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鬼ごっこ

灰色の空の下で、年端もいかぬ子供らが数人、声を上げて走り回っていた。

「ほらほら逃げてみなぁ、あたいがみんなとっ捕まえてやるかんね」

子供らの中でも一際目立つのが、臙脂色のジャージを身に着けたリーダー格とおぼしき少女だった。上にはゼッケンの付いていない体操着を着ていて、布地には深く染み込んで洗っても拭えぬほどの泥汚れがいくつもあった。ジャージの上着を腰に括り付けている辺りが、外観から受ける彼女に対するお転婆・腕白という印象をさらに強いものにしている。

しきりに八重歯を見せて笑いながら、他の子供らを追いかけ回して遊んでいる。捕まえては駐車場の隅にある植え込みに作った自分の「陣地」まで引っ張っていき、虜囚の数を増やしていく。ジャージの少女はそれだけでも十分に目立っていたが、彼女を目にした者ならもっと目を引かれるものが頭の天辺に付いていることを、今ここで記しておかなければなるまい。

「鬼さんこーちら、てのなーるほーうへ!」

「言われんでも行ってやるよ。なんつってもあたいは、鬼なんだから!」

「いけねえ、兎沙瑞鬼<とさみずき>に捕まったら喰われちまうぞ、逃げろ逃げろ!」

少女は――兎沙瑞鬼は、頭に二本の角を生やした<鬼>であった。

兎沙瑞鬼は正真正銘の、紛れもない、押しも押されぬ鬼であったが、頭に生えた角以外に、辺りをいっしょになって走り回る人間の子供との違いを見出すことは難しかった。出来なかったと言った方がより適切である。頭に角が在ることを除けば、兎沙瑞鬼は背丈も顔立ちも人間そのものであり、実際のところ彼女は煩わしがってまず被りたがらないだろうが、仮に帽子を被ってしまえば、常人に区別を付けることは不可能だった。

老朽化して方々に罅や錆の入ったアパートメント。林立するそれらの合間合間にある小路を遊び場にして、兎沙瑞鬼と子供らは縦横無尽に走り回っている。兎沙瑞鬼は女子ながら男子顔負けの速駆けを見せ、逃げ惑う子供らをみるみるうちに捕まえていく。子供らも外遊びを通して編み出した抜け道や物陰を駆使して兎沙瑞鬼から逃れようとするので、彼女が鬼となった鬼ごっこはいつも大変白熱した。鬼ごっこは追い掛ける方が強くなければ面白くならないものであり、俊足にして文字通りの鬼たる兎沙瑞鬼は、まさしく適役の敵役であった。

「ほーら捕まえたあ。あんたで最後だかんね」

「ちぇっ、逃げきれると思ったのになあ。やっぱ兎沙瑞鬼は速ぇや」

「そりゃそうよ。なんたって、あたいは鬼なんだ。人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす。それが鬼の生き様ってやつだかんね」

啖呵を切ってえっへん、と得意気に胸を反らす兎沙瑞鬼を、子供らは無邪気に笑って見つめていた。しばし間を置いてから、さあさあ、もういっぺんやるぞと兎沙瑞鬼が意気揚々と声を上げて、それを合図に子供らが蜘蛛の子を散らすようにわーっと走り去っていった。

「逃げろや逃げろお。どこまで行っても、あたいが必ずとっ捕まえてやるさあ」

余裕の面持ちで二度三度とその場で屈伸してから、鬼は逃げていった子供らを追って走り始めた。

 

たぶん、なぜ兎沙瑞鬼のような鬼が人のような暮らしをしていて、子供らが鬼たる兎沙瑞鬼を畏怖しないのかといった、しごく当然の疑問が浮かんでいると思料する。ゆえにここで少し、兎沙瑞鬼を取り巻く環境について述べることにする。

彼女が住んでいるのは、某県にある「山辺(やまのべ)市」という山あいの小さな都市である。ここ山辺市には、「鬼」である兎沙瑞鬼のような「物の怪」が多数暮らしている。それを除けば、山辺市はただの辺鄙な街に過ぎない。これといった特産もなく、観光資源が豊富なわけでもない。物の怪が住み、それに伴う文化や風習が形成されていることを除いてしまえば、山辺市に残るものはごく少ない。

物の怪の多くは人のそれと似た暮らしをしていて、兎沙瑞鬼と人間の子供らが遊んでいるのを見れば分かる通り、地域や人間社会にさも当たり前のように溶け込んでいることも少なくない。ただこれは地域によっていささか様相が異なっていて、例えば物の怪を恐れ敬うような処もあれば、逆に物の怪を牛馬のように用いているような処もある。或いはもっと複雑な間柄となっている処も少なくない。取り敢えず、物の怪と人との関係性は、地域の風習や考え方によって大きく左右されることだけは確かである。

先ほど兎沙瑞鬼は山辺市で暮らしていると書いたばかりだが、これは大雑把に過ぎる書き方であり、もう少しきちんとした形に書き直したい。兎沙瑞鬼がいるのは、正確には山辺市の町の一つである「群青(ぐんじょう)町」である。

群青町の最大の特徴は人の多さである。山辺市に数ある町の中でも抜きん出て人口密度が高く、高層住宅が文字通り林の如く所狭しと立ち並んでいる。人が多いということは子供の数もまた多く、とある小学校に至っては過疎地とは逆の理由、即ち収容すべき児童の数の多さ故に本校・分校に分けられている程だ。そうして尚、学年毎に一組から十組まで教室を用意せねばならぬほどの人数であり、過密という言葉がとてもよく似合っている。

山辺市は群青町、そこにある大きな団地の一室に、兎沙瑞鬼の住処は在った。これは通常の団地ではなく、兎沙瑞鬼の母親が働いている工場(こうば)を経営する会社が保有する社宅となっている。兎沙瑞鬼はここで母親と二人で慎ましく暮らしながら、同じく社宅住まいの子供らと肩を並べて遊んでいるわけである。

兎沙瑞鬼自身のことも記しておこう。先の通り母親と二人暮らしの子鬼であり、平時は上下ジャージで方々を元気に走り回っている、どちらかというと男子のような気質を持った女子である。怖いもの知らずにして好奇心旺盛な如何にも年頃の子供らしい性格であり、鬼らしい処と言えば角を生やしていることと、日頃から「鬼は人を喰う」という意味合いの言葉を口にしていることくらいしか挙げられない。鬼ごっこの最中に諳んじた「人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす」という一節のようなものだ。字面だけ見れば鬼らしく、人にとっては物騒極まりないと言える。

しかしながら実際のところ、兎沙瑞鬼は母親から聞かされたことを気に入って復唱しているに過ぎず、本気で人を取って喰おうなどとは毛ほども考えていないし、そもそも言っていることが惨たらしいということもよく分かっていない。砕けた言い方をするなら、何となく格好良いから使っているに過ぎない。だいたい兎沙瑞鬼にしてみれば、生臭い人なんぞよりも、月に一度母親が給料を貰う日に食べさせてもらう、駅前の古ぼけた喫茶店が供する甘いバニラアイスチョコレートパフェの方がよほど贅沢なごちそうだったのである。

普段からジャージばかりで着る者に頓着せず、月一のちょっとした甘味が最大のごちそうと聞いて察しが付いた方もいると思うが、兎沙瑞鬼の家はそれほど裕福ではない。蛇口を捻れば水は出るしコンロを回せば瓦斯も使える故に、絵に描いたような窮乏生活を強いられているというわけでは無かったが、さりとて無駄遣いができるほどの蓄えがあるわけでもなかった。社宅住まいなのも、家賃の安さが最大にして決定的な理由なのは論をまたない。

決して恵まれているとは言えない環境ではあったが、しかし兎沙瑞鬼はそうした境遇を微塵も苦にせず、今に至るまでまっすぐのびのびと育ってきた。人の子らに混じって遊びながら、兎沙瑞鬼は自身が「鬼」であることに、子供ながら誇りを持って生きてきたわけである。

