例えば、大空を自由に飛ぶこと。それは、人類がずっと追いかけてきた夢。
夢を追いかけるためには、犠牲が付き物だ。犠牲の上に成功が生まれ、犠牲の上に技術が積み重ねられる。人は犠牲に心を痛めるけれど、成功と技術はそれ以上に人に印象を残す。
犠牲の裏側に、血の通った人間がいることも忘れてしまって。
「羽丘」
「はい」
名前を呼ばれて、気だるい気持ちで席を立ち上がる。何の感情も込めない、かといって無駄に攻撃的でもない声で、返事を返す。まっすぐ歩いて行き、名前を呼んだ主である数学の担任のところへ歩いていく。ろくに掃除されていない床を歩くたび、白いチョークの粉が微かに舞い上がる。
「さすがだな」
「……………………」
無言で答案を受け取り、そのまま踵を返して席へ。担任は答案を受け取った僕のことはすぐに意識から消し去り、次に呼ぶべき名前に思考を巡らす。しかし、それも刹那のこと。
「羽山」
「はい」
僕と同じような無機質な声で、僕から見て二つ隣の列の前から三番目に座っていた女の子が立ち上がる。席を戻すこともせず、そのまま前へ歩み出る。恐らく、もう座席のことは頭にないだろう。担任の横へ静かに歩み出て、同じく静かに手を伸ばす。
「お前もだ。よくできてたぞ」
「……………………」
僕と同じように無言で答案を受け取り、そのまま自分の席へ。担任は答案を受け取った羽山のことはすぐに忘れ、次の答案用紙に書かれている名前を呼ぶことに意識を向ける。羽山は無表情で、引かれっぱなしの座席に座った。その頃には、名前を呼ばれた次の生徒が立ち上がっていた。
羽山は暫時、返された数学のテストの答案を眺めていたが、それもすぐにやめ、机から引きずり出したクリアファイルに、それを丁寧に二つ折りして挿入した。僕はそれの光景を暫時眺めていたが、その内そうしていることに意味を感じなくなったので、やめた。
羽山はこの学校において、常に優秀な成績を収め続けている優等生だ。あらゆる教科において、彼女を上回る成績を持つものは限られていた。体育も含めて、である。
僕はそんな羽山に近いレベルにいる、数少ない生徒の一人らしい。このクラスの担任は、このクラスに学校を代表するような優等生が二人もいることは大変誇らしい事だ、と言っていたが、正直なところ、僕はそんなことを意識したこともないし、今もしていないし、そしてこれからもすることはないだろう。
羽山は勉強こそできたが、人付き合いは悪かった。誰とも話をしようとせず、休み時間はいつも一人で本を読んでいた。黒い縁取りのメガネを掛け、長い黒髪を染めることも纏めることもせずに自然のままにしている姿が、彼女に根暗で近寄りがたいイメージを与えていた。
ある意味では、僕もそうだった。誰かに話しかけられれば返事はするし、誘われれば付き合う。その程度の人付き合いはできる。しかし、誰かと積極的に付き合おうと考えたことはないし、可能であれば一人でいる時間が長い方が好ましかった。一人でいることに何か意味があるわけではない。ただ、大勢でいることにも意味を見出せないだけだった。
羽山から僕に話しかけてくることはなかったし、僕から羽山に話しかけることもなかった。その程度の関係だった。
「では、本日はこれまで」
「起立!」
「礼!」
型どおりの挨拶を終わらせ、今日の授業がすべて終わった。これから特にすることもないので、中身のほとんど入っていない鞄を持って席を立つ。同じようにすることのない人が、同じように席を立つ。
「……………………」
「……………………」
羽山もその一人だった。鞄を持って席を立ち、無言で教室を出て行こうとする。僕と同じで、鞄には中身がほとんど入っていないのか、かなり軽そうだった。僕はそれを少しの間だけ見つめていたが、すぐに興味の対象から外れ、続けて教室を後にした。
授業から解放され、これから自由な時間を過ごすのだろう同級生達が、笑いながら廊下を歩いてゆく。それらは一瞬だけ僕にとっての興味の対象となり、一瞬のうちにそうではなくなる。それを何度か繰り返しながら、僕は学校を後にした。
