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水魚の交わり

小高い丘の上に、一戸建ての家々がずらりと立ち並ぶ。郊外の都市ではお馴染みの光景が広がる街・山辺市は空五倍子区。

まだ真新しい学生カバンを肩に提げて、お隣の家のチャイムを鳴らす少女が一人。

「はーい」

「うちうち、さとみさとみ。あかねちゃーん、そろそろ行こやー」

インターフォン越しに友人の名前を呼び掛けたのは、さとみ、と言う。

さとみ。本名は土屋さとみという。すらっとした細身の体格だけれど、顔だけは丸っこくて、どこか幼さを残したままだ。髪はポニーテールにして簡単にまとめていて、赤いヘアバンドが黒々とした髪によく映えている。制服をキッチリと着ている姿は、真面目な性格の現れと言えるだろう。

呼び掛けられたあかねは「すぐ行くわー」と返事をして、ガチャリと受話器を置いた。そしてその言葉通り、あかねはまもなくさとみの前に姿を表した。

「ごめんごめん。ちょっと着替えるん時間掛かってもて」

栗色の髪を二つ結びにしたあかねは、快活そうな印象を周囲に振りまく風貌をしていた。おっとりした雰囲気のさとみとは対照的だ。細かいことながら、さとみに比べてまばたきの回数が多いのも、ちゃきちゃきしている、というイメージを与える一因になっている。

「ええってええって。うちもまだ制服慣れてへんし。それにあかねちゃん、車椅子乗っとるし」

ドアを開けて外に出てきたあかねは、車椅子に乗っていた。少しぎこちないところはあれど器用に操作して、さとみの前までやってくる。では、あかねは足が不自由なのかというと、実はそう単純なことでもなく。

「最近やっと慣れたけど、まだまだ思うようには行かへんなあ。人魚もラクちゃうわ、ホンマに」

ごくごく簡単に言うと、あかねは人魚だった。

制服は上の部分、ブラウスだけ身に着けていて、下は人魚の躰に合わせて作られた特製の水着を着ている。水着の裾から見える下半身は、濃い青の混じった銀色の鱗でもってびっしりと被われていた。人間で言うところの足に相当する部分は、もちろん尾鰭になっている。

車椅子にはその下半身がすっぽり収まるくらいの大きな水槽が取り付けられていて、中は清水で満たされている。地上で活動するために作られた、人魚専用のモデルだ。

「せやけど、綺麗やで。あかねちゃんの体」

「やめてやそんなん、聞いてて恥ずかしなってくるわ」

さとみの言葉に笑って応じながら、あかねは水槽の四隅に取り付けられた小さなカーテンを引っ張って、人魚の下半身を見えないようにした。すっかり準備を済ませてから、さとみとあかね、二人が並んで歩き始める。

車椅子をぐいぐい押していくあかねを見て、さとみが「うちが押そか?」と言う。あかねはぶんぶん首を振って「いけるいける」と答える。こうしてあかねが車椅子に乗るようになってから、ほとんど毎日同じやりとりが繰り返されている。

「出るん遅なったから、早よ行かなな!」

「あっ……あかねちゃん、ちょっと待ってや」

「よっしゃー! 兵は神速を尊ぶってやつや!」

さとみがうかうかしているうちにあかねは車椅子をぐいぐい押していって、さとみを置いてけぼりにせんばかりの勢いで前進していく。カバンを肩に掛け直して、さとみがあかねの後を走って追いかける。

あかねに追いついたところで走るのをやめて、ペースを合わせて歩いていく。

「せやけどさとみちゃん、うち地味に感謝してるねんで」

「えっ、何が?」

「だって、うちが人魚になってもうても、こうやって友達でいてくれてるねんから」

この言い方から察せられる通り、あかねは元から人魚というわけではなかった。以前はこれといった特徴を持たないただの人間で、家系のどこかに人魚がいたとか、そういうわけでもない。彼女が人魚になったのは、外からの要因によるものだ。

二ヶ月ほど前のこと、あかねは家で鯛のお刺身を食べた。近くのスーパーで買ってきた何の変哲もないお刺身で、一見したところ変わったところは何もなかった。ただ、「いつもと少し味が違う」――あかねは食べた直後にそう感じたらしいが、美味しいことに変わりはなかったので、そのままペロリと平らげてしまった。

ところが後になって、とんでもないことが分かった。

「ほんま、ありえへんわな。お刺身に人魚の肉混ざってたって」

鯛の刺身の一部に、あろうことか「人魚の肉」が混入していたことが明らかになったのだ。人魚の肉はここ空五倍子区向けには一切供給されておらず、他の地区向けの製品に使われているものだった。言うまでもなく、食品加工業者のずさんな管理が原因である。そしてあかねの一家は、全員揃って人魚の肉を口にしてしまったのである。

あかねの両親と弟は数日軽い熱を出して寝込む程度で済み、身体に変調を来すことはなかった。けれどあかねは例外で、ひどい高熱が何日も続いた。十日ほどしてやっと熱が引いたものの、あかねの身体には大きな変化が起きていた。

そう。あかねは人魚に変身してしまったのだ。

「お医者さん言うとったわ。うちだけなんか体質違うかってんって」

詳しい原因は分からないが、あかねだけは他の家族と身体の何かが違っていたらしい。食べた人魚の肉に身体が激しい反応を起こして、上半身は今まで通り、下半身は魚の人魚という姿になってしまったのだ。医者によると、上半身がそのままだったのは、脳や心臓といった重要な器官を身体の変質から守るために、免疫機能がフルパワーで働いたから、とのことだった。

このような経緯があって、今のあかねは人魚として生活しているわけである。

「せやからな、うちホンマにおおきにな、って思てんねん。さとみちゃん側におってくれて」

「そんなん別に普通やん。あかねちゃんはあかねちゃんやし」

人魚にはなったものの、あかね自体は何も変わっていない。よく動きよくしゃべり、明るい声はいつも元気を与えてくれる、さとみはそう考えていた。人魚になったことそのものには驚いたけれど、それからもさとみはあかねとの付き合いを変わることなく続けている。さとみにとってあかねは、誰よりも大切な友達だったからだ。

だからさとみにとってあかねは「普通の子」で、特段何かおかしいところがあるとか、そういう風には思っていない。普通に学校へ通って、休みの日には一緒に遊んだりもする。自分と何も変わるところなど無い、さとみはそう考えている。

ただ、他のクラスメートは違っていて、人魚であるあかねを物珍しく思っているようだった。これは無理もないことだった。ここ空五倍子区は山辺市においても「妖怪」「物の怪」「モンスター」「神様」あるいは「人外」などと括られる住民が極端に少なく、これといった特徴を持たない人間が大部分を占めている地区だからだ。地域毎にカタチは違えど人間と人間以外の住民とが同じ空間に共生している他地区とは、少し事情が違っていた。

「前々から言うとるけど、うちあかねちゃんのこと好きやから」

「もう、さとみちゃんまたそない言うて。朝から小っ恥ずかしいわ」

朝っぱらから自分の目を見て堂々と「好きやから」――なんて言ってのけるさとみに、あかねは頬を朱に染めつつ軽くはたいて応じるのだった。

 

さて、丘を降りた先にある空五倍子第二中学校までやってきたところで、さとみとあかねが別々の道をゆく。

「エレベーター、ちょっと離れた場所にあるんよな。さとみちゃんと一緒に行けたらええねんけど……」

「せやけど、また教室ですぐ会えるやん。先行って待ってるな」

「よっしゃ! すぐ行くわー」

あかねは車椅子用のエレベーターに乗り、教室のある三階へ向かう。あかねに遅れまいとさとみも下足室を抜け、階段を登って教室へ移動した。

二人が教室で合流したところで再び挨拶を交わして、朝の会が始まるまでの時間をめいめい過ごすことにする。あかねは早速ノートと教科書を取り出して、真面目に復習に励んでいた。あかねはこう見えて勉強熱心で、空いた時間を見つけては予習復習を欠かさない。さとみも勉強はよくできる方だったが、あかねとは得意分野がお互いに異なっていた。ゆえに、二人は互いに教えたり教えられたり、持ちつ持たれつのよい関係ができていた。

