「えーっと、あとはこのメールに書かれたリンクをクリックして……と」
アカウント登録の時のお決まりの儀式。メールに書かれた長ーいリンクをクリック。登録はこれで完了だ。
「こういう名前のサイト、昔もあったよね。del.cio.us……だっけ?」
「で、こっちは『junc.ti.on』か」
junc.ti.on。ドットを取ると「junction(ジャンクション)」になる。これ、確か交差点って意味だっけ。
サイトの説明によると、知らない人同士が交錯する「交差点」の役割を担うことを願って付けられたらしい。うーん、いかにもありそうな感じだ。既出じゃないのかな、この名前。
「フミコさんが『全然知らなかった人とも仲良くなれる』って言ってたけど、実際どんな感じかな」
アカウントとパスワードを入力するように促すログイン画面。それを見つめながら僕は呟く。
僕はすばる。時任(ときとう)すばるだ。なんだか女の子みたいな名前してるって? もう言われ慣れてるよ。ま、中性的な名前を持つ人なら、避けては通れない道だね。
趣味って言うほどじゃないかもだけど、絵を描くのが好きだ。pixiaってお絵描きソフトを主に使って、pixivってサービスに投稿してる。
「ときどき間違えちゃうんだよね。ソフトの方がA、サービスの方がVなんだけどさ」
よし、今回は間違えずに言えたぞ。って、それはどうでもいい。
これだけでもまあ楽しかったしそこそこ充実してたんだけど、そのpixivで知り合った人(普段はポケモンの絵を描きまくっている。特にドーブルっていう、絵描きの犬みたいなのをしょっちゅう描いている)から、おもしろいサイトがあるって話を持ちかけられた。
「で、それがこの『junc.ti.on』ってわけさ」
サービスインしたのは一ヶ月ほど前の九月ごろ。ちょっとだけ調べたところによると、「タイム・インタラクティブ」って名前の海外企業が運営してるらしい。いわゆる、SNSのひとつだ。
タイム・インタラクティブ(Time Interactive)だから、略して「ti」。このサービスのネーミングのために、国コードが「.on」になってるホンジュラスにサーバを置いたらしい。で、サブドメインを「junc」にしたと。ドメイン名がそのままサービス名になってるのは、分かりやすくていいと思う。
サイトが謳っているのは「まったく見知らぬ同好の士との高度なマッチング」だ。Twitterなんかにも「おすすめのユーザー」ピックアップしてくる機能はあるけど、あれよりずっと高度で洗練されてる……と、もっぱらのウワサだ。
その特徴を表わすキャッチコピーとして運営が使っているのが、「わたしとあなたの交差点」って言い回しになる。この間見かけた新聞広告にもでかでかと書かれていたから、よっぽど自信があるんだろう。
「フミコさんも『ビックリするくらい趣味の合う人とどんどん繋がれる』って喜んでたっけ」
あんまり楽しそうにしてるものだから、初めはスルーしてた僕も気になってきた。今なら全サービスを無料で利用できるし、登録って言ったって五分も掛からない。男は度胸、なんでも試してみるものさ、の精神で、僕も会員登録してみた。
登録って言っても、必要なのは希望するアカウント名とパスワード、それから認証用のメールアドレスだけでいい。ほかの個人情報、例えば本名や生年月日なんかは一切要求されない。その個人情報を集める気の無さが気に入った。
アカウント名は深く考えずに、ほかのサービスでも使っている「pleiades045」にした。ネットの知り合いが僕を探すときに便利だろうし、僕も慣れててやりやすい。名前の由来? 見ての通りさ。
必要な内容を記入して登録ボタンを押すと、十秒と掛からずにいわゆる本登録用のメールが送られてきた。アルファベットと数字が暗号よろしく並んだリンクをクリックして、これで晴れて僕もjunc.ti.onの会員になったってわけだ。
「じゃ、早速」
さっき設定したばかりのアカウントとパスワードをフィールドに入力して、新しい場所へ繋がるドアでも開くようにエンターキーを押す。Firefoxがログイン情報を記録するかと訊ねてきた、これは「はい」だ。次からは入力の手間が省ける。
ログインに成功してホーム画面が表示される。まずは画面構成を確認して、運営がこのサービスをどう使うことを推奨しているかの空気を読むとしよう。
まず、画面の中央にあって一番幅が取られているのが、Twitterのそれによく似たタイムラインだ。まだ誰も登録していないけれど、既にいろいろな投稿が流れてきている。雰囲気としては、Wii Uのホーム画面で放っておくとMiiverseへの投稿がランダムに表示されるあれに近い。
右側には多くの人が口にしている話題やキーワードが表示されている。これはよくあるトレンドなんちゃらってやつだね。左側にはまだまっさらなフレンドリスト。そのうち賑やかになるだろう。最後に画面上部、ここにはユーザや投稿を探すための検索ボックスと、アカウント管理画面へのリンクがある。
そして全体の色合いは、変更できるんだろうけど薄紫色で統一されている。きっと、なるべく既存のサービスと被らないカラーを選んだらこうなったんだろう。
「僕はゲームにしてもソフトにしても、使い始める前にまずヘルプやマニュアルを読むタイプでね」
誰に言うわけでもなく呟いて、アカウント管理リンクの隣にあった「?」アイコンをクリックする。
「タイムラインは……ふむふむ。趣味の近い人の公開投稿が、時間順に流れてくる、と。リコメンド順にもできるけど、初期設定は時系列順になってます、と」
「フレンドになると、お互いに個別の会話ができるようになります、か。ファイル送信とかミニゲームとか、フレンド同士でだけ利用可能な機能もあるみたいだね」
ヘルプは平易に書かれていて分かりやすかった。これはいいことだ。全体として、タイムラインへの投稿はパブリックな広場、フレンドとの会話はプライベートな個室に例えられている。使い方のヒントとして、タイムラインで気の合いそうな人を見つけてフレンドになろう、とも。
というわけで、junc.ti.onの主軸はタイムラインにある、そう判断した僕は、ぼーっと投稿されてくるポストを眺めることにした。
『しごおわ』
『めしった』
『ぬこかわいい』
あれだ、Twitterの方のタイムラインにもしょっちゅう流れてくる類のポストがずらずら並んでいる。反応するもよし、スルーするもよしのお気楽なポストだ。こういうのがぽつぽつ目に入ると、なんとなく自分は一人じゃない感じがしていい。
『新刊作業中……冬コミ入稿まであと一歩だぞい』
『カクヨムに投稿しました。ループに巻き込まれた女の子が脱出のために奮闘するお話です。http://……』
『<顔文字>落書き眼鏡さんズです。後ろから抱きつく構図はいいですね<顔文字>』
日常的なつぶやきに混じって、進捗具合や書いた小説・描いた絵へのリンクも流れてくる。僕もpixivに絵を投稿した後宣伝がてらタイムラインに投稿するけど、ほかの人のを見てると自分の創作意欲が刺激されるのが分かる。次はあれだ、ちょっと格好いい女の子、例えば弓道をやってる女の子の絵が描きたかったんだった。下書きを始めようかな。
とまあ、どうやっているのかは分からないけれど、タイムラインには僕が興味を持っていそうなポストが次々に流れてくる。なるほどこれは楽しそうだ、そう思って、僕は五分ほどそのまま観察を続けていた。
「おっと、忘れてた。フミコさんをフレンドに登録しなきゃ」
junc.ti.onのことを教えてくれた知り合いのポストが流れてきて(どんなサービスでも同じアイコンを使ってるから分かりやすいんだ、あの人は)、フレンド申請をしようと思い立つ。
フミコさんのホーム画面へ飛ぶためにアイコンをクリックしようとした矢先、フレンドリストがある左の通知欄に、一件の新着通知が来ているのが見えた。
手を止めてそちらを展開すると、「おすすめのフレンド」として見知らぬアカウントが紹介されていた。アイコンはデフォルト設定のままで、ほかに特段変わったところは見当たらず、って感じで。
「アカウント名は『melotte22』……この人も今日、それもついさっき登録したばかりみたいだ」
アイコンからmelotte22のホーム画面へ飛ぶと、僕と同じまっさらなフレンドリストに、登録日として今日が表示されている。時間もまったく同じ、20時17分。ちょっとだけ運命的なものを感じちゃうね、いや、もしかするとそれを話のツカミにしてくれっていう、junc.ti.onからの無言のメッセージなのかも。
さて、僕にはmelotte22なんてアカウントの知り合いはいない。ほかのサービスでは別のアカウントを使ってるかも知れないけど、さすがにjunc.ti.onといえどよそのサービスのことは分からないだろう。いきなり話し掛けちゃっていいのかな、と僕は高校に入学したての頃のような気持ちになる。
で、一分半くらい迷ってから。
「……物は試しだ。このジャンクションってサービスがどれぐらい当てになるか、これで試すのもアリだよね」
知り合い曰く、junc.ti.onは今まで全然知らなかった人ともどんどんつながりを持てるようになるらしい。僕もそれが目的で登録したわけだ。おすすめなんて言うんだからおすすめに違いない、ここは大胆に突撃すべきだね。いや、もちろん丁寧にだけど。
僕はmelotte22のホーム画面にあった「フレンド申請」ボタンを押した。メッセージ入力のためのウィンドウがポップアップする。
「はじめまして。プレアデスという者です。通知欄の『おすすめのフレンド』にmelotte22さんが紹介されていたので、メッセージを送らせていただきました。今日登録したばかりで右も左も分からぬふつつかものですが、よろしければフレンドになってくださるとうれしいです。よろしくお願いします」
長すぎず短すぎず……こんな塩梅か。ちょっと長い? いや、あんまり短くても怪しい感じがするし、これくらいかな。
誤字脱字のチェックをしてから「メッセージ送信」ボタンを押す。趣味とかは、仲良くなってから話せばいいや。まずは繋がりを持つのが先決――
『1件のフレンド申請があります』
なんて気楽に構える間もなく、新着メッセージの、それもフレンド申請のメッセージが届いた。慌ててメッセージボックスを見てみる。
送り主のアカウントには、見覚えがあった。
「『melotte22』……さっきフレンド申請したばっかりなのに、向こうからも来るなんて」
なんともまあ不思議なこともあるものだ。そう思いつつメッセージを開くと、僕はまたビックリさせられてしまって。
「……『はじめまして。メロッテという者です。通知欄の『おすすめのフレンド』にpleiades045さんが紹介されていたので、メッセージを送らせていただきました。今日登録したばかりで右も左も分からぬふつつかものですが、よろしければフレンドになってくださるとうれしいです。よろしくお願いします』……ふつつかものって表現、流行ってたっけ」
僕が書いたものとほとんど同じ文面が、そこにはあった。差異はお互いのアカウント名にしかないから、これはもう事実上の完全一致と言ってもいい。
まあ、文面はごくありきたりだ。被っちゃってもおかしなところはないし、それはそれということで構わない。ただ、お互い同時にフレンド申請のリクエストを送る、なんてのはそうそうあるまい。向こうも驚いてるんじゃないかな、きっと。
(文面を即座にコピーして反射してくるbotとか……そんなんじゃないよね?)
