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死にたがりのカノジョ

出会いはいつだって突然だ――そんなことを呟きたくなる状況に、僕は今立たされている。

「やっと……見つけましたっ」

不自然なほど強く輝く満月を背に、僕の眼前に仁王立ちする少女。特徴について説明したいことはたくさんあったが、それより優先して述べるべきこと。それは……

「これで……わたしの願いが叶いますっ」

彼女が左手に握り締めた、冷たい光を放つ包丁だった――。

 

何から話すべきかを考えた時、僕はまず、話の前提条件となる僕の委細について話しておくべきだと考えた。

僕は地方都市に住む高校二年生で、小さなアパートに一人で暮らしている。家事の類は自分ですべて行っていたから、同世代の普通の女の子よりも家事がうまい自信はある。一人で何でもこなすのが。慣れっこになっていた。

市内にある公立高校へ通い、演劇部に所属している。成績は上の下程度で、非行や暴力の類とは無縁。目立つことも無かったが埋没することも無く、クラスの中に文字通り「溶け込んで」いる。僕の立ち位置は、概ねそんなところだった。長々と記載はしたけれど、実際のところ取り立てて記すべきことは無かったりする。

僕の人物像をある程度述べたところで、本題に入ろうと思う。

演劇部での活動を終えて、学校から帰る途中の事だった。車の通る道を避け、人が歩く道を選んで歩いていた僕の目の前に、彼女は現れた。

「……えっとさ、まず……キミ、誰?」

口を突いて出たのは、そんな疑問だった。目の前の少女に見覚えは無く、記憶の片隅にすら存在していない。だからまず、彼女が誰なのかを知りたかった。

「わたしが、誰か……分かりませんか」

そんなこと言われたって、分からないものは分からない。少女は僕を見据え、妙に強い視線を向けてくる。

「わたしですよっ。あなたと深い関係がある、わたしですっ」

意味が分からない。だから、知らないんだって。向こうが何か強い思い込みを持っている上に、それでもって左手に鋭い包丁なんか握り締めているものだから、どう考えてもやばい状況なのは分かる。勘違いか逆恨みか、はたまたどこか螺子が飛んでいるのか。いずれにせよ、危機的状況であることは確かだ。

「ぼ、僕はキミなんて知らないよ。情けない話だけど、女の子と付き合ったことなんてないし……」

「そんなこと無いはずですっ。あなたは、ずっとわたしのことだけを考えてたはずですっ」

ホンモノだ。こいつはホンモノだ。かなり悪い意味で、ホンモノだ。重症とも言い換えられそうだ。

「じ、じゃあ、僕がキミだけを思ってたとして、どうしてキミから包丁を向けられなきゃいけないのさ」

「決まってます。これで、私の願いを叶えるためです」

包丁、向ける、願い。三つの定数から導き出される方程式の解は、

(……僕は、殺される)

以上、単純明快なものだった。

「さあ、そこから動かないでくださいっ。これから、わたしとあなたの願いを叶えるんですから」

「少なくとも、僕は願ってなんか無いっ」

「嘘ですっ! わたしには分かります。わたしがしようとしていることは、あなたの願いのはずです」

僕の脳裏に、「嘘だッ!」と見開いた目で主人公を睨み付ける、とあるノベル・ゲームのヒロインの姿が浮かんだ。ゲームの中ならともかく、現実にそれを想起させるようなシチュエーションに出くわすとは、思ってもみなかった。あれ、まだ解答編読んでなかったのに……

「ちょ、ちょっと待って! せめて、せめてこんなことをする理由を教えてよ!」

「理由? それは、あなたが一番よく知っていることです。わたしから話す必要は、ないと思ってます」

思われても困る。

「……頃合です。これで、みんな終わります」

「終わってるのはキミの思考だよ!」

彼女は僕のすぐ近くまでやってくると、据わった目を僕に向けた。神様、僕は何か悪いことを――ああ、そうだ。神様なんていなかったんだ。神様がいたなら、これよりもっと前にやるべきことがあったはず。やるべきことをしない神様なら、僕にはいないも同然だ。

「いいですか? わたしの覚悟はできてます。終わりに、しましょう」

「ち、ちょっと、まだ――」

そう言うと、彼女はぐっ、と包丁を構え、そして――

 

(とんっ)

 

「……えっ?」

「そうです。柄です」

「いや、そうじゃなくて」

僕の胸に向けて、ごく軽く包丁の「柄」の部分を当てたのだった。柄の部分を使って人を殺す? その反対側に、数百倍は効率がよさそうな部品がついているのに? というか、当て方からしてまるで殺意らしいものが感じられない。一体、どういうことなんだろうか。

「まあ、柄だけどさ……普通こういう時って、刃の部分を向けるものじゃないの?」

「何を言ってるんですかっ。刃の部分を向けて包丁を渡す人は、料理が分かってませんっ」

「料理云々は同意だけど……って、包丁を渡す?!」

ますます意味が分からない。女の子は僕に包丁を渡したいらしい。何の理由があるって言うんだ。

「そうです。あなたに包丁を渡すために、わたしはここで待ち伏せしてました……へくしゅっ!」

「こんなに寒いのに、制服のまま待ち伏せなんてするからだよ……」

季節は秋の終盤、冬の入り口。僕は薄手のコートを羽織っていたけれど、女の子は制服のブレザーを着ていただけだった。彼女は寒そうに身を震わせると、小さくくしゃみをした。くしゃみをする時はきちんと手で押さえている。常識があるのか無いのか、今の僕には理解できない。

「それで、僕に包丁を渡したとして、それでどうしてほしいのさ……」

「決まってます。あなたがその包丁を使って――」

 

「わたしを、殺すんです」

 

「……ごめん。僕演劇部だけど、この展開はいくらなんでも無いと思う」

「演劇部ですかっ。わたしも中学の時は……って、それは関係ないですっ」

ぶんぶんと頭を振って、女の子が無理やり話を本題に戻す。

「無茶苦茶だよ! いきなり目の前に現れたと思ったら、『包丁で刺し殺してください』なんて、どう反応すれば良いのさ?!」

「あ、刺し殺すのがだめなら、切り殺してくださっても結構です」

「いや、殺し方の問題じゃなくて!」

包丁で切り殺すのはちょっと難しそうなどといらん想像をしつつ、僕は女の子が矢継ぎ早に繰り出す理解不能な展開の数々にすっかり参っていた。

「そういわれても、キミの言うことを聞くわけには行かないよ。僕はキミを殺す理由なんかないし」

「そんなこと無いはずですっ! あなたは、ずっとわたしを殺したいと思っていたはずです!」

「思ってなんか無いよ! 大体、キミが誰かも分からないのに、どうやって殺したいなんて思うのさ……」

「今に分かります。今は平静を装っていても、内心は殺したい刺したいヤりたい気分でいっぱいのはずですっ」

「最後のはちょっと違う気がする!」

まあ、当てる漢字次第だけど。

「あ、お望みとあらばネクロもおっけーですよ?」

「キミがオッケーでも僕は全然興味ない」

もうやだこの女の子。

「とにかく、僕はキミを殺せないよ。何のかかわりも無いんだし」

ごく当然のことを主張する。だいたい、こんな珍妙な子を包丁で刺し殺したりなんかして、僕が前科者にされるのは真っ平ごめんだ。

「……そうですか! 分かりました。じゃあ、今日は引き上げます」

「うん……助かったよ。お互い、早く帰った方がいいよ」

包丁を彼女に返却すると、僕は取り落としていたカバンを拾い上げた。

「もう二度とこんなことはしないでよ。僕だって、どうすればいいか分からないんだから……」

「勘違いしないでください。わたし、諦めたわけじゃありませんから!」

「さっさと諦めてよ……」

女の子は白い布で包丁をくるくると包んでから、カバンの中にしまいこんだ。やれやれ、これでやっと帰れそうだ。

「じゃ、わたしは帰ります。夜道に気をつけてくださいね」

「僕、キミにだけはそんなことを言われたくない」

へとへとになった体を引きずり、進行方向に向かって歩き出す。

「絶対っ、絶対諦めませんからーっ!」

もう答えるのも面倒くさい。僕は無言のまま、その場から立ちさった。

(こんなこと、もう二度とごめんだ……)

頼むから、こんなことはもう起こらないで欲しい……僕の小さな、しかし切な願いは――。

 

「見てください! よりどりみどりですよっ」

「選べないし、選ばないよ! 自殺のための薬なんて!」

まったく、叶う気配は無かった。

「大丈夫ですっ。どれもこれも、一撃で地獄行きですから」

「そんなことを嬉しそうに言う人、初めて見たよ……」

次の日の昼休み。女の子は僕のクラスまでわざわざやってくると、どこから調達したのだろうか、山のような薬瓶を抱えてきた。薬瓶を抱えて「自殺のための薬を選んでください」などと口にする同級生の女の子。常軌を逸しまくったこの光景を前にしたクラスメートたちからの視線が、たまらなく痛い。僕のせいじゃないってのに。

「どれを選んでもいいんです。そうすれば、あなたは幸せになれますっ」

「今この瞬間が、僕の人生の中でも五指に入るくらいの不幸な瞬間なんだけど」

「そんなことありませんっ。もうすぐ、あなたの願いが成就するんですから!」

「僕が薬を選んで、キミが目の前で死ぬことの、一体どこが僕の願いなのさ……」

相変わらず、この子は話がかみ合わない。本当に螺子が飛んでいるような気がしてきた。僕はもう関わり合いになりたくないのに、女の子は嬉々として「殺してください」などとのたまう。僕は一体どうすればいいんだろう。