ノートに軽快にシャーペンを走らせていたあかねだったが、ちょっと腕を動かした拍子に、机の隅に置いていた消しゴムが縁から転げ落ちて。

「――あっ」

とあかねが気づく頃には、消しゴムは床へ落っこちてしまっていた。

あかねは人魚で、車椅子に乗っている。その姿勢の都合で、床に落ちてしまったものを拾うことができない。こうならないよう普段から気を配ってはいるものの、時折こうして床へシャーペンや消しゴムを落としてしまっていた。

周りの同級生たちは気付いていない。気付いていたのは、あかねから決して近いとは言えない席に座っていたさとみ、ただ一人だった。

「あ、さとみちゃん」

「あかねちゃん、ちょっと待ったって。消しゴム拾うわ」

さとみはすぐにあかねの近くまで駆け付けると、床に転がっていた消しゴムをひょいと拾い上げ、あかねの机の上へ置いてやった。あかねは申し訳なさそうな顔をして、消しゴムをペンケースの中へしまう。

「ありがとう、さとみちゃん。ホンマすまんなあ」

「そんなん、気にせんでええって。困ったときはお互いさまやん」

「せやけど……うち、さとみちゃんに迷惑掛けてばっかりやし」

「そんなことあらへんよ。うち、あかねちゃんとおるだけで楽しいし」

「さとみちゃんは優しいなあ。うちも頑張らなアカンな」

あかねはさとみが消しゴムを拾ってくれたことに感謝しつつ、申し訳なさそうな表情を見せる。そんなあかねにさとみはしきりに首を横に振って、気に病む必要はないと励ますのだった。最近のさとみとあかねは、こんな風にあかねが申し訳なさそうな顔をして、さとみがそれを否定する――という関係になることが多かった。

「せや、さとみちゃん。一時間目体育とちゃうかったっけ?」

「あ、せやせや。そろそろ着替えに行かな。一緒に行こか」

「よっしゃ、行こ行こ」

一時間目の授業は体育だ。さとみはあかねと連れ立って、更衣室まで向かうのだった。

 

「ちょっと先生ー! なんでうち見学せなあかんの!? 風邪も引いてへんし女の子の日とも違うねんで!?」

「そうは言ってもね、美空さん。怪我をしたりすると危ないから……」

体育のためにグラウンドへ出たさとみたちだったが、あかねは先生から「美空さんは見学で」と言われてしまった。あかねは納得が行かず、先生に対してしきりに食い下がっている。上だけとは言えしっかり体操服に着替えていて、授業に参加する気満々だ。

再三に渡って「参加したい」と訴えるも、先生から許可は下りなかった。あかねは憤懣やるかたない様子で、しぶしぶ校庭の隅へ移動する。さとみはそんなあかねの様子を、遠巻きながら心配そうに見つめていた。

「美空さん、よっぽど体育やりたいみたいだね」

「疲れるだけなのにねー……あたしも休みたいなぁ」

あかねが参加したがるのも無理はない、とさとみは思った。彼女は身体を動かすことが大好きで、授業であれなんであれ身体を動かせるなら大歓迎だったからだ。しかしながら人魚に変身してしまってからというもの、体育の授業はすべて見学させられてしまっている。他の子と同じように動けないし、車椅子で無理をするのは危険だから、というそれなりの理由はあったが、あかねを納得させ得るものではなかったようだ。

見学者は授業に参加しない代わりに、レポートを書かなければならない。先生から手渡されたクリップボードを右手にぶら下げたまま、あかねが頬杖をついて見学をしている。見るからに暇そうで、明らかにつまらなさそうで、あからさまに退屈そうな様子だった。大きくため息をつくあかねの姿を見て、さとみは密かに心を痛めた。

(どないかして、あかねちゃんも運動さしたりたいけど……どないしたらええんやろう)

さとみにもあかねと一緒に授業を受けたいという気持ちはあったが、彼女一人で先生を説得できるわけもなく、またそれに代わる妙案も浮かばない状態だった。

「……よしっ。うち、頑張るで」

そんなあかねの分まで自分が頑張らねばと、さとみが頬を叩いて気を引き締めるのだった。

 

お昼ご飯を済ませた後の、のんびりしたお昼休みの時間。いつものようにさとみはあかねの席の近くまで出向いて、楽しいおしゃべりに花を咲かせていた。

「その人な、生きてるみたいやけど死んでるねんて。な、不思議やろ?」

「あかねちゃんあかねちゃん、どういうことなんよ、それ」

「うちもよう分からんけど、体は死んだ人みたいに冷たいし心臓も止まっとるけど、せやけど普通に歩いたり喋ったりして、ご飯も食べたりするらしいわ」

「えー、なんなんそれ。生きてるんか死んでるんか分からんやん。なんか怖い話やわあ。あれやろ、ゾンビみたいな?」

「それそれ、ゾンビゾンビ。見た目は腐ったりしてへん普通の人そのものの姿らしいけど」

近くの地区で起きたらしい、ちょっと不思議で不気味な事件の話題が一段落したところで、さとみがふと何かを思い出したような素振りを見せて、隣のあかねに声を掛ける。

「せや、あかねちゃん。ちょっとあれやねんけど……」

「なんなん、どないしたん?」

「……あかねちゃん、今日もまたお手洗い我慢しとるん?」

声をひそめて、他の子に聞こえないよう配慮しながら、さとみがあかねに訊ねる。

「せやねんよー。前も言うたけど、この学校人魚用のお手洗いあらへんから、家帰るまで我慢せなあかんねん」

「せやんなー……あかねちゃん、大変やな」

ここ空五倍子第二中学校には、人魚が利用できるトイレが整備されていない。と言うより、空五倍子区全体を見ても、人魚用のお手洗いを配備できている施設の方が圧倒的に少ない。身体の作りの関係で人間用のトイレはそのまま利用できないので、あかねは毎日登校してから帰宅するまで我慢をすることになる。

「あかねちゃん、大丈夫? 無理せんとうちに言うてな、なんでもするから」

「いけるいける。言うて足あった時より我慢するん楽なったし、家とかでもだいぶ堪える練習したから、こんなん余裕やわ」

笑って答えるあかねを、さとみは心配そうに見つめるばかりだった。

さとみが過去の記憶を振り返る。あれは確か、中学校に入りたての頃のことだ。

「さとみちゃんごめん……ほんまごめん。ちょっと堪えられへんから、手伝うてほしい」

休み時間の最中、あかねが切羽詰まった表情で声を掛けてきた。さとみはすぐに事情を理解して、あかねの乗った車椅子を押して少し離れた場所にある女子トイレまで急行した。

「うち、ちょっと難儀するから、バケツに水汲んでくれへんかな。水入れ替えるんよ」

「その間に、うちこっちの水捨てとくさかい」

あかねに頼まれて、さとみは掃除用具入れに入ってたポリバケツいっぱいに水を注ぐ。あかねがどのようにして用を足すのかは、なるべく考えないようにしていた。深く詮索するのは失礼だと思ったし、何よりあかね本人のことを思うと、下手に考えること自体が憚られたからだ。

水を張ったバケツを個室の前へ置いて、さとみはあかねが出てくるのを待った。幾ばくかの時間が経ってから、車椅子をびしょ濡れにしたあかねがようやく姿を現した。あかねの下半身が沈んでいるだろういる水槽には、しっかりとカーテンが掛けられているのが見えた。

「ちょっと待ってあかねちゃん。うち車椅子拭くわ」

「ええよ、そんな、さとみちゃん」

濡れたままの車椅子を見たさとみは持っていたタオルハンカチを使って、あちこちに飛んだ水滴を丹念に拭き取っていく。一度ハンカチを洗って水を強く切り、隅々まで余すところなく綺麗にした。

