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8-3 Art of Fight

「じゃーん! ここだよ、目的地!」

「ここって……ポケモンジム?」

「そ! トウキさんがリーダーを務める、榁のポケモンジムだよ!」

朝から沙絵に誘われて出かけたハルが辿り着いたのは、他でもないポケモンジムだった。まさかポケモンジムに連れて来られるとは思っていなかったわけで、ハルはただただ面食らうばかりだ。沙絵はそんなハルの様子を見ているのが楽しいのか、二つ結びを揺らしながら横でくすくすと目を細めて笑っている。

ジムの入り口を指さして、沙絵が声を上げる。

「私とパオはね、ここでトレーニングしてるんだ」

「沙絵さんも?」

「自分の身体も鍛えてるんだ。腹筋に腕立て伏せ、ランニングに反復横跳び!」

「なんかうち、聞いてるだけでしんどなってきそうやわ」

小学校に上がるか上がらないかくらいの時期から通い始めて、一日も欠かさずにトレーニングを重ねているという。沙絵の小さな体に似合わぬ体力は、どうやらこれが理由になっているようである。

「だからここは、ポケモンジムであると同時に、トレーニングジムでもあるんだよ」

「そうなんや。他では聞いたことあらへん話や」

「珍しいよ、榁のジムみたいなスタイル。だからってわけじゃないけど、格闘タイプのポケモンを連れた人が多いんだ」

「沙絵さんもそうやな。ということは、ジムリーダーも格闘タイプのポケモンを使ったりするん?」

「その通り! トウキさんは格闘タイプのエキスパートだからね。名の知れたサーファーでもあるんだよ」

格闘ポケモンの集まる格闘タイプのジム。トレーニングジムとしての機能を兼ね備えるのもむべなるかな、とハルは納得している様子だった。

「お姉ちゃんから聞いたよ。ハルもジムトレーナーだったって」

「せや。日和田におった頃に通っとったわ。向こうは格闘ポケモンと違て、虫ポケモンのジムやったけど」

向こうでは結構年長さんやったわ、とハルが語る。日和田のジムは若年層が多く、年長になると自然と抜けていく傾向にあった。もっとも、それは彼らが自らの進むべき道をきちんと定めて、そのために時間を遣うようになったからに他ならない。OB・OGたちは折に触れてしばしばジムへやってきてリーダーやトレーナーたちのサポートをしていたし、日和田のジムは彼らをいつも温かく受け入れていた。

進むべき道に迷ったとき、躓いて転んでしまったとき、大きな壁に直面したとき。そうしたとき、もう一つの家のように彼らを受け入れてくれる場所。それが日和田のジムだった。今は辞めてしまったハルも、あの場所がどのような場所かは肌で感じ取っていた。

「向こうでは、ヘラクロスを連れとったかな。ソラ、って呼んどったわ」

かつての相棒はヘラクロスのソラだった。ジム主催の虫取り大会で捕まえたポケモンで、かれこれ六年近い付き合いになる。

「捕まえた言うか、お互い相撲ごっこみたいなことして遊んどったら懐いてくれただけやねんけどな」

ソラの角を使った攻撃はとても強力で、ちょっとやそっとじゃへこたれない根性の持ち主だった。格闘戦が得意で、同じジムトレーナーが連れていたカイロスとよく取っ組み合いをしていた。

ある時ふらりとジムへ遊びに訪れたOGの一人から、「こいつはオスだ」と教えてもらったことを覚えている。そのOGの知り合いが同種であるオスのヘラクロスを連れていて、彼からいろいろと教えてもらう機会があったらしい。