向こうに生きた人間がいるのか、ちょっとだけ不安な気持ちになりつつ、melotte22からのフレンド申請を承認する。僕が承認すると同時に、僕のリクエストも承認された。僕のホーム画面とmelotte22のホーム画面をそれぞれリロードすると、お互いのアイコンが追加されたのが見えた。
それと共に、melotte22のホームに「melotte22とセッションを開始する」というリンクが追加されていた。ヘルプを当たると、これを使えばTwitterのダイレクトメッセージやSkypeの通話のように、プライベートなやりとりができるみたいだ。お互いのフレンドリストに入っているアカウントなら承諾を得た上でセッションに招待することもできるから、どちらかというとSkypeのそれに近い。
「へえ、ボイスチャットもできるのか。こりゃますますSkypeだね」
セッションはテキストだけでなくボイスチャットもサポートしている。設定を変えてボイスチャットを許可すればいいらしいから、早速許可の設定をする。
見ると、melotte22もボイスチャット許可のマークが付いていた。ならこっちを使った方が手っ取り早い。L4D2を遊ばなくなってから隅っこに放置していたヘッドセットを装着して、相手の準備が整うのを待つ。
ほどなくして相手も準備が完了する。軽く咳払いをして、呼吸をちゃんと整えて、マイクをオンにして、なるべく穏やかなトーンを意識して。
「こんにちは『こんにちは』……」
お互い見事にカブってハモって。あんまりぴったりだったから、僕も相手もかえって戸惑ってしまって、次に続く言葉が出てこない。
「え、えーっと……プレアデスさん、でいいですか?」
「あ……うん、それでいいですよ、メロッテさん」
とりあえず、挨拶はできた。ツカミはまあまあ良さそうってところか。声が加工されていない限り、melotte22――メロッテさんは女の子だ。それも、恐らく同年代の。
どういう技術を使っているのかはサッパリ分からないけど、僕やメロッテさんが発言すると、その三秒後ぐらいには完璧な漢字変換がされたテキストログが画面にも表示される。ボイスチャットの音質もやたらクリアで、ともすると生の声かと勘違いするレベルだ。
junc.ti.onには最新のテクノロジーがつぎ込まれてるって自画自賛してたけど、こりゃあながち誇大広告とは言えないな、なんて僕がうなっていると、メロッテさんとの会話が止まってしまったことに気付く。
(何から話そうかな……いきなり自分のことをべらべら話すのも興ざめだし、かと言ってメロッテさんのことを根掘り葉掘り訊くのも失礼だし)
まずは何から話そうか。お互い接点が無くて勢いでフレンド申請したものだから、ちょっと悩んでしまう。それはメロッテさんも同じみたいだった。
何かこう、話すためのきっかけが欲しいけど、探してたって見つからない。流れを作ってそれから考えよう。その方がいい。
僕はあまり前後を考えずに、とりあえず呼び掛けてみた。
「あの『あの』」
二度あることは、三度ある。
僕もメロッテさんも少しの間硬直してしまって、それから僕は思わずぷっと吹き出してしまった。フレンド申請のメッセージに最初の挨拶、それからさっきの呼び掛け。こんなにもカブるなんて、なんだかどうかしている。
ヘッドセットの向こうで、メロッテさんも笑いをこらえているのが聞こえてくる。そりゃそうだよ、こんなに続いたら、誰だって笑い出すって。
「あれだね、うん。また同時になっちゃったね」
「ごめんなさい、あんまりおかしくて、なんだか笑っちゃいました」
「もうね、僕もだよ。こんなことあるのかって感じでさ」
僕らは揃って滅多に無い経験をしたわけだけど、おかげで空気がすっかりほぐれたのを感じた。これならお互い、気楽に話せるはずだ。
「あの、プレアデスさん。もしかして、男の人ですか?」
「そうだよ。声を加工したり、ソフトークに喋らせたりはしてないから、そのまま地声だね」
「ソフトークって、あの、ゆっくりの声のツールですよね?」
「うん。ホントは目の不自由な人とかが、ホームページを読み上げさせたりするのに使うソフトなんだけどね」
「あっ、そうなんですね。ええっと、あと……その、人間の方、ですよね?」
この質問で、僕はまた笑ってしまった。あんまり笑うと失礼かもしれないけど、でもさすがにこれは笑うだろう。
「もちろんだよ。あれだよね、サクラとか人工知能とか、そういうのじゃないかってことだよね?」
「えーっと、はい。あんまり息がピッタリだったから、実はプログラムとかじゃないか……って思っちゃって」
「正真正銘人間だよ、中の人とかじゃなくて。正直、僕もちょっと似たようなこと考えてたりしてたんだけどね」
メロッテさんが朗らかに笑う声が聞こえてきた。おしとやかな感じで、いい声だな――僕は自然と、メロッテさんに好感を持っていた。
「知り合いから聞いて、今日ここ、ジャンクションに登録したばっかりなんだ」
「私もなんです。部活の友達がハマってて、登録の仕方を教えてもらって、それで」
「なんか、昔のミクシィみたいな広まり方だね」
「あれ? あそこって、ゲームの会社じゃないんですか?」
「本業は一応、フェイスブックみたいなソーシャルネットワークだよ。確かに今はゲーム会社みたいだけどね」
会話に一瞬隙間ができたところで、僕もメロッテさんに質問を投げかける。
「ええっと、声からして、メロッテさんは女の子……かな」
「はい、高校二年の女子です」
「そっか、やっぱり同い年だったんだ。僕も同じだよ、高二の男子」
「あっ。プレアデスさん、『やっぱり』って言いましたよね。なんか、私もそうじゃないかって思ってて、同じように『やっぱり』って思ったんです」
「うーん、つくづく思うよ。不思議なこともあるものなんだね、ってさ」
こんなやりとりをしていると、またお互いに可笑しくなってきちゃって。
「なんだろうなあ、たぶんどっちも素で話してるんだろうけど……」
「これじゃ、サクラ同士が会話してるみたいになっちゃってますね」
「キツネとタヌキの化かし合いみたいだよね、なんかさ。違うって分かってるんだけど」
メロッテさんが笑って、そして僕も笑う。とても朗らかな声だ、いつまでも聞いていたくなる。こうやってメロッテさんと話ができたんだから、junc.ti.onのウワサはあながち嘘でもなさそうだ。
二人してひとしきり笑ってから、僕がヘッドセットを直しながらメロッテさんへ声を送る。
「なんだかすっかり気持ちがほぐれちゃった。これからもよろしくお願いするね、メロッテさん」
「こちらこそ! あっ、すごいこれ」
「どうしたの?」
「さっきのメッセージですけど、声が大きいとちゃんとビックリマーク付くんだ、って思って」
「なるほど……ホントだね!」
わざと大きめの声で言ってみる。テキストにビックリマークが付く。僕もメロッテさんも笑う。今の僕らなら、ホントにちょっとしたことで笑い合えそうだ。
こんなに笑ったのは久しぶりかも知れない。普段が陰鬱な気持ちってわけでもないけど、こんなに笑うことも滅多にない。腹の底から笑うってことはいい気持ちってことで、つまり楽しい気分でいるってことだ。
ラップトップの隣に置いているデジタル時計に目をやると、もうすぐ23時になろうとしているのが見えた。楽しい時間が終わるのは名残惜しいけれど、そろそろ寝ないと明日に差し支える。同い年なら、メロッテさんにも学校があるはずだからね。
「もうこんな時間かぁ……夜更かしし過ぎると、明日の朝が辛くなっちゃうからね」
「明日も朝練あるから、私も寝なきゃ。プレアデスさん、えっと……また明日」
また明日、か。
僕は照れくささと嬉しさが綯い交ぜになった気持ちを味わいながら、穏やかさを意識した口調で応える。
「また明日。いい夢見てね、メロッテさん」
その言葉を最後に、僕らの初セッションは終了した。
ヘッドセットを外して横へ置くと、開いていたウィンドウをAlt+F4でどんどん閉じていって、最後にシステムも同じようにシャットダウンする。
ファンの音が止んで、しん、と静まり返った部屋の中で、僕は大きく息をついた。
「話に夢中になってると、時間が経つのが早く感じるな……あっという間だったよ、ホントにさ」
濃密な時間を過ごした後の心地よい疲労感。その余韻を味わいながら、メロッテさんと交わした言葉を思い起こす。
なるほど、junc.ti.onのキャッチコピー「わたしとあなたの交差点」に偽りは無い。新しい出会いがあるってのはホントだったってわけだ。普通こういうのってコピーに実態が伴わなかったり名前負けしたりするものなんだけど、どうやらそうではないらしい。
「よし。明日からはもっと、いろんなことを話すぞ。せっかくの出会いを大事にしなきゃね」
未だ鮮明に残るメロッテさんの綺麗な声を脳裏に思い浮かべながら、僕はそのままベッドへインしようとしたわけだけど。
「……あ。お風呂入ってないや」
ま、あるあるだよね、こういうことは。
何度かメロッテさんと話をして、その都度お互いの情報を交換するってことを繰り返した。僕は絵を描くのが趣味、メロッテさんは歴史小説が好き、僕はレモンティー派で、メロッテさんはアップルティー派。それからどっちも猫好きで、椎茸が嫌い……そんな感じ。
設定も変えて、junc.ti.onでちょっとずつ個性を出し始めた。僕は自作漫画のコマを彩色してから切り抜いて、メロッテさんは近くにいる野良猫の顔アップ写真を撮ってきて(僕の家の近くにも似た顔の猫がいた)、それぞれアイコンに設定した。TwitterにしてもSkypeにしてもそうだけど、アカウント名よりアイコンで先に相手を識別するタイプだから、デフォルトのアイコンから変わってるだけでもだいぶ分かりやすい。
というわけで、いつものようにログインしてホーム画面を見る。メロッテさんのホーム画面を裏タブでロードしておいて、新着メッセージやフレンド申請が来ていないかをチェックする。一通り済んでメロッテさんのホームへフォーカスすると、今日も同じ時間にログインしている。で、多分僕と同じように新着をチェックしているっぽい。
そろそろいいかな、とセッション開始のリンクをクリックする。一応相手をビックリさせないために、最初のメッセージはテキストで送るようにしている。
「こんばんは『こんばんは』」
メッセージを送るタイミングがまったく同じでぶつかり合うのは、ある意味いつもの光景だった。笑いをこらえつつヘッドセットを装備して、ボイスチャットを開始した。
聞こえてきたのは、彼女が笑う声だった。
「またカブっちゃったね」
「全然、狙ったりとかしてないですよ。新着が来てないかチェックして、それからプレアデスさんを呼ぼうとしたら、毎回カブっちゃうんです」
「分かるよ、だって僕も同じだし。むしろ狙ってやるのも難しいよ、こんなの」
僕とメロッテさんがしているようなやり取りは、いわゆる「他愛もない会話」ってやつなんだと思う。中身なんて無いに等しいけど、これがなかなかどうして楽しかったりする。やってることは学校で同級生と交わす挨拶と同レベルなんだけど、楽しさは段違いだ。
ま、女子と話すのが楽しくないって男子は、多くはないだろうしね。
「プレアデスさんのアイコンって、誰かのイラストですか?」
「これね、自分で考えて描いた漫画の主人公なんだ。実はこう見えても空手の有段者って設定なんだよ」
「いいですよね、そういうの! 私も武道に憧れてて、それで、高校で弓道部に入ったんです」
ひゅう、と僕は思わず口笛を鳴らす。自分の憧れをしっかり具体化できるなんて、素直にいいことだと思う。僕はそういうまっすぐな人に好感を持つタイプだ。
「メロッテさんの姿勢、僕も見習いたいな。僕の方は単に絵を描くのが好きだってだけで漫研に入ったしさ」
「好きなものがしっかりあるって、いいと思います。それに……このイラスト、可愛いですし」
「ありがとう、メロッテさん。なんか、褒められるとこそばゆいけどさ、嬉しいのは間違いないよ」
男子校に通ってて、ネットの知り合いもほとんどが男だった(ちなみに、フミコさんは数少ない例外の一人だったりする)から、女の子に自分の絵を見せる機会は今までほとんど無かった。メロッテさんから褒めてもらえたってことは、少なくとも女性の目から見ても不快な絵柄じゃないってことだと思っていいだろう。
ふと、僕はメロッテさんがさきほど言った言葉を思い出す。彼女が所属してる部活のことだ。
「えっとさ、メロッテさん。さっき言ってたけど、弓道部にいるんだよね?」
「はい。今年で二年目になります」
