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8-1 電波の途絶えたラジオ

開店とほぼ同時に、ペリドットの扉が開かれる。

「いらっしゃいませ」

テーブルを拭いていたハルが手を止めて、店を訪れたお客さんに声を掛ける。ハルの姿を認めた客人は、柔らかな物腰でその場に立ち止まる。サングラスで目を保護した、瑞穂より少しだけ年長に見える、金髪の若い女性だ。その傍らには、黒い前髪で目を隠した小さな少女が立っている。

出迎えに向かったハルの横から、瑞穂の声が飛んでくる。

「ありゃま、トキノミヤ博士。ちょっとお久しぶりです」

「少し間が空いてしまいましたね。お久しぶりです、瑞穂さん」

「お元気そうで何よりです。よし、ハルちゃん。トキノミヤ博士とアルファさん、手前のテーブルに案内してくれる?」

「あ、はい」

ハルは瑞穂に言われた通り、女性もといトキノミヤ博士と、少女もといアルファさんを窓際のテーブルへ連れていく。日光を遮断するため軽くブラインドを下ろすと、二人の前にそれぞれおしぼりと水の入ったコップを置く。

「注文、いいかしら?」

「えっと、はい。どうぞ」

「私はアイスのフルーツコーヒーを。アルファにはクリアソーダを」

「かしこまりました」

アイスフルーツコーヒーとクリアソーダ。ハルが伝票に注文をさっと書き付けると、カウンターの向こうで待ち構えている瑞穂の元へ戻る。トキノミヤ博士の向かいに座っているアルファという少女は髪で目を隠したまま、ハルにそっと視線を投げかけているように見えた。表情をうかがい知ることはできないが、愛嬌のある仕草をしている、ハルはそう感じた。

そのアルファの側へ、シラセが静かに歩み寄る。シラセの姿を見つけたアルファが笑みに頬を緩ませて、さらさらの白い体毛をそっと撫でた。どうも、シラセは人に自分を撫でさせたくするパワーがあるらしい。アルファの優しい手つきに身を任せて、元々細い目をいっそう細くさせていた。

「お待たせしました。アイスフルーツコーヒーと、クリアソーダになります」

注文された品をトキノミヤ博士とアルファの前へそれぞれ置いてから、ハルが一礼してテーブルを去ろうとする。その去り際のこと、ハルはふとトキノミヤ博士の胸元に何か光るものを見つけた。

洗いたての白衣をまとったトキノミヤ博士の胸ポケットの辺りに、きらりと光る金色のバッジが付けられている。この間もバッジをつけているお客さん――佐藤さんを目にしたばかりだ。けれど、佐藤さんとトキノミヤ博士のバッジは明らかにデザインが違う。すぐに案件管理局のそれだと思い出せた佐藤さんのそれとは違い、トキノミヤ博士のバッジは何のバッジか見当が付かなかった。ハルがそのようなことを考えているとはつゆ知らず、トキノミヤ博士は新聞を広げてゆったりと読むばかりで。

ふとアルファが席を立って、隅にある本棚へ向かう。本棚にはハードカバーの書籍や雑誌、漫画の単行本などが無秩序に並べられている。アルファはその中から正確に一冊を選び取ると、テーブルに戻って読み始めた。

「好きだね、アルファさん」

「瑞穂さん。はい。何度でも読み返したくなります」

「私も何回も読んだよ。おかげでよれよれになっちゃったけどね」

手の空いた瑞穂がアルファの元へ向かう。アルファは「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画の冊子を手にしている。シラセは確かにその書名を目にした。いつもの本か、とシラセが目線を落とす。アルファがペリドットに来る度に読んでいる本だった。

「あんな素敵な人になれれば、といつも思っています」

「なれるよ。だってアルファさんだもん」

アルファにそう言ってのける瑞穂の表情は、とても朗らかだった。

 

「アルファ、行きますよ。ガンマがエスディへのインプットを終えた頃でしょう」

「はい、博士」

小一時間ほどカフェ・ペリドットで時間を過ごしてから、トキノミヤ博士が新聞を畳んで立ち上がった。静かに座っていたアルファが立ち上がり、トキノミヤ博士の後ろから付いていく。その途中、ハルと視線が合う。ハルからはアルファの瞳は見えていなかったが、アルファは違うようだ。ごちそうさまでした、とハルに一礼をして、またトキノミヤ博士のすぐ後についていく。ハルは返礼の代わりに一礼するが、ちょこまかしたアルファの様子が気になって仕方ない様子だ。

レジに立った瑞穂に、トキノミヤ博士が代金を支払う。と、そこで何か目に留まったようだ。

「瑞穂さん、あの中継器は」

「ああ、あれですか。もう使うことはないって、分かってはいるんですけど」

「捨てられないのですね。瑞穂さんの気持ちは分かりますよ。私も毎日楽しみにしていましたから」

「ええ。ペリドットで流すならあの番組しか無いって、ずっと思ってますから」

瑞穂さんとトキノミヤ博士の視線の先には、埃を被った小さな機器があった。長らく使われていないことが傍目から見ても分かる。あれがどのような役割を果たしていたのか、シラセにも見当がつかなかった。