 

とっぷり日も暮れて鬼ごっこもお開きとなり、兎沙瑞鬼は自分の家がある「G棟」まで帰ってきた。ポケットに突っ込んでいた巾着袋を引っ張り出すと、中に仕舞ってあった小さな鍵で家の扉を思い切り開いて中へ駆け込んだ。

気休め程度に洗い場で手を洗うと、電気も点けずに茶の間で寝転ぶ。投げ出してあった古い漫画本を掴むと、適当にページをめくって読み始めた。部屋は暗くろくに光源もなかったが、兎沙瑞鬼はまるで気にする様子は無かった。山辺市に住む鬼は総じて視力がずば抜けて高く、人では視界を確保できないほどの暗闇でも平時と変わらずものを視ることができた。それはまだまだ子供の兎沙瑞鬼とて、何ら変わりは無かったのである。

「お母ちゃんまだかなあ。あたいお腹空いちゃったあ」

両足を忙しなくパタパタさせながら、兎沙瑞鬼がぼそりと呟く。母親が戻ってくるのはいつも六時半頃。仕事を定時で終わって、それから職場の清掃と買い物をしてから帰宅するのが常だった。買い物に使うのは決まって社宅からは歩いて五分ほどのところにある小さな食品スーパーで、兎沙瑞鬼もしばしば母親に頼まれてお使いに行っている。今日も恐らくそこで食べ物を買ってくるのだろうと、兎沙瑞鬼は踏んでいた。

ふんふんふーん、と調子外れな鼻歌を歌いつつ、兎沙瑞鬼は何べんも読み返してとっくに展開を覚えた少女マンガを読んで時間を潰す。去年に社宅で催された夏祭りで、F棟の住人が文字通りの捨て値で売っていた古本を買い取ったものだ。続き物の三巻からで、登場人物の関係やここまでの流れはさっぱり分からなかったが、兎沙瑞鬼にしてみれば貴重な漫画であった故、内容は分からずとも絵を見て楽しんでいた。男女の惚れたはれたの話のようだが、男子など字面通りの遊び相手としか識らない今の兎沙瑞鬼にしてみれば、この姉ちゃんは何を悩んでるのやらといった心境だった。

もう少しで巻末に至るというところで、玄関の鉄扉に鍵を差し込むガチャリという音が聞こえた。あっ、お母ちゃんだ――兎沙瑞鬼はすぐさま漫画を放り出すと、玄関までドタドタと駆けて行った。

「お母ちゃん! おかえり!」

「ああ、ただいま、兎沙瑞鬼。遅くなっちゃってごめんね」

「ううん、いいのいいの。それよりあたいもうお腹ぺこぺこ。お腹と背中がくっついちゃいそうだよ」

帰ってきた母親を出迎えると、兎沙瑞鬼は八重歯を見せてぱあっと朗らかな笑みを浮かべた。

母親の名前を刃那瑞鬼(はなみずき)という。兎沙瑞鬼と同じく鬼であり、やはり頭の天辺に二本の角を生やしていることくらいしか、外見で鬼と解るものはない。おまけに刃那瑞鬼は髪をよく伸ばしていて、それが角をほとんど覆ってしまうために尚更人と見分けが付け辛かった。兎沙瑞鬼共々並んでいても、遠目に見ればただの親子連れにしか見えなかった。

この家にあって刃那瑞鬼は兎沙瑞鬼との二人暮らしであり、連れ合い、即ち兎沙瑞鬼の父親の姿は見当たらない。彼女が物心ついた頃からこうであったために、兎沙瑞鬼は父親の顔も名前も知らずにいる。友達である人の子らから、やれお父ちゃんに遊園地へ連れて行ってもらっただの、やれパパといっしょに野球をしただのと聞く度に少しばかり羨ましくは思ったが、それは父親への思慕というより、単純に皆が楽しそうにしているのを羨ましく思っただけに過ぎなかった。そもそも父親とはどんなものなのか、兎沙瑞鬼にはそれが根本的によく解っていなかった。

「すぐご飯にしましょうね。台所の電気点けてちょうだい」

「はぁーい。お母ちゃん、今日のお献立なぁに?」

「チキン南蛮とれんこんのピリ辛炒めにしたわ。出る前にご飯も仕掛けたから、もうすぐ炊けるはずね。それとね、ちょっと奮発して、お酒とおつまみも買ってきたのよ」

「本当!? 今日は何買ってきたの?」

「兎沙瑞鬼にはトリスを、お母さんはいいちこにしたわ。おつまみはいつもの牛鬼ジャーキーよ。ご飯の後に、いっしょに飲みましょうね」

兎沙瑞鬼は子供であるが、鬼でもある。古今東西鬼は酒好きなものだとされているが、兎沙瑞鬼もそれに違わず大の酒好きだった。鬼は根本的には人と異なる生き物であるため、躰が未成熟な彼女が飲酒してもなんら問題は無かったし、法条の類で罰せられることもなかった。乳離れする頃には刃那瑞鬼から酒の味を教わり、今ではすっかり母親顔負けの酒飲みへ成長した次第である。たいがいの酒は喜んで飲むが、特にウィスキーを、殊にトリスウィスキーを一際好んでいる。肴として買ってきた「牛鬼ジャーキー」は山辺市内でのみ売られている珍味であり、その名の通り牛鬼の肉を燻製したものである。ここ群青町ではなく別の町で生産され、山辺市内の小売店で普通に売られている。

炊き上がったばかりの米飯を小ぶりなお茶椀にそれぞれよそい、買ってきた惣菜の封をラップを剥がしてちゃぶ台に並べる。冷蔵庫から水代わりの冷えた麦茶の入ったプラスティックのボトルを取り出して隅へ置けば、すっかり準備は完了と相成る。兎沙瑞鬼と刃那瑞鬼、母娘ふたり身を寄せ合って、共に手を合わせていただきます。

「ごめんね、兎沙瑞鬼。早く帰ってこれたらお母さんが料理したげるんだけど、今日は出来合いので我慢してちょうだい」

「いいよ別に、お母ちゃん忙しいし。それにあたい、この鶏のおかず好き」

「兎沙瑞鬼は何でもよく食べてくれて、お母さんはうれしいわ。好き嫌いしない子は、立派な鬼になれるのよ」

「えっ! あたい、立派な鬼になれるの!?」

口元にご飯粒をくっつけながら、兎沙瑞鬼が大きな声で言う。お声が大きいわよ、お隣さんに聞こえちゃうわ。刃那瑞鬼に優しくそう諭されて、兎沙瑞鬼はちょっとだけ声量を落とした。

「兎沙瑞鬼はね、お母さんが子供だった頃にそっくりよ。あちこち走り回って、元気のいい子だってよく言われたわ」

「じゃあ、あたいもお母ちゃんみたいになれるってこと?」

「きっとなれるわ。兎沙瑞鬼なら、お母さんよりも出世して、人様に怖がられる鬼になれるかも知れないわね」

刃那瑞鬼は、一人娘の兎沙瑞鬼を心から愛していた。鬼は冷酷で酷薄で残虐で粗暴、かようなイメージを持って捉えられることが殆どであったが、子を愛し育むところなどは人間と何ら変わりは無かった。これは群青町に住まう鬼が人の暮らしにすっかり染まっていることももちろん一つの要因として在ったが、刃那瑞鬼はそうしたこととはほとんど関係なく、只々純粋に娘の兎沙瑞鬼を愛していたのだった。

「あたい、いつかすっごい鬼になって、お母ちゃんにお酒うんと飲ませてあげるんだかんね」

「まあ、楽しみだわ。お母さんも、それまでしっかり長生きしなきゃね」

忙しい合間を縫って自分に惜しみなく愛情を注いでくれることをしっかり実感できていたので、兎沙瑞鬼も刃那瑞鬼のことをよく慕っていた。裕福でなくとも、留守番をする機会が多くとも、顔を合わせる時間になればこうしてたっぷり可愛がってくれると解っていたから、兎沙瑞鬼は拗ねることなくまっすぐ育つことができたのである。

