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山辺市・鉛丹区。木々の生い茂る山間の道。微かに聞こえるさらさらという清流の音。

そんな静かな山奥に、一人の少女が姿を表した。

「さあ来ましたよ来ましたよー! やってきましたー!」

「ココがウワサの幽霊旅館『細雪』! 『細雪』ですねー!」

丸くて大きなメガネをくいくいやりながら、温子が眼前にそびえ立つ……いや、そびえ立つってほどの高さは無いが、とりあえず二階建てくらいのフツーの温泉旅館っぽい建物の前で、目を文字通りキラキラ光らせていた。

丁寧に編み込まれた三つ編みのおさげに、ちょっと丸みのある小さな顔、ほっぺはつやつやして健康的だ。顔が子供っぽい割には結構背丈があって、小学生に間違えられるようなことはない。最寄りの駅からここまで結構歩く必要があったから、服装はショートパンツに薄手のシャツ。特に着飾る気は無いらしい。あれこれ述べたが、温子はそんな風貌をしていた。来年に高校受験を控えた中学三年生さんで、今は中学最後の夏休みを満喫している真っ最中だ。

「ふー、しかし結構歩きましたね。ざっと一時間くらいでしょうか。汗びっしょりです。喉もカラッカラ」

「鉄人ランナーの陽菜お姉ちゃんならこのくらいどーってこと無いんでしょうけど、あっちゃんは普段あんまり運動してませんからね。ま、こんなもんですよ。こんなもん」

温子はここ山辺市鉛丹区から少々離れた山辺市黄蘗区に、姉・陽菜と父親の三人家族で暮らしている。しかしながら、父親は仕事がら長期出張で家を空けていることがとても多く、年に数回しか家へ帰らないほどだった。ゆえに、普段はもっぱら姉妹二人で生活していた。陽菜は温子のことをよく可愛がってくれていて、今は近くの高校に通って部活に勤しんでいる。温子は温子で中学校に通いながら、平日は姉といっしょに家事全般をこなして、休みになると勉強にかこつけて図書館に入り浸るという生活だった。

足元にはくたびれた大きなスポーツバッグ。陸上をやっている姉のお下がりをそのまま使っているから、温子は滅多に使わないのにやたら年季が入っているのはご愛嬌。中には二日分の下着と上着、それからお気に入りの本数冊と、この間お小遣いをはたいて買ったSurface Proが詰め込まれている。もっともっと有名な白いアレではなくSurface Proだ。温子のこだわりの一端が窺い知れることだろう。

「あれこれはウワサは聞きますけれども、何がホントで何がウソか、この目で確かめなくてはっ!」

ところで、温子は何のためにこの古びた温泉旅館「細雪」まで足を運んだのだろうか。その答えは、温子の趣味にあった。

「さてさて、この細雪さんは一体どんな怪奇現象を見せてくれるんでしょうかねー?」

「自他ともに認めるオカルトマニアの血が騒ぎますよー! これは!」

オカルト――怪奇現象や超常現象、ついでに幽霊や亡霊の類も含む、科学だけでは説明の付かない物事をまとめて指したものだ。温子はそれが大好きだった。彼女の場合はもう少し手を広げて、いわゆる都市伝説もずいぶん詳しく知っていた。つまるところ、日常の中の非日常とでも言うべき、ちょっと怪しげなもの全般に興味津々だったというわけだ。家には怪談や都市伝説を特集した本がたくさんあったし、夏休みの自由研究にはいつもご町内の不思議現象を採り上げていた。探求心と好奇心のカタマリであったから、いかにもおとなしそうな見た目の割に、意外なほどアウトドア派なところがあった。

温子の住んでいる黄蘗区には神様や神様の仲間が大勢居て、不思議なものには事欠かなかった。簡単には説明の付かないこともちょくちょく起きていたし、黄蘗でしか聞かないような奇怪な都市伝説も唸るほどあった。物心付いたころからおかしなものに囲まれて育ってきたものだから、温子がオカルトに目覚めても何も不思議なことではなかったのだ。もっとも、周りの子は大きくなるにつれて、そういうものを「よくあること・いつものこと」と捉えて深く考えることをしなくなっていった。思春期を迎えてなお不思議なものに興味を持ちつづける子は、それこそ温子くらいのものだった。

そんな彼女がここ「細雪」を訪れたのは、つい先日ご町内でこんなウワサを耳にしたからだ。

「ふむー。この旅館は見た目営業してないっぽく見えますけど、きっちり荷物とお金を持っていくと、幽霊だったか物の怪だったか、とにかく何かがお出迎えアンドおもてなしをしてくれる――なんて話を聞いちゃいましたからねー!」

まるで人気の感じられない古びた旅館だが、ちゃんと泊まるつもりで行ってみると、幽霊か何かが丁重にもてなしてくれるらしい。こんな話を聞いてじっとしていられる温子ではない。留守番をお願いした姉に快く送り出されて、荷物をまとめてはるばる鉛丹区までやってきたわけだ。もちろん、宿泊するために十分なお金を銀行から下ろしておくことも忘れない。何もかも準備万端、あとは進入するだけだ。

地べたに置いていたスポーツバッグを持ち上げて、今一度「細雪」の全景を見やる。見た感じはいかにも「温泉旅館」といった風情で、廃墟のように寂れているわけではない。庭もきちんと手入れされているし、建物の状態は綺麗だ。しかしながら、人の居る気配というものがまるで感じられない。幽霊が管理していると言われても信じてしまいそうなほどだ。

「案外、中に入ってみると廃墟になってるパターンもあるんですよねー。あっちゃんは廃墟も大好きですから、それならそれで大歓迎ってやつですよー!」

「写真もバシバシ撮って、宇宙オカルト連盟(※ブログのタイトル)に資料としてアップしちゃいますよー! アップー!」

無駄に大それたブログの名前はさておき、「細雪」の謎を解き明かしてやろうと意気込む温子。よいしょ、とバッグを持ち直すと、いよいよ旅館の敷地内へ進入した。

と、まさしくその時だった。一歩前に踏み出した温子の視界に、前方から歩いてくる小さな人影が入り込んできたのだ。新雪のように真っ白い着物を身に纏い、ゆったりとしたペースで歩く、おそらくは女性、そして背丈的に大人ではなさそうな姿。同い年か少し上くらいだろうか。未成年、つまり子供なのは間違いなさそうだった。これはあれだ、仲居さんに違いない。

もしや、あれがウワサの幽霊か何かでは――いきなりやってきた「細雪」の謎を解き明かす大チャンスに、温子は胸の高鳴りを抑えられなかった。居ても立ってもいられず、庭を歩く少女目がけて走り出した。何事にも当たって砕けろ、が温子のモットーだ。幽霊に物理的に当たれるかは置いといて、ともかく直撃あるのみである。

「あのっ、すみません!」

「……えっ?」

縁付きメガネを揺らしながら、温子が少女へ呼び掛けた。不意にお声の掛かった白い着物の女の子はきょとんとした表情を浮かべて、駆け寄ってきた温子の目をまじまじと見つめた。

目を向けられた温子が、真っ先に気付いたこと。

(おー……マンガやアニメに出てきそうな、明るいブルーの瞳ですね。ブルーの瞳)

それは温子の言葉通り、着物の少女が蒼い瞳をしていたことだった。着物と合わせたかのような真っ白い肌に、宝石のような明るいブルーの瞳。

率直に――温子は率直に、少女のことを「可愛らしい」と感じた。これはますます、詳しく調査せねばなるまい。この日本人形と西洋人形のいいとこ取りをしたような素敵な女の子が、ここ「細雪」と一体どんな関係にあるというのか。目の前に広がる謎に飛び掛らんと、温子がまずは素性を訊ねてみよう、なんて画策していたところへ。

「お客様……! ようこそいらっしゃいました!」

「は……はぇ?」

深々とお辞儀をしつつ「ようこそいらっしゃいました」の先制攻撃。温子は何か言おうとしていきなり蹴躓いてしまい、思いっきり間抜けた声を上げてしまう。あまりの間抜けっぷりに自分でビックリしてしまうくらいだ。「はぇ?」って。「はぇ?」って。思わず二回確認するレベルである。

「温泉旅館『細雪』へようこそ。遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます」

「本日はお泊まりでしょうか、それともお立ち寄りでしょうか」

温子はもしここ「細雪」がちゃんと営業している、あるいは幽霊が営業らしきことをしているようなら泊まりがけで利用する腹づもりだったが、どうやら「細雪」は立ち寄り湯のサービスもしているようだ。温泉旅館によっては、宿泊しない代わりに割安で温泉にだけ浸からせてくれるサービスもあると聞く。間違いなくそれのことだろう。

とは言え今日は温泉に入ることが最終目的ではなく(あればもちろん入るつもりだったが)、あくまで「細雪」の謎に迫るのがミッションだ。差し当たってこの子に付いていけば泊まれるだろう、と算段を立て、何食わぬ顔でこう答える。

「あっ、泊まりっす! 一泊二日でお願いしまっす! 一泊二日で!」

「かしこまりました。ご利用いただきありがとうございます」

女の子から笑顔で「諾」の返事をもらった。ひとまず潜入成功だ。出だしは上々と言えよう。中にさえ侵入してしまえば、後は持ち前の好奇心でもってどうにでもなるだろう。まずは旅館内部へ入るのが重要なのだ。

喜び勇んで進もうとした温子――だったのだが。

「お客様」

「ん? どうかしました?」

「お荷物、お持ちいたします。私に預けてくださいますか」

呼び止められて何ぞやと振り向いてみれば、女の子が手荷物を持ってくれるという。ここまでずっと両手が塞がっていたので気付かなかったが、確かに客室まで持っていってもらってもおかしなことはあるまい。ただ、あれこれ持っていきたいものを詰め込みすぎたために、ちょっと重量オーバー気味になっているのが気掛かりだったが。

「えっ……けっこー重たいっすけど、大丈夫っすか?」

「はい、お任せください」

「それじゃあ、お願いしますっ」

スポーツバッグを両手で差し出して、温子が女の子に荷物を託す。女の子は軽く一礼しつつ、これまた同じく両手を伸ばして荷物を受け取る。お互いの手が、ほんの一瞬触れ合った。

ぼんやりしていた温子の目が一気に冴えたのは、この時だった。

(つ……冷たっ! この子、手冷たすぎじゃないですかね……!?)

女の子の手は冷たかった。本当に冷たかった。それも、手に水を晒したあとのような涼やかな冷たさではない。手袋も付けずに雪遊びに夢中になった後のような、ビックリするタイプのヤツだ。

それこそ彼女の肌の色――雪を思わせる、刺すような冷たさに包まれていた。

「ありがとうございます。これからお部屋へお連れいたしますので、こちらへ……」

「……あ、はいっ」

手の冷たさに気を撮られていた温子だったが、これから彼女が客室へ案内してくれると聞き、遅れないようしっかり付いていく。幽霊旅館(一応、まだそうと決まったわけではないが)で案内人とはぐれるようなことがあったら、自分が心霊現象や都市伝説の仲間入りをしかねない。ここはきっちり女の子に付いていくとしよう。温子はそう考えた。

ふっ、と女の子がスポーツバッグを持ち直しているのが見えた。一泊二日にしてはやっぱり持ってきすぎたかな、とちょっと反省しつつ、でも一人旅だしいいじゃないですか、と開き直る温子だった。

(んんー。それにしても、こう……可愛い女の子ですねー。お人形さんみたいです。お人形さん)

前を歩く仲居の女の子の横顔をチラチラ伺いながら、温子がうんうんと小さく頷く。お人形、という温子の言葉には二つの意味があった。子供ながらに和服を着こなす可愛らしい日本人形としての意味、そして、蒼い瞳に銀の髪を併せ持つ西洋人形としての意味。和洋折衷とはこのことに違いないと、温子は一人で納得していた。

ところで、温子が通っている中学校では、男の子と女の子の清く正しい――少なくとも、温子が見聞きする限りでは――お付き合いも多かったけれど、それに負けず劣らず、女の子同士のお付き合いもたくさんあった。友達にも「彼女」の居る子が多かったし、特別でもなんでもなかった。

今のところ、温子には彼氏も彼女もいない。けれどそれは別に独りにこだわりがあるとかじゃなくて、可愛い子……素敵な女の子がいるなら、ぜひ、お付き合いをしてみたいとも思っていた。オカルト好きで変わったものにばかり興味を示す温子だったけれど、惚れた腫れたの話には年相応に興味があったわけだ。

そんな温子から見て、この白い肌と髪の女の子は、掛け値なしに可愛く見えた。

(仲居さん、それも見習いさんでしょうか。こう、住み込みで働いてるとか、一生懸命な感じでいいですなぁー)

勝手にあれこれ想像して好き放題言っているが、まあこれは温子のいつものクセみたいなものだ。健気な女の子も温子のタイプだったのである。

余談。これの身近な例が、実は温子の姉である陽菜だった。今は陸上をやっていて元気はつらつアスリートの姉だが、小さい頃はとても病弱で、しょっちゅう熱を出して寝込んでしまうほどだった。温子は姉が寝込む度につきっきりで看病して、早く元気になってほしいとお願いしたものだった。温子はしばしば学校を休んだが、自分が倒れて休んだことは一度も無かった。休む理由はいつも、姉の面倒を見てあげるためだった。

