を重ねた大人の女性に化けて、だ。一醐は幼い頃から主に沙倉に勧められてちょくちょくお酒を口にしていたおかげで、ちょっと酔ったくらいでは変化は解けなかった。
とは言っても、今日は酔うために飲むつもりはない。あくまで真弓との時間を愉しむため、ちょっと大人の気分を味わうためのものだ。
「でもわたし、実はお酒を飲むの初めてじゃないんです」
「前に聞かせてくれたよね、おばあちゃんに梅酒を飲ませてもらったって」
「はい、自分で作って飲んでたんです。蜂蜜みたいに甘くて、おばあちゃんみたいな味でした」
グラスに葡萄酒を静かに注いで、やさしく二人で乾杯をする。この家にいるのは一醐と真弓の二人だけ。この時間を邪魔するものは何一つとして存在しない。一醐には真弓がいる、真弓には一醐がいる。他には誰もいない。今の二人には、それこそが理想だった。
自分たちで作った手料理を心行くまで食べて、葡萄酒も二人ですっかり空けてしまった。真弓は今にもとろけそうな顔を見せていて、見ているとただただ幸せな気持ちになれた。そして一醐は、きっと自分も彼女と同じ顔をしているに違いないと思った。真弓が幸せなら、自分もまた幸せだから。とてもシンプルで、けれど揺るぎない答え。真弓と幸せを分かち合えること、それこそがまさに幸せだった。
食事も半ばを過ぎた頃、一醐はさりげなく手提げかばんを取り寄せて、中から丁寧に包装された小箱を取り出して見せた。
「真弓。プレゼント交換の時間だよっ」
「待ってました! ちょうど、わたしも言おうと思ってたところなんです」
真弓も同じく懐から小箱を取り出す。二人が互いにうなずき合って、相手に向かって小箱を差し出す。差し出されたそれを交換する形で受け取って、手のひらに載せてしげしげと眺める。
「開けていいですか?」
「うんっ。見てみてよ」
瞳をキラキラ輝かせた真弓が、待ちきれないといった様子で訊ねる。一醐が快く首を縦に振ると、真弓は逸る気持ちを抑えながらそっと包装を剥がしてゆき、小箱の封を切って蓋を開く。
「これ……! 腕時計……!」
「なんて言ったらいいのかな。その、ボクと真弓の二人で、一緒に同じ時間を刻めればいいなって思って」
「いちごさん……! ありがとうございます!」
まばゆく光っていた真弓の瞳が一段と輝きを増して、微かに潤んでいるのが見えた。箱に入った腕時計を慈しむように撫でて、抱きしめて、真弓はただただ感激していた。自分の選んだプレゼントを喜んでもらえた一醐は、もちろん幸せいっぱいだ。ほこほこと顔を赤くしながら満面の笑みを浮かべて、喜ぶ真弓の顔から片時も目を離さない。真弓は幸せ、一醐も幸せ。一醐がプレゼントに込めた同じ時間を過ごしたいという思いは、早速成就したのだった。
さて、次は一醐の番だ。開けるね、と真弓に一言断ってから、一醐がゆっくりと紐を解いて箱を開ける。
(えっ)
小箱の中に入っていたものを見た一醐が、大きく目を見開いて息を止めた。世界が時を刻むのを止めたかのような感覚に包まれて、自分が何を目の当たりにしているのか理解するのにずいぶん時間を要した。
一醐が真弓からプレゼントされたもの、それは。
「これ、指輪――」
「……はい。指輪、です」
シンプルで、けれどそれゆえに美しい銀の指輪。装飾は何もなくて、ただ綺麗な環だけがそこにあった。少しの間目を離せなかった一醐だけれど、不意にハッとして真弓の方に向き直る。そして真弓の方はと言うと、顔を真っ赤にして恥じ入りながら、それでも視線を一醐から外すことは無くて。
「好きなんです。わたし、好きなんです」
「いちごさんのこと……好き、なんです」
好き。一醐のことが好き。
真弓から自分に向けられた感情をはっきり自覚して、一醐もまた、自分が抱いていた想いがふつふつと蘇ってくるのを感じる。