何も言葉を発せず、ただ淡々と目的地に向かって歩を進める。感じることは、ここ最近わずかに寒さが増してきたということと、明日は晴れるのだろうかということだけ。今日は曇天で、空が雲に阻まれてよく見えない。あまり、いい気分ではない。晴れていてくれた方が、少しは気分がいい。
そんな微かな心の動きも、歩いているうちにあたかも粉雪のように消えてゆく。僕の中に再び、ほとんど何も感じない時間帯がやってきた。僕はほとんどの時間を、この何も感じない、何も興味を持たない状態で過ごしている。それが良いのか悪いのか、それにも興味を示せない。
そんな状態だ。
家までの道のりを歩き続け、いつも通り抜けている商店街まで差し掛かる。さしてめぼしいものもなく、シャッターが閉まったままの店もちらほら見える、何処にでもあるような商店街。ここに来ても特に興味を引くようなものはなく、そのままここを通り過ぎようとする。
そうしようとしたとき、少しだけ、僕の興味を引く事柄が目に留まった。それがあったのは、商店街の中でも比較的大きな電気街。
「……………………」
そこに置いてあった、三十二型のテレビ。それが、僕の興味を引く事柄を映し出していた。テレビに映し出されていたのは、夕方のニュース。そのテロップに書かれていたことが、僕の興味だった。
『シャトル打ち上げ失敗 今日で三年』
それが、僕の興味だった。
今から三年前、「エクスプローラ」という名前のスペースシャトルが、米国のケネディ宇宙センターで打ち上げられた。シャトルにはアメリカ人一人、日本人二人の計三人の乗組員が搭乗。衛星軌道上にある宇宙ステーション「アルゴル」とドッキングし、各種の作業を行う予定だった。
予定だったが、その予定は履行されなかった。打ち上げに失敗し、大気圏でシャトルが爆発炎上したからだ。
原因は不明。当初は燃料タンクの破損によるものという見解が出されたものの、その直後になってそうではないという報告がなされた。結局、原因はうやむやのまま、現在に至っている。
この「エクスプローラ」は、米国と日本によって共同開発されたもので、当初は「日本の技術力を世界にアピールする絶好の機会」として大いにもてはやされた。乗組員に日本人が二人いたのも、それが一因だった。
それだけに、打ち上げ失敗のニュースは、打ち上げが成功するものと信じていたすべての人間に、壮絶なショックを与えた。そのショックは最初「悲しい」という属性を持ったショックだったが、その内それは「どうして上手く行かなかったんだ」という、驚きと困惑と怒りがない交ぜになったショックへと変わった。
マスコミはこぞってこのニュースを取り上げ、「なぜ打ち上げは失敗したのか」という特集を連日組み続けた。多くの専門家がテレビ画面に姿を晒し、「なぜ失敗に終わったのか」を連日語り続けた。そのうち方向は「どうすれば技術立国日本の威信を回復できるか」というものにシフトし、それはおよそ半年間続いた。
打ち上げ失敗の裏で、三人の人間の命が失われたことは、何故かあまり取り上げられなかった。雰囲気として、誰もそんなことを気に掛けていないという雰囲気があった。
三つの犠牲など、誰も気に掛けていないという雰囲気。
誰も。
「……この近くの、誰にも関係のない事だからな」
珍しく、僕でも珍しく、小さく独り言をつぶやく。興味はしばらくそのテレビにあったが、特集が切り替わると同時に、僕の中の興味も失せた。興味が失せてもなおここに居続ける理由はないので、さっとその場を後にする。商店街を吹き抜ける風が、わずかに冷たい。
そう。関係のないこと。人が三人死んだということも、死んだ人間に家族がいたと言うことも、死んだ人間の関係者以外には、ただ遠い世界のような出来事。関係のないこと。つながりのないこと。感じる必要の、ないこと。あってもなくてもいい、不要なこと。
それは、いらないこと。
そのまま商店街を抜け、人通りの少ない裏道に入る。