そんな陽菜があることをきっかけに陸上を始めて、時に苦しみながら強くなっていくのを、温子はすぐ近くで見守っていた。温子はこれにひどく心を打たれて、「尊敬する人は?」と訊ねられたら「お姉ちゃん!」と即答するくらいのお姉ちゃん大好きっ子になった。陽菜も自分を信じてくれる温子のことが大好きだったから、姉妹仲はすこぶる良好だった。

それはともかく、この女の子だ。見た感じは同い年か一つ上くらい、お姉ちゃんよりは確実に年下っぽく見えるけれど、こうやって身を粉にして働いている。これを健気と言わずして何と言うのか。しみじみ頷く温子であった。

「こちらです。どうぞお入りください」

とか何とかやってるうちに、いよいよ本館へ到着だ。仲居さんの後ろにぴったり付いて、温子がいそいそと中へ侵入する。

内部は小綺麗な感じで、派手さこそ無いけれど、きちんと整えられたつくりをしていた。正面には小さな受付が一つ見える。ただ、他の従業員の姿は見当たらない。先客もここにはいないようだ。皆別の場所にいるのだろうか、ずいぶんと静かだ。

仲居の少女が荷物を床へそっと置いて、いそいそと受付へ向かう。これからチェックインをさせてくれるのだろう。温子も同じく小走りに受付まで急ぐ。女の子が宿帳を開いて、温子に目を向けるよう促した。

「お手数ですが、お名前をお願いいたします」

「はいはーい。まーじーきーな……あーつーこ、っと」

さらさらと慣れた手つきで名前を書いていく。宿帳のページは真新しく、しばらく使われていた形跡が無い。少なくとも、自分以外に宿泊している客は見当たらない。ひょっとするとこの旅館は立ち寄り湯の方が人気で、そちらには人がいるのかも知れない。

(せっかくの夏休みですから、家族連れでゆっくり温泉に入りに来てもよいと思うのですが。家族連れ。んー、そういうわけにもいかないんでしょーかねぇ)

自分も独り客であることを棚の上へすぽーんと上げて、温子はお得意の言いたい放題である。

「真境名さまですね。改めまして、ようこそお越しくださいました。それでは、お部屋へご案内いたします」

手短にチェックインを済ませたところで、いよいよ客室へ突入だ。受付から右手へ進んでしばし歩き、ガラス戸越しに入念に手入れされた見事な日本庭園をさらっと鑑賞しながらさらに進むと、無事に温子が宿泊する105号室まで到着した。荷物を提げた仲居さんに続いて、温子が中へ入っていく。

お荷物はこちらでよろしいでしょうか、と部屋の隅に進んだ女の子に、そこで大丈夫っす、と応える。ここまで重い荷物を運んでもらってずいぶんと楽ができたので、温子は思わずお礼を言いたくなった。ぺこりと頭を下げて、元気に声を上げる。

「ありがとうございまっす! 助かりましたっす!」

「とんでもございません。ここまで長旅をされてきて、お疲れでしょうから」

お礼を言われて嬉しかったのか、仲居さんの方もにっこり微笑む。笑った顔も可愛らしい――と、温子は思わずほっこりした気持ちになった。こんな素敵な仲居さんがいてくれるなら、ここが幽霊旅館だろうがなんだろうが楽しく過ごせそうだ。見たところ、この子は幽霊ではなさそうだったし。

ひと段落付いたところで、白い髪の女の子が畳へ正座する。すると温子もなんだかかしこまった気持ちになって、ちょっと慌てながら女の子の正面に同じく正座する。

「申し遅れました。私、氷那鞠(ひなぎく)と申します」

「ひなぎく、さん……まさか」

氷那鞠、という独特な響きを持つ名前を耳にして、温子は「あっ」と言うように口へ手を当てる。花の名前を持つ少女や女性は、温子の周囲にも少なからずいたのを思い出した。そして彼女たちは例外なく、少し変わった特徴を持っているということも。

例えば、そう。隣町の神社で巫女をしているという、あの狐のお姉さんのような――などと、温子が思いを巡らせていると。

「雪女の身分で恐縮ですが、どうか、何卒よろしくお願いいたします」

「えっ!? ゆっ、ゆゆっ、雪女なんですか!?」

あっさりその正体が明らかになってしまった。氷那鞠は幽霊ではなく、雪女だったのだ。

(そっか、だからあんなに手が冷たかったんですね……納得です)

雪女はその呼び名が示す通り、躰が雪のように冷たいと言われている。荷物を手渡した折にひどく手が冷たく感じたのも道理だ。何せ、雪女なのだから。

「はい。母が雪女でして、私めもまた同じにございます」

「ほぇー……周りに神様の子はちらほらいますけど、物の怪さんの子は初めてです。初めて」

「よく言われます。雪女は、他にあまりいないと聞いていますから」

朗らかに応える氷那鞠。雪女と聞いて少しビックリしたが、氷那鞠そのものが愛らしいと思うところは何も変わらない。むしろ素性がはっきりして、謎が一つ解けた気分だった。

それでは、ごゆっくり……と言い残して立ち去ろうとする氷那鞠、その姿を見た温子がふと何かを思いたち、あっ、ちょっと待って、と立ち上がりながら呼び止める。不思議そうな顔をする氷那鞠を横目に、温子がポケットへ手を突っ込んで財布を取り出した。ジッパーを開いて中から大きな五百円玉を引っ張り出すと、前に立つ氷那鞠へシュッと向き直った。

「これ、一度やってみたかったんですよねー……はいっす!」

「あの……お客様、これは……?」

「少ないですけど、チップです! チップ! 氷那鞠さん、お若いのに頑張ってるみたいですから!」

「えっ!? お客様そんな、私ごときが……」

「いいんですいいんです! ぜひぜひ、受け取ってくださいっす!」

こういうときの温子は押しが強い。戸惑い気味の氷那鞠に、なんとしてもチップを渡したいと譲らない。最後は温子の熱意に負けて、ありがたく頂戴することにしたようだ。

「お客様……ありがとうございます。お帰りになられるまで、できる限りのおもてなしをさせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、一泊二日ですけど、よろしくお願いしまっす!」

氷那鞠が温子からチップ(五百円玉)を受けとると、深々と頭を下げて客室を後にした。氷那鞠がそろそろと部屋を出ていくのを見送ってから、温子はそっと扉を閉めた。

「はー。どうなることかと思いましたけど、こうやって無事に旅館へ辿り着けましたし、可愛い雪女さんにも会えましたし、ひとまず出足は順調ですねー。順調」

畳の上へごろんと大の字で寝っ転がる。遠く離れた田舎にあるお婆ちゃんの家、そこに敷かれている畳と同じ、どこか懐かしい匂いがした。温子が鼻で深呼吸をする。ぷはっ、と一期に吐き出すと、もぞもぞと小さく寝返りを打った。

「それにしても、氷那鞠さんですか。若いのに、一人で大変そうです」

「あっちゃんの五百円で、何かおいしいお菓子でも食べてもらえればいいのですがー」

温子はオカルト好きで好奇心旺盛であると同時に、何かにつけて他人にお節介を焼きたがるところもあった。同年代の女の子が旅館で健気に働いているのを見てグッと来てしまい、ほんのちょっとでもヘルプしてあげたい、と思ったわけだ。普段あまりお金を使わない生活をしているが、使いたい時にはパッと使ってしまうのが温子だった。

一服して落ち着いたところで、温子は自分が宿泊することになったここ105号室を今一度チェックすることにした。おもむろに立ち上がり、部屋の入り口からぼちぼち中を見ていく。

「んー。綺麗に掃除されてますねーっ。ホコリもチリもちっとも見当たりません」

「窓もテーブルも、ピッカピカです。ピッカピカ」

部屋はきちんと清掃され、温子の言う通りチリ一つ落ちていない。よく手入れが行き届いている証拠だ。もしや氷那鞠さんが掃除したのだろうか、温子の空想は広がるばかりだ。

「おっ! テレビもありますねー。山奥なので、ちょっとチャンネルが少ないみたいですけれども」

「ま、あっちゃんにはコレがありますから、どっちでもいいんですけどねっ」

カバンをゴソゴソやって、自宅からわざわざ持ってきたSurface Proを堂々と掲げる。どうやら建物内にWi-Fiの設備もあるようで、接続状況も良好だ。これなら退屈することもあるまい。最近流行りの女の子や男の子をコレクションするゲームだってやり放題だ。まあ、温子はまだ中学生なので、そういう意味ではできないのだけれども。

ちゃぶ台の上にSurface Proを置くと、隅にお茶とお茶菓子が用意されているのを見つけた。お茶菓子はこの辺りの名産「すだち最中」だ。何度か食べて甘酸っぱさが気に入った記憶がある。途中で見つけたお蕎麦屋さんで早めのお昼を食べてかれこれ四時間、ちょうど小腹も空いてきたところだ。

「せっかくなので、いただいちゃいましょー!」

荷物の片付けもそこそこに、客間で一人お茶会と洒落込む温子であった。

 

「……あ! 忘れてましたっ!」

すだち最中と熱いお茶ですっかりまんぞくさんになった温子だったが、ここで大事なことを思い出した。

「そうでしたそうでした。あっちゃんはここ『細雪』の調査に来たんですよねー。調査。いつまでものんびりしてるわけには行きませんっ」

温子が「細雪」を訪れたのは、この温泉旅館に纏わる謎と怪奇を解き明かすためだった。あの仲居さん――氷那鞠が雪女だということは分かったが、他にも何か不思議な秘密を抱えているかも知れない。いや、黄蘗であれほどウワサを耳にしたのだ、何かあると考える方が自然だろう。そうと決まれば早速行動開始だ。氷那鞠からもらった客室の鍵をひっつかむと、温子はすぐさま飛び出していった。

まず温子が向かったのは一階だった。一階には受付の他に土産物屋があるのが通例だ。ここで珍妙なものの一つでも売っているのではないか、例えば霊魂の味噌漬け(真空パック詰め)とかそういうのだ。まあ仮にヘンなものを売っていなかったとしても、フツーの土産物も見たいと思っているので問題ない。せっかくだし、チェックアウトする時はお姉ちゃんに何か買って帰ろう――なんてことを考えながら、温子は土産物屋を探した。

「おー、ありましたありましたっ」

「んー。見たところ、一般的なお土産物屋さんのようですねー。一般的な」

予想通り、土産物屋は一階にあった。箱詰めされたお饅頭、きらびやかなキーホルダー、パック詰めされた山菜、それから「すだちゴーフル」なんてのもある。土産物としてありそうなものは一通り揃えているといった印象だ。が、裏を返すと特段変わったものを売っている様子は無いということでもある。

品物はきちんと並べられ、食品についてはどれも新鮮なものが置かれているようだったが、肝心の従業員の姿がどこにもなかった。チェックインした時と同じように、周囲には人っ子一人見当たらない。カウンターには呼び鈴が置かれていて、これを鳴らせばすぐに来てくれそうな雰囲気はあったのだが。

「むー。けど、今買うとかさばりますし、帰るときに買えばいいですね。帰るときに」

別に今急いで買い求める必要は無かったので、明日チェックアウトする前に回すことにした。土産物屋を出て、さらに旅館内を探索する。何か怪しいものは無いかときょろきょろしながら辺りをうろついていると、今度は地下につながる階段を見つけた。これは調査せねばと、温子がいそいそと階段を降りていく。

階段を降りた先には、ちょっとばかりスペースが広がっていて。

「さすがですねー! 温泉旅館といえば、やっぱりゲームコーナーがなきゃダメですよねー! ゲームコーナー!」

ひなびた温泉旅館には付き物の、こじんまりとしたゲームコーナーがあった。置いてあるのは、ピカチュウとジバニャンが仲良く一緒に閉じ込められているクレーンゲーム、長年に渡りボコボコに叩かれ続けてかなり年季の入ったワニワニパニック、女子向けにたくさんの「綺麗に見せる機能」が付いたプリクラ、それから汎用のアーケードゲーム筐体が四台ほど。まさしく温泉宿のゲームコーナーとでも言うべき佇まいだった。

そして隅っこには、ちょっと変わったゲームも設置されていて。

「おやおやー? これは……ファ、ファミコンではないですかー!」

昔のファミコンの赤いコントローラが繋げられた、古びたブラウン管のテレビ。傍らにはコインの投入装置。温子はこれに見覚えがあった。お金を入れると二十くらいだか三十くらいだかのファミコンソフトの中から好きなものを選べて、決まった時間だけ遊べる仕組みになっているのだ。時間切れ直前になると画面が暗く点滅して教えてくれて、そこで追加の料金を入れると続けて遊ぶことができる。温子が以前家族で温泉旅行へ行った際も、これとまったく同じものを見たことがあった。メガネをくいくいさせて、温子は吸い込まれるように近付いていく。

これは遊ばざるを得ないと、温子が早速椅子に座って百円玉を投入する。最初にソフトを選ぶ画面をしばし睨みつつ、中程にあった「アイスクライマー」をチョイス。ニンテンドー3DSのバーチャルコンソールで時々遊んでいるので、操作にはちょっぴり自信があったのだ。

