「な、な……」
「えっ、えっ、えぇ……」
腰を抜かして床にへたり込んだ女の子がふたり、日差しの差し込む明るい部屋で向かい合っている。お互い相手を指差して、口をぽかんと開けたまま、驚きで目をまん丸くしている。
ふたりが驚いている理由は、とっても単純なことで。
「じ、自分……その顔……」
「そう言うてる自分も、顔……」
「「自分やん!!」」
目の前にいた女の子が、自分と文字通り鏡写しの、そっくりさんだったからだ。
さかのぼること十分ちょっと前。かえでは自室の隅っこに置いてある、少し背の高いスタンドミラーの前に立っていた。木目の縁取りが温かみを感じさせてくれる、いい塩梅に小洒落た鏡だったけれど、あいにくかえでは鏡そのものは見ていない。見ているのは、鏡が映し出す自分のすがただった。
軽く体を反らしてみたり、少し横に向けてみたり。あれこれ違った角度で自分を映し出してみるけれど、かえでの表情は梅雨時の空模様のようにどこかパッとしない。あきらめたように正面へ向き直ると、見るからに気弱そうな感じの、三つ編みおさげの眼鏡っ子が映っていた。
かえで。苗字は桜庭。合わせて桜庭かえで。ついこの間高校にあがったばかりで、まだあどけなさが抜けきらない。丸っこい顔に、健康的で少し肉付きのいい体なのが、幼い感じのする雰囲気をますます強くさせている。口元に手を当てる仕草なんかはなかなか愛らしいのだけれど、本人はそれがあまり好ましくないみたいで。
「よう小説とかで『どこにでもおる普通の高校生』とか言うけど、言うてなんかええところ持ってるし、普通ちゃうやん」
「うちみたいなんが、ホンマもんの『どこにでもおる普通の高校生』なんやろなぁ……」
でっかいため息を一つついて、かえでががっくりうつむいた。結われたおさげがぶらぶらと、力なく頼りなくゆれている。
自分の人生はなんて平凡なんだろう、最近折にふれてかえでが考えることだった。大した浮き沈みのない、なんだか面白みのない人生、そんな風に思ってしまう。大きなできごとといえば、せいぜい大阪からここ山辺市は浅葱区へ引っ越してきたことぐらいだ。けれどそうは言っても、引越しなんてほとんどの子が一度か二度は経験することじゃないか。だから、そんなにすごいことでもない。ごくありふれたできごとのひとつだ。
目立つような取り柄なんてなくて、プロフィールに書けるような「特技」も「趣味」もすっと出てきてくれない。実際のところ、かえでと同じことで悩んでいる子なんてたくさんいるんだけれども、彼女は自分だけがこんなことでうじうじしていると思っている。他の子がみんなすばらしく輝いて見えてしまう、そんな経験のある人はきっといるはずだ。かえではまさにその渦中にあった。
「髪型、変えたりした方がええんかなぁ……せやけど、うちにあんまり派手なんは似合わへんやろし……」
鏡に映る自分の姿を見ていると、大きなため息がいくつも出てきてしまう。
(うち、自分に自信持てる顔やったらよかったのになぁ……)
地味な子。かえでの自己評価はこの一言がすべてだった。あんまりと言えばあんまりだけど、本人がそう思ってしまっているのだからどうしようもない。何度目かわからないあため息を漏らしてから、今度は腕のお肉をつまんでふにふにする。かえでは肉付きがよくて健康的な体つきをしている。本来ならそれでよかったのだけれど、何分デリケートなお年頃ゆえに、自分がふとっちょさんなんじゃないかと気になって仕方ない。もうちょっと痩せた方がええんやろか、そんな考えばかりが頭をよぎってしまう。
とにもかくにも自分に自信を持てなくて、毎日がつらく感じる。中学の頃からうすうす感じてはいたけれど、高校に入ってからは一気にその思いが強くなった。
(見た目もそうやし、他のことも全然やし……)
何か他の人に自慢できるような立派なこと、例えばすごい読書感想文を書いて市長さんに褒められたとか、そういう経験はひとつもない。勉強だってごくごく普通で、赤点を取ってお母さんに真っ赤な顔で叱られるようなことはなかったけれど、飛び抜けて秀才ってわけでもない。彼氏もいないし、浮いた話にはとんと縁がない。それから実は気にしているのが、中学生の間は何も部活をしていなかったことだ。単純に自分に合いそうな部活がなかっただけなのだけれど、自分の地味さをますますパワーアップさせているみたいで、もやもやした気持ちをぬぐえなかった。
いろんなところに、いろんなコンプレックスを抱えている。そんな自分が好きになれなくて、ますます悩んでしまう。かえでの悩みはつのる一方だった。
「けど、なんでやろう」
「なんでか分からへんけど、毎日こないして鏡見てまうんよな」
鏡を見ることが習慣になったのは、いつからだろう。どんなに忙しくても、毎日十分くらいはこうして鏡を見てしまう。映し出されるのは、野暮ったくてあか抜けない自分のすがた、紛れもなく自分自身のすがた。なのにどうしてか、ずっと見ているとなんだかこそばゆくなってきて、思わずあたふたしてしまう。自分に見とれるとか、そんなのじゃないはず。きっとそうじゃない。でも、見ていてイヤな気持ちになるわけでもない。うまく気持ちが整理できなくて、そうしてまた鏡を見てしまうということの繰り返しだった。
とまあ今日も今日とて、鏡を通して自分と見つめあっていたかえでだったのだけれど。
「あれ、なんやろ? なんか、鏡揺れとる?」
鏡の様子が、普段と何か違う気がした。ごくごく小さくだけれど、表面が波うっているように見える。不思議に思ったかえではおそるおそる、鏡に手を当てようとする。同じようにして手を近付けていく自分のすがたが、やっぱり何かいつもと違う。ためらいながら、かえでは鏡にそっと手のひらを寄せる。
(……えっ!? なんやのんこれ、なんか……あったかいねんけど!?)