裏道を通れば、そのまま僕の家がある住宅街に入れる。あとはそこを十分ほど歩けば、僕の家にたどり着く。なんてことはない、通いなれた道。興味を引くものも、目を引くものもない。
微かに坂道になっている道を歩き、僕の家につながる道へ。
「……………………」
その途中、あるものが目に留まる。
それは、うず高く積まれたゴミの山。冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、ファンヒーター。電化製品を中心に、うず高く積まれたゴミの山がそこにあった。多くのものが未だ原形をとどめ、手を加えれば再び使うこともできそうに思われる。しかし、それを再び手に取ろうとするものはいない。それは、彼らにとっていらないものだからだ。
元々ここは、「空き地」という分類名に相応しい、何も存在しない「空き地」だった。しかしいつからか、恐らく家電の処理に料金が発生する法律が制定されてから、ここにいらなくなったゴミを捨てに来る人間が現れ始めた。いらなくなったものを捨てるのに金など払いたくないという心理が働いたのだろう。
一人がルールを破れば、そのルールに意味は無くなる。多くの人間が、ここをいらなくなったものの最終目的地に定めた。いらなくなった物の上にいらなくなった物が積み重ねられ、さながらここはいらなくなった物の墓場と化した。この墓場にはほぼ毎日、新しい「死人」がやってくる。
「……………………」
少しだけ立ち止まり、この「墓場」を見つめる。いらなくなった物がいらなくなった物の上に重なり、まるでそれはバランスの悪い墓石のよう。いらなくなった物の最終目的地には、相応しい光景と言えた。
しかし、このすべてが退廃的に映るこの空間に、たった一つ、不似合いなものがあった。
(ガチャン)
(ガシャン)
「……………………」
それは、女の子。制服を着た、女の子の姿だった。
興味を持ったので、それを遠くから目を凝らして見つめてみることにする。女の子は制服を着ていて、髪の毛は特に染めていない。恐らく、ほぼ同年代だろう。ゴミの山の上に立ち、手にできる程度の大きさのゴミを拾っては目で見て、それをまた投げ捨てている。それはあたかも、このゴミの中から、宝物か何かを探そうとしているかのような様子。
彼女にとっての「宝物」が何なのかは分からない。ただ、僕の興味が、珍しくその女の子に対して向けられていたのは事実。それは異性としての興味ではない。ゴミの山の上に立ち、何かを探しているかのような姿。その姿そのものが、僕にとっての興味だった。
僕はしばし、ゴミの山で宝探しをしている女の子を見つめる。女の子は何度か、ゴミを手にとっては投げ捨てると言う作業を繰り返していたが、あるとき不意に、その動きが止まった。
「……………………」
女の子が手に取ったもの。それは、古びたコンピュータのキーボード。恐らくは相当型が古いと思われるそれは、現在でも使えるのかどうか、甚だ怪しいものだった。
しかし、少女はそれをしげしげと眺め、あちこち見回した後、それを投げ捨てるのではなく、自分の足もとへ置いた。そして、左手に持っていた学生鞄を開けると、右手でキーボードを拾い上げ、鞄の中にそれを押し込んだ。そして鞄を閉じ、そのまま何食わぬ顔で、ゴミの山を降りてゆく。
「……………………」
そのまま女の子は、僕の視界から姿を消した。
僕の興味も、まるで揺らめいていた火がゆっくりと消えていくように、そのまま消えうせた。僕は「墓場」から視線を外し、その場所を後にした。
次の日の、朝のことだった。
「……………………」
通いなれた学校への道を、何の気持ちも持たずに歩く。目にするものすべてに、僕の興味は向かなかった。僕にとって目にするものすべてが、あろうとなかろうとどちらでも大差のないものだった。ある意味では、そう。
いらないものだった。
そんな僕の目の前に、ようやく、僕の興味を引くものが現れた。それは、先ほどまで見ていたもの達が構成していた何気ない朝の風景とは到底相容れないものであり、僕の興味を引くだけの要素を持ったものだった。