「…………」

「…………!」

ゲームを遊んでいる最中は無言になるのが温子だった。目を見開いて画面を見つめながら、フードを被った男の子らしきキャラクターを操作している。ハンマーを振り回して障害物を叩き壊しながら、とにかく上へ上へと進んでいく。そんな感じで割といいところまで行ったのだが、あと少し、というところで敵に接触してやられてしまった。今日はこのくらいにしておいてあげます、と捨て台詞を残してコントローラを置く――と、そこでちょうど時間切れに。いいタイミングである。

遊び終わったところで立ち上がり、中をぐるりと見て回る。クレーンゲームの景品は割と新しそうなものが入れられていたけれど、マシンその物は使い古されてあちこちにキズや汚れが見える。ワニワニパニックは言うに及ばずで、プリクラもかなり前の機種だ。四台並べて置いてあるアーケードゲーム筐体は、一つが麻雀で残りが普通のコンパネになっている。どれもこれも古いゲームで、タイトル画面のコピーライト表記を見ると見事に全部90年代だった。年季が違う。

「んー。商店街にあるゲームセンターでは、いろんな音が鳴っていてにぎやかなのですが、ここは静かですねー」

省エネのためか、どのゲーム機も音声がオフにされている。これは、コインを投入すると音声が出るようになるパターンだ。そのためかゲームコーナーにもかかわらず辺りは静まり返っていて、各筐体の動作する低い唸り声のような音だけが聞こえるという状態だった。

そしてここもまた受付や土産物屋と同じように、従業員も旅客もまったく姿を見せない。

「お客さんはいないみたいなのでしょーがないですけど、ホテルの人もいないとは、ちょっと気掛かりですねー」

テーブルの上へ放り出していた財布を回収すると、温子はゲームコーナーを出て一階へ戻った。探索再開である。

こうして一通り旅館内を歩いた温子だったが、特別不思議だったり不気味だったりするようなものを見つけることはできなかった。何から何までフツーのひなびた温泉旅館であり、幽霊だとか怪奇現象だとかはどうにも縁がなさそうだ。もしや、雪女の氷那鞠を見て幽霊だとかと勘違いしたのでは……? という考えが頭をもたげてきた。そうだとすると、肩透かしもいいところである。

「せっかくこんなところまで来たのですから、一つくらい不思議体験のお土産を持って帰らねばっ!」

きっと何かあるはずだ、それを見つけ出すのが自分の使命ではないか。このままではオカルトマニアの名が廃る。今一度気合いを入れ直すため、温子が頬を手のひらでぺちぺちと叩く。さあ、やる気を取り戻すのだ!

「……あ。ベタついてます……」

と、温子がぼそりと呟く。首筋に触れた手がひどくベタついていた。無理もあるまい。ここへ来るまでに重い荷物を提げてたくさん歩いたために、ずいぶん汗をかいていた。それからシャワーを浴びるようなこともしていない。温子もその辺はちゃんとした女の子である。身体は綺麗にしておきたかった。

そもそもここは温泉旅館だ。身体をピカピカにするには、温泉に入るに限る。温子はここでお風呂タイムにすることにした。一度部屋へ戻り、必要なものを取りに行ってこよう。くるりと踵を返し、客室のあるフロアへ歩き出した。

「あっ、氷那鞠さん。こんちゃっす!」

のっしのっしと大股で浴場まで歩いていた最中、廊下を歩いていた氷那鞠と出くわした。氷那鞠は先程と同じように物腰柔らかく頭を下げ、温子にしっかり会釈をして見せた。

「真境名さま、どうかなさいましたか?」

「んーと、そろそろお風呂に入ろうと思ってたとこっすねー。お風呂」

「さようでございますか。浴場は南館にございます。桧の湯と露天風呂がございますので、どうぞご利用くださいませ」

「あざーっす! じゃ、早速行ってきまっす!」

ぴしっ、とひとつ敬礼して、温子は意気揚々と歩いて行った。

 

「さーて、お風呂ですよお風呂ー!」

客室から下着とアメニティ一式を持ってきた温子が、南館にある浴場を目指す。案内に従って歩いていくと間もなくそれらしい場所まで辿り着き、この辺りですかねー、などと周囲を見回していると、瓶入りのコーヒー牛乳を売っている古びた自販機を見つけた。ここで間違いなさそうだ。

脱衣所へ入る。今までと同じように、ここにもやはり人影はない。いるのは温子一人だけだ。ぶーん、と無機質な音を立てて扇風機が回っているのが見える。取り立てて変わったところは無い。人っ子一人見当たらないことを除けば。

「んー。誰もいませんねー。というわけで!」

三つ編みを解いて、服を脱いで、最後にメガネも外した温子。誰にも気兼ねする必要が無いのをいいことに……。

「とあーっ! キャストオフっ!」

「生まれたままの姿ってやつですよ、生まれたままの姿ー! あるいは一糸纏わぬ裸体でも可ですね」

「しかしまあ、エロ小説でも無いのにこんな表現を使うとは。エロ小説でも無いのに」

やめなよ。

とまあ、そんなことはどうでもよろしい。バスタオルも身に着けず完全なすっぽんぽんになったかと思うと、鏡を見ながらどやっ、と胸を張り、まあやりたい放題である。ちなみに、雰囲気的にはまな板っぽい印象を受ける温子だが、意外や意外、出るところはちゃんと出ていたりする。本人はそういうことに無頓着だったようだけれども。

タオルを持ったすっぽんぽんの温子が浴室へ突入する。当たり前だが、脱衣所に人がいる気配が無かったので、もちろん浴室にも人気は無かった。事実上、温子の貸切状態というわけだ。湯けむりでぼやける視界の先には、暖かなお湯を並々と湛えた桧のお風呂が見える。さらにガラス戸で仕切られた外には、露天風呂まであるのが見えた。温泉として不足は無いと言えよう。

「これは……! んー、のぼせるまで入るしかありませんねー! のぼせるまでー!」

桧のお湯に露天風呂、これを見てテンションの上がらない温子ではなかった。

シャワーで一通り汗を流して体を温めてから、まずは桧のお湯へ向かう。そろそろと右足を差し入れ、続いて左足、最後に全身を湯船に沈める。はふー、と気持ち良さげに息をつき、温子が元々緩い頬をさらにゆるゆるにする。至福の一時である。

「これぞ、桧のお湯ですねー……いいにおいがしますー」

桧のお湯がどんなものかは、家で入浴剤を何度か使っていたのでなんとなく分かっていた。だがこうして本物の湯に浸かってみるとまさに格別、文字通り格が違っていた。鼻から息を吸い込んで胸をいっぱいに膨らませ、熱い湯の心地よさに深く感じ入る。

――と、初めのうちはそれらしく、静かに入浴していた温子だったけれども。

「……んふふ。誰もいませんねー、誰も。いるのはあっちゃんだけですねー。あっちゃんだけ」

「となれば、やることは一つ――そぉい!」

いきなりバタフライもどきを始めたかと思うと、温泉の中でばしゃばしゃと音を立てて泳ぎ始めた。我が物顔とはまさにこの事である。他に誰も居ないと、それを寂しがるのではなく「しめしめ」とばかりに自分のやりたいことをおっぱじめる、それが温子のキャラクターだった。

桧のお湯の中で思うまま泳ぎ回り、身体もすっかり温まったところで、いよいよ外の露天風呂へ向かう。湯気で曇ったガラス戸を勢いよく開くと、そこには白濁した湯を満たした露天風呂が温子を待っていた。

「わおー! ミルクみたいな温泉っ! こういうの入ってみたかったんですよー!」

頭に畳んだタオルを乗っけたまま、いそいそと温泉へ入浴する。肩まですっかり使ってしまうと、再び「はふー」と気持ち良さげに息をついた。んー、としばしお湯の温かさを堪能して、じわーっと身体の芯からあったまる、いいお湯ですー、と再びご満悦である。

じわじわと額に浮かんでくる汗をタオルで拭いながら、温子がぼうっと空を見上げる。今日のお昼はよく晴れていた。今はまさに夕暮れ時と言うべき時間で、空が蒼から橙へと美しいグラデーションを描いている。このまま夜になれば、今度は満天の星空を望むことができよう。黄蘗でも晴れていれば星をはっきり見ることができたのだから、それより光源の少ない鉛丹で星を見られぬ道理はあるまい。もし次があるなら、夜に入浴するのもいいだろう。

「しかし……ここは、ホントに幽霊旅館とかなのでしょうか」

露天風呂を満喫していた温子だったが、落ち着いたところでふとそんな疑問が脳裏を過ぎった。黄蘗区で耳にしたウワサは、「細雪」が幽霊の住まう恐怖の旅館だとか、あるいは朽ち果てた廃墟旅館であるとか、おどろおどろしい(温子にとっては心躍るような)ものばかりだった。

「なんかこう、フツーの温泉旅館な気がしてなりませんです。フツーの」

けれど、こうして実際に自分の足で来訪してみると、ちょっとひなびた感はあるけれどどこを見ても小綺麗で清潔、そして可愛らしい仲居さんもいる、ごく普通の温泉旅館ではないか。ウワサには尾ひれが付く物とは言え、些か実態と乖離しすぎていないか。ここに至るまで、恐怖体験や怪奇現象は一つとして起きていない。

強いて言うなら、氷那鞠が雪女だったこと――くらいだろうか。

「幽霊旅館だって言うなら、例えば今あっちゃんがのほほんと浸かっている温泉は、実は泥沼でしたー! とか、もっと酷いのだと血の池でしたー! とか、サイアクなのは肥溜めでしたー! みたいなオチが付くと思うのですが。オチが」

「見た感じ、そーいう気配はなさそうなのです。今のところ」

「氷那鞠さんも、とーってもいい感じの雪女さんですし、何が怪しいんでしょうかねー?」

どうも、ウワサだけが先走ってしまっているような気がする。お化け屋敷を探索するつもりで訪れたのが、今やすっかり温泉を満喫しているのだから、さもありなん。

「しかしアレです。火のない所に煙は立たぬと言いますし、絶対何かあるに違いありません」

「この旅館の化けの皮をはいで、真実を衆目に晒してやるのですっ」

ちょっとだけ小難しい言葉を使ってテンションを上げながら、温子がここ「細雪」の本性を暴いてやると意気込む。幽霊旅館だのと言われるからには、必ず何か理由があるはずだ。それを解き明かさねば、オカルトマニアの名が廃るというものである。

やる気を復活させたところで、身体もすっかり温まった。そろそろ上がって身体を洗おうと、温子が浴場へ戻る。えーっとこっちがシャンプーで、こっちがボディソープ……と手に取りながら確かめていた、その最中のこと。

「失礼いたします」

「……はぇ!?」

いささか唐突にガララッ、と扉が開いて、お隣の脱衣所からバスタオルを巻いた氷那鞠が登場したではないか。温子は思わず胸を両手で隠して、突然姿を表した氷那鞠をまじまじと見つめるばかりだ。言うまでもなくビックリしている。一方の氷那鞠はあくまで丁寧に、深々とお辞儀をして見せた。

「あの――よろしければ、お背中を流させていただけませんでしょうか」

「せ、背中……? それっ、あ、あっちゃんのっすか? あっちゃんの背中っすか?」

まあ、温子の他に入浴客はいないのだし、当然である。

「はい。お邪魔でなければ、ぜひ……」

「おおお、お邪魔じゃないっす! むしろあっちゃんがおジャ魔女あつこっす! おジャ魔女!」

何やらまったく意味不明なことを口走る温子だったが、とりあえず氷那鞠に背中を流してもらうのはOKのようだった。氷那鞠が頬を緩めて笑うと、温子も無駄な緊張がほぐれてきて、やがてつられて一緒に笑うのだった。

風呂椅子にぺたんと腰掛けた温子に氷那鞠が静かに歩み寄り、そっと背中へ付く。

「それでは、始めさせていただきます」

「はいっ! よろしくお願いしまっす!」

洗面器へ溜めたお湯に浸して、氷那鞠が両手を温める。十分冷たさが取れたところで、石鹸を擦って慣れた手つきで泡を立て始めた。お湯で軽く濡らした手ぬぐいに、ふんわり立てられた泡をたっぷり纏わせると、温子のすべすべした背中へそっと静かに押し当てる。膝を付いて両手を添えると、力を加減しながら背中を洗い始めた。

手ぬぐいと肌が穏やかにこすれる音が聞こえてくると共に、温子は自分の背中が確かに洗われているのだという実感を得ることができた。一人で入浴している限り、背中はどうしてもおざなりに洗ってしまいがちだ。こうして、きちんとしっかり洗ってもらえる機会は貴重だった。

桧の湯と露天風呂にたっぷり浸かって熱を持った肌に、湯で温められながらもほのかに冷たさを残した氷那鞠の手が実に心地よい。殊更言うまでもなく背中を洗う手つきの方も実に巧みで、はぁぁ……、と思わず目を細めてうっとりしてしまうほど気持ちが良かった。

「ふにゅう、気持ちいいのですー……」

夢見心地な声を上げた温子だったが、その時ふと、正面の鏡に目が行った。湯気で曇った向こう、自分の背後に当たる位置に視線を投げ掛けると、そこには一生懸命背中を流す氷那鞠の姿があった。

先程とは別の理由で目を細めて、鏡に映る氷那鞠の姿を視界にとらえる。時折汗を拭いつつも手は休めず、一心不乱に温子の肌を掃除している。彼女の真剣な眼差しはぼやけた鏡越しにさえまっすぐ伝わってきて、背中流しにどれほど真剣に取り組んでいるかはまさに一目瞭然だった。