かえでが思わず目を見開く。いつでも冷たいはずの鏡が、今日に限っては人肌と同じくらいあたたかくて、そしてやわらかかったのだ。驚きで頭がいっぱいになるかえで。ところが次の瞬間、これがどうでもよくなってしまうくらいの、もっとすごいことが起きて。
鏡の向こうから、何かが自分の手のひらを押してくる感触。こちらに向かって近付いてきているのが、あまりにもはっきりわかって。
(えっ、えっえっ、なんなんなんなん、なんかこっちに……!)
かえでが半ばパニックになっているうちに、それは起きた。
「うわっと!?」
「ひゃん!?」
揃ってすっとんきょうな声を上げる。かえでは鏡から出てきた何者かに、床へ押し倒されるかたちになった。幸い床にはカーペットが敷かれていたから、ケガをするようなことはなかったけれど、もちろんかえでにはそんなことを気にする余裕なんてなくて、今何が起きているのかを追っかけるのが精いっぱいだった。
閉じていた目を開いて、自分に覆いかぶさっているのが誰なのかを確かめる。鏡の向こうからやってきた「誰か」の顔を見て、かえでははっと息を飲んだ。そしてそれは、かえでを押し倒したもう一方の子も、また同じだったみたいで。
(こ、この子……!)
上に乗っていた女の子が床を転がって、かえでの上から降りる。それからなんとか立ち上がろうとしたけれど、驚きのあまり腰を抜かしてしまって立てずにいる。立てないのはかえでも同じだった。びっくりしたのは、お互いさまだったのだ。
「な、な……」
「えっ、えっ、えぇ……」
ふたりが驚いている理由は、とっても単純なことで。
「じ、自分……その顔……」
「そう言うてる自分も、顔……」
「「自分やん!!」」
目の前にいた女の子が、自分と文字通り鏡写しの、そっくりさんだったからだ。
(ど、ど、どういうことなん……? この子、どない見ても自分やん……?)
心臓のドキドキが収まらない。どうにか落ち着かせようとしても、目の前にいる自分自身を見るとまた動悸が早くなってしまう。動転する心をなんとか抑え込みながら、かえでが勇気を振り絞って口を開く。
「じ、自分……どこ、どこから来たん……?」
「えっ、えーっと、なんやろ……あの、鏡がなんやこう、ぼやーっとしとったから、なんやろって思て近付いたら……」
「鏡……やっぱり自分、鏡から来たんや……」
呆然とつぶやくかえでに、もう一方の女の子が恐る恐る訊ね返す。
「えっと、ごめんな。自分……名前、なんて言うん?」
「う、うち? うち、桜庭かえで言う名前やけど……」
「うっわ! うっわやっぱり一緒やん! あのなあのな、うちもかえで言うねん、桜庭かえで」
「ウソやん! 同じ顔で同じ名前とか、ありえへんし!」
「せやけど今こないしてここにおるんやもん、しゃあないやん」
「せ、せやな……言うとおりやわ」
最初からいたのもかえで、鏡からやってきたのもかえで。なんだかちょっとややこしいので、鏡から出てきた方は「カエデ」と書くようにしよう。
さて、向かい合うかえでとカエデ。かえではカエデを見ながら、ふとあることを考えるに至って。
「うちも『かえで』、自分も『かえで』……これって……」
自分が自分と出会う。これは、まさしく――。
「これ、『ドッペルゲンガー』いうやつ違うん!? ほらほら、あの、自分と同じ顔した人と出会ういうのんって!」
そう、いわゆる「ドッペルゲンガー」というやつではないか。かえでに言われたカエデも思い当たるところがあったみたいで、ぽん! と力強くひざを打った。
「あっあっ、うちそれ知ってる! あれやんなあれやんな、見たら死ぬやつ!」
「それやそれや! 見たら死ぬやつ! 自分よう知ってるやん!」
「なんやかんや言うて、山辺市はいろいろ変わったもんと出会うことあるさかい、人並みには知っとるで!」
「分かるわー、うちもこっち引っ越してきてから詳しなったもん、分かるわぁ。お互いさまやな!」
あっはっは、と和やかな空気に包まれるかえでとカエデ。会話も弾んで息もぴったりで、すっかり意気投合している。
「……あれ」
「……あ」
が、ちょっと落ち着いたところで、自分たちの置かれている状況に気がついたみたいで。
「えーっと」
「うん」
「自分は、うちのドッペルゲンガーで」
「うん、うん」
「うちは、自分のドッペルゲンガーやんな」
「せやな」
「間違いないやんな?」
「間違いあらへんで」
間。
「あーっ!」
「あぁー!」
「あかん死んでまう! 死んでまうー!」
「ちょっとまだ死にたないねんけど! 言うてまだ十五やのに!」
「ちょ、はよ逃げやな、はよ!」
「逃げる言うてもどこへよ!?」
あわあわ、あたふた、どたばた。ふたりしてじたばたして、とんでもなくでっかい声をあげて、部屋の中で逃げろ逃げろと大騒ぎしている。そうは言ってもどこにも逃げるあてなんてなくて、結局またお見合いしてわたわたしてしまう。
「いややぁー! うちもうあかんわぁー!」
「どないもなれへんー! もうおしまいやぁー!」
パニック度合いがいっぱいになって、とうとうかえでとカエデが抱き合って泣き始めた。もうだめだ、もうおしまいだ……的なことを揃ってわんわん叫んで、三分ぐらいが経った。
「……あれ、死んでへんやん、うち」
「うちもやん。全然、ピンピンしとるで」
