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ドーナツを食べる

退屈を持て余すとはこの事だろうかと、俊明少年は欠伸をかみ殺しながらしみじみと感じ入っていた。

神田俊明(かんだ・としあき)、十六歳。取り立てて変わったところの無い、ごくありふれた男子高校生である。勉強は得意なわけではないがほどほどにできて、運動も好きではないが苦手でもない。趣味と呼べる大層なものは持たず、休日はもっぱら家の中でだらけて過ごしている。

率直に述べて、これ以上彼に関して書くことはない。腕から黒い炎を出せるといったこともなく、実は軍事訓練を受けた戦闘のスペシャリストというわけでもなく、家に押しかけ女房(※美少女)がいるようなわけでもなく、ましてや他人には見えない不思議な生き物が見えるようなこともない。つまるところ彼はそうしたポジションの人間ではないのである。言い忘れていたけれど、彼は普通の人間であり、宇宙人とかそういう類の生き物でもない。

見ているだけで退屈になりそうな、かような性質を持つ俊明少年だったが、彼もまた大きな暇を持て余していた。日々、月々、そして年々に渡り繰り返される、薄い生地を幾重にも巻いた恰もバームクーヘンの如き同じ光景。変わることのない毎日のサイクル。無聊をかこつとは、正しくこれに他なるまい。

「人生とは、輪廻の一巡に過ぎないのです」

字面通りぶらぶら歩いて折のことだった。人の往来のある街角で、四十だかそこらの男性が、大声を張り上げて何やら説教をしているのが見える。近頃方々で名前を目にするようになった新興宗教だったと、俊明はすぐさま思い出すことができた。

「生は出発の、死は到達の比喩に他なりません。それ以上の意味を、保持しないのです」

「死後の世界に最後の審判、極楽浄土に無間地獄。それらすべてのものは、只貴方達を困惑させる戯言に過ぎません」

「生の後にはただ死のみがあり、死の後にはただ生のみがあるのです」

教義の熱心な信者と思しきその男性は、声を張り上げ腕を振り上げ、ますます熱っぽく説教を展開する。彼はとても有難い内容を話しているようなのだが、有難すぎて受け取れないというのが、俊明少年を含む往来を通るほとんどすべての人々の総意であった。

「枯葉が土壌を豊潤にして新たな芽生えを齎すように、死は新たな生への入口となるのです」

「終末のない連環の中で、生けとし生ける者はこの周回を如何に生存するべきでしょうか」

「私たちはそれを、つまり生存していく上での最良の答えを知っているのです」

それであれか、その答えを知りたい人はお財布の口を開けましょうということか。死後の世界がないんじゃあ、どこまで行っても金が要るわな。俊明少年は独り納得し、そして一度たりとも立ち止まらずに男性の前を通過した。

今日も今日とて無為な時間を過ごすのだろう。この繰り返しは結局終わらないのだろう。そこまで考えていたかはともかく、俊明は如何にも暇そうな面構えでもって、教科書やらノートやらが詰められているくたびれたカバンを肩にぶら下げながら歩いていたのだが、彼の足が最寄りの駅近くにある無味乾燥な児童公園に差し掛かった折に、少し変わった光景を目にすることとなった。

ドーナツを食べている。視覚から取り込んだ情報を整理する際に脳が真っ先に手を付けた、つまるところもっとも印象的だと感じたのがそれだった。眼前の風景をきちんと整理すると、いささか背丈の低い女の子が、公園のベンチに座ってドーナツを食べている、そのように説明できた。食べているのはこれといった装飾の無い、オールドファッションなドーナツだった。

(そう言えば、ドーナツなんてもう随分長いこと食ってないな)

お腹はいい塩梅に減っている、対照的に財布にはそれなりにお金がある。記憶を当たってみると、最寄りの駅の近くにドーナツショップのチェーン店が軒を連ねていたことを即座に思い出した。せっかくだから、という訳ではないが、俊明はドーナツを買い食いしていくことに決めた。

目的地が決まると心なしか足取りも早くなるもので、頭に思い浮かべていた件のドーナツショップへ速やかに到達することができた。何の気なしに店内へ進入すると、女性店員の明朗な声に出迎えられる。俊明はすいすいと店員の前まで歩み寄ると、少しばかりの間ガラスケースに入れられたドーナツを見分して、それから注文を入れた。

「オールドファッションとチョコリングを一つずつ」

「店内でお召し上がりですか?」

「あー、はい。あ、あとアイスコーヒーのSを」

「かしこまりました」

占めて四百三十円を店員に支払った後、俊明はドーナツ二つとコーヒーを積載したトレイを持ち、食べるための座席を探し始める。店内はほどほどに人が入っており、空席はぽつぽつとあちこちに点在していた。店内を観察して席選びをしていた俊明は、ふとある座席に座る同年代の少女の背格好に、心なしか見覚えがあるような感覚を覚えた。

ほとんど無意識のうちに、俊明はその少女の隣の席に付いた。少女は紙のカバーが付いた文庫本を読んでいる。俊明がそっと彼女の顔を確認しようとすると、隣の席の少女が俊明の気配に気づいたのだろう、ふっと顔を上げて左を向いた。

「あれ……? もしかして……俊明くん!?」

「えっ? そっちは……若菜ちゃん!?」

肩口辺りまで髪を伸ばして、フレームの無い眼鏡を掛けた、如何にも大人しそうな風貌のその少女に、俊明は明らかに見覚えがあった。彼女は大崎若菜(おおさき・わかな)という名前であり、その素性をお互いに知るところだったのである。

俊明と若菜は同じ幼稚園、同じ小学校に通い、俊明が小学三年生の頃に当時住んでいた父親の会社の管理する社宅から引っ越すまで、互いに親しくしていた経緯があった。引越し後は忙しさにかまけてどちらも疎遠になっていたが、本日ここ駅前のドーナツショップ店内にて、久々の再会と相成ったのである。相当な期間を経た後の再会であったが、双方共に相手方の顔を即座に思い出すことができた。