ただ――その表情は、どことなく辛そうにも見えて。

(雪女さんですから……温かいところは、苦手だったりするのではないでしょうか。それこそ、こんな熱々の温泉があるようなところは……)

(それに、物の怪さんですし、もしかすると見た目より長生きされてるのかも知れないですが、見た感じあっちゃんと同い年くらいなのにこんなに頑張ってて……あっちゃんは気持ちいいばかりで、なんだかちょっと申し訳ないです)

氷那鞠は、本人から「雪女」だと聞かされている。雪女は読んで字のごとく、冷たい雪のある地域に住まう物の怪だ。寒さと冷たさには強く、逆に暑さと熱さにはからきし弱いと聞く。温泉がどちらに近いかと訊ねられれば、間違いなく後者の方だ。雪女が好む環境とはとても思えないし、実際辛そうに見える。雪女というだけでも大変そうなのに、氷那鞠は温子とほとんど同年代、つまり中学生くらいの背丈しかない。顔立ちも特に大人びているわけではないので、実年齢もそう変わりないと思われる。まだ子供といっていい見てくれなのに、こうして懸命に旅行客の――温子の背中を流している。

そう考えると、温子は少し申し訳ない気持ちになった。自分はこんなにのんびりしてていいのか、そんな思いが頭をよぎる。けれども同時に、氷那鞠は自分の仕事に一生懸命で、大変そうではあるけれど、嫌な顔一つせず真面目に取り組んでいる。自分が変に気を回せば、却って水を差すことになってしまうのではないか。そんな両方の気持ちを天秤にかけて、今は氷那鞠さんに任せようという結論に至った。背中を流し終わるまで、静かに黙っておくことにしたわけである。

氷那鞠が自分の背中を洗う音を聞きつづけて数分後、ぼーっとしていた温子に、後ろからやわらかな声が飛んできた。

「……こんなところでしょうか。真境名さま、いかがですか?」

「あ……はいっ。すっごい気持ちよかったです! 氷那鞠さん、ありがとうございまっす!」

「それはよかったです。喜んでいただけて、何よりです」

後始末を済ませて、それでは失礼致します、と最後まで丁寧な物腰でもって、氷那鞠が浴場を後にする。

シャワーを浴びてうっすら浮かんだ汗を流しながら、温子が出て行った氷那鞠に思いを馳せる。

(氷那鞠さんは、どうしてこの旅館で働いているのでしょう)

(よく考えてみたら、雪女が温泉旅館で働いているのもちょっとミスマッチですし、それに、働くにはちょっと若すぎます)

(この旅館のこともそうですけど……氷那鞠さんのことも気になります。すっごく気になります)

この後夕食の時間になる。チェックインする時に食事は客室で食べると伝えたので、恐らく氷那鞠が料理を持って部屋まで訪れるはずだ。

「……ご飯の時が勝負です。その時に、気になることをいろいろ聞いちゃいましょう」

ぐっ、と小さく握りこぶしを作って、夕餉を勝負時と見定める温子であった。

 

温泉で身も心もリフレッシュした温子が、脱衣所で体を拭いている。ふわふわのバスタオルで全身の水気を拭うと、艶やかな黒髪をドライヤーを当てて乾かす。髪の毛が濡れたままだと風邪をひくよ、しっかり乾かしてね――と、お姉ちゃんから言われた記憶があった。その言いつけを忠実に忠実に守って、温子は髪をきちんと乾かした。

ふう、と一息ついてドライヤーを止めると、隅っこで首を左右に降りながらぶんぶん回っている扇風機の前までとてとてと駆けていって、「あ゛ー」という例のヘンな声を上げはじめた。ほてった肌を涼しい風が軽やかに撫でていって、温子は得も言われぬ爽快感を覚えた。他に見ている人はいないから、自分の思うようにできる。彼女にとっては実にありがたい環境であった。

扇風機で余分な熱を飛ばした温子が隣に目を向けると、これまた脱衣所には欠かせないものが一つ。

「うーむ。乗るべきか、乗らないべきか、体重計。思わず五・七・五になってしまいました。五・七・五」

あちこち塗装が剥げた古びた体重計、しかしながら作りそのものはしっかりしていて、1グラム単位まで誤差無く計って見せましょう、とでも言いたげな風貌である。ちょこまか歩いて側まで寄ると、温子が眉間にシワを寄せて難しい顔をする。体重を計ろうかどうか迷っているのである。

「ふむー。なんとなくですが、最近ちょっとお肉が付いてきちゃった気がします。どちらかというといらないお肉です」

ふにふにむにむにと二の腕のお肉を摘んだりしつつ、端的に言うと「最近太ってきたかも」と呟く温子。繰り返しになるが、こう見えても温子はれっきとした女の子である。好奇心を満たすために一人で怪しい温泉旅館に乗り込んだりする(今まさにしている)が、それを差し置いても女の子である。髪型だって気にするし、体型だって気にするのだ……いや、髪型は物心付いた頃から一貫してどんな時でも三つ編みお下げなので、こっちはあんまり気にしていないかも知れない。

そろりそろり、そろーりと右足を差し出して、温子がその身を計りに預けようとした――が、ぐっ、と目盛りがわずかに動いたのを見て、電光石火の早業で足を退けた。載せるときと退けるときでえらいスピードの違いである。

「やめましょー、やめましょー。体重見ちゃったら、きっとご飯がおいしくなくなりますからねー。なんといっても、これからうれしいおいしい夜ご飯タイムですからねー。夜ご飯タイム」

温子の言う通りである。これから待ちに待った夕食がやってくるのだ。聞くところによると、ここ「細雪」では山海の幸をふんだんに取り入れたおいしい食事が食べられるという。山の幸はともかく海の幸とは縁遠そうなので気になって調べてみたが、これはどうも隣接する甕覗区から新鮮な魚を仕入れているらしい。甕覗区の魚はどれも味がいいことで市内では有名だ。猫まっしぐらと言えよう。そんなお食事に体重云々でわざわざ水を差すのは忍びない。ここはすべてを忘れて思う存分食べましょう、と温子は心に決めたのだった。

すっかり涼んだところで、浴衣を着て脱衣所を出る。そのまま客室まで戻ろうかと思ったが、脱衣所へ入る前に近くにコーヒー牛乳の自販機が置かれているのを思い出した。よく見ると、今ちょうど目の前にあるではないか。せっかく温泉に入ったのにコーヒー牛乳を飲まない手は無いと、温子がいそいそと自販機まで向かう。

「ふっふっふー。こんなこともあろうかと、部屋から小銭入れを持ってきておいたのですよ、小銭入れ!」

「えーっと……おぉー、五十円で買えてしまうのですねー! リーズナブルなのですっ」

五十円玉を投入して、くすんだ色の四角いボタンを押し込むと、ガチャン、と音を立ててコーヒー牛乳の詰まったビンが出てきた。これですこれです、と取り出し口から拾い上げてみると、キーン、とよく冷えている。コーヒー牛乳はこうでなくては、と温子がしきりに頷く。

「こうしてみると、小学校の頃を思い出しますねー。今はお弁当を持ってってますからね。お弁当」

爪を立てて手際よくキャップを外してしまうと、一息置いてからおもむろに口を付ける。腰に手を当てるお決まりのポーズを取って、ぐびぐび、ごくごくと景気良く喉の奥へ流し込んでいく。

「ぷはーっ! 必殺・一気飲みっ! お風呂上がりはやっぱりコレですよ、コレ!」

ビンが空っぽになるまで一息で飲み干して、豪快な一気飲みの達成だ。とまあ温子はこんな風に一回で全部飲んでしまったわけだが、よいこの読者の皆さんは下手に真似したりせず、自分のペースで飲むことを心がけていただきたい。むせたら一大事である。

おいしいコーヒー牛乳も飲んで大満足の温子だったが、ここであることに気付く。

「それにしても……安くて冷たくておいしくて、モノはとってもいいのですが、ずいぶん古い自販機ですねー」

「自販機だけでなくて、ここの旅館全体が、何かこう歴史を感じるといいますか、古い印象を受けるのです」

コーヒー牛乳そのものは新鮮で何の問題もなかったし、自販機も古い型式のものとはいえ万全に動作していたが、それらとはまた別に、旅館と設備がどれもこれも古いというか、ずいぶん昔からここに存在しているように思えてならなかった。いつからここ「細雪」があったのかは定かでは無いが、十年二十年という時間感覚では収まらなさそうだった。

歴史ある旅館には歴史ある支配人もしくは女将さんが付きものだ。これまでのところ、それらしい人にはまだ一度もお目にかかっていない。

「この旅館、支配人さんはどなたなのでしょうか?」

「雪女の氷那鞠さんを雇ってらっしゃるのですから、同じく物の怪さんだったりする可能性は十分ありますねー。雪女の元締め……雪の女王様とかでしょうか」

「うーむ。雪の女王さまかどうかは分かりませんけど、なんといいますか、ここが『物の怪の宿』的な場所だということも考えられます。例えば……そう! あれですあれです、えーっと、千と千尋の神隠しのアレみたいな」

「まーあそこは神様が来るところですし、旅館というより銭湯とかそっちの方が近いんですけど、ニュアンスとしてはあんな感じの場所です。あんな感じの。人里離れた場所にある大きな建物で、お風呂があるってのは共通してますからね、共通」

「ややっ! まさか氷那鞠さんも名前の一部を奪られたとか、そんなバックグラウンドがあったりするのではないでしょうか!? ホントの名前はまた別だったりするのかもしれません。んー、具体的にはどんな名前なのかちょっと思いつきませんけども、まあこれもまた一つの可能性です。可能性は無限大なのですよー」

一向に妄想がストップする気配が無い温子。彼女の悪いクセの一つである。

「気になりますねー、とっても気になります。そしてひょっとすると普通じゃないかも知れない旅館のサービスをどっぷり受けているわたくしあっちゃん、一体どうなってしまうのでしょうか。家に帰ろうとしたら物理的に蒸発したりしないか、今からどきどきが止まりません」

ますます調査が必要ですね、とトレードマークのメガネをくいくいさせて、旅館と氷那鞠の両方に興味津々の温子。その瞳からは、この旅館にまつわる謎をなんとしても解き明かしてやろうという野望がひしひしと伝わってくる。

何はともあれひとまず客室へ戻ろう。空になった牛乳ビンを近くの箱へ入れると、温子は悠々と歩き出したのだった。

「……けふっ」

――結構な量のコーヒー牛乳を一気飲みしたせいで、空気もちょっとばかり、一緒に飲み込んでしまったようで。

 

「レポートレポート、レポートなのですよー♪」

家から持ってきたタブレットのディスプレイにすいすい指を滑らせて、軽快に文字を入力していく浴衣姿の温子。旅行が終わった後に自分のブログへ投稿する記事の下書きをしている真っ最中だ。記事を「レポート」と呼ぶのは、まあ温子の趣味というか好みだ。本人曰くブログは「秘密結社のデータベース」という設定らしいが、その割には全世界に向けて公開していることにツッコんではいけない。いけないのだ。

記事ならぬレポートの下書きを済ませて一服していると、ちょうど見計らったかのように、コンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。このタイミングである、誰がやってきたのかは明白だった。タブレットをケースへ仕舞い込むと、温子がすっくと立ち上がった。

「はーい! おー、やっぱり氷那鞠さんでしたかー!」

「お待たせいたしました。お夕食をお持ちしました」

例によって恭しく頭を下げる氷那鞠に対して、温子の方は「わおー! 待ってましたですー!」とノリノリの大はしゃぎだ。最後にお茶菓子をお腹に入れてから結構時間が経っていたし、温泉にも入ってお腹はすっかりぺこぺこだ。待ってました、というのはお世辞でも何でもないのである。

失礼します、と扉をくぐって室内へ入り、持参した料理を次々に運び込んでいく。さすがに手際がいい、と温子は感心することしきりだった。自分と同い年くらいでまだまだ若いはずだが、手つきは熟練した仲居さんのそれである。見習いさんかも、などと思っていたけれど、この様子だとれっきとした一人前の仲居さんなのかも知れない。そういうことも含めて、この食事の時間にあれこれ訊ねてみたかった。

「お飲み物は、ソーダ水でよろしかったでしょうか」

「そうそう、合ってますよー。ソーダ屋のソーダさん。事前にお願いしてましたからねー!」

ハートフルゾンビコメディはさておき、飲み物はソーダ水だ。ビールよろしくグラスにたっぷり注いでもらって、温子もご満悦である。飲み物の準備が整ったところで、いよいよお料理のご登場だ。

「こちら、茸のおひたしになります」

「んー。まいたけの味わいが広がりますねー。しめじもぷりぷりしてますー」

「こちらは鶏肉の茶碗蒸しです」

「卵と鶏肉! 親子丼とはまた違うカタチでの共演、胸にじんわりきますねー。親子共々残さずいただきましょうねー、残さず」

「山菜の天ぷらです。この山で採れた、新鮮なものを使っております」

「揚げたてにちょっとだけ塩をまぶした天ぷら! 日本人だったことに感謝する瞬間ですねー、しみじみ」

「本日水揚げされたばかりの、鯵のお刺身でございます」

「鯵は開きで食べることが多いですけど、お刺身もまた格別ですねー。格別」

とまあ、出されたものを次々に景気良くいただいていく温子。時折ソーダもぐいぐいやって、ぷはーっ、と満足げな様子を見せる。お注ぎしましょうか、と次を勧められると、お願いしまっす、と勢いよくグラスを差し出す。温泉に続いて、まさに至福の一時である。