夕飯を早々に食べ終えると、兎沙瑞鬼は待ちかねたように牛鬼ジャーキーの封を切る。ついでに自分のトリスウィスキーの蓋を勢いよくこじ開け、ちゃぶ台の上にどんと置く。刃那瑞鬼は娘の様子を微笑ましげに眺めながら、氷を詰めた小さなグラスにいいちこを静かに注ぐ。兎沙瑞鬼が無邪気に「かんぱーい」と音頭をとると、母娘二人のささやかな酒盛りが始まった。

ぐいぐいと二口ほどウィスキーを胃の腑へ送って、兎沙瑞鬼はぷはっ、と爽快な表情を見せた。口元を腕でごしごし拭って、頬をにんまり緩めている。これはもう、見るからに幸せそうな顔つきである。ジャーキーを齧りながら、母は娘が酒を飲む姿に目を細めている。

「お母ちゃん、今日もお勤めお疲れさま。あたい一日いい子にしてたよ」

「ありがとうね、兎沙瑞鬼。本当は、もうちょっと家にいてあげたいんだけど」

「いいのいいの! みんなあたいと目いっぱい遊んでくれるから、全然退屈じゃないしね」

「本当によかったわ。最近忙しくなって残業が増えたから、どうしても遅くなっちゃって」

「ふうん、そうなんだあ。そういやお母ちゃん、あの工場で何してんの?」

刃那瑞鬼は、この社宅のすぐ裏手に在る幾つかの施設から成る大きな大きな「工場」で働いている。いつも紅白の煙突から白い煙をもうもうと上げて、日がな一日機械の稼働音を鳴らし続けている工場は、社宅とは切っても切り離せない存在だった。というのも、社宅住まいの社員ほぼ全員が、あの工場で何らかの職に就いているからである。

兎沙瑞鬼が思うに――工場というからには何かを生産していることは間違いなかろうが、何を作っているのかはよく分からなかった。刃那瑞鬼が仕事の話をしたので、そう言えばとばかりに訊ねた次第である。娘から工場について訊かれた刃那瑞鬼はグラスを手にしたまましばし考えて、それからこう答えた。

「お母さんは、製造ラインに入ってお仕事してるけど、何を作ってるのかは分からないの」

「あれ、そうなんだあ。えらい人は教えてくんないの?」

「訊けば教えてくれるかもしれないわ。けれど、いろいろなものを作ってるみたいで、ちょくちょく仕事が変わるの」

「へえ、そんな塩梅なんだ。お母ちゃん大変だねえ」

あの工場で何を作っているか、正直なところ兎沙瑞鬼はそれについてさして興味があったわけではないので、刃那瑞鬼の答えも特に思うところはなく、言葉通りいろいろなものを生産しているのだろう、程度にしか考えなかった。思い返してみると、前に一度社宅に住んでいる人の子らに同じように訊いてみたのだが、皆一様に「分からん」「知らん」としか言わず、誰も工場で作っているものを知らなかった、ということがあった。やはり誰も知らぬようだ。

さてさて、そんな瑣末なことは酒を呷っているうちにさっぱり忘れて、兎沙瑞鬼は一時間もしないうちにボトルを空けてしまった。いい飲みっぷりだと褒めた刃那瑞鬼からいいちこも分けてもらって、さらにぐいぐい押し込む。母娘揃って買ってきた酒を飲み干す頃には、兎沙瑞鬼はすっかり出来上がってしまっていた。

「あたいここで寝ゆう、お母ちゃんといっしょに寝ゆう」

「はいはい、こっちへいらっしゃい。今日はお母さんといっしょに寝ましょうね」

「お母ちゃん、お母ちゃん。ねんねして、ねんね」

甘えた声を上げてすり寄る兎沙瑞鬼を抱いて、刃那瑞鬼は膝枕をしてやった。兎沙瑞鬼の方はすっかり夢見心地で、お母ちゃん、お母ちゃん、と繰り返すばかり。兎沙瑞鬼は刃那瑞鬼と共にいることのできない時間が長い分、こうして同じ場所にいるときは目一杯甘えるのが常だった。そして刃那瑞鬼の方はというと、娘を遠慮なく思い切り甘えさせてやり、好きなようにさせてやることで応えていたのである。

「あのね、あのね、お母ちゃん、あのね」

「うん、うん。どうしたの、兎沙瑞鬼」

「あたいね、立派な鬼になゆの。お母ちゃんみたいな、すっごい鬼になゆの」

「ええ。兎沙瑞鬼なら、きっと立派な鬼になれるわ。お母さんは信じてるもの」

「お母ちゃんお母ちゃん、あれ聞かして、かっこいいの聞かして」

「いいわよ。『人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす。これが鬼の生き様だ』。これでしょ?」

「それ、それ。あたいなゆ、じぇったい、お母ちゃんみたいな、立派な鬼になゆかんね」

「うふふ。お母さん、今から楽しみだわ」

しばし刃那瑞鬼の膝の上でよじよじと身をよじっていた兎沙瑞鬼だったが、やがて眠気に誘われたのか、刃那瑞鬼に抱かれたままくうくうと安らかな寝息を立て始めた。幸せそうに眠る娘の顔を、刃那瑞鬼は満足げに見つめている。

「ああ、兎沙瑞鬼。あなたは、あなたはお母さんの一番の宝よ」

「立派な鬼に――お母さんよりも、うんと立派な鬼になって」

「いつか、お母さんたちに、鬼ヶ原を見せてちょうだい」

刃那瑞鬼はそう呟くと、押入れから布団を出してきてサッと敷き、兎沙瑞鬼といっしょに横になって眠り始めたのだった。

 

それから数日経って迎えた、ある晴れの日のこと。

「今日はお花見だい。公園でお花見するんだい」

いつも通り上下共にジャージ姿の兎沙瑞鬼が、歩道を文字通り大手を振って悠々と歩いている。口にした独り言に違わず、彼女はこれから花見に出掛ける腹づもりであった。住処である社宅から十分ほど歩いたところにとても大きな公園があり、春になると辺りに植えられたソメイヨシノが一斉に花を咲かせるのだ。お転婆で腕白な兎沙瑞鬼でも、桜の美しさくらいはちゃんと理解できた。ゆえに、見頃を過ぎて散ってしまう前に見物に出掛けようと思った次第である。

本日は晴天なり。うららかな春の陽気に包まれて、体まで軽くなったような心地である。兎沙瑞鬼は上機嫌だった。雨の日よりも晴れの日の方が断然好きで、家に篭もることを良しとしない彼女にとっては、この天候はまさしく僥倖であった。

「お母ちゃんがお勤めお休みだったら、いっしょにお花見できたのになあ」

ひとつ残念なところがあるとすると、刃那瑞鬼は仕事で花見に来られないということだった。できるなら刃那瑞鬼にお弁当を作ってもらって、外で花見をしながら食べたかった。去年はこの時期うまい具合に休みが入って、刃那瑞鬼とふたりで楽しい時間を過ごせただけに、兎沙瑞鬼にとっては残念この上なかった。もう少し自由にお休みが取れればいいのにと、残念に思わずにはいられない。

目的地まではまだいささか距離があった。兎沙瑞鬼が暇つぶしがてらあれこれ考えを巡らせていると、この間刃那瑞鬼が夕飯の席で口にしたちょっとした嘆きを思い出すに至った。

(思い出した。芝川っておっちゃんが来て、お母ちゃんたちにもっと働けとか言ったんだっけ)