「俊明くん……! 久しぶり! この辺りに住んでるの?」

「ここから二駅行ったところにいるんだ。学校がここにあってさ」

「そうなんだ……私もここから三駅行ったところに住んでるよ」

若菜によると、中学三年生のころに両親が海外へ赴任することとなり、高校受験を控えていた若菜は先程口にした駅の近くにある母方の祖父母の家に居候しているのだと言う。祖父母との関係は良好で、何不自由なく暮らせているとも付け加えた。俊明は若菜の話を興味深げに聞いて、その一つ一つに対して丁寧に頷いた。

昔から変わってないね、話をきちんと聞いてくれるところも、目をしっかり合わせてくれるところも、と若菜が微笑む。俊明は少々照れくさそうにして見せ、ちゃんと聞かないと悪いと思って、と応じた。

「学校の帰りにたまにここへ寄って、ドーナツ食べて帰ってるんだ。俊明くんも?」

「いや、俺は今日初めて来た。なんか急にドーナツが食べたくなって、駅前のここを思い出したってわけだ」

「じゃあ、偶然だったんだ。でも、また俊明くんに会えてよかった。なんだか夢みたい」

「俺も若菜ちゃんに会えるなんて思ってなかったよ。でも、こうやってもう一回会えて、俺は嬉しい」

俊明の言葉に頬を紅潮させてはにかみながら、若菜はちらちらと横目で俊明の顔を覗き込む。その仕草が俊明にはとても快いものに思えて、気分が程よく高揚してくるのを感じた。気持ちの高ぶりを悟られまいと少々努力しつつ、俊明はわざとらしく小さな咳払いを数度して、前置きを作ってから若菜に話しかけた。

「えーっと……若菜ちゃん、これからもここに来ることってある……よな?」

「……うん。よく、来てるから」

「じゃあさ、あれだ。俺も来ようかな、って思うんだ。それで……」

「いいよ。私もね、そうなったら嬉しいな、って思ってたから」

互いの視線が交錯する。もはやこれ以上の言葉は蛇足だった。退屈な日々がこの瞬間大きく大きく変わったことを、俊明は確かに感じたのだった。

親しい幼馴染との、偶然の再会と共に。

 

 

休日のこと。祖母から買い物を頼まれた若菜は快く引き受け、近場にある食品スーパーへ自転車を走らせた。俊明とはとてもよい関係が続いていて、もうしばらくすれば若菜の家に遊びに来ることになっている。つまりそういう関係にまで発展したのである。とはいえ、若菜も俊明も十分な分別を備えていたので、今しばらくは清く正しいお付き合いが継続しそうであった。祖父母が彼をどう見るかは未知数だったが、若菜は楽観的な気質だったので、さして気掛かりなことでは無かった。

それはさておき買い物である。今日は若菜の好きなすき焼きを作るとのことで、若菜に言付けられたのは卵一パックとネギ一本、そして椎茸一パックだった。野菜コーナーに入って新鮮なネギと椎茸を買い物カゴへ入れると、すぐ隣にある卵の入ったプラスチックのパックが重ねられた籠車の前に立って、良い色をしたMサイズの卵をカゴに追加した。

「合わせて三百九十五円になりまーす」

「すみません、これで。あ、袋いらないです」

「ありがとうございます。千円お預かりいたしまーす」

自分より一回りくらい年上の、明らかにパートタイマーと思しき若い女性店員に支払いを済ませて、若菜が手近なテーブルで購入した商品をエコバッグに詰めていく。卵を下にして、その上に椎茸を載せると、最後にネギをそっと差し込む。これで買い物は終わった、家に帰ってお婆ちゃんと一緒にすき焼きを作ろう。彼女が湯気を立てる美味しいすき焼きの図を思い浮かべたすぐ後のこと、目の前にあるフードコートにその光景はあった。

背丈の低い女の子がテーブルに着いて、茶色い紙袋に詰まったドーナツを食べていた。そこはかとなく気を引かれて、エスカレーターに乗りがてら少し目を凝らして観察してみると、食べているのはプレーンドーナツにキャラメルソースが掛けられ、そこに粉々になった無数の胡桃をまぶしたドーナツだということが見て取れた。以前俊明と出会ったドーナツショップで今月の新商品として販売されていたことを、若菜はしっかり記憶していた。確か――そう、クラッシュナッツドーナツ、という名称だった。

今度あそこで寄り道をしたら、例のクラッシュナッツドーナツを食べよう。俊明にも勧めてみよう。若菜は一人で小さく頷いて、それ以上は特段気に掛けることもせず、そのまま店から出た。

「……あれ? ちょっと、どういうこと!?」

外へ出て自転車置場までやってきた若菜が、驚きの声を上げた。備え付けのロックをきちんと作動させて、念のためチェーンも掛けておいた若菜の自転車が、忽然と姿を消してしまっていたのである。きちんとスーパーマーケットの敷地内に止めていたから警備員に撤去されたとは考え辛いし、記名された登録シールもきちんと貼付していたので誰かが意図せず乗って行ってしまったとは思えない。こうなれば考えられる可能性は一つ、悪質な人間によって、若菜の自転車が盗難されてしまったということだ。

ろくでもない人っているものね。若菜はもちろん憤慨したものの、実際のところそれほど差し迫った状況ではなかった。ここから今の家までは徒歩でもせいぜい五分掛かるか掛からないかで、帰宅することに支障はまったくなかった。自転車も長期に渡って使っていたもので、そろそろ買い換えようかどうか思案していたところだった。若菜は「まったく」とばかりに腰に手を当てて大きなため息を付くと、気を取り直して徒歩で帰宅の途についた。