「あの、急にごめんなさい。でも、言いたかったんです。言わなきゃって思ってたんです」
「いちごさんと添い遂げられればって、ただ、それしか考えられなかったんです」
一醐と添い遂げたい、真弓の言葉が意味するところを理解できない一醐ではない。むしろあまりに分かりすぎていて、真弓のとてつもなく強い思いを全身で受け止めて、返すべき言葉を見つけることができずにいただけだった。
いつもよりずいぶん畏まった口調で、真弓が語り始める。
「わたし、両親がいないんです。一年ほど前に二人とも亡くなって、今は独りなんです」
「ここへ越してきたのは、祖母と暮らすためだったんですけど……祖母もまた、わたしが来る少し前に亡くなってしまって」
「周りから大切な人がどんどん消えていく、そう思うと、胸が苦しくて、とてもつらくて」
「わたしはずっと独りぼっちなんじゃないかって思っていたその時に、いちごさんと出会ったんです」
家族を次々に喪って、身寄りのない天涯孤独の身となった真弓。深い孤独に苛まれて街を彷徨っていた時に声をかけてくれたのが、他でもない一醐だった。あの時の真弓はただただ不安で、未来が真っ黒に塗りつぶされているかのように見えて、心が今にも真っ二つに折れてしまいそうだったのだ。そこへ親しげに呼び掛けられて、真弓は救われた思いがしたものだった。
一醐は神妙な面持ちをして真弓の話を聞いている。他に家族と呼べる存在がいないのは、一醐もまた同じだった。けれど一醐には、狐が丘に住んでいる仲間たちがいた。彼ら・彼女らがいたからこそ、一醐はここまでまっすぐに大きくなることができた。そして今自分が、真弓を支える大きな柱になっている。知らず知らずのうちに、一醐は真弓にとってなくてはならない存在になっていたのだ。
「両親と祖母は、わたしに生きていく術を教えてくれました。この家みたいに、たくさんのものを遺してくれました」
「けれど、独りでいるのはとても寂しいです」
「ですから、いちごさんが側に居てくれるのが、何よりも嬉しいんです」
胸に手を当てて、目を閉じた真弓が、一醐に向けて口を開く。
「契りを交わして、ひとつになって……ずっと、ふたり一緒にいられればいいなって、そう思うんです」
真弓は――確かに、確かにそう言った。
「今すぐに答えがほしい、そんなことは言いません。いちごさんにも、いちごさんの気持ちがありますから」
「でも……本気です。わたしの、本気の気持ちなんです」
「わたし、待ってます。ずっと待ってます。いちごさんの答えを……聞かせてください」
一醐の手をすっと取って、真弓は一醐に答えを預けたのだった。
夜も更けた頃、一醐は自分のねぐらに帰ってきた。真弓から受け取った指輪が、箱に入ったまま目の前に鎮座している。薄目を開けて小箱を見つめながら、一醐は小さくため息をついた。
(真弓は、僕と一緒にずっといたい……同じ場所で暮らしたいって言ってくれている)
(僕のことを、そこまで想っていてくれたなんて)
真弓から手渡された指輪に込められた思いは、一醐にも痛いほど理解できた。一つ屋根の下、共に手を携えて暮らすことを願う。それはつがいになること、人の言葉で例えるならば――結婚、ということになる。真弓は一醐を本心から愛していて、誰よりも深く愛していて、残りの人生を二人で生きていくことを強く望んでいる。その思いを、一醐はしかと受け止める。
(真弓の気持ちは嬉しい。本当に、嬉しいんだ)
(でも……僕は、どう答えればいいのかわからない。どんな顔をして真弓に会えばいいのか、分からないんだ)
自分と真弓を隔てる壁。他でもない、一醐の本質にまつわること。
(僕は雄狐だけど、真弓は女の子の僕を、『いちご』を好きでいてくれている)
(やっぱり、僕は騙してるんじゃないか。真弓のことを騙しているんじゃないのか)
