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#10 A Solitude That Asks Nothing in Return

偶々早起きした月曜日から、それなりの日時が過ぎた頃だった。

夕暮れ時と言うには些か薄暗い空模様を窓越しに眺めながら、僕は黒板の上に据え付けられた電波時計に目をやった。長針は4と5の間の5寄りを、短針は5と6の間の若干5寄りを指している。あと十分もしないうちに、下校しましょうという放送が全校に流される時刻だ。

僕以外誰の姿もない貸切状態の教室で、おもむろに読んでいた本を閉じる。パタン、と思いのほか音が響いた。背表紙には丸文字系のフォントで「ネイティのいた日々」と書かれている。著者はわざわざ言うまでもないけど、弘前さんだ。

面白くて一気に読み終えたという中原さんは、約束通り僕にこの本を貸してくれた。前々から気になっていたから僕もすぐに読み始めて、みるみるうちに引き込まれていってしまった。なるほど、中原さんの言う通りだ。この本は面白い。それでいて実に示唆に富んだ内容だった。

中身を掻い摘んで説明しよう。弘前さん直筆のエッセイで、ネイティが見えるようになった経緯と見えてからの数々の出来事、そして――これはまだ読めていないけれど、最後にネイティはどうなったのか、ということが書かれている。元々物書きを目指していたというだけあって、ともすると重苦しくなりがちなポケモンというテーマを、軽妙でクスリと笑えるタッチで書いている。

例えば、弘前さんの家族が彼女を病院へ連れていったときの話。家族の無理解にさぞ憤っていたのかと思いきや、当の弘前さんは「今まで知らなかったが、うちの近隣は精神病院の激戦区だったのだ」「病院間でスタンプラリーが開かれていればパーフェクトを達成できただろう」「ネイティの絵を見せたら『和菓子みたいですねえ』とツボ直撃のコメントをもらって悶絶した」――等々、気ままに思いを綴っている。ちなみに僕も和菓子で吹いてしまった。

もちろん締めるべきところは締めている。ネイティを消すために手術までするとなった時は部屋に立てこもって一歩も出なかったと言うし、ネイティとの一対一の対話はとても深い。「あなたが見えるようになったのは、必ず理由があるはず」と何度も繰り返し、ネイティが見えるに至った自分の心に懸命に向き合っている。

最後まで通して読みたかったけれど、あいにくタイムオーバーとなってしまった。栞を挟んだ「ネイティのいた日々」をカバンにしまい込むと、椅子を引いて立ち上がる。出入り口付近に掛けてある教室の鍵を取ると、職員室へ向かった。

僕が家に帰ってから本を読むという選択肢を取らなかったのは、単純に家に居づらいということもあったし、もう一つ理由があった。

「練習、そろそろ終わりかな」

バドミントン部に所属している中原さんを待っていたからだ。僕は特に部活には入っていなかったから、どこか別の場所で時間を潰す必要があった。図書室も考えたけど、この時期はテスト勉強目的でやってくる生徒が多いことを知っていたので、席取りの自信が無かった僕は教室を選んだ。あそこ、元々の座席数も多いとは言えないしね。

職員室に鍵を返して、下履きに履き替えて校門まで歩く。あとは中原さんが来るのを待つだけだ。

部活終わりと分かる生徒達が続々と帰宅の途に付く。大抵何人かで固まって、わいわいと楽しそうに話しながら帰っていく。僕は何の気なしに彼らの姿を眺めながら、思考は別の場所に至っていた。

(ポケモンは悩みや苦しみの具象化だって、弘前さんの本にも書いてあった)

以前別の本で目にした記述――「ポケモンは悩みの具象化である」。それとほとんど同じことが、弘前さんの「ネイティのいた日々」にも綴られていた。全体構成の都合で、弘前さんのどんな悩みがネイティという形になったのかはまだ明かされていなかったけれど、少なくともネイティが彼女の懊悩をカタチにしたものだということに間違いは無かった。

(少なくとも、僕のカラカラは間違いなくそれに当てはまる)

何度となくカラカラの造形を眺め回してみて、こいつは疑いの余地無く僕の後ろ暗い部分をカタチにしたものだと確信している。カラカラの性質や性格は、紛れも無く僕の中の僕として認めたくない僕そのものだ。僕自身がそう確信しているのだから、他人が否定できるはずも無い。例えカラカラを見ることができている中原さんであろうと、少なくとも今の時点では僕の意見を覆すことはできないだろう。

それを踏まえると、弘前さんの意見は確実に正しいものに思える。そして――。

(じゃあ……やっぱり、中原さんのチェリンボもそうなのかな)

