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#01 小夏と優真

海からの強い風にあおられて、小夏のお下げ髪が少しゆれる。

「明日から夏休みかぁ」

七月もあと十日ほど。今日は学校で終業式があって、それが終われば九月まで夏休みだ。あれもしよう、これもしよう――小夏が胸をふくらませて見上げた空は透きとおるように青くて、もくもくした大きな入道雲が浮かんでいる。榁の夏は、だいたいこんな雰囲気から始まるのだ。

おだやかな波が打ちよせる音を聞きながら、小夏は海沿いの道を一人でトコトコ歩いていく。手さげぶくろから古びた本を取り出すと、おもむろにしおりの挟まっているページを開いた。小夏が読んでいるのは「オン・ステージ」という本。ポケモンたちが団員を務める劇団「ディリス」を舞台に、稽古や日常、そして演劇の風景を描いたファンタジー小説だ。表紙にはポケモンが可愛い衣装を着て仲良く並んでいるけれど、中身は厳しい現実や複雑な人間関係をしっかり描いていて、なかなか骨太な一冊と評判だ。

小夏は歩きながら本を読んでいる。お行儀が悪いけれど、一度読み始めると夢中になってしまってやめられない。目は少し日焼けした本のページにばかり向いていて、背中から男子が走ってきていることにはちっとも気付いていない。男子が小夏のすぐ側まで駆け寄ると、そのまま右手を伸ばして……。

「取ったーっ!」

「わっ!?」

小夏があわてて頭に手を当てたときは、時すでに遅し。かぶっていた紺色の帽子をかっさらって、小夏の横を駆け抜けていく。その男子の姿に、小夏は見覚えがあった。見覚えがありすぎて、嫌になるくらいだ。

「ちょっとやめてよ、優真くん」

「なんだよ、よそ見してる方が悪いんだぞ」

指に引っ掛けた帽子をくるくる回しながら、優真がいっちょ前に言って見せた。小夏はすっかり困った顔をして、読んでいた本を閉じて目をふせている。

優真は小夏の家の近くに住んでいる同じ組の男子で、なんだかんだで幼稚園の頃からずっと一緒にいる。一緒にいるけれど、仲は最悪と言ってよかった。おとなしく身体を動かすのが苦手な小夏に比べて、優真は腕白でやんちゃ、運動神経だって抜群にいい。スイミングスクールに通っていて、水泳が大の得意だった。小夏はと言うと、25メートルのプールを半分も泳げなかったから、やっぱり正反対だ。

「歩きながら本読むのやめろよな。テレビでも言ってたぞ、歩きスマホは危ないって」

「もう、ほっといてよ」

ぽーん、と投げられた帽子をどうにか受け止めて、小夏が大きなため息をつく。優真はふん、と軽く鼻で笑ってから、小夏のことをほっぽらかしにして、先に学校に向かって走って行ってしまった。これだから優真くんは苦手なんだ、そんな風に思いつつ、小夏がいつもよりうんと深く帽子をかぶりなおした。

小夏と優真は初めて出会ってから変わらずこんな感じで、優真が小夏をからかったりイタズラしたりということがずっと続いている。一緒にいてもいいことなんてひとつもないから、小夏は優真に構ってほしくなかったけれど、優真の方はそうじゃないみたいで、さっきみたいにしょっちゅう小夏にちょっかいを出していく。何度言ってもやめないから、小夏は優真のことが苦手でしょうがなかった。

ともかく、学校には行かなきゃいけない。またため息をひとつついてから、小夏は学校へ向かって歩き出した。

 

 

一足先に教室へ滑り込んだ優真が、ランドセルから教科書とノートを取り出して机の中へ入れる。後ろのロッカーにランドセルをしまいこむと、近くの席に座っていた宮沢くんに声をかけた。

「よっす、宮沢」

「川村くん。おはよう」

先生が来て朝の会が始まるまで、優真はいつもこうやって先に来ている友達とおしゃべりをして過ごしている。それも今日でしばらくお休み。明日からは待ちに待った夏休みが始まって、学校には来なくなるからだ。宮沢くんと話しているのも、夏休みの過ごし方についてだ。

「八月の十六日とかだったっけ? 水泳大会ってさ」

「そうだな。宮沢、お前も出るんだろ?」

「一応出るけど、川村くんにはかなわないよ」

宮沢くんがこんなことを言うのは訳がある。優真は水泳が大の得意で、同級生の中では誰よりも早く泳ぐことができた。いや、同級生相手に留まらない。上級生であっても、優真の泳ぎに付いて来られる生徒はそうそういない。この学校で一番早く泳げるのは優真だ、そんな風に考えている人も珍しくない。宮沢くんもそれを分かっていたから、初めから「優真にはかなわない」なんて言っているのだ。

榁では夏休みの中ごろに水泳大会が開催されて、たくさんの人が市民プールに詰めかける。年齢ごとに部門が分けられて、その中で一位を競うのだ。五年生の優真が出るのはジュニア部門、他の学校から水泳の得意な子供が集まってくる。そんな中にあっても優真は一番の優勝候補と言われているほどだから、どれくらい泳ぎが得意か分かるはずだ。