刃那瑞鬼の嘆きとは、こんな具合である。

数日前のことだ。工場で働いていた最中にいきなり本社から重役がやってきて、製造ラインの見学をしていったそうな。その後に社員を集めて、やれもっと生産性を上げろだの、やれもっとカイゼンを重ねろだのと、あれこれ注文を付けて帰っていったらしい。社員にしてみれば突然やってきて聞きたくもない的外れなお小言を長々と聞かされるわけで、厄介なことこの上ないものだった。刃那瑞鬼も例に漏れず辟易していて、どうにかして欲しいとこぼしていたのである。こうした会社の重役は人間がほとんどを占めていて、本社機構には鬼はほとんどいないらしい。

刃那瑞鬼からこの話を聞いた兎沙瑞鬼は、大いに憤慨して見せた。

「なんだい、いっつもエアコン効いたとこでぐうたらしてるだけのくせに。あたいのお母ちゃんは鬼だぞ、馬鹿にしてたらとって食ってやるんだかんね」

大好きな母親に難癖を付けるとは、人の分際で何様のつもりか。兎沙瑞鬼は腕をぶんぶん振るって、有り余る力を持て余していた。

兎沙瑞鬼には仲のいい人の友達が大勢いたし、ご近所は皆気のいい人ばかり。そのため兎沙瑞鬼の人に対する感情は総じて好いものだったが、同時に鬼として人には腕っ節や脚力で負ける気はしなかった。ゆえに、大した力も持たぬ人に顎で使われるのは、鬼としての矜持が許さなかったのである。繰り返すが、兎沙瑞鬼は別に人を軽んじていたり蔑んでいたりするわけではない。ただ、これといった理屈もなく偉そうにされるのが、たまらなく厭なのだ。

「もう。あたいが大の大人だったら、とっ捕まえてぶん殴ってやるのに」

ぷんすかと肩をいからせながらも公園へ向かってのしのし歩き続け、さあもうすぐ到着――兎沙瑞鬼が立ち止まったのは、そのようなことを考えていた折のことだった。

自分と同じくらいの年頃に見える女子が、きょろきょろと頻りに周囲を見回しているではないか。

彼女の仕草を窺えば、行きたい場所が有るが向かうべき方向が分からず迷っているのは一目瞭然だった。刃那瑞鬼からは、道に迷っていそうな人がいたら遠慮せずに声を掛けなさいとたびたび教えられていた。兎沙瑞鬼はすぐさま走り出すと、少女の元まで駆けつけた。

「おおい、道に迷ったかあ」

「えっ……?」

兎沙瑞鬼が声を張り上げると、少女はいささかのんびりした調子で振り向いた。少し丸みのある、よく熟れたりんごのようなほほをしているのが窺える。円らな瞳を大きく広げて、駆け寄ってきた兎沙瑞鬼をまじまじと見つめていた。

「えっと、そうみたい」

「そっかそっかあ。そりゃ難儀だ。じゃ、あたいが連れてってやるかんね。どこ行くの?」

「うーんと……あっ」

「なんだい目ぇ開けて、あたいの顔に何か付いてるかい」

ぽややんとした、あたかも白昼夢でも見ているかのような目つきで、少女は兎沙瑞鬼にこんな言葉を差し出した。

「あの、もしかして……」

「……あなた、鬼さん?」

声を掛けてきた女子、すなわち兎沙瑞鬼が鬼だということに気が付いたようで、小首を傾げながら訊ねてきたのである。「鬼さん?」と訊ねた声色からは、別に「怖い」とか「恐ろしい」とか「驚いた」とか、そういった感情は欠片も感じ取れない。ただ単に、兎沙瑞鬼が鬼に見えたから「鬼さん?」と確認するように口にしたに過ぎなかったのが、思慮深いとは言えない兎沙瑞鬼にもはっきり分かった。

「おうとも。あたいは鬼だかんね。このお天道様に向かって生えた角が何よりの証拠だい」

「わあ、本当に、鬼さんなんだ」

「本物も本物、生まれついての鬼さんだい。人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を骨まで喰らい尽くす。これが鬼の生き様だかんね」

「まあ、おそろしい」

大きく胸を張って「自分は鬼だ」と宣言し、例によって鬼の生き様の下りを語る。それを目の前で聞かされた少女は、実に、実にあっけらかんとした調子で「おそろしい」と宣った。言うまでもなく、本気で怖がっていたり怯えていたりするようなものではない。そうだとしたら、幾ら何でも余りに間が抜けている。それでも兎沙瑞鬼は得意になって、ふふんと小さく鼻を鳴らして見せた。

「どんなもんだい。恐れ入ったかあ」

「びっくりした。本当に、鬼さんだったなんて」

「はっはあ。あたいは兎沙瑞鬼ってんだ。あんた、名前なんていうんだい」

「お名前? えっと、桃恵(ももえ)だよ。木になる桃に、恵みって書くの」

この少女、名前を「桃恵」というらしい。ご丁寧に漢字まで教えてくれたが、生憎兎沙瑞鬼には少々ピンとこなかった。何分自分の名前も満足に漢字で書けぬほどで、お世辞にも学があるとは言えないのが実情であった。ただ、「木になる桃」と聞いて、刃那瑞鬼がしばしば買ってきていっしょに食べている、あの汁気たっぷりの甘い果物のことだと見当を付けることはできた。

それはともかく名前を交換しあったことにより、兎沙瑞鬼と桃恵は完全に見ず知らずの他人同士から互いに一歩ずつ進むことができたわけだ。

「桃恵っていうんだ。よし、あたい覚えたよ。よろしくだかんね、桃恵」

「うん。桃恵の方こそ、よろしくね。えっと、兎沙瑞鬼、さん」

桃恵のおっとりした口調を、兎沙瑞鬼はなかなか愛らしいと感じた。ちゃきちゃきで喧嘩っ早い元気娘である兎沙瑞鬼だったが、こんな風にのんびりした感じの子供は決して嫌いではない。こう見えて意外と面倒見は良いのである。桃恵のようなおっとり娘が相手の場合、自分が率先して引っ張ってやろうという、ちょっとした姉御気取りで接するのが常であった。

さて。ここで兎沙瑞鬼は今一度姿勢を正して、眼前にいる桃恵をじっくり眺め回し始めた。どんな塩梅の娘か、姉貴分としてしっかり掴んでおきたいがためである。

先ほどまで終ぞ気付かなかったが、この桃恵という少女、よく見ると結構可愛らしい顔立ちをしている。頬の赤みはりんごのよう、肌の瑞々しさは桃のよう。触れればしっとりとした触感がありそうで、穢れというものがひとつも見当たらない。育ちの良さがありありと伝わってくる。少なくとも、この辺りで見かける普通の人の子とは明らかに趣が違う。

そもそも、着ている服からしてまるきり違っていた。着古した臙脂色のジャージに体操服、髪はまどろっこしいとばかりにばっさり切り落としたショートカットという出で立ちの兎沙瑞鬼。それに対して桃恵の方は、レースをふんだんにあしらった桜色のふんわりした印象を受けるワンピースを身に着けていて、長い髪は丁寧に編まれて艶々とした光沢を放っている。派手で目立つものではないが、これまた同じく育ちのよさを感じさせる風貌であった。

そうやって、兎沙瑞鬼が桃恵を眺めていた折のこと。

(なんだろう……なんか、桃恵を見てると、どきどきする)

とくん、とくんと、まるで早鐘を打つような鼓動に気が付いて、兎沙瑞鬼が思わず胸に手を当てる。紛れもなく自分自身の心臓が齎しているものだと認識して、改めて目を瞠る。どうしてだろう、心の中で小首を傾げる。戸惑っているわけではない、ただ、不思議だった。なぜ、桃恵をじいっと見つめていると、こんなにも鼓動が早くなるのだろう。不思議で不思議で、仕方がなかった。