一醐は女の子に化けるのが好きで、そして得意だ。それは誰しも認めるところで、一醐もまた自認するところでもある。自らの思い描く理想の少女に変化して、思うままに外で遊ぶ。今まではそれでよかった、誰かとずっと一緒にいることなんて考えもしなかったから、楽しい時間を過ごすことができればそれでよかったのだ。
今は違う。一醐ではない「いちご」を好きでいてくれる真弓がいて、そして対する一醐もまた真弓のことを誰よりも好きでいて愛している。けれど真弓が見ているのは「いちご」であって一醐ではなく、そして一醐は一醐であって「いちご」ではない。「いちご」とは所詮仮初めの姿、本当はこの世界のどこにも存在しない、一醐の作り出した幻想に過ぎない。ありもしない虚像を見せて、真弓をかどわかしている。そう言われても何もおかしくなかった。
胸がいっぱいになってきて、一醐が鈍い痛みを覚えた。この気持ちをどこへ持っていけばいいのだろう。苦しみにあえぎながら一醐が脳裏に浮かべた姿は、自分のよく知る、自分がいつも目指していた、目標にしていた彼女の姿で。
(……沙倉姉さん。姉さんなら、僕に何か教えてくれるかもしれない)
沙倉。自分をここまで導いてくれた姉のような存在。今まで困ったこと、悩むようなことがあれば、いつも彼女に答えを求めていた。今度もまた、そうするべきなのかも知れない。しかし、元はと言えば雄狐なのに女子に化けるようなことをした自分自身が蒔いた種ではないか。こんなことを相談して、沙倉を困らせはしないだろうか。一醐は思わず頭を抱えてしまう。
丸一日懊悩した末に、一醐はようやく沙倉の元を訪れる決心をした。普段使っているねぐらには居ないようだったので、たまたま近くにいた狐に訊ねてみたところ、奥にある広場へ出かけていくのを見たとのことだった。その言葉に従って、一醐が狐が丘の奥地へ入り込んでいく。普段はまず足を踏み入れることのない鬱蒼とした森、辺りを仲間が歩いている気配はなく、他の生き物の姿も見当たらない。少しずつ周囲の音が消えていき、静寂が一醐を緩やかに包み込んでいく。
延々と林立する無数の木々を抜けた先に、陽の光の差し込む広場が見えた。
(あれは――)
沙倉はそこに立っていた。人の姿を借りて、白色の装束をその身に纏い、広場の中央に独り立っていた。
「姉さん」
意識するよりも先に口から声が飛び出す。見ず知らずの姿へ変化していても、一醐には彼女が沙倉であるとたちどころに認識することができた。一醐の声が耳に届いたのか、沙倉がゆっくりと振り向く。いつものように優しげな、しかし少しばかり哀愁を帯びた笑みを一醐に投げかけて、沙倉が一醐の姿をその瞳に映し出す。駆け寄ってきた一醐を人の姿のまま迎え入れて、彼に視線を合わせるかのように屈んで見せた。
一醐は自分の話よりも先に、普段は見ない風貌を取っている沙倉のことが気になって、真っ先にそのことを問う。
「姉さん、その姿は」
「綺麗でしょ? 一醐くんに見せてあげたいと思って」
「僕に……ですか」
「うん。一醐くんだけに。これは、『よめいり』をする時の姿だからね」
よめいり。沙倉の口から出たその言葉に、一醐が反射的に息を呑んだ。自分は今まさに、その「よめいり」のことを沙倉に打ち明けようとしていたのだから。
「私が誰かに『よめいり』するわけじゃないよ。でも――私、一醐くんにはどうしても見せてあげたかったから」
「沙倉姉さん……」
「それにね、一緒に教えてあげたいこともあったから」
「教えたいこと? 姉さん、それは何ですか。教えてください」
沙倉の手に前脚を載せて大きく身を乗り出す一醐。沙倉は柔らかな手つきで一醐の背中をなでてやりながら、繊手よりも柔和な口調で、一醐に教示してみせる。
「大切な誰かのところへ『よめいり』するって、とっても素敵なことなんだよ、ってことをね」