「おおっ、格闘ポケモンだ! 連れてきてくれたらよかったのに。ソラくん、今はどうしてるの?」

「リーダーのスズさんに預けてるわ。逃がすんも忍びなかったし、正直うちも辛かったから」

「ソラくん、預けちゃったんだ」

「うん。ソラもだいぶ寂しそうにしとったけど、うちの気持ち分かってくれたみたいやった。ええよ、って言うてくれたから」

ハルはなぜ、ソラをジムリーダーに預けたのか。

「うちが……おかんの子供のうちが、ポケモン連れとるのんは、あかん気ぃしたから」

ポケモンを捜すためにひとつの家庭を壊した母の過去を知ってなお、自分の傍にポケモンを帯同させていられるほど、ハルは豪胆でも鉄面皮でもなかったから。

ただ、それだけだった。

「なるほどね。なるほど、なるほど」

「沙絵さん」

「私はハルじゃないから、ハルの気持ちは完璧には分からないけど、でも、少しは分かる気がする」

押し黙ったままのハルに、沙絵はいつもの快活な調子のまま、こう声を掛けた。

「ハルは優しいね。そういうところ、お姉ちゃんそっくり」

優しい。沙絵からそう言われたハルは何も言葉を返せなくて、ただ沙絵のことを見つめるばかりで。

「さえーっ。今来たとこ?」

「お、忍だ。おいーっす」

入口で立ち話をしていた最中、同じジムトレーナーの忍が姿を現した。沙絵より一回り背丈が高く、体つきも引き締まっている。ハルは少しばかり気圧されてしまって、見上げ気味に忍の顔を見ている。

「おいっす。あ、もしかしてこの子がハルちゃん?」

「そだよ。ね、ハルちゃん」

「ど、どうも」

「ほほぅ、なるほどねぇ。ウチは忍。沙絵と一緒にここでトレーニングしてるんだ。ハルちゃん、よろしくねー」

こちらこそよろしくお願いします、とハルが頭を下げる。忍は割と気さくな感じのキャラのようだ。ハルがちょっとだけ緊張を緩めて忍の目を見る。

「あれだよハルちゃん、気楽に静都ことばで喋っていいから」

「えっ?」

「ウチらの先輩に居るんだ、小金出身のゆかり先輩って人がさ」

「そうそう。ゆかり先輩と話してたから、ハルの言葉もすぐ分かっちゃった」

「へえ。うちの他に静都から来た人おるんや」

「おっ、ハルちゃんも一人称『うち』なんだ。親近感あるね」

「ちょっとイントネーション違いますけどね、うちとウチ」

ハルは元々よく喋るタイプゆえ、同じく多弁な忍と打ち解けるまではとても早かった。忍はハルのことがすっかり気に入ったようである。

「うむ。沙絵に似ずちゃんとした子だね、ハルちゃんって」

「ちょっとちょっと忍ー、誰がちゃんとしてないってー?」

忍のコメントに頬をぷうと膨らませる沙絵をよそに、忍がハルの隣に鎮座していたシラセの姿を見つける。シラセがさっと頭を下げると、もしゃもしゃもしゃっ、と力いっぱい撫ではじめる。撫でると言うより軽く揉む感じである。そんな忍の様子を、ハルは「こういうところは体育会系女子やなあ」とでも言いたげな目線でもって見つめていた。

「そういや、来る途中にティセと会って『沙絵さんによろしくお伝えください』って言われたんだけどさ、なんかしたの?」

「ティセ?」

「アルファさんのことだよ。『ティセ』は忍が勝手につけたあだ名。昔のゲームに、ちょっと似てるキャラが出て来たからだって」

「そうか、アルファさん。昨日コンビニで買い物しようとしたときにお店の人と揉めて、沙絵さんが助けたったことやと思うわ」

「なるほど、そういうわけか。ま、ヨソの人にはティセのこと子供にしか見えねーだろうし、しょーがねえよな」

とまあ、こんな感じで挨拶が済んだところで、沙絵が忍に声を掛けた。

「ね、忍。早速だけどさ、向こうのフィールドでちょっとバトらない?」

「いきなり? ウチは別にいいけど、沙絵の方は準備できてるの?」

「私はいつでもバッチリ! いつでもおっけーだよ」

パオの入ったスーパーボールを見せつけて、沙絵が忍に勝負を仕掛ける。

「沙絵さん、バトルするん……?」

「うん! お姉ちゃんらしく、ハルにちょっといいとこ見せたいからね」

あっけらかんと言ってのける沙絵を、ぽかんと口を開けたハルが見ていたのだった。

 