ドッペルゲンガーは見た瞬間に自分が死ぬらしいと聞いていたが、見ての通りふたりは元気そのものだ。死ぬ気配なんてこれっぽっちも感じられない。理由はハッキリしないけれど、かえでとカエデはこうやってお互いに出会ってしまっても大丈夫だったようだ。
「なーんや、違うやん。こないして向かい合っても全然平気やん」
「あービックリした、寿命めっちゃ縮まったわ。せやけど何にもあらへんでよかったわぁ」
かえでもカエデも、ほっと胸をなでおろす。いつまでも床に座り込んでいると足が痛くなると思ったのか、かえでがベッドへゆっくり腰をおろす。カエデにも座るように促すと、カエデも迷わず隣へ座った。そっくりを通り越して、服装から髪型から顔つきに至るまで何から何まで同じ女の子が二人、肩をよせ合って並ぶ。
「死ねへんかったんはええけどや、自分、ほんまに自分やな」
「そない言うけど、そういう自分も自分やん。瓜二つとかそんなんよりもっとそっくりやん」
「あー、こないなことあるもんやねんなぁ、ビックリしたわ」
今一度、かえでがカエデの顔を見た。何から何まで自分とそっくりな顔が、そこにはあった。ふっくらした丸みのある頬、校則に合わせてきっちり長さをそろえた髪、小さな花のつぼみのようなくちびる、黒く透きとおった瞳。いつも鏡を通して目にしているはずのすがたなのに、見ているうちに、なんだかそわそわした気持ちになってきて。
(なんでやろ……目の前におるん、うちやのに)
自分のすがたを見てドキドキしてしまう、その気持ちがまた自分をあたふたさせてしまいそうで、かえでは気持ちをごまかさなきゃ、という思いでいっぱいになった。視線をふらふらと泳がせつつ、かえでがカエデに訊ねる。
「あ……えっと、自分さあ、鏡から出てきたんはええけど……帰れるん?」
「……せ、せや! なんやこう、あの、自分の部屋と同じやからくつろいでもうたわ」
心なしか、カエデの方もあわあわしているように見えたけれど、かえでの方は自分のことでいっぱいいっぱいで、カエデのことまでには気が向けられなかったみたいだ。
かえでとカエデがちょこまか歩いていって、カエデがこわごわ鏡に手を触れる。すると鏡は水面のようにゆらゆら揺れて、ぐっと手を押し込むと「向こう側」へつながっている感触がした。出入りは自由みたいだ。カエデが安心したように息をついて、かえでも隣で安堵した表情を見せている。
「うん、これやったらいつでも帰れるわ」
「ああ、よかったわぁ。帰られへんのが一番難儀やもんな。安心したわ」
「ありがとうな、心配してくれて。うち、うれしいわ」
「だって、向こうの自分やもん。それに……誰にも優しいしいやって、おばあちゃんによう言われとったから」
カエデがかえでの言葉に頬をゆるませると、かえでもカエデにつられて朗らかな笑顔を見せた。
鏡に手を差し入れたまま、カエデがかえでに目を向ける。
「ごめんな、ビックリさして。うち、自分のところに帰るな」
かえではカエデの姿を目にしながら、少しためらいつつも、カエデを見送ろうとする。
(うちら、このままお別れになってまうんかな)
常識ではありえない出来事を経て出会ったとはいえ、他ならぬ自分自身であるカエデとは、とても気が合いそうだった。できることならまた会いたい、また会って話がしたい。そんな思いが芽生えていた。
ここで言わなければ、二度と会えなくなるかもしれない――そんな気持ちに駆られたかえでが、勇気を出して声を上げた。
「「あのな」」
声を上げたのは、かえでだけではなかった。カエデも同じタイミングで、声を上げた。
「あ……どないしょう、先言う?」
「いや、えっと……せっかくやから、いっしょに言おや。たぶん、似たようなこと考えてると思うから」
「そっか――そやな。うちもそない思う。いっしょに言うわ」
「よっしゃ、せーのっ……」
かえでがカエデの瞳を、カエデがかえでの瞳をまっすぐ見据えて、胸に秘めた想いをありのまま言葉にした。
「また遊びにきてくれへん?」
「また遊びにきてもええかな?」
ふたりの少女がくすっと笑って、晴れやかな表情を見せる。
「「ええよ」」
それは、かえでとカエデの交流が始まる合図だった。
鏡の中から自分と同じ姿の女の子が遊びにくる、そんなファンタジックなできごとも、三日も繰り返されれば日常風景に早変わり。学校から戻ってきてひと息ついたころ、そろそろ来るかな、なんて思っていると、間もなく鏡からすっと手が出てくるのが見えた。さすが、ドッペルゲンガーは考えもいっしょだと、かえではくすっと笑うのだった。
「なぁ、今そっちいける?」
「いけるいける。待ってたで、来てくれるん」
カエデいわく、鏡を通っている間は「向こう」の様子が分からないらしい。そこで、かえではカエデに手を先に出してもらって、その手を引いて案内することにした。出てきたカエデの手を優しく引いて「こちらの世界」へ導いてあげながら、かえでがカエデの来訪を歓迎する。
あたたかな手のぬくもり。かえでがカエデの手を取ると、いつも決まってそのあたたかさが印象に残った。カエデの手があたたかいなら、自分の手もあたたかいのだろうか。カエデも自分と同じように、手のぬくもりをあたたかいと思ってくれているだろうか。かえでは、思わずそんなことを考えていて。