「とにかく、僕は選ばないよ。僕が選ばなきゃ、キミは薬を飲まないんだよね?」

「通常はそうですけど、オプションでわたしが選んだ薬を自分で飲む、というのも完備してます」

「完備しなくていいよ! そんな物騒なオプション!」

大体、そんなオプションがついているなら、最初から自分で全部完結させて欲しい。僕を巻き込まないで欲しい。

「どうしても、選んでくれませんかっ」

「選ばない。何と言われても、僕は選ばないよ」

「……そうですか! 分かりました。では、わたしが自分で選んで飲みますっ。オプション発動ですっ」

「えっ?! ち、ちょっと!」

女の子は薬瓶の山から一つの瓶を選んでむんずと掴むと、瓶のふたに手を掛ける。

「……んっ! くっ……」

「……………………」

手を掛けたのは良いが、開かない。

「く~っ……! ふっ……!」

「……ちょっと」

開かない。

「うぅ~っ……! ぬおぉ~……!」

「……あのさ」

相変わらず、開かない。

「……ぷはぁっ! はぁ、はぁ……は、はい、なんでしょう……」

「……開けてあげるから、ちょっと貸して」

「あ……はい……」

あまりにも哀れだったので、せめて瓶のふたくらいは開けてあげることにした。これくらいやっても、罰は当たらないだろう。「殺人幇助」に当たるかもしれないけど、もうどうでもいいや、正直。

「……よしっ。ほら、開いたよ」

「ありがとうございますっ。では、一思いにっ!」

女の子はご丁寧に瓶のふたを受け皿にして、瓶から錠剤を一つ取り出した。錠剤はこげ茶色をしている。毒薬というより、むしろ漢方薬のような装いだ。

「さあ、見ててくださいっ! わたし、これから死にますからっ!」

「声が大きいよ、声が……」

瓶のふたを口に押し当て、女の子が薬を口に含んだ。

「……………………」

「……………………」

ごくり、という音が聞こえた。薬を飲み込んだ音だ。

「……………………」

「……………………」

さあ、何か反応があるか……僕は固唾を呑んで見守る。女の子も目を見開いて、真剣な面持ちだ。

「……………………」

「……………………」

……これといって反応はない。女の子の表情にも、変化は見られない。

「……………………」

「……………………」

……そろそろ何かあっても良いような気がするけど、どうしたんだろうか……。

「……はうっ?!」

「……!」

気が抜けかけた直後、女の子が驚きの表情を浮かべた。それと同時に、額にじわり、と汗が浮かぶ。心なしか、顔色が青白くなっているような。

「ど、どうし――」

「す……すみませんっ! わたしっ、ちょっとお……お花を摘みにっ!」

「ええっ?!」

顔面蒼白の彼女はすごい速さで椅子を引いて立ち上がると、お腹を抱えて教室から脱走していった。僕はまるで事情が飲み込めず、駆けていった女の子を呆然と見つめるばかりだった。

「お花を摘みに、って……」

少しした後、彼女が持ってきた薬瓶の山に目を向ける。その中から、僕がふたを開けた例の瓶を手に取った。

「……『岩のような便秘も溶岩の如く!』……ってこれ、便秘薬じゃないか……」

女の子が飲み込んだのは、漢方薬タイプの便秘薬だった。キャッチフレーズが些か勇ましすぎる気がするのはともかくとして、こんなのを飲んだらどうなるかは火を見るより明らかだ。多分今ごろ、彼女は大変な目に遭っていることだろう。

「……でも、これじゃ死ねないよね……」

大変な目に遭っていることは想像できたけど、これを飲んだだけで死ぬことは無理な気がする。全部一気に飲んだとかならともかくとして、彼女は一つ飲んだだけだ。最初から死ぬ気があったのか、甚だ疑わしい。

「……………………」

いつまでもこうしてはいられない。ここを片付けておこう。僕は机の上に並べられた薬瓶を取りまとめ、あの子が薬瓶を包んで持ってきた風呂敷に乗せると、風呂敷を結んでひとまとめにしておいた。これで、彼女もすぐに教室へ帰れるだろう。

「まったく、人騒がせな子だよ……」

風呂敷を床に下ろして、僕は一息入れた。

――それから、およそ十分後。

「はー……はー……ひー……」

「お疲れさま。具合はどうだった?」

「は、はいっ……思わず、どどーんと噴火するキラウエア火山が脳裏を……」

キャッチフレーズは伊達ではなかったようだ。即効性で超絶破壊力。漢方の威力をまざまざと見せ付けられた格好だ。女の子は息も絶え絶え、死亡寸前である。いや、死ぬことを考えていたなら、これは失敗な気がしないでもないけど。

「ぜー……はー……ぜー……ぜ、全部出ちゃいました……」

「大丈夫? えらくげっそりしてるけど」

「な、なんとか……たぶん、だいじょうぶ、です……」

目の下に隈を作り、頬を痩せこけさせながら答える女の子。左手で風呂敷包みを持ち上げ、よろよろと立ち上がる。もう一方の右手は、先ほどまでマグマ溜まりになっていたであろうお腹に当てられたままだ。

「はぁ……はぁ……ふぅ……」

「……………………」

全身でびっしょり汗をかき、呼吸を乱す女の子。何から何まで自業自得とはいえ、なんだか可哀想になってきた。

「……これ、あげるよ」

「……えっ?」

カバンから水入りのペットボトルを取り出すと、僕は彼女に差し出した。

「水分が足りなくなってるはずだから、水を飲まないと倒れちゃうよ。冷たい水を飲むとお腹がびっくりしちゃうから、常温の水のほうがいいよ」

「で、でも……」

「大丈夫。これは朝のうちに買ったから、もう常温になってるよ。でも、一気飲みはだめだよ。ちょっとずつ飲まなきゃ、また出ちゃうからね」

風呂敷包みの結び目にペットボトルを差し込むと、僕は女の子にそれを持たせた。

「あ、あの……」

「そろそろ戻らないと、授業が始まるよ」

「あ……はい……」

そう言われると、女の子は荷物をまとめる。

「そ、それでは……」

妙に深々と一礼して、しずしずと教室から出て――

「……はうっ?!」

「……………………」

――いこうとしたところ、第二波が訪れたようだった。腰を折り曲げ、お腹に当てた手が食い込む。ぐるるるる、という不快で不吉で不気味な音が、女の子のお腹から響いてきた。

「こ、この作戦は……だ、大失敗でした~っ!!」

謎の捨て台詞を残しながら、女の子は目的地目指して脱兎の如く駆けていった。目的地がどこかは、言うまでもない。

「つ、次こそは……必ず、必ず殺してもらうんですから~っ!」

まだ諦めないようだ。僕の苦難は続く見込みである。

 

――翌日。

「見てください! 屋上ですよ屋上っ! ここなら、確実に死ねますっ!」

「だから、なんで僕を巻き込むのさ?!」

下足箱に入れられた「放課後に屋上まで来てくれ」という内容の手紙。大方何が起こるか予想はついていたけれども、放っておくのも気持ち悪いので律儀に来てみたら、案の定の光景が広がっていた。案の定過ぎて、逆に驚いてしまったくらいだ。

「昨日は失敗しちゃいましたけど、今日は大丈夫ですっ!」

「ちなみに、昨日失敗した理由は?」

「はいっ! 毒薬セットと間違えて、漢方薬セットを持ってきてしまったからですっ!」

「持ってくる前に確認しようよっ!」

論点はそこではないと知りつつも、突っ込まずにはいられない。

「でも、今日は確実ですっ! あなたが、わたしを突き落とすだけですからっ!」

「断るよそんなの! どうして僕に人殺しをさせたがるのさ!」

「人殺しじゃありませんっ! これは、復讐ですっ!」

「はぁ?!」

もう意味が分からない。僕が誰に復讐する必要が? ましてや、あの女の子に復讐する必要性など微塵もない。本格的に頭が痛くなってきた。

「さあ、後一押しですっ! これで、あなたの願望がかないますっ!」

「絶対に断るっ! そんなとこに立ってないで、さっさと降りてきなよ!」

女の子は屋上の小さな段上に立ち、こちらを見据えていた。強い風が僕と女の子に吹き付け、髪や服をしきりに揺らす。女の子の、青いリボンが結ばれた黒髪のポニーテールが揺れているのが見えた。

「じゃあ、ここから飛び降りますっ!」

「分かった分かった! そっちに行くから、ちょっと待ってて!!」

どうにか女の子を繋ぎとめると、僕は小走りに彼女の元へ駆け寄った。

「いよいよですっ! やっと、待望の時が訪れました!」

「こっちに来たけど、僕は突き落としたりしないからね!」

吹きすさぶ風が、言葉を千々に吹き飛ばす。おかげで、お互い声を張り上げなきゃいけない状況だ。

「どうしてですか! 一思いにやっちゃえば、楽になれますよ!」

「人殺しなんかしでかして、楽に生きてけるわけないよ!!」

「……! そ、それは……」

女の子が何か言いかけた――その直後。

「……きゃぁっ?!」

「うわっ?!」

一陣の強い風が、僕と女の子の間を吹きぬけた。女の子が、風にもてあそばれそうになった制服のスカートを慌てて押さえる……けれども。

(……いちご……)

……その風が……僕に、何かいけないものを見せたような気がした。いけないというか、見られたら末代までの恥だろう、というようなものを見てしまった気がする。気がした・気がするというか、見た。見てしまった。間違いない。僕は、見てしまったのだ。

「あ、あ、あ……わぁぁっ!?」

「って、危ないっ!」

スカートを押さえるために体を前に傾けた結果、女の子がバランスを崩す。そのままこちらに向かって倒れてきたのを、僕が少しよろめきながら抱きとめた。

「あ、あぁ……」

「だ、大丈夫? 怪我はない?」

「は、はい……ありがとう、ございます……」

僕は女の子を抱きかかえて――彼女の躰は、思いのほか軽かった――、屋上の安全なところへ降ろしてあげた。強く吹き付けていた風が幾分弱まり、僕たちは普通に話ができるようになった。