「あの、兎沙瑞鬼さん」

「え……あっ、ん? どうしたんだい」

「えっと、この近くで、きれいな桜が見られるって聞いたんだけど……どこに、あるのかな?」

桜。その言葉を耳にした兎沙瑞鬼は、己れもこれから花見へ出掛けようとしていたことを、今頃になって思い出した。どうやら桃恵も花見をするために、この辺りまでやってきたらしい。

「なんだい、桃恵は桜の花が見たいのか。じゃあ――」

「わっ……」

兎沙瑞鬼が桃恵の手をむんずと取る。桃恵は小さく声を上げて、きょとんとした表情を見せた。唐突に兎沙瑞鬼が手を取ってきたものだから、どうしたのかと事情がうまく飲み込めていないようだった。

「ははっ、捕まえたあ。あたいがこれからいいとこに連れてってやるかんね」

「兎沙瑞鬼さん。ご案内、してくれるの?」

「おうとも。あたいもちょうどこれから花見に行こうとしてたんだ」

どうせ花見をするなら、人数は多い方がいい。だいたい、ひとりで静かに花見なんて、己れの性に合わないではないか。そうと決まれば話は早い。兎沙瑞鬼は桃恵をぐいぐい引っ張って、もう少し行った先にある公園まで駆けていく。引っ張られている桃恵は時折よろけそうになりながら、しかし少しも厭な顔をせず、兎沙瑞鬼に連れていかれるがままにされていた。

何処かで散った桜の花びら。さわやかな春の風に乗って、ふたりの間をふわりふわり。兎沙瑞鬼と桃恵を誘うように、ひらひらと遊ぶように飛んでゆく。

 

川沿いの公園では、等しい間隔を空けて植えられたソメイヨシノが、競い合うように満開の花を咲かせていた。

「ここだここ。この辺りで桜が見れるって言ったら、ぜったいここしか無いかんね」

「わあ、きれい……!」

「あたいのお母ちゃんが働いてる工場の会社が、ここにありったけの桜を植えたんだってさ。お母ちゃんがそう言ってた」

刃那瑞鬼から耳にした話によると、この桜は工場を経営する会社が植えたものだという。どういった目的かは定かではなかったが、大方地域貢献とかそういったCSR活動の類であろう。会社の意図はともかくとして、春を迎えると一斉に美しい花を見せてくれるこの桜並木の道は、社宅に住まう人や鬼らからも概ね好意を持たれていた。

散った桜の花びらを無心で集めている清掃員の横をすり抜けながら、兎沙瑞鬼と桃恵は歩きながらの花見と洒落込む。この遊歩道は全体で二キロメートルほどあり、初めから終わりまでほとんど間を置くことなく樹が立っている。近辺に目をやると、二人のように散歩がてらの花見に興じているものは少なくなかった。

「本当に、きれいですてき……来てよかったあ」

「な? 綺麗だろ?」

「うん。お父様とお母様は、桃恵はここへ来ちゃいけない、って言ってたけど、でも、こっそり出てきてよかった」

「なんだい桃恵。お前、家から出るなって言われてるのか」

目を丸くして訊ねる兎沙瑞鬼に対して、桃恵はこくりとごく小さく頷く。

「外には怖い鬼さんがいて、もし鬼さんに出会ったら、食べられちゃうって。そう聞いてたの」

「お父様とお母様の言ったとおり、外には鬼さんがいた。頭に二本の角を生やした、鬼さんがいた」

「でも――鬼さんは、兎沙瑞鬼さんだった」

「兎沙瑞鬼さんは、やさしい鬼さんで、とってもりりしい、すてきな鬼さん」

目を細め頬を緩めながら、眼前の兎沙瑞鬼を「すてきな鬼さん」と言った桃恵に、対する兎沙瑞鬼は一瞬、眩暈にも似た感覚を覚えた。躰がかあっと熱くなり、どういうわけか、言葉がうまく出てこなくなったような気さえしてくる。

「兎沙瑞鬼さんって、他のお友達から、かわいいって、言われたりしない?」

「そんな……あたいにそんなこと言うの、お母ちゃんだけだよ。言われたことない、いっぺんだって言われたことないさ」

兎沙瑞鬼はこう言っていたし、何分周りにいるのが皆色気の無い男子ばかりだったためにまるで意識していなかったが、兎沙瑞鬼自身も実はなかなか整った顔立ちをしていた。ちゃんとした服を着て、きちんと髪を梳いて、少しばかり大人しくしてさえいれば、桃恵とは少し毛色が異なるものの、結構な綺麗どころだったのである。

あどけない笑顔で、どきっとするような言葉を、さらりと口にしてみせる、この桃恵という少女。これまで単純な性質の子供とばかりつるんできた兎沙瑞鬼にとっては、すべてが斬新にして新鮮、そして鮮烈であった。

「な……なんか、照れるよ。そんな風に言われちゃ……」

「……けど、悪い気はしないかんね。うれしいよ、あたい。凛々しいなんて言われたのは、初めてさ」

持ち前の威勢の良さが少し鳴りを潜めて、照れ隠しにこめかみの辺りを弄りながら、兎沙瑞鬼は桃恵にお礼の言葉を述べた。桃恵は綿菓子のようにふんわりと甘い笑顔を見せて、兎沙瑞鬼の左手をそっと取った。桃恵に呼応して、兎沙瑞鬼も彼女の繊手を丁寧に握り返す。

こざっぱりしたジャージ姿の鬼と、深窓の令嬢といった趣の少女。かような二人が手を取り合って歩いている様は、傍目から見ると奇異以外の何者でもなかった。けれど当の本人らにしてみれば、互いに親愛の情を交わし合うための純粋な行為に過ぎなかった。第三者の目など、意識の埒外である。

手をつなぎあった桃恵の顔を今一度眺めてから、兎沙瑞鬼がこう呟く。

「なんていうか、あれだよ。桃恵って、いかにも『箱入り娘』ってな感じだな」

「えへへ……よく、そんな風に言われるよ。箱とか、狭い場所にいるのは、ちょっと苦手だけどね」

はにかむ桃恵を、兎沙瑞鬼は一時も目を離さずに見つめ続けている。自分を瞳の中に映し出し続ける隣の兎沙瑞鬼に、桃恵もまた同じように視線を向けて。

「兎沙瑞鬼さんって、さっきも言ったけど、凛々しくて、強そうだね」

「ははっ。あたいは鬼だかんね。ケンカじゃ人の子にゃ負けないさ。男子にだって負けないかんね」

兎沙瑞鬼は得意気に胸を張って見せると、連れ立って歩いている桃恵にちらりと目をやる。桃恵は嬉しそうに、とても嬉しそうに笑っている。兎沙瑞鬼はますます得意になって、桃恵をリードして歩き始めた。

桜並木の道は、未だ半ばにも達していない。

 

ちょっとしたアクシデントがあったのは、二人が花見を始めて半時間ほど経った頃のことだった。

「……きゃっ!?」

「あっ、桃恵っ」

整備が追い付いておらず、不格好に隆起して小さな段差になっていた舗装ブロックに躓き、桃恵はその場で派手に転んでしまった。手をつないでいた兎沙瑞鬼は直ちに気が付いて、すぐさま桃恵を助け起こす。

「桃恵、桃恵、大丈夫か?」

「いたたた……う、うん。たぶん、だいじょう……いっ……!」

桃恵に大した怪我はなかったが、一つだけ負傷してしまった箇所があった。転んだ際に、右ひざを擦り剥いてしまったのだ。兎沙瑞鬼が様子を見てやると、土で汚れた傷口から真っ赤な血が滲み出ている。見るからに痛そうで、実際桃恵は顔を顰めて痛みを堪えていた。