「ありがとうな、いっつも。助かるわ」
「ううん、気にせんとってや。うちも来てもらってめっちゃうれしいし」
カエデを迎え入れながら、かえでが朗らかに笑ってみせた。
小さな丸テーブルとクッションが二つ。テーブルの上には封を切った「アルフォート」と、オレンジ味の「なっちゃん」が八分ほど注がれたグラスが置かれている。カエデをお出迎えする準備は万端だった。
「これ用意してくれとったん? ありがとう」
「うん。うちが好きやから、たぶん好きちゃうかなー、って思て」
「大正解やわ。うちもアルフォートとなっちゃん好きやねん」
「大したことあらへんって。ま、言うて自分やもんな」
「ホンマや。うちも自分で、自分もうちやから」
わたしはあなたで、あなたはわたし。カエデの言う通り、かえではカエデで、カエデはかえでだった。好みが一致するのも、うなづける話だろう。
三日のうちにお互いの好きなもの・好きなことをあれこれ話す機会があった。お菓子は「アルフォート」が好き、飲み物は「なっちゃん」のオレンジ味が好き、寝るときは横向けになるのが好き、ちょっと汗ばむくらい散歩をしてからシャワーを浴びるのが好き、ホラー小説を怖がりながら読むのが好き、朝はご飯を食べるのが好き、テレビを観るよりツイッターでしょうもないことをつぶやいている方が好き――何から何まで同じだった。
だからだろうか、相手が考えていることは、自分もまた考えている。そんな気がしてきていて。
「な、ちょっと手ぇ握ったりしてもええ?」
「もう、なんよ急に。構わへんよ、そんなん」
顔を見ているとなんだかこそばゆくなってきて、ちょっとふざけたりしたくなってしまう。かえでがカエデの手を取ると、カエデが照れくさそうに頬をゆるめる。互いに身を寄せ合ったりして、おふざけともスキンシップとも言えるし言えないようなじゃれあいを続ける。
そうしていると、無意識のうちにかえではカエデの顔に目が向いてしまう。そこには鏡写しになった自分自身の姿がある。自分に自信が持てなくて、ため息ばかりついていたのはいつのことか。ほんの数日前のことだ。なのにどうしてか、気がつくとカエデの表情に視線が釘付けになってしまう。鏡から出てきたもう一人の自分、それがカエデ。だからここにいるのは、紛れもなく自分自身なのに。
カエデもまた同じだった。カエデもかえでの目を見つめていることがしばしばあった。自然と二人の視線が交錯して、お互いに見つめ合う形になってしまう。
(なんでやろ)
(ここにおるん、もう一人の『うち』やのに)
じっと見つめてしまうのは、見つめていたいと思うから。見つめていたいと思うのは、その姿を素敵だと感じているから。考えがそんなところに及んだことに気がついて、かえでは思わずハッとした。あわてて目線をそらすと、高鳴っている胸にそっと手を当てる。隣でカエデもまた同じことをしているのには、少しも気がついていない。
(うちやん、ここにおるん……うちやねんで)
(せやのにこないドキドキするなんて、ありえへんやん)
自分で自分にドキドキしてしまった、ときめいてしまった。いやいや、そんなことあるはずがない、そんなことあるわけがない。浮かんできた考えを振り払うように、かえでがぶんぶんと首を振った。
と、そのお隣さんからちょっと声をかけられて。
「ご、ごめん。あの、一個お願いあるねんけど」
「えっ、えっと、うん、なんやろ、言うてみて」
「ちょっと、お手洗い借りてもええかな」
トイレを借りたいというカエデに、かえでがすぐに応じて。
「あ、ええよ。場所分かる? 部屋出て右にあるねんけど」
「分かる分かる。だってここ、うちの家やもん」
「せやな」
かえでは部屋を出て行くカエデを見送りながら、大きな大きな息をひとつつく。
(よう分からん、この気持ち)
うまく折り合いをつけられないこの気持ちに、どんな名前を付けたらいいのだろう。かえでは自分の心の隙間を埋められるような、洒落ていて気の利いた言葉を思い浮かべられなかった。
カエデが戻ってくるまでに、せめて落ち着きだけでも取り戻しておかないと。胸のざわつきを振り払うように、かえでは胸元をパタパタと軽くはたいた。
かえでとカエデが鏡を通して出会ってから、まるまる一週間が過ぎた。たった一週間と思うかもしれないけれど、それだけの期間でふたりはもうすっかり打ち解けてしまって、今ではまるで子供の頃からの幼なじみ同士みたいに気楽に言葉を交わす仲になっていた。
「当たり前やけど、うちと同じことしとったんやな」
「何から何までいっしょやもん、ほんま笑うわ」
「なあ! さっきから自分ずっと笑てるもん」
最近は、ふたりが「あの時こんなことをした、こんなことを思っていた」を話すことが多かった。ほとんど同じ記憶を共有しているから話も早いし、自分の伝えたいことがストレートに伝わる。楽しく話をしながら、自分の記憶を振り返っていく。
初めのうちは、こうやって単に面白おかしいと感じたことを言い合って、笑い合っていただけだったのだけれど、だんだん、少しずつ、折々の気持ちを思い出して、振り返るための時間になりつつあった。
「あのな、だいぶ前のことやねんけど」
「うん。言うてみて」