「高二だもんね。少し前に、弓道の構え方とか着装とかを、本や動画で見てちょっと勉強したんだ」
僕が次に描こうと思っていた絵は、まさに弓道をやってる女の子で。
「凛とした感じの女の子が描きたくなって、それならやっぱり武道が相性いいと思ったんだ」
「うん、うん。分かります、分かります」
「剣道か弓道で迷ったんだけど、やっぱり顔も描き込みたいから、弓道にしたんだ」
メロッテさんは僕の発言にしきりに相槌を打ってくれている。興味を持ってくれたんだとしたら、嬉しいことだ。
「それでさ、僕が描いたイラストを見てもらいたいんだ。実際の経験者から見て、おかしな構図になってないかって」
「うん! 描いて描いて! あっ……ごめんなさい、プレアデスさん。描いてくれるとうれしいです」
「あはは、敬語じゃなくていいよ。せっかく知り合えたんだし、もっと気楽にしてほしいな」
「そうだね、その方がいいかな。プレアデスさん、ありがとう」
綺麗な声をしてるね、なんて言いかけたけど、いやちょっとキザったらしいし、なんだか馴れ馴れしい。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。いつかこういうことも気軽に言い合える仲になれればいいんだけども。
僕が弓道少女のイラストを描いて、現役選手のメロッテさんに品評してもらうことにした。これは、腕によりをかけて仕上げなきゃいけないな。僕が気を引き締める。
「今日はこれくらいにしようか。じゃあメロッテさん、また明日」
「うん、また明日。絵、楽しみにしてるね」
「ちょっと緊張するけど、気合いが入るよ。メロッテさんの期待に応えられるように力を尽くすね」
和やかな空気を保ったまま、今日もセッションが終わる。メロッテさんがログアウトするのを見届けてから、トーク画面のタブを閉じる。
自分のホーム画面へ戻ってみると、フレンド申請が三通来ているのが見えた。アカウントはどれも他のサービスで見慣れた知り合いのものばかりだ。僕がTwitterとpixivで「junc.ti.onはじめました」って呟いたのを見たに違いない。
「こういうのを残しとくと、寝るとき気になっちゃうからね」
最後にフレンド承認の作業をパパッと済ませて、僕も床に着いたのだった。
高校生同士の会話となると、やっぱりというか自然にというか、通っている学校のことが多くなる。
「英語の授業が眠くって眠くって、寝ないようにするのが大変だったよ」
「それってリーディング? それともライティング? 眠くなるってことは、ライティングかな?」
「そう思うでしょ? ところがリーディングの方なんだ。先生の声がすごい単調でさ、まだゆっくり霊夢の方が抑揚付いてるぞって思っちゃうレベルでさ」
「えーっ、リーディングでそれは辛いよー……だってリーディングって先生の話聞くか、テキスト読むくらいしかしないし」
「ホントだよ。どうせなら生徒に読ませたらいいのにさ、全部自分で読むんだからね。あれは苦行だよ」
まあ、僕が眠いのは、こうやって毎日遅くまでjunc.ti.onでメロッテさんとお喋りしてるから、っていうのもあるにはあるんだけどさ。こっちは楽しいから止められない。
「私のところもね、国語が退屈で退屈で……同じように寝そうになっちゃうんだよ。けど、今一番前の席にいるから、うっかり寝ちゃうとすぐバレちゃうし」
「メロッテさんもか。僕も一番前の座席なんだよね。ホントさ、早く席替え来ないかなって、そればっかり考えてるよ」
「席替えって、やっぱり月に一回なのかな?」
「そうそう。毎月の一日か、一日が休みなら最初の平日にやってるよ。クジで場所決めて、机をずごごごーって動かすの」
「あれ結構大変だよね。教科書とかノートとか詰まってると、机重たくなっちゃうし」
「制服も埃っぽくなっちゃうしね。中学の時は机と椅子はそのままで、教科書とかだけ持って移動しててさ、そっちの方が楽だったんだけど」
今月はまだ半ば。席替えのチャンスが到来するまでは、もうしばらく時間が掛かりそうだ。
「あとさ、リーディングが終わって休み時間になるじゃない。それでちょっと寝ようと思ったら、友達が横に来ちゃってさ」
「分かる分かる! ゆっくりしたいなーって思ってるときに限って、ねーねー、って感じで来ちゃうんだよね」
「もうね、ホントにそれだよ。しかも話す内容がさ、授業つまんなかったなーとか、いやいやそれも十分つまんないよって言っちゃいそうな感じでさ、もう参っちゃうよ」
「こっちも同じ感じだよー。たまに先生の陰口合戦も始まったりして、うーん、ってなっちゃう。国語の先生、確かに授業はつまんないけど、そんなに悪い先生じゃないって思うから、複雑な気分だよ」
「分かるよ、僕も。質問しに行ったりして個別に話すと、ちゃんと話が通じていろいろ教えてくれたりするんだよね」
「それそれ! だからね、余計に困っちゃう。もっと困るのが、その友達も根は別に悪い子じゃなかったりして……」
「あるあるだよね……なんだろうなあ、人間関係って難しいよね。自分以外の他人がいると、どうしても意識しなきゃいけないことなんだけどさ」
「うん。それで、いつも迷ったり悩んだりして、どうしようかなって思ったりして。プレアデスさんも同じなのかな」
「聞いててとても他人事とは思えなかったよ。僕もさ、もやもやすること多いし。それで多分、僕の言葉や態度にもやもやしてる子もいるんだろうなあ、って思ったり」
「そうだよね。他の子が私のことどう思ってるか、自分じゃ分からないから」
「だよね。一昨日もさ、クラスメートの一人で、ポケモンのカビゴンというか、となりのトトロの大トトロみたいな雰囲気の子がいるんだけど」
「あ、それ雰囲気分かる。多分ふっくらした体格で、目が細い感じの」
「そうそう、まさしくそれだよ。それで、その子が他のクラスメートからトロいって言われてて、僕ものんびりしてるなあ、とは思ってたけど」
「うん、うん」
「でもさ、一対一で話すと普通に話通じるし、そんな悪く言うほどじゃないんじゃない、って思ったりとかさ」
「きっとだけど、とろいって言ってる子も、悪気があるとか、苛めるのが好きとか、そういう子じゃないんだよね」
「まさにそれだよ。普段は気のいい連中だからさ、尚更すっきりしなくってさ」
ここまで話して、お互い少し間が空いた。どっちも熱っぽく話して、つかの間のクールタイムが必要だと感じたのもある。
よし、そろそろ話題を転換しよう。僕はヘッドセットを軽く直してから、メロッテさんに呼びかけた。
「あのさ『あの』」
僕らの会話は、カブらなきゃ始まらないんだろうか? メロッテさんが吹き出す声が聞こえて、つられて僕も笑ってしまう。
「まただね」
「またやっちゃったね」
「あー、なんか可笑しくなっちゃうよ。ごめんねメロッテさん、そっちから話してよ」
「全然大したことじゃないよ、今日の夕飯何食べたかなって、ただそれだけだから」
「あのね、僕別に狙ったわけじゃないんだけどさ、同じこと言おうとしてたんだ。今日の夜ごはんなんだった、って」
狙ったわけでも何でもないのに、僕とメロッテさんは話題もよくカブる。ありきたりとは言え、同じこと考えてるんだって思うと、なんだかちょっと嬉しくなる。
「ちなみに、僕のところはカレーだったよ。鶏肉を入れてね。自分で作って食べたんだ」
「自分で作ったんだ! 私もだよ。こっちはハヤシライスだったけどね」
「見た目は似てるけど、でも、カレー派とハヤシ派はお互いハッキリ分かれそうだね」
「きのこの山とたけのこの里みたいに、ね」
言えてる、と僕は笑って返す。本当に会話の波長が合うな、と思わずにはいられない。なんというか、見ず知らずのまったくの他人とはとても思えない。
ずっと昔から一緒だったような、そんな印象さえ覚えていて。
「プレアデスさんって、ご飯自分で作ってるんだ。私も同じだよ」
「母親が仕事で遅く帰ってくるから、家事はほとんど僕がやってるよ。ご飯だけじゃなくて、掃除に洗濯、お風呂の準備、買い物もだね」
「わ、そうなんだ。こっちもお母さん遅いから、ほとんど私が担当してるよ。買い物もしょっちゅう行ってるんだけど、おかげでスーパーの店員さんに顔覚えられちゃって」
「覚えられちゃうよね、学生が一人で買い物に来るなんて少ないと思うから。こう言っちゃあれだけど、同じ学校の人、特に同級生にはあんまり見られたくないよね」
「分かる分かる。何してるんだろ? って思われちゃいそうだし」
メロッテさんも家事を受け持っていて、近所のスーパーでよく買い物をしているそうだ。こんなところも、僕の今の境遇とそっくりだ。
ふと思ったことがある。そのまま「ひょっとして……」と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。さすがに面と向かって訊ねるにはデリケートな内容だし、もう少し距離を縮めてからの方がよさそうだと思った。
「今日はこの辺にしようか。寝坊しちゃうとよくないしね」
「うん。プレアデスさん、今日もありがとう」
「こちらこそ。メロッテさん、また明日」
「また明日、プレアデスさん」
メロッテさんがセッションから抜ける。僕は一人きりになったセッションを終了させて、ラップトップの電源を落とした。
(楽しかったな、今日も。何か特別なことを話したわけじゃないけど、それがいいんだよね。日常を共有してるっていうか)
彼女と知り合ってから、ちょっと退屈気味だった毎日に張り合いが出てきた。junc.ti.onを通して初めて知り合ったのはまだメロッテさんだけだけど、彼女だけでもどっさりお釣りが来るくらい、会員登録してよかったと思う。
あとはタイムラインを軽く流して、めぼしい情報がないかチェックしてから寝るとするかな。
二週間も続くと、僕も相手もすっかり習慣になって、日常の一部に感じられるようになる。
「別の高校に通ってる友達も弓道部なんだけどね、そっちは私のとこと比べていろいろ緩いみたいなんだ」
「緩いって言うと、ちょっと遊びが入ってる感じだったり?」
「そんな感じそんな感じ。分かりやすいところだと、風船をマトにしてね、それを弓で射ったりしてるって」
「うーん、ふわふわしてるね。風船だけに」
「でしょでしょ? 最初聞いたときはちょっとムッとして、ふざけてる! って思っちゃったけど、でもよくよく考えてみたら、ちょっとやってみたいかも、って」
「風船だと静止せずに微妙に動いてるから、狙う的としては結構おもしろいかもね」
「うん、うん。そんな感じそんな感じ。だから、趣向を変えた練習になるかも、そう思ったんだけど……けど、私の部活でやるのは、やっぱり無理そうかな」
僕はメロッテさんの話の腰を折らないように気を配りながら、彼女について思っていたことを口にした。
「えっとさ、メロッテさんって……怒らないでほしいけど、真面目だよね。ちゃんと部活のこととか考えたりさ。全然、悪い意味じゃなくて、率直に思ったよ」
「そんな、怒るようなことじゃないよ。それに、いろんな人からよく言われてるし。本当は、もっと気楽な方がみんな接しやすいのかな、って思うこともあるけど……」
彼女は真面目だと思う。話をしているときの印象もそうだし、端々から伺えるみんなへの自然な気配り・気遣いが、彼女のキャラクターをさりげなく表わしている。
「私の印象だけど、プレアデスさんも真面目な人だって思うな。話してるときも、こう、がっつかないで落ち着いてるし」
「同じく、よく言われるよ。これでも気楽に生きたいとは思ってるんだけどね。真面目な性格だと世の中生き辛いって、頭では分かってるんだけどね」
「うん。要領よく進められる子って、ちょっと羨ましいよね」
今時「真面目」っていうのは損なこと。僕もメロッテさんも分かってるけど、性格は簡単には変えられないこともまた分かってる。共感せずにはいられない。
「メロッテさんはきっと真面目に弓道に打ち込んでるんだね。僕は漫研だから、普段は好きな絵を描いてるよ。他の部員も同じ感じで。それでお互い絵を見せあって、こうした方がいいんじゃないとか、ここはいいねとか、そういう簡単な品評会もよくやってるね」
「楽しい中にも自己研鑚、そんな感じだね。なんかいいな、プレアデスさんのところの漫研。絵はへたっぴだけど、一度見学してみたいな」
「ありがとう。なんていうかさ、前の部長さんが厳しい人で、部内の雰囲気がギスギスしちゃってたから、僕が空気を変えたいなって思って」
「えっ? じゃあもしかして、漫研の部長さんって、プレアデスさんだったりするの?」
「そうなんだ。今の三年生がみんな抜けちゃったから、じゃあ僕がやろうかな、って思ってさ」