痛々しい桃恵の様子を目の当たりにした兎沙瑞鬼は、己れの心までチクチクと痛んでくることを自覚せずにはおれなかった。

「こりゃ大変だ……大丈夫だい、あたいが何とかしてやるかんね!」

桃恵を助けたい。兎沙瑞鬼の心に去来した強い思いは、彼女に思いも寄らぬ大胆な行動を取らせるに至った。

「えっ……きゃっ!?」

「そうりゃ。これで、ちょっと水のあるところまで連れてくよ!」

兎沙瑞鬼は地面へ屈んだ桃恵のひざの下へ左腕を回すと、右腕で彼女の背中を支える姿勢を取る。世に言う「お姫様抱っこ」の構図である。負傷して歩くことの難しくなった桃恵を抱きかかえて、傷口を洗える水場のある場所まで連れて行こうというわけだ。

「わ、わ、わ……! と、兎沙瑞鬼さんっ、桃恵、重たいんじゃ……」

「へへん、こんなの軽い軽い。あたいは鬼だかんね、腕っ節には自信があるんだ」

「ほ、本当に……?」

「嘘なんか言わないって、ホントに軽いよ。それより桃恵、ちゃんとご飯食べてるの? あたいそっちの方が心配だよ」

お世辞などではなく、兎沙瑞鬼にしてみれば桃恵の体は羽のように軽かった。桃恵の身が華奢だということもあったが、加えて兎沙瑞鬼が鬼故の人並み外れた怪力の持ち主であったことも大きかった。人なら大の大人さえ持ち運ぶのに難儀するような大荷物さえ、兎沙瑞鬼に掛かれば朝飯前といった具合である。この怪力無双ぶりは、他者に兎沙瑞鬼が紛れもなく人ならぬ鬼だということを実感させるものがあった。

こうして思いも寄らぬ形で兎沙瑞鬼に抱かれる形となった桃恵は、混じり気の無い綺麗な瞳を微かに潤ませて、すぐ間近にある兎沙瑞鬼の顔を一心に捉えている。兎沙瑞鬼も兎沙瑞鬼で、傍目から見ても別嬪だと思う桃恵の貌を言葉通り目と鼻の先で見ることになり、胸の高鳴りを抑えることができなかった。この娘を見ていると、不思議と力が湧いてくる――兎沙瑞鬼は、俄然全身に活力が満ちてくるのを感じ取っていた。

「待ってなよ、あたいがひとっ走り連れてってあげるかんね」

兎沙瑞鬼は桃恵をしっかり抱えたまま、最寄りの水飲み場まで風のように駆けてゆく。

その様はまさしく春一番、暴風を轟かせる風鬼の如しであった。

 

「少ぉし沁みるかんね。大丈夫かい」

「うん……けど、お水が冷たくて、気持ちいい」

数分もしない内に目的地である水飲み場まで辿り着くと、兎沙瑞鬼は桃恵のひざを水で丁寧に洗い始めた。こびり付いた土埃と滲み出た血を流水に晒して、手のひらをそっと当ててやる。幾度か繰り返して十分汚れが取れたと見た兎沙瑞鬼は、蛇口を捻って水を止めた。

「よしよし、これで綺麗になった。けど……まだ、血は止まらないか」

「そうみたい……まだちょっと、ずきずきしちゃう」

傷口を丹念に洗ったことで、雑菌が入り込んで傷が膿んで悪化してしまうようなことはなくなったが、未だ痛みは引かず、傷口も開いたままのようだ。隣の桃恵が相変わらず少し辛そうな顔つきをしているのを見て、兎沙瑞鬼はもっと桃恵にしてやれることは無いかと思案した。

ふと、自分が桃恵のように怪我をした折のことを思い出す。毎日男子に混じってあちこちを走り回っていて、遊びが白熱する余り取っ組み合いのケンカになることも珍しくない兎沙瑞鬼は、しばしば切り傷や擦り傷を作っていた。そうした時、いつも決まってしていたことがあるではないか。そう思い立った兎沙瑞鬼の行動は、実に素早かった。

「よぉし、あたいが傷口をふさいでやるかんね」

「えっ……? 兎沙瑞鬼さん、どうしたの?」

兎沙瑞鬼がさっと屈み込んだのを見た桃恵は、何事かと目をぱちぱちさせる。既にその桃恵の顔は兎沙瑞鬼の視界に無く、彼女の瞳は桃恵の紅い傷口のみを捉えていた。

そして。

「少しくすぐったいけど、堪えてくれよ」

「ふぇ? あ……ひゃんっ!?」

続けて兎沙瑞鬼が取った行動とは、桃恵の傷口を、自分の舌で舐める――というものだった。

遊びの最中に怪我をしたとき、兎沙瑞鬼はしばしば傷に唾を擦り付けていた。こうしておくと、傷が膿んでしまうのを防ぐことができると、母親である刃那瑞鬼から聞かされた記憶があった。そこから着想を得て、桃恵の傷口を直接舐めれば良いじゃないかという結論に至った次第である。

「と、兎沙瑞鬼、さんっ……!」

「心配いらないかんね、お母ちゃんから教えてもらったんだ。怪我したら唾付けとくといいよ、ってね」

兎沙瑞鬼が屈み込んでちろちろと舌を動かす様子を、桃恵は頬を紅く染めつつ驚きの表情で見守っている。いきなり自分の躰を舐められたとあっては、確かに桃恵でなくとも喫驚するだろう。しきりに瞬きしつつも、兎沙瑞鬼にされるがままになっていた。

そして当の兎沙瑞鬼はどうだったか。舌で傷口を撫でるたびに、ほんのりと血の味が広がる感触を得ていた。鉄っぽく生々しい、血液独特の味。決して好きなものではなかったが、しかしこれが桃恵の血だと思うと、胸がふつふつと騒ぐのを止められなかった。桃恵の血を飲んでいる――兎沙瑞鬼には、それが何故だかとても素晴らしいものに思えてならなかった。

「や、んっ……!」

「ごめんよ、もう少しの辛抱だかんね」

声を上げてもじもじと躰を揺する桃恵。構わず傷口を舐め続ける兎沙瑞鬼。ざらつく舌の感触がくすぐったくて、桃恵は声を抑えることができなかった。それが兎沙瑞鬼によって齎されているものだと自覚すると、よりいっそう躰の芯が熱くなってしまい、意識が溶け出してきそうなほどだった。

暫しの後、傷口を余すところ無く舌で拭い、血の味がしなくなったと感じたところで、兎沙瑞鬼はそっと顔を上げた。すっくと立ち上がった先には、顔を上気させて只々たじろいでいる、桃恵の顔があった。

「兎沙瑞鬼、さん……」

「どう? ちょっとは痛くなくなった?」

口元を軽く拭って兎沙瑞鬼が八重歯を見せて笑うと、恥ずかしがっていた桃恵も次第に落ち着きを取り戻してきて、やがて穏やかな表情で微笑んだ。

「……うん。今はもう、ぜんぜん痛くないよ。ありがとう、兎沙瑞鬼さん」

「大したことないさ。桃恵が元気になってくれて、あたいもうれしいかんね」

「本当に、兎沙瑞鬼さんのおかげだよ。痛みがすぅーっと引いて、とっても楽になったから」

「あたいのお母ちゃんが教えてくれたんだよ。こうしとくと、ばい菌も入らないって。ああ、そうだ、桃恵」

「どうしたの? 兎沙瑞鬼さん」

桃恵と話をしていて、兎沙瑞鬼は一つだけ、どうしても気になることがあった。

「その、さ。『兎沙瑞鬼さん』って呼ばれると、あたいちょっとくすぐったいんだ。もっと気安く呼んでくれていいよ」

どことなく堅苦しくて、他人行儀な感じがする「兎沙瑞鬼さん」。兎沙瑞鬼は桃恵と言葉を交わす中で、いつしかこの呼称にじれったさを感じるようになっていた。桃恵からは、もっと気さくに、気兼ねせずに呼んでもらいたい。そう思った兎沙瑞鬼は、思い切ってありのままを桃恵に伝えてみた。

