「……答えあわせなんて、するもんじゃなかった」
それが、ぼくの今の偽らざる気持ちだった。キャンパスの前で予備校の講師が配布していた答案を受け取ってしまったぼくは、逸る気持ちをどうしても抑えきれず、自分が問題用紙に書き残した残骸を基に答え合わせをした。その結果については、ぼくの言葉から推し量ってほしい。
「この大学、第一志望だったんだけどな……」
試験でも実力が出せたとは言えなかった。食い違いの多い講師回答と自己回答を交互に眺めていると、ため息がとめどなく溢れてくる。とめどなく溢れてくるものが感激の涙ならまだしも、ため息が溢れられてもぼくが困る。ぼくの乗車した車両内でも、似たような表情をしている人をぽつぽつ見かけた。同士よ、ぼくも同じ気持ちさ。
季節は冬。大学入試を終えたぼくは、少し時間をずらして帰りの電車に乗り、自宅の最寄り駅へ向かっていた。時間にしておよそ一時間。電車一本で通学できることもあって、ぼくはこの大学に本気でラブコールを送っていたつもりだったけれども、大学は別の人へなびいてしまったようだ。ああ、やっぱりため息が止まらない。
少し時間をずらしたおかげで、車内は幾分空いていた。それでもぼくは立たねばならなかったが、満員電車にすし詰めにされる悲哀を思えば、ドアに寄りかかって余裕を持って立っていられる分遥かにマシだった。
「……この回答、本当に合ってるのかな……」
苦し紛れに呟いてみても、相手は予備校のプロの講師だ。一つ二つ間違いはあろうが、総合点で勝っているのは疑う余地も無い。回答を見たくなくなったぼくは、車窓から覗く空に救いを求める。
「……………………」
暗くなった空。空は万民の共有財産だから、空の色がぼくの心象風景を代弁しているといった大それたことは言えない。それでも、灰色から黒へ移り行く最中の空を眺めていると、ぼくを初めとする大学受験の失恋者――片思いの上に振られる、一番悲しいパターンだろう――の念が、少なからず空の表情に影響しているのではないかという錯覚を覚えた。
「……?」
などと、ぼくが勝手に空の色の出所を捏造していた時だった。電車が緩やかにスピードを落とし、そのまま停止した。時を同じくして、反対側から走ってきた電車も、同じようにしてその場に止まる。暗い空は電車の銀色のボディに隠され、ぼくの視界から遮断された。
「信号待ちのためー、しばらく、停車いたします。お客様にはご迷惑を――」
「なるほど。信号待ち、か」
信号待ちなら仕方ない。ぼくは特段何も考えることなく、左腕の時計に目をやった。
「十七時二十五分……」
今から帰れば、十八時半くらいに帰宅できるだろうか。今日のことは忘れるように心がけて、早く寝よう。ぼくが些か寂しい決意をして、顔を上げた時だった。
「……………………」
「……………………」
目が合った。
「……………………」
「……………………」
誰と? 止まっている反対車線の電車にいる人。どんな人? 丸メガネを掛けたお下げ髪の女の子。向こうは? ぼくを見ている。じーっと。自分は? 同じく見ている。じーっと。
(受験生かな……)
手にした英単語帳、おとなしい衣服、肩からぶら下げたカバン。受験を終えて帰るところとしか思えない風貌だ。
「こんにちは」
ぼくは気付かないうちに、声を……いや、違う。声は出していないしそもそも届かないはずだから、口パクだけしたんだ。とにかく「こんにちは」と相手に伝えようとしてみた。
(おんいいあ)
こ・ん・に・ち・は……だろう。すごい、意図が伝わっている。女の子は少しはにかんだ表情を見せて、小さな口を懸命に開いて「こんにちは」を口パクしてくれた。傍から見ると間違いなく間抜けた光景だったに違いない。車窓と車窓を挟んで、口パクで挨拶しているのだから。
「受験?」
手短な言葉を選ぶ。母音は「う・え・ん」だったからあまり被らなさそうだし、シチュエーション的にも理解してくれそうだ。
(うえんえう)
じゅ・け・ん・で・す……おお、やはり伝わっている。女の子はちょこんと頷いてくれた。彼女も受験生のようだった。お互い大変な身分だなあ。
(おうえいあ?)
ど・う・で・し・た……どう答えよう。ヘンにかっこつけてもしょうがない、ぼくの心情をストレートに表現しよう。
「ダメだった」
ちょっと気まずそうな表情。意図が伝わったのだろう。じーっと見つめつつも少し伏目がちになる。ぼくは気を取り直して、こう声を掛けた。
「キミは?」
この短いセンテンスで意味・意図・発音のすべてが適切に伝わるだろうかと心配していたが、意外や意外、こんな結果が返ってきた。
(ああいおあええいあ)
わ・た・し・も・だ・め・で・し・た。苦笑いする女の子の表情が、母音だけの会話をうまく増強してくれている。なんだ、向こうの子もだめだったのか。ぼくと一緒なんて、奇遇じゃないか。
「お互いつらいね」
英単語帳をポケットにしまうと、女の子はこくりと頷いた。容貌や仕草を見ていると、少し気弱で本を読むのが好きそうな、典型的な文学少女に見えた。それでいて、気取ったところが無いのだからおもしろい。いや、可愛らしい、か。
(あんあいあおう)
が・ん・ば・り・ま・しょ・う。もちろんだとも。頑張らないと、一年間浪人することになる。両親が泣くに違いない。今まで苦労を掛けてきたから、男としてせめてここは踏ん張りたい。今は、勉強に打ち込むしかないんだ。
「頑張るよ。キミもがんばってね」
長めのセンテンスだが、うまく伝わったようだ。顔に少し笑みがこぼれていた。
(おういあおうあ、あんえうあ?)
