大学にあるコンピュータ棟。だだっ広い部屋に五、六人の生徒が椅子に腰掛け、ある者はレポートに、ある者はプログラミングの課題に、ある者は自分のブログに付けられたコメントに返事を返していた。
「……よし。後は表示を確認するだけだな」
真ん中の列の中央よりやや手前の位置に陣取っている長島も、その生徒たちの中の一人だった。彼の前にあるディスプレイには、彼が今しがた完成させたレポートが映し出されている。
レポートには地の文とプログラムの制御コードのような文字列が入り混じって入力されており、そのまま読めるような体裁ではなかった。どうやらこの後もうひと手間加えて、まともに読めるレポートに仕立て直さなければならないらしい。
「えーっと、確かコマンドは……」
長島がキーボードへ手をかけ、コマンドを入力しようとした時であった。
「長島っ。テックス教えてよっ」
その横から、一人の女子生徒が声をかけてきた。長島が手を止め、その方向を向き直る。
「誰だ……って、広崎か。どうしたんだ? お前、まだレポート終わってなかったのか?」
「そうよ。明日提出でしょ? そろそろやっとかなきゃやばいかなー、って思って」
「そろそろやばいって言うか、さっさと終わらせとけよ……」
広崎は呆れた表情を浮かべる長島のことには目もくれず、長島が書き終えたレポートを食い入るように見つめた。
「うっわー……テックスって無駄にややこしいねー」
「別に無駄なことは書いて無いぞ」
「これなに? 『ドキュメントクラス』? 『ジェイアーティクル』?」
「最初の宣言だよ。TeXはこれがないと動かないんだ」
長島の言う「TeX」とは、一九七〇年代後半、米国のスタンフォード大学教授の数学者、ドナルド・E・クヌースが作り上げた、コンピュータ上で組版(typesetting)印刷を実現するためのソフトウェアの総称である。
TeXは標準化が行き届いており、どんな環境でもソフトウェアさえ動作すれば同じ出力結果が得られる。複雑な数式やウムラウトの付いた欧文など、通常のワープロソフトでは取り扱えないような文字も問題なく出力できる。オープンソースのフリーソフトウェアなので、自由にソースコードを見ることができ、場合によっては自分向けに手を加えることもできる。
TeXで書かれたテキストには地の文と命令が入り混じっており、そのままでは読むことができない。TeXで作ったファイルを一度処理し(厳密には異なるが、作業の内容上これを「コンパイル」と呼ぶ人もいる)中間ファイルを生成することで、実際の出力に限りなく近いものを得られる。後はそれを印刷すれば、美麗なレポートの完成というわけだ。
TeXは性質上、大学の教授や博士など、数式や英文を取り扱うことの多い人間から支持を集めている。その影響からか、情報系の大学のカリキュラムには大抵一年次か二年次の段階で、TeXを実際に用いてレポートを書く実習授業が用意されている。長島と広崎も、今それの課題に取り組んでいる真っ最中ということだ。
「ふーん。ま、あんまり気にしすぎると肩凝っちゃうから、おまじないってことにしとこ」
「それでいいだろ。多分」
「でさ、教えてよ。テックス」
カバーを外したUSBメモリ片手に「テックス教えて」と迫る広崎に、長島が一瞬面食らったような面持ちになった。何となく、何か言いたげな表情である。
「あのなあ広崎。教えるのは構わないが、多分、茨の道になるぞ」
「何それ? どゆこと?」
「広崎。まず『TeX』ってのはな……」
「『テックス』じゃなくて、『テフ』って読むんだ」
ちなみに、広崎のレポートが終わる頃には辺りはもうすっかり暗くなっていて、後一分遅ければ七時代のバスを逃し、そのまま寒空の下一時間待ちになるところだった、ということを付け加えておこうと思う。
閑話休題。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。