「お味はいかがでしょうか?」

「んー、すんごくおいしいですー! もうね、大満足ですよ! まんぞくさん」

「こう言っては失礼かもしれませんが……お若いのに、なんでもよく食べられるんですね。良いことだと思います」

「ふふふー。好き嫌いが無いのがあっちゃんの長所ですからね、長所」

太鼓の達人よろしく料理に舌鼓を打ちまくる温子を見て、給仕をしている氷那鞠も嬉しそうな顔を隠さなかった。中学生でこれだけ好き嫌いが無いのも、なかなか珍しいことだろう

四品を綺麗に平らげたところで、いよいよ本日の目玉料理が登場と相成った。

「おぉー……! こ、これは……!」

「はい。こちら、細雪名物の『みぞれ鍋』でございます」

一人用の小さな鍋の上に、綺麗にすりおろされた大根おろしがさながら雪山のように乗っかっている。紛れもなく「みぞれ鍋」だ。温子も「みぞれ鍋」という名前の料理が存在していることは知っていたが、まさか大根おろしを使ったものとは夢にも思っていなかった。

「はぇー、これがみぞれ鍋、ですかー……」

「はい。鍋に入れた大根おろしが解けていくように見えるので、『みぞれ鍋』と名付けられたんですよ。他の場所ですと、『雪見鍋』と呼ばれることもあるそうです」

「なるほどなるほど、そういうことだったのですねー。んー、確かに雪のようで風情がありますなぁー、風情」

白く輝く大根おろしがたっぷり降り積もったその画は、まさに「霙」と言うに相応しいものであった。これが徐々に出汁に溶けて言って一つになるのだと思うと、温子はもう瞳を輝かせざるを得なかった。

火を入れてからしばらく間を置いて、そろそろ食べ頃です、と氷那鞠が合図をしてくれる。器にだし汁を少々と、薄切りにした豚肉、食べやすい大きさに切られた木綿豆腐、いい具合にひたひたになった水菜、そして柔らかくなった榎茸が盛られて、温子の前へ置かれる。どうぞ、お召し上がりください、と氷那鞠に勧められると、温子は迷わず箸を付けた。

「んー! な、雪崩……! お出汁と大根おろしが絡み合って、口の中で熱い雪崩が起きてますー……!」

「お味は、いかがでしょうか?」

「おいしいっす! いやもう、みぞれ鍋のファンになっちゃいそうなくらいっす!」

大はしゃぎで器の中のものをあっという間に食べ尽くしてしまうと、次ください! とおかわりを要求する温子。氷那鞠も給仕のし甲斐があるのだろう、頬をほころばせながら、鍋から具材をよそって温子に手渡す。こんなやりとりが何度か続いて、温子は瞬く間に鍋をすっからかんにしてしまった。相変わらずの食べっぷりである。

「夏場に鍋はお気に召されないか、少し心配でしたが……喜んでいただけて、とても嬉しいです」

「いやいやいや! もうめちゃんこおいしかったっす! やっぱり鍋はいいですよねー、鍋は。夏は涼しくしてあったかいものを食べるのが一番ですよー!」

「ありがとうございます。真境名さまには、是非召し上がっていただきたいと思っていたものですから」

「いやぁー、そう言われると、なんだかちょっと照れちゃいます。てへへ」

「これは、わたくしの母から作り方を教わりました。この歳になってようやく、人様にお出しして恥ずかしくないものを作れるようになりました」

「習ったのは、お母さんから――ですか」

シメの雑炊を作っている最中、このみぞれ鍋は母親から教わったと耳にした。温子がふっと目を閉じる。氷那鞠が母親からあれこれと手解きを受けている様子が、瞼の裏に浮かんでくるようだった。

母親。その言葉が出てきて、少しばかり思うところのあった温子は、雑炊の仕上げをしている氷那鞠に、そっと問いかける。

「あのう、氷那鞠さん」

「真境名さま、どうなさいました?」

「つかぬことをお伺いしますが、氷那鞠さんのお母さまは、どんな方だったのでしょうか」

「わたくしの母、ですか?」

「はい。その、ちょっと気になって……」

そっと目を伏せる氷那鞠を見て、温子は「訊いちゃいけなかったかも」と口に手を当てる。好奇心が先に出て、相手に答え辛いことを訊ねてしまうことはしばしばあった。自分でも悪い癖だと自覚していて、なるべく前のめりにならないように心掛けてはいるけれど、けれど時々こうして、思いが先走ってしまうこともあった。

「あっ――話し辛かったら、無理しないでください。ただ、少し聞いてみたかっただけで、その……」

「いえ、そうではないのです。母のことを思い返すと、懐かしい思いがして……つい、郷愁に耽ってしまって」

穏やかに笑う氷那鞠の顔つきは、母親との思い出が美しいものであったということを、如実に物語っていた。

「母は、わたくしにとって、一番の目標でした」

「仕事にかけては誰よりも厳しくて、甘えは許されませんでした。けれど同時に、誰よりもわたくしのことを可愛がってくれた、そのように思っております」

「お仕事……もしかして、氷那鞠さんのお母さまも、この旅館で働いてらしたのですか」

「左様でございます。三年ほど前まで、ここの――『細雪』の、支配人をしておりました」

温子の動きがピタリと止まる。たった今氷那鞠から言われた言葉、要約すると「三年くらい前まで母親がここの支配人をしていた」。まずこの事実にすっかり驚いてしまって、そこからなかなか先に進めなかった。

母親が支配人、しかも三年前までということは、今は別人が支配人をしているということに他ならない。一般的にこういった由緒正しい旅館などでは、例えば経営に致命的な問題があったりしない限りは、跡継ぎになるのは誰か概ね初めから決まっているようなものだ。

「し……支配人? 氷那鞠さんのお母さまが、ここの支配人を……?」

「はい。三年前に他界しまして、今は――」

「ま、まさか」

「――わたくしが、支配人を務めております」

温子が予期した通りの回答が得られた。氷那鞠はかつての支配人の娘、跡取り娘となるのは必然だった。今この「細雪」は、氷那鞠の手によって切り盛りされているということだ。

「す、すすっ、すいませんっ! 氷那鞠さんがあんまり、あんまりお若い、ていうかあっちゃんと同い年かちょっとお姉さんくらいに見えちゃったので、てっきり、てっきり仲居さんとばかり! 仲居さんとばかり!」

「あっ……ま、真境名さま、そんな、お気になさらず……どうか、お顔を上げてくださいませ」

「いやもう、ホントにすいません! 若いのに大変だなー、頑張ってるなー、よーしちょっとハッピーサプライズだ、とかしょーもないこと考えて五百円玉とか渡してすいません! 今思うとあれめちゃくちゃ、めちゃくちゃ偉そうでしたよね! 許してくださいなんでもしますから!」

申し訳なさのあまり高速で土下座を繰り返す温子に、氷那鞠の方が却って恐縮してしまった。温子の方は温子の方で、今の今まで仲居さんだと勝手に思い込んでいたのが心底申し訳なくて、謝らなければ気が済まなかった。真境名さま、お顔を上げてくださいませ――としきりに繰り返して、ようやく温子の土下座連打を止めることに成功した。

「今は仲居の仕事もわたくしがしておりますから、真境名さまは間違ってはございません」

「仲居の仕事も、氷那鞠さんがされてるんですか……?」

「……はい。実は――」

氷那鞠は一拍置いて、やや躊躇いがちに口を開いた。

「今、ここ『細雪』で働いておりますのは、わたくし一人となっております」

「氷那鞠さん……だけ!? 氷那鞠さん一人で全部お仕事されてるんですか!?」

「はい。真境名さまの仰るとおりです」

「じ、じゃあ、受付で名前書いてもらうのとか、お風呂場のお掃除するのとか、お料理の仕度したりするのとか、えーっとあと、そうだそうだ、ジバニャンとピカチュウの位置を変えたりするのとかも、みんな……」

「僭越ながら、わたくしがさせていただいております」

「ホントに、全部のお仕事を、氷那鞠さんひとりで……」

「以前は、たくさんの方が働いてくださっていたのですが……わたくしが、女将として不甲斐なかったためです。お恥ずかしいところをお見せしてしまい、心苦しいばかりです」

ぐつぐつと鍋で煮立てられる雑炊だけが、温子と氷那鞠のいる客室に音をもたらしていた。氷那鞠の話を耳にした温子は、今度は何も言えずに押し黙ったまま、氷那鞠の横顔を縋るような目でただ見つめるばかりだった。

細雪は決して小さな旅館ではない。結構な数の客室があるし、それぞれも狭いものではない。しかも地上二階建て・地下一階建てであるから、単純計算でおよそ三倍面積があることになる。それだけの広さのある建物を一人で手入れし、今日のように客が訪れれば受付から給仕まで自分でこなすことになる。温子は氷那鞠の仕事量を思って、軽い眩暈を覚えた。

(あっちゃんも一応家事のお手伝いをしていますから、お掃除とかお洗濯とかがどれだけ大変かは、スケールは違いますけど知ってるつもりです。スケールは違いますけど……)

(ですけど――氷那鞠さんは、あっちゃんのお手伝いなんかとは比較にならないくらい、たくさんお仕事をされているわけで……)

手伝い、と自分では意識していたが、実際のところ温子は家事のほとんどをこなしている。もちろん姉の陽菜が家事をすることもたくさんあったけれど、大部分は温子が一人で担っていた。掃除・洗濯・炊事・買い物……そういったことがどれほど大変で面倒かは骨身にしみて分かっている。だからこそ余計に、氷那鞠の語ったことへのショックは大きかった。

一体何があって、細雪の職員たちは氷那鞠の元を去って行ってしまったのだろうか。彼らを問い詰めたいわけでも、もちろん糾弾したいわけでもなかった。物腰が丁寧で仕事もできる、俗な言い方をするなら器量のいい別嬪さんと言えようこの氷那鞠という少女に、何が欠けていたというのだろう。何が女将たりえないと思わせたのだろう。今の温子には、そのようなことは何ひとつとして分からなかった。

「氷那鞠さん……」

居た堪れない気持ちになって、今すぐ自分にできることは何か無いか懸命に知恵を絞る。けれどそんなものがたちどころに見つかるわけもなくて、ただただ自分自身の無力さを思い知るだけだった。大変な思いをしているだろう氷那鞠に、少しでも寄り添うことはできないのか。

奥底に生じた氷那鞠への真っ直ぐな感情がしきりに頭を責め立ててきて、そうしているうちに、やがて感情が思考が上回る瞬間がやってきて。

「ま――真境名さま、これは……」

「わかんない。どう言ったらいいのか、あっちゃんにもわかんないです。でも、こうしたかったんです。こうしたいって、いっぱい思ったんです」

温子は氷那鞠の手をそっと取り上げて、両手で包み込んだのだった。

氷那鞠の手は冷たかった。氷のように冷たかった。雪のように冷たかった。彼女は雪女だと聞いている。手荷物を渡す際に一瞬触れ合った時のあの冷たさは気のせいなどではなかった。氷那鞠の冷たい手のひら、温子はそれを自らの両掌で包み込みながら、けれどその奥底に、あたたかなものが流れていることを確かに感じ取っていた。芯に熱いものがあると、間違いなく感じ取れた。

もっと氷那鞠のことを知りたい、氷那鞠に近付きたい。温子の想いは、普段不思議なものや奇妙なものを見つけたときに抱くものと、表向きの見てくれはそっくりだった。けれど今温子に去来している感情は、普通の時にふくらませる興味とは少し毛色が違っている。興味よりももっと繊細で、同時に熱を伴うほどの激しい気持ち。

(いったい、どうしちゃったんでしょうか……なんだか、頭がぼうっとします)

(氷那鞠さんのことしか考えられない、氷那鞠さんのことで、頭がいっぱいです)

まるで経験の無い感情に、温子本人が戸惑ってしまう。

この次に、一体何と言おうか――いや、言いたいことはハッキリしている。自分に素直になれば、言葉はすぐにカタチとなって出てくるだろう。けれど、果たしてそれは自分が口にしてよい言葉なのだろうか、主張してよい願いなのだろうか。迷う。大いに迷う。普段物事の道理を意識して考え事をしている温子にとっては、感情の赴くままに口を開くことが許されるのかどうか判断が付かなかった。

だが、いつまでもそうして迷っている温子ではない。名状しがたい感情であっても、それは氷那鞠への好意に由来するものだということは明らかだった。今ここで氷那鞠と分かり合う機会を逸せば、次は何時になるか分かったものではなかった。迷いを振り切って、温子が氷那鞠に一歩歩み寄る。

「あのっ、氷那鞠さんっ」

「はい、真境名さま……」

「今日は……その、わたししか泊まってないんですよね」

「はい、仰る通りです……ここにいらっしゃるのは、真境名さまだけ、です」

「もし、氷那鞠さんがよかったら――あとで、ここへ来てもらえませんか」

後で部屋へ来てほしい。たくさんの迷いを振り切って、温子が氷那鞠へ頼んだのは、夜半にもう一度会いたい、というものだった。氷那鞠は目を丸くして、白さの際立つ頬を微かに朱に染める。