「向こうに倒れるつもりが、こっちに倒れちゃいました……」

「結果的には、それでよかったんじゃないかな……」

向こうに倒れていたら、今ごろ下には無残な死体が一つ転がっていただろう。そうならなかっただけでも、御の字だ。

「いい? こんな危ないことしちゃダメだよ。今回はこっちに倒れたけど、向こうに倒れてたら冗談じゃ済まないんだから」

「……………………」

「それに、こっちに倒れるにしたって、あのままじゃ顔面をコンクリートに直撃させるところだったんだよ。分かってる?」

「はい……」

強く諭すと、女の子は少ししゅんとした表情を浮かべた。普通なのか普通じゃないのか、もうさっぱり分からない。これっきりにして欲しい。

「今日はもう遅いから、早く帰らなきゃダメだよ」

「は、はい……」

女の子は佇まいを直すと、体をパタパタと叩いた。

「……あの、一つ質問してもいいですか」

「なに?」

立ち去ろうとした僕に、女の子が質問をしたいと申し出た。僕は立ち止まり、彼女の目を見つめる。

「今……その、何か食べたいものとかありますか?」

「食べたいもの? そうだね、いちご、とか……」

「……………………」

「……あっ」

……まずい。頭の中に思い浮かべていたことを、何の考えもなしにそのまま言ってしまった。

「……見たんですね」

「いや……その……」

「わたしの……いちごぱんつを……」

「あー……うん……見たというか、見えたというか……」

この直後。

「……うわーんっ! 見られたーっ!!」

「し、しまったー!」

すべてを察した女の子が、顔を真っ赤にして泣き始めた。しまった、なんて言ってみても後の祭り。もう、どうしようもない。言ってしまったものは、言ってしまったのだ。

「み、見たんですねっ! やっぱり、見えたんですねっ?!」

「……ごめん。悪気はなかったんだけど……」

「み、見られた……わたし、もうお嫁にいけませんっ……」

そんなこと言われたって、僕だってどうしようもない。

「……あ、あのさ……」

「……ぐすっ、分かりました……もう、覚悟を決めます」

「……はぁ?」

「わたしも、この後どうなるかは、わかってます……」

意味の分からない展開に、僕は首をかしげる。

「これからわたしは、あなたの夜のおかずになるんですね……」

「はぁ?!」

首をかしげたところ、もっと訳の分からないことをほざかれた。

「きっと、夜な夜なスカートがめくれるシーンが再生されて、わたしは顔を赤くするんですっ」

「ち、ちょっと……」

「布越しにいじられて、わたしはそんなので感じちゃうヘンタイさんにされて、そのまま押し倒されて、はうあーっ! なことになるんですっ」

「何言ってるのか一ミリも分かんないよ!」

「それで、わざと穿かせたままやることやって、たっぷり汚した後、わたしのことは遊びだったって言うんですっ」

「どうしてそこまで妄想できるのさ……」

「どうするんですかっ。責任とってくださいっ」

「どうやって取るのさ?!」

どうしようこの子。病院をここに建てるしかない気がする。しかも特殊な病院を。

「分かりました……おかずにするときは、せめて和やかなほうでお願いします……」

「どっちにしても、そんなことしないし、する気もないよ……」

「強行突入は、できればやめてください……」

「しないって言ってるのに?!」

こんなヘンな子をおかずにするほど、僕もおかしくなっちゃいないと思いたい。

「じゃあ、僕は帰るからね。キミも早く帰りなよ」

「分かりました……今晩は、じっくり楽しんでください……」

「楽しまないよっ」

もうやだこの女の子。僕の人生をどうしたいんだろう。

「せめて、痛くしないでくださいねっ」

「別の意味でしないっ」

どうしようもない女の子は放置して、僕は屋上から立ち去った。

 

――翌日。

「今日は安全確実、失敗のない殺し方を提供しに来ましたっ」

「いらないよ! そんなの!」

お昼休み。持参したお弁当を食べようとした矢先に、また女の子が現れた。例によって僕に自分を殺して欲しいらしい。僕もそろそろ疲れてきた。

「心配ご無用です! 今回は、絶対に失敗しませんから!」

「失敗してくれたほうが、騒ぎにならなくて助かるんだけど」

「ふふふー。そう言わないでください。それより、見てくださいっ」

女の子は僕の呟きを無視して、近くにあった手ごろな椅子を引き寄せてちょこんと座ると、持ってきた小さなお弁当箱を広げた。女の子に促され、僕がお弁当箱の中を覗き込む。

「サンドウィッチ、か……」

「はい。これで、わたしもイチコロですっ」

女の子が持参したのは、サンドウィッチがつめられたお弁当箱だった。具が彩りよくつめられていて、なかなかセンスを感じる。

「で、これでどうやってキミが死ぬのさ」

「簡単です。実はわたし、ピーナッツアレルギーなんですっ」

「アレルギー、ね……」

「はい。それで、このピーナッツバターサンドを食べれば、確実にショック死するという寸法ですっ」

にこやかにサンドウィッチを一つ取り出し、天高く掲げる女の子。なんだろうな、これで言動や行動がまともなら、結構可愛かったはずなんだけど。

「というわけで、食べさせてくださいっ」

「断るっ。いい加減にしてよっ」

「どうしてですかっ。これを食べさせるだけで、あなたの願いが叶うんですよっ」

「だいたい、僕の願いって何なのさ! 僕自身が分かってないのに、なんでキミに分かるんだい?!」

そう、そこが分からない。彼女は「自分が死ねば僕の願いが叶う」と言うけど、僕にはそもそも願いらしい願いがない。ましてや、女の子が死んで叶う願いなど、思いつくはずもない。だから、彼女の言っていることがまったくかみ合わないのだ。

「とにかく、食べさせてくれればいいんですっ。お願いしますっ」

「分かったよ……キミが倒れたら、保健室にでも担ぎ込むからね」

すぐに処置すれば、どうにかなるだろう……ならなかったとしても、彼女の望んだことだ。僕は諦め半分開き直り半分で、ピーナッツバターが挟まれているというサンドウィッチを手に取った。

「ほら、口を開けて」

「はいっ、あ~ん……」

「……………………」

僕の脳裏に、「バカップル」という死語が思い浮かぶ。内情は異なるが、外面を見れば「年頃の女の子が男の子にご飯を食べさせてもらっている」という、甘々の光景以外の何物でもない。彼女の支離滅裂さ、状況の意味不明さすべてをひっくるめて、僕は情けない気持ちになった。

「……ぱくっ」

サンドウィッチを半分ほど齧って、女の子が口に含む。そのまま口の中でもぐもぐし始める。

「……………………」

「……………………」

例によって、女の子はこれと言った反応を見せない。アレルギーって、触れただけで即反応が出るとか、そういうものじゃなかったっけ? 僕はそんな疑問を抱きながら、彼女の様子を見守った。

「……………………」

「……………………」

まだ反応はない。一体、どういうことなのだろうか。僕はすぐにでもひっくり返ると予想していただけに、戸惑わざるを得なかった。そして、それは女の子も同じようだった。

「……(ごくん)」

「……どうだった?」

「……えっと、全然大丈夫です……」

「……………………」

僕は、半分ほど残ったサンドウィッチに目をやると、

「……(ぱくっ)」

「……あっ」

なんとなく、それを食べてみることにした。小さく呻く彼女は放っておいて、口の中で咀嚼する。

「……………………」

何度か噛み砕いてから、おもむろに飲み込んだ。そして、僕が下した結論。

「これ、ツナマヨだよ」

「ええーっ?! そんなーっ!」

入っているものが全然違っていた!

「ど、通りで塩辛いと言うか、お魚の味がしたというか……」

「何をどうやったら、ピーナッツバターとツナマヨを間違えられるのさ……」

「はわわ……きっと、色がよく似てたから、挟む時に間違えちゃったんです……」

こんなにお間抜けな展開も珍しい。彼女はピーナッツバターとツナマヨを間違えて挟み、学校に持参してきたというのだ。彼女が一体何を考えているのか、僕には分からない。分からないし、分かりたくもない。

「ご、ごめんなさい……こんな、間違えちゃうなんて……」

「もういいからさ……お昼休みだし、お弁当を食べたほうがいいよ」

「あ、はい……」

彼女は素直に頷くと、残りのサンドウィッチを手に取った。僕も開きかけていたお弁当箱を開いて、おもむろに手を付ける。

「ちなみに、他にアレルギーはないの?」

「はい……ピーナッツだけは、どうしてもダメで……」

「体質だから、仕方ないよ」

気がつくと、僕と女の子は日常的な会話をしていた。死ぬとか殺すとか死なすとか殺されるとか、そういった単語が出てこない、ごく普通の会話だ。

「……あ」

「どうしたの?」

「えっと……その、鶉の卵を煮たものと、わたしのたまごサンド、交換してもらえませんか?」

「いいよ。はい」

「ありがとうございます」

……なんだろう。こういう時は、おとなしい普通の女の子なんだけど、なんであんなにも死にたがるんだろうか? まあ、本人がことごとく失敗してるから、それもどこまで本気かは分からない。

「これ、おいしいです」

「たまごサンドも、なかなかいいよ」

結局、この後は自殺に関わるやり取りはなく、彼女はお弁当を食べ終えると、すごすごと撤退していった。

 

――明日は週末、金曜日。心躍る、花の金曜日。

「ぜ~ったい死ねますっ! 今度は間違いありませんっ!!」

「もういい加減にしてって言ってるんだけど?!」

そんな僕の思いは、死にたがりの女の子の登場でもろくも打ち砕かれた。今度の舞台は裏庭だ。もう勘弁してくれ。放課後なんだし、帰らせてくれてもいいじゃないか。

「で、今日は何をする気?」

「見て分かりませんかっ。これですっ。これを使いますっ」

どん、と彼女が地べたに置いたもの。それは、

「……灯油?」

「はいっ。灯油ですっ」

灯油が入っていると思しき、大きなポリタンクだった。見ただけで、次に彼女が何を言い出すか、大体分かった。そして、僕はまたため息をつく。

「……今日はそれを被って焼身自殺、ってとこ?」

「お見事ですっ。その通りですっ。こうすれば、確実に死にますっ!」

「そりゃそうだけど……」

女の子は嬉々として灯油入りポリタンクのふたを開け(今日はふたをゆるめに締めてきたようだ)、準備を整える。

「そして! ほいっと!!」

「……おっと」

「それで、火をつけちゃってください!」

「……なんで僕に殺させようとするのさ?!」

僕にマッチを投げ渡すと、女の子は「火をつけてください」とせがみ始めた。冗談じゃない、下手をこけば、自分も焼け死にかねない。

「今回は問答無用です! 灯油を被りますから、後はよろしくお願いしますっ!」

「ち、ちょっと……!」

女の子はポリタンクをむんずと掴むと、一思いに上から灯油を被った。

(ばしゃーっ!)