「あらあ。なっちゃん、災難だったねえ」

「ホントにひどいよ。人の自転車盗んで勝手に持ってくなんてさ」

祖父母と三人で夕飯のすき焼きを囲みながら、若菜は自転車を盗まれたことへの文句を度々口にしていた。祖母も祖父も孫娘に大いに同意し、卑劣な自転車泥棒に対する怒りを露にしていた。

「若菜の自転車を盗るなんて、とんでもない輩だな。そういうことするとな、必ず罰が当たるんだぞ」

「ねー。今頃どっかで事故ってたりして」

「お天道様はちゃあんと見てるからね。悪いことはできないものだよ」

買ってきたネギを卵に浸して食べつつ、若菜は祖父母と共に「自転車泥棒に罰が当たりますように」と口々に言い合った。

して、翌日のこと。

「お婆ちゃん、行ってきまーす」

「はあい。今日も気をつけてね」

いつも通り学校へ向かう支度を済ませた若菜が、元気良く家を飛び出す。通い慣れた道を通って最寄りの駅まで辿り着くと、いつものように定期券を改札に通して電車へ乗り込む。この時間は若菜と同じく通勤通学のために多くの人でごった返すが、毎日のこと故に若菜はもう慣れっこになっていた。少し身を小さくして、吊り革をしっかり掴んでおく。右隣にタブレットを手にした三十代くらいの男性が乗り込んできて、何やらニュースを見ている。

退屈な車内でちょっぴり好奇心の湧いた若菜は、こっそりお隣のタブレットに目を向けてみた。今日はどんなニュースが配信されているのか、何か変わったニュースはないか。あれこれ考えを膨らませて、バレない程度に画面をちらり――そうしてほんの暇潰しのつもりで覗き込んだディスプレイには、彼女の肝を潰すような画面が広がっていた。

(こっ、これ……私の自転車じゃ……!?)

タブレットには自転車が写っていた。ただし、工業用のバーナーでパイプをいくつにも切断して、プレスマシーンでぐちゃぐちゃに押し潰した後のような、目を被いたくなるような有様だったが。若菜の自転車だと書かれていたわけでは勿論無かったものの、車体の色や大きさから勘案して、写真のそれが若菜の乗っていた自転車と同型のものだということはほぼ明らかだった。

恐る恐る本文に目を向ける。そこにはこう書かれていた。

「……は盗んだ自転車で走行中にバランスを崩して車止めに激突し、頭から道路へ落下。衝突時のショックで下腹部に重傷を負い、現在も意識不明の重体。関係者は――」

名前は読み取れないが、自転車を盗んだのは他ならぬこいつに違いないと、若菜は確信した。

写真にある自転車の破損ぶりはそれはそれは相当なものだったが、中でも車輪、それも前の車輪は、一際強い力で押し潰されたかのようなおぞましい変形ぶりを見せていた。まるで飴細工をひん曲げたようだ。若菜は以前修学旅行で戦争博物館へ行ったことがあるのだが、あの時展示されていた「高熱で変形した鉄筋」と寸分違わぬ様相だった。

(本当に、罰って当たるんだ……)

昨日すき焼きを囲みながら祖父母と交わした会話を思い出す。悪いことをする人には罰が当たる、そう話していたのをはっきり記憶していた。

これからは真面目に生きよう。若菜はタブレットを覗き込むのを止めて前を向いた。

 

 

高田はぐちゃぐちゃに変形した自転車の写真を見て、こりゃ酷いと思いつつ、次の瞬間には「西九条議員宛てに不審物届く」という記事の見出しに興味を引かれ、さっさと別の記事へ移動していた。こうして通勤電車で新聞を読むのが、もうすぐ四十に手が届こうかという会社員・高田悠介(たかだ・ゆうすけ)の日課となっていた。

彼は毎日電車に乗り、およそ一時間掛けて勤務先の天王寺製薬まで通っている。郊外に一軒家を持ち、家族は妻と小学生と中学生になる子供が男女一人ずつ。趣味はバスフィッシングとゴルフ、最近はカメラも始めた。子供が手が掛からなくなりはじめ、会社でもそれなりの地位に着いている。他にはこれと言って取り立てて書くこともない。見ての通り、極めて平凡な(しかし今の時世ではとても貴重な)サラリーマンと呼称すべき存在である。

もし強いて挙げるとすれば、三カ月ほど前から彼の家に家族が増えたことくらいだろうか。もっとも、二人の姉弟にさらに弟や妹ができたわけではない。道端を歩いていた小さな野良犬を拾ったのである。犬種は柴犬、一歳か二歳くらいのまだ幼い犬だった。帰り際に一匹でトボトボ歩いているところを見つけ、哀れに思った悠介が保護してやったというのが簡単な経緯である。犬は以前人に飼われていたのかとても従順で、間もなく家族全員と仲良くなることに成功した。

「課長。総務部の馬場さんからお電話です」

「分かった、保留にしてくれ。こっちで取る」

職場につくとニュースのことはすっかり記憶から除けられて、眼前の仕事に集中するのもまたいつも通りだった。

明けて翌日、土曜日のこと。

「よし、パピー。今日も散歩に行くぞ」

パピーと名付けられた件の犬のリードを手にして、悠介はいつもの散歩コースを歩き始めた。毎週の散歩は悠介の仕事になっていたのだ。定期検診で運動不足を指摘されたので、こうして歩く習慣を作れることはむしろ好ましく思えた。

とちとちと細かく足を動かし一生懸命に前へ進む柴犬のパピーを、悠介は微笑ましげに眺めながら歩く。元々はどこかで飼われていたようだが、一体飼い主はどんな人物だったのだろうか。パピーはそこで何と呼ばれていたのだろうか。こうして思いを巡らせていると、なかなか不思議な心地になるものであった。そうして緩い考え事をしていた悠介だったが、視界に少し変わった人物の姿が映り込んだのを見て、一旦その思考を中断した。