かえでが口を開くと、カエデが我がことのようにうなづく。何を言われても分かるし、何を言っても分かってもらえる。その安心感と信頼が、ふたりの心の扉を軽くして、胸に秘めたことを外へ出させてゆく。
「小学生の時やねんけど、近くの公園で朝ラジオ体操やっとったやん」
「やってたやってた。うちもよう覚えてるわ」
「うん。朝起きるん大変やったやん、六時半ちょっと前に起きて、服着替えて外出やなあかんかったし」
「せやせや。半分寝ながら公園行っとったもん」
「なあ! ようこけたりせんかったわ。せやけど毎日通って、一回も休まへんかったやんな」
「全部行った。うちも覚えてるわ」
「誰も褒めてくれんかったけど、うちだけやってんで、毎日休まんとラジオ体操行ったん。大したことちゃうけど、うちの中ではずっと自慢やねん」
「よう行ったわなあ。うちもやればできるんやって、そない思たわ。おまけで、あの時から朝早く起きれるようになったし」
ラジオ体操に毎日通った記憶。特に誰かに褒められたわけではないけれど、自分の中では最初から最後まできちんとやり遂げたことの記憶として残っている。小さなことだと思っていて、誰にも話せず胸の中に仕舞っていた思い出を、カエデの前で打ち明けられた。かえでの表情は晴れやかだ。
かえでの語り口にほだされて、カエデもまた、思い出語りをはじめる。
「覚えとる? それより前の夏休みに、おじいちゃんらと川へ遊びに行ったん」
「ああ……よう覚えとるわ。あれやんな、あれのことやんな」
「うん、うん。川で遊んどったら急に足つって、溺れてしもて」
「側でおじいちゃんおってくれて、すぐ助けてくれたけど、めっちゃ怖かった」
「怖かったやんな、怖かったやんな」
「ほんまに怖かった、死んでまう思て。それから川怖なって、行かれへんようになってしもて」
「ちょっと行った先に珠川って川あるけど、うちもまだよう行かれへんわ。大丈夫やで、大丈夫やから」
当時のことを思い出して身をふるわせるカエデが居た堪れなくなって、かえでが両腕をまわしてカエデをぎゅっとした。カエデが胸に顔をうずめて、かえでに身をゆだねる。ふるえていた体が、少しずつ落ち着きを取り戻してゆくのを、かえでは世界で一番カエデに近いところで感じていた。
かえでがカエデから離れると、瞳を潤ませたカエデが、かえでをまっすぐに見つめていて。
「ありがとう。なんか、めっちゃうれしかった。怖いってこと、分かってくれたんやって思て」
「だって、うちも怖かったもん。思い出して怖がっとったら、助けたらなアカンってなって」
「ほんまにありがとうな。抱っこしてもらって、気持ち落ち着いたわ」
正面から「ありがとう」と言われる。それも、自分自身から。こそばゆくておもはゆい思いを隠しきれずに、照れくさくなって笑いながら、けれどかえでは、胸のうちがあたたかなもので満たされてゆくのを実感する。
カエデが喜んでくれると、自分もうれしい――かえでの、嘘偽りのない気持ちだった。
また別の日のこと。軽くお菓子をつまみながら、もう一人の自分とざっくばらんに話をする。日常と非日常が自然に重なり合う、かえでの部屋。
「また話しよや。昔のこと思い出して」
「もちろんやん、うちもそれやりたくてこっち来たねん」
今日、先に口火を切ったのは、カエデの方だった。
「ここに来る前って、和歌山におったやん」
「おったおった。海沿いに住んどって、よう魚食べとって」
「せやんな。それで、小学校の時にこっちへ引っ越してきて」
「転校したなぁ。友達もようけおったけど、みんな別れやなあかんって思て、泣いたりして」
「寂しかったわ、あの時は。せやけど、それだけ仲ええ友達多かったってことちゃうんかなって、最近思てきたわ」
「今でも電話したりメールくれたりする子おるもんな。よう考えたら、ええことやって思うわ」
かえでとカエデが関西弁で話しているのは、物心ついた頃に、和歌山にある海沿いの街からここ山辺市の山中にある浅葱区東雲町へ引っ越してきたからだ。その折に転校を経験して、寂しい思いもした。ふたりとも同じ経験をしてきたから、多くを語らずとも深く理解することができる。隣にいるのは、自分自身なのだから。
転校、という言葉を受けて、かえでが話を転換する。
「せやけど、新しい学校でも友達ようけできたやん」
「うん。ゆうちゃんとかカッちゃんとか、ずっと仲良うしてくれてる子もおるし」
「なあ! なんやこう、面倒くさい子もおらんし、みんなさっぱりしとるわ」
「うちな、今もそうやねんけど、関西弁丸出しやん。せやからなんか言われへんかなって心配しとってんけど、みんな全然気にせえへんかったし。ホンマによかったわ」
「和歌山におった頃の友達も大事やし、今の友達も大事やわ」
幸いなことに、転校してきてからも友達ができて、人間関係で困った記憶はほとんどなかった。関西弁だとはやされることもなくて、気に病むところのない日々を過ごすことができている。だから、昔の友達も今の友達も、かえでとカエデにとっては同じように大切だった。
「昨日な、お母さんがな、自分なんか最近楽しそうやんって、そない言うて」
「うちもうちも。やっぱりこないしていろんなこと話してるからやと思うねん」
「せやんなせやんな。かえでちゃんと話すようになって、うちなんかちょっと元気出てきて」
「かえでちゃんってなんかこしょばいわぁ、言うてる自分もかえでちゃんやのに」