と・く・い・な・きょ・う・か、な・ん・で・す・か。満遍なく勉強はしていたけど、毎回国語の長文読解に助けられている気がする。あれはぼくにとってありがたい得点源だ。
「国語だよ」
いい答えだったのだろうか。女のこの微笑みがぐっと強いものになる。
(ああいおおうおあういえう)
わ・た・し・も・こ・く・ご・が・す・き・で・す。いいな、こういうのって。会って話がしてみたい……ああ、いや、既に話をしているじゃないか。ちょっと不自由だけど、そんなに問題は無い。なんだか、楽しくなってきた。
「志望校、どこ?」
どうだろう、これは。「希望(きぼう)」と「志望(しぼう)」が混同されるかもしれないと思った。けれども、別に希望校でも志望校でも意味としては何の差もないことに気付く。似たような音で別の意味が振られていなくて幸いだった。ありがとう漢字の神様。
(ああおあおいあいえう)
な・が・お・か・じょ・し・だ・い・で・す。長岡女子大といえば、この地域でも屈指の名門だ。勉強好きそうな見た目に違わず、志も高い。
(えお、あええいあ)
で・も、だ・め・で・し・た。そうか、今日がその受験の日だったんだ。女の子も長岡女子大に振られて、意気消沈していたというわけか。ますます気が合う。
「ありがとう。話してくれて」
一回のセンテンスがだんだんと長くなってきているのが分かる。それとは対照的に、女の子からの返答は早くなってきている。意思がつながっている? そう錯覚してもおかしくなかった。
(おああいいえうええ、あいあおうおあいあう)
お・は・な・し・し・て・く・れ・て、あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す。謙虚で真面目なんだな、とぼくは思った。御礼を言いたいのは、ぼくの方だった。今となっては空の色のことなんかすっかり気にしなくなって、車窓を挟んだ女の子との会話に夢中になっている。
「毎日寒いね」
さ・む・い・で・す。マフラーを巻きなおしながら言う。少し不恰好で垢抜けないデザインのそれは、多分、母親か祖母が娘のために編んでやったものだろうと思った。寒い中勉強する愛娘のために、小さなことでも応援したいという家族の暖かい心配りが透けて見える。
(あえ、いいえあえんあ?)
か・ぜ、ひ・い・て・ま・せ・ん・か・? ぼくは頷く。幸い、体は丈夫なほうだ。風邪一つ引いたこと無い。
「大丈夫だよ。キミは?」
お・な・じ・で・す。健康なのはいいことだ。
「キミは、どこに――」
ぼくが言い掛けた時、がたっ、と地面が揺れた。
「お待たせいたしました。信号が切り替わりましたので、間もなく発車いたします――」
はっとしたぼくが、車窓を覗き込む。
「……!」
「……!」
向こう側の電車も、同じく動き始めていた。信号が変わったんだ。
「……!!」
ぼくが苦し紛れに言葉を発する前に、今にも消え行きそうな女の子が、懸命に口を開けて、ぼくにこう告げた――。
(ああ、あいあいえう――)
――電車が、遠くへ走り去っていった。どれだけ目を凝らしても、もう追いかけられそうに無い。
「……………………」
ぼくは空虚な気持ちを抱えて、車窓に張り付いていた。車窓はぼくの吐息ですっかり白くなり、軽く露を吹いていた。
「……時間……」
特に意図したところもなく、惰性で時計を見る。
「十七時二十八分……」
三分。ぼくと女の子が車窓越しに「会話」していたのは、たったの三分間だった。三分間の間に、挨拶から入って、お互いの境遇を話し、志望校を聞いて、世間話をした。ぼくにとっては、試験終了間際の三分を数千倍近くに引き伸ばしたような、くらくらする密度だった。時間は、同じ単位のはずなのに。
「あの子……どこに行くんだろう……」
この路線は一駅の間がとても長い。それでいて、駅の数も信じられないくらい多い。ぼくが乗っていたのは急行だから、これでも早いほうなのだ。
「……………………」
どこで降りて、どこへ行くのか。あの子の最寄り駅を訊くことができなかった。それさえ知ることができれば、ぼくがそこへ行くこともできたはずだ。けれども、最早それも叶いそうに無かった。彼女の行く先は、ぼくには分からなかった。
空からは、地面に付くと消えてしまう儚い粉雪が、ひらひらと舞い降りているのが見えた。
結局、ぼくは件の第一志望の大学に落ちて、第二志望の大学へ行くことになった。路線は第一志望の大学とはまったくの別方向で、よほどのことが無い限り、そちら側の路線を使うことは無い。現にあれ以来、ぼくは一度もあの路線を使っていない。
あの子は、今どうしているのだろうか。長岡女子大に合格して、楽しいキャンパスライフを送っている。それが理想的だった。けれども、どれだけ彼女の幸せそうな姿を想像しても、ぼくの心に生まれた小さなエア・ポケットは、埋まりそうにも無い。
あの子の隣には、ぼくの姿は無いのだから。
「……三分間で恋をして、三分間で失恋、か……」
三分間。ごく短いそのタームの中で、ぼくは恋慕と失恋を立て続けに経験した。今でもまだ、あの時の出来事を適切に処理できていない気がする。車窓を挟んだあの子との会話が、今も脳裏に焼きつき、消えようとしない。
「……………………」
今年もまた、冬が来る。
「……風邪、引かないでね」
吹きすさぶ北風にそっと言葉を載せて、ぼくは歩き出した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。