「お仕事あると思いますから、遅くなっても構いません。どんなに遅くても、構わないです」

「ずっと待ってます。ずっとです。わたし、氷那鞠さんともっと話がしたいんです」

掌に力を込めて繰り返す温子。手を取られた氷那鞠の方も、もちろん戸惑ってはいたけれども、決して厭な感情は抱いていない、むしろ温子と話をすることを望んでいるようにも見えた。

「少々遅くなるかと思いますが……ご迷惑では、ないでしょうか」

遠慮しいしい言う氷那鞠に、温子が力強く首を横に振る。

「そんなことないです! わたしが、氷那鞠さんにわがまま言ってるんですから」

真っ直ぐな温子の答えを受けて、氷那鞠の方も吹っ切れたようで。

「……分かりました、ありがとうございます。明日の仕度をしましたら、もう一度、お部屋へ上がらせていただきます」

「真境名さまは久々にお越しいただいたお客様ですし……わたくしも、真境名さまともっとお話をしていたい、そのように思っております」

温子の手を取り返して、「後でもう一度部屋へ来る」――そう約束したのだった。

 

夜も更けて、日もあと一刻ほどで変わろうとしていた。辺りがすっかり深い闇に包み込まれた中にあって、ここ細雪の一〇五号室にだけは、未だ煌々と明かりが灯っていた。

畳に座布団を二つ敷いて、温子と氷那鞠が隣り合って座っている。向かい合って、ではない。できるだけ近くにある方が、つまり隣り合っている方が、より近くに互いを感じられるから――初め、向かい合って座ろうとした氷那鞠を制して、温子がせがんだことだった。温子の言葉を無碍にするような氷那鞠ではない。一も二もなく聞き入れると、そっと互いの肩を寄せ合う形を作った。

共になだらかな肩を寄せ合い、ただそこにあることのみを愉しんでいた温子と氷那鞠だったけれど、やがてそれだけでは物足りなくなってくる。

「……あの」

静寂を破る一声。先に口火を切ったのは、氷那鞠の方だった。

「氷那鞠さん。どうしましたか」

「ひとつ、お願いごとがございます。聞いていただけますでしょうか」

「いいですよ。言ってみてください」

「あの――『温子さん』、そうお呼びしてもよろしいでしょうか」

氷那鞠が温子に頼み込んだこと。それは「温子さん」と呼ばせてほしい、というものだった。丁寧だが他人行儀の「真境名さま」ではなく、親しみを感じられる「温子さん」と呼びたい。それは取りも直さず、氷那鞠が温子に強い親近感を抱いている証拠そのものだった。

「馴れ馴れしいかもしれませんけれど、でも……こんなに良くしていただいたのは、初めてだったんです」

「ですから、もっと親しみを言葉に言い表すことができれば……僭越ながら、そのように考えた次第です」

このような氷那鞠の話を聞いて、温子はとても嬉しく思うと共に、これまで氷那鞠がたくさんの苦労を重ねてきたことが伺えて、胸が詰まりそうな思いだった。自分で良ければ、自分が氷那鞠に寄り添って氷那鞠が救われるのなら、喜んで応えたいという気持ちを抱いた。

「もちろんです。わたしも、氷那鞠さんに名前で呼んでもらえるの、とっても嬉しいですから。とっても」

「あぁ……! ありがとうございます、温子さん」

温子さん、と万感の思いを込めて、氷那鞠が今一度つぶやく。温子を名前で呼べることの、温子が名前で呼ばれることを喜んでくれたことの幸せを、じっくりと噛み締めているかのようだった。

一拍置いてから、氷那鞠が温子の目を見つめる。その温子の目には、氷那鞠の美しい瞳が、澄んだ蒼をした宝石のような両の瞳が、大きく大きく映り込んでいた。

「温子さん。少し、話は変わりますけれども……」

「どうしました?」

「この、わたくしの瞳の色――少し、変わっているとは思いませんか」

「変わっている……ですか? わたしには、綺麗な蒼色に見えますけれども……」

「あぁ……そのように仰っていただけますと、この身に生まれたことを、少しばかり嬉しく思います」

氷那鞠の言葉の意味するところが掴めなくて、温子がキョトンとした顔つきで首を傾げる。

「雪女さんは、みなさん全員、蒼い瞳をされているわけではないのですか……?」

「はい。わたくしが母から聞かされたのは、雪女が皆、わたくしのような蒼い瞳をしているわけではない、とのことでした」

穏やかな口調のまま話を続ける氷那鞠を、温子が片時も目を離すこと無く見つめつづけていると、氷那鞠がふっと口元にやわらかな笑みを浮かべて見せて。

「温子さんは、どこかで『青い目をしたサムライ』――こんな表現を耳にしたことは、ございませんでしょうか」

――『青い目をしたサムライ』。氷那鞠の言葉を受けた温子は、即座にその意味するところを理解した。温子が糸を理解したことを察して、氷那鞠がこくんと頷く。

青い目。それは比喩表現の一つだ。それが具体的には何を比喩しているのか、知らない温子ではなかった。

「わたくしには半分、異国の方の血が流れております」

「氷那鞠(ひなぎく)――またの名を、『Daisy』と申します」

氷那鞠、ひなぎく、雛菊。氷那鞠の名の由来となった「雛菊」には、「Daisy(デイジー)」という英名が存在する。氷那鞠は「氷那鞠」であると同時に、「Daisy」でもあった、ということだ。

「母から、普段は和式の名前を名乗るようにと、幼い頃から言い含められておりました。ですから、普段は決して口にすることはございません。すべて『氷那鞠』で通しております」

「ですが……ですが、温子さんには、わたくしのもう一つの名を明かしたいと、いえ、明かさなければと思ったのです」

「温子さんは、このようなわたくしに興味を持ってくださった……ですから、温子さんにわたくしのすべてをお話ししたい、何もかもを曝け出したい、そう考えた次第でございます」

一息に言い終えた氷那鞠の表情からは、彼女が本気で、本心からすべてを話そうとしているのがありありと伺えた。

温子が氷那鞠の目を見据えて、ごくり、と唾を飲み込む。まさか、氷那鞠に異邦人の血が流れていたなんて――そのように驚く半面、日本人形のような清楚さと、西洋人形のような愛らしさを併せ持つ氷那鞠の容姿を改めて見直すと、彼女の言葉は嘘偽りの無いものだと確信するのだった。

「わたくしの母は――ごく普通の、人間でした」

そこから、氷那鞠の身の上話が始まった。

「わたくしのような物の怪ではなく、それこそ温子さんのような、人間でした」

「細雪を、かつてここで働いていらした皆様と共に切り盛りしていたのですが――」

「そこへ訪れたのが、わたくしの父に当たる方でした。端正な顔立ちの、異邦人とすぐに分かる貌をしていたそうです」

「父は仕事の都合で、細雪に長らく投宿していたとのことです。母によると、一月近くずっと泊まっていたとか」

「やがてある時、母は父と結ばれて――そうして生を授かったのが、わたくしでございます」

細雪を訪れた異邦人。氷那鞠の母親が惹かれたのか、或いは父親が惚れたのか、それともその両方だったのか――今となっては詮なきことだ。いずれにせよ二人は結ばれて、氷那鞠はこの世に生を受けたのだから。

「後に分かったことです。父は見た目ではまるで分かりませんでしたが、『雪男』だったとのことです」

「ここ山辺市に多くの物の怪がいると聞いて、同族の調査に来たのではないかと、わたくしは考えております」

「ゆえに、わたくしのこの冷たい躰は、他ならぬ父から授かったものなのです」

「そして――この西洋人形のような蒼い瞳もまた、父からの授かり物です」

「残念ながら、父は母と結ばれてすぐにどこかへ旅立ってしまったと、母から聞かされました」

「わたくし自身は、父の顔を見たことはありませんが、母が優しい人だった、善い人だったと言っていたのですから、優しかったのでしょう」

「きっと、今もどこかで元気に暮らしている、わたくしはそう信じております」

母を孕ませて、すぐに姿を消してしまった父。けれど母は父を悪く言うことも無く、氷那鞠にも「善い人だった」としきりに口にしていたらしい。氷那鞠の口ぶりからは、尊敬する母が愛した人なのだというあたたかな想いが満ちていて、その中に一抹の寂しさ――娘として、生まれてこの方一度も会えていないという寂しさが、わずかに入り混じっているようだった。

氷那鞠の話は、その母のことへ及んだ。

「わたくしの母は、清楚で凛とした人……皆様そのように仰られていましたし、わたくし自身も強くそう思います」

「そんな母は、女手一つで、わたくしをここまで育ててくれました。今わたくしがここにあるのは、母のおかげです」

「人ならぬ、雪のように氷のように冷たい躰を持つわたくしを、その手で抱きしめてくれたことを今でも憶えています」

「今から八年ほど前――わたくしが七つになった頃から、母が時から仕事の手解きをしてくださいまして」

「少しばかりお仕事を覚えたところで、仲居見習いとして働かせてくれるようになりました」

温子はまじまじと氷那鞠を見つめる。七つの頃から働いていたというのだから、仕事に恙ないのも道理だった。八年間も続けていればこそ身につく仕草なのだと、温子は納得せざるを得なかった。

「いつかわたくしが、この『細雪』を継ぐことになるからと……母が気遣ってくれたのだと思っています」

「けれど、初めのうちはよく粗相をしてしまって、お客様にご迷惑をお掛けしてしまったことも少なくありません」

「そのようなことになると、いつも母に強く叱られたものでした。わたくしは泣くのを堪えながら、母の言葉の一つ一つを強く噛み締めたものです」

「ですから、仕事にかけては誰よりも厳しい人でした。女将という仕事に、強い誇りを持っていたのだと思います」

「けれど、仕事を離れると、誰よりも優しく、わたくしを愛してくれました」

目を閉じて過去を振り返る氷那鞠。まぶたの裏には、かつて母と過ごした日々の光景が蘇っていることだろう。温子は氷那鞠の姿に見惚れると共に、今の氷那鞠の視界には自分の姿は無いことに、微かな嫉妬を覚えるのだった。

「『氷那鞠。今日できなかったことを、いつまでも嘆いていてはいけませんよ』」

「『明日できるようになるために、背筋をしゃんとして、ただ前を向くのです』」

「『安心なさい、氷那鞠。気に病むことはありません。氷那鞠なら、きっとできますからね』

「『なんといっても貴女は、この私の娘なのですから』」

「――母は、いつも言っていました。氷那鞠は、私の娘だと」

「雪女であるわたくしを、『娘』だと……いつも言ってくれていました」

「わたくしは、父と母の娘であることを、誇りに思います」

爽やかな表情でそう口にした氷那鞠だったが、やがてその表情が、少しずつ曇っていく。

幾ばくかの、けれどとても長く思える間を挟んでから、氷那鞠が再びその蕾のような口を開いた。

「これまで働き詰めだったためでしょうか。三年前に母は病に倒れて、そのまま――天に召されました」

「臨終の際に、母はわたくしに『細雪を頼みます』と言付けました」

「支配人に就かせていただいたのは、その時からでございます」

「亡くなった母は、わたくしが皆様の模範となることを望んでいたと思います。それこそ、母自身のように」

「母が斃れるまで、細雪では多くの方が働いてらっしゃいました。皆様それぞれに優れた業をお持ちで、細雪を支えてくださっていました」

「皆様はわたくしを懸命に支えてくださいました。幼く拙いわたくしを、必死に盛り立ててくださったのです」

「わたくしも皆様の期待に沿えるように、及ばずながら、出来得る限りのことはしてきたつもりでした」

母から細雪を継いでからというもの、氷那鞠はそれまで以上に懸命な努力を重ねてきた。その言葉に嘘偽りが無いことは、氷那鞠の見事な仕事ぶりを見ていれば明らかなことだった。

「しかし……残念ながらわたくしには、母のような器量はありませんでした。母には、とても及びませんでした」

けれど、そうして彼女が細雪に尽くしてきた結果を、温子はもう既に知っている。知っているからこそ、氷那鞠の言葉がより深く、心に刺さってくるようだった。

「ただわたくしに力がなかったために、わたくしの器量が足りなかったために、細雪は勢いを失ってしまいました」

「皆様にも生活があります。現実として、生計を立てねばならないのです」

「細雪に愛着を持ってくださっていながら……わたくしは、皆様を繋ぎ止めることができませんでした」

「時が経つにつれ、一人ずつ、この細雪を去って行かれて」

「こうして今も残っているのは、わたくしただ一人となったのです」

細雪に残っているのは氷那鞠一人であるということが、すべてを物語っていた。

そっと肩に寄りかかってきた氷那鞠を、温子が両手で支える。彼女が身にまとっている和装の生地を通して、ほのかな冷たさが指先に伝わってくるのが分かった。そうしていると、氷那鞠が雪女であることを強く実感する。そして同時に、人とは異なる雪女という物の怪であっても、その心は人のそれとなんら変わりないということも。

「温子さんはとてもお優しい方です。ですから……少しだけ、甘えさせてください」

「不甲斐ない話ですが……わたくしに、泣き言を言わせてほしいのです」

瞳を潤ませる氷那鞠を見て、温子は彼女の心に悲しみが去来していることを察した。誰にも打ち明けられなかった悲しみを、氷那鞠は温子に包み隠さず話そうとしている。氷那鞠がこれほどまでに心を許してくれたことを喜ぶと共に、どれほどまでに辛い思いをしてきたのかと思うと、胸を痛めずにはいられなかった。