ディスプレイの向こうで、メロッテさんが驚いたような声を上げていた。メロッテさんが驚いたポイント、僕はそれをすぐに察することができた。
「あの……実は、私も」
「メロッテさんって、弓道部の部長さんだったり?」
「う、うん……プレアデスさんも二年で部長って聞いて、ビックリしちゃって」
「部長さんなんだ。いやあ、格好良さがますますアップしちゃったよ」
「そんな、全然大したことじゃないよ……私は単に、他にやる人がいなかったから、じゃあ、やってもいいかなって、それで……」
「格好いいと思う。なんか僕の中でメロッテさん、すごいキリッとしたイメージになったよ」
「あわわ、どうしようどうしよう、私すっごい地味で目立たない感じなのに……」
「地味で目立たないって言われてるのは、僕も同じだよ」
こんなところまでそっくりだね。僕がおどけて言うと、メロッテさんは少し気恥ずかしそうな声で、けれど嬉しそうに笑ってくれた。
好みがよく似ていて、クラスのポジションも近くて、二年で部活の部長を務めている。ポイントポイントがいちいちそっくりで、とても強い親近感を覚える。
「また一つ、似てるところが増えたね」
今日のセッションが終わって、大きく伸びをしながら呟く。確かに別人なのに、細かいところまでそっくりだ。しかもお相手が強さと可愛らしさを併せ持った女の子だと思うと、自然と楽しい気持ちになる。
彼女と一度会ってみたい。その気持ちを抱くまでには、さほど時間はかからなかった。
僕は約束は必ず守るタイプだ。小さなことでも大きなことでも関係ない。人として当然のことだと思っている。
「完成したよ、約束のイラスト。腕によりをかけて仕上げたからね」
「もう描けたんだ! プレアデスさん、さすがだよ」
「ありがとう。実物を見て幻滅しないことを祈ってるよ」
メロッテさんの笑う声を聞きながら、僕が仕上げた絵を転送する。サーバにはアップロードされるけど、僕とメロッテさん以外は見ることができないようになっている。ファイル転送の仕組みは、Skypeのそれに近い。
絵をアップロードした直後から、二人とも言葉を発さなくなる。僕はメロッテさんの講評を祈るような気持ちで待っていて、メロッテさんは僕の絵をチェックしてくれている。
体感的には十分くらい、実際には一分ほどの時間が経過してから。
「うん……いいね、凄くいいね! 構えもしっかりしてるし、着装もばっちりだよ」
「ああ、よかったよ。気に入ってもらえてよかった。結構緊張ちゃった」
「全然違和感ないから、よく観察してるんだ、すごいなって思っちゃった」
「動画を止めてポーズを見たり、本を買って読んだりしたんだ。メロッテさんに見せるんだ、手は抜けないよね」
「さすがだよ。あと、なんとなく、なんとなくだけど……」
「どうかした? 何か、気になるとことかあったら、遠慮なく言ってほしいな」
「えっと……ううん。おかしいとかじゃ全然なくて、ただ……この女の子、顔立ちが私に似てるなって」
メロッテさんから告げられた言葉に、僕は率直に言ってかなり驚いた。メロッテさんに渡した絵は特定の個人を意識して描いたわけじゃなかったけど、それが彼女に似た顔立ちだったというのだ。
驚きの感情の後に沸いてきたのは、意識しないうちに彼女に似たイラストを描けていたんだっていう、得も言われぬ喜びだった。
「あっ、もちろん絵の方がずっと可愛いよ! 比べ物にならないくらい! 私ってほら、もっと地味で華が無いから!」
「いやいや、謙遜しなくていいよ。メロッテさんに似てるって言ってもらえて、なんか僕、すごく嬉しいんだ」
「雰囲気がね、すごく似てたから……これ、誰か参考にした人とかキャラとかいるのかな?」
「ううん、実はね、僕もなんとなく描いたんだ。弓道やってそうな子ってこんな感じかなって。構図とかは本を参考にしたけど、顔はふと頭に浮かんだのをそのまま絵にしたよ」
「それじゃ、ほんとに偶然なんだ」
「そう。偶然も偶然、想像もしてなかったよ。けど、メロッテさんに似てるって聞いたら、もう嬉しくってさ」
「お世辞でもなんでもなくて、私を可愛くイラストに描いてもらったら、きっとこんな感じになると思うよ。ありがとう、大事にするね」
写真を見せられたら良かったんだけど、規約でそれはできないからね。少し寂しげな口調で、メロッテさんが付け加えた。
これは、プライバシー保護のため、というのが運営の言い分だ。junc.ti.onはあくまでネット上で気軽にコミュニケーションを取るためのツールというポリシーがあって、出会い系サイトのような使い方は想定していない。だからテキストチャットやボイスチャットも、個人名や住所のような個人情報を検出すると自動的に検閲されてしまう仕組みになっている。
junc.ti.onには高度な技術がいくつも使われている(やたらクリアに聞こえるこのボイスチャットもその一つだ)けど、その中に「顔認識」も含まれている。写真に個人の顔が含まれていると判断すると、システムで自動的に削除してしまう。イラストで描く分には特に問題ないけど、そうじゃない場合はものすごい正確さでアウトにしてしまう。
ただ――この世に完全無欠のセキュリティを誇るシステムが存在しないように、junc.ti.onの仕様にもいくつか穴はあって。
「そうだ! 顔が写ってなきゃ大丈夫って聞いたから……!」
言うや否や、メロッテさんが写真をアップロードしてきた。すかさず受信ボタンを押すと、ローカルフォルダに一枚のjpgファイルが現れた。ダブルクリックして、画像をプレビューする。
写真には、正面を向いてしっかり弓をつがえたポニーテールの少女の姿が、鮮明に映し出されていた。
「これ……もちろん、メロッテさん、だよね」
「うん。一番いい写真を選んだつもりだけど、どうかな……」
思わず息を飲んだ。彼女の姿はとても凛々しくて、橙色に輝く太陽を射抜かんばかりの力強い姿勢で、堂々と立っている。何者にも負けない、どんな的であろうと敵であろうと、一撃の元に打ち砕いてしまいそうな、圧倒的な迫力があった。
「……格好いい。格好いいよ、すごく。本当に格好いいよ、これ」
格好いい、そう三回も繰り返してから、僕はようやく、それが女の子の写真に呟くべき感想からはちょっとズレていることに気が付いて。
「あっ、いや、もちろん可愛いよ! もうね、うっとりしちゃうくらいの!」
可愛いって伝えるためにこんなベタな言葉を選んでしまうのが、僕が決して二枚目になれない最大の理由だ。キザな言葉を咄嗟に吐ける映画やラノベの主人公が羨ましくて仕方ない。
ヘッドフォンからは、メロッテさんが明らかにツボに入った時の声で笑っているのが聞こえてくる。彼女の声からは悪意は微塵も感じ取れなくて、本当におもしろくて笑っているんだって分かって、僕は恥ずかしさのあまり爆発しそうになるのだった。
「えっとね、なんかごめんね、ヘンなこと言っちゃって。でも、本当に、本当に……凛としてて素敵だって思ったんだ」
僕がそう言うと、メロッテさんは笑いながらだけど「うん、うん」と同意してくれて。
「ありがとう、プレアデスさん。私、格好いいって言ってもらえて、凛としてるって言ってもらえて、素敵だって言ってもらえて、とっても嬉しいよ。写真、絵のお礼になってたらいいな」
「勿体ないくらいだよ。大事にするね、メロッテさん」
えへへ、とメロッテさんが笑う。さっきまでの、お腹を抱えての大笑いとは違う、少しはにかんだ感じの、可愛らしい笑み。
本音を言うと――僕は、彼女のことを、すっかり好きになってしまっていた。
「少し前に後輩の子に撮ってもらったけどね、すごくよく撮れてるから、お気に入りだったんだ。顔が写ってないから、恥ずかしくないしね」
「背中で語る、って感じだね。武道家の風格があるよ」
おどけて語るメロッテさん、真面目に語る僕。その様が対照的で、またお互い笑ってしまう。
「それにしても、髪型とか背格好とか、写真から分かることだけでも、ホントにそっくりだね」
「プレアデスさんもそう思うよね。私もビックリしちゃった」
絵と写真の交換は、僕も彼女も嬉しくなれる最高の形で行うことができた。
結局今日のセッションはこれで時間になって、メロッテさんと僕は同時にjunc.ti.onからログアウトする。普段通り他のソフトも終了させながらシャットダウンの準備を進めつつ、プレビュー画面で表示させた彼女の写真だけは閉じられなくて。
描き上げたイラストと瓜二つな彼女の後ろ姿を眺めていると、まるで彼女が僕のすぐ側にいるような、なんとも不思議な気持ちに包まれた。
格好良くて凛々しくて可愛くて、素敵な女の子なのは間違いない。疑う余地もない。彼女と会えて、楽しく話ができたことだけでも、僕はjunc.ti.onに感謝しなきゃいけない立場だ。
(けど、なんだろうな)
(彼女に、メロッテさんに、どこかで会ったことがある気がするのは、どうしてだろう)
少なくとも思い出すことのできる記憶の中に、メロッテさんのような女の子と邂逅したようなものはない。けれどそれはあくまで僕が今活性化することが可能な記憶の範囲内でのことだ。
ひょっとすると僕らは揃って覚えていないだけで、昔どこかで会ったことがあるのかも知れない。
(もし実際に会うことができたら、何か思い出せるかも)
そう考えるのは、自然な成り行きだった。
junc.ti.onに登録してから一ヶ月。季節はいよいよ秋めいてきて、夏物はタンスの奥に仕舞われる時期になった。
「名前が中性的だと、一回は経験するよね。性別を取り違えられること」
「プレアデスさんは女の子に、私は男の子に……今まではあんまり嬉しい思い出じゃなかったけど、プレアデスさんも同じことがあったって思うと、今の名前でよかったって思うよ」
時任すばるという僕の名前は、知らない人が聞くと結構な割合で女の子っぽく聞こえるらしい。そもそも「すばる」が男性名でもあるし女性名でもあるってところが大きいし、漢字じゃなくてひらがなで書くのも地味に聞いている。友達の佐伯曰く「魔法少女モノのキャラの名前でありそうな名前」だそうだ。さもありなん。
僕は男子校に、メロッテさんは女子校に通っている。高校の名前を言おうとしたら、プライバシーに関わる情報だって言われて検閲された。試しに全然関係ない学校の名前を出したらすんなり通ったから、いったいどんなアルゴリズムを使っているのかさっぱり分からない。文脈から判断してるように見えるけど、はっきりしたことは言えない。
「全然嬉しくない話なんだけどさ、クラスメートから、お前って可愛い顔してるよな、とか言われたことあるよ。それも何回か。女子との接点が無さ過ぎてどうかしちゃったんだと思ってやりすごしたけどさ」
「やっぱり、男子と女子のどっちかしかいない高校だと、そういうことあるんだね。私もね、後輩の子から面と向かって、好きです、って言われて、告白されちゃったことあるよ」
弓道部で稽古してるところを見て、胸がキュンとしたとか言われたよ――とは、メロッテさんの弁だ。彼女の写真を開いて見てみる。確かに同性から告白されてもおかしくなさそうな堂々とした風貌だけど、ホントにされたらやっぱり戸惑うだろう。
「さすがに僕は告白まではされたことないけど、ありそうな話、ではあるよね」
「今のところはその一回だけだけど、他の子で何回かされた子がいるってウワサは聞いたよ」
「僕のイメージなんだけど、女子校ってさ、やっぱり女の子同士で付き合ってたりする子もいるのかな」
「実際、いないわけじゃないみたい。でもね、割とさらっとした、いつも一緒にいる友達同士、みたいな関係が多いって聞くよ。二人っきりの時は、ベタベタしてるのかも知れないけどね」
漫画に出てくるような濃厚で百合百合な関係は、そうそうお目にかかれるものでもなさそうだ。ま、現実は大体そんなもんだよね。
彼女の口から告白、なんてキーワードが出てきたからだろうか、僕とメロッテさんの間に、いつもと違う空気が流れ始めたのを感じ取る。彼女もまた同じみたいで、いつもに比べて、少しだけ口ぶりがゆっくりしている。
このシチュエーションで先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「あのね、プレアデスさん。いつか、言わなきゃって思ってたことなんだけどね」
「うん、いいよ。言ってみて」
「ひょっとしたら、私に幻滅しちゃうかもしれないけど……」
そう口にした彼女は緊張していたようだったけれど、対する僕は楽観的に構えていた。何を言われようが、彼女に幻滅することなんてありえない。そう思っていたから。