それは、昨日も見た光景。
(カチャン)
(ガシャン)
黒髪の女の子が、ゴミの山の上に陣取って、何かを探している姿。
それは見つからない探し物を探しているようでもあり、まだ見ぬ宝物を探しているようでもあり。ゴミの山の上に立つ女の子の姿が、異様なコントラストを伴って、僕の目に飛び込んでくる。
「……………………」
女の子はゴミを手にとっては眺め、ゴミを手にとっては眺め、気に入らないと判断すると捨てていた。僕はそんな彼女の姿を、じっと見つめていた。彼女は自分が僕に見られているということなど、まったく気付いていない様子で、自分の作業に没入していた。
僕はその光景を、少しだけ「面白い」と思った。ゴミの山の上に立つ少女。とても退廃的で、絵になる風景だと思った。この空間だけ切り取って、額縁に入れておきたい。そんな僕らしくない感情が、僕の中に生まれた。
やがて女の子が、一つのゴミを拾い上げた。ここから見ると、それは壊れた電子レンジの扉に見えた。女の子はそれをあちこち見回した後、それをおもむろに学生鞄の中に押し込んだ。扉は少し大きかったので、入れるのに少々難儀しているように見えた。しかし、それも束の間のこと。
女の子は鞄の中に扉を押し込むと、鞄を抱えてすばやくその場を後にした。僕はそれを(彼女は知らないだろうけど)見送った後、何事もなかったかのように、また学校への道を歩き出した。
「……………………」
僕は歩く途中、ゴミの山の上に立つ女の子の姿を思い浮かべる。それはまるで、ゴミを支配する小さな妃のようであり、ゴミの中に立ちつくす無力な一本の葦のようであり。コントラストの効いたその光景が、僕の中で何度もリフレインする。
絵になる風景だと思った。
「……………………」
僕に一つ、楽しみが増えた気がした。
それから僕は、行きと帰りに、その女の子の姿を見ることが、唯一の楽しみになった。
女の子は僕が学校へ行く途中、そして僕が学校から帰る途中、そこに必ずいた。僕の期待を裏切ることなく、いつも同じ時間、そして同じ時間だけそこにいて、僕にあのコントラストの効いた風景を見せてくれた。芸術的で退廃的な、あの光景を。
いつしか僕はその風景と共に、その風景を作り出す、あの黒髪の女の子にも興味を持ち始めていた。
彼女がそこにいる理由。そこでゴミを探す理由。ゴミの山の上に立つ理由。ゴミを持って帰る理由。
そして何より、彼女が誰なのか。
僕にとってその女の子は、いらないものではなかった。必要なものだった。
僕が今ここにいるための、数少ない理由だった。
その日の帰りも、僕はいつものように、あの「墓場」の前を通った。それまでただの通過点に過ぎなかったあの場所が、僕にとって、唯一の特別な場所になった。
僕はそこで、「彼女」が来るのを待った。今日はいつもより少しだけ早く来たので、「彼女」の姿は無かった。僕は静かに足を止め、「彼女」が来るのを待つ。こうして何かが「来る」のを待つのは、なかなか久しぶりの感覚だ。
「……………………」
……「彼女」はいつもより少しだけ送れて、「墓場」に姿を見せた。僕は「彼女」が「作業」を始めるのを、何とも言えない気持ちで見つめていた。「彼女」はいつものように、鞄を手に持ったまま、「作業」を始めた。
その時だった。
「……………………」
彼女の顔が、僕のほうを向いた。
「……………………」
彼女は僕に気付かなかったのか、一瞬こっちに顔を向けたと思ったら、またすぐに「作業」を再開した。
僕はその時、彼女の顔をはっきりと見た。一瞬だけだったが、それは僕にとっては十分すぎるほどの時間。
それは、見覚えのある顔。いつもではないけれど、よく見かける顔。見たい見たくないに関わらず、よく見かける顔。でも、その顔をこの場で見かけるということは、さっきまでの僕の考えの中には無くて。
「……羽山……」
それは、あまりに唐突で。
その次の日の朝。