悠介の反対側の歩道で、茶色い紙袋を抱えた背丈の低い女の子が、何やら食べながら歩いているのを目にした。特に理由もなく気になって目を開いて見てみると、食べているものが見えてきた。棒状の生地の両端をくっ付けて横長の輪を作り、砂糖とハチミツをたくさんまぶして焼いた、チュロッキーと呼ばれるタイプのドーナツである。以前娘がドーナツショップで食べたいと言って買ったのを覚えていたので、速やかに記憶から名前を取り出すことができた。

(あの形、リードの持ち手の部分に似てるんだよな……)

チュロッキーの丸みのある、しかし完全な円とは言えない形状は、今この瞬間手にしているリードにそっくり――などと暢気に考えていた直後、不意に「ぶちっ」という音が聞こえるのを、悠介は耳にした。はっとして音のした方向へ視線を送ると、そのリードが前触れ無く引きちぎれて、悠介の手からこぼれ落ちるのを目の当たりにすることとなった。

紐が切れたことがパピーにも伝わったのだろうか、或いは動きの遅くなった飼い主に痺れを切らしたのか、それともまた別の理由があるのだろうか。リードが役に立たなくなると同時に、パピーが弾丸のような速さで駆け始めた。

「……あっ! ちょっと、待てパピー!」

大きな声での呼び掛けにもまるで耳を貸さず、パピーはぐんぐんスピードをあげて悠介から遠ざかっていく。

普段の運動不足を、悠介はこの時ほど恨んだことは無かった。

 

 

「こんな不思議なこと、あるものなんだ……」

志帆の目の前では、走ってきた柴犬を抱きしめて大喜びする小学生くらいの女の子と、息を切らせながら走ってきた三十台の男性による光景が展開されていた。一方は犬を「ココちゃん」と呼び、もう一方は「パピー」と呼んでいる。犬は一匹しかおらず、女の子に抱かれて尻尾を振っている。

「そうか。パピーの飼い主は君だったんだな」

「うん。ココちゃん、隣町にいるなんて思わなかったから、びっくりしちゃった」

二人の話を振り返ってみる。犬(ココちゃん)は元々女の子が飼っていたが、三カ月ほど前に迷子になってしまった。方々を探して尋ね歩き、貼紙もたくさんしたが、やはり見つからなかった。ところがある日隣町まで来て散歩をしていたら、いきなりココちゃんが自分の前に飛び出してきた。そしてその後、待ってくれパピーと繰り返す中年男性が姿を表した。落ち着いたところで話をして、ココちゃんはパピーとして男性の家で保護されていたということが明らかになったということだ。

突然逃げ出したかと思ったら、偶然元の飼い主に再会した。滅多に見られない面白い話だと、スマートフォンを手にした志帆は感じていた。せっかくだからというわけではないが、皆にも伝えてみようか。そのように考えて、ディスプレイに目を移してみると。

「……またかぁ」

緑色のアイコンに、赤い枠に囲われた白い文字で「10」という数字が付いている。この画面、このアイコン、この通知を目にする度に、志帆はいつも決まって憂鬱な感情を抱かざるを得なかった。しぶしぶ親指で緑のアイコンにタッチして、アプリを起動する。表示された画面には、吹き出しがずらりと整列していた。

「すごいねー(驚きの顔文字)」

「いいね!(笑顔の顔文字)さすがはりっちゃんだぁ」

「私なんかよりずっとすごいよー(唖然とした顔の顔文字)」

胸焼けしそうな褒め言葉を読み飛ばしながら、未読のメッセージのうちもっとも古いメッセージまでスクロールさせた。

「今宮がなんか言って来たから、『あんたなんか死んでも構わないんだけど』って言い返してやったわ」

この少々物騒なメッセージの送信者の名前は、「桜宮理沙」となっていた。

志帆は、本名を「大塚志帆」(おおつか・しほ)と言う。中学二年生の平凡な女子で、例によって取り立てて書くことは見当たらない。成績は至って普通、運動は少し苦手、両親が共働き故に家事はまあまあできる。髪型はいつもショートテール。顔や正確の細部は違えど、どこにでもいそうなタイプと言って差し支え無かった。

何から何まで普通な志帆は、近年当たり前の連絡手段として認知されている、スマートフォンをリードプラットフォームとした某インスタントメッセンジャーも、もちろん使っていた。十人ほどのグループに属していて、その中で必要に応じて連絡を取り合っている。それ自体は便利で役に立ったが、グループの一人が大変面倒な人物なのが、志帆にとって大きな大きな悩みの種になっていた。

それが先程メッセージを投げてよこしてきた、桜宮理沙(さくらのみや・りさ)である。彼女を言い表すには「仕切り屋」という言葉がこれ以上なくしっくり来る。つまるところ目立っていないと気が済まない性質なのである。気が強く我侭で自己主張が激しいから、皆は触らぬ理沙に祟りなしとばかりに、先のメッセージのように彼女を持ち上げることでやり過ごしていた。志帆も含めて、である。

「わたしも書かなきゃ……」

皆に遅れてはならぬと、志帆もリプライのメッセージを準備する。

「さすがだね!(笑顔の顔文字)」

ここまで空虚なメッセージもそうそうあるまいと自覚しつつ、理沙はこれで満足しているのだからとしきりに自分に言い聞かせて、志帆はメッセージを送った。半年前からこのグループに参加して、自分から能動的に連絡を取ったのは文字通り数えるほどしかない。こうして理沙のご機嫌取りに終始するのが常だった。

いったいいつまでこんなことをしなければならないのかと思うと、志帆の心は重くなるばかりだった。スマートフォンの画面を消すと、ぼんやりした面持ちで再び歩き出した。

それから一週間が経って、再び休日を迎えた日のことだった。

「今日は静かだなぁ。理沙ちゃん、寝てるのかな?」

一人で近くのハンバーガーショップに入って休んでいた志帆は、いつもは最低でも三時間に一回は飛んでくる理沙のメッセージが、今日に限っては一度も飛んでこないことを少しばかり不思議がっていた。とはいえ、億劫な気持ちになる返信をしなくて済んだので、志帆としては有難いことこの上なかった。