「私ね、まだ男の子と付き合ったことがなくて、それで一度、恋をしてみたくて」
「ヘンって言われるかもしれないけど、せっかくなら遠距離の方が、相手のことをよく考えるようになるから、いいかなって思って」
いやはや、この辺の経緯も、僕とまるっきり同じじゃないか。
「幻滅なんてとんでもないよ、全然、まっとうな理由じゃないか」
「実を言うと、僕もほとんど同じ理由で登録したからんだ。誰かと仲良くなれたらいいなって、それくらいの気持ちで」
もちろん初めから出会い目的だったわけじゃない。けど、junc.ti.onが誇っているマッチングで、誰か気の合う人がいたら付き合えたらいいなって、それくらいのことは考えてた。
そうして今僕は、junc.ti.onを通して、初めて「好き」だとはっきり言える人と出会うことができた。
「そんな気持ちで会員登録して、それで……メロッテさんに会った、いや、会えたんだ」
「あの、プレアデスさん、それって、つまり……」
「うん……その、僕は、メロッテさんのことが好きで、これからもずっと一緒にいたいなって、そう思ってて」
口に出して言ってみて、僕はさらりととんでもないことを口走ったことに後から気が付いた。
僕が気恥ずかしくなったなったのは言うまでもないけど、ヘッドフォンの向こうから聞こえてくるメロッテさんの声や息遣いを聞いていたら、僕に負けず劣らずって感じだったみたいで。
「え……えっと、今日はもう寝よっか! あ、明日も早いだろうし!」
「そ、そうだね! あの、また明日も話せるしね、プレアデスさんと!」
さすがに今日はこれから普通の会話なんてできっこない。お互いそう思って、いつもより少し早かったけれど、ここらでお開きにすることにした。
そわそわしながらログアウトしようとすると、メロッテさんからお別れの挨拶が聞こえてきた。
「プレアデスさん」
「……ありがとう。私も同じだよ、同じ気持ちだから」
「また、明日」
また明日。その言葉を最後に、彼女はログアウトした。
シャットダウンを済ませてから、いつもよりもずっとずっと大きく息をついた。流れとはいえ彼女に「好きだ」なんて告白してしまったものだから、疲労感がものすごい。
ぼーっとして働かない頭で、自分が口にした告白を振り返る。
「僕は、メロッテさんのことが好きで、これからもずっと一緒にいたいなって、そう思ってて」
一人になってみて、僕は過去の自分に評価を下す。
「……もうちょっと格好良く告白したかったなあ」
彼女がさりげなくOKを出してくれたことが、僕にとっては救いだった。
間延びしててちょっと格好がつかなかったけれども、メロッテさんが僕の告白を受け入れてくれたのは事実。こうして僕と彼女は晴れて、彼氏と彼女の間柄になったわけだ。
とは言え、話す内容が劇的に変わる、なんてことは無くて、昨日までと同じような他愛の無い会話が中心だった。
「プレアデスさんならきっと分かってくれると思うけど、廃墟って、なんかどきどきするよね」
「それすごい分かる。探検したくなっちゃうんだよね」
「だよねだよね! 私が昔住んでたところの近くに、元々スーパーだった廃墟があって、そこにこっそり忍び込んだっけ」
ここで僕はちょっと驚いた。というのも、メロッテさんと同じ経験を、同じ流れでしていたからだ。
かつて住んでいた家の近隣にあったスーパーマーケットの廃墟に忍び込んだ。廃墟に侵入したのもそうだし、引っ越す前ってことも共通している。いつもながら、普通は似ないような部分が似ていると思わずにはいられない。
「メロッテさんも引っ越し経験アリなんだ。例によって、僕もだよ。で、すぐ側のスーパーが廃墟になってて、大人の目を盗んで冒険したってところもね」
「なんだか、そうじゃないかって思ってたんだ。プレアデスさんの探検話、聞かせてほしいな」
「あれはよく覚えてるよ。七歳の時だったね。夏休みで、友達がみんな帰省してたり旅行に行ってたりで、一人だったんだ」
「私もほとんど同じだったよ。旅行とか、ほとんど連れてってもらえなかったし」
「同じくだよ。だからかな、近くで遊んでたんだけど、ふとその廃墟に入ってみたくなって、知らないふりして中に入ったんだ」
あのスーパーは、僕が物心ついたころから変わらぬ姿を晒していた。聞くところによると、僕が生まれる二年前に運営母体が倒産して、そのまま流れで閉店したらしい。土地の買い手が付かなかったみたいで、建物は取り壊されずに残されていた。
「閉店したあとちゃんと片付けられてなかったみたいで、買い物のカートとか、のぼりとかがちらほら残ってたよ」
「そっちもだったんだ。あちこち結構面影が残ってて、けど人は誰もいなくて寂しかったから、印象的だったよ」
「似たような廃墟があるものなんだね。それでさ、今でも忘れられないんだけど、奥のフードコートがそのまま……」
僕が「フードコート」という言葉を口にした、その途端のことだった。
「うそ!? 私が見たのも同じだったよ!? 上にアイスの写真が残ってて、あとフライドポテトの写真も……!」
「えっえっえっ、ちょっと待って!? そのアイスの写真って、もしかしてソフトクリームの上に……ほらあの、ピンクとか緑とかの粒々が載ったやつじゃなかった!?」
「それ! それそれそれ、間違いないよ! フライドポテトは白い紙袋に入ってて、値段は200円って書いてあって!」
「待って待って、こっちも200円だったよ、よく覚えてる!」
「これ……ど、どういうこと……!? 何がどうなってるの……!?」
背筋がぞくぞくする感覚が走った。全身に電撃が駆け巡っている。
今この瞬間、僕と彼女はほとんど同じ、あるいはまったく同じ光景を思い浮かべているかも知れないという考えが脳裏を掠めた。廃墟の特徴があまりに似すぎている。こんな残り方をしてる廃墟が、そうそう都合良く二つも三つもあるはずがない。
答え合わせが必要だ。僕はごくりとつばを飲み込んで、彼女に一つ質問を投げかけた。
「あのさ、メロッテさん。もしかしてそのスーパー、Nマート、って名前じゃなかった?」
ある種の確信を持って訪ねる。まったく間を挟むことなく、彼女が息を飲む様子が伝わってきた。
「そう、そうだよ、Nマート、間違いないよ! それで合ってる!」
彼女の声を聞きながら、Googleに渦中のスーパーマーケットの名前を訊ねる。逸る心を落ち着かせて、検索結果からWikipediaのページへ飛んだ。
「Nマートは関東ローカルのスーパーマーケットで、全部合わせても12店舗しかなかったみたいだ」
「コンビニみたいにたくさんあった、ってわけじゃないんだ……」
「うん。倒産した後、青砥店だけが取り壊されずに残ってたらしい。他のは全部早々に更地にされたみたいだ」
青砥。僕がかつて住んでいた場所だ。僕が忍び込んだのは、Nマート青砥店で間違いない。
そして……メロッテさんが入り込んだのも。
「ひょっとして、だけど」
「う、うん……」
「僕たち……お互い結構近くに住んでたりするのかな?」
「なんか、そんな気がする……どうしようどうしよう、ちょっとどきどきしてきちゃった」
廃墟の冒険話が、とんだ方向に飛び火してしまった。しかも火は勢いよく燃え上がって、僕も彼女もそのことしか考えられなくなるくらいの強さになった。
数秒の間の後、
「あの『あの』」
例によって、見事にハモった。けれど、今回はここでは止まらなかった。僕もメロッテさんも、喉から出た言葉をそのまま最後まで口に出した。
「今度『今度、』、直接『直接、』、会ってみませんか『会ってみませんか』」
もう僕も彼女も驚かなかった。当たり前の感情だと思っていたから。
僕はバックで立ち上げていたpixiaにフォーカスを移すと、作業中のファイルを保存して新しいキャンバスを作成した。ペンタブで素早く文字を書き付けると、レイヤーを結合してpng形式で書き出した。書き出されたばかりのファイルを、おもむろにメロッテさんへ転送する。
ファイルには、あえて少し乱雑に崩した字体で、こう記述しておいた。
『画像でやりとりしよう。これは、検閲されない』
junc.ti.onがトラブル防止のために個人のプライバシーに関わる情報を検閲しているのは既に述べた通りだ。そして、それにはいくつか抜け道が見つけ出されていることも同じ。その一つが、画像を使ってテキスト情報をやりとりすることだ。
日に日に精度を上げてきているとは聞くけど、さすがにまだ手書きの文字を100パーセント認識するというレベルには達していない。既存のフォントと同じ文字を埋め込んだレベルなら検出されるけど、人間には識別できる程度に字体を崩すと検閲が効かなくなる。僕はそこを突くことにした。
最寄り駅は日暮里です、と乱雑に描いた画像をメロッテさんへ送る。メロッテさんも意図を察したみたいで、しばらくすると「私も日暮里です」と描かれたビットマップ画像が送られてきた。
「土曜日は部活で稽古がある、そうだよね?」
うん、と肯定の声が聞こえてきた。再びpixiaへフォーカスして、ペンタブを素早く走らせる。
『日曜日に太田の像の前で会いませんか』
アップロードしてから一分も経たずに、応答のファイルが返ってくる。
『行きます 時間は1時でいいですか』
僕は頷いてから、「それで」とだけ、彼女に口頭で伝えた。
お互いに時間と場所を確認しあって、今日はここでセッションが終わった。
「日曜日はあさって、か……」
明日は土曜日。たった一日だけとは言え、もどかしい気持ちのまま過ごすことになりそうだった。それはとりもなおさず、一秒でも早く、一秒でも長く、メロッテさんに会いたいという一心によるものだけれど。
経緯はどうあれ、僕はメロッテさんと直接会うという約束を取り付けた。来るべき時が来た、僕の心にはそんな思いが満ちていた。
僕は、ついに――彼女に会えるんだ。
土曜日は何をしていたのかよく覚えていない。それくらい、僕の意識は日曜日に強く向いていた。
理由なんて一つしかない。彼女に、メロッテさんに会えるからだ。
「忘れ物はない……よね?」
日暮里駅の前まで来てから少し不安になって、肩から提げたバッグの中身を確かめる。財布にハンカチ、それからスマホ。必要そうなものはだいたい入っている。出てくる前に三回もチェックしたから大丈夫だって分かってるはずなのに、それでも不安になってしまう。
緊張して自然と早足になるのをどうにか抑えながら、僕は待ち合わせ場所にした太田道灌の像を視界に入れた。バッグからスマホを取り出して、指紋認証でロックを解除する。
「ボイスチャットがメインだったから、今までこれはあんまり使ってなかったんだよね」
junc.ti.onは最近流行りのサービスの例に漏れず、スマホ版のアプリもリリースしていた。使い勝手はWeb版とほとんど変わっていなくて、入れている友達も多い。ただ、通話との兼ね合いでボイスチャット機能が省かれていたから、僕とメロッテさんは今まであまり使っていなかった。
とは言え、テキストであってもお互いにやりとりができるのは便利。特にこうやって外に出ている時には尚更だ。こういう時、つまりネットで知り合った人と直接会う時は、周りにいる人がみんな知り合いに見えてくる。そういうときは、ネットで確認してから話しかける方が良かったりするものだ。
「メロッテさんも僕と同じぐらいの時間に来そう、だね……」
検閲に引っかからないように注意しながら、メロッテさんとこまめに連絡を取り合う。ちょうど僕と同じくらいのタイミングに家を出たらしい。日暮里駅までの距離は僕とほとんど変わらない。ほぼ同時に到着するはずだ。
いよいよ日暮里駅の全体像が見えてくる。横断歩道を渡ると、待ち合わせ場所にした太田道灌の像が視界に入ってきた。辺りに人影は見当たらない。まだ来ていないみたいだ。青信号になったのを見てから道路を横断して、メロッテさんにメッセージを送る。
『今待ち合わせ場所まで来ました』
僕がメッセージを送った直後に、スマホが小さく振動した。
通知欄に目をやると、junc.ti.onのアイコンと共に、こんなメッセージが表示されていた。
『今待ち合わせ場所まで来ました』
送り主は、他でもないメロッテさん、その人だった。
僕とメロッテさんは同じ場所、つまり日暮里駅前の太田道灌像の前にいる! 瞬時にそう察した僕は、メロッテさんらしき人の姿を探して懸命に目を凝らした。
『像の近くだよね?』
『そうです』
乗馬して勇ましく立つ太田道灌に見下ろされながら、僕が像の周囲を一周する。けれどメロッテさんらしき人はおろか、人っ子一人見当たらない。近くにいる人間は正真正銘僕だけだ。