会計を済ませたトキノミヤ博士とアルファがペリドットを後にする。他にはお客さんの姿もない。ハルが瑞穂の近くまで小走りに駆けよると、おもむろに口を開いた。

「瑞穂さん、あの人って何者なん?」

「トキノミヤ博士。偉い博士さんなんだよ。榁で研究をしてるんだ」

「えっ、じゃああだ名とかと違て、ホンマに博士なんや」

「そうだよ。それとね、あんまり歳の話はしちゃいけないんだけど……」

「なんなん?」

ハルが見たトキノミヤ博士は、どう見ても二十代後半の若い女性だった。瑞穂より若く見えると言うほどではないが、同い年くらいと言われても違和感はない。瑞穂が何を言おうとしているのか分からなくて、ハルは思わず身を乗り出す。

「あれでね、四十歳は下らないんだって。もうすぐ五十になるとも聞いたかな」

嘘やん、とハルが思わず声を上げた。あれで四十だか五十だかというのは、普通とは逆の方向にサバを読んでいるとしか思えない。そんなはずは、と考えたハルが足元のシラセに目をやると、シラセはちょうどゆっくりと首を縦に振っている最中だった。シラセの様子に、ハルがさらに目を見開く。どうも、瑞穂の言っていることは冗談やジョークなどではなく、本当の話のようだ。

「私が幼稚園に通ってたくらいの頃から、少しも変わってないんだ。本当に、少しもだよ」

「瑞穂さんが幼稚園行ってた頃言うたら……あれや、もう二十年かそこらの昔の話やん。ちょっとそれおかしない?」

「いいなー、若々しくて。私ももっとシャキッとしなきゃね」

「いや、ちょっと待って瑞穂さん。あの博士の見た目、若々しいとかそういうのんとちゃうと思うけど」

どういう原理かは分からないが、トキノミヤ博士は歳を取るということを忘れてしまったかのような容姿をしていた。瑞穂はそれを特段驚くことでもないという風に受け止めているが、ハルにしてみればとんでもないことだった。

「榁に変わった人が多い言うんは分かったけど、分かっててもありえへんわ、あの博士がええ歳しとるなんて」

「昔から全然変わらないから、もう慣れちゃったよ」

「慣れるもんともちゃうと思うけど……せやけどあの博士、博士言うからには何かの研究しとるんやろ? ポケモンの博士なん?」

ハルの地元・日和田にも、ポケモンを研究している博士は少なからずいた。特定の種族の生態を研究する者、大本となる起源を研究する者、情報技術について研究する者。分野は様々だったが、ポケモンにまつわる研究をしているという点では一致していた。地元でそうした人物を見て育ってきたから、ハルはトキノミヤ博士もまた、そのような博士の一人に違いないと踏んでいた。

ところが瑞穂の答えは、ハルの想像と異なっていて。

「トキノミヤ博士、ロボットの研究してるんだよ」

「は? ロボット?」

「そ。人間そっくりのロボットを開発したって言われて、少し前にテレビとかでも取り上げられたって聞いたよ」

「えっ、ポケモンじゃなくて? ロボットの研究しとるん?」

「あははっ。ハルちゃんの反応も分かるよ。だって普通『博士』って言われたら、ポケモンの博士を想像するもんね」

瑞穂曰く――トキノミヤ博士はロボティクス工学の専門家で、かれこれ二十年近く研究を続けているという。研究の成果はしっかり出ていて、側に自分で開発したロボットを置いて研究活動や生活のサポートをさせているという。ゆえに、彼女はポケモンの研究をしている博士ではない。

「街のはずれ、北の方にすごく大きな研究所があるんだけど、そこで暮らしてるみたい。詳しくは分からないけど、自家発電装置とかもあるって聞いたよ」

「はぁー。海沿いの田舎町に似合わん、えらいハイテクなことしとるんやなぁ」

呆気に取られた様子のハルに、瑞穂は声を上げて笑う。まあ、買い物は商店街で済ませて、喫茶店らしい喫茶店がペリドットくらいしかない榁には不似合いな施設というのは間違いなかった。

「昔話してるのを聞いたけど、トキノミヤ博士のロボットは『人間では活動できない場所』で活動できることを目標にしてるんだって」

「宇宙とか海の底とか?」

「どうだろうね、そういうのとはちょっと違うみたいだったよ」

「じゃあ、どないな場所なんやろ」

多分だけど、と言葉を挟んでから、瑞穂がハルの問いに応える。

「きっと、佐藤くんがお仕事で管理してるような場所、だよ」

「よう分からんな、それ」

私も分かんない、と舌をペロリと出す瑞穂に、ハルがくすくすと笑う。

「そうだ。言い忘れてた」

「どないしたん」

「ハルちゃん。明日、お店お休みにするよ」

「えっ、お休み?」

ハルは瑞穂から不意に明日ペリドットを休みにすると告げられて、もちろん面食らった顔をする。明日は特段祝日か何かというわけでもない。ハルには店を休む理由が分からなかった。

「ちょっとね、予定が入っちゃって。せっかくだから、一日ゆっくり羽を伸ばしてね」

瑞穂にそう言われてしまっては、ハルも頷くほかなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。