「ホンマや! あかん、なんか言うてて可笑しなってきた」
声を上げて大笑いするかえでとカエデ。意図せず「かえでちゃん」と自分をちゃん付けで呼ぶ形になってしまったのがツボに入って、笑いが止まらなくなってしまった。自分もかえで、相手もカエデ。笑ってしまってもおかしくないシチュエーションだった。
「お母さんのことやねんけどな、うちお母さんとめっちゃ仲いいねん」
「なあ! 友達に話聞いたら、なんかうまいこと行ってへん子多いみたいやったから、ビックリしたわ」
「やんなあ。母の日にカーネーション贈ったりとか、みんなせえへんのかなぁ」
「うちだけやって、そんなんしてるん。お母さん、喜んでくれたねんけど」
「洗濯とか掃除とか、たまに手伝ってるけど、助かる言うてくれるし、うちも嬉しいわ」
かえでもカエデも、お母さんのことが好きだった。ふわふわしていて、のんびりしていて、おいしいものを作ってくれる。ふっくらしたところも、なんだか愛嬌があって好きだった。お母さんのことが好きで、プレゼントを贈ったり家事のお手伝いをしたりしている。そんなかえでとカエデのことを、ふたりのお母さんも大切に想ってくれているみたいだった。
ややあって、かえでが少し顔をうつむかせる。どうしたん、とカエデが訊ねる。かえでは顔を上げて、カエデと目線を合わせる。
「ここへ引っ越してくる前やねんけどな、お母さんの方のおばあちゃん亡くなったやん」
「ああ……うん、あったあった。病気で死んでもて、それで……」
「いっつも優しいしてくれるおばあちゃんで、うちも大好きやってん。おばあちゃん、おばあちゃんって言うて」
「うちもや、うちもやったわ。もうあれから十年も経つんやな、早いわぁ」
「なあ、ホンマに早いわ。それでな、お葬式あったやん。うちずっと泣いとって」
「泣いてた泣いてた。そしたら、親戚のおっちゃんが慰めてくれて、『おばあちゃんのこと好きやったんやな』って、そない言うてくれて」
「思い出したわ。今でも思い出したら悲しいけど、せやけど、こない思うようになってん」
「どない?」
「誰かを亡くして泣けるのって、そんだけその人のこと好きやって、その人といっしょにおったら幸せやったんや、って」
おばあちゃんを亡くしたときのこと。もうおばあちゃんに会えない、もうおばあちゃんといっしょに遊べない、そう思ってわあわあ泣いていたら、親戚のおじさんが慰めてくれた。そのことを思い出したのだ。
親しい人を亡くすことは、とても悲しい。けれど誰かを亡くしてさめざめと泣くということは、亡くなった人との間に素敵な思い出がたくさんあったのだということでもある。そして、それだけその人を大切に思っていたことに他ならない。
「悲しいことやけど、おばあちゃんと遊んだりした記憶は変わらへんから」
「そっか……そない思たら、なんかちょっと気持ちが軽くなった気ぃするわ」
安らかな表情を見せるカエデ。かえではカエデの顔つきを見て、一緒に笑う。
着実に着実に、ふたりの仲は深まってゆく。
また別の日。かえでとカエデが並んでベッドに腰かけているけれど、今日はふたりともちょっと様子がおかしくて。
「……どないしょう、ほっぺた熱なってきた」
「そら、しゃないやん。そないなこと考えとったら体熱なるって、よう言うし」
かえでの手元には、なんだか耽美な感じのする美麗な男の人がふたり描かれた文庫本が、折り目を付けないようにそっと、けれど離すまいとしっかりと握られている。
「うち、こういう……もうなんかまどろっこしいからハッキリ言うけど、男の子同士が助平なことしたりする話読むん、なんか止められへんねん。去年ぐらいから、こないして読んどって、それで」
「分かる、分かるわ。うちも同じことしとるもん。親に見つかれへんようにカバーかけて、本棚の奥の方に隠したりして」
「今までもそうやったけど、やっぱり同じなんやな。見てたら胸ドキドキしてきて、さっきも言うたけど体熱なってくるねん。それで……」
「その後は……うん、あれやんな、あれ。こう、外に声出えへんようにして、指を……」
そこまで言って、カエデは耳まで真っ赤にして顔を伏せてしまった。隣で聞かされていたかえでは、たまらずきゅーっと目を閉じてしまっている。
何をしているかなんて、皆まで言わずとも分かっている。だって、そこにいるのは自分なのだから。鏡を通して見たり見られたりしていたって、何もおかしくなんかない。
さんざん恥ずかしがってから、かえでがおずおずと口を開いた。
「あんな、ちょっと、話ちゃうねんけど」
「うん。どないしたん」
「高校入ってからな、よその中学の子と話することも増えたねんけどな」
「うん」
「その……こほん。彼氏とな、したことある子もおるみたいやねん」
「あー……おるなあ、おるおる。うちも聞いた。皆早いんやなあ、って」
「皆が早いんかな、それとも、うちが遅れとるだけなんやろか」
クラスの友達がしている話を聞いてみると、中にはもう彼氏さんと初体験を済ませた子もちらほらいるらしい。かえでには、そういう浮いた話はひとつもない。そもそも、彼氏を作るところから始めないとならないが、あいにく今のところピンと来るような男子は見当たらない。
カエデがかえでをそっと抱きしめる。かえでは少し表情をやわらかくして、カエデに身を委ねる。
