それにしても、綺麗な夕焼けだ。
僕は肩に食い込む群青色の指定カバンを掛け直して、人通りの少ない住宅街の道を歩いていく。端々が錆びた白いガードレールに、落下防止用の緑のフェンス。特徴の無い住宅街と言ってしまえばそれまでだったけれど、僕はこの通りを歩くのが好きだ。
いつも通る見慣れた場所だと分かっていても、分かりやすい特徴の無いこの道を歩いていると、ふとした瞬間に自分がまったく見知らぬ場所へ迷い込んでしまったような錯覚を覚える瞬間がある。その瞬間、自分の存在が曖昧になる。僕は今どこにいるのか、自分は誰なのか。この世界における「僕」の存在を定義する情報が失われて、ふわふわと宙に浮いた不安定な存在になる。僕はそれが好きだった。
「ついでに隣に可愛い女の子でもいればいいんだけど、世の中そんなに甘くないんだよね」
「僕の隣に誰かいたら、キミはどこに行くの? 僕の後ろ? それとも前?」
僕の問いには答えはない。まあ、最初から分かっていたことだ。まともに意思疎通ができた記憶がないんだから、今日に限ってできるなんて、そんなことがある訳が無かった。
住宅の塀を越えて、大きなイチョウの木がせり出している。秋になるとレモンのように色づいて、ああ綺麗だなあ。そう言っているうちにバサバサと一斉に散って、道を黄色く塗り潰す。映える色に染まってすぐに散っていく彼らが、自分の生き方とか、そういったものを考えることはあるのだろうか。植物が考えることなんてない? ごもっとも。現実はいつだって正しい。僕はそれに抗えない。
イチョウの木がある家を通り過ぎると、少し長い横断歩道がある。ここを渡れば、僕の家はすぐそこだ。さあて、帰ったら何をしようか。まずは洗濯機でも回そうかな。もう四日分くらい溜まっていた覚えがあるし、ちょうどいい頃合だろう。家事をしている分には、僕が何をしていたって気に留めないはずだ。
赤く灯っていた信号が、パッと青に変わる。僕は前々から、信号の「進め」を「青」と表現することに引っ掛かりを覚えていた。あの色はどう見たって緑だ。赤と緑でいいはずなのに、何故だかあれは青と呼ぶらしい。けれど僕には緑に見える。他人には緑に見えなくても、僕には緑に見えている。他人と自分の見ているものは違う。同じ方向に目を向けていても、同じ色・同じ形に見えているとは限らない。そもそも、同じものを見ているかどうかさえ分からない。
だから、僕は僕の目で見たものを信じようと思う。他人の意見を取り入れるのは、それからだって遅くない。まずは、僕が物事をどう見ているか、だ。
放っておくといつまでもだらだら続きそうな考え事を打ち切って、横断歩道に足を踏み入れる。ここは見通しのよい道、交通事故だってそうそう起こるものじゃあない――はっきりそう考えていたかどうかは別として、僕が横断歩道を渡ることに何のリスクも感じていなかったのは間違いない。
ごうん、と地面をタイヤが擦る音が聞こえて、僕はハタと右手に目をやった。僕の目が捉えたのは、車種は分からないけれど赤いスポーツカーが、恐らく信号を無視して道路を突っ切ろうとしている光景だった。クルマの進行上には横断歩道があって、その横断歩道の上を僕が今まさに通過しようとしている。このままの状況が続けばどうなるか。それをわざわざ言葉に直す必要を、僕は感じない。
ああ、ここが年貢の納め時か。不思議と落ち着いた心持になる。迫ってくるクルマからは、身を翻しても逃れられそうにない。数秒後にはすべてが決しているだろう。体が痛むだろうけど、どうせ少しの間だ。僕のしたことに比べれば、この程度で済むなら僥倖とさえ言えるかも知れない。信号無視の車に轢き潰されるのなら、僕に過失はなくて、あの人にも幾らかはお金が転がり込むはずだ。僕がいなくなって、小銭程度でもお金が増えるのなら、一石二鳥じゃないか。
うん、実にちょうどいい。何も不都合なことなんてない。この辺で終わりにするのも、悪くない――。
「危ないっ!!」
覚悟を決めた、というよりもどこかリラックスしていた僕は、真後ろから飛び込んできた声に反応できず、次いで飛び込んできた身体にもまったく抵抗することなくそのまま身を任せる形になった。僕は抱きかかえられる形になって、横断歩道の向こう側まですっ飛んでいった。どさりと音がして、道路に僕のカバンが投げ出される。この間、僕は僕の身に何が起きているのかさっぱり分からないままだった。
びゅんと勢いよく風を切って、僕を轢くはずだった赤いスポーツカーが横断歩道を突っ切っていく。幾度か目を瞬かせて、僕は漸く今の状況を確認できるだけの心のキャパシティを確保した。一呼吸置いた上で、改めて目を開いてみる。
僕の、文字通り目と鼻の先に、女の子の顔があった。
「よ、よかったぁ……大丈夫……って、わぁ?!」