思いのほか軽い音がして、彼女が液体にまみれる姿が見えた。

「……………………」

飛んできた飛沫は、大方の予想通り、とても冷たかった。

「……ち、ちべたい……! さ、さぁ、これで、準備かんりょ……はくしゅっ!」

「……なんか、えらく寒そうだね」

「は、はい……こ、今年の灯油は、つつ、つめたい、みたいですっ……」

灯油って年毎に温度が変わるとか、そんな性質持ってたっけ? まあ冷静に考えて、今回もどこか間違えているのだろう。女の子はがたがた身を震わせ、寒さを堪えているようだった。

「なんか、灯油の臭いとか全然しないんだけど」

「そ、それは……ききき、きっと、無臭灯油なんで……くしゅんっ!」

灯油が灯油である限り、無臭と言うのはありえない気がする。

「さささ、さぁっ! ひひっ、火を、つけて……へーっくしっ!」

「まあ、やるだけやってみるけど……」

マッチ箱から一本マッチを取り出し、しゅっ、と火をつけた。僕は彼女に当たらないように、水たまり――じゃなかった、灯油だまりになっている場所に、火のついたマッチを投げつける。

「それっ」

小さな火をともしたマッチは放物線を描き、水たまり――違う違う、灯油だまりに突っ込んでいく。そして……

(じゅんっ)

無情にも、希望の炎は消えてしまった。これが灯油なら、勢いよく燃え盛るはずなんだけど。

「……燃えないね」

「は、はひっ……ぐすっ……」

「……キミが被ったの、ホントに灯油?」

「え、えっと……くしゅんっ! も、もしかすると、ただの、お水かも知れま……へくしゅっ!」

もしかしなくても、確定でただの冷たい水だ。

「ま、また……間違えちゃった……みた……へぷしゅっ!」

「うん。言わなくても分かるよ……」

「い、いまのわたち……み、みじゅも滴るいい女……ひぇーっくしっ!」

「そのくしゃみだけで、百年の恋も冷めるよ」

この期に及んで冗談を言えるとは、なかなか根性が据わっている。

「もうすぐ冬だってのに、水を被って風邪でも引いたら大変だよ……」

「そ、そうです、ね……くしゅっ!」

「……やれやれ」

このままだと、本当に風邪を引いてしまう。僕はため息を一つついて、カバンを地面に下ろした。

「……ほら。着て帰りなよ」

「……え?」

「そのまま風に当たったら、本当に風邪を引くよ」

僕は着ていたコートを脱ぐと、彼女に手渡してやった。寒さに震えた彼女が、きょとんとした面持ちで僕を見やる。

「それと、これも」

「あ、タオル……」

「少なくとも、髪はよく拭いたほうがいいよ。じゃないと、体全体が冷えちゃうからね」

続けて、カバンから雨に濡れた時用のタオルを出してやる。さすがに、目の前で風邪を引かれるのは気分が悪いからだ。

「あの、コートとタオル……」

「来週に返してくれればいいよ。換えは、僕の家にちゃんとあるから」

「は、はい……」

「帰ったら熱いシャワーを浴びて、きちんと体を乾かすこと。いい? 守れる?」

「……はい。ありがとう、ございます……」

女の子はびしょぬれの体にコートを羽織り、頭の上にタオルを乗せてから、ポリタンクを手にとって歩き始めた。

「……はぁ。僕もどうして、こんなに人がいいんだろう……」

不思議な感覚だった。あの子は僕に迷惑ばかりかけているというのに、僕は何故か彼女を手助けしてしまう。その理由が僕自身にも分からなくて、少し歯がゆかった。

「……そうだ。多分、髪型がよくないんだ」

はっと思い立って、僕は顔を上げた。そう、あの髪型は――

「……明日は、いつもより少し早めに出かけよう。そろそろ、お花も変えてあげなきゃね」

僕はカバンを取り直し、女の子が作った水たまりを避けてから、裏庭を後にした。

 

――土日を挟んで、月曜日の放課後のことだった。

「今度は空き教室か……」

放課後、僕は下足箱に入っていた「空き教室に来て欲しい」という(女の子文字の)手紙を受けて、僕は馬鹿正直に空き教室を一つ一つ覗いていった。

四つ目の空き教室に入った時、僕の視界が一気に暗くなった。

「あっ、来ましたねっ。ちょうど準備ができたところです」

「準備って……うっ、けほっ……」

白い煙がもうもうと立ち込めている。窓という窓を締め切り、教室で何か煙を立てるものを弄っている。僕が少々涙目になりつつ目を凝らすと、教室を白く染めているものの正体に気がついた。

「……一つ、質問させて」

「はいっ。なんですか?」

「学校に七輪を持ち込んだ方法を教えて欲しい」

……七輪。彼女は椅子に腰掛け、机の上に七輪を置くと、そこによく脂の乗った美味しそうな秋刀魚を二匹載せ、真っ赤になった炭火で焼いていたのだ。煙の正体は、ここにあった。この空き教室は古いせいか、火災報知器が付いていない。煙にも反応しないようだ。

「はいっ。クーラーボックスに入れて、部活動の飲料水を偽装してきましたっ」

「うん。無意味に用意周到だね」

訳の分からないところで、巧妙な手を使う。

「七輪で煙を立てるのはいいけど、それでどうするわけ?」

「簡単ですよー。窓を閉め切って煙を立てて、練炭自殺というわけですっ」

「ちなみに、炭の種類は?」

「もちろん、最高級の備長炭ですっ。秋刀魚は、近海で取れた一級品ですっ」

「……………………」

七輪の中の備長炭は真っ赤に燃え上がり、これぞ完全燃焼という燃え方をしている。

ちなみに、練炭で自殺するためには不完全燃焼が必須だ。ついでに、備長炭は練炭ではない。木炭だ。

「……………………」

さらに致命的なことに、教室の換気扇は絶好調で回っていた。窓は頑張って締め切られているが、換気は十分行われるだろう。

「さあ、後は待つだけですっ。そこにある酸素ボンベをつけて、わたしが死ぬのを見ててくださいっ」

「あー……うん、わかった」

ぱたぱたと楽しげに内輪で七輪を仰ぐ彼女を、僕は入り口に近い席で見守ることにした。酸素ボンベを申し訳程度につけて、彼女の様子を眺める。

「ぱたぱた~、ぱたぱた~」

「……………………」

「窒息するぞ~、酸欠になるぞ~」

「……………………」

「ぱたぱた~、ぱたぱた~」

「……………………」

「倒れるぞ~、意識が遠のくぞ~」

うちわで扇いでいるおかげで、煙が益々換気扇に吸い込まれていることは、僕はあえて指摘しなかった。

……それからおよそ十五分後。

「……秋刀魚が焼きあがってしまいました」

「うん……これは美味しそうだね」

彼女は当然の如く倒れることもなく(気分すら悪くしていない)、いい具合に焼き色の付いた美味しそうな秋刀魚が二匹完成した。近海で取れた旬の秋刀魚を、最高級の備長炭を使って七輪で焼いた。字面を見ただけでよだれが止まらない。ビバ完全燃焼。僕は酸素ボンベを外して、彼女の机まで歩く。

「うぅ~、こ、こんなはずでは……」

「まあ、いいんじゃないかな、別に。せっかくだから、食べようよ、これ」

「あ……はい。大根おろしも作っておきました。作り立てです」

「気が利くね」

彼女はお皿とお箸を二そろい(彼女が死ぬつもりだったなら、何故二つ用意したのだろう?)用意すると、焼きたての秋刀魚を丁寧にお皿へ盛り付け、傍に大根おろしをちょこんと載せた。ことん、と優しくポン酢の小瓶を起き、僕と女の子が向かい合う。

「ど、どうぞっ」

「うん。いただきます」

「わたしも……いただきますっ」

何の因果か。空き教室で、女の子と向かい合い、焼きたての秋刀魚を食べることになってしまった。

(……まあ、いいか。なんだか、こういうのも悪くない)

不思議なことに、僕は子の意味不明にして理解不能な状況を、「意味不明で理解不能だけど、これはこれで別に構わない」と受け入れていた。教室には誰も来ないし、目の前には最高の秋刀魚が横になっている。こういうのは、身を任せてしまうのが一番だろう。

「ど……どうですか?」

「おいしいね。秋刀魚が良いのはもちろんだけど、焼き加減が絶妙だよ」

「あ……ありがとうございますっ」

「キミ、料理上手だね」

「そ、そんな……家に一人で住んでますから、全部、自己流です……」

「自己流でここまでできるなら、大したものだよ」

「お、お粗末さまです……」

彼女が僕に付きまとう理由は異常、今二人で空き教室にいるという状況は異常、そしてそこで秋刀魚を食べているという行為が異常。異常・異常・異常、異常のオン・パレードの中で、その渦中にいるはずの、そのすべての仕掛け人であるはずの彼女の仕草だけが、際立って自然に見えた。