僕は確たる証拠が欲しくなった。何かが欲しいと思ったことは、久しぶりだ。久しぶりに抱く感情。これこそが、僕にとっての唯一の刺激。僕は刺激を興味に変え、ある考えを胸に秘めて家を出た。
「……………………」
僕はいつもと同じように、あの「墓場」の横へ差し掛かった。
そしてそこに、いつものように「彼女」が現れた。それを遠くから見つめる僕。彼女はそれに気付くことなく、いつものように「作業」を開始する。ゴミを手に取り、それを眺めてから、気に入らないと判断すれば捨てる。他の人間から見れば奇異にしか映らないこの光景は、僕の中でいまや日常の一部と化していた。
そしてこの日も、彼女はお目当てのものを見つけたようだ。今日彼女が見つけ出した「宝物」は……どうやら、使えなくなった自動車のハンドルのようだ。彼女はそれを暫時見つめたあと、平時と同じようにそれを鞄の中へ押し込んだ。そして、そのまま何食わぬ顔でその場を後にする。
僕はそれを見送った後、学校へ続く道を歩く。
一時間目の休み時間。
僕は何気なく席を立ち上がり、何気なく教室を歩く。別に、暇だから歩いているわけではない。僕にしては本当に珍しく、確固たる目的を持って教室を歩いている。目的は唯一つ。「確たる証拠」を手に入れること。
「……………………」
僕は見た。
底が少しだけ丸みを帯び、一時間目にもかかわらずすでに中に何も入れる余地がなくなっている、あの学生鞄を。
思った通りの、人物の席で。
その日の放課後。あの場所に、僕はいた。
「……………………」
「……今日は何を探してるんだい?」
僕は抑揚の無い声で言った。相手は声を掛けられた事自体に驚いていたようだったが、それも束の間だった。すぐにまた、感情のない表情へと戻った。
「……キーボード、電子レンジの扉、ラジオ、水道管……それに今日は、自動車のハンドル」
「……………………」
「ずいぶん、面白い趣味をしてるんだね。ガラクタ集めなんて」
「……………………」
「でも、僕はいい趣味だと思うよ。退廃的で、どこか救いがあって」
僕はありのままを言った。
「……いつから見てたの?」
「キーボードの日から」
羽山は僕をじっと見詰めたまま、身じろぎ一つしない。その手には、捨てるつもりであったのだろう、黒ずんだ電気コードが力なく握り締められたままだ。
「邪魔して悪かったね。僕はもう行くよ」
僕はそう言って、その場を後にしようとした。
「……羽丘君、だっけ」
「そうだよ。なんだい?」
「……こんなところにいる私を見て、どう思った?」
「最初は、変だと思った。次は、面白いと思った。最近は、これは僕にとって必要なものなんだと思うようになった」
「……………………」
「探し物、見つかるといいね」
僕は最後にそう言って、その場を後にした。
次の日の朝。
僕はいつもより少しだけ早く起きて、あの場所へ行った。僕は理由もなく早起きをするタイプではないので、早起きをした理由はきちんとあった。
僕は、僕に早起きをさせる「理由」を作ってくれたあの光景に、とても感謝していた。久しぶりに、何かをしているという実感を得られた気がした。何かをしているという感覚が、僕にとってここまで興味深く、刺激的なものだとは、思ってもみなかった。
そして、あの場所で五分ほど待ってから。僕を早起きさせた「理由」が、そこに姿を現した。
「……………………」
「……………………」
彼女はもう、僕がここにいることに対して、特に驚いている様子は無かった。ある意味では、僕がいることなど最初から分かっていたかのような、そんな表情。
だから僕は、安心して口を開くことができた。
「……今日は何を?」
「……………………」
「僕も少し、探し物をしててね。何なら、一緒にしようと思って」
「……羽丘君」
「なんだい?」
「私のこと、どう思ってるの?」
漠然とした質問だったが、僕にとっては、僕の考えを披露できる、すばらしい質問に思えた。
「そうだね。あえて言うなら、芸術家、ってとこかな」
