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河童の川流れ

山辺市浅葱区東雲町、午前十時三四分。

みいん、みん、みん、みん――四方から響き渡るミンミンゼミの鳴き声を聞きながら、制服姿の加奈枝が、コンクリートで舗装された細い道をぽてぽてとひとりで歩いてゆく。学校での夏期講習を受け終わって、帰宅の途についている最中だった。

「今日もあっついわあ。汗かいてまう」

手にさげたカバンからタオルハンカチをぐいっと引っぱり出して、額に浮かんだ珠のような汗を拭う。強い日差しと蒸し暑さはなかなか堪えるものだったけれど、加奈枝はこの夏という季節が好きだった。言葉にするのは難しいけれど、何かうきうきした気持ちになれる。加奈枝にとって、夏はそんな季節だったのだ。

加奈枝の歩いている道の横手には細い水路があって、彼女の進んでいる方向とは正反対に水が流れている。すなわち、彼女は水路の源流に向かって歩いていることになる。

「あっこやったら人もおらんし、うちひとりでゆっくりできるやんな……」

ほっそりした顔立ち、つぼみのような小さなくちびる、透き通った声色、短めに切りそろえられた栗色のかった髪。決して子供っぽくはないけれど、大人っぽいって柄でもない。成熟しつつある子供、あるいは、幼さを色濃く残す大人。そんな中学二年生という時期相応の雰囲気を、自然体で着こなしているのが、加奈枝という少女なのだった。

浅葱区は区内をすっぽり山に囲まれた地区で、遠くには雄大な山々を、近くには広々とした田んぼを見ることのできる、<田舎町>のイメージがぴったり合う地域だ。東雲町は中でも特にその傾向が顕著で、町内にはまばらに一軒家が建っていて、他は水田や水路、果樹園で占められているといった具合だった。建物らしい建物はほとんどなくて、加奈枝の住んでいる家から歩いて十分ほどのところにある地元の選果場が、この辺りで一番大きな建築物だった。それさえも、取り立てて大きなものじゃない。

加奈枝は今からちょうど一年くらい前、山辺市の外からここ浅葱区東雲町に引っ越してきた。先ほどちらっと書いたとおり、中学二年生の女の子で、本人は自分のことを、どこにでもいる普通の子、もっとはっきり言うと、これといった特徴のない子だと思っている。見た目はいかにも線の細い、体を動かすのが苦手な女の子といった風貌だ。

学校の成績は並よりほんの少し上、だけど昔から数字に弱くて、小学校の頃は算数、今は数学がとても苦手。中学に入ってから始まった英語は、リーディングがちょっと覚束ないけれど、リスニングは得意でイントネーションも悪くない。好きな食べ物はいちご大福、特にいっしょに暮らすお婆ちゃんが作ってくれるいちご大福がとびっきりの大好物。ただ、あんまりおいしいものだからついつい食べすぎちゃって、余分なお肉が付いちゃいそうなのが悩みのタネ。

そんな加奈枝が山辺市へ越してくるときに、どういうわけか、それまで一緒に暮らしていた両親と離れることになってしまった。今はここ東雲町にずうっと昔から住んでいる、母方のお婆ちゃんの家で暮らしている。父母は加奈枝をほっぽり出してどこかへ行った、とかではなくて、何やら複雑な事情があって、加奈枝を厄介ごとの無いお婆ちゃんの家へ預けることにしたそうだ。それでも、一ヶ月に一度くらいのペースでどちらか片方がお婆ちゃんの家までやってきて、お小遣いをもらったり学校の話を聞いてもらえたりしていた。それに、お婆ちゃんもとても優しくて、加奈枝をよく可愛がってくれていたから、加奈枝自身はそんなに寂しいと思うことはなかった。

引っ越してきたばかりの頃は、もちろん環境が変わったこともあって戸惑うことも多かったけれど、一月くらいするとすっかり慣れてしまった。元々別段都会っ子というわけでもなく、東雲町での田舎暮らしにすぐに馴染めたのも大きかった。転校した先の中学校でもいじめられるようなこともまったくなくて、とてもスムーズにクラスに溶け込めた。誰にでも優しくできる人当たりのいい性格をしていたこともあったし、快活なイメージが強い関西弁を話すにも拘らず、いつものんびり・おっとりしているところがウケて、「癒し系キャラ」と程よくいじられつつも可愛がられる、なかなかいいポジションを得ることができていたのだ。ただ、本人は「うちに癒されるとこなんかあるかなあ」と、ちょっと自信が無い様子だったけれども。

舗装された道を途中でさっと外れて、乾いた土で覆われた砂利道を歩いていく。この先に、加奈枝の目指す場所はあった。しばらく進んでから不意に横道へ入ると、雑木林をがさがさとかき分けて、ぴょんと一歩前へ飛び出す。

すると間もなく、加奈枝の耳にざあざあという涼しげな音が入り込んできた。

「着いた着いた。珠川や」

珠川は浅葱区を流れるとても大きな川で、源流は東雲町の最南端にある「神谷山」という山にある。人の手がまったく入っておらず、川底が肉眼ではっきりと見て取れるような澄んだ水をなみなみと湛えるその姿は、まさしく<清流>という言葉が相応しかった。水の流れる涼やかな音に、加奈枝は胸を高鳴らせる。ここは彼女のお気に入りの場所で、こうやって一人でこっそり訪れるのが大きな楽しみの一つだった。

ひと段落したところで、加奈枝がおもむろに辺りをきょろきょろと見回し始めた。この辺りに誰か他の人がいないか、自分のことを見ている者はいないか。しっかりと確かめてから、加奈枝は近くの茂みへさっと隠れた。がさっ、という葉の揺れる音と共に、加奈枝の姿が森の中へ紛れる。

「暑っつう……もう汗だくやわ、かなわんなあ」

手のひらでぱたぱたと顔をあおいで、ぷふう、と頬をふくらませて息をつく。汗だく、と口にした通り、加奈枝の来ている薄手のブラウスは汗をいっぱいに吸ってしまって、生地の下がうっすらと透けて見えていた。彼女の肩口辺りに目を向けてみると、透けたブラウスの裏側に、下着にしてはちょっと違和感を覚える、紺色の生地が見え隠れしている。加奈枝も今更ながらそれに気が付いて、慌ててぱっと右手を当てた。あわわ、ここに来るまでに、誰かに見られちゃったりしてないかな……ここに来るまでの道すがら、誰一人としてすれ違わなかったこともすっかり忘れて、頬を真っ赤に染める。加奈枝はすうーっ……と深呼吸をして、大きくなった鼓動が少し落ち着くのを待ってから、おそるおそる、準備を始めた。

スカートのホックを取ると、腕を使ってぱたぱたと簡単にたたむ。カバンの中へぐいっと押し込んでから、今度はブラウスのボタンに手を掛けた。ひとつひとつ丁寧に外していって、これも腕にくるんでぐるりとまとめる。汗に濡れて冷たくなった腕を両腕で軽く払うと、仕上げに靴を脱いで、最後は靴下をおっとっととよろめきながら脱ぐと、どうにかこうにか、準備は完了した。

「ふう……学校の更衣室で着替えてきてよかったわあ。外で水着着るん、ちょっと恥ずかしいし……」

制服を全部脱いでしまった加奈枝は、水着姿――それも、学校指定の紺色の水着姿になっていたのだった。

汗で肌にすっかり張り付いた水着に指を突っ込んで、ぐいぐいと間を広げるように動かす。指をすっと引き抜くと、ぱちんと音がして再び肌へ密着した。体をひねったり、腕をぐるんぐるん回したりして、加奈枝はちょっとばかり、ぎこちなさを感じている様子を見せている。

「なんか、水着ちょっときつなった気ぃする……身体、大きなったんかなあ」

水着は去年買い換えたばかりだったけれど、心なしか少しきつくなってしまったような気がする。引っ越す前に比べると明らかにふくらんだ胸にそっと手を当てると、なぜだか頬がかあっと熱くなってくる。保健の授業をちゃんと聞いていたから、これがどんな意味を持っているのか、加奈枝にも分かっていた。ほてった躰で、思考があさっての方向に行きそうになっていることに気付いて、加奈枝が慌てて両手で頬をぱちんと叩いた。

加奈枝が水着を着ているのは、言うまでもなく泳ぐためだ。場所はもちろん、ここ珠川に他ならない。加奈枝は小さい頃から泳ぐことが大好きで、東雲町へ引っ越してくる前にも、川やプールで元気よく泳ぎ回っていた。以前はスイミングスクールにも通っていて、小学生の時分で既にバタフライをマスターしていたくらいだ。中学生になってからは、習い事としての水泳はやめてしまったけれど、趣味としての水泳は欠かすことなく続けていた。

彼女の泳ぎの上手さはホンモノで、以前通っていた小学校で催されたクラス対抗の水泳大会では、見事一等賞を取ったくらいだった。それも男女混合の大会だったから、加奈枝は同年代の男子よりも速く泳げたということになる。それまで何につけてもあまり目立たなかった加奈枝が、体格のいい男子や運動の得意な女子をぐんぐん追い抜いていく様子は、同級生たちの注目の的になった。先生たちもびっくりしたほどで、これはすごいと口々に加奈枝を褒めそやした。水泳大会を通して、加奈枝は一躍有名人になったわけだ。

……とは言え。

「うち、そない上手ちゃうし……あれは、たまたま運よかっただけやから……」

元々加奈枝はとても恥ずかしがりやで、こんな風に褒められるとたちまちあがってしまうタイプだった。だいたい、自分よりももっと上手な人はたくさんいるのに、こんなに褒められちゃうのはおこがましい――なんて考えてしまうのだ。大会が終わって表彰台に立つ時も、耳の先まで真っ赤になってしまって、何もないところですてんと転ばないように歩くのが精一杯だった。自分にあんまり自信が持てなくて、褒められることに慣れていない。加奈枝はそういう一面も持っていた。

同級生には、地元のクラブで男子に混じってサッカーをしていたり、幼稚園の頃からずっと剣道を続けていたりして、男子顔負けの負けん気と身体能力を持っている女子が何人もいた。本当のところ、加奈枝も彼女らに引けを取らないくらいの能力はあったのだけれど、本人は「うちが人並みにできるん、泳ぐのだけやから……」とやっぱり引け腰で、他の子はすごいなあ、とか、自分は大したことないなあ、とか、いまいち前向きに考えることができなかった。

こんな背景があったので、いくら上手とはいえ人前で泳ぐのはとても恥ずかしくて、特に中学生になってからその傾向はますます強くなった。もちろん、思春期に入ったからだ。加奈枝だって立派な女の子である。けれども、泳ぐことの気持ちよさはどうしても忘れられない。そんな加奈枝にとって、自分以外の人が訪れることがほとんどなくて、流れもゆったりしていて泳ぎやすいここ珠川は、びっくりするくらい理想的な場所だった。ここなら人目を気にせず、いくらでも泳ぐことができる。補講帰りにわざわざ水着に着替えて立ち寄るだけの価値はあったのだ。

「誰もおらんやんな……見られとったら恥ずかしいし、ちゃんと見とかな」

両手でそっと胸元を隠しつつ、念には念を入れて茂みからもう一度外をチェックする。見えるのは緑の鮮やかな葉を茂らせる木々と透き通った清流、聞こえるのは賑やかな蝉の声と涼やかな川の音だけ。見ても聞いても、人気は欠片もない。ほっと小さく息を吐いて、加奈枝は茂みから身を躍らせた。軽く準備運動を済ませると、いよいよ待ちに待った泳ぎの時間だ。

素足に伝わる石の硬い感触を味わいながら、加奈枝はごつごつした石が所狭しと敷き詰められた河原を歩いていく。浅瀬までやってくると、迷わず足を踏み入れた。ちゃぷん、と小さな音を立てて、つま先から水へと浸かる。暑さに慣れきった体に、流水の冷たさがじいん……と染みわたる。ぶるっ、と大きく身をふるわせて、加奈枝は冷たい水の心地よさに感じ入った。

ざぶざぶと水面を派手に揺らしながら歩いていって、太腿の中ほどまで水に浸かるくらいの深さのところまでたどり着いた。両手で水をすくって、ほてった頬や汗ばんだ胸元へ思い切りぶちまけた。激しい水しぶきが飛んで、髪にも珠のような雫がたくさんできる。その一つ一つが夏の陽光を跳ね返して、まるで加奈枝が輝いているかのよう。

「ああ……気持ちええわあ。涼しなったし、そろそろ泳ごかな」

汗をすっかり洗い流して、加奈枝は爽快な気持ちになった。ようし、この意気でそのまま泳ごう――気弱で引っ込み思案な加奈枝だったけれど、好きな事を始めるときは、こうやってすぱっと素早く決めることができた。大きく息を吸い込むと、ざばんと音を立てて水中へ潜った。

人魚を思わせる軽やかな動きで加奈枝が泳ぎ始めるまでには、少しの時間も必要なかった。

 