笑みを浮かべたままそっと瞼を閉じた沙倉が、それでも一醐から目を離すことはせずに、ゆるやかに言葉を紡いでいく。
「一醐くんには、好きな子がいるんだよね。顔を見れば分かるよ。もしかしてその子から、何かを申し込まれたんじゃないかな」
「例えば、そう――結婚、とかかな」
素直にうなずいて、沙倉の言葉をありのまますべて肯定する。すべては沙倉の言う通りだった。自分は今、真弓から連れ合いになりたいという願いを聞かされている。一醐の顔を見た沙倉は少しも驚くことなく、一段と柔らかな笑みを見せる。
「そっか、そうなんだね。おめでとう――って、私、言ってあげたいんだけど」
「でも……一醐くんの顔を見てたら、今はまだちょっと、そうは言えそうにないね」
何もかもお見通しなのだと、一醐は感嘆するほかなかった。自分が抱えている悩みさえも、沙倉には手に取るように理解されている。改めて、沙倉が自分にとってどれだけ大きな存在なのか、一醐は自覚するばかりだった。
「気持ちは分かるよ、一醐くん。一醐くんは男の子で、でも、真弓ちゃんは女の子としての『いちご』ちゃんが好き」
「難しいよね。一体どうすればいいんだろうって思うよね。分かるよ」
沙倉の「分かる」という言葉は本物だった。何から何まで理解していて、表向きの気持ちだけじゃなくて奥底にまで理解が及んでいて、ひょっとすると一醐自身よりも分かっているかもしれない、そう思わせる説得力があった。沙倉が「分かる」と言ったときは、本当にすべてを分かっている。これもひとえに、一醐が沙倉を絶対的に信頼しているからこそと言えた。
身に纏った新雪の如き美しさの白無垢を一醐へまっすぐに見せて、沙倉が絹のような声をもって、一醐を優しく諭す。
「けれどね、一醐くん。一醐くんは、もう答えを知っているはずだよ」
「僕が……答えを知ってる?」
「一醐くんの心が本当に願っていること、一醐くんが心から叶えたいと思っている願い。それに耳を傾けてほしいな」
一醐の脳裏へ真っ先に浮かんだのは、自分に笑顔を向けてくれる真弓の姿。笑っている真弓の姿、喜んでくれている真弓の姿。
そんな彼女の隣にあることこそが――他でもない、一醐にとって何よりの願いだった。
「――化け狐は何にだって化けられる。どんな姿にだって化けることができる」
「思いが強ければ、嘘だって本当にしてしまえる」
「それが、私たち化け狐なんだよ」
化け狐は何にだってなることができる。性別だって、種族だって、何もかも飛び越えて、なりたい自分になれる。強い思いさえあれば、そこに壁なんてありはしない。現実にはあり得ないこと――「嘘」だって飛び越えて、「本当」にしてしまえる。
その原動力は、自分の強い思いに他ならない。
「聞かせてほしいな、一醐くんの出した答えを」
一醐はもう迷わない。顔を上げて、沙倉と目と目と合わせて、その口を大きく開いて。
「沙倉姉さん。僕は――」
「僕は、真弓とずっと一緒にいます。ずっとずっと、死ぬまで側に居たいです」
「もう化け狐には戻らない。人として、連れ合いとして……真弓と、ふたりで生きていきます」
彼の口から紡がれた言葉はとても明快で、とても明瞭で、とても明白で。
そして、とても強い決意に満ちたものだった。
「……うん、分かってた。一醐くんなら、きっとそう言うだろうなって思ってたよ」
「沙倉姉さん」
「何もかも嬉しい、そういうわけにはいかないけれど、一醐くんの決めたことなら、応援しちゃう」
もう何度見ただろう、沙倉がいつも見せている柔らかな笑顔。確かに微笑んでいるのに、彼女の瞳には一抹の哀しさが滲んでいる。寂しいという気持ちが瞳の色に現れて、一醐もそれを確かに見ている。沙倉が寂寥を帯びた顔をする理由なんて、考えずとも手に取るように分かる。彼女から向けられていた思いを、幼い頃からずっと自分の傍で見守ってくれていた沙倉が感じていたものを、一醐は一滴も零すことなく受け止めていた。