「……………………」
「いらないものの墓場の上に立つ少女。僕はこれ以上絵になる風景は無いと思うね」
「……いらないもの、ね……」
「そんな絵になる風景の一部に、僕もなりたかった。だから僕は今こうして、ここに立っている。ここにいれば、自分がいらないものじゃないという感覚になれる。なぜなら、この風景は僕にとって必要なものだから」
「……ずいぶん、面白いことを言うのね。ちょっと、見直したわ」
「大したことじゃないさ」
羽山は少し笑みをこぼすと、自分の方へ半歩、近づいてきた。
「……で、今日は何を?」
「そうね……薄い鉄板を探してるの」
「奇遇だね。僕もなんだよ」
僕がそう言うと、羽山はくすっと笑って、「作業」を開始した。僕もそれに習って、「作業」を始める。こんな風に誰かと一緒に何かをすることは、実に久しぶりの事だ。僕はこうして、僕に何かをするきっかけを与えてくれる彼女に、少なからず好意を抱き始めていた。
久しぶりに、気分が良かった。空が晴れていたのも、僕の気分のよさを加速させた。
あるとき不意に、羽山が手を止めて、僕にこう問うた。
「……羽丘君」
「なんだい?」
「……空、飛びたいと思ったことある?」
「あるさ。何度もね」
「……それだけ」
「そう。それならいいんだ」
こんな何気ない会話が、僕にとっては何よりも「必要なもの」だった。
その後、羽山は自分のメガネに適うものを見つけ出したのか、それを鞄へ押し込んだ。
「……羽丘君」
「なんだい?」
「……放課後、ここに来れる?」
「もちろんさ。この場所は、今の僕にとって唯一『楽しい』と思える場所だからね」
「……話したいことがあるの」
「いいよ。楽しみにしておくね」
そう言うと、羽山は先に「墓場」を後にした。僕はそれを見送った後、続けてその場を後にした。
僕の頭はもう、「放課後」のことでいっぱいだった。
「……………………」
僕はただ「放課後」のことだけを考えて、その日の授業を受け続けた。目に入るもの、耳に届くもの、すべてが瞬時に、僕の頭の中から消えてゆく。「放課後」という巨大な存在が、瑣末な事柄をすべて飲み込んでゆく。僕にとって授業は、「いらないもの」だった。
そんな調子ですべての授業を飲み込み、いよいよ「放課後」となった。
僕は鞄を持って席を立ち、教室を後にした。
「……………………」
一瞬だけ、「彼女」の席を見やる。
そこにはもう、「彼女」の姿は無かった。
僕の予想通り、「彼女」はそこに先に来て待っていた。僕が来ても、彼女は特に表情を変えずに、ゴミの山の頂上に立っていた。バックには夕焼け。ゴミの山に一人立つ彼女の姿は、額縁に入れるのさえ勿体無い、荘厳で美麗な、今までで最高の光景を作り出していた。
そして、今から僕もその光景の一部となる。そう思うと、僕の中に、久しく感じたことの無い「高揚感」が芽生え始めた。僕は僕の中に「高揚感」を生み出した彼女に、どこまでも感謝せずにいられなかった。
「……来てくれたのね」
「もちろんさ。今日はこれだけを楽しみに過ごしてたからね」
彼女は表情一つ変えず、不意に僕に背を向けた。僕は特に気にすることなく、彼女の次の言葉を待った。
「……羽丘君」
「なんだい?」
「……私がどうして、こんな場所で、こんなことをしているか、分かる?」
「いや。僕には分からないよ。もっとも、教えてくれるんだったら、やぶさかではないけどね」
羽山はしばらく間を置いて、僕に何を話すべきか考えているみたいだった。その間は僕にとって、とても心地よく、いつまでもその中に身を浸しておきたいと考えてしまうような、そんな間。
「……羽丘君」
「なんだい?」
「……………………」
「……私は、お父さんに会いに行きたい」
「お父さんに会うために、こんなことをしているの」
「……………………」
「お父さんは、遠い遠い場所にいる。だから、遠い遠い場所に行くための、準備が必要」
「……………………」
「これは、そのための準備。遠い遠い場所に行くための、準備」