「うーんと……じゃあ、これはどうかな?」

桃恵は少し考えて、こんな風に呼んでみたいという希望を挙げた。

「兎沙瑞鬼さん、改め――『瑞鬼ちゃん』」

名前の後ろ半分を取って「瑞鬼ちゃん」。半分ほどに短縮しただけで、ずいぶんと可愛げと親近感の増した名前になったではないか。呼ばれる兎沙瑞鬼の方も大いにお気に召したようで、うんうんとしきりに頷いている。

「瑞鬼ちゃん……こっちはこっちでくすぐったいけど、でも、なんかいいな。あたい気に入った!」

「えへへっ。瑞鬼ちゃんったら、かわいい」

そう言いながら微笑む桃恵を見て、あんたの方が可愛いよと、兎沙瑞鬼が照れながら笑う。目を細める桃恵とふざけあってじゃれあいながら、肩を並べて再び歩き出した。

少女二人の笑う声が、桜舞う花道にこだまする。

 

長い長い花道も、もうすぐ終わりに差し掛かろうとしていた。

「じゃあ、桃恵のお父ちゃんとお母ちゃんは、社長ってわけじゃないけど、すごい偉い人なんだ」

「そうみたい。お父様もお母様も、お仕事のお話は、あんまりしてくれないけど、それくらいは知ってるよ」

二人が話していたのは、桃恵の両親についてだった。普段は桃恵に外を出歩かないよう言い付けているという両親はそもそもどんな人柄なのか、兎沙瑞鬼も少なからず気にはなっていた。聞くところによると、どこかの会社で重役をしているという。父母ともに娘の桃恵にはあまり仕事の話はしたがらないようで、どこの会社に勤めているとか、どんな仕事をしているとかまでは知らないようだった。

仕事の話をあまりしないと言えば、あたいのお母ちゃんもしない気がする――そういう意味では、兎沙瑞鬼も似た事情を抱えていた。世の親は鬼も人も、家庭に仕事の話は持ち込まないのが最近の主流なのだろうか。あるいは仕事の中身を子供に話すことを躊躇う理由があるのだろうか。そこは定かでなかった。

「家に帰ってくるのは、いつも、とっても遅いよ。それに、帰ってこない日も、たくさん」

「そりゃ大変だ。じゃあ、ご飯の用意とかどうしてるのさ?」

「えっとね、桃恵の家には、メイドさんがいるの。ひい、ふう、みい……二十人くらい」

「メイドさん? それってもしかして、漫画とかに出てくる、エプロン着けた女の人のこと?」

「そうだよ。お屋敷に、住み込みで働いてて、桃恵や、お父様やお母様の身の回りのお世話を、みんなしてくれてるの」

メイドの詰めている屋敷と来て、桃恵はかなり裕福な暮らしをしていることが想像できた。このおっとりした性格も、そうした生活環境の中で培われたものであることは想像に固くなかった。

「それでね、桃恵も何かお手伝いしたいって言ったら、お嬢様のお手を煩わせるわけにはいきません、って言われちゃった」

「まあ、それもそっか……けど、桃恵は手伝いたいって思ったんだ」

「うん。なんだかね、桃恵だけのんびりしてて、いいのかな、って思ったから……」

「えらいな、桃恵。あたい、あんたのそういうとこ好きだよ」

ただ、その環境を当然のものと思っているわけではなく、桃恵はちゃんと他者を気遣うことのできる真っ当な心根の持ち主だった。いささかのんびりしたところはあれど、金持ち特有の鼻につく傲慢さとは無縁な様子が伺える。これは両親の教育が適切だったのか、それとも桃恵が持って生まれた性質か。彼女の口ぶりを見る限り、兎沙瑞鬼にはどうも後者のように思えてならなかった。

桃恵の家庭事情についてひとしきり聞いた後は、兎沙瑞鬼が同じことを話す番だった。

「あたいはお母ちゃんと二人で、向こうにある工場の社宅に住んでる」

「お母ちゃんの名前は『刃那瑞鬼』っていうんだ。別嬪さんで、優しくて、あたいの自慢のお母ちゃんだかんね」

「毎日お勤めで忙しいから、あたい独りで留守番することもしょっちゅうだけど、けど、帰ってきたらいっぱい甘えさせてくれるんだ」

「だからね、あたいお母ちゃんのこと大好き」

「お母ちゃんのために、大きくなったら立派な鬼になるんだかんね」

堂々と胸を張って「お母ちゃんのこと大好き」と言い切った兎沙瑞鬼を、桃恵は柔らかい笑みを湛えて見つめていた。曇りの無い眼差し、迷いの感じられない語気。誰がどのように見ても、兎沙瑞鬼は心の底から母親の刃那瑞鬼のことが好きなのだと分かる、そんな態度だ。

「それにね、あたいには友達もたくさんいるんだ。ケンカしたりもするけど、みんないいやつばっかりだ」

「あっちこっちを走り回って、日が暮れるまで遊んで、また明日って言って家に帰る」

「あたい、それが大好きなんだ」

兎沙瑞鬼の側にいるのは、刃那瑞鬼ただ一人ではない。同じく社宅に住まう子供らも、彼女を支える大切な存在であった。兎沙瑞鬼が鬼の娘であっても彼らは分け隔て無く受け入れてくれていたし、兎沙瑞鬼もまた人の子らを軽んじること無く真正面から接していた。

「そっか。お母様やお友達が側にいてくれるのは、とっても心強いね」

「瑞鬼ちゃんは、きっとすてきな鬼さんになれるよ」

ふんわりした口調でそう述べた桃恵を、兎沙瑞鬼が今一度見やる。

「桃恵は、普段お屋敷にいるから、お友達と遊べなくて、いつも独り」

「時々、子供のメイドさんが桃恵と遊んでくれるけど、忙しいことが多いから、そんなに遊べなくて」

「今日も独りで、少しさみしかったから、だから、桜のお花を見に行こうって」

「きれいなお花を見てれば、さみしくなくなるって、そう思ったから」

「そうしたら――瑞鬼ちゃんに会えた」

自分を見つめていた兎沙瑞鬼と視線を交錯させて、桃恵が表情を明るくする。

「強くて、りりしくて、桃恵がケガしたら、助けてくれた」

「桃恵、うれしかったよ。すっごくうれしかった」

「瑞鬼ちゃんに会えて、本当によかった。瑞鬼ちゃんに会えたから、お外に出てきて、本当によかった」

再び、兎沙瑞鬼の胸が高鳴る。心臓の鼓動を確かに感じながら、兎沙瑞鬼は桃恵に気取られまいと背筋を伸ばして、頬を朱に染める彼女の側へさらに一歩歩み寄る。

「いっしょに遊んでくれる友達がいないなら、あたいがいっしょにいたげるさ」

「あたいも、桃恵に会えてよかったって、そう思ってるよ」

「桃恵は、はっきり言えなくてもどかしいけど、特別な気がするんだ」

「もし、桃恵に何かあっても、そん時はあたいがしっかり守ったげるかんね」

兎沙瑞鬼が得意気に胸をどんと叩く仕草を見た桃恵は――大きく弾んで飛び出してしまいそうな心臓を押さえるように、胸へそっと手を当てて。

「……瑞鬼ちゃん、ずるい」

「そんな風に言われたら、桃恵、どきどきしちゃう」

「桃恵のハート、どきどきしてて……瑞鬼ちゃんに、持ってかれちゃいそう」

顔を耳まで紅潮させて、兎沙瑞鬼が齎した胸の高鳴りを、彼女なりの言葉で表現して見せた。

兎沙瑞鬼は兎沙瑞鬼の方で、あどけない仕草で無意識のうちにこちらを揺さぶってくる桃恵に、軽い眩暈を覚えていた。桃恵の姿を瞳の中に映し出しながら、照れ隠しとばかりに口元に手を当てる。