「キミって、どうして死にたがるの?」

「それは……その、あなたのためです」

「ちょっと和んだ今なら聞き出せそうだと思ったんだけど、答えは変わらないね」

「えと……はい。それが、わたしのすべてですから……」

小さな手できちんと箸を繰り、上品に秋刀魚をほぐす。ほぐした身を少し冷ましてから、ポン酢をまぶした大根おろしを載せて、そっと口へと運ぶ。

どうしてだろう。彼女が、僕に殺されたがるのは。そこが分からない。僕が彼女を殺す理由はないし、彼女が僕に殺される理由もない。けれども彼女は僕に殺してもらおうと、もう都合六日間、僕に付きまとい続けている。

「……………………」

「……………………」

僕たちは秋刀魚を食べ終えると、一緒に後片付けをして、その場で別れた。

 

――一日明けて、二日後。

「さて、今日はどうするつもり?」

「はいっ。今日こそは、という意味を込めて……自殺の定番・首吊りですっ」

校舎裏の雑木林に呼び出された僕は、そこで木の枝に縄を引っ掛け、踏み台にちょこんと乗っかっている女の子の姿を発見した。シチュエーションからして首吊りだろうと思っていたが、本当に首吊りだった。もう驚く気もしない。

「今回は準備万端なわけ?」

「もちろんですっ。木の枝は折れにくいのを選びましたし、踏み台は新しく買ったばかりですっ。あと、できるだけ綺麗に死にたかったので、この前の秋刀魚から何も口に入れてませんっ」

「つまり、ほぼ二日絶食中、ってこと?」

「はいっ。ついでにこの前のお薬を飲んで、出せるものはみんな出しておきましたっ」

ぺちゃんこになったお腹をぱたぱた叩きながら、女の子は自慢げに胸を張った。なるほど、準備は万端だ。でも、今回も失敗するだろう。僕には確信があった。

「それで、僕は何をすればいいのかな?」

「簡単です。わたしが首を吊った後に、椅子を蹴っ飛ばしてください。そうすれば、わたしがぶらーんとぶら下がって死んじゃう、という寸法ですっ」

「なるほどね……でも、僕はやらないよ」

「えぇーっ?! どうしてですかっ!」

「キミは間違いなくヘンな子だけど、僕には殺す理由がないからだよ」

「わたし、ヘンな子じゃありませんっ。ごく普通のおとなしい女の子です」

「ごく普通のおとなしい女の子は自分から死にたがったりはしないと思う」

冷静に突っ込みを入れてあげる。そりゃそうだ。彼女の言う「ごく普通のおとなしい女の子」の定義に「自分から『殺してくれ』とせがむ」などという要件は入っていない。彼女をヘンな子認定するには、それだけで十分すぎるほどだった。

「お願いしますっ。あなたに殺してもらいたいんです」

「断るよ。僕はそんなことしたくない」

「どうしてですかっ。わたしにはそれが分かりませんっ」

「キミが僕に殺されたがる、その理由のほうが分からないっ」

二人して「何故殺してくれないのか」「何故殺さなければならないのか」と言い合いをする……どんな光景だよ、と、僕は途方に暮れた。少なくとも二週間くらい前までは、こんな馬鹿げた、かつ異常なやりとりとは、僕は無縁の世界に住んでいたはずなのに……。

「いい? 僕は絶対に手を下さない。キミの言うことを聞くことはできない」

「……分かりました! じゃあ、わたしが自分でやります! そこで見ててください!」

「……………………」

一応、見ておいたほうがいいだろう。首吊りは今までの方法よりもさらにシンプルだ。ドジなあの子でも、成功させる可能性は十分にあった。いざとなったらすぐに手が出せるように、そばで見ておくべきだと思った。彼女もそう頼んでいることだし、それに乗ってしまおう。

「……よいしょっ! 首に、縄を掛けましたっ」

「うん。ちゃんと見てるよ」

「見ててくださいよ! これから……踏み台を蹴っ飛ばしますっ」

女の子は首に縄を引っ掛けると、踏み台に足を引っ掛けた。力を込めれば、いつでも踏み台を蹴飛ばせる状態だ。

「いきますよ!」

「うん」

僕が少々気のない返事をしても、彼女のテンションは変わらない。

「三……」

「……………………」

「二……」

「……………………」

「……一!」

「……………………!」

がこん、という音とともに、踏み台が前に蹴飛ばされた。彼女の躰が首に掛かっている縄に預けられ、縄がピンと張るのが見え――

(ぶちっ)

――た直後、何やら不吉な音がした。

「あ……わ……わわわわわわぁ~っ!?」

「……あーあ」

いきなりのことに事態が飲み込めなかったのか、女の子は成すすべなく地面に投げ出された。べしゃっ、という水っぽい音が聞こえ、湿った枯葉がかすかに動くのが見えた。女の子は濡れた地面に這い蹲り、体を見事に汚していた。

「……枝、踏み台、キミ自身の体。そこまで完璧だったのに、縄だけダメだったみたいだね」

「はう~っ……どうしても手に入らなくて、ゴミ捨て場においてあったのを持ってきたのが敗因でした……」

ゴミ捨て場に置いてあるくらいだから、とっくに耐用年数は切れていたのだろう。そこへ、本来の用途じゃない女の子がぶら下がろうとしたわけだから、縄が仕事を放棄して切れるのも無理のない話である。

「ふみゅ~……こんなはずじゃ……」

「今日もまた失敗だったね。さ、早く帰ったほうがいいよ」

「は、はい……分かって、ま……」

そう言いながら、彼女が立ちあがろうとする。

「あ……」

……が。

「……きゅ~っ」

「……って、大丈夫?!」

立ち上がった直後、へなへなと足を折り曲げ、後ろにひっくり返りそうになった。僕は慌てて、彼女の元へ駆け寄る。どうにか間に合い、彼女が倒れる前に支えてやることができた。

「あっ……ご、ごめんなさい……」

「いきなり倒れるから、びっくりしたよ。どうしたのさ?」

「えと……その……」

儚げな表情を見せた彼女が、倒れた理由を口にする前に。

(……くぅ~)

……なるほど、こういうことか。

「は、はわわ……こ、これはっ……」

「確か、一昨日から何も食べてないんだっけ?」

「そ、その……」

なおも言いよどむ彼女だったけれども。

(……くぅ~)

体のほうは、正直だったようだ。女の子が頬を赤くして、両手で顔を押さえた。

「なるほどね。確信が持てたよ」

「はぅ~……お腹の音を聞かれちゃうなんて……は、恥ずかしいです……」

「まあ、あまり聞かれたいものでもないよね」

「わたしだって……お、女の子ですから……」

顔を赤くする女の子が少し面白くて、僕はからかうような調子で言ってやった。女の子はますます恥ずかしそうにして、きゅっと目を閉じてしまった。

「なんだか、かわいい音だね」

「そ、そんなに言わないでくださいっ……」

「ごめんごめん。でも、二日も絶食したんじゃ、倒れちゃうのも無理ないよ」

「やっぱり、無茶でしたか……」

その間にお腹の中のものを例の薬で一掃しているというのだから、尚更だ。

「じゃあ……何か食べるべきだよね。今はお金とか持ってないの?」

「あ、はい……七輪とか買っちゃって、ほとんど使っちゃいました……」

「そっか……でも、このままだと、帰るにも帰れないよね……」

女の子の華奢な体を抱きかかえながら、僕は呟く。なんとなく、僕は「いい機会が来たんじゃないか」という感触を得ていた。今うまく事を運べれば、彼女が何故、僕の手に掛かって殺されたがるのかを、知ることができるかもしれない。

「いい? 今から言うことに、他意は無いよ。僕はただ、行き倒れているキミを放っておけないだけ。いい?」

「あ……はい」

「それじゃあ、言うけど――」

この言葉を、彼女を前に口にするに当たって……

 

「今晩、うちに連れて行くよ。聞きたいこともあるからね」

……僕はほんの少し、鼓動が早くなる感覚を覚えた。

 

「お、お邪魔しますっ……!」

「気にしないで。僕以外誰もいないから」

ふらふらの彼女を横から支えながら僕の家まで連れて行き、扉をくぐらせる。女の子はよろめきながらもなんとか辿り着いて、恐る恐る、敷地の中に入った。

「あの、本当にいいんでしょうか……」

「構わないよ。あのままじゃ、キミが飢え死にしてたかも知れないし」

「そ……そうです、ね……」

僕は改めて確認する。彼女を家に連れ込んだのは、彼女から話が聞きたいからだ。それ以外、他意はない。この年頃の男女が二人きりでいるとなると、やましい想像の一つや二つもするものだけど……相手はあんなにヘンな子だ。僕が間違いを犯すことは、考えづらい。

「本当に、ごめんなさい……こんな、家にまで連れてきてもらって……」

「キミってまともなのかまともじゃないのか、時々分からなくなるよ」

ここに連れてくるまでの彼女は、ヘンな言動や行動を一つも見せない、ごく普通のおとなしい女の子だった。過去のシチュエーションも踏まえて思い返してみると、彼女がおかしくなるのは、僕に殺されたがる時に限定されていて、それが終わると、逆に何一つおかしなことをしでかさないのだった。だからこそ、僕に付きまとっている時の異常性が強調されると言うこともある。

「向こうのソファに座ってて。これから、僕が夕飯を作るから」

「あっ……あのっ、それならわたしも……」

「ダメダメ。来客に手伝わせるのは僕のポリシーじゃないし、第一、キミは立ってるのもやっとでしょ?」

「あ……はい……」

彼女をソファに座らせると、僕はカバンを適当な場所に下ろして、キッチンに立った。

「改めて、言っておくけど」

「は、はいっ」

「僕がキミをここに連れてきたのは、キミが行き倒れかけてて、放っておけなかったから。他の理由はないよ。分かる?」

「だ、大丈夫、です……」

「まぁ、緊張するのは分かるけどね……」

僕に殺されたがる以外は――その点は、どうしようもなく特異で異常で異様だったが――、彼女は本当に普通の、むしろ真面目な女の子だ。今、彼女は「非・殺されたがりモード」、つまり通常モードのはずだから、今の状況――同級生の男子の家に連れ込まれている――が本来何を意味するのか、きちんと分かっているはずだ。だからこそ、僕が率先して「そういう気は毛頭ない」というところを見せるべきだと思うわけだ。