窓際のカウンター席でオレンジジュースとフライドポテトをちまちまだらだらと飲み食いしていた志帆は、何気なく二つ隣の席に目をやる。するとそこには、背丈の小さな女の子が一人で座っているのが見えた。食べ物を載せるトレイの上には通常敷かれる広告ペーパーがなく、ただ薄手のペーパーが二枚敷かれ、その上に鮮やかな黄色をしたフレンチクルーラーと、真っ白なチョコレートが下にあるはずの生地の色が分からなくなるほどたっぷり掛かったチョコレートリングの、二種のドーナツが載せられていた。フレンチクルーラーは食べかけで、あと二口ほどですべて食べられそうなほどまで減っている。

あれ、この店はドーナツも売ってたっけ。志帆がちょっとした疑問を感じていると、女の子は食べ掛けだったフレンチクルーラーを口に運び始めていた。見ているとやけに美味しそうに見えてきて、志帆は「太っちゃうかも」と思いつつ、それでも食べたいという気持ちを抑えられなくなった。お金が足りるかどうか見なきゃ、そう思って後ろを振り返り、目を凝らしてメニューを確認してみる。

(あれ? やっぱり無いや……)

メニューを確かめた志帆は、しかしながらそこにフレンチクルーラーはおろか、ドーナツと思しきメニューさえも一切存在しないことに気が付いた。よくよく考えてみればここはハンバーガーショップで、ちょっとしたサイドメニューに二・三種類くらいならともかく、いろいろな種類のドーナツをあれこれ取り揃えていると考える方がどうかしていた。だとするとあの女の子は、外から買ってきたドーナツを食べていたのだろうか。

勝手にそんなことしてたら、店員さんに注意されちゃうよ――志帆がそう考えて視線を元に戻したとき。

そこにはただ、手の付けられていない、白銀の雪を思わせるチョコレートのたっぷり掛かったドーナツだけが残されていた。席に座っていたはずの人影は見当たらず、まるで初めから存在していなかったかのように。

志帆のスマートフォンにいきなりショートメッセージが飛び込んできたのは、彼女が残されたホワイトチョコドーナツを目にした直後のことで。

「しほちゃん! 理沙がブレス万引きして捕まったって!」

「警察に連れてかれるの、ゆきちゃんたちが見てたんだって!」

文面は、このようなものだった。

 

 

「――じゃあ、理沙ちゃんはお父さんお母さんに構って欲しくてそんなことを?」

「そう。私たちにあれこれ言ってたのも、やっぱり構って欲しかったみたい」

夜の帳が降りる頃。雪子はウェブカメラを通して、ここから確実に六キロは離れた場所に住んでいる同級生と話をしていた。パソコン向けのインスタントメッセンジャー兼通話ツールを使っている。雪見と同級生の間で交わされているのは、つい先日万引きをしたかどで補導された同級生についてだった。

万引きをしでかした件の同級生の名前は、桜宮理沙といった。

「金色のブレスを万引きしようとしてお店の人に見つかったんだけど、逃げようとしてグーで殴って、それで警察に捕まっちゃったんだ」

「そうそう。あんまり暴れて手が付けられないから、警察の人が手錠を使ったんだよね。理沙ちゃん癇癪持ちだったし」

「うん。一緒にいて頭真っ白になりながら見てたんだけど、ガチャンって手錠が掛けられたところはしっかり覚えてるよ」

理沙と行動を共にしていた雪子は、理沙が手錠で拘束される瞬間を確かに目撃していた。普段机を並べて勉強している同級生が、テレビや映画の中でしか見ることのなかった手錠を掛けられるのは、雪子に強く鮮烈な印象を齎した。

「でも……あれからわたし、なんか気が楽になったよ」

「うん。私も同じ。なんかこう、内輪に篭もらなくて済むようになったからかな」

「きっとそうだと思う。今はみんな思い思いに連絡しあってるし」

理沙が補導されたことで件の「グループ」は自然消滅し、今となってはメッセージがやり取りされることもなくなった。「せいせいした」とばかりにはっきりグループから抜けたメンバーも少なくない。理沙が今頃どうしているかは知る由もないが、かつて彼女と共に輪を作っていた人間たちは、既に彼女に対する興味を喪失しつつあった。

雪子は〇時半を過ぎてもそうして同級生と遠隔おしゃべりを続けていたのだが、不意に別の人物からインスタントメッセージが送られてきた。雪子がハッとしてメッセージを開封してみると、

「おしゃべりもいいけど、寝ないと明日に響くぞ」

「あと、声のボリュームはもう少し落としてくれよ。兄より」

という、とてもとても簡潔な内容だけが記載されていた。隣の部屋にいる兄から軽く釘を刺され、雪子はすごすごと会話を取り止めてベッドに潜るのだった。

さて、そんなやり取りから数日が経過した後のこと。

「それじゃあ母さん、ちょっと出掛けてくるよ」

「はーい。行ってらっしゃい」

小さなカバンを持ったラフな格好の孝太がドアから現れ、今まさにこれから出掛けようというところだった。

孝太は名字を田端という。商社に勤める父と専業主婦の母、そして中学生になる妹の雪子がいる。眼鏡を掛けた大人しそうな印象を与えるタイプだが、意外にも高校の頃は柔道部に所属し、それなりの腕前を誇っていた。今は自宅から地元の私立大学に通い、休日になると幾ばくかの資料を持って隣の駅にある図書館へ勉強しに行くのが習慣になっていた。今日の用件もそれに他ならない。