ようやく元通りの姿を取り戻したところで、さとみがあかねに目を向ける。普段の快活さはすっかり鳴りを潜めて、ただ申し訳なさそうな表情を見せているあかねの姿があった。

「……ごめんな。さとみちゃん、ホンマにごめんな」

しきりに謝るあかねの姿を、さとみは強い印象を持って記憶していた。

それからというもの、あかねが学校に入る間にお手洗いへ行きたいと言ってきたことは一度も無い。少なくともさとみの前では、尿意や便意を堪えている素振りさえ見せなくなった。さとみに迷惑をかけたくないという思いからだとは分かっていたけれど、さとみにしてみれば心配で心配でならなかった。女の子として、自由にトイレへ行けないことの辛さは骨身に染みて分かっていたからだ。

「しんどかったら言うてな。うち、あかねちゃんのためやったら何でもしたりたいから」

「うん……さとみちゃん、ありがとう」

笑うあかねを、さとみは静かに見つめるのだった。

 

授業が終わって放課後。さとみとあかねの二人が、廊下を並んで一緒に歩く。

「なああかねちゃん。うち、あかねちゃんの車椅子押してくで」

「ええよ、そない気ぃ使わんでも。自分でいけるで」

さとみはことあるごとに「車椅子を押していく」と申し出ているものの、あかねは「自分で動かせるから大丈夫」と言って譲らない。こんなやりとりをほぼ毎日繰り返していた。あかねはなんでも自分一人でやりたがるところがあって、それは親友のさとみが相手でも変わらなかった。人魚に変身する以前からそうした性格は見られたけれど、こうして人魚と化してからは一段とその傾向が強くなった。

エレベータの前で別れてから、校門で待ち合わせる。登校する時も下校する時もここで一度離れてしまうのが、いつもあかねの側にいたいさとみにとってはやきもきさせられることだった。エレベーターがもっと広くて、せめて一人くらい同乗できてもいいのに。そう思わない日はなかったと言っていい。

「あのな、さとみちゃん」

「どないしたん?」

「今度部活の入部届出すやろ。うちそれでな、陸上部入るねん」

帰り道であかねが真っ先に切り出したのは、どの部活に入るかという話だった。その上であかねは「陸上部に入る」ときっぱり言い切った。

「前からそない言うとったやんな。あかねちゃん、走るん好きやったし」

「今も好きやで、変わってへんよ」

屈託なく笑うあかねに、さとみもつられて笑う。

「うちな、絶対陸上部入るねん。あかん、って言われても諦めへんで。三回行って『三顧の礼』や!」

さとみはペースを合わせて歩きながら、握りこぶしを作って力を入れるあかねを頼もしく思った。あかねはこんな風にいつもやる気と負けん気に満ちていて、誰かとぶつかり合うとしばしば引っ込んでしまいがちなさとみにとっては、とても心強い存在だった。

「けどうちビックリしたわ。さとみちゃん、バスケ部入りたいんやって?」

「せやねん。あかねちゃん見とったら、うちもなんか運動頑張ってみたくなったから」

そんなあかねに触発されたのだろう。さとみはさとみで、バスケ部に入りたいという想いを抱くようになった。さとみ自身も自分の心境の変化に驚いていたけれど、彼女と長く一緒にいるあかねはそれ以上に驚かされたようだ。

「そっかぁ……やー、さとみちゃんからバスケやりたいなんて言葉、聞く思てなかったわ」

「なんやろな、うちもまだ実感湧けへんねんけど、でもやってみたくなってん。なんかこう、バスケって青春感あるやん」

「あ、それ分かるわ。青春感」

「あるやんな、青春感。何がどない青春感かよう分からんけど、なんかこうそういうやつ!」

カタチのない「青春感」で盛り上がるさとみとあかね。ちょっとしたこと、小さなことでたちまち盛り上がってしまうのが、この二人の仲睦まじさの表れだった。

あかねが不意に口火を切ったのは、それから少しだけ間を空けてからだった。

「こないだおかんと一緒に買い物行ったときに、ポスター見てん」

「ポスターって、どないなやつ?」

「あれや。足片一方失くして義足付けとるけど陸上やっとる女の子が写ってるんよ」

さとみは小さく頷く。あかねが何を言おうとしているのか、何を言いたいのかは、手に取るように理解できた。あかねが今置かれている境遇は、ポスターの被写体になった少女のそれとよく似ているように見えたからだ。

茜色に染まった空を仰ぐあかねを、さとみが見つめる。

「それ見てな、思ってんよ」

「『うちも頑張らな』って」

さとみが隣で目にした親友の表情は、いつもより少し、大人びて見えた気がした。

 

平日はいつも一緒の二人だが、じゃあ休日はどうかと言うと、やっぱり一緒なわけで。

「この辺、遊んだりできるところ全然あらへんからなぁ」

「ホンマに『住宅街』って感じやもんね。いつもみたいに、駅の近くまで行こか」

さとみとあかねが遊ぶ場所は大体決まっている。駅前の商店街だ。住宅街には家と小さな公園くらいしかなくて、遊ぶにはいささか物足りない。これは二人に限った話では無くて、空五倍子区に住んでいる子は大体こんな感じなのである。

今日もまたいつものように、さとみが車椅子に乗ったあかねの隣について歩く。そうして歩調を合わせて進みながら、さとみはあかねと出会った頃のことを思い出していた。

(うちが山辺市に越してきたんとほとんど同じタイミングやったっけ、あかねちゃんがここに来たのん)

(あかねちゃんの方からうちに話し掛けてきてくれて、それですぐに仲良くなったんやんね)

二人がここ山辺市は空五倍子区へ引っ越してきたのはほぼ同時で、転居して数日後にはお互い顔を合わせている。外からやってきた転校生同士、しかも同じ関西弁ということで、無二の親友になるまではあっという間だった。その時できあがった関係が、今日に至るまでずっと続いている。

住宅街を抜けたところで、あかねがこんなことを口にした。

「なあなあさとみちゃん。うち、ヘンな匂いとかしてへん?」

「匂い? ううん、全然やけど」

「それやったらええんやけど、なんか魚の匂いするような気ぃして、ちょっと落ち着かへんかってん」

「ああ、そういうことやったんやな。大丈夫大丈夫、気にならへんから」

あかねは人魚に変身してしまって以来、こうして自分が魚臭くないかをしきりに気にするようになっていた。さとみはそんなあかねの気持ちを慮って、「気にならない」と答えるのが常だった。実際、いつもあかねの側にいるさとみにしても、特に気になるようなことは無かった。

特に何事も無く駅前までやってきたところで、さとみが「あっ」と声を上げる。なんなんなんなん、と訊ねてきたあかねに、さとみは弾んだ声で答えた。

「見てや、クレープ屋さん来とるで! なんか買うて食べよや」

「ホンマや! 行こ行こ」

駅前ではクレープ屋が時々やってきて商売をしている。さとみもあかねもここのクレープが好きでしょっちゅう食べていたのだが、ここしばらくは姿を見せていなかった。それが久々にやってきたとあって、二人とも早速テンションが上がっていた。

さとみが「すいませーん」と呼び掛けると、エプロン姿の店員がすぐさま応じた。見るとずいぶん若い女性だ。以前はいい歳のおじさんが販売していたけれど、地区の担当が変わったのかも知れない。さとみは細かいことを気にせず、メニューを指差して「いちごクリームひとつ」と注文を済ませる。

「あかねちゃん、どないする?」

「えーっと、うちはカスタードチョコ!」

元気よく声を上げてカスタードチョコクリームのクレープを注文したあかね。ところが店員さんはちょっと曖昧な表情をしてみせてから、こんなことを訊ねてきた。

「そちらの方は……チョコレートは大丈夫でしょうか?」

「大丈夫やって! うちこないな見てくれやけど、れっきとした人間やし!」

店員は「失礼いたしました」と一礼し、さとみのいちごクリームとあかねのカスタードチョコクリームのクレープを作り始める。さとみはあかねの時だけ「チョコレートは大丈夫か」と訊ねられた理由がさっぱり分からず、しきりに首を傾げていた。