「それは、あたいの台詞だよ」

「今日は桜を見にきたはずなのに、目の前にこんなきれいな桃があったんじゃ、おちおち余所見もできないかんね」

まあ、と桃恵が目をまん丸くして、さりげなく気障な台詞を口にした兎沙瑞鬼を、まじまじと見つめていた。

「外には怖い鬼さんがいて、捕まったら食べられちゃう」

「本当に、お父様とお母様の、言ってた通り」

嬉しそうに躰を揺する桃恵を、兎沙瑞鬼は満ち足りた表情で眺めていた。

 

楽しいと感じる時間ほど、速やかに流れてゆくもの。大人よりもずっと濃い時間を持てる子供の兎沙瑞鬼と桃恵とて、その摂理には抗えなかった。

日が傾き、空が朱く染まり、別れの刻が訪れたのである。

「今日は楽しかったよ、桃恵。ホントに楽しかった」

「桃恵もおなじ。今日は、とってもすてきな一日だったよ」

それもこれも、みんな瑞鬼ちゃんのおかげ。微笑む桃恵に、桃恵と会えたからさ、と返す兎沙瑞鬼。また、二人でいっしょにここで遊ぼう、兎沙瑞鬼が言う。もちろん、桃恵もいっしょに遊びたい、桃恵が応える。二人は口々に言葉を交わし合う。間もなく訪れる別れを惜しむように。

「ねえ、瑞鬼ちゃん。お別れの前に、桃恵のお願い、聞いてくれる?」

「どんとこい。なんでも聞いてやるかんね」

「じゃあ……最後にもう一回、手、つないでほしいな」

手をつないでほしいと言う桃恵に、兎沙瑞鬼はすぐさま頷く。その程度はお安い御用さ、そうとでも言いたげな顔つきで、兎沙瑞鬼が桃恵の手を取ろうとする――。

けれど兎沙瑞鬼は、思いも寄らぬ行動に出て。

「――つかまえたっ」

「えっ……きゃっ」

気を抜いていた桃恵の隙を突いて、兎沙瑞鬼は自分の胸元へ桃恵を思い切り抱き寄せた。前につんのめる形で、桃恵が兎沙瑞鬼の懐へ飛び込む。小さく声を上げて驚く桃恵を、兎沙瑞鬼はチャームポイントの八重歯を見せた悪戯っぽい表情でもって、にいっと笑って見つめていた。

「ははっ、びっくりしただろ? 最後にもういっぺん、桃恵をどきどきさせてやりたかったかんね」

「瑞鬼、ちゃん……」

「さっき抱っこしたときも思ったけど、桃恵って、いい匂いがする。甘くておいしい、桃みたいな匂いだ」

抱きしめられた桃恵は、上目遣いでもって兎沙瑞鬼を見やる。兎沙瑞鬼は桃恵の仕草にますます愛嬌を感じて、さらに力を入れて、まるで自分の中に取り込もうとするかのように、強く強く抱きしめる。

「桃恵、鬼は人を食べるんだぞ。まるごと、体ごと、全部食べちゃうんだぞ」

冗談めかして「鬼は人を食べる」と口にした兎沙瑞鬼に、桃恵は瞳を潤ませて、頬をゆるゆるに綻ばせる。兎沙瑞鬼に呼応するように、細い腕に目いっぱい力を込めて抱き返した。

「本当に、瑞鬼ちゃんに食べられちゃうと思って、どきどきしちゃった」

「でも」

でも、そこで一度言葉を切ってから、桃恵は。

「桃恵、瑞鬼ちゃんになら、食べられてもいい」

おそらくは何ら意識せず自然体のまま、抗えぬほど強い色香を感じさせる目をして、兎沙瑞鬼になら、食べられてもいい――そう呟いた。

「も、桃恵……食べられてもいいって、それって……」

どきっとさせられたのは、兎沙瑞鬼の方である。

「あっ。瑞鬼ちゃんったら、とってもどきどきしてる。心臓の音、桃恵にも聞こえてるよ。びっくりした?」

「な……なんだよ、そりゃ、桃恵だって同じだぞ。桃恵だって、どきどきしてるぞ」

胸に顔を埋めている桃恵に鼓動の高鳴りを指摘され、兎沙瑞鬼がかあっと顔を紅くした。桃恵もどきどきしてるじゃないか、苦し紛れにそう言い返すと、桃恵はこくんと頷いて肯定し、より深く兎沙瑞鬼の中へ入り込もうとする。

そうしてたっぷり抱擁を交わしてから、二人は一歩ずつ離れて、夕陽に照らされて紅くなった――もちろん、それだけが理由ではないが――互いの顔を見やった。

「また、いっしょに遊んでね。瑞鬼ちゃん」

「もちろんさ。あたいも、また桃恵と遊びたいかんね」

最後までたくさんの言葉を尽くして、相手への思いを伝えながら。

「またね、桃恵」

「うん。また会おうね、瑞鬼ちゃん」

兎沙瑞鬼と桃恵は、二人が最初に出会った交差点から別々の道を歩いて、それぞれの家路についた。

 

「お母ちゃんお母ちゃん! あたいね、今日公園でお花見してきたんだよ! 今日知り合った子といっしょにだかんね!」

「まあ、桜を見に行ってたのね。ちょうど見頃だったでしょう。それで、どんな子とお友達になったの?」

夕餉の席。できあがったばかりの鯖の塩焼きをほぐしながら、刃那瑞鬼が兎沙瑞鬼の話に耳を傾けている。兎沙瑞鬼はお豆腐の入った味噌汁をずずずと啜ってから、今日出会ったあの娘について話し始めた。

「あのね、桃恵っていう女の子。桃の恵みって書いて、ももえって読むの」

兎沙瑞鬼は一呼吸置いて、今日の出来事を一つ一つ思い返していく。

「あたいがお花見に行く途中で出会ってね、へへん、あたいが公園まで攫っちゃった」

「歩いてる途中に転んじゃったから、あたいが傷口舐めて血を飲んでやったよ」

「それでね、あたい桃恵から『ハートを持ってかれちゃいそう』なんて言われてね」

「お別れする時に、桃恵をがばっと食べちゃった! 桃恵も『瑞鬼ちゃんになら食べられてもいい』って言ってたかんね!」

得意気に見栄を切った娘の頭を撫でて、刃那瑞鬼が微笑む。

「人を攫って血を啜り、臓腑を抉って躰を躰を骨まで喰らい尽くす。まさに、その物ね」

「兎沙瑞鬼も、もう一人前の鬼ね。えらいわ」

大好きな母親から「一人前の鬼」と誉めそやされた兎沙瑞鬼は喜色満面となって、八重歯を見せて笑うのだった。

 

食事を終えてさっと湯浴みを済ませ、兎沙瑞鬼が刃那瑞鬼に見守られながら、ゆっくり寝息を立て始める。

「よしよし、いい子ね。あなたは本当に、お母さんの宝よ」

兎沙瑞鬼を敷いておいた布団へ寝かせてやると、ポンポンと二度掛け布団を軽く叩いて、それから再び立ち上がった。

「さあ、そろそろ時間だわ。寄り合いへ行かなきゃ」

エプロンを解いて座布団の上へ置き、素早く着衣を改める。これから何処かへ出掛けるつもりなのだろうか。兎沙瑞鬼は母親が夜分に外出しようとしているとはつゆ知らず、眠ったまま目を覚まさない。普段のお転婆さや快活さはすっかり鳴りを潜めて、すうすうと可愛らしい寝息を立てている。

すっかり支度を終えると、刃那瑞鬼は最後にもう一度だけ兎沙瑞鬼の寝顔を見てから、それから錠を掛けて家を出た。

家に独り残された兎沙瑞鬼だったが、彼女はとうに夢の國へ旅立っていて。

「ももえ……こんどは、いっしょに、はなび、しよう……」

幻想の夏を、桃恵と共に過ごしていたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。