チェリンボ。中原さんの側にいる、歩くサクランボのようなポケモン。カラカラの姿形や性質に確固たる意味があるように、チェリンボも中原さんにとって何がしかの意味を持った存在なのだろうか。ネイティとカラカラがそうだったのだから、チェリンボにも中原さんにとって深い意味があると考えるのが自然だと僕は思う。だけど、チェリンボそのものからは僕はまだ明快なメッセージを読み取れていない。

歩くサクランボ。それ自体に何か意味があるようには思えない。ただ、見るからに小鳥のネイティや二足歩行する怪獣そのもののカラカラとは違って、「動いている植物」と言うべきチェリンボの造形は明らかに異質だ。ネイティやカラカラのような分かりやすいモチーフではない。どうしてあんなカタチをしているのか、検討も付かない。

「普通、サクランボが歩いたりはしないからなあ……」

誰にも聞こえないような小さな声で、解けない疑問を口から吐き出す。ぼんやり考え事をこねくり回している間も、校門からは部活帰りの生徒達が引っ切り無しに出て行っている。中にはラケットを提げている子もいた。テニス部かも知れないけど、バドミントン部かもしれない。この分だと中原さんもそろそろ出て来るだろう。

ああ、あれは。僕が右手に目をやると、下級生の女子が何人か固まって歩いてくるのが確認できた。全員揃ってラケットを提げていて、彼女らの顔ぶれにはおぼろげながら見覚えがあった。中原さん達と一緒に練習をしていたのを見た記憶が蘇る。あれはバド部の子達だ、間違いない。練習は終わったみたいだ。四人……いや、五人固まって歩いている。ああいう風に集団で帰ったのは、小学校のときの集団下校以来かな……

「……はぁ……」

あの時はなんで集団下校したんだっけ――過去の記憶を手繰り寄せる間もなく、僕の前を一人の女子生徒が通り過ぎていった。グループを作っている他の生徒達から明らかに浮く形で、一人肩を落としながら歩いている。提げているスポーツバッグが周りの子に比べてやたら重そうに見えるのは、バッグ自体の重みではないような気がした。つまり気分が沈んでいる、気落ちするような出来事があったということだろう。

どこかで目にした姿のように思える。それもどこかですれ違って目にした程度ではなくて、ある程度まとまった時間。咄嗟には思い出せずにいたけど、時間を掛ければ出てきそうなくらいには記憶はあった。背丈から判断するに下級生だろう。部活に入ってない僕が、しかも女の子の下級生を目にするような機会があるか? 自分で自分に疑問を投げかける。もちろん答えは出てこない。これだから、中途半端に記憶があるのは厄介だ。

やめだ、一旦忘れておこう。放っておけば思い出すかもしれないし、そのまま記憶の藻屑に消えるんならそんなに大切なことじゃなかったってことだ。バド部の部員が帰り始めてるんだから、中原さんもその内来るだろう。本のお礼を言いたいし、何より彼女と話がしたい。中原さんと話しているときは、他の誰と話しているときよりも心が落ち着く。早く来ないかな、中原さん。

待ち遠しい気持ちを抑えながら、僕は中原さんの到着を待った。

 

……まさか六時を過ぎても来ないとは。日はとうにとっぷり暮れて、そして僕も途方に暮れる。韻を踏んでどうする。

待てど暮らせど中原さんは来なかった。どうしたんだろう。まさか、体調を崩したりケガをしたりして途中で帰ったんだろうか。いや、時々教室から校門をチラ見してたけど(関係ないけど、臆病な性格で壁に隠れて外を覗き込むのが癖になってた男の子が「チラーミィ」という名前通りのポケモンが見えるようになった、というエピソードをどこかで読んだことがある)、中原さんが出て行く気配はなかった。とりあえず連絡しよう、そう考えて無意識のうちに携帯電話を取り出してから、中原さんは携帯電話を持っていないという根本的なところを思い出して速攻で片付けた。中原さんは「高校を卒業したら買う」と言っていて、朝美さんが勧めるのも断ってるって言ってたっけ。こういうところは真面目でいいと思うけど、今この瞬間としては実にもどかしい。

これは、おかしいぞ。出て行く部活帰りの生徒が尽きてから十分くらい経って、僕はいよいよ状況の異様さを認識した。僕は一度出た校門を再び潜って、一路体育館を目指す。バド部の部室は体育館の一階、フロアの一番奥にあったはずだ。一度足を運んでみて、中原さんがいないかを確かめてこよう。いなければ帰ったと判断できるし、いたならどうしてこんな遅い時間まで残っているのかが分かるかも知れない。