焼き上がったクレープを受け取ってすぐさまかぶりつきながら、あかねがぼそりと言葉をこぼした。

「あんな風にな、よう訊かれるねん。自分チョコレートいけるん? とか」

「人魚やからあれ食べたらあかんのとちゃうんかとか、しょっちゅう言われるんよ」

「うち普通の子やし。どこにでもおる普通の美少女やし」

不満げな顔をしながら、クレープの二口目を食べるあかね。それを見たさとみが、彼女にそっと寄り添う。

「ホンマやわ。あかねちゃんは美少女やもんね」

「さとみちゃん、そこはツッコミどころやで」

うっとりした表情で「あかねちゃんは美少女」なんてけろりと言ってのけるさとみに、あかねが声を上げて笑ったのだった。

クレープを食べ終わったところで、あかねがさとみにすっと目を向ける。

「さとみちゃん着とる服、かわいいなあ」

「わ、あかねちゃんありがとう。なんか照れるわ」

「うちもさとみちゃんみたいな服着れたらええねんけど、ちょっと体と合わへんからなあ」

あかねがさとみが着ている明るい朱色のチュニックを見て、羨ましそうにつぶやいた。体型の都合で、あかねには着ることのできない服がたくさんあった。着られる服の方が少ないと言っても言い過ぎでは無い。あかねのような人魚にも着用できる服はどうしても地味な物になりがちで、お洒落を楽しむ余裕はあまり無いのが現実だった。

二人でウィンドウショッピングを楽しみながら、あかねが「これ着てみたい」「あれ着てみたい」と言うものの、どれも体に合わずに着られない――という光景が何度か繰り返された。

「なんかなあ。上だけ着れる服もっと多かったらええねんけど」

寂しそうな表情を見せるあかねに、さとみは胸がちくりと痛む。

(あかねちゃん、中学上がったらお洒落してみたいって、よう言うとったからなあ……)

もし人魚に変身するようなことが無かったら、今のあかねはもっと楽しそうな顔をしていたに違いない。そう考えると、さとみはいつも「少しでもあかねにしてやれることはないか」と思うのだった。

次の二人がやってきたのは、商店街の中程にあるこじんまりとしたカラオケボックスだ。ここはいつも静かであまり人が入っていないゆえに、のんびり遊びたいさとみやあかねのような中高生に穴場として知られていた。入っている機種がちょっとばかり古いのが難点だったが、別に流行曲を追っかけているわけでもない二人にとっては、どうってことのない些細な問題に過ぎなかった。

個室へ入ってから真っ先にマイクを手にしたのは、あかねの方だった。お気に入りの曲を探し出して予約を入れると、流れてきたバックミュージックに合わせて歌い始める。

「――ちーいさいーころーはー かーみさまがいてー」

一曲目はやっぱりこれか、とさとみが頷く。あかねの十八番で、カラオケへ来ると必ずと言っていいほど歌う曲だった。まずは一番お気に入りの曲で喉を慣らして、それから別の曲に手を出す。これがあかねの黄金パターンというわけだ。

それにしてもいい声だ――耳へするすると入り込んでくる美しいあかねの声に、さとみは夢見心地の表情を見せてうっとりしていた。あかねは以前からそれなりに綺麗な声を出していたが、ここ最近、具体的には人魚に変身してからというもの、それまでとは比べ物にならないほどやたらと上手に歌うようになった。あまりの変わりぶりに、初めて聞いたときは思わず耳を疑ったほどだった。今日もその声は健在で、さとみは思わず息を飲む。

フェードアウトしていく曲を演奏中止ボタンを押して切り上げながら、あかねがマイクを置いた。

「はぁ……あかねちゃん、やっぱり上手やなあ。うちため息出てまうわ」

さとみがこうやってあかねをしきりに褒めそやすものの、しかし当のあかね本人は、どこか納得していないような面持ちで。

「せやろか。なんかな、なんか違うんよ。しっくり来うへん」

ここ最近のあかねは、歌うたびに「何か違う」「しっくり来ない」とこぼしていた。

「自分で言うんもこしょばいけど、ええ声やとは思うんよ。綺麗な声やわ」

「せやけど……なんやろな、なんかうちのホンマの声と違う言うか、うちの中で誰か別人が歌てる言うか、そんな感じするんよ」

「これもやっぱり、人魚になってもうたからかなあ。歌うとき声綺麗んなったん」

美しい歌声が出せるようになったのは、人魚に変身したから――あかねはそう思っているようだった。

人魚は美しい声で歌うという言い伝えが各地に存在するが、これは誤った情報の多い伝承や昔話の類の中では珍しく正確なものだった。そしてあかねもまたその例に漏れない。下半身と共に発声のための器官も作り替えられたようで、元の声はそのまま残ったものの、人間だった頃に比べて段違いに歌が上手になった。

「声出す練習して上手んなったんと違うから、どうしてもしっくり来うへんのよ」

「うちが知らん間に声変わってもうたんが、やっぱり納得行かへんなあ」

今の声は自分の意志で手に入れたものではないこと、それがあかねにとっての不満の種だった。練習を重ねて会得したものならともかく、どこからともなく降って湧いたタナボタ的なものは、彼女にとって決して歓迎できないものだったのだ。

隣に座るさとみは複雑な心境だった。今しがた耳にしたあかねの声は、人の手がまるで入っていない山の湧水のごとく透き通った美しさで、自分は間違いなくそれに魅了されていた。心の底から素晴らしいと思った。けれど、他ならぬ声の主であるあかね自身がそれに納得していない。そんな中で無邪気に「いい声だ」「綺麗な歌だ」と賞賛するのは、どこか憚られるところがあった。

「はぁー……ごめんな、さとみちゃん。さとみちゃんも気にせんと歌て歌て」

「あ、うん。じゃあ、次うち歌うな」

さとみはもやもやした気持ちを抱えたまま、自分が歌う曲を探し始める。

結局カラオケボックスで遊んでいる間、この気持ちが晴れることはなかったのだった。

 

二時間ほど経って外へ出ると、外は夕暮れ時を迎えていて、空があかね色に染まっているのが見えた。

「今日も楽しかったわ。ありがとうな、さとみちゃん」

「ううん、うちの方こそあかねちゃんにありがとう言わな。こないして付き合うてくれるん、あかねちゃんしかおらんし」

いつものように二人並んで歩調を合わせながら、元来た道を帰っていく。住宅街までは、もうしばらく掛かりそうだ。

「せやけど……いろいろ難儀やなあ」

「足あったときは、できとったことばっかりやねんけど」

歩いている最中に、あかねがため息混じりに呟く。さとみはすぐに反応して、彼女に視線を投げかける。

「うちな、最近よう足あった時の夢見るねん」

「ちゃんと地面に立って、思いっきり走れてめっちゃ嬉しいねんけど、目ぇ覚めたら夢で、やっぱり鰭付いたままで」

「起きる度にがっかりしてまうんよ。やっぱり夢やったんや、って」

切ない気持ちがさとみの胸の中をいっぱいに満たして、居た堪れなくなった。すっと後ろへ回り込むと、あかねを背中から優しく抱きしめる。さとみが顔を寄せると、あかねが微かに頬を染めているのが見えた。

「あのな、あかねちゃん。あかねちゃん」

「しいたいこと、してほしいことあったら、うちに遠慮せんと言うてな」

「うちが手伝うから、手伝うたりたいから」

「――あかねちゃんは、うちの一番大事な友達やから」

耳元でやわらかく呟かれた声を聞いたあかねは、些か気恥ずかしそうにしながらも、頬を緩めて「ありがとう」と応えた。

「さとみちゃん、ホンマに優しいなあ。うち胸ときめいてまうわ」

「うちがこんなん言うん、あかねちゃんにだけやで。普段はもっとビビりやねんから」

「よう言うわ、小っ恥ずかしいこと言うといて」

一日いろいろあったけれど、終わり良ければすべて良し。

朗らかな声をあげて笑いながら、さとみとあかねが朱に染まった住宅街へと消えて行った。

 