小一時間ほどたっぷり泳ぎ回って、加奈枝は満足したみたいだった。ざばざばと水をかき分けながら歩いて、元の浅瀬まで戻ってきた。ぽたぽたと冷たい雫を滴らせながら、陽の光を浴びて熱された石で覆われた河原を歩く。五、六歩ほど歩いたところでゆっくり落ち着けそうな場所を見つけて、よいしょ、と腰を下ろした。

ふっくらした丸みのあるお尻。ナイロンの生地がピンと張った上から、ごつごつした石がぎゅうっと食い込む。加奈枝は心なしかくすぐったさを覚えながら、河原でぺたんと三角座りをする。ふう、と息をつくと、満ち足りた思いが広がっていく。今日もたくさん泳げた、距離にすると三,〇〇〇メートルくらいは泳いだ気がする。二十五メートルプールを百と二十回も往復した計算だ。心地よい疲労感も合わさって、加奈枝は至福の表情だ。

いっぱい泳いで満足したし、いい具合にお腹も減ってきた。そろそろ家へ帰って、お婆ちゃんといっしょにお昼にしよう――なんて、のんびり考えながら、何気なく右手に目をやると。

「達者な泳ぎぶりだな、まるで魚のようだ。感心したぞ」

見ず知らず、まったくの見ず知らずの、二つか三つくらい年上に見える女性――いや、お姉さんが、加奈枝の隣にいつの間にか座っていたのだ。

「えっ……えぇっ!?」

もちろん加奈枝は驚いた。まさか珠川に自分以外の人が来るなんて思っていなかったし、声を掛けられるなんてもっと想定外だった。全然知らないお姉さんに呼びかけられて、しかも口ぶりからすると自分が川で泳ぎ回っていたのを見ていたようだから、驚くと同時にたちまち気恥ずかしくなって、頬をりんごのようにかあっと紅潮させた。

どぎまぎしつつ、お姉さんの姿を確認してみる。髪は黒くて艶があって、とても長い。所謂黒髪ロングというやつで、いかにも「お姉さん」という感じの見てくれだった。それはよかったのだけれども、服装の方はずいぶん奇抜だった。お祭りのときに着るような藍色の法被を身に着けていて、今にもお神輿を担いで走り出しそうな雰囲気だ。東雲町でも夏祭りがあって、去年は仲良くなったばかりの友達といっしょに楽しい時間を過ごしたけれど、お祭りは確か八月で、まだまだ先だったような気がする。お姉さんはどうして法被なんか着ているのだろうと、加奈枝は不思議で仕方がない。

だけど――そんなことより、お姉さんにはもっと大切な、そして大変な特徴があった。

(あれって……<水かき>、やんな……?)

胸にそっと手を当てているお姉さん。すらりとした腕を追って手のひらを見たときに、加奈枝は思わず目をみはった。手に指は三本しか生えていなくて、指と指の間に薄い膜が張っている。どこからどう見たって、亀や蛙に付いているような水かきにしか見えなかった。あっ、これは――と、すぐさま加奈枝は思い出す。小学三年生くらいの頃にお婆ちゃんから聞かされた、浅葱に住んでいるという物の怪の話を。

「あ、あの……お姉さん、もしかして……『河童』と……違う?」

「うむ、いかにもその通りだ。押しも押されもせぬ河童だが、それがどうかしたか?」

やはり「河童」だった。加奈枝の思ったとおり、お姉さんは「河童」だった。

お婆ちゃんから聞かされた話。ここ浅葱区には、人ならぬ存在である「物の怪」が住んでいて、時折人の前に姿を現すという。物の怪は人智を超えた力と知恵を持っていて、とても畏れ多い存在だ。だから区内の人は皆物の怪を推尊し、畏敬の念を持って接している――のだそうだ。そして加奈枝は、水辺に住み人に似た姿形を持つと言われる「河童」という物の怪の話もまた、お婆ちゃんから聞いていた。

(嘘やん……河童って、ほんまにおったんや……)

物の怪については大好きなお婆ちゃんが熱心に話してくれたことなので、加奈枝もしっかり耳を傾けて聞いてはいた。ただ、どちらかというと「御伽噺みたいなもの」だと思っていて、面白い話ではあるけれど、自分にはきっと縁なんかありっこない。そんな風に考えていた。だからこうして目の前に堂々と人ならぬ河童が現れたことで、加奈枝はすっかり驚いてしまった。口元に手を当てたままカチコチに固まってしまって、上手く言葉が出てこない有様だ。

ぎこちなさを隠し切れないながらも、加奈枝は目の前に仁王立ちする河童のお姉さんを見ているうちに、今度は次々に疑問が沸き起こってきた。ちょっとばかり興奮気味に、加奈枝がお姉さんに言葉を投げ掛けていく。

「えっ……でも、河童って、頭にお皿みたいなん載っけてて……」

見ての通り、お皿なんて載ってない。

「背中に……あの、亀さんみたいな甲羅も背負ってて……」

そんなもの、まったく背負ってない。

「あと……せやせや、髪型は『おかっぱ』で……」

繰り返すが、お姉さんは黒髪ロング。

「ええっと……ごめんな、失礼やと思うけど……なんかこう、魚みたいな生臭い匂いするって……」

遠慮しいしい、加奈枝がちょっと鼻をならしてみる。するとどうだろう、柚子のような心地よい柑橘系の香りが、お姉さんの方からふんわり漂ってくるではないか。全然生臭くなんてない、むしろ清々しいいい匂いがする。これも違った。

加奈枝はますます慌てふためいてしまった。水かきは付いているし川辺にいるし、何よりご本人が「河童だ」と仰るのでお姉さんは河童で間違いない、間違いないはずなのだけど、お婆ちゃんから聞かされた「河童の特徴」にちっとも当てはまらない。お皿もなけりゃ甲羅もなく、髪はさらっさらの黒髪ロング、ついでに漂ういい匂い。あと、顔立ちも恐ろしいと聞いていたけれど、お姉さんはどう見たってクールでスマートな綺麗どころだ。けれど、さすがにこれは口に出して言うと失礼に当たると思ったので、加奈枝は心の中にしまっておいたのだけれども。

「なるほど。それはきっと、古くから東雲に住まう老君から耳にしたことだろう」

「えっ? う、うん……うちのお婆ちゃん、河童ってこないな物の怪さんなんやで、怖い物の怪さんやねんでって、うちに教えてくれたから……」

「やはりそうか。ならば、納得だ」

河童のお姉さんはふっと柔らかな笑みを見せて、緊張している様子の加奈枝に優しい目を向けた。

「往時は人と河童の間に隔たりがあった。互いを侵さぬために、人は河童を畏れ多いものとして伝えてきたのだろう」

「けれどご覧の通り、浅葱の河童とはこのような姿形をしている。まあ、驚くのも無理からぬことだな」

水かきの張った手でそっと頬を撫でつつ、お姉さんはさらに続けて。

「わらわの名は水穿。水を穿つ、と書く。人の子よ。できれば、わらわに名前を教えてくれないか」

「あっ……はいっ。ええっと、うち……か、加奈枝って言います。湯村加奈枝、です」

河童のお姉さん――もとい、水穿と言の葉の名刺交換をして、加奈枝が深々と頭を下げた。

この人……ちゃうちゃう、河童さん、自分のこと<わらわ>って言うんや。もしかしたら、偉い河童の娘さんやったりするんかな――なんて、加奈枝はあれこれと想像の翼をはためかせる。

「カナエ、か。うむ、憶えやすい名前だな。わらわのことは好きに呼んでくれて構わない」

「はいっ……ええっと、いきなりすいません。あの、一個、訊いてもいいでしょうか」

「ふむ、質問か。構わないぞ、カナエ。どうした?」

「水穿さんって、なんやこう……あの、河童の、お姫さん……やったり、するんでしょうか」

「河童の姫君? わらわがか?」

加奈枝から唐突に飛んできた質問を受けて、水穿は人で言うところの人差し指で自分の顔を指しつつ、鳩が豆鉄砲を喰らったようなきょとんとした表情を見せる。どういう意図で質問したのか、うまく図りかねているみたいだ。無理もない、これはいくらなんでも突拍子に過ぎる。加奈枝もあとからそれに気が付いて、いささか慌てながらフォローを入れた。

「あ、えっと……その、自分のこと、<わらわ>って言うてるから、ちょっとこう、高貴な感じなんかなあ、って……」

「ああ、そういうことか。カナエの言う<わらわ>は<妾>、『妾』という字の方だな。わらわの言う<わらわ>はそうではない。『童』という字の<わらわ>だ」

「えっ!? 童って、そないな読み方あるんですか……」

「うむ。わらわはまだ心身共に半人前、未成熟だ。ああ、ここは解り易く子供と言うべきかな。浅葱に住む河童の女子には、おおよそ嫁に行けるようになるまで、己れのことをわらわと呼ぶ風習がある。そういうことだ」

水穿からすぱっと解説してもらい、加奈枝は疑問が見事に氷解した。なるほど、まだ子供だから「童」なんだ。初めはびっくりしたけれど、なかなか理にはかなっている。うんうんと頷いて、加奈枝は納得してみせた。

「さて、カナエ。ここで折り入って話がある。聞いてくれるか」

佇まいを直して「折り入って話がある」と水穿から切り出された加奈枝が、再び緊張を取り戻して目を見開く。眼前の水穿は透き通った美しい肌をしていて、顔立ちは端整で非の打ち所はなく、そしてその目からは加奈枝にはない、大人の色香を醸し出している。こんな綺麗なお姉さんが、うちみたいなちんちくりんにどんな話があるんやろ――と、加奈枝が興味と不安で胸をいっぱいにしていると。

「先ほどの泳ぎぶり、間近で見せてもらった。実に見事なものだ。素晴らしかったぞ」

「その腕前を見込んで、ひとつ、頼みがある」

ひと呼吸置いてから、水穿は――。

「――カナエ」

「わらわに、泳ぎの手解きをしてくれないか」

 

ぶうん、という音を立てて扇風機から送られてくる涼しい風を浴びながら、加奈枝がほう、と小さく息をつく。今日はこれから特に出かける予定もつもりもないので、半袖のシャツにハーフパンツという、いかにも部屋着然とした気楽な格好をしている。夏の強い日差しで溜まった熱と、水泳で生じた体の中の熱、それから――うまくは言えないけれど、そのどちらでもない気がする熱が一緒くたになって、とても暑かった、熱かった。だから加奈枝は家に帰ってくるなりずっと、扇風機にかじりついたままだ。

回らない頭をがんばって働かせて、ついさっき自分の身に起きたことを思い返す。河童のお姉さんである「水穿」さんに出会ったこと、河童は自分の知っている化け物ではなく人間そっくりの見た目だったこと、それから、何より。

(水穿さん……ほんまに、うちなんかが泳ぐん教えてええんかな……)

河童である水穿から、どういうわけか「泳ぎを教えてほしい」と頼まれてしまったこと。

いつものように珠川で泳いでいたら、知らない間に隣に綺麗なお姉さんがいて、しかもお姉さんの正体は河童で、おまけに河童なのに泳ぎを教えてほしい、なんてお願いされた。なんだか夢みたいだ。いや、もしかしたら自分は珠川で知らない間に溺れてしまっていて、これは意識朦朧としながら見ている夢なんじゃないか。そんなちょっと怖い考えが浮かんできてしまって、加奈枝は恐る恐る自分の頬をつまむと、できるだけ強く力を入れてつねってみた。

「あいたたたっ」

いつも通りしっかり痛くて、加奈枝は思わず声を上げた。ほんのり涙目になりながらさすったほっぺたは、虫さされのように赤くなっている。ちょっと力を入れ過ぎちゃった、そう反省すると共に、ああ、あれってやっぱりホントにあったことなんだ、とも思う。現実味はないけれど、でも紛れも無く現実に起きたこと。こうやって家に帰って落ち着いてからじっくり考えてみると、自分の置かれた状況の不思議さをひしひしと実感せずにはいられない。

水穿から泳ぎを教えてほしいとお願いをされた加奈枝は、もちろん戸惑った。

「ええっ!? そんな、うちなんかでええんですか。言うて、そない上手とちゃうやろし……」

「言っただろう、カナエの腕前を見込んでのことだと。それに、あれほどの泳ぎをわらわに見せておいて、上手でないなどとは言わせないぞ」

「ううん……せやけど、うち、教えるん下手やと思うし……」

「構わない。カナエにできるだけのことをしてくれれば、わらわは満足だ。この通りだ、お願いする」

お願いをされることそのものは、大いに戸惑うところではあったけれど、決して嫌なものではなかった。自分の腕前を認めてくれていると言うことに他ならないし、悪い気は少しもしない。けれども、他人に教えられるくらい達者かと言われると自信が持てなかったし、何より相手が河童の水穿さんだ。河童というのは古今東西、泳ぎに長けているものではないか。それがどうして、ただの中学生である自分に泳ぎ方を教わるのだろう。ここが不思議で仕方なかった。