「家の中、よく片付いてますね」

「綺麗好きだからね。モノがあんまりないっていうのもあるけど」

「はい。わたしも、整理整頓は好きです」

ソファにちょこんと腰掛ける女の子。こうして見ると……さっき言っておいてなんだけど、なかなか可愛い。彼女から「僕に殺されたがる」というキャラクター性を外して、かつ僕に近づいてきてくれたなら、僕は逆に喜んでいたかもしれない。彼女が僕に近づく理由が「僕に殺して欲しいから」……これだけ、本当に何とかして欲しい。今すぐなくして欲しいと願うばかりだ。

「本当に、ごめんなさい……わたし、迷惑ばかり……」

「ホントだよ。行き倒れるのはともかく、いきなり包丁を突きつけられる身にもなってよね」

「はぅ……ごめんなさい……」

いくらか会話をテストしてみて、彼女が本格的に「通常モード」に入ったことを確認する。恐らく今日いっぱいは、「殺してください」モードになることはないはずだ。彼女と一緒にいて、一度失敗するとその日はずっとまともになるということを、経験上理解していた。

「三十分ほどでできるから、もう少し待っててね」

「はい。本当に、ごめんなさいです……」

やけにしおらしい彼女を、僕は……少々不覚にも「可愛い」と感じたのだった。

 

――約三十分後。

「はい。煮麺とおむすびだよ。大したものじゃないけど、あったかいし、手軽だからね」

「わ、あったかいです……」

僕はうどんだしベースの煮麺と、昆布の佃煮をつめたおむすびを用意して、食卓に並べた。煮麺の湯気を受けた彼女の顔が、ほんのり赤くなる。

「ありがとうございます。わたし、煮麺好きなんです」

「うん。優しい感じがするよね。キミは今お腹が空っぽになってるはずだから、いきなりごついのを入れるんじゃなくて、ちょっと消化のいいものを入れたほうが良いと思って」

「そこまで考えて……本当に、ありがとうございます」

ぺこり、と一礼。うわ可愛い。思わずこぼれる僕の本音。本当にもったいないな、エキセントリックなところさえ無ければ、僕は彼女に完全な好意を抱いていたはずなのに。

「すごいです。何から何まで、自分ひとりで……」

「うん。母さんも父さんもいないから、全部自分でやらなきゃいけなかったからね。もう慣れちゃったよ」

「あっ――そう、ですよね。はい……」

一瞬言いよどんだ後、彼女が煮麺に箸をつけた。少なめに麺を取って、静かに啜っていく。上品な食べ方だった。

「……おいしいです。体が、芯からあったかくなりますね」

「今日も寒いからね。制服のまま外にいたり、水を被ったりなんかしちゃ、風邪を引くよ」

「平気です。馬鹿は風邪引かない、って言いますから」

もう一口煮麺をすすり、女の子が箸を進める。

「そういえば、キミは家族と一緒に住んでるの?」

「いえ、わたし一人です。家にいるのは、わたしだけです」

「そう……じゃあ、キミも一人なんだね」

「はい。大したこと、ありませんけど……」

今となっては、異様な一面を見出すことのほうが難しい。受け答えはしっかりしているし、慌てている様子も、気を張っている様子も無い。ごく自然に、話をすることができている。

「このおむすび……形が、すごくいいですね」

「いいところを見てくれたね。俵型に握るのって、実は結構難しいんだよ」

「うまく力を入れたり抜いたりしないと、でこぼこになっちゃうんですよね」

「よく分かってるね。その通りだよ」

殺してくれと僕に付きまとった女の子を家に上げ、煮麺を啜りながら料理の話に花を咲かせる。なんだろうな、正常と異常の狭間と言うのは、思っていたよりも危うい気がしてきた。

僕と彼女はそのまま雑談を交わしながら、用意した煮麺とおにぎりをすっかり平らげた。

「ごちそうさま、でした」

「お粗末様。お気に召してくれたかな?」

「はい。何から何まで……本当に、助かりました」

「もう二度と、二日も絶食するようなことはしちゃダメだよ」

「あはは……はい」

照れたように笑う。笑顔は笑顔でも、「殺してください」と言っているあの表情とは、相当な落差がある。

どちらが彼女の素顔なのか、今はまだ分かりそうに無い。

 

「……緊張してる?」

「は……はい。やっぱり、わたしも一応、女の子ですから……」

「一応とか言わなくても、普通に女の子だと思うけどね……」

後片付けをした後、僕と彼女はテーブルで向かい合って座っていた。置かれている環境を再認識した彼女が、少々居心地悪そうに目を伏せる。

「いきなりだけどさ、ちょっと、聞いてもいいかな」

「あ、はい。なんでも、おっしゃってください」

顔を上げた彼女に、僕は問いかける。

「キミが死にたがるのは、どうして?」

「それは……あなたに、殺されたいからです」

「それも一つの理由だと思う。けど、それは『何故死にたいのか』ってことの理由には、なってないと思うんだ」

「わたしが、どうして死にたいのか、ですか……」

質問の方向を少し変えてみる。今までは「何故僕に殺されたがるのか」「僕に殺されたいからです」とかみ合わないやり取りを続けていたわけだけど、そもそもの話として、彼女がなぜ「死にたい」と考えているのか、という方向から攻めてみることにした。

「……それは、秘密です」

「やっぱり、しゃべってくれない?」

「はい。それに……わたしが死にたい理由は、とても、身勝手ですから……」

「だったら尚更聞かないと、僕はずっとキミを殺せないままだよ」

秘密にしておきたいらしい。死にたい理由が分からないままでは、僕が彼女に手を下すことはできない。まあ、分かったところで、やっぱり僕が手を下すことは無いと思うけど。

「僕に殺されたい理由も秘密で、死にたい理由も秘密。そういうことだよね?」

「はい。そういうことです」

「それだとさ……僕も困っちゃうよ。キミが死にたい理由も分からないのに、人殺しに加担させられるわけなんだから」

「大丈夫です。話さなくても、理由はちゃんとありますから」

やっぱり、今ひとつ話がかみ合わない。彼女の話しぶりを見ていると、彼女には彼女なりの「理由」があって、それは僕に絡んだことのように思える。しかし、肝心の僕には彼女を殺す理由が一つも見つからない。やっぱり、彼女の脳内で完結しているとしか思えない。

「ごめんなさい。でも、仕方の無いことなんです」

「……まあ、言いたくないなら仕方ないよ。でもその代わり、キミの願いを叶えることはできないし、しないよ」

「はい、分かりました」

分かっているのかいないのか。彼女の表情を見ていると、どちらとも取れる気がした。

「よし。じゃあ、すこし話を変えよう」

「あ、はい」

わざと口調を大げさに変えて、僕は話題を切り替えることにした。

そして開口一番、僕が口にした話題とは。

「今日の柄は?」

「えと、水色と白の縞々……ってぇぇええっ?!」

「しまパン、と」

作戦成功である。ちょっと緊張した環境で、唐突に質問してみる。これが結構効くのだ。見ての通り、彼女は見事に引っかかった。

「あぁ……ち、ちょっと緊張してたからでしょうか、自然に答えを言ってしまいました……」

「いちごだけじゃないわけだね」

「違いますっ。他にもいくつか種類が……って、何を言わせてるんですかっ」

あぁ、面白い。彼女の反応の一つ一つが、新鮮だ。普段あんな滅茶苦茶で無茶苦茶なことをしでかしている女の子と同一人物とは思えないくらい、反応が面白い。

「ひどいです、セクハラです。訴えたら、わたしが勝ちますっ」

「じゃあ、僕は殺人幇助でキミを告訴するね」

「う~っ……それは反則だと思いますっ」

面白いなあ、そう思うとともに、もったいないなあ、とも思った。これで、僕に殺されたがるところさえなければよかったのに。そうだったら……僕は、間違いなく彼女に惹かれていただろう。ただ、彼女には確固たる異常な点があるというところで、うまく距離が取れていたのかもしれない、とも思えた。

「……あれ?」

「どうかしたの?」

ちょっと砕けたやり取りを交わしていた時、彼女が何かに気がついた素振りを見せた。彼女が、気になったものをそっと指差す。しなやかな指の指し示す先に、僕は滑らせるように目線を向ける。

「あの、向こうにあるのは……」

「……ああ、仏壇だよ」

僕が椅子を引いて立ち上がると、彼女もまた吸い寄せられるように、僕の後ろから付いてきた。

「これ、は……」

「うん……父さんと母さんと、妹の琥珀だよ。みんな、僕の家族だったんだ」

「家族の……遺影……」

仏壇の前に座る。僕と女の子の真正面に、笑顔で写真に写る家族の姿があった。女の子は惚けた表情をして、三つ並んだ遺影を眺めている。

「交通事故でね……三人とも、先に逝ってしまったんだ。僕だけが、怪我で済んだんだ」

「十年前、の……」

「そう。あの日、僕たちはおばあちゃんの家から帰る途中だったんだ。そこへ、正面から車が突っ込んできて……」

この世のものとは思えない音が聞こえ、視界が激しく揺さぶられる。何が起きたのか分からないまま、僕はフロントガラスに激しく頭を打ち付けた――。

「僕は右も左も分からないまま、とにかく、知らない間に外へ出ていたんだ。それで、助かった」

「……………………」

「僕が車から出て少しもしないうちに、エンジンから火の手が上がった……全体を覆い尽くすまでには、時間はかからなかったよ」

「炎が、車を、覆う……」

「あの時の光景を……僕は、未だに夢に見る」

「……………………」

血だらけになって動かない父さん、眼を閉じたままの母さん、後ろで泣き叫ぶ琥珀――。

「……だから、僕は今でも車に乗れないんだ。近づいただけで、胃が締め付けられて、何もかもぶちまけてしまいそうになる。吐き気が収まらない」

「……………………」

「本当は、近づくことだってできやしない。見ただけで、背筋が凍るくらいだからね」

「……………………」

「どうしてこんなことになったんだ、僕が何をしたんだ……そう思って、悔しい思いをしたことも……一度や二度じゃない」

「……………………」

「相手がどうなったかは知らないけど、僕は――」

 