半開きになったままの鉄扉を潜って、体育館の中へ忍び込む。左右の部屋の明かりがことごとく落とされていて、ほとんどの部員が帰ってしまったことを如実に表していた。がらんとした廊下にいささか寒々しいものを感じながら、一歩一歩少し遅めの足取りで先へ進む。誰とも出会うことなく、僕はバド部の部室のすぐ近くまで到着した。

総じて扉の小窓が真っ黒に染まっている中で、この部室だけは煌々と明かりが灯っている様が簡単に見て取れた。まだ誰か部員が残っていて、そしてその中に恐らく中原さんが混じっている。扉の前まで来たけど、中から音は聞こえてこない。少し気が咎めたけれど、背に腹は代えられないとドアに密着して聞き耳を立ててみた。けど、やはり何も聞こえなかった。誰かが話す声も無かったし、何かが動く音もまるで聞こえてこなかった。一体どういうことだ。

やるしかない。僕は深呼吸して呼吸を整えると、アルミ製のドアノブにぐっと手を掛けた。思い切って下へ倒すと、勢いよく後ろに引いてドアを開け放った。

「中原……さん?」

ドアを開けた先に待っていたのは、実に意外な光景だった。

ミーティングで使うと思しき長机、二つ並べられた机のうち僕から見て右側の中央で、中原さんはジャージの上着を枕にして突っ伏していた。音を立てないようにひそやかに近づいてみると、だんだんと小さな声が聞き取れるようになってきた。声というより、もっとハッキリ言うと、寝息と言った方が正しい。すやすやと規則正しいリズムで、中原さんは小さく呼吸を繰り返していた。

中原さんは、部室で居眠りをしていたわけだ。

とりあえず何事もなさそうだったので、僕はほっとしてカバンを床に置いた。他に部員の姿は見当たらない。さっき学校から出て行った面々で、中原さんを除く全員だったのだろう。となると、中原さんは最後の後片付けを請け負ったのだろうか。後輩に任せればいいのに、僕はそう思ったけど、改めて中原さんの性格を鑑みてみて、自分で引き受けてしまいそうな気がした。で、片付けを済ませたのはいいけど、疲れがピークに達してしまって、ちょっと一休み……しようとしたら、ぐっすり寝てしまった。大方そんなところだろう。

中原さんの隣のパイプ椅子を引いて、僕がすぐ横に座る。すうすう、くうくう。中原さんは僕に気付かず気持ちよさそうに眠っている。僕の気持ちを包み隠さず言うと、これが本当に可愛い。細くなった目はほとんど糸のようになっていて、言うまでもなく可愛い。ああ、可愛いなあ。僕はたっぷり三十秒ほど幸せいっぱいな気持ちで中原さんを眺めて、そしてずっとこのまま違う違う! 早くしないと体育館が施錠されるんだよ! とようやく我に返った。いつまでもこんなことをしているわけには行かない。

いつまでもこんなことを……してるわけには……

「くぅー……ふにゅ……」

……うん、このまま眺めておくのも悪くな全面的に悪いに決まってるだろうがこのボケッ! 大概にしろッ! 僕の煩悩ッ!

ええい、さすがに起こさないと状況がよくないぞ川島秀明。いまいち振り切れた感じのしない煩悩を無理やりなかったことにして、僕はいい加減に中原さんを起こすことに決めた。僕が肩に手を掛け、中原さんの躰を揺さぶろうとした――

「……ごめん、なさい」

――僕の手が、中空でぴたりと止まった。ヘビに睨まれたカエルのように身動ぎ一つできず、ただ中原さんの言葉を聞き取ることしかできなくなった。

「……わたしがいて、ごめんなさい」

心臓を鷲掴みにされたような思いとはこういう心境を指すのだろうか? 僕のまだ冷静さを保っていられる僅かな部分が、そんな思いを抱いた。中原さんは何か夢を見ていて、それに伴って寝言を口にしている。問題は、彼女の口が紡いでいる寝言が、率直に言って尋常な内容ではないことだ。

中原さんの「自分がいてごめんなさい」というのは……どういう意味なんだ。

「……わたしだけ、生きてて」

「ごめん、なさい……」

首に切っ先を突きつけられた錯覚を覚えた。

自分だけ生きててごめんなさい。自分だけ生きててごめんなさい。自分だけ生きててごめんなさい。

どういうことだ。どういう経緯があって、中原さんの口からこんな言葉が出てくるんだ。どういう理由があって、中原さんはこんな言葉を口にしているんだ。どういうことだ。どういうことだ。

これは……まるで……

(……僕、そのものじゃないか)

自分が生きていることを罪なことだと思う。自分が今ここに居ることを咎められるべきことだと思う。生きていることは即ち罪業で、人生は終焉の無い贖罪の系譜に過ぎない。その気持ちを抱いて、僕は今に至るまで無為な生を積み重ね続けてきた。

まさか、中原さんも……?