それより何より、クールでスマートで大人っぽい水穿さんにお願いをされている、加奈枝にはこの状況そのものが一番の戸惑いポイントだった。最初に書いたとおり、加奈枝は自分をこれといった特徴のない普通の女の子だと思っていて、こんな綺麗なお姉さんと話ができること自体が考えもしなかったことなのだ。あまつさえそんな有様だというのに、お姉さんが自分に頼みごとをしている――この状況を飲み込むだけで、加奈枝はもういっぱいいっぱいだったわけだ。

「頼む、この通りだ。わらわは、カナエから泳ぎの手解きを受けたい」

「カナエのように泳げるようになれれば、きっと素晴らしいに違いない。わらわはそう信じている」

「この不肖の河童の願い、叶えてはくれないか」

ここまで言われてしまっては、おどおどしていた加奈枝も、もう腹を括るしかないと覚悟を決めた。

「……わかりました。うち、がんばります。水穿さんに、精いっぱい教えます。うちの方こそ、よろしくお願いします」

「ありがとう、その言葉が聞けて嬉しい。カナエはまっすぐで、優しいのだな」

口元に柔らかな笑みを浮かべた水穿に「優しい」と言われた加奈枝は、思わず、とくん、と胸が高鳴るのを感じた。そっと胸に手を当ててみると、心臓がどっくどっくといつもよりずっと早く脈打っている。こんなのは、今までにいっぺんだって経験したことのない感覚だった。

「カナエ。早速だが、明日もここへ来てほしい。時間はいつでも頓着しない。わらわはいつもこの辺りにいるから、カナエの都合が付く時間でいい」

「言うまでもないかもしれないが、水泳着を忘れずに持ってきてくれ。川に入水して泳ぐことになるからな。勿論、わらわもきちんと用意しておく」

「あと――できるなら、今日ここでわらわと会ったことは、他言しないでもらいたい」

「往時に比べれば幾分隔たりは小さくなったとは言え、河童はまだまだ人との接点が少ない。わらわとカナエの逢瀬が明るみになれば、けだし風波となるだろう。あまり事になると、カナエにも世話を掛けることになってしまう」

「それに。もし、往時の河童に詳しいカナエの御祖母様がこのことを知れば、無用な心配をさせてしまうだろうからな」

このように約束を交わしたので、加奈枝は今日水穿と会ったことを、ふくらみかけの胸のうちへそっとしまっておこうと固く決意していた。

それにしても、不思議な感覚だったなあ――と、ぼんやりしながら物思いに耽る。水穿を初めて目にしたときの、あの驚くほどの胸の高鳴り。急に隣に現れたこと、水穿が河童ということ、目を奪われるような美しい姿をしていたこと、それらがひとつになって、あの脈動を生み出したに違いなかった。

(水穿さん、すらっとしてて綺麗で、うちからしたら「お姉さん」って感じや)

(うちと違て胸も大きかったし、言葉づかいも大人っぽくて素敵やったし)

(そないなお姉さんで、しかも泳ぐん得意なはずの河童の水穿さんに、うちなんかが水泳教えるなんて……)

自分があの水穿にあれこれと水泳の手解きをしている姿を想像すると、加奈枝はもう顔から火が出そうになるくらいに恥ずかしくなって、途端に顔をかあっと真っ赤にしてしまった。ああ、どないしよう、どないしよう。大きな不安と、それに負けないくらい大きなそわそわ感がせめぎあって、加奈枝は思わずもじもじと身をよじった。

「ううっ、うち、粗相のないように、がんばらな!」

ぺちぺちとほっぺたを両手で軽く叩いて、加奈枝はしゃきっと気合いを入れ直すのだった。

さてさて、加奈枝が気持ちを新たにすると同時に、台所の方から人影が姿を現した。

「さあさあ加奈枝ちゃん、お待ちどうさま。お昼にしましょうね」

「あ、お婆ちゃん。ありがとう。今日何作ったん?」

「越前そば。昨日炊かずに残ったお大根をすって、紅葉おろしも添えたのよ。加奈枝ちゃん、おそば好きだったからね」

「うん! うちおそば大好き。食べよ食べよ」

お婆ちゃん――本名は美津江というのだけれども、加奈枝はずっと「お婆ちゃん」と呼んでいるので、ここは彼女に倣って「お婆ちゃん」と呼ぶことにしよう。意外としゃきしゃきした足取りで持ってきたお盆を受け取って、加奈枝がちゃぶ台に越前そばと薬味をてきぱきと並べていく。お茶出してくる、そう言って冷蔵庫までとてとて駆けていってから、ボトル入りの冷たい麦茶を持ってくるのも忘れない。

いただきます、としっかり手を合わせてから、加奈枝とお婆ちゃんが揃ってお昼ご飯を食べ始めた。学校で二時間くらいみっちり補講を受けて、それからさらに一時間近く珠川で目一杯泳いだ後だったから、加奈枝のお腹はすっかりぺこぺこだった。大根おろしと紅葉おろし、それから刻んだばかりの青ねぎをたっぷり入れたそばつゆにお蕎麦を半分くらいひたして、それからずずずっと一気にすする。これを何度も繰り返して、夢中でご飯を食べる。

「加奈枝ちゃんは、今日も珠川で泳いできたの?」

見た目に似合わずもりもりと豪快にお蕎麦をいただく加奈枝を微笑ましげに見つめつつ、お婆ちゃんが加奈枝に訊ねた。加奈枝は口の中でもぐもぐしていた蕎麦を飲み込んで、後押しとばかりにコップに注いだ麦茶をぐいっと一口飲むと、ことん、とちゃぶ台の上にコップを置いた。

「ええっと……うん。今日もいつもと同じように、川で泳いできてん」

答えにいささか切れがないのは、水穿との約束を思い出したからに他ならない。いつも通り珠川で泳いだ、くらいまでなら言っても大丈夫かな……と、加奈枝なりに加減を見て話をすることにした。幸い、お婆ちゃんは加奈枝の受け答えに何の疑問も抱かなかったようだ。うんうんと嬉しそうに頷いて、蕎麦を上品に一口啜る。

「涼しくていいわねえ。お婆ちゃんも子供の頃は、よく珠川で泳いだものよ。加奈枝ちゃんほどじゃないけれど、泳ぐのは得意だったから」

「お婆ちゃんも泳ぐん得意やったんや。あ、もしかしたら、うちが泳ぐん好きなん、お婆ちゃんの遺伝かな」

「うふふ。もしそうだったら、お婆ちゃんも嬉しいわ。珠川、泳ぐにはいい場所でしょ?」

「うん。静かやし、広いし、他に人も来うへんから、ええなっていっつも思ってるねん」

「そうね、そうね。勉強もしっかりして、外で元気に遊んで、加奈枝は本当にいい子だねえ。顔も可愛らしいし、お婆ちゃんの自慢の孫よ」

そんな、うち別に可愛いとかちゃうし……と謙遜しつつも、お婆ちゃんから褒められたことそのものは満更でもない様子で、加奈枝は照れつつも笑ってみせる。

と、和やかな雰囲気でお昼ご飯を食べていたのだけれども。

「そういえば、加奈枝ちゃん」

「ん? どないしたん?」

「加奈枝ちゃんって、今好きな子とかいないの?」

「ふぇっ!?」

お婆ちゃんからいきなり「好きな子はいるのか」なんて訊ねられて、加奈枝は普段出さないような思いっきり裏返った声を上げてしまった。軽くむせながらどんどんと胸を叩いて、それから麦茶をぐいぐい流し込んでから、一体何事かとお婆ちゃんに目を瞠った。

「ちょ、お婆ちゃん、急に変なこと訊かんといてや。びっくりしたわ」

「そう? 加奈枝ちゃんくらいの年頃なら、恋のお悩みが一つくらいあってもいい頃だけどねえ。それに、ここに住んでる男の子が、加奈枝ちゃんみたいに可愛い子を放っておくなんて、考えられないけれども」

「うちそんなキャラと違うもん……関西弁喋るけどいろいろゆっくりやから、『加奈ちゃんは癒し系だね』とか言われてるし」

「じゃあ、もしかすると、クラスの男の子の中にも、加奈枝ちゃんに癒されてる子がいるかも知れないのね。きっとその内、誰かがアタックしてくるわ」

「もう、お婆ちゃん変なこと言い過ぎやわ。そんなん絶対あらへんし」

クラスには自分よりももっと可愛らしい(と、加奈枝は思っている)子が何人もいるし、自分のようなちんちくりんを好きになる子なんて、そうそういるとは思えない――と、いつもの気弱さを発揮して、加奈枝はお婆ちゃんの考えを真っ向から否定した。

「残念ねえ。お婆ちゃん、加奈枝ちゃんと恋バナしたかったのに」

「お、お婆ちゃん……恋バナて……」

既に還暦を過ぎて貫禄も十分なお婆ちゃんの口から、さらりと「恋バナ」なる単語が出てきたことに、加奈枝は文字通り絶句した。困惑の度合いはますます増すばかりだ。

「まあいいわ。加奈枝ちゃん、誰か好きな子ができたら、お婆ちゃんに遠慮なく相談してちょうだい」

こう見えても、昔は花も恥らう乙女だったのよ――なんて付け加えて、お婆ちゃんはコケティッシュな笑みを見せる。

こんな風に意外とお茶目なところがあるのが、加奈枝のお婆ちゃんという人なのだった。

 

さてさて、明けて翌日。

「水穿さん待ってるやろから、早よ行かな」

昨日と同じように、補講を終えたその足で直接珠川まで向かう加奈枝。もちろん、学校の更衣室で先に着替えておくのも忘れない。急いでいるためか、ブラウスが汗に濡れて水着の形がうっすら浮かんでいることにも気付くことなく、一心不乱にしゃかしゃかと歩いていく。水穿は「いつ来てもらっても構わない」と言ってくれていたけれど、加奈枝としては水穿さんを長々と待たせたくはなかった。

途中で道を外れて脇へ入り、段々大きくなっていく清流の音を聞きながら茂みをかき分けて歩いていくと、加奈枝は昨日より幾分早く珠川へ辿り付いた。ふう、と大きく息をつき、少しばかり乱れてしまった呼吸を整えていく。体内に熱気がこもっているのを感じて、ブラウスの生地をつまんでぱたぱたさせる。汗で濡れた部分がさあっと冷たくなって、加奈枝は小さく身震いした。

「お早う、カナエ。もう来てくれたのか」

「水穿さん! おはようございます」

ふっ、と隣に気配を感じたと思うと、加奈枝の予想通り、水穿が立っていた。朗らかに声を掛けてくる水穿に、加奈枝もはきはきした口調で応じる。服装は昨日と変わらず、お祭りのときに身に着ける様な紺色の法被に、足は素足といういでたちだ。水穿がこのファッションを好んでいるのか、あるいは浅葱の河童が人前に出るときの正装なのかも知れないと、加奈枝は考えを巡らせた。

「カナエ。来てくれたばかりで申し訳ないが、早速頼めるか」

「はいっ。うちも頑張りますっ」

「よし、では着装を整えるとしよう」

既にご承知の通り、加奈枝が先生で水穿が教え子という関係なのだけれども、二人の様子を見ていると、加奈枝の方がかしこまっていて、どうにも逆に感じてしまう。そこがまた、可笑しなところでもあったのだけれど。

加奈枝は近くにあった手ごろな茂みに入って、いつもしているのと同じようにして制服を脱いでいく。スカートとブラウス、それから靴下をきちんと畳んでカバンへ押し込むと、いつも着ている学校指定の紺色の水着だけを身に着けた恰好になる。すると、これから自分が水穿さんに水泳を教えるのだという実感がぐんぐん膨らんできて、嫌が応にも胸が高鳴ってきた。ちゃんと教えられるかな、うまく伝えられるかな――粗相が無いようにと、加奈枝はまた気合いを入れなおす。

さあ始めよう、と思って振り返った加奈枝だったけれど、ふと、水穿さんはどんな恰好で泳ぐのだろう、なんてことを考える。たぶん、着装を……と言っていたから、素っ裸ということは無いはず。水穿さんは綺麗な肌をしていたから、きっとスタイルもいいに違いない。そんなことを思うと、加奈枝はますますどきどきして、ほっぺたが熱くなってきた。これじゃダメとぶんぶんと首を振り、雑念を吹き飛ばす。どうにかこうにか、気持ちを落ち着かせると、加奈枝は茂みから外へ出た。

「水穿さん、お待たせっ」

「ああ、カナエ。わらわも丁度今準備が済んだところだ。着装に乱れは無いか?」

「ええっと、どうやろ……うち、晒に褌とか、お祭りで見たことあるだけやから……」

なんとなく予想はしていたけれども、水穿は既製品の水着などではなく、さりとて素っ裸というわけでもなく、幅広の真新しい白生地で出来た晒と褌を着用していた。法被の下にそのまま身に着けていてもおかしくなく、水穿の持つ雰囲気からしてもいかにも「ありそう」なスタイルに思えた。あいにく加奈枝はどちらも身に着けたことはなかったものの、しっかりと着装できているように見えた。