「こないして、困っとる時に優しいしてくれる男の子、おったらええのにな」
「思い出しても、そない気ぃ回りそうな男子おらんもんな」
そのまま二人が抱き合う。腕を回して、お互いをしっかり自分の胸に寄せる。
さながら――強い愛情で結ばれた、連れ合い同士のように。
自分と会話する光景が、もはや当たり前のものになったころ。
「もうすぐな、部活決めやなあかんねん」
「やんなやんな。うちも今日その話しよう思とってん」
四月も半ばを迎えて、そろそろ所属する部活動を決める時期になった。かえでもカエデも、そのことをもう一人の自分に話したかったようだ。
「中学ん時は塾行っとったから、部活入ってなかったんやんな」
「せやせや。ほとんど毎日行っとったから、部活やっとる暇無かって」
「三年の時とかえらかったわ、日曜は朝から晩まで自習しとったもんなあ。ようやっとったわ」
「ほんまほんま、最近まで行っとったからよう覚えとるわ。せやけど、講習は結構楽しかったやん」
「うん。意外と苦にならんかったんよな。先生が教えるん上手やったから」
「今の高校行けてるんは、塾行ってたからやわ。行っててよかったって、今になって思うわ」
ほんの少し前まで通っていた学習塾のことを振り返る。ほとんど毎日通っていたけれど、意外なことにそれほど苦にはならなくて、講義は楽しかったと記憶している。今となってはこれもまた、思い出のひとつだ。
習い事、というつながりで、カエデが別の話題を振った。
「小学生の時、スイミング行っとったやん。和歌山の時も、こっち来てからも」
「通っとった通っとった。あれやんな、溺れたときに泳ぐん怖なったから、練習せなあかんって言われて」
「そうそう。最初嫌やったけど、やっとるうちに楽しなってきて、級も上がって」
「なあ! おかげで、体育苦手やけど水泳だけは得意になったわ」
ここまで話して、かえでは自分の気持ちに気付く。
(うち、水泳好きやったんや)
(そういえば、うちの学校に水泳部あったっけ)
ふとカエデを見ると、こちらもまたちょっと神妙な顔つきをしていて。
「あのな、うち、ちょっと思ったことあるねん」
「もしかして……部活のこと?」
「あ、やっぱり同じこと考えとったんや。せやねん。うち、ちょっと悩んどって」
「水泳部に入るか、やんな」
「うん。うち泳ぐん好きやし、ホンマは入りたいねんけど、ついていけるかな、足引っ張れへんかなって、心配で」
「うちも同じやわ。せやけど……うち、挑戦してみたい」
きっぱり言い切ったカエデに、かえでが目を丸くする。
「なんかな、最近思うようになってきてん。やりたい気持ちあるのに我慢しとったら、後で後悔するって」
「……そっか、そうやわ。うち、後悔したない。チャンスがあるんやったらやってみたい、そない思う!」
顔を上げるかえでを見て、カエデが目を細める。
「やってみよや。かえでちゃん」
「お互いさま、やな」
手を取り合う二人の表情は、とても晴れやかで。
強い決意に満ちた、素敵なものだった。
翌日。
「なあ。自分どないするか、決めた?」
「決めたわ。うち、水泳部入るわ! もう入部届も出したで!」
「やっぱり同じやな、うちも今日入部届出してきたわ」
瞳を輝かせて、さっぱりした顔つきになったかえでとカエデが、隣りあって座っている。いい顔をしているのは他でもない、自分の気持ちに正直になって、水泳部に入ると決めたからだ。
「初心者の人でも大丈夫やって言ってもらえて、うち、頑張ってみることにしてん」
「うちもうちも! なんかな、やるって決めたらな、ちょっとだけ自分に自信持てた気ぃして」
顔をグッと寄せるカエデ。かえではすぐ近くまで迫ったカエデの顔をまじまじと見つめながら、カエデの言葉を待った。
「あのな」
「こないして、自分と話したおかげで……なんて言うたらええんやろ、勇気、せや、勇気もらえてん」
「うちもなんやかんや言うて、いろいろやってきて、壁乗り越えてきて、ここにおるんやって」
「話して自分の人生振り返らしてもらって、うちも捨てたもんとちゃうやんって、そない思えるようになってん」
「あんな、せやからな……かえでちゃん、ありがとう」
正面からカエデがかえでを抱きしめる。かえではもう迷わない、戸惑わない。カエデと同じだけ強く抱き返して、自分の想いをカエデに伝える。
うちも同じや、かえでちゃん、ありがとう――と。
鏡の中からカエデが出てきてから、かえでは自分が少しずつ変わっていくのを実感していた。十五年の、長くはないけれど短くもない人生を振り返って、思っていたよりもずっとたくさんの出来事が起きていたのだということを思い出す。ラジオ体操のこと、引っ越しのこと、学習塾のこと、スイミングのこと。ひとつひとつが今のかえでを形作っていて、他でもない「桜庭かえで」という女の子に結びついている。
もっと、自分に自信を持っていいんだ。かえではカエデと対話して、その大切なことに気付くことができた。
(かえでちゃん)
(うち、かえでちゃんのこと……)
かえでがカエデのことを想う。この瞬間、カエデもまたかえでのことを想っているのだろう。なぜならここにいるのは、他ならぬ自分自身だから。