僕が混乱の極致にある中で思いを巡らせ続けていると、中原さんの身体がぴくりと動いた。あっ、と僕が思う間もなく、中原さんはむくりと身体を起こして、ぼーっとした表情のまま左右を眺め回し始めた。

僕と目線が合う、かと思うとそのまま反対側へ目線をスライドさせる。再びこちらを向く、また向こう側へ目をやる。三度僕のほうを見る。あっ、今度は気付いた。全然ハッキリしていないぼんやりした目のまま何度か瞼をパチパチさせて、自分の目の前にいるのが紛れも無く僕・川島秀明であることを認識したようだ。

「……秀明、くん……?」

「えっと……うん、僕だよ。川島秀明」

「……………………」

「……………………」

「ふわぁ……おはよう、秀明くん……」

「あー……うん、おはよう。中原さん」

何故か朝の挨拶をして、僕も中原さんも硬直してしまった。いや、僕は硬直していたけど、中原さんは単純に今の状況が意味不明すぎて理解に時間が掛かっているだけのような気がする。そりゃそうだ、僕の方だってこの短い間に思いのほかいろいろなことがありすぎて、今この瞬間この瞬間の状況に対応するので精一杯だし。

十秒ほど膠着状態が続いた直後。止まっていた時間が動き出した。

「ひ、秀明くん?! どっ、どど、どうしてこんなところに?! こ、ここっ、バド部の部室だよね?! 秀明くんの部屋とかじゃないよね?!」

「ちっ、違うよ違う違う! ここは間違いなく部室で、中原さんを寝てる間に拉致したとかそんなんじゃないから! 断じて違うから!!」

一体どこまで話が飛んでるんだ!?

「そっ、そうだよね! 向こうにロッカーあるしっ、部屋にこんな会議室用の机とか、おおお置いたりしないよね! わ、わたし何言ってるんだろ……! でも、どうして……」

「えっと……校門で待たせてもらってたんだけど、中原さんがなかなか来ないから心配になって、部室まで来てみたんだ」

「あっ、ああっ……! そうだ! わたし今日秀明くんと一緒に帰る約束してたんだった……!」

「恐る恐るドアを開けてみたら、中原さんがここで寝てるのが見えて、可愛いからしばらく観察……違う違う、すぐに起こそうと思って声を掛けようとしたら、ちょうど中原さんが目を覚ましたんだよ」

「あわわわわ……ごめんっ、ホントにごめんっ! 後片付けしてたら疲れて眠くなっちゃって、うっかりそのまま寝ちゃったみたいで……」

大方の予想通り、部活動が終わった後の片付けを請け負ったみたいだった。

「いけないっ、もうこんな時間だよ! 秀明くんごめんねっ、わたしすぐ着替えるからっ!」

「えっ、あっ、ちょっと、中原さん?!」

いきなり予想だにしない爆弾発言をかますと、中原さんは言うや否や即座に体操服に手を掛けていた。いくらなんでもこれはやばい、僕は散々迷った挙句、咄嗟に足元にあったカバンを引っつかむと、目を固く閉じたまま部室の外へ飛び出した。

「えっと、中原さんが着替えるまで、僕、外で待ってるからっ!」

「……ああああああっ! わたしっ、秀明くんの前でまたヘンなことしようとしてたーっ! もうお嫁に行けないよぉーっ!」

「大丈夫っ、大丈夫だから! 僕見てないから! これっぽっちも見てないから!! というか状況的に誰かいたら百パーセント誤解されるから!! やめなよ!!」

「あのっ、でもね秀明くん! わたし秀明くんになら……」

「ごめんっ、ややこしくなるからまずは着替えよう! 話はそれからでも遅くは無いと思うんだ! 少しでも状況をクリアにしよう!」

多分恥ずかしさが爆発して前後不覚になっていると思われる中原さんをどうにか鎮めて、僕は中原さんを着替えさせる作業に戻した。

バクバク言っている心臓がようやく落ち着いてきた頃になって、僕は握り締めたままだったカバンの取っ手を離して、地べたにカバンを投げ出した。そのまま肩を落として、絶え絶えになっていた呼吸を整えに掛かる。

(……そういえば、中原さん……)

冷静さが回復してきた頃になってようやく、僕は中原さんについて普段と違っている点があることに気がついた。あまりに自然なことだったし、そんなことを気にする余裕もないくらいドタバタしていたからまるで意識してなかったけど、今になってきちんと思い返してみると、これは少なからず意味のあることのように思える。僕にとってはそれなりの意味があることだ。

それとなく聞いてみることにしよう。僕は忘れてしまわないようにきちんと腹積もりを持って、今一度姿勢を正した。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。