「最後になっちゃったけど……この姿を一醐くんに見せられて、私、幸せだよ」
身に着けた白無垢を慈しむように撫でて、一醐が片時も目を離すことなく自分を見つめ続けていることを確かめてから、沙倉は満足げに、けれど共にどこか名残を惜しみながら、くるりと身を翻す。光が沙倉を包み込み、おぼろげに見える彼女の形が瞬く間に変わっていって、しなやかな体の雌狐へと収束していく。
閉じていた目を開き、白無垢に代えていた木の葉をそっとふるい落として、沙倉が一醐へひたりと歩み寄る。
「一醐くんは、もう『一醐くん』には戻らないつもりなんだね」
鼻先を一醐に優しく当てると、彼の耳へ届くように体を密着させて、微かに掠れた声でつぶやく。
「だったらね、最後に」
沙倉の吐息が一醐の顔に掛かって、そして。
「一醐くんが……確かに男の子だったってことを、私の記憶に刻ませて」
はっとした顔をして、一醐が沙倉を見た。沙倉は普段の笑顔を保ちながら、その瞳には今まで見せたこともない情熱を宿している。一醐にそっとしなだれかかると、その躰を離すまいとぐっと力を込める。沙倉の言葉と仕草が意味するところを理解できぬ一醐ではない。これが今生の別れとなるから、これが最後の交わりとなるから。だから一醐は、沙倉の願いを聞き入れた。
明日からは、新しい自分に生まれ変わるのだから。
「ねえ一醐くん、約束して」
「真弓ちゃんと二人で、絶対に幸せになる、って」
「破ったら……私、泣いちゃうから」
約束する。一醐は確かにそう応える。二つの影が一つに交錯して、声は北風に融けて消えてゆく。
果てのないぬくもりに包まれて溶かされそうになりながら、一醐は思う。男子としての一醐は、沙倉のことが好きだったと。姉として慕うと共に、女子としても好意を寄せていたのだと。その思いをすべて沙倉へ託して、沙倉へ捧げて。
それを最後に――かつて一醐だった化け狐は、化け狐の一醐であることを止めた。
永遠に、永久に。
*
「いちごさん」
「どうしたの?」
「ふふふっ。呼んでみただけですっ」
「もう、真弓ったら」
いちごと真弓が並んで歩く。いちごの首には真弓の編んだマフラーが、真弓の手首にはいちごの選んだ腕時計が、それぞれ巻かれている。季節は一巡して間もなく冬が終わり、あたたかな春が訪れようとしているのを感じる。
真弓と繋がった一醐の手。その薬指には、美しい環が光っている。
「思ってたよりスッと通っちゃったね、婚姻届」
「わたしたちみたいな人、珍しくないみたいですから」
「こう見えてもボク、一世一代の決断だったんだよ? ちょっと拍子抜けしちゃった」
「わたしだって、いちごさんが『いいよ』って言ってくれるまで、ドキドキしっぱなしでしたよ」
手を取り合って歩く二人の足取りはぴたりと合っていて、同じ道のりを同じ速さで歩んでいるのが見て取れる。
「さあ、どうしようっかなぁ。バイトもいいけど、もう少しお金が欲しくなっちゃうね」
「わたしも、お仕事探したいです。いちごさんに頼りきりじゃ、いけませんから」
「そういうとこだよ、真弓。ボクが真弓を好きになったのはね」
恋人から、めおとへ。二人の関係を表す名前が変わっても、いちごと真弓、二人の繋がりはいささかも変わることは無い。同じ屋根の下で同じ釜の飯を食べて、そして日々を共にする。それこそがいちごと真弓の望んだ未来だった。
「結婚したんですね、わたしたち」
「確かに手続きはしたはずなんだけど、実感湧かないね。これから少しずつ、『結婚したんだなぁ』って思うことが増えるんだろうけど」
「そう……これから、ですよね」
いちごと真弓、二人のすべては、これから始まる。
そう――これから、始まるのだ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。