「……やっぱり、これしか、ないんですね……」

 

……何を言っているのかと、僕が話すのを止めて隣を見た。

「そう……最初から、そうしていれば……」

「キミ、何を言って……」

「……やっぱり、これしかなかったんです!! これしかなかったんです!!」

耳を劈くような大声を上げて、彼女が急に立ち上がった。立ち上がったかと思うと、

「……っ!!」

「ち……ちょっと! どこへ行くのさ!!」

信じられないほどの速さで駆け出し、僕の家から飛び出していった。

「よく分からないけど……追いかけなきゃ!」

異常、異常と何度も繰り返してきたけど、今の出来事は異常の性質も度合いも違う。今すぐ彼女を追いかけないと、取り返しの付かないことになるかもしれない。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」

「ちょっと!! ちょっと待って! 待ってってば!!」

髪を振り乱して駆け続ける彼女を追って、僕は必死に走る。急げ、急げと、僕の意識が足をせかす。

「もうすぐですから……! もうすぐ、もうすぐ! 必ず、必ず死にますから!!」

「何言ってんのか、さっぱり分からないよ! とにかく、待ってよ!!」

僕の声は、彼女には届かない。明らかにまずい。僕が気付かないうちに、彼女の、本当のスイッチが入ってしまった。一体何が原因だったのか――まったく分からない。

散々走り続けた果てに、彼女が不意に立ち止まる。

「……………………」

「はぁ、はぁ、はぁ……」

「……………………」

僕に背中を向け、彼女が無言で立ち尽くす。

「来て、くれましたか……」

「はぁ……来てくれたって、キミが突然走り出すから……」

彼女が立っていたのは――この町で一番長い、横断歩道の前だった。

「……知ってますか。ここが、どんな場所か」

「何を、さ……」

何を言おうとしているのか、咄嗟には分からなかった。彼女は背を向けていたから、表情から何かを読み取ることもできなかった。ただ一つ、冷静さの中に興奮を無理やり押し込んだような尋常でない声色から、彼女が何かアクションを起こそうとしていることは理解できた。

「……この横断歩道は、信号無視をして突っ込んでくる車の多い、危険な場所だ、ということです」

「信号無視の……車……?」

「この辺りは、命知らずのドライバーが夜な夜なスピードを競う、事故多発地帯なんです」

そう、僕が呟いた直後。

(ぎゅおんっ)

力任せに風を切り裂く音が聞こえ、青信号の横断歩道を突き抜けていく一台の車の姿が見えた。触れればひとたまりもない、文字通りの走る凶器だ。

「うわっ……!」

「分かりましたよね。事故がいつ起きてもおかしくない、危ないところなんです……」

横断歩道の青信号が、点滅を始めた。歩行者のアイコンが、ちかちかと点いたり消えたりを繰り返す。

「頃合です……」

「……ねえ、キミ。一体何を……」

僕の呼びかけに、彼女はくるりと振り向く。

「お願いです、見ててください。あなたにとって、一番いい方法で――」

 

「――わたしは、死にます」

 

(僕にとって、一番いい方法……?)

僕が彼女の言葉を解釈し終える前に、彼女は走り出していた。

点滅を終えて赤になる信号。右手から聞こえてくる爆音。駆け出した彼女。

それは、その三つの要素を繋げた先は、その三つの要素が導き出す答えは――。

 

(……交通……事故……!)

 

「……っ!!」

地面が動いたかと思った。体が大きく跳ねた。視界が激しく揺れた。

「――っ!!」

距離が、一気に縮まった。視界の右手に、白い光が映りこむ。

「……!!」

一瞬だけ構えて、僕は――。

 

「――危ないっ!!」

「――?!」

 

――彼女を引きずり倒すように抱きかかえて、反対車線の歩道に倒れこんだ。

(ピ――――ッ!!)

けたたましいクラクションでわめき散らす赤いスポーツカーが、僕と彼女がコンマ数秒前まで存在していた場所を、引き裂くように走り抜けていった。

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

「……?! …………」

女の子を押し倒す形になり、僕が上から彼女を見つめる。彼女は事態が寸分たりとも飲み込めずに、驚きと困惑と混乱とを一緒くたにした表情を見せていた。

「……どっ……どうして……」

「何が……何が『どうして』だ!!」

僕が声を荒らげると、彼女は怯えたように身を縮こまらせた。

「何のつもりだ!! 車に轢かれて、死ぬつもりだったとでもいうのか!!」

「そっ、それは……」

「いい加減にしろ!! 何が……何が『僕にとって一番いい方法』だ! ふざけた事を抜かすな!!」

怒りが収まらない。あふれ出る怒りが、そのまま口を付いて出てくる。

「僕がどんな思いで……この十年を過ごしてきたのか……キミに分かるのか!!」

「……!」

「目の前で家族が死んだ……その原因は交通事故だ。僕がその話をした直後に、キミは自分から轢かれようとした……ふざけるな!!」

「……っ!」

「何が『僕にとって一番いい方法』だ……何が……何が一番いいんだ! 答えろっ!!」

僕が詰問すると、彼女は目に涙を浮かべた。僕は感情を抑えきれず、彼女の胸倉を掴みあげる。

「うっ……うう……」

「泣いてどうこうできる状況じゃないことぐらい分かるだろう! 僕を弄ぶのも、ここまでだ!!」

「そ、れ、は……」

「言え!! キミは何故僕に殺されたがるんだ! 僕の目の前で死ぬことを望むんだ! 交通事故で死のうとしたんだ! 何が一番いい方法なんだ! 言い逃れはするな! 一つ残らず答えろっ!!」

僕の気勢に、彼女は目から大粒の涙を零して、声を震わせながら……

「それは……わたしが……」

こう、僕に告げた――

 

 

「……あの、交通事故の……対向車に乗っていたから、です……」

「……………………?!」

 

 

――絶句する。言葉が次げない。出てこない。体が……動かない。

――彼女が、あの時の事故の対向車に乗っていたって……?

「あの日、わたしは……お父さんとお母さんと、海へ行く途中でした」

「わたしは嬉しくて、前の夜になかなか寝付けなくて、お父さんとお母さんを困らせてしまいました」

「それでも、お父さんとお母さんはわたしを連れて、車で海に出かけました」

僕が無意識のうちに、掴んでいた胸倉をそっと離す。少し形の崩れてしまった彼女のブレザーが、元の形を取り戻し始めるのが見えた。

「……わたしのせいで、お父さんもなかなか寝付けなかったんです」

「それなのに、わたしのために車を運転して、海に連れて行ってくれようとしたんです」

「――けれども、それが――」

彼女の瞳から、色が消えた。

「――わたしのせい、ですね」

「――わたしが、前の日に寝付けなかったから、神様が怒ったんですね」

「――わたしのせい、ですね」

同じ言葉を二度繰り返す彼女の表情は、虚ろだった。空虚な顔つきのまま、言葉を紡ぎ続ける。

「……お父さんは、事故の瞬間に、死にました」

「お母さんは、その後の火事で、死にました」

「わたしは、一人だけ、生き残ってしまいました」

淡々と、けれどもとてつもなく痛々しく、彼女はあの時の出来事を再生する。

「そして、わたしは見ました」

 

「あなたのお父さんが、血だらけになっているのを」

「あなたのお母さんが、俯いたまま動かなくなっているのを」

「あなたの妹さんが、腕に刺さった窓ガラスを痛がって、痛い、痛いと泣き叫んでいるのを」

 

「あなたが――燃える車の前で、呆然と立ち尽くしているのを」

彼女の躰も僕の体も、揃って震えていた。

「……わたしのお父さんとお母さんが死んだのは、わたしのせいです」

「……あなたのお父さんとお母さんと妹さんが死んだのも、わたしのせいです」

「わたしが、みんなを死なせたんです」

僕が震える体を無理に動かして立ち上がると、彼女もまた、立ち上がる。

「……だから、わたしは死ななきゃいけないんです」

「絶対に、絶対に、許されることはありませんから」

「わたしは、死ぬために生きていたんです」

白い息を吐き出しながら、彼女は止まらずに話し続けた。

「わたしは、あなたの幸せを壊してしまった……だからわたしは、あなたに殺されたいと思っていたんです」

「あんな事故を起こしたわたしを、この手で殺すこと……それが、あなたの願いだと思っていたんです」

「少し前、あなたを見つけたときに……わたしは、今こそ死ななきゃいけない、あなたに殺されなきゃいけないって思いました」

――そうか。そういうことだったのか。そういう、ことだったのか。

「あなたがわたしを殺せば、きっと救われる……それだけが、わたしの救いでした」

「あなたにとって一番いいことをして……死ぬことができれば、わたしは本望でした」

「交通事故を起こしたわたしが、交通事故で死ぬ……それが、一番良いと思ったんです」

彼女がおもむろに、制服のポケットに手を突っ込んだ。

「けれども、それは叶いませんでした……あなたが、止めてしまいました」

「それでも、わたしは死ななければいけません。あなたのためにも、あなたの、家族のためにも……」

「どうか、これを……」

僕に差し出されたのは――小さな、果物ナイフだった。

「あの日、海へ行ってリンゴを食べるためにもって行った、果物ナイフです」

「わたしは無意識のうちに、それを持ち出していました」

「お願いです。それを使って――わたしを、殺してください」

僕の脳裏に、彼女と初めて出会ったときの光景がよみがえる――そういえば、彼女はあの時も刃物を使って、自分を殺してくださいと言っていた。

包丁を使って死のうとした彼女。薬を使って死のうとした彼女。屋上から飛び降りて死のうとした彼女。アレルギーで死のうとした彼女。灯油を被って焼け死のうとした彼女。一酸化炭素中毒で死のうとした彼女。首を括って死のうとした彼女。車に身を躍らせて死のうとした彼女。いくつもの彼女が死のうとする寸前の光景が、走馬灯の如く脳裏をよぎってゆく。