「よーし! パオっ、いっくよー!」

「どっからでも掛かってこい! リョウ! 返り討ちにしてあげましょ!」

沙絵が連れているアサナンのパオ、そして忍が連れているバルキーのリョウが向かい合う。審判は付けない言わばスパーリング、けれど沙絵も忍も、それぞれのポケモンも気合十分で、全身に気力を漲らせている。

「せぇいっ!」

先に仕掛けたのは沙絵だった。気合一閃声を張り上げると、パオが大地を蹴って前へ踏み込む。拳を固く握りしめて、パオが拳技の構えを取る。

「『バレットパンチ』や……!」

構えを見た瞬間、ハルはパオの仕掛けた技を見抜いた。所属していた日和田のジムでも、この技を得意とするハッサムを連れたトレーナーがいたのだ。他ならぬジムリーダーのシズとスズ……ではなく、その母親であるスギナだった。スギナは熟練した技を使いこなすハッサムを相棒にしていて、時折試合に参加することがあった。その強さたるや尋常なものではなく、シズとスズ二人を同時に相手取って戦ってしまうほどの実力者だった。

神速の踏み込みから繰り出される弾丸のような拳のラッシュ。対する忍は、瞬時に迎撃態勢をとる。

「マッハっ!」

パオのバレットパンチを、リョウのマッハパンチが迎え撃った。ラッシュ力はほぼ同等、超能力で強化されている分パオの方が一発あたりのダメージ量は大きいが、その分消耗もリョウより幾分早い。沙絵も忍もそのことはよく分かっていた。お互い数発ずつ打撃を与えたのち、共に大きく飛び退いて距離を作る。

「練気っ!」

「集中っ!」

足を上げて折り曲げた独特なポーズ、パオが気を練る時に取る「ヨガのポーズ」だ。一方のバルキーも闘気を漲らせて、全身を「ビルドアップ」させている。互いに決定力を高め、早期決着を狙う構えに入った。

パオとリョウ、そして沙絵と忍。彼女たちの様子を、ハルとシラセはベンチで食い入るように見つめていて。

「疾風っ!」

リョウが一足飛びでパオの懐へと踏み込み、左足を軸にして右足を鎌のように振う。「まわしげり」だ、これもハルの知っている技だった。

「――甘い!」

「!?」

インパクトの瞬間、パオが上体を大きく仰け反らせて、リョウの渾身の回し蹴りを回避して見せる。しまった、と忍が気付いた時には、既にパオは反撃体制を整えていて。

「刃っ!」

手先から発生させた「サイコカッター」でリョウの左足を容赦なく払い、地面へ叩き伏せた。足に受けた致命的なダメージと叩きつけられたショックで、リョウはしばらく立ち上がれそうにない。

勝敗はここに決した。沙絵とパオの勝利だ。

「礼っ!」

倒したリョウを立ち上がらせてから、沙絵と忍、パオとリョウがフィールドの中央で礼をする。試合終了だ。

「っきしょー……まぁた負けちまったな」

「これで勝ち越しだね! じゃ、後でクレープおごってね」

「ちぇっ、分かったよ。沙絵っ、今度はあたしが勝つからな! それまで負けるなよ!」

忍が荷物をまとめて、リョウと共にフィールドを去っていく。試合時間は三分程度の短いものだったが、ハルにはその何倍も、何十倍も長く感じられるほどの濃密なものだったようだ。身を乗り出したままのハルを目にした沙絵が、微笑みながら彼女の傍に寄る。