僕はそう語る彼女の姿を、ただじっと見つめていた。言葉を紡ぐ彼女の姿は、無数のゴミを従える毅然とした女王のようであり、そしてまた同時に、父親の姿を捜し求める、年端も行かぬ幼い子供のようでもあり。
「……羽丘君」
「なんだい?」
「……私のお父さんがどこにいるか、分かる?」
「いや。僕には分からないよ。キミのことも、よく知らないくらいだからね」
「……………………」
「……………………」
「……私のお父さんは……」
「……私のお父さんは、三年前からずっと、あの空の上にいるの」
「……………………!」
「空の上で、今でも誰かが来るのを待ってる。三年前から、ずっとずっと」
「……………………」
「私のお父さんは、まだ死んでない。今でも、助けを待ってる。だから、私が助けに行く」
「……………………」
「空に行くための船を作って、お父さんを助けに行く。他のみんなが忘れても、私のお父さんはお父さん」
「……………………」
「他のみんなから『いらないもの』扱いされても、私にとってのお父さんは『必要なもの』」
「……………………」
「羽丘君には分からないかもしれないけど、私には」
「分かるさ」
僕は思わず、そう口にした。
「どうして……」
「分かるよ。なぜって……」
「君のお父さん『も』、あの宇宙船『エクスプローラ』に乗ってた、そういうことだろう?」
「『も』……? 羽丘君、それって……まさか……!」
「……ははっ。夢みたいな話だよね。でも、これは本当なんだよ」
「だから、君の気持ちはよく分かる。まるで君が僕で、僕が君みたいだ。そう、そんな感じ」
「僕も同じとき、同じ場所で、同じ人間を失った。僕にはそれが、夢みたいな話に思えた。起きたら全部嘘だったっていう、悪い夢」
「でも、それは夢じゃなかった。本当だった。本当であって欲しいことは、みんな夢なのにね」
「すごく悲しかったよ。大切な人を失ったこともあったしね。でも、何より……」
「僕の父さんの死っていうのが、僕以外の人にとってどれだけ意味の無いことかが分かったことが、一番悲しかったね」
「僕の父さんは、他の人にとって『いらないもの』だったってことが。その事実を受け入れるのが、一番悲しかったね」
「それからの僕は、僕も含めたすべてが『いらないもの』に見えた」
「だから、何にも興味を持てなかったし、何にも意味を見出せなかった。そんなもの、それこそ『いらないもの』だと思ってた」
「それを変えてくれたのが、君だった」
「『いらないもの』の頂上に立つ君に、僕はこの上ない感動を感じた。興味を持った。意味を見出した。『必要なもの』だと初めて思った」
だからこそ……
「……だからこそ、僕から君に頼みがある」
「……頼み?」
「もう何も包み隠す必要はない。そんなものは『いらないもの』だ。僕にもう、『いらないもの』は何一つ必要ない」
「僕と一緒に、父さん達に会いに行こう」
「君は宇宙船で行くつもりだったのかも知れないけど、それももう必要ない。それに……」
「……僕らにとって『必要なもの』に会いに行くのに、『いらないもの』で作られた物を使うのは、彼らに失礼だ。彼らは僕ら以外の人から『いらないもの』扱いされたんだ。だから、『いらないもの』を嫌悪しているはずなんだ」
「本当に必要なものだけを持っていこう。本当に必要なものだけを」
「目も、耳も、鼻も、口も、眉も、毛も、爪も、骨も、腕も、手も、足も、血も、内臓も、何も必要ない。必要なものは、『僕ら』だけだ。さっきのは、『僕ら』を目に見えるものに仕立て上げている『いらないもの』に過ぎないんだ」
「本当に必要なものだけを持っていこう。本当に必要なものだけを」
本当に、必要なものだけを。
「……羽山君」
「なんだい?」
「……あなたは私にとって、『必要なもの』。じゃあ、私はあなたにとって?」
「『必要なもの』だ。約束するよ」
「さぁ……行こうか」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。