軽く手をかざして空を見上げる。日輪は今日も爛々と輝いて、日光が辺りを燦々と照らしている。まさしく快晴、雲一つ見当たらない。この分であれば雨が降ることなどまずあり得ないだろう。孝太は意気揚々と図書館に向けて歩き始めた。その道中では特段何も起こらなかった。いつも通い慣れている道なのだから、何か起こる方が珍しいと言えよう。

そのまま何事もなく目的地の図書館に到着すると、孝太は二時間ほどのんびり勉強して、荷物をまとめて帰宅の途に付いた。空は相変わらず快晴のままで、汗ばむほどの陽気だった。雲は見当たらず、無論雨など降りそうもない。駅まで悠々と歩いていくと、改札に定期券を通して中へ進入した。

待合室に入って休もうとスライド式のドアを開けたところ、中には小さな女の子が一人座っているだけだった。茶色い紙袋を持って、中に入っているドーナツをぱくぱく食べている。見たところ食べているのはストロベリーリングのようで、イチゴらしさを強調したいのか、やや赤みの強い色合いをしていた。

孝太はこうした甘いものが苦手で、雪子とは好みが合わずしばしば軽い衝突のタネとなるくらいだった。そういうわけで、ドーナツを食べる姿は見ていて気持ちのよいものでもなく、そのまま素通りして空いている座席に着座した。間もなく電車がプラットフォームへ滑り込んで来ると、孝太は速やかに電車へ乗り込んだ。

「おや……?」

何やらおかしいと感じたのは、改札をくぐって駅から出た直後だった。孝太は訝しげな顔つきをして、ぐっと空を見上げる。視界に映し出されたのは、灰色の空。

分厚い雲がどこからともなく迫り出して来て、太陽を覆い隠さんとしていたのだ。

空気が湿っぽく感じる。これは間違いなく一雨来るだろう。そうなる前に家へ帰ってしまうのが得策、孝太は素早くそう判断して、小走りに駅舎を後にする。駅から急いで帰れば、十分も掛からず帰宅できる。しかし途中に雨宿りができそうな場所は一つとして無いことを経験で知っていたので、これは一つの賭けでもあった。

(しかし、なんでまた急に雲が出てきたんだ?)

孝太は早歩きする中でしきりに首を捻る。家を出発するときも図書館から出る時も、どちらも雲の気配さえ感じられないほどの見事な晴天ぶりだったはずだ。それがどうして急に、今にも泣き出しそうな空模様に変貌しているのか。山の天気は変わりやすいと言うが、この辺りは山に包囲されている訳でもなく。さっぱり見当も付かなかった。

考えていても仕方ない、強く降られる前に帰らねばと急いでいたが、道半ばにして首筋に冷たいものを感じた。ついに雨降りが始まったのである。雨は見る見るうちに叩きつけるような勢いを得て、雨具を持たない孝太の体を容赦なく濡らしていく。これは敵わないと小走りを全力疾走に切り替え、兎にも角にも家へ帰ることだけを考えた。そうして一度も止まらず駆け続けた孝太は、幸い三分ほどで家まで帰って来られた。

ところが、である。

「あたたたた……」

「ん……? か、母さん!? 大丈夫!?」

家の敷地に入った直後、縁側で蹲る母親の姿が目に飛び込んできたではないか。孝太は雨を避けながら慌てて母親の元へ向かうと、すぐさま助け起こしてやった。

「母さん、母さん! 大丈夫か?」

「あぁ、お帰り孝太。ごめんねえ、ちょっと失敗しちゃって……」

「失敗?」

母親から「失敗」という言葉を聞かされた孝太が前方に視線を送ると、そこには微かに黒煙を上げる落ち葉の燃え滓らしきものが見えた。それを見て孝太は直ちに理解した。母親は何時ものように落ち葉を集めて、火を付けて焼こうとしていたのだということを。

「いつもみたいに葉っぱを燃そうとしたんだけど、急に火が大きくなって……軽くだけど、手を火傷しちゃって」

「どれどれ……本当だ、すぐに手当てをしないと。僕が病院へ連れていくよ」

手の甲には、ごく小さくではあるが、目に見える火傷があった。幸い大事には至っていないが、早く治してやらねば痛むし痕が残ってしまうだろう。

「ごめんね、心配掛けて。でも、助かったよ」

「助かったって、どういうこと?」

「火が大きくなったすぐ後に急にざーっと雨が降ってきて、あっという間に火が消えたんだよ。それに、孝太もすぐ帰って来てくれたしね」

「雨が……」

降りしきる雨を見ながら、孝太がぽつりと呟く。

「雨のおかげで家を焼かずに済んだし、孝太にすぐ助けてもらえたよ。ああ、助かった助かった」

母親がため息まじりに漏らした言葉が、いやに強い印象を伴って、孝太の脳裏に焼き付いた。

簡単な応急処置をして、電話で呼んだタクシーが家へ到着する頃には、雨はすっかり上がってしまって、元の雲一つ無い空が戻ってきていた。

 

 

大学附属病院の待合室。歩美はそわそわと所在なげな様子で、時計の針をじっと凝視し続けていた。あと二十分ほどで、待ちに待った十五時になる。今の歩美は、時間が少しでも早く進むことだけをひたすら考えていた。

それでも時々気が散って、別方向に意識が向いたりする。病院の待合室はお爺ちゃんやお婆ちゃんが多くて、そこに大人が混ざっている。自分のような子供、それも小学生のような小さな子供は、ほとんど見掛けることが無かった。子供は元気だからあまり病院のお世話になることが無いと母親は言っていたけれど、それは少し違う気がすると、歩美は感じていた。