狐につままれたような思いをしながら、もう一度像の周りを見て回る。いくら探しても、目を凝らしても、彼女の姿はどこにもなかった。
彼女に会いたい、逸る気持ちをどうにか抑えつつ、彼女に今自分がいる場所を伝えるにはどうしたらよいかを考える。幸い、僕は効果的な案をすぐに思いつくことができた。
『今見えてる風景を写真に撮るから、それを参考にしてみて』
メッセージを送るとすぐにカメラモードに切り替えて、見えている風景を撮影した。日暮里駅前の写真。これならメロッテさんにも僕の位置が正確に伝わるはず。プライバシーに引っかかりそうな情報がないことを確かめてから、junc.ti.onにアップロードした。
これを見て――と僕が言おうとした直後、またスマホが短く振動した。
「『今見えてる風景を写真に撮って送ります』……って!?」
そのメッセージの直後に、ファイルがアップロードされてきた。ファイルタイプは写真、解像度は僕が使っているスマホと同じもの。ファイルを受信して、震える手で中身を確認する。
「日暮里駅前……日暮里駅のすぐ近くだ……」
送られてきた写真は、僕のいる日暮里駅のすぐ近くを撮影したものだ。
問題は――それが、今さっき僕が撮影したものと異常なほど似ていることだった。まったく同じ位置から、完全に一緒の角度で、コンマ数秒まで一致した時間に撮影された写真。そうとしか思えなかった。
けれど、写真は完全には同一じゃなかった。違っていた。
違っていたけれど、それは明らかに違っていてはいけない部分だった。
「これ、どういうこと……?」
「なんでここに、スターバックスがあるんだ……!?」
僕の写真ではエクセルシオールカフェが移っている部分。メロッテさんの写真の該当する場所には、なぜかスターバックスコーヒーが写し出されている。場所は明らかに日暮里駅なのに、写っているものが違う。
それだけじゃない。同じ写真のはずなのに、二つの写真には差異がいくつもあった。
「パチンコ屋じゃなくて……これ、ゲームセンターだよね……」
「ここの車、プリウスじゃない、別の車種だ……!」
「談話室の看板が見当たらない……? 今も営業してて、表に看板が出てるはずなのに、どうして……」
「ビッグエコーじゃないよ、これ……代わりにカラオケ館が入ってるんだ」
同じ日暮里駅を撮影したはずなのに、写っているものがまるで違っている。パチンコ屋の代わりにゲームセンターが、ビッグエコーの代わりにカラオケ館が見える。違いはそれだけに止まらない。雰囲気はどこまでも似ているけれど、明らかな違いがいくつもいくつも見つかる。
どういうことなんだ。写真の正面に見えるスターバックスの意味が分からなくて、Safariの検索ボックスに「スターバックス 日暮里」と打ち込んで答えを訊ねた。もしかしたら、何か分かるかもしれない。根拠のない思い込みだったけど、そう思わずにはいられなかった。
けれどどうしたことだろう、普段なら冴えた答えを返すGoogleが、東京・有楽町付近にピン留めをした的外れな地図をトップに表示させている。僕が知りたいのは日暮里のスタバだ、有楽町じゃない。
公式サイトへ飛んで店舗一覧を調べる。都道府県別で東京都を選んで、日暮里駅のある荒川区を探す。
「……ない。ないぞ、見つからない……」
ドラム式のリストには、「荒川区」の選択肢は存在していなかった。
これはつまり、日暮里駅付近はおろか、荒川区全域に店舗が存在しないということになる。あの写真に写っていたスターバックスコーヒーは、実在しないってことだ。
「と、とりあえずメロッテさんに……!」
まるで整理できずに混乱する頭のまま、とにかくメロッテさんに連絡を取ろうとする。僕がメッセージを打ち始めた直後、メロッテさんからまた画像ファイルが転送されてきた。
メッセージを途中保存して画像を受信する。送られてきたのはGoogleマップの画像だ、下には「エクセルシオールカフェ 日暮里店」と書かれている。メロッテさんが検索して、結果を僕に送ってきたってことだ。
問題は、その画像が意味していたところで。
『エクセルシオールカフェ日暮里店は日暮里駅から歩いて10分って書いてます』
背筋が凍るように冷たくなった。僕の目の前にあるエクセルシオールカフェ日暮里店が、歩いて10分も掛かるところにあると言っている。言っていることの意味は分かる、けれど、まったく意味が分からなかった。
僕は僕で、日暮里駅近くにスターバックスコーヒーが無いことを知らせるために、Googleの検索結果を撮影して送る。
『こっちも同じようなことになってる 僕の近くにスターバックスは見当たらないんだ』
言い知れぬ恐怖とはこのことだろうか。僕とメロッテさんは同じ場所にいるはずなのに、まったく違うものを見ている。矛盾してはいけない情報が大量に矛盾している。見てはいけないものを見てしまった気分だ。
ここにいても埒があかない。一度彼女の声を聞きたい、彼女が確かに存在していることを確かめたい。
『一度帰ってボイスチャットで話そう』
『そうしたいです すぐに帰ります』
彼女の気持ちも、僕と同じみたいだった。
家へ帰ってきてからは荷物の整理もそこそこに、すぐにパソコンを起動して席に着く。普段はほとんど意識しないデスクトップが表示されるまでの時間が、今日に限っては永遠に続くんじゃないかと錯覚するほどに長く感じた。
スタートアップに入れているFirefoxが自動的に立ち上がり、前回終了時のタブの構成を復元する。少しでも早くjunc.ti.onにログインするために、バックで開いていたWikipediaやYouTubeのページをホイールボタンで次々に消していく。
目的のタブ以外をすべて閉じるころには、junc.ti.onのホーム画面がロードされていた。
一秒でも早く彼女の声が聞きたい。その一心で震える手を懸命に抑えつけながら、メロッテさんのホームからトークのセッションを開始する。ヘッドセットを付けて準備を済ませると、すぐさま彼女に声をかけた。
「メロッテさん」
「プレアデスさん! 大丈夫? 何か起きたりしてない?」
僕が呼びかけると同時に、メロッテさんが心配そうな声で僕に訊ねてきた。さっき僕らの身に起きたことを思えば、大丈夫かと訊ねたくなるのは当然のことだった。
「僕は大丈夫、なんともないよ。メロッテさんは?」
「こっちも、特におかしなところはないよ。いつも通り。ついさっきあんなことがあって、いつも通りって言うのもおかしな話だけど……」
とりあえず、僕も彼女も何か異常が起きているわけではなさそうだ。メロッテさんの声を聞くことができて、まず切羽詰まった気持ちは解消した。
けれど、ほっとしたのも束の間のこと。僕らが揃って尋常ではないものを見たっていうのは依然として事実だ。彼女と一緒に知っている情報を出し合って、何が起きたのかを整理する必要がある。
「とりあえず、状況を整理しよう。落ち着いて、今起きていることを把握するんだ」
「そうだね……起きてることが分かれば、どうすればいいかも思い浮かぶかもしれないし」
方向性が定まったところで、まず僕が口火を切る。
「帰る途中に調べたけど、やっぱり日暮里なんて駅は一つしかなかった」
「同じ名前の違う駅にいた、そういうことじゃないんだね。だからプレアデスさんも私も、同じ場所にいたはず」
「そう。けれど、お互いが送った写真には、違うものが写っていた……お互いにとって、ありえないものが」
「やっぱり、何か普通じゃないことが起きてるのは間違いないよ。どうしてこんなことに……」
話す内容が検閲されないかに気を遣わなきゃいけないjunc.ti.onだとどうしても話がしづらい。そう感じた僕は、彼女に「電話で話せないかな」と訊ねた。彼女はすぐさま「大丈夫」と言ってくれて、例の方法で番号を送る、と続けてきた。画像に電話番号を書くやり方だ。
間もなく彼女からファイルが送られてくる。受信は一瞬で終わった。 保存されたファイルを開いて、描かれていた番号を確かめる。
「よし、来た。僕が電話をかけるよ、それで着信履歴から登録してくれれば――」
そこから先、僕は続きを言うことができなくなってしまった。
画像ファイルに手描きで記された電話番号。11ケタの規則は守られているし、数字以外が混じってるとかでもない。頭は090から始まる普通の番号で、僕以外が見れば本当になんの変哲もない携帯の電話番号に見えたことだろう。
けれど……僕が目にしたものは、決して描かれているはずのない、描かれていることなどあり得ない電話番号で。
「プレアデスさん? どうかしたの? 何かあった?」
「……ごめん、メロッテさん。電話はできない。僕は、この番号には掛けられない」
「えっ!? そ、それって、一体どういう……」
彼女との連絡に電話は使えない。だから、junc.ti.onを使うしかない。
送られてきたファイルを見て、僕は瞬時に一つの可能性を見出した。それは突拍子もなくて非現実的だったけれど、今僕ら二人に起きていることを矛盾なく全部説明できる。
説明、できてしまう。
「一つ、仮説を思いついたんだ。電話を掛ける代わりに、僕の質問にいくつか答えてほしい。僕もそれに自分で答えるから」
彼女は戸惑いながらも「分かった」と言ってくれた。メモ帳を起動して、これからする質問を軽くまとめる。
あれと、これと、それと。いくつか質問を揃えてから、メロッテさんへ問いかけた。
「メロッテさん、画像で応答してほしい。通っている高校はどこ? 僕もこれからファイルを送る」
画像を送ってから五秒も経たないうちに応答があった。画像には「古寺高校」と描かれている。
裏のpixiaで開きっぱなしにしていた、僕がさきほど送ったファイルにも「古寺高校」とある。まったく同じだ。
「僕が通っている高校は男子校だ。弓道部もない」
「私の高校は女子校で、漫研がない。プレアデスさんが訊きたいことって、こういうこと、だよね」
「うん。その通りだよ」
そしてメロッテさんの答えは、前もって予想していた通りでもあった。
「友達にさ、龍造寺って名字の子はいないかな」
「いるよ、いるいる。同じ弓道部に所属してて、それで……」
「副部長を務めてたりする、そうだよね?」
「……すごい、合ってる。龍造寺さんは、副部長をしてくれてるよ」
「なるほど。僕の知っている龍造寺は漫研の副部長で、言うまでもなく男子だ」
「私の知ってる龍造寺さんは、女の子だよ」
龍造寺という友達がいて、そして彼と彼女は、それぞれ僕らが所属している部活で副部長の座に着いている。偶然にしてはできすぎている。
僕はもう既に、偶然とは思えなくなってきていたけれども。
「私も、プレアデスさんに質問していいかな」
「いいよ、なんでも答える」
僕が何を確認しようとしているのかを、メロッテさんも察したのだろう。彼女の方から僕に確認したいことがあるという。僕は、それがどんな質問であろうと、ただ事実のみを告げるんだという覚悟を決める。
「誕生日はいつ? あと、生まれた病院はどこ?」
「一九九九年七月三日、病院は日本医科大学附属病院だよ」
「やっぱり……私もまったく同じだよ。生まれてくるときに時間がかかって、お母さんも危なかったって話、聞いたことない?」
「聞かされたよ。すごく大変だったって」
誕生日も同じ、生まれた病院も同じ、出生時にちょっとしたトラブルがあったことも同じ。
全部、同じだ。
「今は荒川区にいるけど、たぶん小4の頃まで葛飾区にいて、それから引っ越したとか……」
「うん。あのNマートに入り込んだのも、葛飾区に住んでた頃だった」
かつて葛飾区に住んでいて、今は荒川区にいる。僕も彼女も、まったく変わらない経緯を辿っている。
メロッテさんは黙り込んでしまった。僕も何も言えなくなった。ここまで何もかもが一致するなんて、どう考えたっておかしい。もう偶然なんて言葉じゃ片付けられないところまで来てしまっている。
それでもまだここまでなら、赤の他人でも一致する可能性は無いとは言えない。一縷の望みとほとんど絶対的な確信を胸に抱いて、再び僕が質問を投げかけた。
「八歳の頃に、自動車の玉突き事故に巻き込まれなかったかな」
「巻き込まれたよ。助手席に乗ってて、頭をフロントガラスに強く打って……」
「血が出るくらいの怪我をした。病院へ行って、CTスキャンを受けて……」
「大人しくしてたのに、お医者さんに、動いてますよ、って言われたっけ」
事故に巻き込まれたことも、事故で負った怪我の内容も、その後病院で起きたことも。
「小5だったかな。塾に通い始めたんだ」
「能開センター、って名前の学習塾だったよね。課題図書に、二年間の休暇、って上下巻の本を渡されて」