「どう? ハル。楽しんでくれた?」

沙絵の言葉に、ハルが素直に頷く。

「……沙絵さんも忍さんも凄かった。見てて、むっちゃ楽しかった」

「でしょ? ジムに所属してたって聞いたから、きっと気に入ってくれると思ったんだ」

「ホンマに、ホンマに……うちが、こないなこと言うてええんか分からんけど、せやけど……」

ハルの言葉を耳にした沙絵が、そっとハルの肩に手を添える。

「ハル。もうちょっと、気楽に考えていいよ。お母さんのこと気にしてるの、すっごく分かるけど」

「沙絵さん」

「だけど、どこまで行ったって、ハルはハルだから。どこかで『お母さんの子供』じゃなくて、『ハル』になる時が来る」

「うちは、うち……」

「それまでちょっと掛かると思うけど、私もお姉ちゃんも、ちゃんと待ってるから」

天真爛漫でいつも楽しげな沙絵が、少しだけ大人びた顔を――。

――姉の顔を、したような気がした。

「ね、ハル。せっかくだから、ちょっと一緒に体動かさない? なんかほら、じっとしてられないって顔してるし」

「えっ、うちもええん?」

「もちろん! ここは初心者も一見さんも大歓迎だからね! スポーツウェアも貸したげるから、私に任せてよ」

どんと胸を叩く沙絵に、ハルは頼もしさを覚えずにはいられなかった。

 

「はぁー……久しぶりにめっちゃ汗かいた気ぃする……」

沙絵と一緒にジム内の設備を使って、一時間ほどみっちりトレーニングに励んだ。さすがに疲れたのか、ハルがぼんやりした表情でベンチに座って休んでいる。沙絵はまだまだ鍛え足りないようで、水着を持って室内プール場へ行ってしまった。

帰る前にシャワー浴びやなあかんな、と側に居るシラセに語る。沙絵から貸してもらったタオルはびしょびしょに濡れていて、ハルの流した汗の量を如実に物語っていた。

「疲れたけど、でも、楽しかった」

「……合間合間で、沙絵さんともいろいろ話できたし」

瑞穂に比べて、沙絵には今までどこか距離を感じていた。けれど、今日でその間合いをずいぶん詰めることができたように思う。心地よい疲労感に包まれながら、ハルがぼうっと天井を見上げる。

「バトルしとる時、沙絵さん、気合い入っとったな」

「うちも最初から最後まで、真剣に見てしもたわ」

フィールドに立った沙絵は凛としていて、戦いに臨む一人のトレーナーとして立派に自立していて。

沙絵の、姉の姿を思い浮かべながら、ハルがぽつりと呟く。

「うちはおかんの娘で、それはどないしても変えられへんけど」

ハルは瑞穂と沙絵の母親の種違いの娘。その事実は変えられない。母親はポケモンを捜すために瑞穂と沙絵を捨てて日和田へ移り住んだ。その事実も変えられない。ハルがどれだけ願っても、その事実が覆ることも、変わることもありはしない。

だから、ハルは考えていた。自分がポケモンを連れていてはいけない、と。ポケモンは母親を狂わせて、一つの家庭を、二人の姉妹を、三人の家族を不幸にしてしまったものだ。ましてや、その母親から生まれた娘の自分が、どうしてポケモンを帯同させることができようか。それは瑞穂と沙絵に対する冒涜に他ならない。日和田で母を葬ってからずっと、その思考がハルを支配し続けていた。

「でも沙絵さんの言う通り、うちはうちでもあるんや」

だが、ハルはハルで、他の何者でもなだ。それもまた、どうやっても変えようのない事実で。

変化。シラセの脳裏にその言葉がよぎる。ずっとハルを縛っていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。彼女の中で、何かが変化し始めている。隣にいるシラセは、それを敏感に感じ取っていた。

ハルの心に寄せては返す波。今はまだ、海はざわついている。

けれど――彼女の心が凪ぐ時は、少しずつ近づいてきている気がしていて。

「シラセ、もうちょっとうちの傍におってくれへんかな」

シラセは今一度自覚する。

自分の心は、まだ凪を得られていないことを。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。