それから数日後のこと。お昼休みも半分を過ぎて、さとみは頬杖を付いてぼーっとしていた。これといってすることもなく、そしてしたいこともない。いつも隣にいるあかねはどうかというと、今日はどこにも姿が見えない。

(あかねちゃん、先生に呼ばれて職員室行ってもたからなあ。めっちゃヒマや、あくび止まらん)

職員室へ行ってしまったあかねのことを想いながら、さとみが口をむにゃむにゃさせて欠伸をかみ殺す。今日はほどほどに日が当たっていて、大いに眠気を誘われるお天気だった。薄目を閉じて、うつらうつらと小さく船をこぎ始める。

彼女の眠気を吹き飛ばしたのは、後ろから飛んできた同級生の声だった。

「あーっ。つっちー、寝ちゃダメだってばぁ。次の時間音楽だよぉ」

「ふぇ……あ、小夏ちゃん」

つっちー、と弾むような声で呼び掛けて来た小夏は、中学に入ってから知り合った友達だった。おおらかで気のいい性格だったから、少し人見知りの気があるさとみにとっても付き合いやすい子だった。関西から転居してきたさとみとは違い、生まれも育ちもここ空五倍子区だ。

ふるふると首を振ってまとわりついていた眠気を払いのけると、前の席に座った小夏の目を見る。前もお昼寝してて遅刻しそうになったじゃん、と悪戯っぽく言う小夏に、そんなん言うたって眠いししゃあないやん、とバツが悪そうに返すさとみ。なんだかんだで、小夏は気楽に話せる友人の一人だった。

「あのさーあのさー、つっちーに訊いたらいいのか分かんないけどぉ、一個訊いてもいい?」

「うちに? なんなん、訊いてみて」

「えーっとさぁ、つっちーっていつも美空さんと一緒じゃん」

「うん。うち、あかねちゃんとよう一緒におるけど」

「でさでさぁ、美空さんって車椅子乗ってるっしょ? もしかして、なんか病気だったりする?」

病気――という言葉に、さとみは思わずぎょっとしてしまった。小夏に悪気がまったく無さそうなのが、却って戸惑いを強くさせてくる。

(何も知らん人から見たら……あかねちゃんって「病気」に見えてまうんかな)

先の通り、小夏は生まれも育ちもここ空五倍子区で、あまり外に出た経験がない。空五倍子区には所謂物の怪や妖怪の類はほとんど住んでおらず、したがって小夏がそれら人間とは異なる存在を目にする機会もほぼ無い。人間だけの社会で暮らしてきた小夏にとっては、言い方は悪いがあかねはかなり変わった子に見えていたというわけだ。

「あのな、違うねん。病気と違うねん。別に体に具合悪いところあるんと違て、あかねちゃん、人魚になっただけなんよ」

「人魚ぉ? 人魚って、なんか絵本の人魚姫とか、ディズニーのリトルマーメイドとかに出てくるアレ? ホントに?」

「せやねん。前は普通の足やってんけど、なんやかやいろいろあって、魚みたいになったんよ」

「へぇー。だからかぁ、車椅子に乗ってるの」

さとみが小夏に説明していると、横からさらに別の人影が顔を覗かせてきて。

「こなっちゃんこなっちゃん、美空さんの話?」

「おー美由。そうそう、その話その話。元々普通の子だったけど、なんか人魚になっちゃったんだって」

美由はこれまたクラスメートの一人で、小夏の友人だ。さとみやあかねと直接の絡みはあまり無かったけれど、小夏がしょっちゅう美由とつるんでいて、その縁で話をしたことくらいはあった。

「なるほどねー。近くにいるとちょっと魚っぽい匂いするの、やっぱり人魚だったからなんだねー」

「あー分かる分かるそれ。お魚っぽいよね」

隣にいたさとみは再びぎょっとした。普段あかねと接する機会の少ない美由は、あかねから「魚っぽい匂い」がすると言っている。小夏もそれに同調しているということは、同じように思っているということに他ならない。

(うち、いつもあかねちゃんと一緒におって慣れとったから、気付けへんかったんかな……)

さとみが言い知れぬ不安に駆られる。少し前、あかねが自分に「魚臭くないか」と訊ねてきた光景が脳裏を掠める。自分は気にならなかったが、あかね本人はかなり気にしているように見えた。そのことを思うと、さとみの心がひどくざわついた。

「人魚かぁー。人魚って珍しいよねー」

「他の区だとこういう子結構いるらしいけどぉ、ここだと全然見掛けないしねぇ」

「うーん、あれかなー。やっぱり食べるものとか違ったりするのかなー。昆布とかそういうの?」

「あとあれだよねぇ、泳ぐのとか上手そう。魚だし」

小夏と美由の話を横で聞いているさとみは、彼女らの話一つ一つにツッコミを入れたくて仕方がなかった。

(なんやろなぁ……あかねちゃん昆布大嫌いやし、泳ぐのんもそない上手と違うんよな)

(人魚言うたかて、全部が全部魚みたいになってもうたんとちゃうから……)

今のあかねは人魚だ。それは疑う余地の無い事実。とはいえ、あかねがステレオタイプのイメージの人魚の特徴をすべて備えているわけではない。海産物しか食べないわけではないし、舞うように泳げるわけでもない。あくまであかねはあかねで、パブリックイメージの人魚とは趣を異にしていた。

あかねと親しいさとみがそうと分かっていても、小夏と美由に説明して理解してもらえるかは微妙だった。人は見た目の印象に強く引きずられてしまう。人魚としてのあかねしか知らない二人にとっては、あかねはあかねであるよりも前に「人魚」だったからだ。

「でもさでもさー、なんか可哀想だよね。人魚だけど陸で暮らしてるって」

「人魚だし、海にいた方がいいんじゃないかなぁって思うよねぇ。隣がちょうど海沿いの区だしぃ」

こんな感じでもって、小夏と美由があかねの噂話をしていると。

「さとみちゃんやん。何の話しとったん?」

噂をすれば曹操、ではなくあかねが姿を表した。職員室から戻ってきたばかりのようだ。

「美空さんだ。ちょうどね、美空さんの話してたところなんだぁ」

「うちの話? なんなんそれ、どないな話?」

「うーんと、美空さんって人魚なんだよね、って話」

美由の言葉を受けたあかねが、何とも言えない複雑な表情をして見せた。そこはかとなく不満やもどかしさを感じさせる面持ちは、他人から自分が「人魚」として括られることを好ましくないと思っていることの現れだった。

「美空さんさー、陸の上にいるのってしんどくない? だってほら……人魚だし」

「外歩くのだって大変そうだよねー。車椅子押してさー」

「よく分かんないんだけどさ、体が乾いちゃったらよくなかったりするんじゃない? 人魚って」

二人からかけられた言葉に、あかねは何も言えずに押し黙ってしまった。

小夏も美由も、あかねに悪意を持っているわけではない。むしろ彼女たちなりにあかねのことを慮って、心配してくれていると言ってよかった。けれど二人にはあかねがただ人魚にしか見えていなくて、あかねという一個人として見ることができていなかった。自分たちの抱いているイメージが強いゆえに、そこからもう一歩踏み込むことができなかったわけだ。

「あ、ちょっとこなっちゃん。そろそろ行かなきゃ」

「ホントだもうこんな時間。先行ってるねぇ」

時計を見ると間もなく一時、次の音楽の授業が始まろうとしていた。音楽の教科書とクリアファイルを持って教室を出て行く小夏と美由の背中を見送ってから、さとみはあかねに目を向けた。