「見ただけですけど、しっかり締まってます。大丈夫やと思います」

「ありがとう。一応父母から修習してはいたが、不恰好になっていないか、少しばかり憂慮していたからな。カナエに言ってもらえるなら、間違いない」

「そんな、うちとか水着着てますし……せやけど晒に褌て、ずいぶん大胆な恰好やなあ……」

思わず感想を漏らした加奈枝に、水穿はというと。

「そうだろうか。わらわにしてみれば、入水するに当たって着衣する方が、いささか不可思議だと思料するが」

「やっぱり、普段は裸で水ん中入られるんですか?」

「ああ。文字通り一糸纏わぬ裸体というわけだ。本来浅葱の河童はそうして水泳するものだと、わらわの父母から教示されている。ただ、わらわは人様から水泳を習う身だ。ゆえに、人様の習慣に倣うべきだと考えた」

「だから、今日は晒と褌、着けてくれたんですね。うち、ええと思います」

水穿の「人からものを習うのだから、人の習慣に合わせよう」という考えを聞いて、加奈枝はすっかり感心してしまった。見た目は艶っぽくて余裕を感じさせるけれども、性格は至って真面目で律儀。今までの言動や行いから、加奈枝は水穿の人柄をそんな風なものだと思っていた。

加奈枝が水穿を見ていると、水穿は布地の感触が気にかかるのか、上体をよじって背中へ目を向けてみたり、ちょいちょいと晒の巻き具合を直してみたり、褌をくいくいと少し引っ張ってみたりしている。これだけ少ない布地でも、水穿はいささか煩わしいものだと思っているようだ。加奈枝にしてみれば、しっかり肌を覆う今の水着姿でも露出が多くて恥ずかしいと思っているというのに、水穿さんには戸惑っている様子がちっとも無くて、堂々としてるなあ、と感嘆するばかり。

(水穿さん、やっぱり綺麗やわあ。スタイル抜群やし)

目の前に立つお姉さん・水穿のプロポーションは、加奈枝にしてみれば「完璧」の一言に尽きた。晒を巻いてなお胸の大きさはハッキリ分かるくらいで、それでいて形が崩れていることもない。お腹は言うまでもなくすっきりで、腕も脚も陸上部の友達のようにしっかり引き締まっていて、筋肉がバランスよく付いている。ため息が出るくらい、綺麗な体つきだった。

それから、もう一つ。水穿が躰を揺らすたびに、褌の前垂れの部分が微かに揺れて、加奈枝はついついそちらにも目が行ってしまっていた。目にするごとにそこはかとない胸騒ぎを覚えて、もじもじせずにはいられなくなる。

水穿さん……と、ぼーっと見惚れていた加奈枝だったけれども、そこへ急に水穿が近付いてきた。真っ正面に立つと、さっとさりげなく手を後ろへ回して――。

(さらり)

ナイロンの生地に包まれた加奈枝のお尻に、さらりと触れた。さわさわと撫でた。

「ひゃんっ!?」

もちろん、加奈枝は全力で驚いた。昨日お婆ちゃんの前で出したのとよく似た裏返った変な声をあげて、その場でぴょんと大きく飛び上がったくらいに驚いた。誰だっていきなりお尻を触られれば、間違いなく驚くだろう。顔を耳たぶまで余すところ無く真っ赤にして、加奈枝は両手でぎゅっとお尻を押さえながら、水穿をまじまじと見つめた。

「すっ、すすす、水穿さんっ、何するのん! いきなりお尻触って、エロ河童やんっ!」

驚きと恥ずかしさでいっぱいいっぱいになってしまって、加奈枝は勢い余って「エロ河童」なんて絶叫してしまうくらいになっていた。うう、これはどう考えても、水穿さんはおふざけでやってきたに違いない。きっと、自分の慌てる様子を見て、にやにやしているはずだ――そんな確信を持って、改めて水穿の顔を見てみる。

が。

「そんなに驚いたか? わらわは、普通にカナエの尻に触れただけのつもりだったが……」

笑っていたりすることはかけらもなくて、あくまで普通の、冷静な様子を見せていた。加奈枝の反応にきょとんとしていて、どうしてそんなに驚くのだろう、と顔が物語っていた。加奈枝の「エロ河童」発言にも怒った様子はなくて、ただただ不思議そうに首を傾げるばかりだった。加奈枝にしても、水穿の顔つきは予想外だった。

何が何だか分からなくなった加奈枝だったけれども、今度は別の考えがむくむくと頭をもたげてきた。お婆ちゃんから聞かされた河童の特徴の中に、今まで思い出せていなかったものが一つあった。それはまさに、お尻に関わるものだ。聞かされた話が結構怖かったことを思い出してちょっと身震いしつつ、加奈枝は水穿に恐る恐る訊ねてみる。

「水穿さん……もしかして、うちの<尻子玉>狙ってたりとか……?」

浅葱に限らず河童と言えば外せないのが、河童が好きだという「尻子玉」だ。人間のお尻から抜き取れる小さな玉で、抜かれた人間は精気を失ってしまうという。よもや水穿さんはうちからこれを抜こうとしたのではないかと、加奈枝は確認してみたのだ……が。

「違う、そうじゃない。それは無いぞ、カナエ」

「あ、違たんや……」

「誓って違う、正真のことだ。わらわはカナエを傷つけることはしたくない」

「せやったんか……よかったわあ、びっくりした」

「ああ、そういうことか。先程の反応は、かような話を聞いて危殆を抱いていたからなのだな。カナエの気も知らずに、悪いことをしてしまった。詫びさせてほしい」

いや、それとは別に、お尻に触られたのが単純に恥ずかしかったということもあるのだけれども、とにかく水穿さんは断じて尻子玉を抜くつもりはなかったようで、加奈枝はほっと胸を撫で下ろした。

「ひとつ話しておこう。カナエ、浅葱の河童の間では、尻子玉などというものは存在しないという見解で一致を見ている」

「えっ!? それ、どういうことなんですか……?」

「言葉通りだ。尻子玉と呼称されるような器官は人の躰には無いし、ゆえに河童がそのような架空の器官を好むということも無い。他所で<河童>と呼ばれる物の怪や生き物には存在を信じている者もいると風聞するが、生憎浅葱の河童には、現実主義的な者が多いのでな。わらわもその一員だ」

「じゃあ、尻子玉言われてるもんは、うちの体にはあらへんのや……」

「うむ。所謂『河童に尻子玉を抜かれた』などと言われるのは、土左衛門になった者がそのようになってしまうからだろう。だがこれは、死後に筋肉が弛緩して起きる現象というのが実際のところだ」

どうしてこのような話が出てきたのかは分からないが、浅葱の河童に限って言えば、先程わらわがカナエにしたような、尻に触れることそのものが、もしかすると「尻子玉を抜かれる」という発想に至ったのかも知れないな――水穿はすらすらと言葉を並べていって、加奈枝は聞いているうちにすっかり納得してしまっていた。

「浅葱の河童は、先程のように尻に触れるのが、時候の挨拶なんだ」

「互いに面を寄せ合うことができるし、手触りで相手の体の具合も判る」

「何より――触れられると、心地よいしな」

けろっとした調子で「触られると心地よい」と言う水穿の様子を見た加奈枝は、水穿がおふざけやからかいでお尻を触ってきたわけではなくて、あくまで彼女なりの挨拶の一環としてしたことなのだと理解した。

(水穿さんには水穿さんの礼儀とか、文化とか、そういうのがあるのに、うち……失礼なこと言うてもた)

てっきり悪戯だとばかり考えて、勢いに任せて「エロ河童」なんて言葉を使ってしまったことを、カナエは今更ながらとても後悔していた。さっきとは全然違う理由で顔を赤くして、水穿に深々と頭を下げた。

「水穿さん、ごめんなさい。うち、急にお尻触られてビックリしてしもて、それで……」

「いたずらとかと違て、河童さんの挨拶やったとか、そんなん全然知らへんで、むっちゃ失礼な事言ってしもて……」

しょげながら謝る加奈枝を見た水穿は、やわらかな表情を見せて、そっと彼女の肩に手を置く。

「気に病むことはない。わらわには河童のしきたりがあるように、カナエには人様のしきたりがある。そういうことだ」

「このまっすぐで素直なところは、とても好ましいな。わらわが見込んだだけの事はあった。ますます惚れたぞ、カナエ」

水穿が立腹しているどころか、むしろ自分の事をますます信頼してくれたのだと知って、加奈枝は再び表情を明るくするのだった。

 

始めるまでにちょっとひと悶着あったものの、いよいよ加奈枝は水穿に泳ぎを教えることになった。準備運動をしてから軽く水を浴びて準備を整えると、並んでいっしょに川へ入水する。そのまま加奈枝のお腹の辺りまで水に浸かるくらいの深さのところまで歩いてゆき、そこで一度立ち止まった。

「ほな、水穿さん。今どれくらいできるか、うちに見してもらえるかな」

「承知した。ここで見ていてくれ」

まずは水穿の現状の能力を把握したいという加奈枝の提案をすんなり聞き入れて、水穿は身を低くして泳ぐ姿勢に入った。形はしっかりしていて、これだけ見ていると彼女が加奈枝にわざわざ泳ぎの教えを請う必要は無さそうなくらいだ。加奈枝が固唾を呑んで水穿を見守っていると、顔を水面に浸けて、いよいよ泳ぎ始める――。

かと思いきや。

「…………」

「あ、あれ……? 水穿さん、水穿さん、どないしたん?」

さっと水中に潜ったかと思うと、そのままスムーズに、とってもスムーズに、水穿は水底へと沈没していった。あまりに滑らかに水没していったので、加奈枝は始め河童流の泳ぎ方なのかもとか思っていたが、二十秒近く経っても一向に動く気配が無い。さすがにこれはまずいと、慌てて加奈枝も水底へ向かった。

加奈枝が潜ってみると、水穿は川の底でうつ伏せのまま倒れていた。これはもしかすると溺れてしまったのでは、加奈枝が不安に駆られて水穿の肩を持つ。

(水穿さん、大丈夫!?)

水中なので声は出せなかったけれど、加奈枝の切迫した表情が言葉以上に彼女の心境をしっかり物語っていた。急いで水穿の躰へ腕を回すと、出来る限りの力を込めて水穿を抱きしめたまま、勢いに任せて一息に水面まで戻る。水穿の容態が心配だ、もしかすると意識を失っていたんじゃないかと、加奈枝は気が気ではなかった。ぷはぁっ、と水面から飛び出して息を吐き出すと、加奈枝はすぐさま水穿に呼び掛けた。

「水穿さん、水穿さん、いける? 息してる!?」

「見ての通り、わらわは普通に呼吸しているぞ。カナエ、どうかしたのか?」

「あ、あれ……? なんか、全然余裕ありそうやけど……どっか、具合悪いところとか無い?」

「うむ、特に無いな。体調に気掛かりなところは皆無だ」

普段通りの涼しげな表情で「普通に呼吸している」「体調に気掛かりなところは無い」とあっさりさっくりきっぱり答える水穿。その言葉に偽りはまったく無く、呼吸は少しも乱れていない。明らかに問題無さそうである。加奈枝は拍子抜けすると同時に、水穿が別段苦しそうにしたりしていないのが不思議でならなかった。

「それよりカナエこそ息災か? 何やら慌てているように見えるが」

「えっ!? だって水穿さん、水の中で長いことおって、全然動かへんかったから、うち、水穿さん溺れたんやって思て……」

「河童は水中が本領だ。陸上と同じように、生命維持に必要なだけの呼吸が出来る」

「あっ、そっか……河童やから、水の中でも全然平気なんや」

「ああ。より精確を期すなら、陸上でも水中と同じように呼吸が出来る、と言うべきかな」

何のことは無くて、河童は水中でも呼吸ができるからという、考えてみれば当たり前の理由によるものだった。加奈枝は納得すると共に、考えが回らずに慌てて水穿を引き上げてしまったことをちょっぴり後悔していた。まあ、悪いことをしたわけじゃないから……と言い訳しつつ、水穿の顔をそっと覗きこむ。

「あの、水穿さん……もしかして、水穿さんって……」

「今見せたとおりの有様だ、カナエ。わらわは――筋金入りの<鉄鎚>、そう言う他あるまい」

「やっぱり……せやから、うちに泳ぐん教えてほしい言うたんですね」

少しばかり苦々しい表情をして、水穿が頷く。河童である水穿が人の子である加奈枝に泳ぎの指導を仰いだのは、加奈枝も今まで見たことのないくらいのとんてもないカナヅチだったから、というわけだ。

「しかし……困ったな。あれこれと思案し潜考している間に、気が付くと水底へ沈滞してしまっていた」

「ああなってしまっては腕で水を掻けぬし、脚で水も跳ねさせられぬ。泳ぐことなど出来る筈も無い」

「そもそも、脚か腕か、どちらを先に動かすべきなのか……何時もこうして右顧左眄しては、同じ失態を繰り返してしまう」

「わらわはどうも、頭でっかちというべき性質のようだ」

水穿が泳げないのは、まずはきちんとした形から入ろうとして考えているうちにどんどん沈んでしまい、やがて底に着いてしまって身動きが取れなくなる――という理由から来ているようだった。頭の回転が速い水穿は自分でもそれをしっかり自覚していて、体を動かすことよりも頭で考えることを優先してしまう己れの性を「頭でっかち」と表現して見せた。普段の冷静さは保ちつつも、珍しく気落ちしているのが見て取れた。