けれど、次に氷那鞠が発した言葉は、温子にも深く関わることで。

「ある時、人様の街で細雪がどのように言われているかを、詳しく知る機会がありました」

「とても残念なことですが……あまり、よい言い方はされていませんでした」

温子は一瞬何を言われたのか分からなくて、一瞬遠くへ飛んでいた意識が元の場所へ戻ってくると、自分が緊張でひどく身を固くしていることに気が付いた。

なぜなら、温子がここ細雪を訪れた理由は――。

「このような噂を耳にしました。あの旅館には、幽霊が出ると、不気味なことが起こると……」

幽霊を探しにきたからだし、

「また、別の方はこんな風に仰っていました。中は荒れ果てていて、廃墟になってしまっているとか……」

あるいは、廃墟巡りという気分もあったからだ。

自分がどのような理由で細雪を訪れたかを再認識させられて、温子は言葉を失った。ただ身を固くして、自分の行いや考えを後悔する他無かった。自分が考えていたことは自分が一番よく知っている。ゆえに、言い訳などできるはずもなかった。

細雪には幽霊が出る、或いは廃墟になっている。温子はその噂に興味を持って、ここ細雪へ来ることを決めた。――一言で言えば、「怖い物見たさ」でここを訪れた。それが、その風聞が、いかに氷那鞠を苦しめていたことなのかを、温子はまざまざと実感させられた。無防備のまま、真正面から受け止める他無かった。

「おそらく、わたくしが雪女であったことが理由だと思います」

「雪女が温泉宿を経営しているのはおかしいのではないか……そう言われると、返す言葉もございません」

「寒冷な場所に暮らすはずの雪女が、熱い湯で満たされた温泉を護り、あたたかな料理を作ってお出ししているなど……信じられないと言われれば、その通りかも知れません」

「わたくしは雪女です、偽る気は毛頭ございません。けれど、わたくしはわたくしにできる精一杯のことをして、お客様に旅の疲れを癒していただきたい、ただそのようなことばかりを考えておりました」

「誠実におもてなしをしていれば、いつか噂は雲散霧消する……しょせん、甘い考えに過ぎなかったのでしょうか」

「それがどうして……どうして、ここで働いてらっしゃった方やお客様を氷漬けにしているなどと、根も葉もない噂を流されなければならないのでしょうか」

「雪女が、温泉宿で働いていてはいけないというのですか」

氷那鞠の蒼い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、畳に小さな染みを作った。氷那鞠は温子に寄りかかったまま、さめざめと涙を流して泣いていた。

温子が震える手で氷那鞠の手を取って、今一度強く力を込める。

「氷那鞠さん……ごめんなさい。わたし、氷那鞠さんに一つ謝らなきゃ……」

「温子……さん」

「ごめんなさい。わたし、その噂を聞いて、ここへ来たんです。どんな風になってるか、見に来たんです」

氷那鞠は、温子がぽろぽろと涙を流しているのを見て、驚きで目を見開いた。目を真っ赤にして、顔をくしゃくしゃにしながら、温子は何度も何度も、何度も謝っていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。

「ここに幽霊が出るって聞いて、来てみたくなったんです。言い訳なんかしません、本当にそれが理由だったんです」

「もしかしたら、会えるかもしれないって、そう思ったから」

「けど、そんな気持ちでここに来た、それが氷那鞠さんをすごく苦しめてたんだって思うと、胸が詰まって」

「そういう噂が氷那鞠さんを困らせてて、悲しい思いをさせてたんだって思ったら、わたし自分がすごくバカに思えてきて」

「なんで、わたしってこんななんだろう、大事な時にいつも後悔してばっかり、どうしようもない」

「氷那鞠さん、ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、せっかくおもてなししてもらったのに、氷那鞠さんを悲しませて」

「怒っていいから、出て行けって言われたら、今すぐ出ていくから、だから……だから、ごめんなさい、ごめんなさい」

泣きつづける温子に、氷那鞠はしきりに首を横へ振って、そうではない、そうではないと意思表示をして見せた。

「温子さん、泣くのをお止めください。わたくしまで悲しくなってしまいます」

「ありのままの気持ちを話してくださって、とても嬉しく思います。温子さんには温子さんの思いがありますから」

「それに……いかなる理由にせよ、温子さんは細雪までご足労いただいて、そして泊まってくださった」

「わたくしは、温子さんがここを訪れてくださったことを、心から喜んでいますから」

氷那鞠が決して怒ってなどいないと知った温子が、大きくすすり上げてから泣くのを止める。

「氷那鞠さん……ありがとう」

ゆっくり顔を上げてから、温子が両腕を氷那鞠の背中へ回して、ぐっと強く、強く抱きしめた。

「温子さん……」

温子に抱きしめられた氷那鞠は、もう戸惑うこともなかった。温子の抱擁をありのまま受け入れて、そして氷那鞠もまた、温子を抱擁し返した。

「温子さん、わたくしの躰は冷たいでしょう? いつまでもそうしてらしたら、お風邪を召されてしまいます」

「はい、冷たいです。まるで、水で冷やしたスイカを布に包んで、それを抱っこしているみたいです」

雪女である氷那鞠の躰は冷たい。布越しとは言え直接触れているのだから、それは間違いのないことだった。温子も氷那鞠も、人と雪女という種の違いから生じる体温の差は、疑う余地の無いものとして実感し、互いに自覚していた。

「けど……冷たいですけど、あったかいのです」

「あたたかい……ですか」

「そうです、すごくあったかいです。氷那鞠さんの心が――とても、あったかいのです」

「ああ……温子さん」

「温泉もあったかかったです。みぞれ鍋もあったかかったです。これから眠るお布団も、きっとあったかいでしょう」

「けれど、一番あったかいのは……氷那鞠さんの中に満ちている、優しい気持ちだと、わたしは思うのです」

柔らかく頬ずりをする温子に、氷那鞠はくすぐったそうに目を細めて見せる。

その瞼の裏から一筋の涙がこぼれて、温子の指先へ落ちてゆく。

「わたくしは生まれてこの方、同年代の方と共に過ごした記憶がございません」

「周りにいらしたのは、皆様立派な大人の方ばかりでした」

「時折訪れる、子供のお客様の楽しそうなお話を聞いていて、心の奥底で、ずっと羨ましく思っていました」

「わたくしにも、親しく話の出来る方が側にいてほしいと……そのように願っていました」

「ですが見ての通り、ここにはわたくしと近い歳の者は、一人もいません」

「こうして温子さんが細雪を訪れてくださらなければ、わたくしは、ずっと独りのままでした」

「わたくしは――温子さんがこうして親しく話してくれることを、とても、とても嬉しく思っています」

心を通わせられる人が側にいてほしかった。けれど、それはいくら願ってもかなわぬこと。氷那鞠はとても大きな孤独を抱えて、それでも凛と胸を張って、しゃんと背筋を伸ばして、独りで細雪を護ってきた。温子がここへ投宿して、そして氷那鞠に関心を持たねば、ずっと独りのままだっただろう。

温子は、自分にありのままの素顔を見せてくれた氷那鞠のことがたまらなく愛しくなって、細い腕によりいっそうの力を込めて、氷那鞠の躰を自分の胸の中へ埋めさせた。

そうして――温子と氷那鞠は、暫しの間二人抱き合っていたのだった。

 

灯りが落とされて暗くなった客室。夏用に作られた薄手の掛け布団を胸までかぶって、温子が天井をぼんやり見つめている。

温子はできることなら、氷那鞠さんといっしょのお布団で眠りたいと考えていた。別に布団の中で文字通り乳繰りあうとか、そういう意図があったわけではない。単純に、ただ単純に、氷那鞠と共に眠れたら素敵だと思っただけだった。けれど今ここに、氷那鞠の姿は見当たらない。

布団に入る直前、氷那鞠は申し訳なさそうな表情を見せて、こう応えた。

「温子さんは、わたくしと同衾したいと仰ってくださるのですか……」

「けれど……温子さん、申し訳ありません。お気持ちは、とてもありがたいのですが……」

「一晩中わたくしと共にいては、体が冷えて、本当に風邪を召されてしまいます」

「母も、よくわたくしを抱いてひとつの布団で寝かせてくれましたが、しばしば風邪を拗らせてしまっていました」

「せっかく温泉やお料理で温まっていただいたのに、風邪を召されては元も子もありません」

「それに――わたくしは、温子さんに元気でいてもらいたいのです。本当に、申し訳ありません」

雪女である氷那鞠の躰が冷たいのは、知ってのとおりだ。一晩中共に肌を合わせて眠るようなことがあれば、温子と言えど風邪を拗らせかねない。氷那鞠はそれを憂慮して、温子からの誘いの言葉を敢えて断ったのだった。温子も、氷那鞠が自分を慮ってくれているのだということを認識し、名残惜しい気持ちになりながらも、承諾せざるを得なかった。

氷那鞠がいなくなって静けさを取り戻した客室で、温子が一人物思いに耽る。

(氷那鞠さん……本当に、素敵な方です)

(お人形さんのように綺麗で、真面目で丁寧で、すごく大人っぽい人です)

(できれば、もっとたくさんお話をしたかったのですが、氷那鞠さんは、明日もお仕事ですからね)

(けど、独りで全部の仕事をして、一生懸命働かれている……本当に大変だと思います)

(何かできることがあれば、してあげられることがあればよいのですが……)

自分に何かできることは無いか。温子がそのようなことに思いを巡らせていると、ささやかながら、一つ案が浮かんできた。

(そうだ。また別のときに、ここへ泊まりに来ましょう。お客が来れば、氷那鞠さんだって喜ぶはずです)

(お土産もいっぱい買って帰るといいですね。たくさんお金を使っちゃいましょう)

(それに、今度ここへ来るときは――正真正銘、旅行を楽しむために来たいです)

(今度こそは、幽霊がどうとか廃墟がどうとかそういうのは全部抜きにして、まっさらな気持ちでお泊まりしたいです)

再びここへ客として訪れて、そしてたくさんお金を使おう。温子が考えた案はごく単純なものだったが、細雪にとっても氷那鞠にとっても、間違いなくありがたいことだった。

(次に来るときは、お姉ちゃんも一緒に来てもらいましょう)

(それで、お姉ちゃんに氷那鞠さんを紹介するのです。あっちゃんの大切な方です、って)

(お姉ちゃんならきっと、氷那鞠さんと仲良くするのを喜んでくれると思います。いえ、間違いありません)

今回は一人で宿泊したが、次は姉の陽菜も連れてこようとも思った。純粋にいい旅館なので陽菜にも泊まってもらいたいという思いがあったし、何より氷那鞠のことを紹介したかった。願わくは、氷那鞠ともっと仲良くすることを認めてもらえれば――そんな風にして、温子の想いはどんどんふくらんでいく。

あれやこれやと休むこと無く考え、いつまでも胸を高鳴らせていた温子だったが、体の方はさすがにもう疲れ切ってしまっていて、だんだんと考えが覚束なくなってきた。言葉にならない独り言を二、三呟いたかと思うと、温子はついに目を閉じる。

やがて暫くもしないうちに、温子はすやすやと穏やかな寝息を立て始めたのだった。

 

長かった夜が静かに明けて、細雪をやわらかな朝日が包み込む。

「温子さん。昨晩は、どうもありがとうございました」

「こちらこそっす! ヘンな話ですけど、今日これから帰らなきゃいけないのがまだ信じられないっていうか……」

それはとりもなおさず、温子が細雪を出て行くことを意味していた。知っての通り、温子は一泊二日の予定でここへ泊まっていた。本音を言えばせめてあと一日泊まっていたかったのだが、家では姉の陽菜が帰りを待っている。帰らなければ心配するだろうし、何より忙しい姉に家事をすべて任せきりにするのが温子には心苦しかった。

部屋で普段よりずっと豪勢な朝食を食べた後、温子は荷物をまとめてチェックアウトの準備をした。午前中にはここを出て、昼過ぎには家へ帰るという風に陽菜へ伝えていたからだ。服装を整え、荷物をスポーツバッグへぐいぐい押し込むと、温子は部屋を出てロビーへ向かった。

「どうぞ、ゆっくりご覧になっていってください。旅には土産物がつきものですから」

「もちろんっすよー、いーっぱい買って帰るつもりっすからねー。いーっぱい」

朝食を摂っている最中、温子は氷那鞠に「帰る前にお土産を買いたい」と伝えていた。温子が部屋を出る頃には、お土産売り場で既に氷那鞠が待機していて、土産物がきっちり並べられていた。この辺りは本当にしっかりしていると、温子は改めて氷那鞠の真面目さ・勤勉さに感心するのだった。

「ふぇー、いろいろお土産あるんですねー。こんなの初めて見ました。初めて」

「母が企画したものもいくつかあるんですよ。例えば……この『温泉たまごプリン』とか」

「おおー……とろっとろですね、とろっとろ」

あれこれ手に取り、どれを買おうかと迷っている様子の温子。と言っても、どれか一つだけを選び抜いて買おうとしているわけではない。お饅頭(16個入り)や特産の山菜漬け、そしてキーホルダーといった定番どころは既に押さえている。後はお小遣いの許す限り買おうという腹づもりだった。