そのあかねの目には、憂いの色がありありと浮かんでいて。

「確かにうち、見た目は人魚かも知れへんけど」

「でも……でも、心は普通の人間やし」

「なんで皆、うちのこと普通に見てくれへんのやろ……」

思うように行かないことに歯噛みするあかねを、さとみはただ隣で見ていることしかできなかった。それがどれだけ辛いことかは、当のさとみ自身が一番強く感じていたことだった。あかねが辛い思いをしているのに、何も手を打つことができない。こうした状況に置かれるたびに、さとみは身を切られる思いをしたものだった。

「……あかんあかん。こんなんでしょぼくれとったらあかんな、もっと頑張らな!」

あかねがほっぺたをぺちぺち叩いて、気合いを入れ直すのが見えた。煮え切らない思いを抱えつつも、あかねが元気を取り戻してくれたことに、さとみはつかの間の安堵を覚えた。

「もうすぐ部活もスタートやし、うちもやるでー! 『破竹の勢い』やー!」

必要なものを持って音楽室へ向かうあかねを追って、さとみも教室を後にした。

 

その日の放課後。バスケ部のために体育館へ向かおうとしていたさとみの横に、あかねが車椅子を駆ってやってきて。

「さとみちゃーん! これからバスケ部行くん?」

「せやで。あかねちゃんは?」

「うち? うちな、これから陸上部に入部届出しに行ってくるんよ!」

入部届をひらひらさせながら、あかねが弾むような声でさとみに言って見せる。

「さとみちゃんみたいにうちも頑張るでー! よっしゃー!」

そうして素早く教室から出て行ったあかねの背中を見送りながら、さとみは改めて思う。

(あかねちゃん、ホンマに陸上部入るつもりなんや)

陸上部に入りたい、あかねはそう言っていた。あかねのすることだ、さとみは全力で応援したいと思うし、決してウソや冗談の類とは思っていない。あかねは何事も本気でやるタイプだということは、大親友であるさとみが誰よりもよく知っていることだ。

とは言え――とは言えだ。今のあかねは人魚そのもので、グラウンドを自由に駆け回れるような体ではないこともまた事実。だからさとみは胸騒ぎがした。何か一騒動あるような予感がして気が気ではなかった。

(ちょっと……様子見に行って来よかな)

部活の始まりまではまだ時間がある。少しだけあかねの様子を見に行ってこよう。さとみはこくんと頷いて、あかねの後を追いかけていった。

やってきたのは校舎の入り口。グラウンドが一望できるその場所に、あかねの姿があった。あかねは陸上部の顧問をつかまえて、大きな声で何やら訴えているではないか。声が聞き取れる物陰を確保して、さとみがそっと聞き耳を立てる。

「人魚が入ったらアカンいう校則あらへんやろ? せやからうちも入部さしてや!」

「美空さん……気持ちは分かったわ。けれども……」

「うち走るで! 短距離走めっちゃ得意やってん! みんなより速よ走れる自信あるから! 絶対入部するねん!」

顧問も周りにいる他の部員も、みんな揃って困惑していた。顧問はあかねをたしなめて、入部するのはいいが、その体で走るのは難しくないか、とやんわり言っている。別に頭から拒絶して突っぱねているわけではなく、できることとできないことがあるよ、と言いたいのだろうが、今の猪突猛進モードのあかねにはうまく伝わる。

「なんなんよ! ええ加減にしいや! そない言うんやったら、今ここで走ったるわ!」

こんな感じで押し問答を続けて五分ほど。いつまで経っても事態が進展しないと感じたのか、あかねが激昂して声を上げた。顧問も部員たちもますます困惑してしまって、お互い顔を見合わせている。

さとみはすぐに分かった。陸上部の人たちの中で、誰一人として笑ったり嘲ったりしている人はいない。あかねの熱意は理解するが、けれど人魚の体で地上を走るのは難しいのではないか、そう思っているに違いなかった。別に差別とか偏見とか、そういうセンシティブで小難しい問題ではなく、単に物理的に困難じゃないか、と言いたいわけで。

ところが不幸なことに、あかねはそれを「自分を入部させまいとしている」と受け止めてしまって、怒りに火が付いてしまった。

「見ときや! うちが走れるってとこ、見せたるわ!」

あかねはそう叫んで車椅子のセーフティロックを解除すると、水槽から飛び出してグラウンドへ降り立った。

地べたを這いずり回っている。今のあかねは、そうとしか形容できない有様だった。鰭のある下半身では地面に立つことはできず、体を引きずって手で前へ進んでいくほかない。とても「走っている」とは言えない状態だ。

陸上部の部員も、顧問も、周りにいる他の生徒たちも、一様に黙ったまま気まずい表情をしている。口元を手で抑えて目を見開く女子生徒、視線を足元へ落としつつちらちら様子を伺う男子生徒、その場に立ち尽くしている顧問の先生。誰もあかねに声を掛けられずにいた。

「なんでや……なんでや、なんでや!」

「うち走りたいのに……なんで走られへんのや!!」

思うようにならない体。かつてのように動かない足。あかねはそれを受け入れられずに癇癪を起こして、地面に拳を叩きつける。それでもそこからまた二十メートルほど這っていったけれど、そこでもう力尽きてしまって、一歩も前に進めなくなってしまった。

「あかねちゃんっ!!」

さとみが飛び出して行ったのはその時だった。あっ、と驚きの表情を見せた陸上部の部員たちを尻目に、さとみがグラウンドで泥だらけになっているあかねのもとまで駆け寄る。あかねちゃん、と声を掛けながら屈み込んで、ジタバタ暴れているあかねに手を差し伸べた。

「いやや! さとみちゃん来んといてや、見んといてや!」

「あかねちゃん……あかねちゃん、落ち着いてや、ちょっと、あかね――」

「なんでなん……なんで、なんでうち、走られへんの……なんでなん! なんでなんよ!」

なんでうち、走られへんの――あかねの言葉に、さとみは胸がずきんと痛むのを感じた。

人魚になっても変わらず、人間だった頃と同じように明るく振る舞っていた。それが表向きのもので、心の中では深く思い悩んでいたということがはっきり分かった。あかねはずっとかつての人間のようにありたくて、けれど人魚の躰ではそれが叶わないことを誰よりもよく理解していて。

「うち走りたい! 前みたいに走りたいのに! せやのに……せやのに!」

ずっとずっと抑え込み続けていた感情が爆発して、火山の噴火のように溢れ出していた。

なおも暴れるあかねをなんとか引きずって、後者の裏手にある水飲み場まで連れていく。全身土だらけの泥まみれになったあかねの姿にショックを受けながら、さとみは服が濡れるのも構わずに水を手で汲んで、あかねの腕や鰭を丁寧に洗っていく。

「ううっ……ひぐっ……うぁ……」

ただ泣きじゃくるあかねを前にして、気の利いた言葉の一つも言えない自分が腹立たしかった。埃にまみれたあかねの髪を濡らしたハンカチで拭き取りながら、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、あかねの側にいつづけた。

そうやってしばらくあかねの面倒を見ていると、陸上部にいた女子の一人が、置きっぱなしになっていた車椅子を押して持ってきてくれた。さとみが一言お礼を言って、女子と一緒にあかねを車椅子に乗せてやる。

(今日はもう、あかねちゃんと一緒に家帰ろう。部長さんに、友達家まで連れていくからって言うて、家帰ろう)

がっくりとうなだれたままのあかねに「行くで」と一言だけ声を掛けて、さとみは車椅子を男していった。

 

さとみがバスケ部の部長に事情を説明すると、「一緒に帰ってあげて」と快く送り出してくれた。自分とあかねの手荷物を整理して、さとみがそっと車椅子を押していく。

洗ったとはいえブラウスは土まみれのままで、髪の毛も丹念に拭いはしたけれど、土埃だらけでとても綺麗とは言えない有様だった。あかねのみすぼらしい姿にさとみは気安く声を掛けることもできなくて、ただあかねに寄り添うことしかできなかった。