落ち込む水穿を見て居た堪れなくなった加奈枝が、髪に残った水滴を飛ばしながらぷるぷると首を振って、水穿にまっすぐ目を向けた。

「水穿さん、ちゃうんや! 水穿さんは頭でっかちなんかと違う!」

「なんて言うたらええんかな……うち口下手やから、上手いこと言われへんけど……」

「水穿さんはたぶん、物事にちゃんと順序を付けて考えられるんやと思う。話し方もきっちりしてるし、絶対そうやわ!」

「うち、それってすごいええことやと思う! ほんまに、ほんまにそない思うもん!」

「うちなんて、いっつも気持ちばっかり先に出て、失敗してばっかりやから……」

「せやから水穿さん、水穿さんの先に考える性格は、そんな悪いもんと違うって、うちは思う!」

両手でぐっと握りこぶしを作って、加奈枝は水穿に力強く言って見せる。普段の気弱な様子とは打って変わって、「水穿さんを励ましたい」という気持ちが前面に押し出された、勇ましささえ感じる顔つきだ。

「……ありがとう、カナエ。わらわは嬉しいぞ、心底嬉しい。これほど力を感じる励ましを貰ったのは、初めてのことだ」

いつまでも落ち込んでなどいられぬな、そう言って、水穿は再び表情に覇気を漲らせた。その意気や、うちもがんばるから、水穿さんもがんばろ。加奈枝がさらに励ますと、水穿はしっかり頷いて応じた。

 

昨日と同じく小一時間ほど泳いでから、加奈枝と水穿は揃って川岸へ上がる。加奈枝が大小の石が並ぶ川原へぺたんとお尻を付いて座り込むと、隣で水穿もそれに倣った。加奈枝の様子を見る限り、かなり疲労が溜まったようだ。

「はぁー、疲れたあ……水穿さん、どない?」

「まだまだ、といったところか。加奈枝のようには、そうそう泳げそうも無い」

「ううん……せやなあ。うち、もうちょっと上手いこと教えれたらええねんけど……」

一番初めに水穿がそのまま水中へ沈んで行ったときに加奈枝が感じた通り、水穿はとんでもないカナヅチと言わざるを得なかった。泳ごうとしてはゆっくり沈み、水底でのっそり立ち上がって水面まで戻り、再び泳ごうとしてまた沈む。河童ゆえに本当の意味で溺れてしまうことはなかったけれど、二人の練習風景を傍から見ると、何度も何度も溺れているようにしか映らなかったに違いない。

加奈枝は物心付いた頃から何も意識せずとも普通に水に浮くことができていたから、そもそも浮くことさえできない水穿にどうアドバイスすべきかしきりに頭を使った。人と河童という根本的な違いもあったし、浮けないほどのカナヅチというのは想像を超えていたけれども、それでも加奈枝はできる限り水穿の気持ちを汲んで、彼女に必要だと思うアドバイスを懸命に重ねていたのだった。

「カナエ、申し訳ない。わらわにも、水泳を習得したいという思いはあるのだが……」

「そんな水穿さん、謝ることちゃうって。うちももっと、水穿さんの役に立つアドバイスしやなあかん思てるし」

「不甲斐ないが……カナエがそう言ってくれると、わらわは心強い」

「うん。水穿さん真面目やから、練習したら絶対できるって。うちも平泳ぎとか長いことできひんかったけど、練習したらできるようになったから」

自分の経験を引き合いに出して、加奈枝が水穿に励ましの言葉をかける。水穿は申し訳なさそうな表情をしつつも、加奈枝の言葉から力を貰ったようだった。

(これは、教えるん大変そうやなあ……うち、もっとがんばらな)

加奈枝はここから先の道のりの険しさを実感して、しっかり気を引き締めると同時に。

(せやけど……その分、うち水穿さんと長いこと一緒におれるいうことやんな。これからもっと水穿さんと話したり、一緒に遊んだりできるんや)

憧れのお姉さんである水穿と、これからもっとたくさん触れ合えるのだと思うと、俄然やる気が出てくるのだった。

小休止を挟んで少し体力を回復させたところで、加奈枝がすっくと立ち上がる。

「水穿さん。うち家でお婆ちゃん待ってるから、そろそろ帰るわ」

「ああ、分かった。今日はとても助かったぞ、カナエ。改めて礼を言わせてくれ」

今日はこの辺りでお開きにしよう、加奈枝の提案を水穿も受け入れて、続きはまた明日に持ち越しとなった。うち着替えてくる、と言い残して、水着へ着替えた茂みへ身を隠す。

程なくして、雫を拭って水着を脱ぎ、中学校の制服を身に着けた加奈枝が姿を現した。水穿も同じく着替え終えていて、いつもの法被姿で加奈枝を出迎えた。

「お待たせ、水穿さん。髪拭くのんちょっと時間かかって」

「構わないぞ。わらわも今しがた、着装を解いたばかりだからな」

ふわりとした笑顔を見せる水穿。加奈枝はそれが自分に向けられていることを実感して、ほのかに顔を紅く染める。

「そう言えば……言いそびれていたが、カナエ。なかなか品のいい装束だな。昔、わらわの祖母上が似た装束を着ていたのを見た記憶がある」

「これ? 中学校の制服やわ。結構可愛らしいやんな、うちもお気に入りやねん。お婆ちゃんも可愛い言うてくれるし」

「なるほど、学堂の標準服というわけか。服飾の小奇麗さもあるが、カナエが召しているからこそ愛嬌がある。わらわはそう感じるぞ」

「わ、わ、水穿さん! そんな、うちにお世辞言うても何も出て来うへんし、そんな、やめてえや」

水穿から「カナエが着ているから可愛い」なんて言われて、ほのかだった顔の赤みが一気に最高潮に達した加奈枝が、わたわたと手を振り回して慌てて見せる。そんな加奈枝の様子を、水穿は悪戯っぽさを感じさせない、穏やかな笑みを含んだ表情でもって、優しく見守っていたのだった。

最後に軽く挨拶を交わしてから、加奈枝は水穿と別れて元の道へ戻った。

「ふぅ……大変やったけど、でも、楽しかった。明日もまた、水穿さんが泳げるように教えたらな」

自分が泳ぐのではなく、他人が泳げるように知恵を絞る。慣れないことでなかなか骨が折れるけれど、いつもとは違う楽しさがあった。何より、水穿さんとお話できるのがとても嬉しかった。自分のような地味で目立たない子が、清楚で凛としたお姉さんと話ができる。加奈枝にとってはまさしく夢のような時間だった。

とまあ、水穿と過ごした楽しい時間を振り返っていた加奈枝だったけれども。

「せやけど……最初に水穿さんにお尻触られたときは、ビックリしたなあ……」

泳ぎの練習を始める前の、あの出来事。水穿が自分の前に立って、お尻を水かきの張った手でさあっと撫でられたことだ。あの時はとにかく驚くばかりだったけれど、今になって落ち着いてから思い返してみると、また違う感覚がふつふつと湧き上がってきて。

(変な感じやけど……なんでやろ、水穿さんからやったら、嫌やいう気はせえへん……)

(水穿さんがそないしたいんやったら、うち、別に……)

(……はっ)

ぼーっと考えているうちに、だんだん思考があらぬ方向に逸れていってしまって、水穿さんにならまたお尻にタッチされたって構わない、むしろもっとされたい――なんてとんでもない考えになっていることに、加奈枝は遅ればせながら気が付いて。

(うわわわわ! うち何考えとるんよ! お尻触られてもええって、それ完っ全にヘンタイさんやん……!)

人っ子一人いない水田沿いの道で、加奈枝は本日三度目のわたわたモードに入るのだった。

 

それからというもの、加奈枝と水穿による二人三脚の水練は、毎日のように催された。

「体を楽うにして、落ち着いて落ち着いて……そうそう、そないそない! 水穿さんうまいこと浮けてるで!」

「なるほど。水に浮かぶとは、このような心地なのだな」

泳ぐに当たっての最初の関門・顔を水に付けることは訳無くできたから、まずは、体を水に浮かべる感覚を身につけて。

「脚にそない力入れんでええよ、ふんわりふんわり、水を扇ぐような感じやわ」

「力強く蹴ればいいというものでもないとは、加減がなかなか難しいな」

姿勢を安定させられたら、加奈枝に手を持ってもらいつつ、基本中の基本であるバタ足の練習を十分にして。

「すごいすごい! 水穿さん、もう五メートルも泳げるようになったやん!」

「そんなに進んでいたのか。てっきり、まだカナエのすぐ側だとばかり思っていたが……」

二週間も特訓を続ける頃には、少しずつではあるけれど、泳ぎの形ができてきた。

今日もまた、ちょっと不格好で、亀の歩みのように遅くて、まだまだ無駄の多いフォームだけれど、少しずつ「泳ぎ」になってきた水穿の動きを見ながら、加奈枝が自分の事のように笑っている。

「……はぁっ。カナエ、どうだ?」

「うん、すごい上手んなってきてるわ! 最初に比べたらえらい違いや」

「それは僥倖だ。わらわも今――泳ぐことの楽しさを、少しずつ掴めてきている気がするからな」

あれほどのカナヅチだった水穿は、加奈枝の熱意あふれる指導によって、着実に泳げるようになりつつあった。加奈枝は、水穿が徐々に上達していく様子を見ているとそれだけで嬉しくなったし、水穿から「泳ぐことの楽しさが分かってきた」と言われると尚更嬉しかった。初めは少しおっかなびっくりだった加奈枝の教え方も、今では快活さが漲っている。自分に自信を持てている証拠だった。

そんな風にして、いつも通り一時間ほどの練習を終えたあとのこと。

「水穿さん、いっしょにお弁当食べよや。お婆ちゃんに作ってもろてん」

「わらわも食べて構わないのか?」

「うん。今日ちょっと遅なる言うて、多い目に用意してもろたから、大丈夫やわ」

普段は家へ帰ってお婆ちゃんとお昼ご飯を食べていた加奈枝だったけれど、今日は午後からも水泳の練習をするつもりだったから、お婆ちゃんにお願いをしてお弁当を用意してもらったのだ。最初から水穿と分け合って食べようと思っていたので、いろいろと理由を作って少し多めにしてもらうことも忘れない。水穿は加奈枝がお弁当を持ってきたと聞いて、興味津々の様子だ。

お婆ちゃんは孫娘の頼みを快く聞いて、さっとお弁当を作ってくれた。ただ、その時ちょっと気になるやり取りがあって。

「お婆ちゃん、お弁当作ってくれてありがとう」

「いいのよ。それより加奈枝ちゃん、最近艶やかになったわねえ」

「えっ? なんなんそれ、お婆ちゃん、それどういう……」

風呂敷に包んだお弁当を受け取るときに、加奈枝はお婆ちゃんから「最近艶やかになった」という、ちょっと気になる言葉をもらった。その言葉の意味するところがいまいち飲み込めなくて、加奈枝が戸惑いながら聞き返す。すると、お婆ちゃんはにっこり笑って見せて。

「恋をすると、女の子は綺麗になるっていうから。加奈枝ちゃんにも、いよいよお相手ができたのかしら?」

「ちゃ、ちゃうし! うちそんな、好きな人とかできたんと違うし!」

例によって冷やかしに掛かるお茶目なお婆ちゃんに、加奈枝はたじたじになりながら否定した。それでもお婆ちゃんは信じていないようで、加奈枝ちゃんもいよいよ女の子だねえ、なんて言って一人で納得しているのだから、たまらない。お弁当をそそくさとカバンの中へ押し込むと、慌てて家を出て行くのだった。

お婆ちゃんったら、とあきれつつも、お婆ちゃんが言った「恋」という言葉がどうしても気に掛かった。学校へ行く途中も、講義を受けているときも、珠川へ向かう道でも、ずっとそのことばかり考えてしまうくらいだった。今の加奈枝には好きな異性はいなくて、普通の括りで言うところの「恋」をしてるわけじゃない。ただ、じゃあまったく「恋」に縁が無いのかと言われると、実は言葉に詰まってしまって。

(恋、かあ……)

逢瀬をするのが待ち遠しくて、顔を見るだけでどきどきして、言葉を聞くと心地よくて、一緒に過ごす時間はこの上なく甘美。恋はこんなものなんだと加奈枝は考えていて、そして今まさに、これが全部当てはまる人が、すぐ隣に座っていて。

(もしかして……うち、水穿さんのこと……)