「勉強のために読むつもりが、物語にすっかり引き込まれちゃって、三日で全部読んだ」
「たくさんいた登場人物の中でも、私はゴードンに共感してた」
「どうして、か。それは……前の年に、両親が離婚して」
「……父親が、家を出て行ったから」
かつて通っていた学習塾も、そこで読んだ本の感想も、前年に家族の間で生じた亀裂も。
「去年の春、高校に進学したお祝いに、スマホを、iPhone6を買ってもらった」
「買ってもらった時期も同じ、機種も同じ、そして……」
僕は言葉に詰まる。口に出そうとしている言葉の意味を、それが僕らにとってどんな意味を持つのかを噛み締めて、その重さに折れてしまいそうになっていた。
けれど、僕は事実を言わなきゃいけない。彼女に、伝えなきゃいけない。
「……電話番号も、同じだ」
契約者ごとに割り当てられた電話番号。廃止されて再利用されたものでもなければ、決して重複することはない。そして僕も彼女も、キャリアとの契約は未だ有効なままだ。僕の電話番号と彼女の電話番号、その両方が有効になっている。これは、普通ならあり得ないこと、通常なら起こり得ないことだ。
普通なら、通常なら。それは僕らの間に起きていることが、尋常なことではないという事実を物語っていて。
「プレアデスさん。今更、かも知れないけど」
「そのハンドルネームの由来は、もしかして……」
メロッテさんの質問の意図は、明瞭に理解できた。彼女もまた同じことを考えているのだろう、そんな揺るぎない確信があった。
「僕の本名からとって、それをもじったものだよ」
「プレアデス星団から付けたんだ。プレアデス星団、その和名が……僕の名前だ」
「それに、今調べてみて分かった」
「メロッテさんも――メロッテさんのアカウント名の由来も、きっとそうじゃないか、って」
pleiades045とmelotte22。僕はプレアデス星団の名をそのまま拝借して自分のハンドルネームにした。メロッテさんはどうか。melotte22……Melotte 22というのは、何を示しているものか。
フィリベール・ジャック・メロッテが作成した星団の目録であるメロッテ・カタログ。とある星の群れが、そのカタログの22番に指定されている。ゆえにその星団は、「Melotte 22」の名前で呼ばれることがある。
「プレアデスさん」
メロッテさんから呼びかけられて、僕が顔を上げる。
「私たちの本当の名前、送りっこしませんか」
「ペイントで描いて、これから送ります」
僕は何も言わずにpixiaで新規キャンバスを作成して、そしてペンタブで自分の名前を描き付けた。
『時任すばる』
メロッテさんからファイルが伝送されてきた。
僕は息を止めて、フォルダに保存されたビットマップファイルを開いた。
『時任すばる』
時任すばる。
そこには、確かにそう描かれていた。
時任すばると、時任すばる。
僕は時任すばるで、そして彼女も――メロッテさんも、時任すばるだ。
「……そっか」
「やっぱり、そうだったんだ」
「私、だったんだ」
彼女の言葉が、僕らの身に何が起きたのか、何が起きているのかを、とても如実に顕していた。
「もうこんな状況になったら、何を言われても驚かないと思う。だから、思い切って言うよ」
「僕は仮説を一つ思いついたんだ。この仮説なら、僕らの状況を全部説明できる」
さっきから頭の中にあった仮説。彼女との、「すばる」とのやりとりを通して、僕はそれを正しいと考えるに至った。
「僕らは、違う世界の同じ存在で」
「同じポジションを担うために生まれてきたんだ」
「姿形は違っていようと、役割は同じなんだ」
僕らは違う世界にいて、同じ「時任すばる」として生きている。「時任すばる」として与えられた役割を担うために。
「僕は、男の子として」
「私は、女の子として」
このまま生きていれば決して出会うはずがなかった二人のすばるが、junc.ti.onを通して出会った。
出会ってしまった、と言うべきだろうか。
「たぶん、だけど」
「うん……」
「世界の成り立ちはほとんど……99.9パーセントくらい一致してる。物理法則とか人間の思考とかの、基本的なルールはきっと完全に同じだ。だから、僕の世界にもそっちの世界にも、同じ学校やお店がある」
「たぶん、すごく似た歴史を辿ってコーヒーショップができて、スーパーマーケットがなくなったんだね」
「そうだと思う。でも、それぞれの世界には違う部分もあって、それが日暮里駅の今の姿に影響を与えたんだ」
「こっちにはスターバックスが、そっちにはエクセルシオールがあったのも、きっとそのせいで」
似て非なる世界に僕らはいて、とても近いけれど違う風景を見ている。
僕らは同じ空の下にいない。この空の下に彼女はいなくて、彼女の世界に僕は立っていない。
「私の通ってる高校が女子校で、そっちの高校が男子校なのも、役割が違ってたから……」
「男子と女子が入れ替わって、別の歴史を辿った。けれど、高校としての機能は同じだった」
「漫研の代わりに弓道部が、弓道部の代わりに漫研ができた。きっと、そうなんだよね」
彼女の、すばるの言う通りだ。笑ってしまいそうになるくらい、話がスムーズに進む。
それもそのはずだ。僕と彼女は、異なる同一の存在なのだから。
「ジャンクションは」
「一つの世界じゃなくて、いくつもの世界を結びつけてる、立体交差なんだ」
「僕らがまだ知らないだけで、全然違う状況にいる僕や君も、サービスを使っているかも知れない」
「利用者の数がとんでもなく多いって言われてるのも納得だよ。だって事実上、無限にいるんだから」
「とは言え、僕が見た限り、僕らが知ってる人間の常識から外れた人間……腕が二本より多かったりとか、口の代わりにテレパシーで会話するような人間は見た記憶がない」
「きっと混乱しないように、僕と君の世界のように、近似した世界同士で交差点を作ってるんだと思う」
「個人情報が厳しく検閲されてるのも、そんな実態を知られたくないからだよ」
こうして利用者の数を荒稼ぎしながら、junc.ti.onは運営されている。今この瞬間も、会員数は増え続けているだろう。
junc.ti.onが僕とすばるの世界の交差点になって、僕らは互いを知ってしまった。
(僕はすばるに会うための方法を知らない)
(僕はすばるに会いにいくことができない)
すばるは今「ここ」にいて、同じ場所にいるのに、僕は彼女に触れることも、手をつなぐこともできない。
二人同じ時間を共有しているのに、僕らは目と目を合わせて会話することさえできない。
僕は彼女で、彼女は僕で。僕はすばるで、すばるは僕で。同じ意味を持って生まれてきた、けれど確かに違う存在で、一目会いたいと思っていた女の子で。
ここにいるのに、僕らはここにいるのに、どうやっても手の届かない、ずっとずっと、果てしなく遠い場所にいる。
「そうか」
「僕らは、会えないんだ」
すばるのことを、こんなにも強く想っているのに。
ヘッドフォンの向こうから、すすり泣く声が聞こえてくる。すばるが泣いている、涙を流している。
僕は泣きじゃくる彼女の涙を拭おうとして、自分の目に手を当てていることに気が付いた。
「泣かないで、なんて、僕に言う資格はない」
「僕は君の涙を拭えない、僕は君に触れることさえできない」
掠れた声で、上ずった声で、僕が彼女に語りかける。僕にできることなんてなかった。僕は彼女に、何一つしてあげられない。
己の無力さを、ただ呪うほかなかった。
「ごめんね、ごめんね――」
彼女が何か言っている。けれど僕はそれを聞き取ることができない。どれだけ耳を澄ませても、彼女が確かに言った言葉が聞こえてくることはない。
(本当に、大した仕組みだよ)
(『すばる』を……僕の個人名だって認識して、検閲してしまうんだから)
個人の名前は検閲されてしまって、ボイスチャットでは流すことができない。彼女の言葉は、システムの検閲機構の前に手折られ、電子の藻屑と消えてしまう。
彼女は確かに僕の名前を、「すばる」という僕と彼女に共に与えられた名前を呼んでいるのに、僕はそれを耳にすることができない。
「どうやっているのか分からないけれど、大した機能だよ、まったくさ」
「お互いに、本当の名前で呼ぶことさえさせないなんてね……徹底してるよ、嫌になるくらいに」
「それでいて……僕らはジャンクションを介さなければ、こうやって繋がっていられない」
「サービスに囚われた、哀れな人間の姿ってわけ、か……」
自嘲を込めてつぶやく。もう、ただ笑うしかなかった。
かつて僕らはjunc.ti.onで出会って、junc.ti.onで仲良くなって、junc.ti.onで恋人同士になった。
今の僕らはjunc.ti.onに出会うことを阻まれて、junc.ti.onに声を遮られて、junc.ti.onに悲しみを味わわされている。
それでも僕らが繋がりつづけるためには、junc.ti.onを使うしかない。こんな状況に置かれてしまったら、乾いた笑いしか出てこない。すべてをjunc.ti.onに握られているのだから。
「泣いちゃってごめんね、ごめんね、本当に……本当に……っ!」
「いいんだよ。泣いてくれていいんだよ。それは……僕を想ってくれてることに他ならないから」
泣いていることを謝る必要なんて、どこにもない。僕に会えないことを悲しんでくれているなら、それは彼女が僕に会いたいと思っていてくれたことの現れだから。
僕は、泣いていた。声を殺して、歯を食いしばって、溢れ出る涙を零れるに任せていた。
ずっと――彼女に会いたいと、彼女と共にありたいと、彼女と幸せになりたいと、そう思い続けていたから。
(すばる)
(僕は君に会いたいのに)
(君は僕に会いたいと思ってくれているのに)
(僕らは……)
僕がすばるに会うことはできない。その現実に打ちひしがれて、がっくりとうなだれていた最中だった。
(♪)
突然、背後でスマホの通知サウンドが鳴った。僕の背中から聞こえただけじゃなく、ヘッドフォン越しにすばるの部屋でも鳴ったのが分かった。胸騒ぎを感じて、僕が手を伸ばしてスマホを取ってくる。
「何か……変な通知が来てるよ。タイムラインが見られない、だって……?」
「こっちもだよ。友達から、ジャンクションの調子がおかしいって……」
新規タブを開いて、自分のホーム画面を読み込む。いつもならスッと読み込めるはずのページが、表示されるまでにひどく時間がかかっている。今までこんなことは一度もなかったから、胸騒ぎを覚えてしまう。
ようやく読み込みが終わる。けれど、その画面はほとんどすべての画像の読み込みに失敗して、普段とは明らかに異なるスタイルで表示されてしまっている。中央のタイムラインは停止して、「通信エラー」のメッセージをズラリと並べている有様だった。
「通信エラー、だって……」
「同じことになってるよ、通信エラー、っていっぱい出てる」
システム障害が起きているのだろうか。崩れたホーム画面から「障害情報」のリンクを何とか探し出して、新規タブに開いてアクセスしようとする。けれどこっちは散々待たされた挙句、「500 Internal Server Error」が返されてしまった。
何か起きているけれど、何が起きているのかは分からない。じっとしてなんていられない状況だった。
また新しいタブを開いて、Twitterにアクセスする。こっちは正常にするする読み込まれたから、僕のネットワークが不調というわけではなさそうだ。
こっちのタイムラインを見ると、僕と同じようにjunc.ti.onにアクセスできない、不安定になっているという報告がぼろぼろ上がっていた。トレンドにも「junc.ti.on」が入っている有様で、全体的に様子がおかしいらしい。
「ちょっと、別の知り合いに確かめてみる」
まだ機能が生きているボイスチャットですばるにそう断ってから、今度はSkypeを立ち上げた。見るとフミコさんがオンラインになっている。フミコさんなら何か分かるかもしれない、そう思ってすぐにメッセージを送信した。
「フミコさん」
「プレアデスじゃん。どうかした?」
「junc.ti.on様子おかしくない?」
「おー」
「そっちもだったんだ」
「さっきから全然繋がんなくなっちゃったし」
「障害かな?」
「たぶん障害だよ それも大規模の」
「あっ」
「どうしたの?」
「さっきまでチャットできてた人が見えなくなった」
「マジで」
「今度はjunさんからだ。今ボイチャが切れたって」
ボイチャ……ボイスチャットが切れた。
その言葉に僕はハッとして、「大丈夫!?」と声を上げる。Skypeのウィンドウを後ろへ追いやって、Firefoxにフォーカスする。