歩き続けて十分ほどが経った。それまで黙りこくっていたあかねが、ぽつりと言葉を漏らした。

「……くやしい」

「あかねちゃん……」

「うち、なんも悪いことしてへんのに。ずっとええ子にしとったのに」

さとみの手に力がこもって熱を帯びる。あかねの気持ちがストレートに伝わってきて、何もできない歯がゆさだけが募っていくのを感じて。

「なんで、人魚になんかなんてもうたんやろう」

これが、今のあかねの嘘偽りの無い本音だ――さとみはそう確信した。確信せざるを得なかった。そして同時に、今まであかねの本心に寄り添うことができていなかったことを深く悔いた。どうして気付いてやれなかったのだろう、もっとあかねが本音で話せるようにしてやれなかったのだろう……と。

「走るん好きやったのに、めっちゃ、めっちゃ好きやったのに」

「うちにはもう足あらへん。せやから、やりとうてもできひんのや」

「しんどい。なんでうち、こないしんどい思いせなあかんのやろう」

「しいたいこと山ほどあるのに、何にもできひん。全然できひんやん」

「ほんまに……ほんまに、くやしい」

喉から声を絞り出して、あかねがさとみに心情を吐露した。さとみはただただ胸が苦しくて、あかねがどれほどの辛さを抱えていたのかを思うと胸が詰まりそうになった。手に力が入らず車椅子を押すスピードが遅くなって、今にも止まってしまいそうな有様だった。

後ろのさとみの心境を知ってか知らずか、深くうつむいたままのあかねが、抑揚の無い声でつぶやく。

「さとみちゃん……ええねんで。そない無理して、うちの側におらんでも」

「どっかでまた、今日みたいに迷惑かけてまう。せやから」

「うち、さとみちゃんにこないな恥ずかしい姿見せるん、つらいんよ」

「うちは他の子とちゃう、人間とちゃう、気色悪い人魚やから」

「足あれへん、人魚の子やから」

それにな――と前置きをして

「うちかてな」

「さとみちゃんみたいなええ子に」

「しっかりした、気立てのやさしい子に」

「お義理で側におられても、しんどいんや」

「ほんまに、しんどいんや」

奈落の底へ突き落とされたような思いだった。

自分は本心からあかねの側にいたいと思っているのに、その気持ちがあかねにとっては重荷で、耐えがたい苦痛にまでなってしまっている。その現実を、まざまざと突き付けられた。

(お義理で側におられても、しんどいんや)

あかねが発した言葉が、さとみの中でいつまでもいつまでも、絶えること無く反響を続けて。

それからはお互い一言も交わさぬまま、家までの道のりを歩いたのだった。

 

しん、と静まり返った部屋。パジャマ姿のさとみが学習机に頬杖を付いて、大きなため息をつく。

脳裏をよぎるのは、あかねのことばかりだった。

(うち……ほんまにあかねちゃんのこと好きで、そばにおったりたい)

(けど、うちがおりたい思たから言うて、それだけでおってもええんかな……)

一人で思案を続けても、答えは一向に出てこない。考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃしてきて、呼吸が苦しくなってきそうだった。それもこれもあかねを想うからこその感情だと思うと、さとみの気持ちはますます重くなった。

思考はいつしか脱線していって、けれど止められずに思うまま続けているうちに、さとみはあかねと出会ったばかりの頃のことを思い出していて。

(三年の時やったかな、うち引っ越してきたん)

(一人であそこの児童公園おったら、あかねちゃん話しかけてきてくれて、それで……)

さとみが空五倍子区に引っ越して来たのは、今から四年ほど前のことだ。かつて住んでいた関西から遠く離れたここ山辺市で暮らすことになってしまって、さとみは不安でいっぱいになっていた。新しい友達はできるだろうか、クラスに馴染めるだろうか、いじめられたりしないだろうか。次から次へと心配事が浮かんでくる。とても落ち着いてなんかいられなかった。

ちょうど、その時だったと思う。

「どないしたん? なんか嫌なことあったん?」

公園のベンチで沈んだ顔をして座っていたさとみに、きさくに声をかけて来る女の子が一人。そのイントネーション、その口調は、親しみのある、とても親しみのあるもので。

「うちな、あかねって言うねん! 美空あかね!」

「あかね……ちゃん?」

「昨日引っ越してきたばっかりやから、まだここに友達おらんねん」

ずいぶん驚かされたことを覚えている。あかねもまた、ちょうどここへ引っ越してきたばかりだと言ったのだ。同じ関西弁を話す子で、しかも引っ越してきたばかり。不安だらけでただただ暗かったさとみの表情が、みるみるうちに明るくなった。心細さが吹き飛んで、心強さが胸いっぱいに広がっていく。

「なあ」

「うちと、友達になってくれへん?」

さとみが大きく頷いたのは、言うまでもなかった。

それからさとみはいつもあかねと共にいて、勉強する時も遊ぶときもずっと一緒だった。さとみにも他の友達ができたし、あかねにはもっとたくさんの友達ができたけれど、さとみにとってはあかねが、あかねにとってはさとみが一番ということには何も変わりが無かった。掛け替えの無い存在、お互いを間違いなくそう思っていて。

(あれは、小五の時やったかな)

(男子にちょっかい出されてしょげとったら、またあかねちゃんがうちに声かけてくれたんや)

悪戯好きの男子に体を触られて、さとみがビックリしてしまったことがあった。その場であかねが男子を蹴り飛ばして仕返ししてくれたけれど、興味本位でペタペタ手で触れられたのがひどくショックで、放課後になっても気持ちが落ち込んだままだった。

「最悪や。ホンマにどうしようもないな、川見のアホは。さとみちゃん可愛いから触ったって、チカンみたいなもんや」

「うち……怖かった。なんかよう分からへんけど、怖かった……」

「さとみちゃん……かわいそうに。怖かったやんな、嫌やったやんな」

怯えるさとみを、あかねがぎゅっと抱きしめる。さとみはあかねの匂いとぬくもりに包まれて、胸を満たしていた恐怖と不安が、すっと消えていくのを感じて。

たださとみにだけ聞こえるほどの、とてもとても密やかな声で、あかねがそっとささやく。

「何かあったら、うちがさとみちゃん守ったる」

「せやから、もう怖がらんでええ」

「うちが、さとみちゃん守ったるから」

大好きなあかねから言われた言葉。ずっと自分を守っていくという言葉。その強さと熱さに、とくん、と胸がときめいた。

今思えば、間違いなくこれがきっかけだった。あかねに対する特別な想い。他の友達とは何かが大きく違う、ただ、あかねに対してだけ抱いていた感情。

友達は友達で間違いない。あかねは自分にとって大親友だ。けれど、それよりももっともっと深い想い。ただの友達、ありきたりな親友という関係を越えた、特別な気持ち。

あかねを見るたび思うたびに去来する感情は、友情というよりも、愛情に近いもので。

(やっぱりうち、これからもあかねちゃんの側におりたい。ずっと近くにおりたい)

(だって……あかねちゃんのこと、好きになってしもたんやから)

(せやけど、言うとったやん。うちがただ側におっても、気ぃ遣てしんどいだけやって)

(あかねちゃん可哀想や思てるから側におる、そないな風に考えとるんや)

(うちは、うちはただ、あかねちゃんと一緒におりたいだけやのに)

隣にいたいと思えば思うほど、あかねから言われた言葉が深く胸に突き刺さる。「お義理で側におられてもしんどいだけ」。あかねの気持ちはもっともだった。人魚に変身してからのあかねは、どうしても一人ではできないことがたくさん生まれてしまった。さとみはあかねをヘルプしたい一心でお手伝いをしていたけれど、それがあかねには重荷になっていたわけだ。

自分が一方的にあかねを支えているわけじゃない。自分もあかねから元気をもらって支えられているんだ。その気持ちを伝えるにはどうしたらいいのか。何かうまい言葉は、あかねをあっと言わせるような、気の利いた言葉は見つからないだろうか。

(……あれ)

(あかねちゃんやったっけ、言うとったん)

何かいい言葉は無いか、記憶をひっくり返して探し回っていると、さとみがふと、そのあかね自身から教えてもらったある言葉を思い出した。

あかねは「三国志」が好きで、マンガも読んでいたし、これをモチーフにしたゲームもよく遊んでいた。そこでいろいろと知識を付けたのか、三国志のエピソードが由来の故事成語をいろいろ引いてくる癖があった。これはずいぶん昔、さとみとあかねが出会ったばかりのことから変わっていなかった。

(あれや。ええっと、孔明と劉備が仲良くしとって、それで……)

(……思い出した! 思い出したわ!)