他の誰でもない、河童のお姉さんである水穿さんに、自分は恋をしているんじゃないか。

加奈枝はお婆ちゃんの言葉を受けて水穿への想いを自覚して、そしていつも通り顔を真っ赤にした。うちが水穿さんに恋するなんて、そんなんあかん。あっという間にそんな感情が心に満たされていくのも、普段の加奈枝を思えばしごく当然だった。だめだ、と思う理由は二つあった。ひとつはもちろん、自分のような地味でちんちくりんな子が、水穿さんのような艶やかで色気のあるお姉さんを好きになるなんて失礼だと思う気持ち。

そして、もうひとつは。

(女の子が女の子を好きになるなんて、あかんやん……)

水穿さんは言うに及ばず、色気が無くて顔立ちも幼さが残るけれど、加奈枝だってこう見えても立派な女子だ。自分も水穿さんも、紛れもなく女子。なのに相手を「好き」だと思うなんて、恋愛の相手だと思うなんて、おかしいんじゃないか――という気持ちだった。

女の子が女の子を好きになるというのは、加奈枝だってまったく知らないことじゃない。マンガや小説の中では時々出てくるお話だったし、「○○ちゃんが好き」と公言している同級生だって見たことはある。けれど、それは架空の世界の出来事だったり、或いは恋愛と友情の区別が付いていなかったりするようなもので、今の加奈枝の抱いている感情とは違う。加奈枝は生身のお姉さんに、友情とは明らかに違う気持ちを持ってしまっている。お婆ちゃんの言葉で、加奈枝は一気にそれを自覚することになったのだ。

加奈枝はそんな穏やかならぬ気持ちを懸命に押し隠しながら、お婆ちゃんからもらった風呂敷包みを解いた。

「ほう、これは……海苔巻きか」

「うん。お婆ちゃん、ようこれ作ってくれるねん。酢飯やったら痛みにくいし、外へ持っていっても大丈夫や言うて」

「酢には殺菌効果と防腐効果があるからな。先人の智慧というものだろう」

出先で処分できるようにと使い捨てのプラスチックケースに詰められていたのは、長めの海苔巻きが六本ほどと、大根のお漬物が少々。如何にも簡素な手弁当と言った風情だけれど、加奈枝はこんな素朴なお弁当が好きだった。海苔巻きはきっと、お婆ちゃんがいつも作ってくれるかんぴょう巻だろう。

加奈枝が割り箸を割って準備を済ませて、さあ食べようと箸を持ち直したときのこと。

「干瓢巻が三つに――河童巻が三つ、か」

「あれ? かっぱ巻も入っとるん?」

「横から見ると判るな。上段が干瓢巻で、下段が河童巻になっているようだ」

てっきりかんぴょう巻が六本入っているものだとばかり思っていた加奈枝は、横から中身を観察して感想を漏らした水穿の言葉に驚きを隠せずにいた。続けて加奈枝も見てみると、確かに下の段に河童巻が三本入っているではないか。あざやかな青色の胡瓜が海苔に巻かれているのがはっきり見て取れた。

「ほんまや……普段お婆ちゃんかんぴょう巻かおしんこ巻しか作らへんのに、不思議やわあ」

「欲張るようで申し訳ないが、カナエ。わらわに、河童巻を分けてくれるか」

「もちろんええよ。もしかして、かっぱ巻言うか、きゅうり好きなん?」

「うむ。これに付いては、巷の伝承の通りだ。河童は総じて胡瓜を好む。無論、わらわも例外ではない」

「よっしゃ、わかった。せやったら、かっぱ巻二本とかんぴょう巻一本でええかな。それでちょうど半分こになるし」

「異論は無い。恩に着るぞ、カナエ。ありがとう」

「ええんよええんよ。うち……水穿さんといっしょにお弁当べれるん、むっちゃ嬉しいから」

河童巻の件はちょっと不思議だったけれど、水穿さんが喜んでくれたのだから良い事なのは間違いない。加奈枝は水穿と海苔巻きを分け合って食べて、至福のひとときを過ごしたのだった。

 

八月の中頃。長かった加奈枝の夏休みも、徐々に終わりが見えてきて。

心なしか、日が沈むのが早くなった気がする――秋の訪れを予感させる、少しばかり涼しい風が流れ始めた中にあっても、加奈枝と水穿の水練は変わらず続いていた。

「水穿さん上手なったなあ。もう後ちょっとやわ」

「わらわも感触が大分掴めてきた。これも皆、カナエのおかげだ」

十分に練習を負えて岸へ上がると、水着姿の加奈枝と、晒に褌姿の水穿が隣り合って座り、水に浸かって冷たくなった体を夏の日差しを浴びて温める。心地よい疲労感に意識を溶かしそうになりつつ、加奈枝はお隣の水穿に目を向けた。水穿はきりりとした眼差しを加奈枝に投げかけていて、加奈枝はその凛とした表情に見入る。これはもう、幾度となく繰り返された風景。

休憩していた二人の間に動きがあったのは、川面を見つめていた水穿がおもむろに口を開いたときのことだった。

「カナエ。少し、わらわの話をしてもよいか」

「水穿さんの話?」

「うむ。今まで、なかなか話す機会が無かったからな」

何を話してくれるのだろう、加奈枝が顔を上げる。水穿は清流を湛える珠川を瞳に映し出しながら、滔々と語り始めた。

「わらわは一人娘だ。兄弟は居ない」

「父上と母上は、わらわをよく躾けてくれた。礼儀作法に言葉遣いに至るまで。厳しいと感じることもあったし、手を上げられることもあったが、今はそれも皆、わらわのためだったのだと理解している。あまり回想したいことでもないがな」

「わらわの名前は『水穿』。水を穿つ、と書く。水を穿つように、力強い水泳の出来る河童になってほしい――そのような意図を込めていると聞いた」

「だが、実際はカナエも知っての通りだ。この歳になるまで、まともに泳げた試しがなかった。河童とは生来、精良な水泳の能力を持っていてしかるべきなのだが、生憎わらわにはそれが無かった」

「ゆえに、年少者からも年長者からもよく揶揄された。人様には『河童の川流れ』という慣用句があると聞くが、あれは河童の間でも普通に用いられる。川の流れに逆らって泳ぐ力も無く、ただ流されるばかりの惰弱な河童を指して言う言葉だ。この言葉を聞かされたことは数知れない。尤もわらわの場合、流されるどころか沈むことのほうが多かったのだが」

「無論、父上と母上からもしばしば叱責されていた。お前は何故に泳げないのか、それでも河童の娘か、とな。不甲斐ないとは、恐らくあの時のような心地を指すのだろう」

「だが――かつてわらわを揶揄した者も、そして父上も母上も、わらわは恨むつもりなど無い。わらわが泳げぬのは、厳然たる事実なのだから。事実として受け入れ、そして立ち向かわねばならない」

「救いだったのは、祖母上は何時もわらわの味方をしてくれたことだ。よく可愛がってくれた。聞くところによると、祖母上も幼少の頃は水泳が不得手だったらしい。わらわが泳げぬのを見て、己れによく似ていると微笑んでいたのを覚えている。心苦しいときは、いつも祖母上の処へ赴いていたな」

気が付くと、加奈枝は口元に手を当てながら、半ば呆然とした面持ちで水穿を見据えていた。水穿が今に至るまで、周囲に揶揄され両親から叱責されるというような辛い経験をしてきたとは。泳げない河童ということで、もしかすると嫌なこともあったかもしれない……と心の奥底では考えていたが、率直に言って、考えていたよりももっと厳しい内容だった。水穿はいつも通りさらりと語ったけれど、実際には相当な辛酸を舐めたに違いない。

艶やかで見目麗しく、かつ清楚で凛としたお姉さんである水穿。常に余裕を感じさせて、何事にも動じない風を装っている水穿に、そのような経緯があったとは。加奈枝は胸が詰まる思いだった。そうしている内に気持ちが抑えきれなくなって、思わず水穿の水かきが張った手を取った。

「水穿さん……うちなんかが言うてもどうにもならへんけど、今までずっとしんどい思いしてたんやな……」

「カナエはこうやって、わらわの手を取ってくれる。それだけで十分に過ぎる」

口元にやわらかな笑みを零して、水穿が加奈枝の手を取り返した。

「水泳の手解きを丁寧にしてくれるだけでなく、こうしてわらわの気持ちを慮ってくれる」

「カナエは、本当にやさしいのだな」

一回り大きな手で包み込まれた加奈枝は、ひんやりしていて気持ちよく、だけどどこか温かみがある水穿の手の感触を、無意識のうちに記憶に刻み込んでいた。

「あのな、水穿さん。うち、こないして偉そに水穿さんに泳ぐん教えたりしとるけどな、言うてうちも何べんも挫折しそうになったことあるねん」

「クロールの息継ぎできひんかったり、平泳ぎの腕と脚めちゃくちゃやったり、バタフライできるようになるまで何ヶ月もかかったり、うちもあかん時は全然あかんかった」

「それに……前の学校おる時、ちょっといじめられとって」

「男子にようちょっかい出されて泣いとったし、女子の子らともあんまり仲良うできひんかって、学校行くのんちょっと嫌やったし」

「せやからうちいっつも一人で、遊ぶ相手おらんかったから、よう一人でプール行って泳いでてん」

「泳ぐん以外の運動下手やし、いつまでも子供みたいやし、時々何言うてんか自分でも分からんようになるくらい口下手やけど、せやけど、うちみたいな子でも、水穿さんの役に立ててるんやったら、嬉しい。うち、すごい嬉しい」

水穿にまじまじと見つめられて、加奈枝は瞳を潤ませる。互いの瞳に相手の姿が映り込んで、そのまま焼き付けられてしまいそうなほどだった。

「カナエは綺麗な瞳をしている。この珠川のように、濁りの無い清らかな瞳だ」

「そんな、水穿さん……からかわんといてや。うちそないしゃんとしてへんし……」

「空世辞の類ではない。わらわが綺麗だと感じたから、そのまま口にしたまでのことだ」

大いに戸惑う加奈枝に向けて、水穿は事もなげに「綺麗な瞳をしている」と言い放つ。以前から思っていたけれど、水穿さんは動じるとか慌てるとか、そういったこととはとにかく無縁だ。いつも落ち着き払って、思ったことや感じたことを直球でぶつけてくる。それでいて、大げさなところやわざとらしいところもまるで見られない。水穿さんは本当に心のままを話しているのだと加奈枝は改めて実感して、そしていっそう恥ずかしがった。

ざあざあという清流の音を背景にしながら、お互いに手をつないだまま時間の経つままに任せていた二人だったけれど。

「カナエ。もう一つ、話したいことがある」

「河童の風習に附いて――だ」

水穿が河童の風習について話したい。そう口にした水穿に、加奈枝は素直にこくんと頷く。

「河童は元服を迎えると、嫁入りをするか婿入りをすることになる」

「人様は男子のみが『元服』という語を用いると聞いたが、少なくともわらわの祖母上の時分には、河童の間では男子も女子もこう呼称していたようだ」

「そのためには単に年月を重ねるだけでなく、ひとかどの河童として認められねばならぬ」

「わらわは父上と母上から手解きを受けて、教養や礼儀作法、家政については及第点をもらうことができた。他所の女子より出来がいいと、珍しく褒められた記憶も在るが、わらわとしては今ひとつ実感が湧かぬ」

「だが……ただ一つだけ、未だ認められていないものがある」

「言うまでもなく、水泳だ」

両親の教育と本人の器量によって、大人の河童として認められるための関門はほとんど難なく突破できた水穿だったが、水泳だけはどうしようもなかった。

「ゆえに、わらわは未だ小童の扱いだ。嫁入りをすることも、婿を取ることも出来ずにいる」

「裏を返せば、水泳の技術さえ習得できれば、一人の河童として認められる」

「わらわは大人にならねばならぬ。大人として、父上や母上、そして祖母上に孝行がしたい」

だからカナエ、そなたに水練を依頼したのだ――水穿の言葉を、加奈枝はひとつひとつ整理しながら、一言も聞き漏らすこと無く心に留めていた。刻み込んでいた。

その上で、加奈枝は思いを巡らせて。

(水穿さんが泳げるようになって、大人やって認められたら)

(誰かのお嫁さんなったり、お婿さん迎えたりするんかな)

水穿は大人になりたい、大人になって両親や祖母に孝行がしたいと語った。その言葉の意味するところは、加奈枝にだって理解できる。しかるべき別の河童と結ばれて、自分の家庭を持つことに他ならない。水穿がそれを望むことはごく自然で、自分がどうこう口出しできるものではないと、加奈枝も頭では分かっていた。

ただ――そうして家庭を持つとなれば、おいそれと外へ遊びに行くこともできなくなるに違いない。今こうして自分と過ごしてくれている時間も、恐らくは持てなくなるだろう。それはとりもなおさず、加奈枝と水穿の逢瀬が終わるということを意味していた。平たく言えば、加奈枝は水穿に会えなくなるのだ。

それは嫌だ。真っ先に浮かんできた感情は、否定だった。せっかく水穿さんと、こんな素敵な河童さんと出会えたのに、もう会えなくなるなんて。駄々をこねる子供のような心境とはまさにこのことだと加奈枝は自覚する。水穿さんには水穿さんの事情がある、河童には河童のしきたりがある。だから、水穿さんのことが好きだ、これからも会いたい、いっしょに居たい、なんて我が儘を言ってはいけない。頭の中でわめく自分を理性が腕づくで押さえ込みに掛かるのを、加奈枝はつぶさに感じ取る。