そして巡り巡って、一番最初の刃物に戻ってきた。

「お願いです……もう、終わりにしてください……」

「……………………」

「あなたに苦しい思いをさせた……その原因の悪者をやっつけて……もう、終わりにしてください……」

「……………………」

「それが……あなたの、ためですから……」

差し出された果物ナイフを、僕は無言で手に取る。

「……分かった」

「はい……そうです。それで、いいんです……」

僕はナイフの柄をしっかり持ち、彼女へと向ける。

「今から言っておく。僕は、キミを許さない」

「はい……」

「ここで、きっちりけじめを付けたい。キミの言うとおり、ここで終わりにしよう」

「はい……」

「ここからじゃ無理だ。僕から、少し離れて」

彼女が一歩後ろへ退く。

「……このくらいで、いい、ですか……」

「それでいい。そこから、一歩も動いちゃダメだ」

「大丈夫です……覚悟は、もうできてますから……」

「しつこいことはしたくない。一度で、終わらせたいんだ」

彼女と僕の目が合う。

「もう一度言う。僕は、キミを許さない」

「はい……それで、いいんです……」

「だから……僕は、これで終わりにする」

彼女が静かに目を閉じるのが見えた。覚悟を決めたんだ。

僕は果物ナイフを構えて、彼女を見据える。

「……………………!」

前にナイフを突き出したまま、大きく踏み込み――

 

 

「……ダメだ。キミは、死んだりしちゃダメだ……!」

「……………………?!」

 

 

――金属がアスファルトに落ちる耳障りな音が、僕と彼女の耳に響き渡った。

僕は果物ナイフを投げ捨てて、彼女を強く抱きしめていた。

「……僕は許さない。キミを、絶対に許さない」

「そっ……それなら、ど、どうして……」

「……許す必要なんて、どこにもないから……」

「……………………」

「キミは……誰にも、許される必要なんてないから……」

彼女の冷え切った躰を、僕は全身で包み込む。

「僕は、確かにあの事故で父さんと母さん、それに琥珀を失った」

「……………………」

「けれど……キミだって、お父さんとお母さんを亡くしてる」

「それは……!」

「僕たちは……同じなんだ。同じ事故で、同じ悲劇に襲われたんだ。それなのに……どうして、僕がキミを殺す必要があるんだ」

女の子を一層強く抱きしめると、彼女は身を強く震わせた。

「キミは誰にも許される必要なんかない。ありのまま、ただ生きているだけでいいんだ」

「ただ……生きているだけで……」

「そう。だから、もう死にたがらないで」

「……………………」

「誰も、キミを責め苛んだりはしないから」

胸が熱くなる。外も内も。彼女が肩を震わせて、僕の胸の中で泣いていた。

「キミが……キミが死んでしまう前に、会えてよかった……」

「……!」

「僕がキミに出会えたから……キミを、死なせずに済んだから……」

「……っ!」

「よかった……本当に、よかった……」

心からそう思う。彼女が死んでしまう前に会うことができて、本当によかった。何かのめぐり合わせだとしか、僕には思えない。

「キミがずっと死にたがっていた、その理由が分かったよ」

「うっ……うぐっ……!」

「一人ですべてを抱え込んで、苦しんでいたんだね」

「ぐすっ……ううっ……」

「背負いきれないものを必死で背負って……生きていたんだね」

なぜ彼女が死にたがっていたのか、僕に殺されたがっていたのか。それが、すべてつながった。彼女は何の意味もなく、僕に付きまとっていたのではない。死にたがっていたのではない。僕の家族を死なせてしまったという自責の念が、僕に自分を殺してもらいたいという、あまりに悲しい願いに昇華していただけだったのだ。

彼女は異常なんかじゃない。ちゃんと、彼女には理由があったんだ。死を選ぶだけの理由が、殺されたがるだけの理由が。

「……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」

「……もう、これで終わりだよ。キミが死にたがるのも、キミが何もかも背負うのも……」

「はい……はいっ……」

「いい? 約束だよ。もう二度と、死にたがったりしないで」

「分かりました……わかりっ、ましたっ……!」

けれども、それももう必要ない。

彼女は、誰かに許される必要など、ないのだから――。

 

 

「……落ち着いた?」

「はい。もう、大丈夫です……」

……十分後。落ち着きを取り戻した僕と女の子は、一緒に並んで歩いていた。

「本当に、ありがとうございました……こんなことになるなんて、夢にも思ってませんでしたから……」

「僕も、想像もしてなかったよ。キミに、あんな過去があったなんて」

彼女の表情からは憑き物がすっかり落ちて、晴れ晴れとした顔つきを見せていた。

「でも、これからはもう、死にたがる必要はないね」

「はい。二度と死なないでほしいって、言われちゃいましたから」

「そりゃそうだよ。好きな人に死んで欲しいなんて人が、どこにいると思う?」

「ふふっ……そうですよ、ね……?」

さりげなく、僕は本音を言ってみた。

「あ、あれ……? あの……今、何て……」

「聞こえなかった? 好きな人に死んで欲しいなんて人が、どこにいると思う? そう言ったんだよ」

「あっ、あわわわわ……あ、あのっ、それって、そのっ!」

「うん……まぁ、その、そういうことかな……」

何もかも分かってみると、彼女は一途で真面目で責任感の強い、優しい女の子だったというわけだ。前々からそうであって欲しいと願っていたのだから、思いを伝えずにいられるわけがない。

「こ、こんな……とても、ヘンな子を、好きだなんて……」

「そうだね。とりあえず、薬を飲んで慌ててトイレに駆け込むようなことは、あんまりしないほうが良いと思うな」

「う~……あれ、結構恥ずかしかったんですから……」

顔を赤くするのが見える。今となっては、ただ、純粋に愛しく思える。いいね、こういうの。

「あ、あの……本当に……」

「あー……うん。僕も、キミがもし普通だったら、彼女になってくれたらいいな、とか、勝手に考えてたからね……」

「……………………」

「その、キミにとっては辛かっただろうけど……キミは今まで、僕のことを考えててくれたわけだから、それに応えたいな、ってこともあるしね……」

「はう……こ、これって、本当に夢じゃないんでしょうか……なんだか、うまく行きすぎてる気がします……」

「うまく行ってる……?」

「は、はい……その、わたしも……」

……いやはや、これはこれは。

「わたしが死にたがるのをいつも止めてくれて……お水をくれたり、お弁当を一緒に食べてくれたり、コートを貸してくれたり……」

「……………………」

「いつも優しくて……死にたいはずなのに、死ぬのが怖くなって、あなたに殺されたいはずなのに、いっしょにいたくて……」

「……………………」

「……絶対に、無理だと思ってました。わたしが、あなたと一緒にいるなんて……でも……頭では分かっていても、そうだったらいいなって思ってて……」

いわゆる、相思相愛というやつだったんだな、僕らは。

「本当に……側にいても、いいんですね……」

「……約束するよ。キミが死にたがったら、僕が全力で止めてみせる」

「……………………」

「僕と付き合って欲しい。死ぬのは、二人で幸せに生き切ってからにしよう」

僕の言葉に、彼女は――。

「……はい! 喜んで、お付き合いさせていただきます!」

「……うん。ここでOKもらえなかったら、今度は僕が死にたがるところだった」

「ふふふっ。確かに、ちょっと恥ずかしいですね」

無理をしていない、自然な笑顔。これだ、これが、彼女には一番似合う。

「あれだね。付き合おうって言う前に、一緒にお弁当を食べたり、僕がコートを貸してあげたり、あまつさえ家に入れたり、既に付き合ってたようなものだと思うけどね」

「なんだか、わたしがお世話になりっぱなしです……」

「そんなことないよ。秋刀魚、ごちそうさま」

「ふふふっ。そんなこともありましたね」

「そうそう。ああ、そういえば……」

「どうしました?」

僕の隣には、死にたがるのをやめた彼女がいる。彼女は僕の「彼女」になった。

「重要なことを聞き忘れてたし、言い忘れてたよ」

「一体、なんでしょうか?」

なのに、こんなことも知らないなんてみっともない。

「あのさ――」

いくらなんでも、そろそろいいだろう。

 

「僕は『長倉晶(ながくら・あきら)』っていうんだ。キミは?」

「……はいっ。『美崎渚(みさき・なぎさ)』っていいます」

 

「あれだよね。好きだって告白する前に、普通は名前くらい聞いておくものだよね」

「そう言われてみると……そうかも知れないです」

今の今までお互いに名前を聞いていなかったとは、なんというか、滑稽すぎる。

「キミをヘンな子だって言ったけど、なんだかんだで、きっと僕もヘンなんだよ」

「たははっ。そうかも知れません。でも、それでもいいと思います」

「うん。僕もそう思うよ」

彼女――もとい、渚と僕は、肩を寄せ合って一緒に歩く。

「えと……晶さん、って呼んでもいいですか?」

「いいよ、渚ちゃん」

「わ、もう呼んでますっ。ちょっと恥ずかしいですっ」

「こういうのは、早い者勝ちだからね」

……車の通らない、静かな道を。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。