なぜなら、歩美は自分よりももっと子供の、弟の智樹の見舞いにきたからだ。

「この薬を塗って安静にしてれば、すぐに治るってさ。今日はゆっくりしてなよ、母さん。家事は僕と雪子でやるから」

「まあ、小さい火傷だから、納得ね。大きな怪我にならなくてよかったわ」

隣を通っていく大人二人を尻目に、歩美は再び時計へ視線を戻す。お休みの日の三時頃と言えば、決まっておやつを食べる時間だった。厚く切ったバームクーヘンと冷たい牛乳が好きで、智樹も同じようにして食べていたことを思い出す。またそうして智樹と一緒におやつを食べられればいいなと、歩美は切に願っていた。

上野歩美(うえの・あゆみ)は小学三年生の少女である。二つ下に智樹という弟がいる。時々ケンカもするけれど、普段は大の仲好しの姉弟だ。その智樹は二週間ほど前、自転車の事故で飛んできた部品の一部が頭に直撃して、そのまま意識を失ってしまった。怪我は軽く血が出たくらいで大したものではなかったが、当たりどころが悪かったためか未だに目を覚まさずにいる。歩美は眠ったままの智樹の見舞いのために病院へ来訪したというわけだ。

「智樹ったら、おねぼうさんなんだから」

もし智樹がこのまま目覚めなかったらどうしよう。そんな不安を打ち消すように、歩美がわざと声に出して呟く。口に出して言えばそれが本当のことになって、智樹はいつか目を覚ましてくれる。そのように信じていたからかも知れなかった。十五時を過ぎれば定期検査が終わって、お見舞いのために病室へ入れるようになる。昨日と同じように、今日も時間いっぱいまで智樹の近くに居てあげよう。もし目を覚ましたら、一緒に遊んであげよう――歩美は希望を持って、時間が来るまで辛抱強く待ち続けていた。

なので、彼女の隣にいつの間にか誰かが座っていても、すぐに気付くわけが無かった。何気なく視線を右へ向けたときに始めて、すぐ側にいてこちらを見つめている人の姿に気が付いた。歩美は少しびっくりして、お尻をよじって半歩ほど左へ移動する。いたのは小さな女の子で、自分と同い年くらいにも見えたし、年下にも見えたし、逆に年上にも見える不思議な容貌をしていた。女の子は茶色い紙袋を持って、歩美にまっすぐ目を向けている。

(この子、誰だろ?)

自分を見つめる女の子は、歩美の見知った存在では無かった。つまり知らない子だったのだが、優しさを感じさせる目は歩美に警戒感も緊張感も持たせず、ただ隣に居るだけという印象を強く与えていた。歩美と女の子のお見合いは少しの間続いていたが、ある時不意に女の子が紙袋へ手を差し入れるとしばしゴソゴソやって、中から何かを取り出した。

取り出したその「何か」は、エンゼルフレンチとエンゼルショコラの、二つのドーナツだった。

歩美がぼんやり女の子の様子を見ていると、彼女はすっと音もなく手を差し出して、歩美にエンゼルショコラを手渡そうとしてきた。

「えっ? わたしにくれるの?」

恐る恐る尋ねてみると、女の子はこくんとハッキリ頷いた。見たところごく普通の、美味しそうなエンゼルショコラだったので、歩美は素直にそれを受け取った。歩美がドーナツを受け取ってくれたのが嬉しかったのか、女の子はにっこり微笑んで、こちらはこちらでエンゼルフレンチを手にして食べ始めた。女の子が食べ始めたのを見てから、歩美もエンゼルショコラにかぶりつく。ほどよい苦味のあるチョコレート味に、控えめで上品な甘さを持ったホイップクリームの味が加わって、率直に言ってとても美味しかった。最初の一口をしっかり噛み締めて、ごくんと飲み込み終えると、歩美はそれだけで満ち足りた気分になった。以前もこれと同じドーナツを食べた記憶はあったが、その時よりもずっと美味しいと感じられた。

「ありがとう、これ――」

おいしいね、そう言おうと横を見た時には、女の子の姿は既に消え失せてしまっていた。近くに居るのかと思って辺りを見回してみるが、まるで初めから存在さえしていなかったかのように、影も形も見当たらない。今しがたまで一緒に居たはずの歩美さえ、女の子が本当に居たのかどうか、話をしたのかどうかが曖昧になりかけていた。

ただ。手にしたままのエンゼルショコラは今も確かに形を残していて、存在しているという実感を得ることができる。真ん中に穴が空いていて、白色のパウダーがまぶされており、白いホイップクリームを内に抱えた、こげ茶色をしたチョコレート味のドーナツ。それは未だ、歩美の手の中に存在していた。

へんなの。そう呟いてから、残っていた分もすっかり平らげてしまうと、時計がちょうど十五時を指そうとしているところだった。歩美は近くの手洗いで手をしっかり洗うと、智樹の入院している二○四号室へ向かった。

「あっ、先生。歩美ちゃんが来てくれましたよ」

「ああ、いつもの時間に来てくれたようだな。ちょうどよかった」

昨日までと何かが違っていると感じたのは、智樹の居る病室に足を踏み入れた瞬間のことであった。近くに居た看護師と医師が揃って自分の方へ目を向けて、すぐに智樹の居るベッドへ来るように促している。歩美はすぐにパタパタ走って、弟が眠っているはずのベッドの側へ駆け寄った。

そこで、弟は眠っていなかった。

「う……ん……ここ、どこ……?」

「智樹……! 起きたんだ、起きてくれたんだ!」

智樹は眠っておらず――目を覚ましていたのだ。

「あっ、お姉ちゃん……」

「わたしだよ智樹! 起きたんだね、ホントに起きたんだね……!」

「あれ? 寝てたの? 僕……」

「そうよ、もう二週間も! 揺すっても呼んでも起きなくて、わたしもお母さんもお父さんもすごく心配したんだから!」

歩美は身を乗り出して智樹の背中へ腕を回すと、優しく力を込めてぐっと抱きしめた。

「でもよかった! 智樹が起きてくれて、ちゃんとわたしのことも覚えててくれて!」

「お姉ちゃん、心配してくれてたの?」

「当たり前じゃない! このまま起きなかったらどうしようって、ずっと思ってたもん!」

「そうだったんだ。ありがとう、お姉ちゃん。僕大丈夫だよ、もうどこも痛くないから」

「良かったわ、ホントに良かった!」

弟をしっかり抱擁して喜びを噛み締める歩美の姿を、担当の医師と看護師が穏やかな面持ちをして見つめている。智樹は姉からしきりに頬擦りをされて、くすぐったそうに目を細めた。