うちが水穿さんから声かけてもろたんは、泳ぐん上手やったからや、うちと話したかったからと違う――加奈枝はそう言い聞かせて、感情のうねりが表沙汰にならないように懸命に気を配って、努めて明るく振る舞って見せて。

「分かった。水穿さんが一人前になれるように、うちもがんばるわ」

「早よ一人前になって、大人や認めてもらって――ええ人と巡り会わなあかんもんな」

ありがとう、カナエ。そなたの言う通りだ。水穿は、加奈枝がどうにか絞り出した言葉を、いつもの柔らかな笑みをもって受け止めていた。

 

夏休みも終わりが迫ってきて、徐々に季節の変わり目が見えてきた、八月末の夜のこと。

「加奈枝ちゃん、おやすみなさい」

「うん。お婆ちゃん、お休み」

加奈枝とお婆ちゃんは和室へ入ると、並んでお布団を敷いて眠りにつく。家にはたくさんの部屋があって、加奈枝にもお婆ちゃんにも自分のための部屋があったけれど、寝るときはこうやって二人並んで眠るようにしていた。小さい頃に加奈枝が子の家にお泊まりした時、一人で寝るのが怖いとお婆ちゃんにぐずって以来、寝るときはいつも一緒だった。

蚊帳を下ろして、縁側に続く窓を開けておく。この辺りは夏でも夜になると涼しくて、冷房いらずの快適さだった。前に住んでいたところは連日連夜の熱帯夜で参ったものだったけれど、浅葱に来てからはほとんど毎日ぐっすり眠れている。なので、加奈枝がお布団に入ってもすぐ寝付けない今日の夜は、珍しい日と言えたのだ。

眠れなくて目が開いて、ぼーっと取り留めない考え事をする。頭の中に浮かんできたのは、今は隣ですやすや眠っているお婆ちゃんから聞かされた、浅葱に住まう物の怪の話。

浅葱には大昔から、少なくとも人の手が入るよりもずっと前から、様々な物の怪が住んでいるという。もちろん、河童もそのひとつだ。他にも座敷童とか、むじなとか、ろくろ首とか、他の地域でも「妖怪」「化物」として伝えられているような、ある意味ありふれた物の怪が住んでいると聞いた。河童の水穿さんがいたのだから、他の物の怪もきっと実在するに違いない、最近の加奈枝は、自然にそう考えるようになっていた。

普段加奈枝と水穿が練習に使っている珠川、その源流を辿ると「神谷山」という山に行き着く。はるか遠くに聳え立つ大きな山で、加奈枝は未だ足を踏み入れたことがなかった。お婆ちゃんによると、神谷山にはとてつもなく恐ろしい物の怪が潜んでいると言われていて、決して近寄ってはならぬという。それこそ河童の比じゃないくらい、禍々しい存在だそうだ。

物の怪の中には、人の意識や精神に干渉して、心をかき乱し惑わせる者も少なくないらしい。だから、加奈枝は思う。今の気持ちも物の怪が悪戯で齎したもので、目が覚めるときれいさっぱり消えていたならば、きっと楽になれるだろうに、と。

(うち、どないしよう。どうしても水穿さんのこと考えてまう)

間もなく加奈枝の頭の中は、余すところ無く水穿の姿で埋め尽くされてしまった。

加奈枝は、もう誤魔化すのをやめていた。自分が水穿さんのことを「好き」なのは疑う余地も無い。年上のお姉さんに対する憧れも、まったく無いわけじゃないだろう。だけど本質的なところは、女の子としての水穿さんが「好き」。これはどうやっても揺らぎそうに無かった。

(けど、うちが水穿さん好きとか……あかん、絶対あかんし)

自分の気持ちは解っている。解っているけど、受け入れられなかった。自分のような野暮ったくて地味な女の子じゃ、水穿さんにはまず釣り合わない。釣り合う光景がちっとも想像できなかった。それに、自分は人の子で、水穿さんは河童だってことも忘れちゃいけない。仮に自分が良くたって、水穿さんが、水穿さんの家族がきっと許してくれないだろう。

何より――自分も水穿さんも、女の子じゃないか。

水穿さんは「女の子」と言うより、「女性」と言った方が合っている気がする。子供が大人に憧れているようなもの、例えば小学生が担任の先生に「結婚して」と言うのと似たようなものに違いない。水穿さんだって、自分から「好きです、付き合ってください」なんて言われても、どう答えればいいか困るはずだ。

加奈枝は何度も言い聞かせる。水穿さんには、きっと水穿さんにふさわしい素敵なお相手がいる。それは間違っても自分なんかじゃなくて、水穿さんのようにクールでスマートな河童さんがいるに決まっている。水穿さんが大人になりたいと言っているのは、もしかするともう意中の人がいるからかも知れないじゃないか。

だから、自分は身を引かなきゃいけない。楽しい思い出のまま、ただ泳ぎを教えた人の子という立場のまま、そっと、泡のように消えてしまうべきなんだ。

(そうしなあかんって、頭ではわかってんのに、わかってんのに……!)

頭と心は一致しない。今まで「心」は頭で考えたものだって思ってたけど、今ほどその違いを実感することはなかった。頭の中で考えているしなきゃいけないことと、心が訴えるしたいことが真っ向からぶつかりあって、せめぎ合いの中で心がすり潰されそうになってしまう。

水穿さんが好き。水穿さんと一緒にいたい。

そうだ、自分は水穿さんが好きなんだ。水穿さんと一緒にいたいんだ。もっと一緒に同じ時間を過ごして、たくさんの思い出を作りたいんだ。溶けかかった意識の中で心が咆哮し始めて、今にも声になって飛び出してしまいそう。

気持ちが猫が遊んだ後の毛玉のようにこんがらがって、少しも解けないまま、加奈枝は夢の世界へと落ちてゆく。

 

その日は、いつものようにやってきて。

「カナエ! 準備は良いか!」

「……うん! 水穿さん、いつ始めてもええで!」

およそ三十メートルほどの距離を開けて、加奈枝は川上に、水穿は川下に立っている。互いに相手をしっかり視界に捉えて、片時も目を離そうとしない。かなりの間を置いているにも関わらず、加奈枝からは水穿の目に闘志が迸っているのをはっきり見て取ることができた。

この構図になるまでの経緯は、このようなものだった。

加奈枝が定刻通り珠川へやって来た直後に、水穿はおもむろにこう切り出した。

「カナエ。今日は――わらわに、<試験>を受験させてほしい」

「えっ……? 試験って、それ……どないなこと?」

「簡単なことだ。わらわは、これまでカナエから受けてきた水練の成果を見せたい」

練習の成果を見せるために、自分に試験を受けさせてほしい。水穿からこう頼まれた、加奈枝は。

(――来た。この時が、来たんや)

心の奥底で、こう呟いた。

水穿が自分からこう言うからには、十分な自信が付いたに違いない。それは言い換えると、加奈枝がこれ以上手取り足取り水穿に泳ぎ方を教える必要がなくなったということでもある。

実際、水穿の上達ぶりは目覚ましかった。元々体は丈夫で、水泳以外の運動は何の問題もなく、並の河童以上にこなせていたというから、一度コツを飲み込んでしまえばそれまでだった。ここ一週間ほどの、見違えるように泳ぎが上手になった水穿の姿を見ていて、彼女は単にこれまで自分に合った先生に巡り会えず、眠っている河童としての能力を引き出せなかっただけなのだと、加奈枝も実感していた。

こうなることは覚悟していた。少なくとも、頭では分かっていたつもりだった。分かっていたつもりだった、けれど。

(もう、おしまいなんや)

心は、やがて訪れる水穿との別れを、強く強く拒んでいて。

「カナエは川上に、わらわは川下に立つ」

「その上で、わらわは川の流れに逆らって、カナエのところまで向かう」

「一度も立ち止まらずにカナエの元まで泳ぎきることができれば合格、そうでなければ、さらに教練を積むことになる」

「もし――カナエまで無事に辿り着けたら、わらわは今一度、ひとかどの河童として認められるかを諮ってもらうつもりだ」

ルールはとても明解だった。川上に立った加奈枝のところまで泳ぎきれば合格、ただそれだけだ。一切の異論を差し挟む余地もなくて、加奈枝はただ頷いて同意するばかりだった。

紺色の水着に身を包んだ加奈枝が、そっと胸に手を当てたまま、今にも泳がんとしている水穿の様子を見つめる。

(水穿さんが、うちのところまで来てくれる。練習の成果、うちに見せてくれる)

(せっかくの、水穿さんの晴れ舞台やねんから)

(応援したらな。頑張って、うちのところまで来てや言うて、後押ししたらなあかん)

もろい心は千々に乱れて、少しも落ち着く兆しを見せなくて。

(せやけど……水穿さんがうちのところまで辿り付けたら、それは水穿さんが泳げるようになったいうことで)

(うちが水穿さんに、泳ぎ方教えんでようなるいうことで)

(それは、うちと、水穿さんが、お別れするいうことでもあって)

水穿が自分の元まで泳いで辿り着くということの意味を、嫌というほど自覚して。

(うち、うれしいのに。水穿さん泳げるようになって、めっちゃうれしいのに)

(うちは水穿さんに、側まで来てほしいのに)

(側に来てしもたら、もう、水穿さんとは、会われへんようになってまう)

迫り出した雨雲に覆われた空模様のように、晴れぬ心を抱えたまま、迷霧を彷徨うような気持ちのまま、加奈枝は水穿を視界に収める。

そして。

「行くぞ、カナエ。どうか、そこで待っていてくれ!」

水穿さんが身を翻して、水中へ消える。

加奈枝には見えた。はっきりと見えていた。水穿さんが見る見るうちに自分の元へと迫ってきて、どんどんと間隔を詰めていく様が。二人の距離が縮まれば縮まるほど、別れの刻は近付いてゆく。

(水穿さんと出会って、まだ一月しか経ってないんやな)

(せやのに――)

(――せやのに、あんなことも、こんなことも、みなほんまにあったことなんや)

あんなこと、こんなこと。その想い出ひとつひとつを、加奈枝は心の中でそっと紐解いてゆく。

すべての始まりは、今自分の立っている川上から二十歩ほど離れた、あの川縁だった。川で時間を忘れてたっぷり泳いでから、体を休めていたときのことだ。何気なく右を見ると、不意に綺麗なお姉さんとはたと目が合った。ふんわりした笑顔でもって、泳ぐのが達者だ、と褒められた。唐突な邂逅は鮮烈な記憶になって、しっかりと脳裏に焼き付けられた。

(水穿さん……泳ぐん、上手なったな)

出会ってすぐに、お姉さんは河童なのだと気がついた。けれど、昔お婆ちゃんから聞いた「河童」とは、手に水かきが張っていることを除けば、何から何まで全部違っていた。

(ほんまに、上手なった。一人前に、クロールまでしてるやん)

水穿。その名前を教えてもらってから、加奈枝は水穿から頼みごとをされた。

わらわに、泳ぎを教えてほしい――と。

(うちは、水穿さんにこうなってほしかった。しっかり、泳げるようになってほしかった)

次の日はもっと刺激的だった。自分は学校で使っている水着に、水穿さんは晒に褌姿に着替えてからだ。おもむろに水穿さんが自分の前に立ったかと思うと、するりと手を伸ばしてきて、さわさわと水着の上からお尻を撫でられたのだ。びっくりして、普段はまず使わない「エロ河童」なんていささか物騒な言葉が飛び出したのも、今ではきれいな想い出のひとつになった。

(水穿さんは泳げるようになった。うちと一緒に練習して、立派に泳げるようになった)

今はどれくらい泳げるのか見せてほしい、そうお願いして水穿さんに泳いでもらったら、そのままぶくぶくと水底へ沈没してしまった。慌てて救い上げて、水穿さんは河童にも拘らず根っからのカナヅチだということを知った。落ち込む水穿さんを高ぶる気持ちのままに精一杯励まして、またやる気になってもらえた時は、今までいっぺんだって感じたことのない、大きな嬉しさがあった。

(泳げるようになって、うちのところまで来られたら。水穿さんは、一人前や認められて、大人になれて)

まずは水に浮けるようになるところから始まって、それからバタ足を練習して、慣れてきたら手を掴んでやりながら泳ぐ感覚を身に付けさせてあげて、不恰好だけれどだんだん形ができてきて。泳ぐのが楽しい――水穿さんはそう言ってくれた。

(大人になったら、お嫁さんなったりお婿さんもろたりして、親孝行したいって言うとって)

お婆ちゃんが作ってくれたお弁当を分け合って食べた日もあった。きゅうりの入った河童巻が好きで、これは言い伝え通りだって笑いながら言ってたっけ。

水穿さんに恋をしていると自覚したのも、ちょうどあの時だった。

(ここまで来てほしい、うちはそない思てるし、思ったらなあかんし、その気持ちは絶対、嘘なんかと違うけど)