「大丈夫、こっちはまだつながってるよ。でも、他の子はもう繋がらなくなったって言ってる」
「やっぱりそうなんだ、一体何が起きてるんだろう?」
いつもなら「一体何が起きてるんだろう?」とテキストログに記録されるはずだった。ところが、それが今回ばかりは違った。「一体何が起き」で記録が停止して、その後は何も画面に表示されなくなった。
テキストログの記録機能も停止した。時間を追うごとに接続がどんどん不安定になってきている。
(まるで……サービスが停止するみたいじゃないか)
無意識のうちにそんなことを思い浮かべていて、それの意味するところを理解して思わずハッとする。
junc.ti.onが停止してしまうということは、僕らがもう二度と、互いに言葉を交わせなくなるということに等しくて。
同じ時間を過ごせなくなる。そういうことを、意味していて。
「あっ……! 何これ、システムメッセージ……!?」
すばるの声に現実へ引き戻され、僕が画面を見やる。そこには赤いボールドの書体で、こんな警告が書かれていた。
『Error# 8002997F: Datastreamer Malfunction.』
『Error# 80036F7B: Inner Connection Timed Out.』
『システムメッセージ: スーパーバイザーからレベル0-シャットダウンが入力されました』
『Error# 8002F25C: Data is Corrupted.』
『システムメッセージ: レベル0-シャットダウン フェーズ1が開始されました』
『Error# 8002997F: Datastreamer Malfunction.』
『Error# 8003D971: Certification Server Stopped. Process Aborted.』
『Error# 8002F25C: Data is Corrupted.』
『システムメッセージ: レベル0-シャットダウン フェーズ1は異常終了しました。フェーズ2に強制移行します』
『Error# 80036F7B: Inner Connection Timed Out.』
システムが異常をきたしているのか、内部のエラーメッセージが僕らのセッションウィンドウに表示されている。
そしてその直後、ヘッドフォンから砂嵐のような音が聞こえてきた。
「もしもし? 聞こえてる?」
「まだ、なんとか……でもノイズがひどくて、聞き取るのがやっとで……」
ボイスチャットのサーバも停止しかかっている。とうとうここまで来てしまった。ここで彼女と接続が切れたら、もう二度と声が聞けなくなる。僕にはそう思えてならなかった。
遥か遠くのここにいる彼女も、同じことを考えていて。
「ここまで来て、二度と話せなくなるなんて……!」
「もう少し、もう少しでいいから、時間がほしかった!」
「もっともっと……たくさんのことを話したい、話したいのに!」
ノイズが混ざる中で、僕は全身全霊を傾けて、彼女の声を聞こうとした、聞き逃すまいとした。
彼女が声を上げた。
「私は君で、君は私で」
「同じで、同じ存在で、でも違ってて」
「私が、始めて好きになった人」
僕が声を上げた。
「僕はここにいる、君もここにいる」
「同じ場所にいるんだ」
「例え遠く離れていても、僕たちは同じ場所にいる」
力の限り叫んで、やっとお互いの声を届けることができる。それほどまでに通信環境は悪化していて、終わりがもうすぐそこまで近付いてきていることが感じ取れた。
システムの終わりが、僕らの終わりが、すぐそこまで近付いてきている。
「会いたいよ……会いたいよ!」
「一目でいいから、君に会いたいんだ!」
もう声はほとんど聞こえない。彼女にも声は届いていないかも知れない。
それでも僕は叫ぶ。彼女と繋がっている限り、少しでも声が届いている可能性がある限り。
「……! ……!」
ノイズの音が大きくなる。これ以上接続を維持できない、彼女と言葉を交わすことができなくなる。すばると話すことができなくなる。そんなの嫌だ! せっかくすばるに会えたのに、もう二度と声も聞けなくなるなんて!
すばるの他にはもう何も考えられない。すばる、すばる、すばる。彼女の名前が、僕と同じ彼女の名前が無数に浮かんでは消えていく。どうか最後に、彼女を名前で呼ばせてほしい。どうか最期に、彼女から名前で呼んでほしい。
僕の声が、彼女の声が、二人の「すばる」の声が完全に聞こえなくなる間際、僕らは――。
――僕らは。
「すばる『すばる』!!」
最愛の人の名前を、声の限りに叫んだ。
すばる。その言葉を最後に、耳障りなノイズがすべてを飲み込んでいって、彼女の声は聞こえなくなった。
やがて砂嵐も消えて、完全な静寂が僕をゆっくりと包み込んでゆく。
(すばる……今、すばるは確かに『すばる』って……)
僕は呆然としながら、彼女が最後に発した言葉が脳内でリフレインするに任せていた。
junc.ti.onのシステム全体が不安定になって、機能停止しかかっていたせいだろうか。最後の最後にプライバシー保護のための検閲機構が働かなくなって、すばるが僕を呼ぶ声が、僕がすばるを呼ぶ声が、そのまま伝わってきて、伝えることができた。
これで終わりなんだろうか。僕は諦め掛けて、いや、そうと決まったわけじゃない、と首を振る。
「……まだだ、まだ終わりじゃない。繋ぎ直すんだ……!」
タブを閉じて開き直した。junc.ti.onから応答はなく、タイムアウトした。
すべてのタブを閉じて、Firefox自体を再起動してからアクセスした。junc.ti.onというドメインは見つからない、そんなエラーメッセージが返ってきた。
バックグラウンドで動作させていたプログラムを片っ端から終了させて、システムを再起動する。それからもう一度アクセスを試みる。状況は何も変わらなかった。
スマホからアクセスする。Safariのエラー画面が表示される。
ネットワーク接続の修復を試みる。作業が終わった後再び接続を試す。サーバーが見つからない状況は変わらなかった。
hostsを再設定する。変わらない。コマンドプロンプトからIPキャッシュをフラッシュする。サーバが見つからない。無線LANルータを再起動する。繋がらない。モデムの電源を落として一分待ってからもう一度やり直す。
接続することは、できなかった。
「どうしようもないっていうのか……」
圧倒的で絶望的な徒労感と虚脱感に包まれて、僕は魂が抜けたような声で、最愛の人の名前を口にする。
「すばる……」
僕が発した言葉に答える声は、もう二度と、聞こえてくることはなかった。
翌日の新聞一面を飾ったのは、junc.ti.onの突然の閉鎖を報じる記事だった。僕にとってはとっくに分かっていたことで、今更という思いを拭えない。
junc.ti.onがサービス停止からの閉鎖へ追い込まれたのは、未成年の利用者が性犯罪に巻き込まれたというのが、一般的に流布されている理由だ。一般的、という注釈を付けたのは、あまりに唐突な終焉を迎えたために、たくさんの人がいろいろな憶測を流しているからだ。
新聞が報じたような、未成年者が犯罪に巻き込まれた事案が本当にあったのか。実際のところ、それさえも定かではない。
その後の続報によると、閉鎖からほぼ間を置かずにサーバーなどの機器類が根こそぎ押収されて、関係者が取調べを受けているという。僕としては、警察の取調べであのjunc.ti.onという得体の知れないWebサービスの全容が解明されるとは、あまり思えなかった。もしかすると、こういう異常な組織や個人を調査したりする、僕らの知らない秘密の機関があったりするのかも知れないけれど。
サービス再開の目処はまったく立っていない。経緯が経緯で、こんな形でサービスが終了してしまったから、おそらく再開されることは二度とないだろう。よその会社が同様の技術を持っているとも思えないから、類似のサービスが提供されることも期待できない。
あとはただ、このまま記憶から消えていくだけだろう。
「なんだったんだろうな、あれは……」
そして閉鎖から一週間が経って、大方の予想通り、もうほとんどの人がjunc.ti.onへの興味を失くしてしまった。
ニュースサイトの過去ログを辿った先にある、三日前、四日前の日付の記事をぼんやり眺めながら、僕は気力を失くしてほとんど何もできずにいた。一昨日鏡を見たら、そこにはあまりに生気のない顔が写っていて、これは誰だろうと驚いた。
他でもない、僕自身の顔だった。
(せめて、夢だったらよかったのに)
僕が長い長い夢を見ていて、その夢の中で彼女と会っていただけなら、単に切ない夢を見ていただけだと割りきることもできただろう。あるいは、女の子の自分と恋に落ちるなんてナルシストにも程があるなんて、笑い飛ばすこともできたかも知れない。
残念ながら、あの一連の出来事は夢でもなんでもない、紛れもなく現実だった。僕の手元には、junc.ti.onが確かにここに存在したということを示す、大小様々な記憶と記録が残っている。
Firefoxの閲覧履歴、そこへ記憶させたアカウントとパスワードの情報、junc.ti.onをフミコさんから紹介された時のTwitterのリプライ、機能しなくなったiPhoneのアイコン、最後の最後まで記録され続けたボイスチャットのログ、彼女とやりとりした手描き文字の画像。
そして……彼女から贈られた、あの一枚の写真。
(『すばる』)
最後に聞こえた彼女が僕を呼ぶ声が、明瞭に蘇ってくる。
気が付くと僕は写真をプレビューしていた。着装をきちんと整え、力強く弓を構えた、すばるの後ろ姿が写し出されている。写真を受け取った日から些かも色褪せずに鮮やかなままで、彼女と僕が確かに同じ時間を過ごしていたことを思い起こさせる。
別のウィンドウでもう一枚画像を開く。僕が彼女へ贈ったあのイラストだった。示し合わせたわけでもないのに、驚くほど似た構図と姿の少女が描かれている。自分をイラストにしてもらったらこんな風になると思う、すばるはそう言っていた。
(僕が彼女に渡すことができたのは……これだけだった)
本当はもっともっといろいろなものを、イラストだけじゃない、他にもたくさんのものを、すばるに渡したかった。そして、すばるからも受け取りたかった。
僕らの関係は、まだ始まったばかりだったのに。
これから始まるものも、たくさんあったはずなのに。
日暮里駅の近くを歩いていた。駅から少し離れると、途端に下町の色が濃くなる。東京にはそんな駅がたくさんあって、日暮里もまたその例に漏れない。
今、彼女は、すばるはどこにいるだろうか。僕と同じ存在だから、向こうの世界の日暮里駅近くを歩いていたりするのだろうか。
すばるが僕で、僕がすばるなのだとすると――きっと今も同じ場所にいるに違いない。
(願わくは、彼女が幸せな道を歩めますように)
僕が幸せになれば、彼女もまた幸せになる。僕が幸せな日々を過ごせるようになれば、それは彼女にとっても幸せな時間が続いていくことを意味する。僕は自分に繰り返し言い聞かせて、彼女と共に在ることを許されない悲しみを振り払おうとしていた。
けれど、と僕は疑問を浮かべて、すばるの上にはない空を見上げる。
(僕の幸せは……すばると共に在ることだったのに)
すばるの隣にいる。すばるが隣にいる。
僕は、それ以外の幸せを見つけられるビジョンを持てなかった。
(僕はここにいて、すばるもここにいる)
(僕が悲しいときは、すばるも悲しんでいて)
(すばるが喜んでいるときは、僕も喜んでいるだろう)
(僕らは繋がっている。決して解けないつながりで、永遠に繋がっている)
違う世界の、同じ存在。そのつながりは何よりも強くて、決して解けることはないだろう。
(けれど、どれだけ手を伸ばしても、すばるの手を取ることは叶わない)
僕らは二つ並んだ道を歩いている。平行な道を。どこまで行っても決して交わることのない道を。
互いの存在を知ることもなく、自分以外の自分が存在を知ることもなく、そのまま終着点まで、まっすぐに進んでいくはずだった。
交差点の上で僕とすばるが出会ったことは、僕らに何をもたらしたのだろう。
(僕の見ている空の下に、すばるはいなくて)
(すばるの見ている空の下に、僕はいなんだ)
ただ一度でいいから、この手で彼女の手を取りたかった。爪が食い込むほど、拳を強く握り締める。
その掌に、ひとしずくの熱い涙が零れた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。