ケガはすっかり完治していて、後は少しリハビリをして歩けるようになれば退院できるとのことだった。歩美は智樹が覚醒してくれたことが嬉しくて仕方ないようで、ずっと側に付いて話を続けていた。一時間ほどそうしてから、ふっと智樹が何かを思い出したような仕草を見せて、小さな声で呟いた。

「うーん。あれって、夢だったのかなあ」

「夢? 智樹ったら、寝てる間に何か夢でも見てたの?」

「うん。なんかね、頭に光る輪っかを付けたひとがいて、僕その人と一緒に歩いてたんだ」

「輪っかの付いた人? ふぅん、それで?」

「それでね、上を見てみたら、僕にも同じ輪っかが付いてて、面白いやって思ってたんだけど、急に背中から誰かが近付いてきて、僕の輪っかを取ってっちゃったんだ」

「なんだかヘンな夢ね、不思議な感じ。まいっか。もう少しして家に帰ったら、また一緒におやつ食べましょ! 智樹の好きなもの食べていいからね」

「ホント? じゃあ、僕――」

智樹は姉の言葉を受けて、丸っこい瞳を爛々と燦々と輝かせて。

「今すごく、ドーナツが食べたいんだ!」

ドーナツが食べたい。

朗らかに、そう応答して見せた。

 

 

今日は学校の最寄りの駅に位置する、あのドーナツショップへ行く約束をしている。それを思い返す度に、今こうして道を歩いている時間が大変にもどかしく、そして同時に堪らなく快かった。浮き足立つのを懸命に抑えて、平静を装いながら一歩また一歩と歩を進めていく。俊明はこのうきうきした感触が好きだった。

若菜と偶然再会してから、もう二ヶ月が経過しようとしている。あれから俊明の毎日は大きく変わって、サイクルを惰性で繰り返すということは無くなった。彼女との仲も順調に深まっていっている。他に特筆すべき事柄は無かったが、俊明にとってはそれだけでも十分に過ぎる刺激だった。心なしか背筋もぴんと伸びて、髪型もしゃんとしている、気がする。

「それじゃあ、歩美と智樹の好きなドーナツ、二個ずつ買ったげるわ」

「やったぁ! じゃあ、わたしエンゼルショコラにするー!」

「僕は……えーっとうーんと、行ってから決める!」

隣を子供連れの主婦が並んで歩いている。聞こえてくる会話からして、同じく例のドーナツショップへ向かうようだ。エンゼルショコラも悪くないな、けどココナッツチョコレートも捨てがたいか――この後若菜と落ち合ってから食べるドーナツについて考えていたところ、車の往来のある小さな交差点に差し掛かった。車道を越えて、普段通る機会の無い反対側の歩道へ目をやる。

曲がり角になった辺りに幾つものお供え物がされていて、それらの品物をじっと見つめる小さな女の子が一人、その場に佇んでいた。

そういえばこの間、信号無視の車が歩道を歩いてた児童の列に突っ込んだって事故があったんだっけ。確か六人が亡くなる痛ましい事故だったはずだ……と、俊明はすぐに委細を思い出した。よく通る場所で起きた事故だけに、ニュースで目にした際は強いショックを受けたことを覚えている。同じように心を痛めた人々が、少しでも慰めになればと、こうして花や菓子を供えていくのだろう。

女の子は皺の付いた茶色い紙袋を手にしたまま、沢山並んだ供物を凝視している。何某か思うところがあったのだろうか、女の子は紙袋へ手を差し入れると、中から何かを取り出そうとし始めた。その仕草を見て、俊明は思い至った。目の前にいるのは、以前公園にいたあの子に違いないと。

袋から取り出したのは、何の変哲もない、そして何の装飾も施されていない、あのオールドファッションのドーナツだった。以前と同じように食べるのだろうか、俊明が目を凝らしつつそのように思いを巡らせていると。

(あれ……?)

手にしたドーナツを食べるのかと思いきや、女の子は続けて紙袋から白いペーパーを何枚か取り出して、道端に丁寧に敷いたではないか。それが終わってしまうと、紙の上にそっとドーナツを置いて、小さな両手を合わせ始めた。屈み込んで目を閉じて、一心に祈りを捧げているように見える。

あの子はドーナツをお供えしたのだと、俊明はすぐに気付くことができた。

「人生とは、輪廻の一巡に過ぎないのです」

今立っているところより少し離れた場所から、以前も耳にした新興宗教の信者の言葉が聞こえてくる。意識せぬまま視線を外して、声のする方へ目をやっていた。

「生は出発の、死は到達の比喩に他なりません。それ以上の意味を、保持しないのです」

「生の後にはただ死のみがあり、死の後にはただ生のみがあるのです」

「終末のない連環の中で、生けとし生ける者はこの周回を如何に生存するべきでしょうか」

説教はなおも続く。

「我々は常に思考し、模索し続けています。輪廻をより良いものとし、次の生を素晴らしいものとするために」

「すべては輪の中で回転し続けているのです。壊れることのない輪の上で、私たちは前へ歩き続けるのです」

「終わりは始まりの始まりであり、始まりは終わりの始まりなのです」

輪廻転生。スピーカーを通して聞こえてくる教条から、その四字の言葉が脳裏をよぎって。

視線を元に戻すと、そこにはもう、あの女の子の姿は無く。

 

あるのはただ、薄い紙の上に置かれた、綺麗な形をしたリングドーナツだけ――だった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。