自分の生い立ちについて話したい。そう前置いてから聞かされた水穿の話は、考えていた以上に胸の詰まるものだった。謗られ詰られ、両親から手を上げられたことさえある。今は家を空けているとはいえ、会えば加奈枝ちゃん・加奈枝ちゃんと可愛がってくれる自分の両親とは違いすぎて、考えるのが辛くなるくらいだった。

(……嘘なんかと、違うのに)

だからこそ、水穿さんを泳げるようにしてあげたい。なんとしても泳げるようにしてあげて、晴れやかな気持ちにしてあげたい。加奈枝は、そう決意して。

そう決意して、全力で水泳を教えた――なのに。

(もっと、水穿さんと一緒におりたいから)

(もっとようけ練習して、話したりしたいから)

(心のどこかで、隅っこのほうで)

(<来んといてほしい>)

(<途中で止まってしもてほしい>)

(そんな、どうしょうもない、自分勝手なこと、考えてる)

(うち、最悪や)

(最悪の、あかんたれや)

水穿さんには、どうか自分の元まで辿りついてほしい、泳ぎきってほしい。力いっぱい泳いで、水穿さんの言う「合格」を取ってほしい。

けれど、来ないでほしい。来ないで、途中で立ち止まって、失敗だったと言って、もっと練習しなきゃと言って、自分の側に居続けてほしい。

来てほしい、来ないでほしい。真っ向から対立する二つの「ほしい」が激しくぶつかり合って、加奈枝の心を苛烈に揺さぶる。瞼に涙をいっぱい溜めて、瞳を真っ赤に腫らして、ぼやけた視界の向こうに、水面下の水穿がもう間近に迫っているのを視る。

(水穿さん)

(うちは、あなたのことが――)

そして。

「……着っ!」

水飛沫を上げて、水穿が、カナエの前に姿を現した。間もなく、二人の視線が交錯する。

「カナエっ! 約定通り、わらわはカナエの元まで泳ぎ切ったぞ!」

「水穿さん……」

加奈枝の頬に冷たい雫が落ちる。厚い雲の掛かっていた空がいよいよ崩れて、空から雨が降り出した。雨脚は瞬く間に強くなって、川に立っている加奈枝と水穿にも容赦なく降り注いでゆく。水泳で濡れた体が、降雨によって塗り替えられながら、また濡れていって。

「さあ、カナエ……!」

「この試験の結果を、そなたの口から聞かせてくれ……!」

暗く曇った空を背に、瞳を爛々と輝かせながら、水穿は加奈枝に試験の結果を問う。穢れの無い水穿の目を見つめながら、瞳の奥で迸る水穿の想いを見据えながら、加奈枝は幾度となく、その言葉を口にすることを躊躇う。けれど、それがもう長くは続かないことは、他でもない加奈枝自身が、誰よりも一番よく知っていて。

加奈枝は顔を上げて、ゆっくりと、蕾のような小さな口を開いて。

「……合格、や」

「文句なしの、一発合格、や」

「おめでとう」

「おめでとう――水穿さん」

見事自分の元まで泳ぎきった水穿に、「合格」と告げた。

雨粒に打たれて方々から水滴を滴らせながら、水穿は会心の笑みを見せる。

「ありがとう。その言葉が聞きたかったぞ、カナエ」

「長かったが……これでわらわは漸く、父上に母上、それに祖母上に顔向けができる。これも皆、カナエのおかげだ」

「カナエのおかげで、わらわは、ひとかどの河童として認められるのだ」

水穿は言う。カナエが泳ぎの手解きをしてくれたから、カナヅチだった自分をここまで泳げるようにしてくれたから、大人になることを認められるのだ、と。すべてはカナエのおかげだ、と。

自分のおかげ。それは、言葉を変えると――自分のせい、ということでもあって。

「うちが、水穿さん泳げるようにしたったから……水穿さん、大人に、なれるんやな」

「お嫁さんになったり……誰ど、お婿さんもろたり、できるように、なるんや……」

加奈枝を見つめる水穿から、笑顔が消えた。水穿のドラスティックな表情の変化を目の当たりにして、加奈枝は自分が今どんな表情をしているのか手に取るように分かった。喜びで満たされているはずの水穿から色を失わせるような貌をしているのだと自覚して、いっそう心が締め付けられる思いを味わいながら、それでも、感情のうねりを抑えることができなかった。

しきりにしゃくり上げて、声を詰まらせながら、加奈枝はどうにか、水穿に手向けの言葉を捧げようとしていて。

「大人になったから……ええ河童さんと出会て、一緒に暮らして、幸せになって、それで……それで……っ!」

けれど、その言葉を最後まで言い終えることは――できなかった。

堪えきれずに、加奈枝は目からはらはらと涙を流して泣き始めた。川の水とも雨粒とも違う熱い水滴が、加奈枝の目から落ちて頬を伝っていく。しとどに濡れた中にあっても、加奈枝が泣いているのは一目瞭然だった。

水穿は微塵も戸惑わずに、加奈枝にそっと手を差し伸べた。こちらへ来てほしい、そう取れる水穿の仕草を歪んだ視界の中で視て、加奈枝は声を上げて泣きながら、水穿の胸へと飛び込んだ。背中へしっかり腕を回して、肌と肌を密着させる。水穿は赤子をあやすようなやわらかな手つきで、泣きじゃくる加奈枝の背中をそっとさすってあげた。その手つきが優しくて、せつなくて、加奈枝はまた泣いてしまって。

「うち、水穿さんのこと……好きやった」

「すごい好きで、むっちゃ好きで、むっちゃ好きで、胸が、いっぱいになるくらいやた」

「水穿さんに、泳げるようになってほしかった。泳げるようになって、みんな見返したってほしかった」

「せやけど、泳げるようになったら、もう、うち、教えへんでええから、水穿さんに、会われへんようになってまう」

「わがまま言うたらあかんって、もうそないわがまま言うてええ歳違うって、分かってんのに、分かってんのに」

「うちなんかに好きや言われてもしゃあないって、水穿さん困らすだけやって、嫌っちゅうくらい分かってんのに」

「水穿さんのこと、好きで、好きで、すきで」

「どないしても、最後に、好きやったって言いたかった」

「水穿さん、堪忍な」

「うち、あかんたれの、ちんちくりんで、どうしょうもない、子供なんや」

声を涸らして泣きながら、加奈枝は水穿に、自分の抱いているありのままの気持ちを吐き出した。水穿のことが好きだ、けれど別れなければならない。その苦しみを、包み隠さずそのままに、水穿にまっすぐぶつけた。

水穿は泣きつづける加奈枝を強く抱きしめて、こくりこくりと何度も頷く。加奈枝の気持ちを綺麗に汲み取って、彼女が自分に何を伝えたいのかを、何もかも余すところ無く理解する。すべてを受け入れた面持ちを見せて、水穿は腕の中の少女が齎すぬくもりを肌で感じ取る。

「カナエ。そなたの言葉を、そなたの気持ちを、とても嬉しく思う。心から、嬉しく思う」

「本当に、見込んだ通りだった。いや……見込んだなどと、驕った物言いはしたくない」

「一目見た途端、惚れてしまった。そう言った方が、まだ、精確に心境を言い表せるだろうか」

「だから、どうか……泣くことをやめてほしい。カナエ、そなたを泣かせてしまったとあっては……」

顔をぐっと寄せた水穿が、加奈枝の耳元で、そっとささやく。

「わらわは――私は、カナエの側に居る資格を失くしてしまう」

はっとした加奈枝が不意に顔をあげると、雨に濡れながらも笑みを絶やさない、水穿の綺麗な顔が見えて。

「カナエ、私はそなたと共にありたい」

「カナエが私を好いてくれたのと同じように、私もカナエに惹かれたのだ」

「私も、カナエのことが好きだ」

惚けたまま自分を見つめる加奈枝の頬にそっと手を当てると、目元に滲んだ涙をやさしく拭う。

「河童は大人として認められれば、嫁に行くことも婿を取ることもできる」

「それは、男女を問わない。人様と決定的に相違するところだ」

「すべてを己れの双肩に負う。その一理を以って、望む道を進むことが許されている」

「私が、カナエに嫁入りすることも――また然り、だ」

加奈枝は大きく目を見開いて、水穿から言われたことを、頭の中でもう一度繰り返す。

(水穿さんが、うちに嫁入り……?)

頭にぽんと手を置かれたかと思うと、慈しみの込められた手つきで、おだやかに髪を撫でられて。

「もちろん、これからすぐ夫婦として生きようというわけではない。私もカナエも、そうするにはいささか幼い」

「それに、カナエは人として生きねばならぬ。学業を修め、智慧を磨き、大事を成す礎を作らねばなるまい」

「人様と河童の違いが、カナエと私の間に隔たることもあるだろう。それもまた承知の上だ」

「それでも私は、カナエの側にありたい。カナエと同じ時を生きたい」

「あれだけの言葉を、思いのたけを込めた言葉を貰って、思いを無碍に袖にすることなどできるわけがあるまい」

「この不肖の河童の願い――叶えてはくれないか」

水穿は、自分を好きだと言ってくれた。

その水穿が、自分の側にありたいと願っている。願いを叶えてほしいと言っている。

「水穿さん……!」

答えなんて――考えるまでもなくて。

「水穿さん! うち、水穿さんといっしょにおりたい!」

「ずっと、ずっといっしょにおりたい!」

加奈枝も水穿も目いっぱい力を込めて、全力で抱き合った。

相手がここにいるんだ、間違いなくここにいるんだと、確かめ合うかのように。

 

ざあざあと降りしきる雨の音を、ただぼんやり聞いている。

「水穿さん、ありがとう。うち、ほんまにうれしい」

「私もだ、カナエ。試験には合格し、カナエには想いを告げられた。言うことなど何もない」

加奈枝と水穿は木陰に身を寄せ合って、雨宿りをしていた。幸い近場に大きな木があったので、体を雨に晒して風邪を引いてしまう心配はなかった。

時折空を眺めては、止まへんなあ、とか、まだまだ降雨は収まりそうに無いな、とか、互いにそんなことを口にしてみる。言葉だけ拾うと、止まない雨に参っているように思えるかも知れない。けれど――二人の顔つきを見ると、本当にこの雨が止んでほしいと思っているのかどうか、いささか心もとなくて。

雨が降り続けば降り続くだけ、こうして二人で過ごす時間が長くなるのだから。

「今日は雨のせいか、空気も冷たくなったな」

「うん。水穿さん、体冷えてない? 寒かったら、うちが暖めたるから」

「カナエからそう言われて、断る道理は無いな」

うち体温高めやから、加奈枝は笑いながら言って、水穿に立つよう促した。二人が手を取り合って立ち上がると、水穿が微笑みながら腕を広げ、加奈枝を受け入れる。水穿に抱きつくカタチでもって、加奈枝は水穿にぎゅうっとくっつく。

しばしの間やわらかく抱き合って、互いの熱を交換していた加奈枝と水穿だったけれど。

「……カナエ?」

やがて、加奈枝の手がするすると動いていって。

「えへへ……水穿さん、この間のお返しや」

加奈枝の手は、水穿のふくよかなお尻を、さわさわと優しくなぞっていた。お尻を撫でられた水穿はきょとんとした表情を見せて、加奈枝の目をまじまじと見つめている。

「この間の……ああ、カナエから初めて水練を受けたときのことか」

「せやで。うち、水穿さんにお尻触られて、びっくりしたもん」

でもうち、嫌な気持ちはせんかった、水穿さんやったら構わへんって思ったから。頬を紅くしながら言葉を紡ぐ加奈枝に、水穿は思わず頬をほころばせる。

「お近づきのしるしに、せっかくやから、うちからもやってみたいなって、そない思って。河童さんの挨拶って、こないな感じなんやね」

「……ふふっ、そうだな。触るのも心地よかったが、触られるのも、また心地よい」

「もうっ、水穿さん。お尻触った触られたで気持ちええって、それヘンタイさんやん」

「そう言うカナエこそ、私と同じ気持ちだろう?」

ふんわり笑ってそう返された加奈枝はもっともっと顔を紅くして、水穿の胸に顔を埋めながら、こくんと頷く。

「ならば明日からは、これを我らの都度の挨拶としようか」

この河童流の挨拶を、会う度に交わそうではないか。水穿からそんなどっきり提案を受けた加奈枝は、大きく胸が高鳴って、身体が火照るのを感じて、いつもならあわあわと慌ててしまいそうなところだったけれど、不思議と心は落ち着いていて。

潤んだきれいな瞳を上目遣いにして、じいっと、水穿を見つめて。

「うちも……うちも、水穿さんに、触ってほしい」

「ああ――勿論だ」

カナエはよい尻をしているからな。そう呟いて笑う水穿に、水穿さんやっぱり<エロ河童>や、なんて言ったりして。

加奈枝と水穿のじゃれ合いは、雨が止むまで、止むことなく続いたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。