顔を上げたかえでとカエデ。とろんとした目をしたカエデに、かえでの鮮やかなピンク色のくちびるが、そっと近づいていって。
「んっ……!」
「んうっ……」
ひとつに、重なりあった。
全身がとろけてしまいそうな、甘いキスだった。かえでの中にカエデが入ってきて、カエデの中へかえでが入っていく。カエデの体温が自分に伝わってきて、自分の鼓動がカエデと交わる。ふたつに分かたれたものがひとつへ戻っていくかのような、甘美でありながらあたたかく、優しい感触。
(うち、自分とキスしてるんや)
(自分のこと……好きになれたんや)
かえではようやく理解した。自分が鏡を毎日のように見ていた理由も、カエデと深く心を通わせることができたわけも。やっと、答えにたどり着くことができた。
自分のことが好き。かえでは、自分のことが好きだった。その感情を受け入れるのが恥ずかしくて、怖かったのだ。何か悪いことをしているような気がして、素直になることができなかった。自分のことが好きだなんておかしい、その気持ちが何よりも先に立って、かえでから自信を奪っていた。
カエデと真正面から向き合うことで、かえでは自分の気持ちを受け容れて、前へ踏み出すことができたのだ。
「ん……ふぅ……」
「ふっ……んぅ」
たくさんの愛をもらって、渡して。ふたりが満足したところで、どちらともなく顔を離す。
かえでの、初めてのキスだった。
「……初キスの相手が自分や言う人も、そないおらんやろな」
「ホンマ。せやけどうち、キスできてうれしかった。嫌がられへんで、よかったわ」
「だって――うちやもん。自分のこと好きになれたときに、自分からキスされて、嫌がるはずないやん」
「自分も、自分のこと好きやって思えるようになったんやな」
向き合うふたり。二人のかえで。ふたつの声が、ぴったり重なる。
「「ありがとう、かえでちゃん」」
ほっぺをそろってかあっと赤くしながら、かえでとカエデがお礼の言葉を口にした。
カエデがすっと立ち上がる。目を向けた先には、いつもの鏡があった。
「うち、これから自分のとこでがんばってくる! 自分のこと、もっと好きになりたいから!」
「うちもいっしょや! 鏡見た時に恥ずかしないように、めいっぱいやったるねん!」
「その意気や! せやけど、無理だけはしたらあかんで。自分のこと、大事にしやなな」
「当然やん。うちはうちしかおれへん、他に代わりなんておれへんから!」
両手で固く握手をして、かえでがカエデを見送る。
「また、いつでも遊びにきてな!」
「ありがとう。また、鏡見たってな。うちが向こうで見守っとるし、うちも自分おるって思えるから!」
「うん!」
鏡を通って、カエデがカエデの世界へ帰っていく。鏡面を激しく揺らしていた波紋がゆっくり消えていって、やがて動きを失っていく。
元の形を取り戻した鏡には、見慣れたすがたが普段よりもずっと鮮明に、ハッキリと映し出されていて。
(――ありがとう、うち)
そこにいたのは、紛れもなく、かえでだった。
鏡を見ると、自分のすがたが映っている。
「うん。リボンもしっかり締めれてるし、髪型もばっちりや。今日もええ感じやな!」
かえでは登校前の身だしなみチェックをしていた。明るくはきはきした声が、準備が整っていることを物語っている。
鏡を見ていてため息をつくことはなくなった。鏡を見るときは、自分と向き合いたいとき。自分が好きな自分で居られているかを、確かめたいとき。かえでは変わったのだ。
「水泳部な、めっちゃ楽しいわ! 泳ぐんはいくらやっても飽きひんし、先輩もみんな優しいし」
「泳いどったらあっちこっち日焼けして、クラスの子から『なんかかえでちゃん、イケイケな感じする』とか言われてな、ちゃうし! 真面目に練習しとるだけやし! 遊んどるんと違うし! ってツッコんだりもして」
「同じ関西から引っ越してきたっていう子おって、その子めっちゃ泳ぐん速いねん。加奈枝ちゃん言う子やねんけどな」
「うちも負けられへんって思うねんけど、でもすっごい気ぃ合うて、ライバルっていうよりお姉ちゃんみたいな子やねん」
「今日も練習して、終わったら駅前のスイーツショップ行こって約束してるねん。めっちゃ楽しみやわ!」
弾んだ声でかえでが語りかける。鏡の向こうにいる自分に届くようにと、お腹から声を出して。
「うち、分かったわ。自分のこと好きになれたら、もっともっと素敵になりたいって思えるんやって」
「ほんまに、ほんっまにありがとうな」
かえでがすっと手を上げると、もう一人の自分も手を上げる。かえでがぱたぱた手を振ると、やっぱり鏡の向こうでも自分が手を振っている。向こうには自分がいて、向こうの自分も自分を見てくれている。かえでは心がほわっとあたたかくなって、また勇気をもらうことができた。
頬をゆるませて穏やかな表情をしながら、かえでがそっと鏡に手を当てる。冷たいはずの、固い感触がするはずの鏡に、かえでが手のひらを合わせる。
けれど、かえでが触れた鏡から伝わってくるものは、ぜんぜん違っていて。
「……ふふっ」
あたたかさと、柔らかな感触が、そこにはあって。
「今日も頑張ろな、うち」
にっこり微笑むかえでに、鏡の向こうにいるかえでが、大きく大きくうなづいたのだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。