「けどさ、もしかしたら今年が最後の夏休みになるかも知れないんだよね」

「お前もトレーナーになるつもりなんだっけ?」

「うーん。まだ決めてないけど、どうしよっかなって考えてるとこ」

「そっかぁ。出て行ったら寂しくなっちまうな」

この地方では十一歳になるとポケモントレーナーの免許が取れるようになって、それから外の世界に一人で旅立っていく子供が多くいる。榁も例外ではなくて、五年生から六年生に上がる時にたくさんの生徒がいなくなって、クラスの数が一気に減るのだ。もし五年生が百人いるとすると、六年生は三十人いるかいないか。大抵ひとつのクラスにまとめられてしまう。優真の友達である宮沢くんも、トレーナーとして外へ出て行こうかどうか考えているみたいだ。

一方、優真は外に旅立つことには興味が無くて、来年の今頃も学校で勉強しているのが普通だと思っている。ポケモンは嫌いではなかったけれど、トレーナーになりたいとは思わなかった。他にもっとなりたいものがあったから、そっちを頑張ろうと考えている。だから宮沢くんがトレーナーになることを考えていると聞いたときは、言葉通り少し寂しさを感じたのだった。

「おはよー、綾乃ちゃん」

「おー、こなっちゃん。おはよっ」

優真が宮沢くんとお喋りをしていると、ついさっき道端で帽子をかっさらった小夏が遅れて教室に入ってきた。向かいの席に座っている綾乃に挨拶すると、優真と同じように教科書とノートを机に入れて、ランドセルをロッカーへ片付けに行く。そんな小夏の様子を、優真はじーっと見つめている。優真の視線が小夏に向いていることに、すぐ近くに座っている宮沢くんはちっとも気付いていない。

「はぁーあ。朝からヤな気持ちになっちゃったよ」

「あれでしょ? まーた川村にちょっかい出されたんでしょ?」

「そうだよ。もう、わたしの帽子ひったくって行くんだもん、ビックリしちゃうよ」

「カワイイじゃない。ちびっこのイタズラみたいでさ」

「全然かわいくないよー」

にやりと口元に笑みを浮かべた綾乃に、小夏が不満げな顔をして応える。その一連の様子も、優真はひと時も見逃さない。すると不意に、綾乃がこちらに目を向けてきた。やばい、そう思った優真がすぐさま顔を背けて、前にいた宮沢くんを視線の逃げ道にした。

「どうしよっかなー、従姉妹の姉ちゃんみたいに電気を使うポケモンにしよっかなぁ。川村くんはどう思う?」

「……えっ? あ、悪い悪い、どうした?」

まともに話を聞いていなかったところへいきなり話を振られて、優真はちょっとまごつきつつもなんとなく返事をする。やっぱり宮沢くんは気付いていないみたいで、これといって優真のことをおかしいと思ったりはしていない様子。

「えっとね、僕がパートナーに選ぶポケモンだよ。どんな子にしようかなって」

「そりゃ……お前の好きなように選べばいいじゃん。俺は水ポケモンが好きだけどさ」

「川村くんは水ポケモンかぁ。どうしようかなぁ」

相棒を決めかねる様子の宮沢くんを横目に、優真の視線はまた小夏に向けられて。見られている小夏の方は全然意識する様子もなく、友達のである綾乃と話をしている。結局それからは特段何も起きずに、終業式でなんとなく校長先生の話を聞いて、配布物を一式もらって、学校はおしまいになった。

 

そういうわけで、午前中で学校が終わった後の帰り道。

「じゃあね、こなっちゃん。また塾でね」

「うん。まりちゃん。ばいばーい」

校門前で友達の東原さんとお別れした小夏が、行きに比べて少し重くなったランドセルを背負い直す。ふう、と落ち着いたところで、腕に引っかけた手さげぶくろから朝読みかけていた本を取り出した。

(あいつ、また歩きながら本読もうとしてる)

……という小夏の仕草を、優真が後ろから見ていた。ちょうど帰ろうとしたところで目の前に小夏がいて、ついそちらに目が向いてしまったようだ。その小夏は朝と同じように、歩きながら本を読んでいる。優真はそれがちょっとばかり気に入らなくて、またちょっかいを出してやろうという気持ちになった。

本に釘付けになっている小夏の横をすっと通り過ぎてから三歩ほど前に出て、手を伸ばして本の背表紙をむんずと掴んだ。

「あっ」

「まーた歩きながら本読んでやがるな、小夏」

びっくりした小夏から本をひったくると、パタン! とページを閉じてしまった。小夏が本を取り返そうと手を伸ばすけれど、優真が軽くあしらって動きを止めてしまう。

「ちょっと、本返してよ」

「ダメだぞ。歩きながら読まないって約束するまでは返さないからな」

「優真くんには関係ないもん」

「お前のためにやってることなんだぞ」

ひょいひょいと本を泳がせてしばらく小夏をからかっていた優真だけれど、やがてそれにも飽きてしまったのか、不意に小夏へ本を押し付けた。

「そんなに言うなら返してやるよ。また歩きながら読んでたら、また取り上げるからな」

「もう、ほっといてよっ」

優真から押し付けられた本を手さげぶくろへしまい込むと、小さな口を目いっぱいへの字に曲げた小夏が、怒った顔をして早足でその場を立ち去る。

「……ちぇっ。なんだよ、小夏のやつ」

その後ろ姿を、優真がやっぱりじいっと見つめていたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。