他にも買えるだけのものを買って、氷那鞠に紙袋へ詰めてもらう。本当はもっともっと買って帰りたかったが、お小遣いがちょっと心細くなってきていたし、何より持って帰るのが大変な量になってしまっていた。

「うーむ。次はキャリーバッグを持ってこなければ。キャリーバッグ」

次はもっと買って買えるぞ、と意気込む温子に、氷那鞠は朗らかに笑いながら、紙袋を整えて差し出すのだった。

荷物もまとめた、お土産も買った。いよいよチェックアウトの時間だ。

「氷那鞠さん……ホントに、どうもありがとうございました!」

「こちらこそ、お越し頂きありがとうございました」

温子さんに少しでも楽しい時間をお過ごし頂けたなら、もうこれ以上幸せなことはございません――そう言いながら、氷那鞠は深々と頭を下げた。温子も呼応するように、負けじと深く頭を垂れる。同時に顔を上げて、互いにちょっと間の抜けたことをしていることに気が付いて、二人して黄色い笑い声を上げた。

「温子さんと出会えて……わたくしは、とても嬉しかったです」

氷那鞠が微かに顔を紅く染めながら、そっと温子の頬に手を伸ばす。氷那鞠の氷のように冷たい手のひらが触れて、温子はくすぐったそうに目を細めた。別れの間際まで、二人のじゃれ合いは続いた。

「氷那鞠さん。次は陽菜お姉ちゃんといっしょに来ます」

「陽菜お姉ちゃんは優しい人です。あっちゃんの尊敬する人です。だから氷那鞠さんのこと、絶対気に入ってくれます」

次に来るときは姉の陽菜も連れてくる。温子はしきりに繰り返した。温子にとって陽菜はまさしく姉であると同時に、両親の代わりに自分を見守ってくれる保護者のような存在でもあった。そんな陽菜に氷那鞠を紹介したいというのは、友達を紹介するというより、それよりもっと親しい間柄の相手を、少しかしこまって紹介したい――そんなニュアンスが見て取れた。

こうして最後まで名残りを惜しみつつ、温子は「細雪」を後にする。

「温子さん――ありがとうございました」

氷那鞠と温子の距離が少しずつ広がっていく。温子は氷那鞠の姿を目に焼き付けたくて、何度も振り返りながら歩いていく。

いくらか歩いて、氷那鞠の姿がずいぶん小さくなった。側にいた時は大きく見えた「細雪」も、今となってはさほど大きな建物のようには見えなくなってしまった。別れというものを強く実感して、温子は言いようの無い侘しい気持ちに見舞われた。ただ半日ほど滞在して、そのうちのせいぜい半分程度の時間しか共に過ごさなかったはずなのに、温子の中で氷那鞠がとても大きな、替え難い存在になっているのだということを実感せざるを得なかった。

バス停まで徒歩で向かうと、バスを二本乗り継いで、最初に鉛丹区へ降り立った無人駅・日牟路駅まで戻ってくる。二十分ほど待ってやってきたほとんど乗客のいない電車へ乗り込むと、温子は隅の座席へ腰を下ろした。

(まるで……夢を見ているみたいでした)

(温泉のある旅館へ行ったら、そこに素敵な雪女さんがいて……たくさんお話をして)

(そして今、電車に乗って帰ろうとしている――)

あたかも淡い夢の中に居たかのよう。ただ手元に残ったお土産の袋だけが、昨日の出来事が夢などではなかったということを実感させる。

目を閉じて、そっと頬に手を触れてみる。まだ微かに冷たさが残っているような気がして、氷那鞠の姿が瞼の裏に浮かぶ。

最寄りの駅に到着するまで、温子はただ氷那鞠のことのみを想うのだった。

 

時の経つのは早いもの。経てば経つほど、早さが増していく。

「受験勉強は、まあラクじゃありませんね、ラクじゃ。ふみゅー」

温子は中学三年生。地元の公立高校へ進学するつもりだったので、当然のごとく受験勉強に追われる立場にあった。今日は英語と数学、明日は国語と英語……大好きな不思議事件の調査もしばらくお休みして、温子は日々勉強に取り組んだ。

そうしている合間にも、もちろん細雪と氷那鞠のことは気になっていた。もう一度行きたいという思いはとても強かったけれど、休日も図書館にこもって勉強に明け暮れる有様だったから、何せ時間が取れない。そもそもまとまった休みが無かったということもあって、気がつくと秋がやってきて、もう秋かー……なんて言っている間に冬と入れ替わろうとしている始末だった。

秋も終わりに差し掛かった頃のある日、温子と陽菜が二人で囲んだ夕飯の席にて。

「あっちゃんが夏休みに行ってきた温泉旅館、私も行ってみたいな。受験が終わったら、二人で行かない?」

「行きます行きます! 絶対行きまっす!」

温子が焼いた茄子をほぐして食べながら、陽菜が「細雪へ行きたい」という話題を口にした。もちろんこれに反応しない温子ではなく、姉の言葉に大喜びして応えるのだった。

夏休みの折、一人で細雪へ宿泊したときのことを、温子は陽菜に向けて事細かに話していた。細雪そのもののことも話していたし、もちろん氷那鞠のことも微に入り細に入り話していた。陽菜はその一つ一つを興味深げに聞いていて、自分もぜひ、細雪へ行ってみたいと言っていたのだった。

「私も春休みは部活休めると思うから、その時に行けるようにしておこうかな」

「そうしましょうそうしましょう! お姉ちゃんもきっと気に入ってくれると思いますからねー!」

「うふふ。旅館もそうだけど、あっちゃんと仲良くなったっていう、氷那鞠ちゃんって子にも会ってみたいね。氷那鞠ちゃんのことを話すときのあっちゃん、女の子の顔してるから」

「お……お姉ちゃん……やはりお姉ちゃんの目はごまかせませんね、お姉ちゃんの目は」

陽菜に自分の想いをきっちり見透かされて、温子は困ったように頭をぽりぽり掻くのが精一杯なのだった。

ただ、姉の陽菜はこうして細雪と氷那鞠に善い印象を持ってくれていたが、近隣を歩いている最中に耳にする細雪の噂は、決してポジティブなものではなかった。

「知ってる? 鉛丹区にある『細雪』って旅館」

「聞いたことあるー。あれでしょ、雪女が経営してるんだって」

「そうそう、そこそこ。雪女ってことはさ、来たお客さん氷漬けにしてたりするんじゃないの?」

「ありそう……絶対ありそう。似たような話聞いたことあるし」

そんなことあるかいっ……と強く反論したくなった温子だったが、ここはぐっと気持ちを抑えた。ほとんどの人が実際に足を運んだことがなくて、実状がどんなものか知らずに想像と思い込みで話しているわけだ。いきなり「そんなことはない」と食ってかかったところで、訝しがられてしまうだけなのが関の山だ。人間の思い込みほど、厄介なものはない。

だからこそ、温子は思う。実際に行ってみれば、どれだけ良い旅館なのか分かるはず。今は自分しか分からなくても、次は姉も一緒に連れていく。その次は友達を誘って行ってもいいだろう。そうすれば少しずつ細雪の本当の姿が知れ渡って、根も葉もない噂は駆逐される。温子はそう信じていた。

細雪へもう一度行きたい。自由な時間が取れないことの歯がゆさも相まって、想いは膨らむ一方だった。

 

冷たい風を吹き荒ばせた冬が去ると、あたたかくおだやかな、春が訪れた。

「いよいよ、いよいよですよー! 待ちに待った『細雪』ですー! 氷那鞠さんもお待ちかねですよー!」

温子はかねてから志望していた高校に無事合格し、後は入学式を待つのみとなっていた。必要な手続きもきちんとすべて済ませている。陽菜も部活の休みに入ったので、このタイミングを逃す手は無いとばかりに、二人で連れ立って春の温泉旅行と洒落込んだわけだ。行く先はもちろん、あの「細雪」だ。

春の陽気は、体をぽかぽかと温めてくれる。温子と陽菜はそれぞれに荷物を提げて、バス停から続く細雪への細い道のりを辿っている最中だった。

「もうすっかり春だね。この間まで、寒いから風邪を引かないようにしようね、って言い合ってたのがウソみたい」

「ホントですねー。春爛漫、うららかな春の午後ってやつですよー! うららかな!」

「うんうん。季節も春だし――あっちゃんにも、氷那鞠ちゃんっていう春が訪れたみたいだしね」

朗らかに笑う陽菜に、温子はこっぱずかしい思いをしながらも、嬉しいという気持ちを隠しきれないのだった。

以前歩いた通りの道を辿ってゆく。あれからおよそ九つの月が過ぎたが、辺りの様子はほとんど変わっていない。木々が季節に合わせて衣替えをしているくらいだ。間違いない、この道を歩いて細雪まで行った。温子の胸がどんどん高鳴っていく。もうあと少しで細雪に、氷那鞠のいる細雪に辿り着く。

「こっちです! こっちで間違いないですっ!」

やがて気持ちを抑えきれなくなって、温子はぱたぱたと音を立てて駆け出した。その後を陽菜が追う。もう既にそれらしき建物は視界に入っている。温子は氷那鞠に会いたい一心で、止まること無く走りつづけた。

久しぶりに力一杯走ったために少し疲れてしまって、門扉まで辿り着くなり、しばし肩で息をしていた温子だったが。

「……あれ」

ここへ来て、いささか様子がおかしいことに気がついた。

旅館の周囲がしんと静まり返っていて、人気が全くない。夏に訪れた折も人気が感じられなかったが、以前とは根本的に何かが違っているように見えた。人気は無いにしろ旅館として機能している印象はあった前回に比べて、今回はそういった雰囲気というか匂いというか、そのようなものが一切感じ取れない。この様な様子であったから、宿泊客や従業員の姿はどこにも見当たらなかった。

なにより、氷那鞠の姿がどこにもなかった。

「氷那鞠さん……」

胸騒ぎを覚えた温子が、再び駆け出した。走って行った先にはガラス戸が見える。細雪の玄関口だ。温子は一度も止まることなく走りつづけて、入り口まで辿り着いた。それから少しばかり遅れて、陽菜も温子まで追いつく。

温子は入り口の前で立ち尽くしていた。目からは光が消えて、呆然としている様子がありありと伺えた。只事ではないと感じた陽菜が温子の隣から一歩前へ出て、固く閉ざされた扉へ目を向ける。

扉には、一枚の貼り紙があった。

「――『閉館のお知らせ』……」

貼り紙の表題は、まさしく陽菜が読み上げた通りのものに他ならなかった。

経緯はこう綴られている。昨夏の終わり頃から資金難のために経営に行き詰まり、再建策を模索しつづけていたが、最終的に昨冬に閉館することが決定された――概ね、このような内容だった。土地と建物の所有権は既に不動産会社へ移動し、会社の清算も開始されている。

ここは、もはや「細雪」ではなかったのだ。

「氷那鞠、さん……」

温子がその場に膝をついた。力なく崩れ落ちると、絞り出すような声で、氷那鞠の名前を呼んだ。

あの時――温子がここを訪れた頃に、細雪は既に手の施しようがない状態まで経営が悪化していたのだ。そもそも従業員が氷那鞠一人という時点で、もはや尋常な状態ではなかった。そのような状況にあっても、館内の手入れが見事に行き届いていたことを思えば、氷那鞠はそれでも細雪を立て直そうと奮闘していたに違いない。

温子が訪れたことを、氷那鞠は心から喜んだことだろう。根拠の無い中傷に晒されて遠のいていく客足をただ手を拱いて見ているしかなかった最中に、理由はどうであれ足を運び、宿泊しにきてくれたのだから。だから氷那鞠は自分にできる最高のおもてなしをした。温子に満足してもらおうと、できうる限りのことをした。

温子という自分と同じ年頃の少女が、この旅館の最後の客になる――そう悟ったに違いなかったから。

「氷那鞠さん、氷那鞠さん……っ」

今にして思えば、温子の「また来る」という言葉に、氷那鞠はただ微笑んで応えるのみだった。「ぜひ来てください」と、そのようには言わなかった。そう言ってしまえば、温子に嘘をつくことになってしまう。おそらく、それだけは避けたかったに違いなかった。深く心を通わせてくれた温子を裏切るようなことは、氷那鞠の心が許さなかったのだろう。

しきりに氷那鞠の名を呼ぶ温子だったが、彼女の姿はもうどこにもなかった。もしかするとどこから不意に顔を出してくれるのではないか、そのような淡い期待は、いつまでも途切れぬ静寂に無残にも打ち砕かれた。さめざめと泣く温子に、沈痛な面持ちをした陽菜がそっと肩を抱きしめる。

「会いたいよ……氷那鞠さん、会いたいよ……!」

「どこにいるんですか……どこへ行ったんですか……氷那鞠さん、氷那鞠さん……!」

温子の声が、かつて「細雪」だったこの場所に、虚しく響き渡る。

氷那鞠と初めて出会ったときのこと、部屋へ案内してもらったときのこと、浴場で背中を流してもらったときのこと、夕飯に自慢のみぞれ鍋を振る舞ってもらったこと、夜遅くまで共に語り合ったこと、別れの間際まで戯れあっていたこと――温子が細雪に投宿していた一泊二日のわずかな時間、その間に心へ刻まれた、氷那鞠との美しい思い出。それらはもはや、解かされた雪のように形を失ってしまった。

 

暖かな春の陽気に包まれた――淡いみぞれ雪のように。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。