「?!」
女の子はほんの、ほんの一瞬だけ安堵した表情を見せたかと思うと、その次の瞬間には大きく目を見開いて驚愕の色を浮かべて、人間業とは到底思えないような速さでもって五歩ほどずざざざざと後ずさりをした。お尻を地面にぺたんと付けたままスカートをずりずり引きずって下がったから、多分洗濯しないとダメだろうなあなどと、僕は至極どうでもいいことを考えていた。
女の子は頬を林檎のように赤く染めて、気恥ずかしそうに僕を見詰める。
「ご、ごめんなさい……急に、こんなことしちゃって……」
「あ、いや……僕の事、助けてもらったみたいで、なんて言ったらいいのか……」
そして僕の方も、一連の出来事があまりに急すぎて、女の子の言葉にうまく反応できずにいたのだった。
女の子が後ずさりしたおかげで僕との間に距離ができて、お互いに全体像を掴めるようになった。僕は咳払いを一つして、改めて女の子の姿を瞳に映し出した。そうやってみて初めて、僕は眼前の女の子に見覚えがあることを思い出した。
「えっと……確か、中原さん、だっけ」
「えっ? あっ、はい。中原ともえです」
「確か同じ小学校だったよね。ほら、山の上にある萌葱小学校」
女の子の名前は中原さん。本名を「中原ともえ」という。同じクラスにいる同級生であると同時に、僕が口にした通り、同じ小学校に通っていた間柄だ。もっとも、それ以上に何かあるわけじゃなかったし、萌葱小学校にいた頃も何か話をしたりした記憶はなかった。それでも僕は、どうしてだか中原さんの名前を覚えていた。小学生の頃に何かあったような記憶があるけど、今スッとは出てきそうになかった。
二人揃ってカバンを投げ出し道路に座り込んだまま、目線を合わせて会話を続ける。傍から見ると、なかなかにシュールな光景だろう。
「ケガとか、してないかな? わたしが、地面に押し倒す形になっちゃったけど……」
「特に痛いところとかはないよ。中原さんの方こそ、大丈夫?」
「うん、わたしは大丈夫。こう見えても、結構頑丈にできてるからね」
制服についた砂埃をパタパタと払って、中原さんが立ち上がった。僕も同じようにして立ち上がると、地面に転がったカバンを拾い上げた。すぐ近くに中原さんの分も転がっていたから、一緒に取り上げて渡してあげる。中原さんはカバンを受け取って、ありがとう、と小さな声で呟いた。
「車には、十分気を付けてね。この辺り、ああいうひどい運転をする車が、結構通るんだよ」
「肝に銘じておくよ、中原さん。今度は左右を見てから渡るようにしなきゃね」
立ち上がった中原さんが呼吸を整えてから、改まった口調で僕に目を向けて話し始めた。
「ねえ、川島くん」
「どうしたの?」
「わたしが言っても、全然、説得力無いかも知れないけど……」
目線を少し落とした中原さんが、小さな声で呟く。それから一拍置いて、不意に大きく顔を上げた。
「もし、さっきの車に轢かれて、死んじゃったりしたら」
「……わたしは、きっと誰かが悲しんでたと思うよ」
不意に寄せられた中原さんからの言葉。僕はその言葉に一瞬どきりとしながら、目を伏しがちにしつつ答える。
「……そうだと、いいんだけど」
僕はその一言を呟くのが精一杯で、それ以上彼女に何か言おうとは思えなかった。思えなかったし、むやみに突っかかるべきじゃないという判断も働いた。言いたいことが無いわけじゃなかったけど、今ここで僕の私的な意見を披瀝したところでどうにもならないということくらい、僕にも分かっていた。
「うん……でも、川島くんが無事でよかったよ。それじゃ、わたしはこれでっ」
中原さんは微笑んで会釈をすると、踵を返して住宅街へ向けて走っていく。僕は引き摺られるように後ろへ向き直って、中原さんの背中を目で追いかけた。中原さんの足は速い。軽快に一歩前へ踏み出すごとに、その姿はぐんぐん小さくなっていく。
(結局、死に損なっちゃったな)
パタパタと駆けていく中原さんを見ていた僕が、ふと少しばかり、目線を後ろへずらした時だった。
中原さんのすぐ後ろ、足元でぎりぎり蹴られないくらいの位置――そこに。
(……まさか)
僕には、確かに見えた。
二本のごく短い足と、かろうじて頭を覆う程度の小さな葉っぱのようなものを付けた、サクランボに顔が付いたかのような不可思議な生き物が、中原さんの足元にぴったりくっついているのが、確かに見えた。
明らかに周囲から浮いた様相、そして何より「それ」特有の雰囲気を、僕は即座に察した。
「ねえ――あれは」
「同じ、『仲間』なの?」
僕に足元に寄り添う”カラカラ”が――ごくごく小さく、その首を縦に振るのが見えた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。