(『水魚の交わり』……これや、これで間違いあらへんわ!)

さとみが思い出した言葉。「水魚の交わり」。水と魚のように、切っても切れないような親しい間柄のこと。ただの知人・友人という枠を越えた関係を築き上げた劉備と孔明を喩えて言ったものだ。

それこそ、さとみとあかねのような関係、そのものだった。

「水魚の交わり、水魚の交わり……!」

何度も口から言葉を出して声の形にする。そうして繰り返し発しているうちに、さとみの目に輝きがよみがえってきた。

(うちはここへ来たばっかりのとき、心配してばっかりで暗い顔しとった)

(せやけど、あかねちゃんがうちに声かけてくれたから、うちは明るくなれた)

(あかねちゃんっていう『水』があったから、『魚』のうちも明るくなれたんや!)

これだ、これだ、これだ。さとみがこくこくとしきりに頷いて、満ち足りた笑顔を見せた。

あかねに自分の想いを伝えるには、これしかない。

「……よし、そうと決めたら早よ寝やな! 寝坊してもたら言いたいことも言われへん!」

さとみは思い立ってすぐ部屋の明かりを落として、そのままベッドへ飛び込んだ。

わずかばかりの不安と、止めどなくあふれ出てくるときめきで、小さな胸の中をいっぱいにして。

 

明けて翌日。外は雲一つ無い見事な快晴で、気持ちのいい青空がどこまでも広がっている。

「さとみちゃん、ほんまにごめんな。昨日ひどいこと言うてもて」

さとみがあかねを迎えに行くと、あかねはすっかり冷静さを取り戻していた。少し居心地の悪そうな、あるいは照れくさそうな顔をして、さとみに当たり散らしてしまったことをしきりに詫びている。今まで言えなかったこと、胸のうちに秘めていたことを一気に吐き出して、少し気持ちが楽になったのかもしれないと、さとみは思った。

「ううん。うち、気にしてへんで。それより、あかねちゃんが本音で話してくれたんやって思たから」

「ほんまな、昨日はうちどないかしとった。意地張って無茶苦茶言うて、いろんな人に迷惑かけてもたわ」

昨日の一件であかねは少し吹っ切れたみたいで、昨日の暴れぶりが嘘のような理性的な姿を見せている。さとみは、あかねはちょっとしたことで感情的になりがちだけど、本質的には落ち着きのある子だと知っていたから、何の違和感もなく受け入れることができていた。

「けどな、先生の言う通りや。別にうちが人魚やから差別しとるとかちゃう。そもそも物理的に走られへんやん、うち」

「昔はできとったけど、いまはできひん。しゃあないけど、これが現実なんや」

「まあ、悔しい言うたら悔しいけど、でも、分かった。今のうちにはできることとできひんことがある、そういうことやな」

「せやからさとみちゃん、堪忍な。お義理とかそんなんでおってくれとるんちゃうって、頭ではよう分かってるねんけど」

「さとみちゃん優しいから、いけずなこと言うて、それでも側におってくれるって、甘えとったんやわ」

さとみが嫌々自分と一緒にいるわけではないことなんて、あかねにも分かりきったことだった。それでもあんな言葉を口にしてしまったのは、さとみになら八つ当たりしても受け止めてくれるという甘えがあったから。さとみはあかねが今どんな気持ちでいるのかをしっかり掴んで、誰よりも深く理解していた。

ここでちょうど会話が途切れた。二人の間に沈黙が挟まる。そろそろ、頃合いだろうか。さとみが胸に手を当てて小さく息を吸う。昨日言おうと決めた言葉をもう一度思い返して、口に出すための心の準備を済ませる。

そして。

「あのな、あかねちゃん」

車椅子を運転していたあかねの前に出て、さとみがしっかり胸を張って声をあげる。あかねはきょとんとした顔をして、車椅子を繰る手をピタリと止める。さとみとあかね、あかねとさとみ。二人が真っ正面から向かい合う形になった。

「あかねちゃん。うち、昨日思い出したことあるねん」

「前に教えてくれたことわざあるやん。あの――」

「――『水魚の交わり』。ほら、あったやろ?」

あかねが目を開いたまま、こくこくと頷く。その表情からは、あかねが今戸惑いと胸の高鳴りを同時に覚えていることがはっきりと見て取れた。

「うち……決めた。これや、って決めたことあるねん」

さとみは少しも目を逸らさず、まっすぐ前を見て、ただ、あかねの姿だけを瞳の中に映し出して。

「あかねちゃんが『魚』やったら、うちは『水』になる!」

「『水』になって、あかねちゃんをどこへでも連れて行ったるんや!」

「しょぼくれとったうちと友達になってくれて、あかねちゃんがうちの『水』になってくれたみたいに」

「うちも……うちも、あかねちゃんの『水』になるんや!!」

一息のうちに、思いのたけをあかねにぶつけた。

あかねは独りだった自分と仲良くなってくれた。あかねがいたことでどれほど救いを得られただろう。同じ転校生で、同じ関西弁を話す女の子が側にいる。これがどれほど心強いことだっただろう。あかねという存在があったからこそ、さとみは水を得た魚のように、この町でも明るく振る舞うことができた。

そう――水を得た魚のように!

今度は自分があかねの水になる番だ。かつてあかねが自分に寄り添って力をくれたように、自分もあかねの力になりたい。あかねが人魚なのがなんだ、歩けないことがなんだ。それなら自分があかねを連れてどこへでも行って見せる。水があれば魚はどこまでも泳いでいける。

ならば水になろう! 自分が水になって、あかねと共にあろうじゃないか!

「うち、ずっと側におりたい。あかねちゃんの隣におらしてほしい!」

「どっか行きたいところあったら、うちが連れて行ったる。どんなとこでも、うちが連れていったるんや!」

「あかねちゃんが元気でおれるように、うちが元気でおれるように、ずっと、ずっとずっと側におるから!」

「せやからあかねちゃん……ほんまのほんまの、一生のお願いや!」

「うち――あかねちゃんと、『水魚の交わり』やって言われたい!」

あかねがさとみの目を見つめる。さとみの瞳の中にある自分の姿は一点の濁りもなくて、それはすなわち、さとみがあかねのことを一心に、揺るぎなく見つめていることの何よりの証左で。

「さとみ、ちゃん……」

自分への思いを惜しげもなく披瀝するさとみに、あかねは瞳に熱い涙を溜めて。

「さとみちゃんが、『水』になってくれる……」

「うちの、『魚』のうちの、『水』に……!」

目元をぐいぐい拭ってから、あかねが照れたように笑って、それから。

「……うち、確かに言うたわ。『水魚の交わり』って」

「うちは単純に、うちらみたいに仲いいことや言うたけど、さとみちゃんがむっちゃうまいこと言うてくれた」

「ほんま、一本取られた気分や。こないうまいこと言われたら、うち……涙出てまうやん」

「さとみちゃんと、水と魚で一つになって、ずっと二人でおれるんやったら、こんなに嬉しいことあらへん」

さとみがあかねの手を取って、そっと力を込める。握り返すあかねの手にも、ゆっくりと、けれど強い力がこもって。

「……なんや、うち、これでよかったんや」

「『水』といっしょにおるんやったら、『魚』の方が都合がええ」

「うち、人魚になって――よかったんや」

水のさとみと魚のあかね。二人のぬくもりが、一つに交わった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。